桃山学院高校が嫌いな理由2—ーラグビー「だけ」に生まれてきた男。子供は物に喜ぶなんてことはない。社員教育はくだらない。自分の立場を認識しない義弟と高校教諭。「決定権者を見抜く」医者屋と拝み屋の処世術。姑さんに変えられた名前を再度つけさせようとする拝み屋。聖書をとりあげるキリスト教はキリスト教なのか。 

[第701回]
  うちの母方の叔父のおっさんが大阪市阿倍野区の 桃山学院高校卒だったのだ。 あのアホが桃山学院高校卒だと聞くと、ろくな学校じゃねえな・・て感じがしてくる・・が、一から十までだめなことばかりというおっさんということではなくて、落ち着いてよく考えてみると、2パーセントか3パーセントくらい、もしかすると1割に近いくらいいいところもあったかもしれん。桃山学院高校のホームページやウィキペディアを見ると、桃山学院高校・桃山学院中学校はイギリス国教会の流れの聖公会のミッションスクールだったという。 
  大阪府のキリスト教系の私立高校というと、カトリック系の明星高校、それからカトリック系で1959年(昭和34年)に英国航空のスチュワーデスをしていた日本人女性(当時、27歳)が東京都杉並区の善福寺川で遺体が発見されたが、最有力容疑者で黒に近い灰色と見られたベルギー人の神父をカトリックの修道会サレジオ会が警察が本格的に捜査をおこなう直前に海外に出国させて捜査を妨害したという、そのサレジオ会(=ドン・ボスコ社)が経営している大阪星光学院、それに兵庫県神戸市のカトリック系の六甲学院というあたりが男子校のキリスト教系の高校でしょう。
  松本清張『黒い福音』(新潮文庫)で松本清張は小説という形式にして固有名詞を変えて書いていますが、1959年に遺体が発見された英国航空スチュワーデス殺人事件のことで、この小説の内容の通りである可能性は低くなさそうに思えます。
  女子高では聖公会のプール女学院・プロテスタント系だったように思う梅花女学院・大阪女学院・神戸市の壷井栄『あしたの風』にも登場する神戸松陰などあったように思うのですが、大阪の男子校でキリスト教系というと、サレジオ会の大阪星光学院とカトリック系の明星高校が思い浮かびますが、桃山学院もイギリス国教会の流れの聖公会によるキリスト教系の学校だったらしいけれども、明星高校や大阪星光学院と違って、桃山学院はあんまり「キリスト教系」という印象は私はありません。ラグビー屋の母方の叔父も桃山学院高校卒だったはずだけれども、あんまり「キリスト教系」というイメージはありません。
  2012年12月に、東京都文京区関口 の東京カテドラル関口教会の聖マリア大聖堂にて、ホープウィズクリスマスチャリティーコンサート2012 というのがおこなわれ、うちの母を連れて視聴に行ったのでしたが、プログラムをよく見てみると、「後援:ドン・ボスコ社  キリスト新聞社  カリタスジャパン」「協賛:イタリアンレストラン ラ・ヴィネリア」「協力:アットリフィード合同会社」と書かれており、後援のドン・ボスコ社とは、1959年の英国航空スチュワーデス殺人事件の犯人である可能性が大きいと見られたベルギー人神父の修道会のサレジオ会の分身の団体で、知らないうちにそういう団体が「後援」していたコンサートを聴きに東京カテドラル聖マリア大聖堂に足を運んでいたのでした。
   1970年代、私が中学校を卒業した年、大阪府で公立高校の「すべり止め」の併願校としての私立高校は、北野高校を受けた人の併願校としては、比較的模擬試験の成績が良かった人が受けたの金蘭千里高校で、それに及ばない人が受けたのが桃山学院高校、第一学区の二番手校の豊中高校くらいを受けた人が併願で受ける私立高校としては桃山学院高校とか明星高校とかを受けていたみたいでしたが、今もそうかどうかはわかりませんが、私が中学校を卒業した1970年代なかばの年は大阪星光学院高校は他の私立高校と試験日が異なって、そのため、公立高校と別に私立高校を2つ受けたいという人が受けることができました。北野高校に行った人で大阪星光学院高校と桃山学院高校の2つを併願校として受けた人がいましたが、もしも北野高校に落ちたら彼はどっちに行くつもりだったのでしょうね。神戸市に灘高校という新興の受験校がでてきたのですが、遠藤周作が行っていた頃は灘高校は神戸高校あたりを落ちた人を入れてくれる高校だったらしいが、私が北野高校に進学した1970年代なかばにおいては灘高校を落ちて北野高校には通って北野高校に来たという人もいて、私などはもしも北野高校と灘高校を受けて両方通ったら北野高校に行きたいと思っていたのですが、両方通ったら灘高校に行きたいと思って北野高校と灘高校を受けた人もいたようで、そういう人で灘高校を落ちて北野高校に通って北野高校に来たという人は灘高校などの私立6年制受験校に対して事大意識を持っていて、感じ悪いなあという印象を受けました。公立で北野高校を受けて私立で灘高校を受けたなら、どちらも「すべり止め」にはならないので、もしも、両方通ったら北野高校に行きたいのならば私立は灘高校を受けることは考えずに金蘭千里高校を受けることにしてはどうかと中学校の先生から言われてそうしたのでしたが、もしも、公立で北野高校・私立で灘高校を受けて、それと別に「すべり止め」で私立の高校を受けたかったならば、大阪星光学院だけが他の私立高校と試験日が別に設定されていたので、公立で北野高校を受けて、私立で灘高校と大阪星光学院高校を受けるという方法もあった・・とすでに北野高校に入学してから知りました・・けれども、灘高校を落ちて北野高校には合格して北野高校に入学したという私立受験校に対して事大意識を持っている人を見ると、北野高校に行くつもりであったのなら灘高校のような私立受験校は受けなくてよかったかなと思いましたが、東大に行きたいという気持ちが強いならば北野高校よりも灘高校の方が東大進学には有利かもしれません。宮崎みどり が遠藤周作との対談で自分が大学を受験した時の話を述べていたが、宮崎みどり は神奈川県の湘南高校卒で東大を受けたけれども落ちて慶應大には通って慶應大に行ったらしいが、宮崎みどり の弟は東大に合格して進学したそうで、湘南高校は神奈川県の公立高校で宮崎みどり が高校生だった頃や私が高校生だった頃は東大の合格者をけっこう多く出している高校だと思ったのですが、宮崎みどり の感覚では弟が行った高校などと比べると東大進学には必ずしも有利ではなかったと思ったようで、どの大学に行きたいならどの高校に行っておいた方が有利というものがあるけれども、それを的確に選べなかったというのが大学受験における失敗だったように見ていたらしい。湘南高校がどうなのかは行ってないのでよくわからないが、どの大学に行きたいならどの高校に行っておくのが有利というものは間違いなくあると私も思う。大阪の人間なら京大・阪大なら北野高校で悪いことはないでしょうけれども、東大に行きたい気持ちが強いならば灘高校に行っておいた方が高校と大学の相関がより強い高校に行った方が通りやすく有利かもしれない、とは思う。
  大阪星光学院が1959年(昭和34年)の英国航空スチュワーデス殺人事件の犯人の可能性が高いと思われたベルギー人神父を国外出国させて捜査を妨害した修道会のサレジオ会=ドン・ボスコ社の経営する学校だということは高校受験の時点では知らず、2000年を過ぎてから松本清張『黒い福音』(新潮文庫)を読み、あんな学校、受けなくてよかったな・・と思ったのでした。
   同じ中学校から明星高校に行った人もありましたが、私が高校を卒業したすぐ後のこと、1978年、明星高校の生徒が売春の手引きをしよった・・とテレビのニュースで出たことがあり、明星高校を卒業して愛媛大学に行ったという男から聞いた話では、松山の人間はそれまで明星高校なんて知らなかったのがそのニュースのおかげで「ああ、あの高校かあ」と知られることになったそうで、「迷惑なことしてくれる」と言ってました。私が子供の頃は明星高校というと「野球の強い高校」という印象があったのですが、明星高校出身のプロ野球選手て誰がいたっけ・・と思って検索すると、近鉄バファローズが1979年・1980年に優勝した年などに外野手として活躍した平野選手・1970年代の南海ホークスで代走・外野の守備固めで出ることが多かった堀井外野手などがいるみたいだが、インターネットで見ると今では明星高校はスポーツでの推薦入学はやめたらしいですね。 最近では、明星高校というと弁護士芸人という新たなジャンルを開いた人気ユーチューバー アトム法律事務所の岡野武志氏https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B2%A1%E9%87%8E%E6%AD%A6%E5%BF%97 の出身校として知ってる人は知っている・・のではないかな。
  1980年代までは、関西の予備校としては、京都の近畿予備校・兵庫県神戸市の大道学園・大阪府ではYMCA予備校が比較的成績がいい人が行く予備校で、京都に駿台予備校の京都校ができて京都では近畿予備校と駿台予備校京都校が並存しましたが、その後、大阪に駿台・河合塾・代ゼミが進出してくると、一時は土佐堀・阿倍野・豊中・堺・高槻と大阪府に5校、横浜市に菊名と関内(かんない)の2校あったYMCA予備校はあっという間に淘汰されてすべてなくなったようです。1979年、大阪府高槻市にあったYMCA予備校高槻校 の京大東大文系クラスで「主事」と名乗っていた男性事務職員の藤井という男(1970年代終わり頃当時、50くらい?)は自称「敬虔なクリスチャン」「『聖書』みたいなもん、あんなもん、いいことなんか何ひとつとして書いてないんだから、あんなも~ん。『聖書』みたいなもん、読まんでもええんや、『聖書』みたいなもん。『聖書』なんか読まんでも、洗礼うけて献金はらって、日曜ごとに礼拝にでておけばそれでええんや。『聖書』なんか読んではいかん。たとえ、読むにしても歳いってから読んで『はあん、そんなもんか』と思えばいいことであって、若いうちに読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん」と日夜、「伝道活動」をおこなっていました。そんなのを「キリスト教」と言うのか? この人、そんなこと思っているのなら洗礼なんか受けなければいいのに・・とその時は思ったのでしたが、「そんなこと思ってるのなら洗礼なんかうけなければいいのに」と考える方がキリスト教なのか、そうではなくて、藤井さんのように「洗礼うけて献金はらって、後は日曜ごとに教会に行って礼拝にでておけばそれでいいことであって、『聖書』みたいなもん、あんなもん、読んではいかん。『聖書』なんてあんなもん、ろくなこと書いてないんだから、あんなも~ん」という思想の人のことを「敬虔なクリスチャン」と言うのか、どっちなのか、どっちがキリスト教なのか、どっちが「クリスチャン」なのか、今はどっちと考えるべきなのか、よくわからない・・がYMCA予備校の「キリスト教」というのは「洗礼うけて献金はらっておけば、後は日曜ごとに礼拝にでておけばそれでいいことで『聖書』なんて絶対に読んではいかん」という「そういう教えのもの」だったようです。大阪市天王寺区のJR「天王寺」駅の北東のあたりに、かつて、YMCAの予備校と体操教室があって、小学校の1~2年の時、その体操教室に通ったことがありました。その頃は同じ場所にYMCA予備校阿倍野校があったようですが、今はYMCA予備校は阿倍野校もなくなったみたいです。かわりにYMCA学院高校という高校ができたようにインターネット上には出ています。かつて、阿倍野校があった場所なのかその付近のようですが、もしかして、「『聖書』なんて、ろくなこと書いてないんだから。『聖書』みたいなもん、あんなもん、絶対に読んではいかん。『聖書』なんか読まんでも、洗礼うけて献金はらって日曜ごとに礼拝にでておけばそれでええんや。『聖書』みたいなもん、特に若い頃には読んではいかん。たとえ読むにしても歳いってから読んで「はあん、そんなもんか」と思えばいいことで、若い頃には絶対に『聖書』は読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんてことは、まかり間違っても絶対に考えてはいかん」とYMCA学院高校では「キリスト教教育」やっているのでしょうか。・・変わった「キリスト教」やな・・と思う人もあれば、「ええ~えこと言いはる♪ その通りや」と感動する「クリスチャン」もいるのではないかと思います・・が、私はそのような「キリスト教」や「敬虔なクリスチャン」はあんまり好きではない・・けれども、そういう「キリスト教」「クリスチャン」が大好きという人もいるみたいですから、人それぞれかもしれません。
※ ウィキペディアーBOACスチュワーデス殺人事件https://ja.wikipedia.org/wiki/BOAC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%B9%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

  キリスト教とはどういうものと考えるかは人によって異なります。1978年、大阪府高槻市のYMCA予備校高槻校で「主事」となのっていた男性事務職員がいました。 最初、男性事務職員の中である程度の年数と年齢を経た人に「主事」という役職を持たせていたのかと思ったのですが、そうではなくて、YMCA予備校は受講生やその親に「言うことをきかせる」「尊重させる」ために権威づけのために三流大学卒のおっさんに「主事」と名乗らせていたのです。ジャン=ポール=サルトル・フィリップ=ガヴィ・ピエール=ヴィクトール『(鼎談)反逆は正しい』(上・下。人文書院)でフィリップ=ガヴィが「『尊重させる』というのは信仰の人間と警察のオハコ(十八番)だ」と語っていますが、それです。 会社によっては従業員全員が「課長」を名乗っている会社とか「部長」を名乗っている会社とかありますが、もしくは、2000年前後頃、栃木県佐野市に住んでいた時、そこで日経新聞を配達してもらっていた読売と日経を扱っていた新聞販売店では、店員全員が「わたしが店長です」と名乗っていたらしいのですが、YMCA予備校の「主事」というのは、その類です。かつ、「先生」というのは何かを教える職業の人のことを言うもののはずで、内田康夫が最近、「先生」という呼び名が蔓延しているが「小学校の先生」「中学校の先生」とか「先生」という職業についている人を「先生」と呼ぶのはいいとして、「先生」という職業についているわけではない人まで「先生」と呼びたがったり呼ばれたがったりする人がいるが、そういうのはいかがなものかと書いていたが、私もそう思う。 YMCA予備校の男性事務職員は全員が「主事」を名乗ることで「えらい人」ぶりっ子しようとしていたのですが、三流大学卒で東大や京大の入試についてなどわかっていない男を「尊重させる」ということを要求して、三流大卒で東大や京大の入試なんかわかるわけない男でどの科目も教える仕事はしていない男に「主事」を名乗らせるだけではなく「先生」と呼ばそうとして、「先生」と呼ぶことを要求してきたのでしたが、アホが「先生」と呼べと要求しても、アホはしょせんアホです。そのYMCA予備校はかつては大阪府に5校と横浜市に2校あったのが、駿台・河合塾・代ゼミが大阪に進出すると淘汰されてすべてなくなりましたが、かわりみたいに、かつてはYMCA予備校阿倍野校があった所ではないかな・・という所にYMCA学院高校という私立高校を作ったみたいです・・が、私が親ならそんな高校には息子は行かせたくないですね。YMCAの考える「キリスト教」なんてものは私はキリスト教だと思っていないからです。YMCA予備校高槻校の「主事」と称する藤井などが考えていた「キリスト教」というのは反共思想のこと、反民主主義のことを「キリスト教」と主張していたのであり、藤井自身が「『聖書』みたいなもん、読んではいかん」と「伝道」していたように、『聖書』の思想とは何の関係もないものであり、反民主主義のことを「キリスト教」と言っていたのであり、「その程度の人」だったのです。実際、反民主主義のことを「キリスト教」だと思っている人というのは世の中にいますから、そういう人が「キリスト教」の名目で「反民主主義」の学校に子供を行かせたいと思う場合もあるのではないかと思いますが、新しくできた大阪市天王寺区のYMCA学院高校がどういう内容になっているかはわかりませんが、もしも、YMCA予備校高槻校みたいなものであるならば、私はそんな「キリスト教」をキリスト教とは思わないし、私なら息子・娘をそんな学校に行かせたくないですね。

  うちの叔父のラグビー屋のおっさんのいいところの方をまずあげる。
  1980年代後半、東京都千代田区神田神保町に本社があった Tコンピュータサービス(株)という会社に最初に正社員型で勤めた時に、入社式の直後に社員教育を担当していたシステムエンジニア協会という部署の「責任者」のおっさんが、こういうことを言いよったことがあったのだ。「親が子供に何かをやってもらった時、親が子供に何かをもらった時と、子供が親に何かをしてもらった時、子供が親から何かをもらった時とは、どこが違うか知っていますか。教えてあげましょうか」と。「教えてあげましょうか、教えてあげましょうか、教えてあげましょうか、教えてあげましょうか、教えてあげましょうか・・(はてしまく繰り返す)・・」と何度も何度も何度も繰り返しておっしゃったのだが、誰ひとりとして「教えてください」と言う者はなかった。誰ひとりとして「教えてください」と言う者はなかったからには、「そうですか。それなら話すのはやめておきましょう」と言って話すのをやめるか、もしくは「まあ、そう言わないで聞いてくださいよ」と言って話すか、どちらかだろうと思ったら、そのどちらでもなく、「わかりました。それなら教えてあげましょう」と言って話しだされたのだった。それでは日本語になってないやんけ・・と思ったが、おっさんは、話しだされたのだった。
  「 いいですか。親が子供に何かをしてもらった時や、親が子供に何かをもらった時には、親はその気持ちに喜ぶのです。それに対して、子供が親に何かをしてもらった時や、子供が親から何かをもらった時には、その物に対して喜ぶのです。子供は気持ちに喜ぶのではなくて物に喜ぶのです。こういう違いがあるんです。わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか・・(はてしなく繰り返す)・・」
とお話しになったのだった・・・が、それを聞いて、絶対に違う! と思ったのだった。

  今は昔、1960年代なかば過ぎ、私が小学校1年の時のことだった。私が小学校の低学年の頃までは、JR阪和線の西側の南大阪教会や桃山学院高校とは阪和線の逆側、「南田辺」駅の東側の大阪市東住吉区に住んでいた。 うちの両親が南大阪教会で結婚式をあげた後、最初、阿倍野区に住んで一時期、城東区に住んでまた阿倍野区に戻り、その後、東住吉区に移って私は産まれたので、私は阿倍野区で住んでいた所がどこなのかよくわからない。
  うちの上の姉と母方の叔父(母の弟)が9歳違い、下の姉と叔父は11歳違いだったので、うちのお姉さんがまだ小さい頃で私がまだ生まれていない時期に、叔父は高校生で桃山学院高校に通っていたらしい。ラグビーばっかりやっておったそうな。
  私とは叔父は20歳違いだったので、私が物心がついた頃には叔父はもう結婚していて高槻市に夫婦で住んでて、2つ年下のイトコがいた。その叔父はうちのお姉さんの相手はよくしたらしかったが、私が小学校に行く頃には叔父はもう結婚していて近くには住んでいなかったからということもあるけれども、うちの母親としては「正直なところ、男の子とはあまり深くつき合わせたくなかった」 という意識があったみたいだった。なんで? ・・というと、そりぁ、あのおっさんとつきあうと「ラグビーを教えよるから」だ。
  こう言うと、「ラグビーを教えてもらえるならいいじゃないの」なんて言う者がいるのだけれども、だ。その「ラグビーを教える」という文章がどういうことを意味しているかが問題だ。
  「ラグビーというのは、こういうルールなんだよ」とか、「野球とかサッカーでは相手の選手にタックルなんてしたら反則だけれどもラグビーではボールを持って走っている相手選手にタックルするのは反則じゃないから、ラグビーでの走り方は、タックルされても転びにくいように走る必要があるから陸上競技での走り方とは違って、こんな感じで走るんだよ」とか「ラグビーのボールの蹴り方はサッカーのボールの蹴り方とは違ってこういう感じで蹴るんだよ」とか教えてくれるとか、もしくは、最近、大阪桐蔭高校なんて新興の私立高校では片方で野球部の人間は全国大会で何回も優勝して、他方で京都大学とか大阪大学とかに毎年、何十人か合格するようだけれども、あれはスポーツクラスの野球部のやつが全国大会に出てプロ野球選手になっていて、他方で進学クラスのやつが京大や阪大に行っているのであって、野球やって全国大会に出ている人間が京大や阪大に通っているわけではなく、いわば「文武分業」であるのに対して、北野高校とか公立伝統進学校では野球部のやつは3年の夏まで野球やり、ラグビー部の人間になると3年の11月までラグビーやって、その上で京大の医学部に現役で合格するやつとか、東大の理科一類とか文科一類とかに現役で行くやつとかがいたりしていたのであり、それを「文武両道」といって、えらい! とほめる人もおるけれども、もしかして「アホちゃうか」て感じもせんことはない。日本では「文武両道」が、えらい! と言う人がいるのだけれども、だ。程度の問題もあるのとちゃうか・・て気もせんこともない。勉強ばっかりやってるよりも、スポーツもそれなりにやっていいだろ・・という面もあるとしても、だ。何もプロになろうというようなやつと同程度位にまでやらんでもええのとちゃうのか・・とか思えへんか。1980年代後半、橋下徹が北野高校の3年の時なんか、大阪府からラグビーの全国大会に3校出場できる、その3校の1つに北野高校が選ばれた上で、全国大会でも2つ勝って3つ目にはラグビーの名門中の名門、伏見工業と高校3年の1月に花園ラグビー場で対戦してさすがに伏見工業には敗れたものの、まあまあ善戦した・・・というのを「えらいなあ」とか言う人もいるけれども、しかし、伏見工業のラグビー部のやつというのは進学するにしても就職するにしてもラグビーで進学したり就職したるするやつのはずで、それに対して北野高校のラグビー部の人間というのは「文武分業」ではなくて「文武両道」であって、ラグビーはあくまでも、健康増進・体力増強・リクリエーション・気分転換・リフレッシュ等等のものであって、大学進学するのにスポーツ推薦入学で進学するわけではなくて、普通に入学試験うけて京大とか東大とかに行こうといするわけであり、それを考えると、高校3年の1月にまでなってからに、一般の高校3年生は大学受験に専念しているまさにその時に、花園ラグビー場で伏見工業のやつとラグビーやってる進学校の生徒・・て、「もしかして、アホちゃう~う?」て気もしないこともない・・(^O^)  しかし、全国大会に出て1月まではともかく、野球は夏に大会があるから、大阪府大会で敗退する場合は7月まで、天変地異でもあって全国大会に出ても8月までだが、ラグビーは「冬のスポーツ」となっていることから、一般に11月くらいまでやりよるわけだ。高校3年の11月までラグビーやってる進学校の生徒・・て、えらい のか、アホなのか・・、どっちかようわからんが、北野高校のラグビー部のやつというのは、そういうことをやっておったのだ。そういうのをやった人で、北野高校とか天王寺高校とかに行った人で高校在校中にラグビー部にいて3年の11月までラグビーやった上で京都大学の医学部に現役で合格しましたあ・・とか、東京大学の文科一類に現役で合格しましたあ・・とか、そういう人が、自分はこのようにやって「文武両道」を実現したよ・・・といったことを姉の息子(甥っ子)の教えてくれるとか、そういうことならば、悪いということもないのではないかと思うのだ。ただし、「自分は文武両道やったよ」というのを聞いて、結果として両道できませんでしたあ・・なんて人もいることいるかもしれんけれども。ともかく、参考意見として、自分はこんな感じで「文武両道」を実現したよ・・というのを話すのなら、まだ悪くはないと思うのだ。ところが・・、だ。うちの叔父(母の弟)の場合は、そうではなくて、「ラグビーばっかりやって、ちっとも勉強しよれへん」というのを教えよるのだ( 一一)  これだと、子供の母親としては「あの子とつきあわせたらあかん」て気持ちになる。正岡子規は東大の文学部に進学したものの、行ってみると、東大の文学部の講義がつまらなくて、それで、さっさとやめてしまって荷物まとめて故郷の松山に帰ってしまい、これから大学に進学するというくらいの年代の男がいると「東大なんか、くだらん」と言いまくりよったらしく、松山ではこれから大学に進学するというくらいの年代の息子がいる家庭では「正岡子規とつきあわせてはいかん」と言われるようになった、正岡子規に影響うけて「そうかあ。東大なんてくだらんのかあ」と思って勉強せんようになってはいかん・・・と、これから大学に進学するくらいの年代の息子がいる親は正岡子規に警戒した・・という話があるそうだが、正岡子規の場合は、ともかくも東大の文学部に合格して行くだけは行ったのだが、うちの叔父の場合はそうではなくて「ラグビーばっかりやって、ちっとも勉強しよれへん」というのを「教えてやろう」と親切心から教えよるものだから、「あの子とつきあわせたらあかん」と母親は思うようになったとしても、何ら不思議ではない。実際、私が子供の親くらいの年齢であっても、あのおっさんが大学生くらいだったら、女の子ならまだしも、男の子ならあまり深くつきあわせたくないなあ・・・と思わんことない。ほんと、「ラグビーを教える」というのは「ラグビーのルールを教える」とか「ラグビーの走り方を教える」「ラグビーのボールの蹴り方を教える」とかいう意味ではなくて、「ラグビーばっかりやって、ちっとも勉強しよれへん」というのを「教える」のだから、あのおっさんは( 一一)
人と作品 正岡子規 (Century Books―人と作品) - 前田 登美, 福田 清人
人と作品 正岡子規 (Century Books―人と作品) - 前田 登美, 福田 清人

   中には、こういうことを言うと、「でも、それならラグビーで大成すればいいのと違うのですか」とか言う人がいるが・・、落ち着いて考えてみてほしいのだけれども、野球と相撲はプロがあるけれども、ラグビーにプロはないのだ。野球はそう簡単でないかもしれないけれども、プロの野球選手になれるという可能性も可能性としてはあるかもしれないが、ラグビーは元からプロはないので、プロのラグビー選手というのはどんなに頑張ってもなれないのだ。だから、「野球ばっかりやって、ちっとも勉強しよれへん」という息子がいたら、いっそのこと、野球選手になったらどうか・・という選択肢も簡単ではないとしてもあることあるかもしれんが、ラグビーにはそれはないのだ。あるとすると、日体大とかに行って高校か中学校の体育の先生になるか、大学のラグビー部の監督になるか、もしくはスポーツ入学で私立大学に進んで大学でも体育会ラグビー部に4年間いて、卒業後は体育会の紹介で就職するか・・だが、一昔前は、大学においては「体育会の人間」というのは大学の暴力装置のひとつとして、「学生運動」とかを抑えにいく係として使われた・・から、心ならずもそういう役をさせられることになるかもしれん。
  で、うちの母親も、「あの子もラグビーするくらいなら、せめて、野球やっておけばプロの選手になれたかもしれんのに」とか言うておったことがあった。うちの叔父と大阪教育大付属小学校だったか付属中学校だったかで一緒だった人で、井石さんという人がいて、この人はラグビーではなくて野球の方をやって、プロ野球のロッテオリオンズに入団して、1970年にロッテオリオンズがパリーグで優勝した年は、日本シリーズでけっこう活躍した・・・のだったが、「あの子もラグビーなんかやらずに野球やればこんな感じになれたかもしれんのに」と、うちの母親は言っていた。もしも、あのおっさんが野球やっていたとして野球で成功できたかどうかはわからないし、誰だったか元プロ野球選手がYouTube で話していた話によると、報徳学園だったか野球部が強い高校だと、野球部員というのは何百人も最初はいて、そのうち、あきらめて辞める人がいて、野球部をあきらめて辞めた者がラグビー部に入る・・・とか、そういう高校があるらしい・・から、だから、ラグビーはプロがないからどんなに努力してもプロになれないけれども、野球ならプロがあるからプロになれる可能性がある・・なんていっても、野球の方が競争率は厳しかったかもしれない。
※ ウィキペディアー井石礼司 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%9F%B3%E7%A4%BC%E5%8F%B8
〔 どのみち、プロになるのは相当難しいことを考えるなら、野球なら全然関係のない仕事についても、50過ぎくらいまででも「趣味の草野球」を週休日に仲間でやるとか、職場の親睦野球チームで活躍するとかできるかもしれんが、ラグビーは高校生くらいの時は「ええなあ」と見ていて思うかもしれんが、30過ぎたらもう、ゴルフと逆で「何がうれしゅうて、あんなもん、せんといかんねん」て気持ちになるし、石ノ森章太郎『ホテル』では、プラトンホテルではホテルマンに元ラグビー部員を雇って、そして、「彼らは元ラグビー部員ですから雨でも平気です」と言ってホテルの前で雨の日でも立ちっぱなしで勤務させるなんて話が出ていたが、「元ラグビー部員」という「烙印」押されることで「雨の中でも平気」なんて決められて勤務させられる・・・て、あんまりええ役やないような気もせんことない、元ラグビー部員であってもなくても人間というのは水中生物ではなくて、雨の中でも屋外で傘をさすこともなく勤務するというのが普通という労働環境というのは適切ではないのではないのか。大阪府吹田市の交番で刺された巡査も元ラグビー選手やったし・・。元ラグビー選手でも刃物で刺されると重体になるみたいだし・・。〕
  ともかく、そういうおっさんがいたのだ。 そのおっさん自身は、桃山学院高校を卒業した後、日体大に行って、大阪府のある私立大学のラグビー部の監督になって、時々、テレビのラグビーの試合の「解説者」に出て得意がっておって、その後、「大学教授」⇒「名誉教授」になって、うちの母の所に訪ねてくると、誰もくれと言ってないのに「名誉教授」と書かれた名刺をまいて帰りよった( 一一)  ・・から、ともかくも、食っていけたみたいだったから、まあよかったのかもしれんけれども、「あれが名誉教授かあ( 一一) 」て感じやった・・・。「大学教授」といっても「専門」はラグビーやったから。 1980年代、江本がラジオの解説で、アナウンサーが「しかし、甲子園球場てのは、よくお客さんが入りますねえ」と言うと、「ええ、それだけ、野球が好きな人が多いてことでしょうね・・ほか、な~んも知れへ~ん(笑)」と話し、オールスター戦に芸能人の前川清が来て「しかし、プロのピッチャーというのは、よくあれだけ速い球を投げますねえ。又、プロのバッターというのは、よくそれを打ちますねえ」と話すと、「ええ、そりぁもう、なにしろ、それしか知らんのですから(笑)」と言うておったし、又、2000年代前半、ラジオの野球中継で板東英二が「最近ねえ、『野球は頭でやるもんや』とか、そういうことを言い過ぎですよお。だいたいねえ、そんなもん、野球みたいなもん、やってるやつが、頭つかうのん、得意なわけないでしょうが。頭つかうのん、きらいやから野球みたいなもん、やっとるねんがな。頭つかうのん、得意やったら、野球みたなもん、やらんと、もっと他の仕事やってますって(笑)」と言うておったのだが(笑)、そして、徳弘匡也という漫画家の『シェイプアップ乱』という漫画には、高校生の乱ちゃんという女の子の陸上競技でのライバルに「走るため、だけ、に生まれてきた女、カール=ルイ子」なる女性が登場したのだが、「人は彼女のことを言う、『走るために生まれてきた女』ではなくて、『走るため””だけ””に生まれてきた女』と」という人間だった( 一一)  そういう人物が登場した。その「アタマがラグビー」のおっさんが「名誉教授」と書いた名刺をまいていきよるのだったが、それを見ると「名誉教授」て、よっぽどバカかて感じがした。

  私が小学校の1年の時、1960年代なかば、小学校で「算数」の授業で、足し算・引き算・掛け算・割り算を学ぶ際に、担任の先生が、それぞれの計算についてトーナメント大会として、隣合わせの2人を対戦させて先に正答を答えた方が勝ちとして、勝ち抜き戦をい実施して、優勝者と準優勝者には連絡帳に「優勝。 よくできました」「準優勝。 よくできました」といったことを書いてくれた、ということがあったのだが、うちの父親が「次、優勝したら、プラモデルを買ってやる」と言ったのだった。
  1960年代なかばに我が家が住んでいた大阪市東住吉区の家の近所にプラモデル専門の店があり、又、小学校の前に文房具店が2軒並んで建っていて、小学校から我が家までの間にそれと別に文房具店が2軒あったが、それらの文房具店はプラモデルも売っていて、ショーウインドウには小学生の子供が欲しがるような「ゴジラ」「バラゴン」といった怪獣のプラモデルが置いてあって、いつも、そこを通る時に「いいなあ」と思って子供は見ていたのだった。
  我が家では父親が「優勝したら、プラモデルを買ってやる」と言ったが、優勝も準優勝もしなくても買ってもらっていた同じクラスの同級生は何人もいたのだ。そのゴジラはその時の物価で4000円したそうだ。バラゴンはもっと高くて4200円だったか4400円だったかしたみたいだった。同級生には優勝も準優勝もしていないのに、ゴジラとバラゴンと両方を買ってもらっていたやつがいたし、ゴジラ片方を買ってもらっていたやつもいた。 どちらか片方となると、ゴジラの方がメインの怪獣だったのでゴジラの方を買うことが多いみたいだったが、両方買ってもらっていたやつもいた。同級生で買ってもらって持っていた者に「いくら、したの?」ときくと「4000円」という値段だったので、それで「いいなあ」とそこを通るたびに思い続けてきたけれども、「うちは無理だな」とあきらめていた。 大阪市東住吉区に住んでいた時、我が家は特別の豪邸とかではなくて「普通の家」だったけれども、土地付きの戸建住宅に住んでいたが、近くにYアパートという見るからに貧相な炊事場共同・トイレ共同・風呂は銭湯利用というアパートがあって〔風呂については、我が家には風呂はあったけれども、その頃は戸建住宅でも風呂のない家は特別に珍しいわけでもなく、風呂のない家はいくらでもあったけれども〕、うちの親は「どこの子とでも分け隔てなく一緒に遊びなさい」と慶應の内部進学の人間の親とは正反対のことを子供に教えていたが、片方で「Yアパートの子とは遊んではいけません」とか言い、それはそのYアパートの子は「少々ガラが悪かった」のでその影響を受けないように思ったらしかったが、子供からすると「どこの子とも分け隔てなく一緒に遊びなさい」とい言うかと思えば「Yアパートの子とは遊んではいけません」と言われたのでは、「どっちやねん」「いったい、どないしたらええねん」て感じでどうしていいのか、ずいぶんと迷ったものだった。
  その頃、住んでいた地域には幼稚園はカトリック系の幼稚園と生長の家が経営していたらしい幼稚園があって、その家庭の思想的に近い方の幼稚園に行かせることが多いみたいで、小学校の同級生で天理教の家の息子がいて、それは天理教の「信者」という意味ではなくて天理教のお坊さんというのとは違って神主さんというのとも違うみたいで何と言うのがいいのかわからないのだけれども、お父さんがそういう「聖職者」と言うのか宗教を職業としている人の息子がいたが、彼なんかはカトリックと生長の家とはどちらも天理教とは違うがその2つの幼稚園しか付近にはなかったので、カトリックよりは生長の家の方が近いと考えたのか生長の家の方の幼稚園に行っていたみたいだったが、我が家はうちの親はプロテスタントの方の教会で洗礼を受けた親だったが、カトリックの幼稚園はあってもプロテスタントの幼稚園は幼稚園児が通えるくらいの距離にはなかったので(南大阪教会に幼稚園があって、今、行ってみると大人の足には遠くないのだけれども、幼稚園児にとっては遠かったであろう)、それで私はカトリックの方の幼稚園に行ったが、どちらかというとカトリックの方の幼稚園の方が裕福な家庭が多く、Yアパートの人の子供は生長の家の幼稚園の方に行っていたみたいで、幼稚園に行っていた時はYアパートの住人で同級生はいなかったが、小学校に行くと、公立小学校のいいところとして(慶應の内部進学の教授からすると「悪いところ」「欠点」として)その地域の住人は裕福な家庭の子供も貧乏な家庭の子供も、社会的地位がある人の子供もそうでない人の子供も、みんなが同じ小学校に行く・・という慶應の内部進学の学校とは正反対の状況になるので、それで、Yアパートの住人の家にも遊びに行くことがあった。私は「どこの子供とでも分け隔てなく一緒に遊びなさい」とうちの親から教えられてきたので、Yアパートにも普通に遊びに行ったのだったが、貧相な家に住んでいても金持ちの人もいるだろうし、けっこう大きな家に住んでいても家計は苦しい家もあるだろうけれども、それにしても、我が家は特別の豪邸でもないし、麻生さんとか鳩山さんとかみたいな金持ちでないのは間違いないが、そのYアパートの住人よりは金持ちなのだろうなあ・・と思っていたのだったが、しかし、そのYアパートの住人の子供は、私なら絶対に買ってもらえない4000円のゴジラを買ってもらって持っていたのだった。ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ・・、わしぁ日陰の月見草やあ~あ・・と思ったものだった。

  子供の玩具など、子供が欲しいと言ったものを何でも買った方がいいか買わない方がいいか、というのは決まっていないと思うのだが、我が家は小学校の同級生・幼稚園の同級生や近所の子供と比べて「買ってもらえない方の家庭」だった。 まったく何も買ってもらえないということではなかったが、よその家と比べると買ってもらえないことが多かった。とりあえず、思い出すものとしては、幼稚園の同級生・小学校の同級生の家に遊びに行くと、どこの家に行っても「モノポリ」というゲームがあって、これが大変面白かったのだが、唯一、我が家だけなかった。女の子の家にはなかったが男の子の家に行くと、どこの家でも野球盤というものがあったが、唯一、我が家だけなかった。ただし、うちの父親は親戚が社長をやっている会社に勤めていて、特に有能でもなくて「社長には逆らわない男」で、そもそも社長にたてついて何かやってやろうとか考えるだけの気概もなければ能力もないおっさんだったので、それで社長は「アホはアホなりに使ったらええがな」と思ったのか、勤め先はメーカーだったのだが、メーカーの会社という所は原料を買って加工して製品を作って、買った容器に製品を詰めて、それを売るわけだが、買う側の部署と売る側の部署があると、売る側の部署に比べて買う側の部署にいた方がお中元とかお歳暮とかをもらうことは多いらしかったのだが、何か贈り物をしようとした時に「お子さんに」と言って何かを持ってくる人というのは、買う側の部署にいるとあったようで、そのためによそにはない物で我が家にはあったという物も中にはあったみたいだったが、全体としては、小学校の同級生・幼稚園の同級生や近所の子供と比べると、よそにはあって我が家にはない物の方が圧倒的に多かった。うちの父親は自分が欲しいものを買う時に欲しければ買えばよかろうてものをいちいち「子供に買う」という名目を出して買うことがあり、私が物心がついた時に、電池で動く戦車というのがあって、今から考えるとけっこう高い物だったのではないかと思うのだが、私が最初に物心がついた時にはすでにあったし、おそらく、あれは「アタマが軍国主義」のうちの父親が自分が欲しい物だから「〇〇に買ってやってやってやってやったった」ということにして買ったのではないか、と思われるが、90代のうちの母親にきいても、そうであったのかどうか、もうわからないみたいだが、たぶん、そんなところだろう。私が親ならば、産まれたばっかりの子供に戦車なんか高くても安くても買わない。
  4000円のゴジラというのは、小学校1年の時の私でも、それは高いな・・と思った。今の物価での4000円ではない。その頃、我が家の近くにアイスクリームを売っている店があって10円のアイスクリームと20円のアイスクリームを売っていた。我が家は10円のアイスクリームは買ってもらえたが20円のアイスクリームは絶対に買ってもらえなかった。10円のアイスクリームでも悪くないのだけれども、そこで売られている倍の値段の20円のアイスクリームというのは、いったいどんな味がするものなのか、一度だけでもいいから食べてみたいものだなと思ったが我が家は絶対に買ってもらえなかった。よその家も同じようなものかと勘違いして、幼稚園の同級生に「あの20円のアイスクリーム、いったいどういうものなのか、一回だけでいいから食べてみたいなあ」と話したところ、「ええ? なんでえ~え? そんなん、ぼく、何度でも食べたでえ~え」と言われた、ということがあったが、今、コンビニで売ってるアイスクリームを見ると、100円少々のものと200円少々のものがあり、最近の物価上昇でさらにもう少し上がってきたが、そのアイスクリーム物価を基に物価スライド制を適用するならば、その頃の物価は今の10分の1 か、それより小さい、12分の1か13分の1かそこらか。 硬貨・紙幣について見ると、硬貨だけあって紙幣はないという貨幣の最大の単位がその頃は50円だったが、今は硬貨だけあって紙幣はないという貨幣の最大の単位は500円であり、これも今は10倍の数値になっている。こういったことから考えると、物価を考えるにアイスクリーム物価を基に考えるのが妥当かどうかという問題もあるけれども、仮にアイスクリーム物価および「硬貨だけあって紙幣はないという最大の貨幣の金額」で見ると、だいたい、今はその頃、1960年代なかばの10倍くらいの物価ではないか、と仮定することができるかもしれない。 これは、あくまでも仮定であって、実際はそれより大きいかもしれないし小さいかもしれないが、ともかく、今の物価での4000円ではなくて1960年代なかばの物価での4000円というのは、実質的にずっと高かったのだ。仮に10倍とすると、4万円ということになるが、仮に懐具合から考えて買うことができたとしても、はたして、子供の玩具に4万円もする物を買ってやるのがいいのかどうか。私が親の立場でも考えるところだった。

  そして、うちの親は私が「何何くんも買ってもらっていた」「何何くんだって持っていた」なんて言っても「よそはよそ、うちはうちです」といつも言うのだったが、しかし、「よそはよそ、うちはうち」という「独立自尊の精神」を主張してよその家が子供に買っているものでも私には買わないことはしょっちゅうだったが、同じ「よそはよそ、うちはうち」という「独立自尊の精神」を主張してよその家が子供に買っていない物を私に買ってくれることがあったかというと、まったくなかったということはないとしても、それは少なかったのは間違いなかった。だから、「よそはよそ、うちはうち」という文句は、一見、正しそうにう見えて、なんかしてやられているようにも思えた。うちの母親は私に「親というものは、息子が大学に行く時に、息子が行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってやりたい勉強をやってつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と言い、私はそんな与太話を本気にしてしまって同級生が遊んでいる時もひたすら学習してきて、あげくのはてに
「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに。わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに。すべてをすべてをわしのために、わしのために」と言われて、日本で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくないとい小学校の低学年から思い続けてきた学部に無理矢理、暴力で行かされてしまった。「よそはよそ、うちはうちです」と言われて小学校の同級生や幼稚園の同級生や近所の子供が買ってもらっている物を買ってもらえずに我慢してきたのは、大学に進学する時にそうやって節約した費用を使って本人が行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行かせてやれるようにしようという親心なのだろう・・・とアホは勘違いしてしまったが、まったく違った。
  その時になると「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは医学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな。6年間行かないといけない学部には行ってはいけません。4年で卒業できる学部にしなさい」「うちは文学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは学校の先生になんかならせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「学校の先生は全員、アカです。アカの仕事にはついてはいけません」「うちは大学院になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは司法試験なんか受けさせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「国家公務員は転勤が多いからなってはいかん」「商社は海外勤務や海外出張が多いから勤めてはいかん」「マスコミに勤めるなら産経新聞にしなさい。朝日はアカやから勤めてはいかん。毎日もアカやから勤めてはいかん」「出版社は給料が安いから勤めてはいかん。岩波書店はアカやから勤めてはいかん。出版社はアカやから勤めてはいかん」「労基署はアカやから勤めてはいかん」「うちは芸大だの音大だのなんか行かすような金持ちといは違います。甘ったれなさんな」・・・ということで、結局、いい所なんかほとんどなかったのだ。結局、我が家は「よそとはちごうて」どこでも、「行ってはいかん。甘ったれなさんな」になったのだった。 勤め先だけではなくて、結婚もまた、「あんたの結婚相手はわしと女川先生(うちの父親の親友の医者屋兼新興宗教「女川教(’めがわきょう)」の教祖。文鮮民みたいなやつ)とで決めたるわあ。よもや、わしや女川先生に無断で女とつきあうなどという甘ったれたことはしておらんやろうなあ。つきあう前に女をわしと女川先生の前に連れてきて『この女とつきあおうかと思うのですが、よろしいでしょうか』とおうかがいをたてなさい。もしくは、わしと女川先生がお気に召す女を、とりあえず10人ほど用意して連れてこ~い。その中からどいつがええか、わしと女川先生とで決めたるわあ。その10人の中にええのんがおらんかったら『みんな、あか~ん』言うたるから、わしと女川先生がお喜びになるようなまた別の女を10人を連れてこ~い。そこにもええ女がおらんかったら、また『みんな、あか~ん』いうて言うてやってやってやってやってやるから、また別の女川先生がお喜びになる別の10人の女を用意して連れてこ~い。そうやって決めるのがええ♪」と、そうおっしゃるのだった。「決めていりませんけれども」と言うと、「何を言うとるんじゃ、何を~を。のぼせあがるのもたいがいにせえよお。ええか、わかっとるか、わかっとるか、ええか。結婚というものは、これは大変大事なことやねんぞ。ええかげんに決めていいものとは違うねんぞ。そやからやなあ、おまえの結婚相手は決して決しておまえがええと思う女と結婚してはならんのやぞ。わかっとるのか、わしと女川先生という特別に特別にえらいエライえらいエライお方に決めていただかんといかんねんぞ。特に女川先生は名医の中の名医であってやなあ、女川先生の場合は超能力をお持ちのお方であって、パっと見ただけでその人間の将来を予測する能力をお持ちのお方であってやなあ、その女と結婚するのがいいか悪いか瞬時に判断する能力をお持ちなんじゃ。そういう特別に特別にえっらいエッライえっらいエッライお方に決めてもらうようにせんといかんのや。おまえがええと思うてもいかんなんぞ。おまえが決めたらいかんねんぞ。女川先生が、この女がええとおっしゃる女と結婚するのが、それがおまえにとっての幸せというものなんや。わかっとるか、ええか、ええか、わかっとるかチャンコロ! チャンコロが決めてはいかんねんぞ、チャンコロが。女川先生とかわしとかのドイツ人に決めてもらわんといかんねんぞ。つけあがるなよ、チャンコロ。つけあがって思いあがって増長して、自分の結婚相手は自分で決めるなんぞと増長しまくったことを言うてはならぬぞ。神はそういう思いあがった人間を決して決してお許しにはならぬぞチャンコロろすけイタコ!!!」とうちの父親はおっしゃるのだった。結局、「よそはよそ、うちはうちです」と言われて小学校の同級生、幼稚園の同級生や近所の子供が買ってもらっている物でも私は買ってもらえず、そして大学に行く時になると「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしにじゃわしにじゃわしになんじゃイライラ~あ」と言われ、「結婚もそうやぞ。わしと女川先生がお好みあそばす女を女川先生に決めてもらうのであって、おまえが決めてはいかんなんぞ。チャンコロが決めてはいかんねんぞ。ドイツ人の女川先生に決めていただくのが、それがおまえにとっての幸せというものなんじゃ。感謝しろお~お。とってちってたあ~あ!!!」ということにされた。
  我が家はそのように、小学校の同級生・幼稚園の同級生や近所の子などよその子が買ってもらっている物でも私は買ってもらえないということが多い家庭だった。我が家は世間一般から考えて、金持ちの方だったのか貧乏な方だったのか、どちらだったのか。うちの父親は「会社っちゅうところにおいては、わし~いほどえらいエライエライ人間はおりませんねんでえ~え。わかってますのんかあ~あ」とおっしゃるのだったが、片方でうちの父親の勤め先の会社においては「うちの会社では常務は一番給料安いねん」という給料の職種だったらしいのだ。私が20歳の時に無理矢理、父親の勤め先の工場にアルバイトに行かされたのだったが、そこに勤務していた、課長のMさんとか、係長のKさんとよりも常務さんは給料がうんと低くて、ボイラーマンのNさんよりも常務さんはずっと給料が安いらしかったのだ。「わしは常務さんやねんぞお、会社ちゅうところでは特別に特別におえらいお方やねん、わしはあ。おまえはこのわしのことを『普通のお父さん』と勘違いしているかもしれんが、わしは実は『普通の人』とは違うねんぞ。わしは、どうか一目お目にかかりたいと思っても、一目、お顔を拝ませていただきたいと思っても、めったなことではお顔を拝ませていただくことはできない、というそういうお方やねんぞ」とおっしゃるのだったが、そのわりに給料は一番安いらしかった。会社の従業員の中で一番給料は安い常務さんて、なんか、あんまり値打ちのない常務さんやなあ・・・と思った。そして、おっしゃるのだった。「わしに感謝かんしゃ感謝かんしゃ」と。キリスト教の歌で「か~んしゃあ~あ、か~んしゃ♪ 朝にも感謝、昼にも感謝、か~んしゃ~あ、か~んしゃ♪ 夜にもかんしゃ~あ♪」という歌があったと思うのだが、この歌をうちの父親が歌っておったかどうかは記憶がはっきりしないのいだが、この歌でなかったとしても、同じようなことを毎日毎日、朝から晩まで呪文として唱えていたのは間違いないことだった。「わしに感謝せえよお、感謝せえよお。わしに感謝かんしゃ感謝かんしゃ~あ! 産まれてこなかったらよかったのに産まれてきたということを反省しろよしろよしろよ。産まれてこなかったらよかったのに、産まれてこなかったらよかったのに~い」とお呪文を毎日唱えておられた。
ー・-・-・-・-・-・-・-
滅びよ、わたしが生まれた日、
男の子がはらまれたと言ったその夜。
その日には――時間あれよ、
上なる神その日を忘れ
光その上に照るな。
暗き闇とそれを取り返せ。
黒雲その上にとどまり
昼間の暗黒その日を驚かせよ。
その日は年の日の中に加わるな。
月の数の中にもはいるな。
その夜は―‐真暗闇がこれをとらえよ。
見よ、その夜は不妊の夜となり
喜びの声はあがらず、
呪えよ、これを、日を呪う者、
レビヤタンを起こすに巧みな者が。
夜明けの星も暗くなれ。
光を待つとも無駄で、
曙の輝きにもあうことなかれ。
わが母の胎の戸を閉ざさず
苦しみをわが眼から隠さなかった故に。

何故わたしは腹から出て死なず
胎から出たまま息絶えなかったか。
何故わたしは死産の子のように
光を見ない赤子のようにならなかったか。
何の故に膝があってわたしを受け、
乳房があってわたしは吸ったのか。
でなければわたしは安らかに伏し
眠りに入って安きを得たろう。
・・・・
( 『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳。3章3節ー13節。 岩波文庫)
旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4) - 関根 正雄
旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4) - 関根 正雄  
ー・-・-・-・-・-・-・-・-
  我が家はよその家と比べると、子供が欲しいと言う物を買ってもらえないことが多い家庭だったが、しかし、「よそはよそ、うちはうちです」というのは間違いということではなく、たとえ、よその家が買っていても、それは子供に買うのにふさわしいものではないと親が判断したなら、親がそう判断したのでよその家では買っていたものだが我が家では買わない、ということがあったとしても、それは悪いことではないと私は思う。 しかし、子供は4000円のゴジラを「いいなあ」と思って見ていたけれども、4000円のゴジラというのは子供が考えても高いと思えたのだった。そして、よその家では優勝も準優勝もしなくても買ってもらえている家が何軒もあったし、近所のYアパートという炊事場共用・トイレ共用・風呂は銭湯利用のいかにも貧乏人のアパートというアパートの人の息子も4000円のゴジラを買ってもらっていたのだった。優勝も準優勝もしていないのに。小学校の同級生が何人もそれを買ってもらっているという事実は事実として認識するべきで、それを買わない方がいいと親が判断するなら、それはひとつの判断だけれども、優勝も準優勝もしていない同級生が買ってもらっている物なのだ、ということを子供に我慢させるのならば、子供に我慢させているのだということもまた、親は認識すべきだと思うのだ。
  そして、うちの父親が「次、(足し算・引き算・掛け算・割り算のトーナメント大会で)優勝したらプラモデルを買ってやる」と言った次の大会で優勝した。2001年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の栃木県の佐野市の営業所にいた時、栃木県南部営業所「副所長」の木下(きした)(男。当時、40代前半)は「あんたは何の努力もしないのにできる。あんたは何の努力もしないのにインテリアコーディネーターも通るし、キッチンスペシャリストも通るし、宅地建物取引主任者(現 宅地建物取引士)も通る。ずるい」などと私に言ったのだが、よく言ってくれると思う。「何の努力もしないのに」通るわけないだろうが。よく言うわ( 一一)  特に、インテリアコーディネーターは(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫が取ってくれと言うから、会社の上役が取ってくれと言う資格ならばなんとしても取らなければならないだろうと思って、それで、元々はインテリアコーディネーターは取得するつもりにしていなかったが、元々は取得するつもりにしていなかった資格だったけれども営業本部長が取ってくれと言うから取得したものであり、それを「ずるい」だの何だの言われる筋合いはまったくないものだった。会社は営業本部長が取ってくれと言って取らせた資格を「ずるい」などと言う「副所長」に対しては、そんなこと言うものではないうと注意するべきであるが(株)一条工務店は注意しなかった。さらに、総務部長の天野雅弘にもまた、木下と同様に「おまえは、インテリアコーディネーターもキッチンスペシャリストも宅地建物取引主任者(現 宅地建物取引士)も簡単に通るだろうが。俺らは高卒なんじゃい。俺も木下も高卒なんじゃい。どんなにしたってそんなもの、絶対に通らんのんじゃ、この野郎。だいたい、おまえが慶應大学でてるというのが、それが何より気に食わんのじゃ、この野郎!」と言われたのだったが、よく言うわ♪ と思う。バカ言ってんじゃないわ♪ と思う。〔⇒「三年目の浮気」高音質 ヒロシ&キーボー 1982年https://www.youtube.com/watch?v=UWermeC-n3w 〕そもそも、「簡単に」なんか通ってないわ! 大変な努力をしてやっと通ったのだ。何の努力もせずに通ってやろうという者の方こそ「ずるい」であろうが。 足し算・引き算・掛け算・割り算のトーナメント大会の優勝にしても、何の努力もしないで優勝できるわけないだろうが。うちの父親は「あくまでも、わしがえらいからであって、あんたが努力したものというのは、まったく何ひとつとしてないんやで。心得違いを起こしてはならんぞチャンコロろすけ」と言うのだったが、努力すると「あんたが努力したものは何ひとつとしてないんやで。心得違いを起こすでないぞチャンコロろすけ」と言われるのならば、努力なんかしない方がいいみたい・・ということにもなるが、すでにしてしまった後だ。
  私からすると叔父のラグビー屋のおっさんには息子が2人と娘が1人できたが、上の方の息子は私より2歳下だったが、うちの母が高槻市に叔父夫婦の家に訪ねた時、そのイトコの机の上に『自由自在』(受験研究社)だったか『力の5000題』(教学研究社)だったか、小学校高学年向けと中学生向けの科目ごとの「参考書」、私が持っていたものとまったく同じものが載っていたのが見えたそうだったが、私が持っていたものはすべての科目のものが最初のページから最後のページまでありとあらゆる所に読んだ痕跡が見られたのに対して、イトコの机の上に載っていたものは、せっかく同じ物を買ってもらっていてもどの科目のものも1ページとして開いた痕跡がなく、すべてまっさらなまま載っていたそうだ。それを見て「ああ、こりぁ、この子は勉強できんわ( 一一) 」と思ったそうだった。それだけの違いがあるのだ。何の努力もせずに優勝するわけないだろうが。何の努力もせずに合格するわけないだろうが。ふざけんなあ!!!
  うちの父親が「次、(足し算・引き算・掛け算・割り算のトーナメント大会で)優勝したら、プラモデルを買ってやる」と言って、そして優勝したのだけれども、そして、小学校の同級生で優勝も準優勝もしていない、1回戦負けなのにゴジラを買ってもらっていた者が何人もいて、ゴジラとバラゴンの両方を買ってもらっていた者もいたのだけれども、我が家はたとえ優勝しても4000円のゴジラは無理だろうと小学校1年の時の私は思っていた。それで、うちの父親が「そしたら、プラモデルをこうてやろうと思うのやけども、あんたはどういうものが欲しいか?」ときくので、小学校1年の時の私はこう言ったのだ。「ゴジラがいいけれども4000円もするからゴジラは無理やと思う」と。そう言えば、「そうやなあ。さすがに4000円もするものは買えんわ。もうちょっと安いものはないのか。何百円というくらいのものなら買ってやれんこともないと思うけれども、何百円というくらいのものはないのか」とでも、うちの父親は言うのではないか、と思ってそう言ったのだった。
  ところが、予想に反してうちの父親はこう言ったのだった。「なんで、あかんねん。4000円したら、なんであかんのや。ええやないか、4000円したって。何をおまえはわけのわからん心配をしとるんや、おまえはあ。そんなもん、たとえ、4000円したっていくらしても、こうたるがな。ほかでもない、このわしが『こうたる』と言うておるんやぞ。おかしな心配すな! ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな。わけのわからん心配すな、おまえはあ」と言ったのだ。「え? 買ってもらえるんだ」と予想外の返答に驚くとともに喜んだのだった。よその子は買ってもらえるけれども、うちははず無理だと思っていたら、まさか、買ってもらえるとは夢にも思わなかったが、買ってもらえるんだ・・と思ってものすごくうれしかった。
  しかし、これはあまりにも観測が甘かったのだ。「ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな」と父親がいったん子供に口にしたからには買ってやるものだ・・・と私は思うし、買わないならば「ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな」とは言うべきではないし、子供が欲しいと言うものを買ってやった方がいいか買わない方がいいかはケースバイケースであって、絶対に買わないといけないということはないし、買ってはいけないといこともないが、「ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな」と子供に言ったからには買うべきだし、そういう約束は守るべきだし、うちの父親もまた、当然、そのくらいの認識はしているであろう・・と小学校1年の時の私は思い込んでいたのだった。又、そこまで言ったからには買ってもらえるのだろう・・と考えた・・が、あまりにも認識が甘かった。

  大阪市東住吉区の我が家から東に少し行った所にあったプラモデル屋に行くとショーウインドウにそのゴジラが展示されていた。これを買ってもらえるんだあ・・と思ってものすごくうれしかった・・・が、あまりにも考えが甘すぎた。
  プラモデル屋の中に入って、プラモデル屋の奥さんにうちの父親が「そこにあるゴジラ言うのん、あれ、いくらしますのん?」とうちの父う親が言うと、プラモデル屋の奥さんは「ゴジラは4000円です」と小学校の同級生で優勝も準優勝もしていないのにゴジラを買ってもらっていたやつ複数から聞いていた金額の通りの金額を奥さんは答えたのだった・・が、ところが、「それをお願いします」と言って買ってくれるものだと思い込んでいたら、あまりにも考えが甘かった。
  うちの父親はプラモデル屋の奥さんが「ゴジラは4000円です」と言うのを聞くと、「ふうえええ~え、ほんまに怪獣のプラモデルが4000円もしますのんか。ひいいええええ~え。ぎょおおええええ~え。ふううえええ~え。かなんなあ、もう。かなんな、もう。冗談やないで、ほんまあ。あかん。絶対にそんなもん、こうたらいかん。怪獣のプラモデルみたいなもんに4000円も出しては絶対にいかん。何がなんでもこうたらいかん。冗談やないで、ほんまあ」と、うちの父親はのたまわれるのだった・・が「冗談やないで」と言いたいのはこっちだった。「ふううええ~え。ぎょおおえええ~え。ひいいえええ~え」と言いたいのもこっちだった。ほんま、冗談やないで、ほんまあ・・・・。
  「あんた、何が何でもゴジラやないといかんのか」と私に言うので、「バラゴンでもいい」と言ったのだ。ゴジラとバラゴンのプラモデルが並べてショーウインドウに置いてある店があったと思ったのだが、同じくらいの大きさで同じくらいの値段で売られていたのだったが、プラモデル屋の奥さんは私が言った通りに聞いて「バラゴンはもっと高いですよ。バラゴンは4200円です」だったか言ったのだ。ところが、うちの父親は、そういうところでは「うまい」のかなんというのか、「会社員の鏡」と言うべきなのか「営業精神」なのかどうかようわからんが、「何、バラ、バルゴン?」と言い、私が「バルゴンじゃない。バラゴン。バラゴン」と言っても、うちの父親は「バルゴン?」と言い、それを聞いてプラモデル屋の奥さんは「バルゴンなら安いですよ。バルゴンは200円です」と言ったのだが、それを聞くとうちの父親は「それがええわ、それが。あんたが欲しいのはバルゴンやな」と私に言うので、「違う。バルゴンじゃない。バルゴンじゃなくてバラゴン」と言うと、うちの父親は「違うことないがな。バルゴンや。あんたが欲しいのはバルゴンやがな」と言うので「違うって。バルゴンじゃないって。バルゴンじゃなくてバラゴンだって。バラゴン、バラゴン。バルゴンじゃなくてバラゴン。バルゴンじゃないって」と言っても言っても、「違わんがな。あんたが欲しいと思っていたのはバルゴンや」と言い、「その200円のバルゴンをください」とプラモデル屋の奥さんに素早く言って商品を受け取り200円を払うと、「さあ、帰ろう」と私に言い、私が「バゴンじゃないって。バゴンだって、バラゴン。バルゴンじゃないって」と言っても言っても、「何をわけのわからんこと言うとるんや。おまえが欲しい欲しいと言うバルゴンをお父ちゃんが買ってやってやったんやろうが。おまえが前前から欲しい欲しい欲しいと言うておったそのバルゴンをお父ちゃんに買ってもらって良かったねえ、あんたあ~あ。お父ちゃんに前から欲しい欲しいと言うておったバルゴンを買ってもらって良かったねえ」と言うのだ。「だから、違うって。バルゴンじゃないって。欲しいのはバルゴンじゃなくてバラゴン。バルゴンじゃないって、バルゴンじゃないって、バルゴンじゃないって」と言ってもい言っても言っても言っても、「だから、あんたが欲しいのはバルゴンやろうが。あんたがバルゴンが欲しいと言うもんやから、そやからそのあんたが欲しい欲しいと只管言うところのバルゴンをあんたの希望を聞いて買ってやってやってあげてやってあげてやってもらってやったんやろうが。うれしいやろ。ものごっついうれしいやろ。あんたが欲しいと前からずっと思ってきたバルゴンを買ってもらってからに」と言いまくるのだった。「さあ、帰ろ」と言って有無を言わさずに家に向かおうとして、そして、家までの道道、おっさんは子供に言うのだった。「よかったねえ~え、あんたあ~あ。欲しい欲しいと思っていたバルゴンをお父ちゃんに買ってもらえた。あんた、ものごっつい仕合せやねえ~え。うれしいねえ、うれしいねえ、うれしいうれしいうれしいねえ。よかったねえ、よかったねえ、よかったよかったよかったねえ。あんた、ええお父さんをもってもんのすごい仕合せな人間やねえ~え。あんた、ものごっつい恵まれた子供やねえ~え。うれしいねえ、うれしいねえ。うれしいうれしい、うれしいねえ。よかったねえ、よかったねえ、よかったよかったよかったねえ」と言いまくるのだった。叫びまくるのだった。 
  いやだった。ものごっつい嫌だった。ものすごい嫌だった。ショックだった。ものすごいショックだった。ものごっついショックだった。悲しかった。うちの父親のその態度が悲しかった。ものすごいつらかった。うちの父親のその態度がものごっつい嫌だった。・・ところが、そのうちの父親が「あんた、ものすごいいいお父さんを持って、しあわせやねえ~え。ものすごいいいおとうさんをもって、あんた恵まれてるねえ~え。あんた、しあわせ、しあわせ。あんた、うれしいうれしいうれしいねえ。うれしいうれしいうれしいねえ」と言いまくるのだった。ものすごい嫌だった。その態度がものすごい嫌だった。
  怪獣映画に登場する怪獣には、東宝のゴジラと大映のガメラがあり、それぞれに対戦相手があったのだ。バルゴンはガメラの2作目でワニに似た姿の冷凍怪獣で、バラゴンはというと、《 バラゴン (Baragon) は、東宝の怪獣映画『フランケンシュタイン対地底怪獣』などに登場する架空の怪獣。》(ウィキペディアーバラゴンhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3 )だそうで、ゴジラと同じ東宝系の怪獣らしい。 子供にとっては東宝系か大映系かは大きな問題ではなかったのだが、東宝系のゴジラとバラゴンのプラモデルはゴジラが4000円でバラゴンが4200円だったか4400円だったかで、大映系のガメラとバルゴンはどちらも200円で、東宝系のバラゴンと大映系のバルゴンはまったく別の怪獣であって、値段も内容も全然違ったのだ。・・ついでに、野球の現在の日本ハムファイターズの前身の東映フラヤーズは張本・大杉・白仁天と、打撃成績は残すもののなんかガラ悪そうなのがいっぱいおったように「ヤクザ映画の東映」で「怪獣映画の東宝」とは別みたいだ。
※ バラゴン⇒フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン 予告篇 https://www.youtube.com/watch?v=UzELuT8i7HA
〔 ↑ この最後、絶叫するおばちゃんが一番、怪獣みたい(^O^) 〕
※ バルゴン⇒7/16(金)公開『妖怪・特撮映画祭』上映告知~『大怪獣決闘ガメラ対バルゴン』予告篇~https://www.youtube.com/watch?v=QEb49B9Nf8U
  ちなみに、「バラモン」はインドのカーストの最上位のことで〔慶應義塾カーストならば、「小学校(幼稚舎)から大学まで慶應」症候群の人・・みたいなものか。〕、「バラゴン」が東宝の地底怪獣、「バルゴン」は大映の冷凍怪獣でガメラのライバル。名前が似ているのでややこしい。

  最初から「よそが買っていても、うちは4000円もするプラモデルは買えないわ。しかし、200円かそこらのものが、もしもあったら買ってやるけれども、そのくらいのものではいかんか。もし、200円かそこらのものでよかったら買ってやるから、一緒にプラモデル屋に行ってきいてみようや」と言われてプラモデル屋に行って、それで、ゴジラやバラゴンは4000円だったり4000円少々だったりでよその子は優勝も準優勝もしなくても買ってもらえるけれども私は優勝しても買ってもらえないものだが、200円のバルゴンなら我が家でも買ってもらえるということでバルゴンを買ってもらったなら、同級生で1回戦負けのやつが買ってもらっていたゴジラ・バラゴンと優勝した私が買ってもらったバルゴンは段違いのものだけれども、それでも喜んだと思うし、喜べたと思うのだ。しかし、「4000円したら、なんであかんのや。ええやないか、4000円したって。何をおまえはわけのわからん心配をしとるんや、おまえはあ。そんなもん、たとえ、4000円したっていくらしても、こうたるがな。ほかでもない、このわしが『こうたる』と言うておるんやぞ」と何度も何度も言われたあげく、「ふううええ~え。ぎょおおえええ~え。ひいいえええ~え。冗談やないで、ほんまあ」とやられたあかつきには「冗談やないで、ほんまあ」と言いたいのは子供の方だったし、「バゴンじゃない。バルゴンじゃなくてバゴン。バラゴンだって」と何回も何回も言っているにもかかわらず、かつ、プラモデル屋の奥さんは私が「バゴン」と言ったのを聞き取れていたのだから、うちの父親も聞き取ることはできた可能性が大きいにもかかわらず、意図的に「バルゴンやがな。あんたが前前から欲しい欲しいと思ってきたのは200円のバルゴンや、バルゴン、バルゴン♪」と言い続けよった・・というのは、これはものすごいショックであって喜べるものではなく、又、帰り道道、「よかったねえ、よかったねえ、よかったよかったよかったねえ」と言われ、「あんた、いいおとうちゃんを持って仕合せやねええ~え」と何度も何度も言われた、というのも喜べなかった。何より、そのやり口が嫌だった。東京コンピュータサービス(株)〔本社:東京都。1980年代後半は東京都千代田区神保町に本社があったが、インターネット上のホームページを見ると今も存在しているが本社は東京都だが他の場所に移転したらしい〕の研修担当の部署の「責任者」のおっさんは「親が子に何かをやってもらった時、親が子に何かをもらった時と、子が親に何かをやってもらった時、子が親に何かをもらった時とでは、どこが違うかわかりますか。教えてあげましょうか、教えてあげましょうか、教えてあげましょうか、教えてあげましょうか、教えてあげましょうか、教えてあげましょうか・・」と言い、誰ひとりとして「教えてください」と言う者はなかったからには「それならやめておきましょう」と言って話すのをやめるか、それとも「まあ、そう言わずに聞いてくださいよ」と言って話すかどちらかだろうと思ったらそうではなくて、「わかりました。それなら教えてあげましょう」と言って話しだし、「いいですか。親が子から何かをしてもらった時、親が子に何かをもらった時は、親は気持ちに対して喜ぶのです。それに対して、子が親から何かをしてもらった時、子が親から何かをもらった時は、子は物に対して喜ぶのです。子は気持ちに対して喜ぶのではないのです。わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか・・・」と執拗におっしゃるのだったが、わからんかった。ちっともわからんかった。絶対にそんなことはない。「子は物に対して喜ぶのであって、気持ちに対して喜ぶのではないんです」なんて絶対に嘘だ! 「子は物に対して喜ぶのであって、気持ちに対して喜ぶのではないんです」というおっさんの言うことが正しかったならば、小学校1年の時の私だって、「4000円したら、なんであかんのや。ええやないか、4000円したって。何をおまえはわけのわからん心配をしとるんや、おまえはあ。そんなもん、たとえ、4000円したっていくらしても、こうたるがな。ほかでもない、このわしが『こうたる』と言うておるんやぞ」と何度も何度も言われたあげく、「ふううええ~え。ぎょおおえええ~え。ひいいえええ~え。冗談やないで、ほんまあ」とやられても、それでも200円のバルゴンを買ってもらったと喜ぶことができたであろうけれども、喜べなかったのだ。うちの父親のその態度が嫌だったのだ。もんのすごく嫌だったのだ。東京コンピュータサービス(株)の研修担当の部署、システムエンジニア協会 という名前をつけていたように思ったのだが、そこの「責任者」のおっさんの言うことは、「教えてあげましょうか。教えてあげましょうか・・」「わかりましたか、わかりましたか・・」とずいぶんと「教えてあげている」という態度での発言だったが、あれは間違いだ。むしろ、そのおっさんの方が教えてもらった方がよさそうだった・・が、教えてもらっても、おそらく理解できない人だったのではないか、と思う。
  『あしたのジョー』では丹下段平が矢吹丈に「あしたのために その1 ジャブ」「あしたのために その2 右ストレート」を教えた後、「あしたのために その3 クロスカウンター」を教えるに際して、「こいつを早く確実に学ぶためには、おのれの骨と肉のきしみで覚えるしかねえんだ」と言って、実際に矢吹丈にクロスカウンターを打ち込んで教える・・という場面があったが、私は「いいですか。親が子から何かをしてもらった時、親が子に何かをもらった時は、親は気持ちに対して喜ぶのです。それに対して、子が親から何かをしてもらった時、子が親から何かをもらった時は、子は物に対して喜ぶのです。子は気持ちに対して喜ぶのではないのです。わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか・・・」なんて絶対に嘘だ、絶対に違う・・ということを小学校1年の時におのれの骨と肉のきしみで学んだのだった。〔⇒あしたのジョー OP主題歌 尾崎イサオhttps://www.youtube.com/watch?v=HmbG85pw8qM 〕

  こんなことする人なんて、あんまりないと思うがなあ~あ・・と小学校1年の時の私は思ったのだったが、我が家では普通にあるのだった。「わしいほどエッライえっらいエッライえっらいおとうさんはなかなかないねんでえ」とおっしゃるおとうさんが毎度毎度、そういうことをされるのだった。「わしいほどエッライえっらいエッライえっらいおとうさんはなかなかないねんでえ」というのは誰が「診断」したものかというと、うちの父親の親友で医者屋の女川(めがわ)(男。1980年頃当時、50代前半。自称:金沢大学医学部卒だが、おそらく嘘だろう。ドバカ息子を私立金権関西医大に裏口入学させたというのを自慢していたので、女川自身も私立金権関西医大裏口入学卒か、そうでなくても「かわいいキンタマ」(川崎医大+愛知医大+金沢医大+埼玉医大=かわいいキンタマ)かそこら卒の可能性が大きいと思われる。1980年頃当時、大阪府豊中市在住。本人がおっしゃるには「専門は内科」だそうだった。)と北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒。担当科目国語」)の2名だった。旧姓作野礼子は「あなたのおとうさんほど、もんのすごいエライいいおとうさんは、めったにないわよ」と言いまくり、おっさんはそう言ってもらって、それで「さすがは北野高校の先生だけあるなあ、作野先生は~あ。ええ先生やでえ、あの人はあ」とか言って喜び、旧姓作野礼子もまた、「あなたのおとうさんほど、もんのすごいエライいいおとうさんは、めったにないわよ。私は父親がいなかったんだからねえ。私は両親が離婚したんだからねえ」と言いまくれば、そうすれば「ええ先生やでえ、あの人は。ものごっついええ先生やでえ。さすがは北野高校の先生だけあるでえ、あの人はあ」などと言ってほめてもらえる・・ということに味をしめていた。そんなに「ものすごい立派なめったにいないいいおとうさん」だと旧姓作野礼子さんが思うのならば、とりあえず、「そんなもん、たとえ、4000円したっていくらしても、こうたるがな。ほかでもない、このわしが『こうたる』と言うておるんやぞ。おかしな心配すな! ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな。」と言われてプラモデル屋に行って、そこで子供が言っていた通りの金額の「4000円です」と聞くと「ふううえええ~え。ぎょおおえええ~え。ひいいええええ~え。冗談やないで、ほんまあ」とやられるという、まさに「冗談やないで、ほんまあ」と子供の方が言いたくなる言動をされる・・ということを旧姓作野礼子さん自身が経験をしてみるべきであろう・・と思うのだが、ところがどっこい、旧姓作野礼子は自分ではその「ものすごい立派なめったにいないいいおとうさん」とかいうおっさんから「ふううえええ~え。ぎょおおええええ~え。ひいいええええ~え」とされる経験なんて絶対にうけないで、それでいて勝手なことばかり言いまくる症候群の女だったのだ。あの女のああいうビョーキは「そう簡単には治らない」であろう。ロボトミーでもやってやらんと治らんのではないか。ロボトミーでなかったら電気ショック療法でもあのバカ女症候群の重症患者にやってやらんといかんのではないか。そもそも、あのバカ女を育てた母親というのは、どんな人間なんだ。母親もまたそういう勝手な女だから離婚したということなのか。

  そして、それから14年後、私が浪人中のことだが、うちの父親はこう言ったのだ。「4000円したら、なんであかんのや。ええやないか、4000円したって。何をおまえはわけのわからん心配をしとるんや、おまえはあ。そんなもん、たとえ、4000円したっていくらしても、こうたるがな。ほかでもない、このわしが『こうたる』と言うておるんやぞ」と何度も何度も言われたあげく、「ふううええ~え。ぎょおおえええ~え。ひいいえええ~え。冗談やないで、ほんまあ」とやったおっさん、私が「バルゴンじゃない、バラゴン。バルゴンじゃなくてバラゴン」と何度も何度も必死になって訴えても「バルゴンやがな、あんたが欲しい欲しいというものは。そやから、わかったがな、あんたが欲しいのはバルゴン、あんたが欲しい欲しいと前々から思ってきたのはバルゴンや」「バルゴンをお父ちゃんに買ってもらってよかったねえ~え。あんた、ものごっつい仕合せ仕合せ。あんた、ものごっついうれしいうれしいうれしいねえ。よかったよかったよかったねえ」とやったおっさんは、私が20歳になる年にこう言ったのだ。「こいつには、小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも何でも何でも何でも何でも、ええもんばっかし、何でも何でもどんなもんでも、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ♪」と。 はあ? 何をあほなこと言うとんねん・・と思い、私は言ったのだ。「そんなことない。絶対にそんなことない」と。
  そうすると、そこにいたうちの父親の大親友で医者屋で「女川教(めがわきょう)」という新興宗教の教祖の女川(めがわ)(男。1980年頃当時、50代前半。自称:金沢大医学部卒だが、まず、嘘だろう。「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして得たカネでドバカ息子を私立金権関西医大に裏口入学させたというのが自慢。1980年頃当時、大阪府豊中市在住。私立金権関西医大に裏口入学した息子は灘高校に行っていたと女川は言っていたが、おそらく嘘だろう。灘高校というのは私立なので毎年、「この人は裏口やな」という人がいると同校出身の人に聞いたことがあるが、だからといって誰でも彼でも裏口入学させるわけでもなく、裏口入学入学要綱なんてものが販売されているわけでもない。ぴったしカンカンであてるならば、女川の息子が裏口で行った私立高校はというと、高槻高校裏口入学・・とか「そんなところ」ではないかな。高槻高校というのは名前からすると公立みたいな名前なのだが、大阪府の三島地区に茨木高校(大阪府第四中学校)ができた後、高槻市にも公立高校が欲しいと地元の人が考えたができず、高槻市にあった大阪医大(私立)の関係の人が私立の高校を作ったというのが高槻高校で、「一応、進学校」というくらいの高校らしいのだが、大阪医大(私立)の関係の私立高校なので、灘高校は医学部の合格者が最近は多いとはいえ、もともとは神戸市の灘地区の造り酒屋がその息子を行かせるために作った学校が元で医大や病院の系列というわけではなく、医者の息子が入学して国立大学の医学部に正規の入試に合格して行くのであって、女川のような裏口民族の医者の息子が行くわけではなく、それに対して、女川の息子は医者つながりの縁故での「大阪医大とのつながりがある私立高槻高校」裏口入学なら「ありそう」にも思える。あの男の言うことは嘘が多いので、「そんなところ」ではないかな・・。ついでに女川は「わしは剣道三段・柔道三段」などとも言っていたが、たぶん、それも嘘だろう。剣道・柔道を実際にやったことない人にとっては剣道三段・柔道三段というのがどのくらいのものかよくわからないと思うのだが、いわば「前科三犯、893番」なんて「懲役太郎さん」〔懲役太郎チャンネルhttps://www.youtube.com/results?search_query=%E6%87%B2%E5%BD%B9%E5%A4%AA%E9%83%8E 〕みたいに言われてもよくわからんみたいなものだが、剣道やっていて初段もっているという人にきいた話では剣道の段位は剣道やった人にとっては初段は比較的取りやすいらしいのだが、二段以上は相当難しいそうで、小堀住研(株)にいた時に警察官をやっている人に契約してもらったことがあったのだが、その方は剣道初段・柔道初段を持っているそうで警察官は剣道初段か柔道初段のどちらかを取得するように求められるらしかったが、実際問題としてけっこう仕事が忙しいそうで剣道や柔道の練習やる時間がなかなか取れないそうだった。警察官を仕事にしている人でも剣道や柔道の練習をする時間をそれほど取れないらしいのに、ましてや医者屋やってる人間が剣道三段・柔道三段なんてそんなものすごい段位をもしも本当に取得したのならば⇒「いったい、どんなけ、医者屋の仕事をさぼっとんねん」てことになるはずだ。まず、剣道三段・柔道三段なんて、まず嘘だろうし、万一、本当だったなら、「どんなけ、医者屋の仕事をさぼっとんのんじゃい」てことになるだけでプラスに評価されるものではない。)が「おとうさん、おとうさん。こいつがこういうことを言うというのは、それは病気やからです。病気やから、実際はおとうさんは、こいつには、お父さんがおっしゃるように、いつでも・何でも・どんなもんでも・何でも何でも・ええもんばっかし・即座に買ってきてやってやってやってきたのにからに、こいつは病気やからそれをわかりよらんのです。病気がこいつにこういうことを言わせてるんです、お父さん。難儀でんな~あ、ほんまにい」と言ったのだ。それを聞いてうちの父親は「そうでんなあ。こいつは病気やから、こういうことを言いよるんですわ。病気が言わせてるんです、病気が」と言い、女川は「そうです。間違いなくそうです」と言い、うちの父親は「これは、相当病気が重いですなあ。これはクスリ飲ませてやらんといかん。それもちょっとではいかん。べろんべろんになるくらいに大量に飲ませて治療してやらんといかん。いや、クスリではあかん。ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪ 電気ショックやったるべきや、電気ショック♪ な~にがなんでも、こいつに電気ショックかロボトミーやって、こいつが二度とこういう口をきけんようにしてこましてやらんとあかん」とうちの父親はおっしゃるのだった。それを聞いて医者屋の女川は「そうです、そうです。まさにおとうさんのおっしゃる通りです」と言い、「おとうさんのような英雄で聖人で人格者で人間的に成熟した人間でスーパーマンで超人のおとうさんの息子にこういうのができたというのは、これは生物学上の突然変異学説によるものです、これは。わしは名医ですから絶対に間違いありません、おとうさん」とそうおっしゃるのだった。それを聞いてうちの父親は「そうでんなあ。間違いなくそうでんなあ。わしのようなエッライえっらいエッライえっらい人格者で英雄で聖人で完璧超人でスーパーマンで修行を積んで悟りをひらいたゴータマシッダールタで「四十にして惑わず」の孔子で孟子でキリストでメサイヤで水に命じれば水が葡萄酒に変わる、山に命じれば山が空を飛んで海に入るというそういうドイツ人で慶應のわしのようなものすごいものごっついえらい人間に、いういうカスのクズが産まれるというのは、これは間違いなく生物学上の突然変異学説でんなあ」と言い、女川は「そうです、そうです。おとうさんのおっしゃる通りです」と言い、そう言ってもらっておっさんは大喜びしておったのだった。
スタンガン
スタンガン
( ↑ 電気ショック療法。 )
  うちの父親は私に「あんたはわしのことを、もしかすると『普通の人間』と勘違いしていたかもしれんけれども、実は普通の人間ではなかったらしいねん。特別の名医中の名医であらせられる女川先生がおっしゃるには、実はわしはスーパーマンやったらしいねん」と、そうおっしゃるのだった。それで私は言ったのだ。「スーパーマンやったんですかあ」と。「そやねん。わしはスーパーマンやってん。専門家の先生がそう診断してくださってん。絶対に間違いあらへん」とその「スーパーマンのお方」はおっしゃるのだった。「スーパーマンてことは、空を飛ぶのですかあ?」と言ったところ、「何を言うとんねん、何を。飛ぶか、そんなもん」と「スーパーマンのお方」はおっしゃるのだったが、「しかし、スーパーマンなんでしょ。スーパーマンてことは空飛ぶのと違うのですか。空飛ばないならなんでスーパーマンなんですかあ」と言ったのだが、「だから、空は飛ばないスーパーマンなんじゃ」と「スーパーマンのお方」はおっしゃるのだった。「空飛ばないスーパーマンて、アラレちゃんみたいなもんですか。キーン♪て」〔⇒Drスランプ アラレちゃんOP https://www.youtube.com/watch?v=ZtDUKU-lx4w 〕。それでも、「スーパーマンのおとうさん」は何度も何度もおっしゃるのだった。「名医中の名医であらせられる女川先生が診断してくださってんでえ。わしはスーパーマンやと」と。 私なら「あんたはスーパーマンや」なんて言われてもうれしくないし、なんやねん、こいつ、気色悪いやっちゃな・・と思うところだが、うちの父親はそういうことを言われると喜びよるのだった。「おとうさんはめったにお目にかかることはできない英雄で聖人でゴータマシッダールタで孔子で孟子で聖徳太子でキリストでメサイヤでスーパーマンのお方ですから」とかそういうことを言われると喜ぶおっさんのまわりには、そういうことを言って喜ばせてやろうとする人間、特に権威ぶって「専門家」と称してそういうことを言って喜ばせてやろうとするろくでもない人間が集まってくるようだった( 一一)
権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ
権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ
現代社会学大系〈12〉権威主義的パーソナリティ (1980年)
現代社会学大系〈12〉権威主義的パーソナリティ (1980年)
権威主義的人間 - 曽良中 清司
権威主義的人間 - 曽良中 清司

   そうやって、あほなおっさんを持ち上げて喜ばせることで自分の評価を上げようとする人というのは、
(1) 一番悪質で強力なのは医者屋で女川教の教祖の女川(めがわ)だったが、
(2) ほかに北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒。担当科目「国語」)がそうだった。
  「あなたのおとうさんほど、もんのすごいいいおとうさんはなかなかないわよ」と持ち上げて、そうやって持ち上げることによって、「作野先生はええ先生やでえ。さすがは北野高校の先生だけあるでえ、あの人はあ。さすがは女でも北野高校でておられるだけのことあるでえ。さすがは女でも神戸大でておられるだけのことあるでえ」などと言いまくっておっさんは旧姓作野礼子を持ち上げ、持ち上げてもらって旧姓作野礼子はその気になるのだった。
   そして、「私は父親がいなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」と私に言いまくるのだった・・が、しかし、そんなこと言われても「知らんがな」。 もしも、私が旧姓作野礼子さんの「両親が離婚した」原因を作ったということならば、「そりぁ、どうも、えらいすんませんでしたなあ」の一言くらいは言った方がいいと思うけれども、だ。「ちがうだろ、このボケ~え!」〔⇒このハゲ〜!違うだろ!違うだろ!違うだろ!https://www.youtube.com/watch?v=vOWQvoBC9D4 〕 私が北野高校に入学して、最初に旧姓作野礼子さんに会った時、すでに旧姓作野礼子さんの両親は離婚していたはずなのだ。「知らんがな、そんなもん」。あさっての方向めがけて文句言うんじゃねえよ、このバカおんな、このブス~ぅ!!! ブスのくせして勝手なこと言うな!
   だいたい、「私は両親が離婚したんだからねえ」だの「私は父親がいなかったんだからねえ」だのと自慢しまくりされるのだったが、まず第一に、「両親が離婚した」とか「父親がいなかった」とか、そういうのって、自慢するものなのか~あ? 自慢するものかあ???
  なんだか、「私は両親が離婚したんだからねえ」とか「私は父親がいなかったんだからねえ」とか言いまくると、「作野先生はお父さんがおられなかったから、だから、苦労されてるだけあって、しっかりしておられるわあ~あ」と言ってほめてもらう権利があるみたいに思っておられたようだが、しかし、そんな””権利””なんて、ないと思うぞ。 そんな””権利””なんてあると思う???  ないと思うがなあ・・・。
  うちの父親は「いらいらっとしたら、かけたんねん」と言って朝から晩まで電話攻撃しまくりの男で、その電話かけてこられる者としては、もうかんべんしてほしいわあ・・・てものやった。私の所だけにかけてくるのかと思っていたら、うちの下の姉(旧姓作野礼子さんと同年齢)の所にもかけていたらしく、「あの人のあの『いらいらっとしたらかけたんねん』と言ってかけてくるあの電話。かなわんねえ~え」と言うのだった。「『いらいらっとしたら、かけたんねん』と言って電話する人というのは、それでいくらかストレス解消になるのかもしれないけれども、瘤取りじいさんの瘤と一緒で、かけた側はストレス解消になっても、かけられた側はその分、ストレスたまるんやからねえ」と言うのだったが、その通りで、「いらいらっとしたら、かけたんねん」と言って毎日毎日、四六時中電話してくる人のその電話て、こたえる・・・。ほんと、こたえる。かんべんしてほしかった・・が、朝は朝で「今、会社についてん。いらいらしてんねん。そんで、かけたってん。感謝しろお」と言ってかけてこられるし、夜は夜で「これから帰るねん。いらいらしてんねん」と言ってかけてこられる電話、かけられる側がどれだけ嫌がっているか、百回に一回でも考えてみたらどうかと思うのだったが、「わしいのようなエッライえっらいエッライえっらいお方に電話していただいておるんやから、感謝せんとバチあたるでえ」と言ってかけてこられるのだった。「感謝しますから、かけていらんのですけれどもねえ」と言っても言っても電話攻撃はやまないのだった。
  そういう電話攻撃は私にさせておいて、それで「あなたのお父さんみたいな、もんのすごいいいお父さんがいたら、私だったら、ものすごいうれしいわよ」などと旧姓作野礼子は私に言うのだったが、今から考えてみると勝手な女やなあ・・と思う。「いらいらっとしたら、かけたんねん」という電話攻撃は私の所にかけさせておいて、おのれはいい顔だけして「ええ先生やでえ。ものすごい優秀なええ先生やでえ」などと言ってもらってその気になっていたのだから、旧姓作野礼子は、””まったくつくづく勝手な女症候群””の重病患者だった。クスリでは治らんのではないか、ロボトミーか電気ショック療法やったる必要があったのではないか。ロボトミーか電気ショック療法を。あの””つくづく勝手な女症候群””のバカ女に。

  うちの父親は「しみったれ」で「ええかっこしい」の「ぼんぼん」だったのだ。 「ぼんぼん」というのを、うちの父親はほめことばだと思っていたらしいが、「ぼんぼん」は自分で言う場合は謙遜だが、ひとに言う場合はけなし言葉だ。「お坊ちゃん」の場合はほめことばである場合がけっこうあるが「ぼんぼん」は基本的にはけなし言葉だ。ひとの気持ちも理解できない身勝手な「ぼんぼん」。
  「しみったれ」「しぶちん」と「けち」は似ているようにも見えるが違う。大日本どけち教 教祖を名乗っていた吉本というおっさんが大阪にいたのだが、うちの父親と同年齢だから今は亡くなっているのではないかと思う。その大日本ドケチ教 教祖のおっさんが、一度、我が家に来よったことがあったらしいのだ。なんで、そんな有名人と言うほど有名人ではないかもしれないが、知名度は関西中心で東京圏ではそれほど知られていないかもしれないが、関西では多少は知られている「大日本ドケチ教 教祖」を名乗る「吉本のおっさん」がうちの家になんか来たのかというと、うちの父親と同志社大学で同期だったらしいのだ。それでうちの家に来よったことがあったらしいのだが、よその家に訪問するのに特別にケチだったかというと、そうでもなくて「普通」だったらしい。
  その大日本ドケチ教の吉本さんが「わてはケチではあっても、シブチンとは違いますねん」と言っていた。ケチとシブチン・しみったれ はどう違うかというと、「ケチというのは節約すべきところではとことん節約しまっけども、出すべきところでは出すというのがケチでんねん。それに対して、出すべき時・出すべきところで出さないというのが、それがシブチンでんねん。わしはケチではあってもシブチンとは違いまんねん」と、そんなことを言うておったように思うのだ。ええこと言うやんけ・・と思いそうになるのだけれども、「そうかあ。この人は出すべきところで出してくれるのかあ」なんて思うと、その「出すべきところ」で出さない人とかあったりするのだけれども、言葉の意味として「けち」と「しぶちん」「しみったれ」の違いはそういうものだ。
  それで、うちの父親というのは「ぼんぼん」であって、そして「しぶちん」「しみったれ」だったのだ。よその親が子供に買ってやっているものを自分の所では出さないというのは、それはかまわないと思うのだ。しかし、出さないのならば「なんで、あかんねん。4000円したら、なんであかんのや。ええやないか、4000円したって。何をおまえはわけのわからん心配をしとるんや、おまえはあ。そんなもん、たとえ、4000円したっていくらしても、こうたるがな。ほかでもない、このわしが『こうたる』と言うておるんやぞ。おかしな心配すな! ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな。わけのわからん心配すな、おまえはあ」などと言うべきではない。そして、そういうことを言ったのならば、その場合は万難を排して買ってやるべきだ。買わない方がいいということでもなければ、買った方がいいということでもないが、買わない場合は同級生のよその親で子供に買ってやっている親がいて買ってもらっている子供がいるが、自分の所の子供はそれを我慢しているのだと認識するべきで、その上で「買わない」という選択をしてもいいが、その場合には「こうたるがな。絶対に何があってもこうたるがな」などと言うべきではない。たとえ、ケチで子供によその親が買ってやっていたものを買わなくても、それはかまわないが、しかし、「こうたるて言うてますがな。わからんのか」と言ったら買ってやるべきで、そう言っておきながら買わないのは「けち」ではなくて「しぶちん」「しみったれ」の方であろう。
  さらに、「そんなもん、たとえ、4000円したっていくらしても、こうたるがな。ほかでもない、このわしが『こうたる』と言うておるんやぞ」とかそういうことを言いまくった上で、プラモデル屋に行くと「ふううえええ~え、ぎょおおえええ~え、ひいいええええ~え。かなんなもう、かなんなあ」などと言い、「バルゴンじゃない、バラゴン。バラゴンだって。バルゴンじゃないって」と必死で訴えても「バルゴンやがな、あんたが欲しいのは。あんたが前々から欲しい欲しいと思っていたのはバルゴンや。バルゴン。よかったねえ~え、おとうちゃんに欲しい欲しいバルゴンを買ってもらえて。あんた、しあわせやねえ~え。あんた、うれしいねええ~え。あんた、ものごっついしあわせ。あんた、ものごっついうれしい、うれしい」などと言いまくって、そのあげく、子供が20歳になる年になると「こいつには、小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも何でも何でも何でも何でも、ええもんばっかし、何でも何でもどんなもんでも、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ♪」などと「どのツラさげて言うとるんじゃ」ということをふんぞり返って言うというようなことはやめるべきだ。そういうことはやらない方がいい・・と私は思うのだったが、ところが、うちの父親には「専門家の先生」と称して「おとうさんのおっしゃる通りです」と言ってくれる男がいたのだった。 その「女川教(めがわきょう)の教祖」という男をうちの父親に誰が紹介して親友になったのかというと、大阪市北区に北野病院という不良病院があって、そこの院長だか副院長だかに田附(たづけ)という男がいて、そのアホが紹介したらしく、そこから大親友になったらしく、うちの父親はその「女川先生」から「それじゃ、おとうさん、セデスだしてあげましょ。アリナミンも出してあげましょ。胃薬も出しておきましょ。風邪薬にPL顆粒(だかPG顆粒だか)もあげましょ。うがい薬もあげましょ。睡眠薬もいりまっしゃろ」となんだかんだ言って大量にクスリを売りつけられて、そして健康保険組合から「ものすごい金額を請求されていますが、いったい何の病気でかかっているのですか」と問い合わせが来たが、それでもうちの父親は「まさに医は仁術とはこのことや。女川先生は風邪薬にセデスに胃薬に睡眠薬にうがい薬にアリナミンにいっぱいクスリをくれはったけれども、み~んなタダや。1円としてお金とりはらへん。まさに聖人やでえ、あの先生はあ。人格者やでえ、女川先生はあ」などと言いまくっていたのだったが、それは、その頃は本人は10割支給・健康保険組合が百パーセント負担だったから「患者」からは女川は1円も取らなかっただけのことで健康保険組合からドカンと一発♪ 取りまくっていて、それが女川のドバカ息子が私立金権関西医大に裏口入学するカネに化けたのだった・・が、それを「聖人やでえ、あの先生はあ」「まさに英雄や、あの人はあ」などと言って崇拝していたのだった( 一一)
〔 医者が出す風邪薬にPL顆粒とPG顆粒があり、PL顆粒の方は薬屋で市販もされているらしいのだが、PL顆粒とPG顆粒がどう違うのかはよくわからない。〕
【指定第2類医薬品】パイロンPL顆粒 24包
【指定第2類医薬品】パイロンPL顆粒 24包
たとえば、↑ こういうのを特に病気でなくても売りつけよるのだ。
ちなみに、「女川教の教祖」はアリナミン・セデス・PL顆粒(PG顆粒)・うがい薬・胃薬・睡眠薬を「普段から特に悪いところがなくても日常的にクスリを飲んでおくようにするべきで、普段から薬を飲んでおくようにすれば、いざ大病をして薬を飲まないといけない時に、いっぱいクスリを飲むことができる」などと言って飲ませようとするのだったが、ディアナちゃんねるhttps://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B によると、パブロンは日本では合法で「一般的な風邪薬」だが、ロシア連邦では「パブロン」は違法薬物らしく、ロシア連邦ではパブロン持ってると「捕まる」らしい。
あぶない薬 (1984年) - 平沢 正夫
あぶない薬 (1984年) - 平沢 正夫
  私が「薬というものは、体のどこかが悪い時に飲むものであって、特に悪い所がない時に飲むものとは違う」と話したところ、「女川教の教祖」の女川はこう言ったのだ。「生兵法は大怪我の元という言葉を知らんか。きみのような、そんな素直さがないようなことでは、いざ、大病になって大量にクスリを飲まないといけないという時に、クスリをいっぱい飲むことができずに命を失うぞ。そうなりたくなかったら、普段から特に病気でなくても薬を飲むようにしておけば、いざ大病をして薬を飲まないといけないという時に、いっぱいクスリを飲むことができる」などと言うのだった・・・が、それって、普段から病気でもないのに薬を飲んでいるものだから、いざ大病をして薬を飲まないといけないという時に、少しでは薬が効かなくなってしまって大量に飲まないといけないことになってしまった・・ということと違うのか。
  さらに「女川教の教祖」の女川は「たとえば、ホウレンソウとまったく同じ成分の薬があったら、ホウレンソウを食べずに薬を飲んでもいいだろ。そんなこともきみはわからんのか。きみのそういう思考の硬さは治療してやらんといかんな」と言うのだった・・が、もしも、ホウレンソウと同じ成分の薬があったとすれば、それならば薬を飲まずにホウレンソウを食べればいいのではないのか。なんで、ホウレンソウを食べずに薬を食べなきゃならんのだ?  ところが、「女川教の信者」であるうちの父親は「こいつ、女川先生のありがたい教えを聞かせてもらっておるのにからに、素直にきこうという姿勢がない。これは病気でんなあ、先生、やっぱり」と言うのだった。
  何を脅されようが、私は「子供の頃から、よそとはちごうて、欲しいと言うものはどんなもんでも・何でも何でも・ええもんばっかし・即座にこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきた」などということは絶対にない。イェーリング『Recht(権利=法)のための闘争』(岩波文庫)には「自ら虫けらとなる者は後で踏みつけられても文句は言えない」というカントの文句が引用されて述べられているが、ロボトミーされようが電気ショックされようが、こういうものは絶対に譲ってはいけない。絶対に譲るわけにはいかないものだ。
  フィデル=カストロはキューバ革命の際にバチスタ政権から裁判にかけられ、自分自身の弁護人を自分でおこない、そこで「私に死刑を宣告せよ。そのようなものは何ら問題ではない。歴史が私に正義を宣告するであろう」と述べたが、まさにそれと同じ。「歴史が私に正義を宣告するであろう」。ロボトミーでも電気ショックでもやればよい。「歴史が私に正義を宣告するであろう」。(フィデル=カストロ『わがキューバ革命』で述べられている。)
権利のための闘争 (岩波文庫 白 13-1) - イェーリング,R. von, 村上 淳一
権利のための闘争 (岩波文庫 白 13-1) - イェーリング,R. von, 村上 淳一
わがキューバ革命 (1961年) (新しい人間双書) - フィデル・カストロ, 池上 幹徳
わがキューバ革命 (1961年) (新しい人間双書) - フィデル・カストロ, 池上 幹徳

  そして、うちの下の姉もまた、うちの父親から私と似たようなことをされたことがあったらしい。 「次、優勝したらプラモデルこうたる」と言われて優勝して、そして、「そんなもん、たとえ、4000円したっていくらしても、こうたるがな。ほかでもない、このわしが『こうたる』と言うておるんやぞ。おかしな心配すな! ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな。」と言われまくって、そして店に行くと「ふううえええ~え。ぎょおおえええ~え。ひいいえええ~え。かなんなもう、かなんなあ」とやられる、帰り道道、「よかったねえ、よかったねえ、よかったよかったよかったねえ」と言われる・・というそういう経験の話を下の姉にしたところ、「あんた、なんか私とよく似た経験してるねええ~え」とうちのお姉さんは言うのだった。
  「4000円のゴジラ」をお人形さんに入れ替えて、「200円のバルゴン」をチョコレートに入れ替えると、そっくりそのまんま、下の姉が体験したことになるらしかった。おっさんは、やっぱり「ふううえええ~え。ひいいえええ~え。ぎょおえええ~え」と言いよったらしく、又、帰り道道「よかったねえ、よかったねえ。よかったよかったよかったねえ」「うれしいねえ、うれしいねえ、うれしいうれしいうれしいねえ」と言いよったそうで、そう言われて、下の姉もまた、やっぱり喜べなかったらしかった。 東京コンピュータサービス(株)のシステムエンジニア協会という社員研修担当の部署の「責任者」のおっさんが言う「親が子から何かをしてもらった時、親が子に何かをもらった時は、親は気持ちに対して喜ぶのです。それに対して、子が親から何かをしてもらった時、子が親から何かをもらった時は、子は物に対して喜ぶのです。子は気持ちに対して喜ぶのではないのです。わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか・・・」というのは、やっぱり嘘だったようだ。「子供は気持ちに喜ぶのではない」なんて絶対に嘘だ。

  それで、JR阪和線を隔てた南大阪教会とか桃山学院高校とかと逆側、JR阪和線「南田辺」駅の南東のあたりに山坂神社という神社があって、今もあるはずで、山坂神社という神社と山坂公園という公園が隣接していて、どこまでが神社でどこまでが公園なのかよくわからなかったのだが、私が子供の頃も土俵が1つあったのだが、今、3月の春場所(大阪場所)の時には九重部屋が山坂神社をい宿舎にしているらしく、千代大海がホームページに「山坂神社に参拝してきました」と公開しているのがあった。
  その山坂神社でお祭りがあって、境内と公園内に屋台が出たのだったが、桃山学院高校の高校生だった時の叔父(母の弟)が大阪市東住吉区の私が産まれる前の我が家に来て、9歳年下とい11歳年下の姪(うちの姉)2人を山坂神社のお祭りに連れていったことがあったらしいのだ。 その時、まだ、小学校に行く前だったか小学校に入ったばかりかび女の子2人を連れて、高校生だった叔父が山坂神社のお祭りに行ったところ、そこの屋台でお人形さんが売られていたそうだった。ちびすけ2人がほしいほしいと言うけれども、もうちょっと歳をいって自分にそのくらいの年齢の女の子がいる歳になっていたならそうでもなかったのだろうけれども、そのお人形さんはそれほど高いものではなくて、高校生だった叔父が持っていた財布に入っていたお金でも買える程度のものだったらしいのだが、高校生の男にとっては、お人形さんを買うというのがものすごく恥ずかしかったらしい。 それでも、ちびすけ2人にほしいほしいと言われて、そして、高校生だった叔父は一生懸命頑張って、ちびすけのためにお人形さんを買ったらしかった。 東京コンピュータサービス(株)の研修担当部署のシステムエンジニア協会の「責任者」のおっさんが言っていた「親が子から何かをしてもらった時、親が子に何かをもらった時は、親は気持ちに対して喜ぶのです。それに対して、子が親から何かをしてもらった時、子が親から何かをもらった時は、子は物に対して喜ぶのです。子は気持ちに対して喜ぶのではないのです。わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか・・・」なんて、絶対に嘘だからね。それから、女の子というのは、せいぜい中学生くらいから女であって小学生の女の子なんて「子供」であって「女」ではないと思っているおっさんがいるけれども、それも違うからね。
  高校生の叔父が一生懸命頑張ってお人形さんを買ってくれた・・というのは、子供はうれしかったみたいだった。だから、いつまでも「Mにいちゃんにお人形さんを買ってもらった」と言い続けたそうだった。「親が子から何かをしてもらった時、親が子に何かをもらった時は、親は気持ちに対して喜ぶのです。それに対して、子が親から何かをしてもらった時、子が親から何かをもらった時は、子は物に対して喜ぶのです。子は気持ちに対して喜ぶのではないのです。わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか、わかりましたか・・・」なんて、絶対に嘘だからね。まったく「社員教育」というのはくだらんなあ・・・と思ったものだった。

  高校生だった叔父が小学校にまだ行かない姪2人がお人形さんをほしいほしいと言うから、だから、一生懸命頑張って買ってやったというのを、子供はいつまでも覚えていて、「Mにいちゃんに買ってもらった、買ってもらった」と言い続けていたという話を、これは誰に聞いたのかというと、うちの父親に聞いたのだった。それならば、うちの父親もまた、決して「親が子から何かをしてもらった時、親が子に何かをもらった時は、親は気持ちに対して喜ぶのです。それに対して、子が親から何かをしてもらった時、子が親から何かをもらった時は、子は物に対して喜ぶのです。子は気持ちに対して喜ぶのではない」なんてことはないときっちりと認識して、そして、「たとえ、4000円したっていくらしても、こうたるがな。ほかでもない、このわしが『こうたる』と言うておるんやぞ。おかしな心配すな! ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな。」と言いまくって、その上で店に行くと「ふううえええ~え。ぎょおえええ~え。ひいいえええ~え。かなんなもう。かなんなもう」とやり、「バルゴンじゃない。バラゴン」と言って必死で訴えているのに「そやから、あんたが欲しい欲しいと思っているのはバルゴンや。バルゴンやがな、あんたが欲しいのは」などとやって、そして帰り道道「よかったねえ、よかったねえ、よかったよかったよかったね♪」「うれしいねえ、うれしいねえ、うれしいうれしいうれしいね♪」などとやるというような、そういうことは人間としてするべきことではない、と理解すべきであり、ましてや、そういう態度・言動をおのれがとっておきながら、それから14年後には、「こいつには、小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも何でも何でも何でも何でも、ええもんばっかし、何でも何でもどんなもんでも、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ♪」などと「よく言うわ♪」「バカ言ってんじゃないわ♪」てことを言い、「絶対にそんなことない」と言われると、「こいつ、病気やからこういうことを言いよるんや。これは病気が原因なんや。なにがなんでも治療してやらんといかん。クスリ飲ませてやらんといかん。それもちょっとではいかん。メロンメロンになるくらいに大量に飲ませてこましたらんとあかん。いや、クスリではいかん。電気ショックかロボトミーやってこましたらんといかん。ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪ ロボトミーやって、こいつが金輪際、こういう口をきけんようにしてこましたらんあかん」などというそういう口はきくべきではない、そういう口をふてぶてしくきくのはそれは「まともな人間」じゃない・・と認識するべきであったはずだが、うちの父親は認識できない人で認識しない人だった・・・てことは「まともな人間」ではなかった、ということのようだ。むしろ、そのおっさんにこそ、「ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪ 電気ショックやったるべきや、電気ショック♪」というものだったのかもしれないう。

  で、そのおっさんに同調したり、さらにあおったりして喜ばせていたのが、
(1) うちの父親の親友で医者屋で女川教という新興宗教の教祖の女川(’めがわ)〔男。1980年頃当時、50代前半。当時、大阪府豊中市在住〕、
(2) それに北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子〔女。1970年代後半当時、20代。神戸大文学部卒。担当科目「国語」〕、
(3) それにうちの父親の部下のM尾さんの知り合いだったらしい「拝み屋さん」なのか「霊能者」なのかの石川県金沢市の「高原先生」というおばさん〔女〕、
(4) それにうちの母の弟でうちの父親と仲が良かったラグビー屋のO本M夫さん〔男。桃山学院高校⇒日体大⇒大阪府の某私立大学のラグビー部監督〕、
ほかにもいたであろうし、不足すればおっさんは代役を捜したであろうが、とりあえず、かなり過激な方の人間というと、この4人だった。「悪のトライアングル」ではなくて、「悪の枢軸」もしくは「悪のカルテット」だった。
  日ごろから「女川教(めがわきょう)」教祖の「女川先生」に指導を受けていたうちの父親は、それだけではまだ足らず、石川県金沢市まで拝み屋の「高原先生」(女)に会いに行きよった( 一一) そして、「名前を変えてください」と言われてきよった。相談者に「お名前が悪いのですよ。お名前を変えるときっといいことがありますよ」と言って、それで相談者が変えても変えなくても本人の意志でやることだ・・というのは悪くはないかもしれない。しかし、その「金沢の拝み屋さん」の「高原先生」はそうではなくて、「おとうさんのお名前はものすごい強運の名前で変える必要はないし、変えてはいけません」と言って機嫌を取りよったのだ。 そして、うちの母の名前は母が産まれた時に、その頃、大阪市内で権威だった命名家の人に頼んで命名してもらった名前だそうで、5人兄弟のうち、真ん中3人が女だった3人は3人とも2文字の名前で、母は変体仮名2文字だったが、母のすぐ下の叔母ともう一つ下の叔母はどちらもカタカナ2文字だった。ところが、母が結婚すると、姑さん(うちの父親の母親)が勝手に「子」を下につけて変体仮名2文字だった名前の本体を漢字1文字に変えてしまって「◇子(・・こ)」と呼んだそうで、母は「私は◇子じゃない」と怒っていたのでしたが、ところが1992年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ に新卒入社して浜松で「通算契約棟数全国2位の平松さんの隣の席に座っていた通算契約棟数ゼロ棟の小野田くん」というのが8月に東京展示場に本人希望で転勤してきたが、その「通算契約棟数全国2位の人の隣の席に座っていた通算契約棟数ゼロ棟の小野田くん」が「営業に大事なこととして、決定権者を見抜くということがあるんですよ。知ってますか」と言うのだったが、それが「通算契約棟数全国2位の人の隣の席の通算契約棟数ゼロ棟の人の営業論」だったようなのだが、私はその「決定権者を見抜く」ということをするやつというのが相当前から嫌いだったのだ。まさにその「拝み屋さん」の「高原先生」というのが「決定権者を見抜く」というのをやりよったのだった。「高原先生(たかはらせんせい)」の透視だか霊視だかによると、うちの父親が「決定権者」だったのだ。「高原先生」にとってはうちの父親が「決定権者」で、私が「諸悪の根源」で名前とともに存在を撲滅しなければならない存在だったのだ。それで、「決定権者」であるうちの父親には「おとうさんのお名前は、これほどすばらしいお名前はありません。絶対に変えてはいけません」と言って、まず、そこで機嫌を取りよったのだ。そして、うちの母が嫌がっていた姑さんが勝手に名づけた「◇子」という名前に奥さんの名前を変えてください、と言いよったのだ。そして、うちの姉2人は、片方は漢字だったものをひらがなに変えてください、他方は漢字だったものをカタカナに変えてくださいとして、これは「おとうさん」よりは劣位の存在扱いだが、それほど重要ではない。一番重要だったのは私で「この人が諸悪の根源です。この人の名前を天津丼(’てんしんどん)に絶対に変えてください。この人の名前を天津丼に変えないことには決して良いことはありません。変わった名前と思って本人が嫌がるかもしれませんが、たとえ本人が嫌がっても絶対にこの人の名前を天津丼(てんしんどん)に変えてください。本人がどんなに嫌がっても絶対に変えさせないといけません」と、そう言いよったのだ。そして、金沢から大阪まで帰ってくると、うちの父親はこう言ったのだ。「きょうから、あんたの名前は天津丼(てんしんどん)に変えることにするわ~あ♪ 感謝せえよお、てんしんど~ん♪」と。そして、「命名 天津丼」と書いて家の柱に貼りよったのだ。さらに「改名屈 天津丼」と紙に書いて「これを北野高校の事務室に持って行ってきなさい」と私に言うので、本当に嫌だったのだが、しかたなしに北野高校の事務室に持って行ったのだった・・が、「こういうものは、もしも、提出するのなら市役所かそういう所に出してもらわないと、卒業した高校に持ってこられても困ります。 それから、これ、『かいめいとどけ』のつもりなのでしょうけれども、『かいめい くつ』になってます」と、そう言われたのだった( 一一)  うちの父親というのは、そういうおっさんで、結婚した後、もしも、自分の母親が嫁の名前を変えてやろうとして嫁が嫌がったならば、夫として息子として母親に「ひとの名前は本人以外の人間が無暗に変えるものではないから、本人の元からの名前で呼んであげて」と言うべきもので、そうやって嫁と母親との間をとりもとうとしない男がうちの父親であり、嫁が嫌がっていたにもかかわらず、嫁からすると姑(おっさんの母親)が他界して7年目になるのに、またもや、姑さんがやっていた「嫁の名前を変える」という行為を復活させて、「拝み屋さん」と組んで「何が何でも『◇子』に名前を変えないといけません」ということをやりよったのだ。「金沢の拝み屋さん」の「高原先生」は誰がうちの父親に紹介したのかというと、うちの父親の勤め先の部下だったM尾さんが紹介したらしかったが、M尾さんは特に悪気ではなく親切くらいの気持ちで紹介したみたいだったが、悪気でなかったとしても、もしも私ならば「拝み屋さん」なんてものは会社の上役に紹介したりはしない。百回に一回でも、名前を「天津丼(てんしんどん)」に変えられた人間の気持ちというものはほんのわずかでも考えてみてはどうかと思う。「天津丼(てんしんどん)」だぞ、「天津丼(てんしんどん)」。「これがものごっつい強運の名前なんじゃ~あ」て、バカにしてんのか・・と思いませんか。
ヒガシマル醤油 ちょっとどんぶり 天津飯2P×5個
ヒガシマル醤油 ちょっとどんぶり 天津飯2P×5個
( ↑ 「て~んし~んど~ん(天津丼)」。  天津丼そのものはけっこう好きなんだけどもね。けっこう、おいしい・・けれども、ひとの名前を「きょうから、あんたの名前は天津丼(てんしんどん)」て、よくやってくれると思う。)
  さらに、「あんたの知っている人の家を一軒一軒訪ねてまわって、『きょうから私のことを天津丼(てんしんどん)と呼んでください』と言ってまわりなさい」と言うのだ。「まったく完全無欠なお名前をしておられるおとうさん」が。「高原先生がそうおっしゃってんねんでえ」と。 「て~んし~んどおお~ん♪」と( 一一)
豊臣秀吉は晩年、おかしかったのではないのかと言われたりもするらしいが、特に姉の子で養子にしていた関白 豊臣秀次が気に入らないと高野山に行って出家しろと命じて関白の位を剥奪しただけでなく、すでに高野山で「出家した」(もはや、僧であって武士ではない)という者に切腹を要求し、本人だけではなく側室から秀次の幼い子供に至るまで京都の三条河原で虐殺して穴に埋めて「逆賊」扱いしただけでなく、秀次が造営した城下町の近江八幡は城からすべて破却し、秀吉が造営したものだが秀次に使わせていた聚楽第も破壊した・・とそこまでやらなきゃ気がすまないのかという扱い、さらには秀次が強く希望して側室にすべく山形から京都にやってきたばかりで秀次とまだ会ったこともなかったという最上義光の娘で伊達政宗のイトコにあたったらしいまだ15歳の駒姫も虐殺・・、駒姫の母親もショックで死亡するに至ったとか、関ヶ原の戦いの時点においては最上義光は、もはや「滅びよ、豊臣」という意識で駒姫助命のために尽力してくれた家康のために上杉と戦うことになった・・て、秀吉てどうかしていたのではないのか、秀次がどんなに気に入らなかったとしても、秀次の側室というのは多くが戦国大名の娘を側室にしていたのであり、それもまとめて虐殺なんてしたならば、「おのれ、滅びよ、豊臣」とならないか・・て、ちょっとくらい考えたらどうなのか・・・てものだが、豊臣秀次という男と少しでも関係あったものはすべてこの世から消し去りたい・・という行為だったというが、うちの父親もまた、私の名前を「天津丼(て~んし~んどお~ん)」に「改名屈(かいめいくつ)」した上で、「これから私の名前を天津丼(てんしんどん)と呼んでください、と知ってる人の家を一軒一軒訪ねてまわって言ってまわりなさい、天津丼(てんしんどん)」と行って私のすべてを変えさせようとするというあたりは、まさに豊臣秀吉による秀次抹殺と似たものだった・・が、うちの父親というのは、そういうおっさんやったみたいだ。「わしは悪いという所はまったくない人間やね~ん。専門家で名医中の名医であらせられる女川先生がそう診断してくださってんねんでえ。北野高校の先生という普通よりもえらい先生である作野先生がそうおっしゃってんねんでえ。霊能者の高原先生がそうおっしゃってんねんでえ」ということで私の存在を抹殺して人格を作り変えたかったみたいだった・・( 一一) 「わしは絶対に変えたらいかんねん」「わしはすべてにおいて完璧超人の人間やねん」と言って。その「北野高校の先生という普通よりもえらい先生」だったらしい旧姓作野礼子先生だが、それから何年か後、大阪府の無名高校の教諭に転任になり、「北野高校の先生という普通よりもえらい先生」から「無名校の教諭」という「普通の先生」に格下げになった。
  さらに、その「金沢の拝み屋さん」からもらってきたという呪具をプラスチックの箱に入れて、「親孝行せえよお、親孝行せえよお、わしに親孝行せえよお、わしにわしにわしにい。わしに親孝行せんと、バチあたるぞバチあたるぞ、バチあたるぞあたるぞあたるぞ、まんまんまんまんまんまんま~あん! チーン♪ あーめん」と言って体はそのプラスチックの箱の方を向けて顔だけ私の方を向いて、日夜、御祈りなさるのだった( 一一) 「わしに親孝行背えよお、親孝行せえよお、親孝行せんとバチあたるぞバチあたるぞ、バチあたるぞあたるぞあたるぞ、まんまんまんまんまんま~あん♪」と呪いの儀式を毎日欠かさずなさるのだった。
 こちらも対抗して「悪霊退散」の護摩でも炊いてやるとよかったかもしれんが・・・。もしくは、朝日新聞出版から発行されている「本当にあった怖い話(本こわ)」に連載されている「実在する霊能者」寺尾玲子さんあてに「霊障相談」の手紙を出して、うちの父親がはまっている「霊能者」「拝み屋さん」に名前を天津丼(てんしんどん)に変えられて困っているのですが、と相談してみるとよかっただろうか・・・。

  叔父はうちのお姉さん2人が「神社の夜店の屋台でお人形さんを買ってもらった」とうちの父親が話していたのだったが、しかし、当人に「お人形さん、買ってもらったのでしょ」と言うと、2人とも「知らんわ、そんなん」と言うので、うちの父親が実際よりも大きい話にして話していたのかもしれない・・・が、考えようによっては、あのおっさんも、せっかく買ってやったのに、そのおっさんが他界する頃になって、買ってもらった方にきくと「知らんわ、そんなん」と言われるとは、考えようによっては「かわいそうなおっさん」やな・・て気がしないでもない。うちの父親に同調・協力した勝手な人間の1人として見るならば、「ええ気味や」てものだ。「少しは溜飲が下がる」てものだ。

  数学者で教育論者の遠山啓(ひらく)が『教育問答 かけがえのないこの自分』(太郎次郎社)で、父親とはどういうものか、として、父親とは息子を外敵から守ってくれる存在である。父親とは家族の中で最も「世間知」というものを持っている人間であって、息子に世間知を教えてくれる存在である、などと書いているのだが、最初に読んだ時は、世間の父親というものはそういうものなのかな・・と思ったりもしたが、結論として遠山啓の認識が間違っていると思うに至った。遠山啓は産まれた時点では父親は生きていて両親は離婚したわけでもなかったが、遠山啓が産まれた時点で父親は朝鮮にいて母親だけで日本で育てられたそうで、遠山啓が5歳の時にその父親が日本に帰ってきて一緒に暮らすことになったと聞いて喜んだら、その父親が日本に帰国する直前に病死してしまったそうで、産まれてから5歳まで父親は生きていたけれども会ったことがない、遠山啓が言う「父なし子」として育ったそうで、だからなのか、父親というものを実際より相当いいものに考えているように思える。
  まず、「息子を外敵から守ってくれる父親」というものも世の中のどこかにいるのかもしれないけれども、そうではない父親というものもいるのではないかと思うのだ。外敵を引っ張り込んでくる父親というものもいる。↑ に述べたように、うちの父親なんかは、医者屋とか拝み屋とかややこしいのを相当引っ張り込んできた。
  又、すべての父親が「世間知」というものを持っているわけではなく、そんなもの、持ち合わせていない父親というものもおり、息子が自分自身で人生を生きて痛い目にあって学んだ「世間知」というものを父親に一生懸命教えても理解しない父親というものもいる。
  遠山啓は父親なく育った人だったからか、私ならばよそのおとうさんで比較的いいお父さんを見て「いいなあ」と思っても、その人はよそのお父さんであってうちの父親はそういう人とは違うのだからしかたがない・・と考えるところを、遠山啓はよそのお父さんのうちで比較的いいお父さんを見て「父親とは」そういうものだと思い込んでしまったのではないか。
  それで、たとえ、困ったおっさんであっても、周りに変なのが寄ってこなければ害は少ないのだが、ところが、「困ったおっさん」にはややこしいのが寄ってくるのだ。↑ に述べた医者屋で新興宗教女川教の教祖の女川とか、金沢の拝み屋さんの「高原先生」とか、そして、北野高校の2年の時の担任だった「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」というのが「売り」の旧制作野礼子とか、そして、うちの母親の弟(叔父)でラグビー屋のO本M夫とか。ほかにもいたし、いなければ捜して集めてくるからいなくても出てくるが、この4人が特に「悪の枢軸」だった。中でも母親の弟のO本M夫の場合、良くないのは自分の立場をわきまえていない、という点だ。うちの父親とこの叔父とは仲が良かったのだが、なぜ仲が良かったかというと共通してアホな点があったからだが、そのあたりについて自覚がない(「精神医学」用語で表現すると「病識がない」)人で、「姉の夫」というのはあくまでも姉を通じての関係なのだ、ということを十分に認識できていない、という点で問題があった。うちの父親もまた、妻の親戚関係の人というのは妻を通じての関係であり、妻をとばして自分が関係を持っていいかどうかはその時々によって異なってくるのであり、妻に無断で妻の親戚の人間と親しくつきあうのは控えた方がいいということを理解できない男だったのだ。
   妻の親戚というのはあくまでも妻を通じての関係の人間であるということを理解できない男、姉の夫というのはあくまでも姉を通じての関係であるということを理解できない男というのは、いずれも困った存在であり、うちの母もうちの父親が母の親戚や母の親戚を通じての知り合いにうちの父親が母に無断で何かを頼んだり余計なことを話したりするのを嫌がっていたのだが、妻が嫌がっていてもそれを理解しないのがうちの父親であり、息子が指摘しても理解しない父親だったのだ。
  父親というものは家族の中で最も世間知というものを持つ存在だとか、父親というものは息子を外敵から守ってくれる存在だとかいう遠山啓の発言は寝言でしかない。寝言は寝てから言ってもらいたいものだ。
  日本の学校は大学が「すごろくのあがり」みたいになってしまっているみたいな面があるかもしれないが、しかし、その人の人格形成においては大学よりも小学校から高校までの方が影響は大きいのではないかと思う。(だから、慶應の内部進学の教授は「外部の者」が嫌いなのだ。)うちの母方の叔父てのは、あのラグビー屋のおっさん、なんであんなにアホなのか・・と思うが、桃山学院高校というのはあんまりいい教育していなかったのか・・・、それとも、それより前の方に原因があるのか。それとも、やっぱり、ラグビーやるとアホになるのか・・・。

  あのラグビー屋のおっさんの「いいところ」として、うちの父親のように「4000円したってこうたるがな。何をわけのわからん心配しとんねん。ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな」と子供に行ってプラモデル屋に行き、プラモデル屋で子供が話していたその金額をきくと「ふええ~え。ぎょええ~え。ひいいえええ~え」とやる・・といううちの父親が私にやったようなこと、うちの下の姉もほぼ同じことをされたということ、ラグビー屋のおっさんはそういうことは自分の息子や娘にやりよれへんらしい・・、しかし、だから、それを、えらいねえ~え、いいお父さんやねえ~え・・・とほめるべきことか・・というと、「4000円したってこうたるがな。何をわけのわからん心配しとんねん。ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな」と子供に行ってプラモデル屋に行き、プラモデル屋で子供が話していたその金額をきくと「ふええ~え。ぎょええ~え。ひいいえええ~え」とやる・・なんて、そんなもん、普通はせんぞ、そんなもん。そんなもん、やらん方が「普通」であってやる方がおかしい。やらないからといって「えらいねえ」「いいおとうさんやねえ」とかほめるもんでもないと思うな・・・。
  そういうことをやる人のことを北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子さんは「あんなものすごいいいお父さんはなかなかないわよ」「あんなすばらしいお父さんがいたら、私だったらものすごいうれしいわよ」「あんなすばらしいお父さんがいるのに、それをすばらしいと思えないのは、あなたが甘ったれているからであって、あなたが思いあがっているからであって、あなたに素直さがないからであって、あなたの思考が硬いからであって、あなたの心がけが悪いからよ」とおっしゃるようだったが、旧姓作野礼子さんの特徴としては「4000円したってこうたるがな。何をわけのわからん心配しとんねん。ほかでもないこのわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな」と言われてプラモデル屋まで行った上で「ふううえええ~え」「ひいいえええ~え」「ぎょおおえええ~え」とやられる・・というそういう経験を自分自身ではすることなく、そういうことをやっているおっさんを「あんなすばらしいお父さんはなかなかないわよ」「私だったら、あんなすばらしいお父さんがいたらものすごくうれしいわよ」「あなたがそういうお父さんをすばらしいと思えないというのは、あなたが甘ったれているからであって、あなたに素直さがないからであって、あなたがつけあがっているからであって、あなたの思考が硬いからよ。私は両親が離婚したんだからねえ」と言いまくることで「ふええ~え。ぎょええ~え。ひいいえええ~え」のおっさんから「ええ先生やでえ、あの人はあ。ものごっつい立派な先生やでえ、作野先生はあ」と言ってもらう・・という極めて卑怯な女症候群の重症患者だったという点だ。「ふううえええ~え」「ぎょおおえええ~え」「ひいいえええ~え」とされたらうれしいのなら、旧姓作野礼子さんはぜひとも体験してもらいたいものだ。
  うちの母方の叔父のラグビー屋のおっさんと北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子との共通点として、おのれの立場をわきまえていないという点がある。母の弟(叔父)のラグビー屋のおっさんは、あくまでもうちの母の弟であって、うちの父親とは「姉の夫」として関わっていた立場のはずなのだ。そうであるからには、姉を飛ばしてその夫と勝手なつきあいをしてはならないはずなのだ。同様に、高校の教諭というのは基本的には生徒との関係であり、卒業生と卒業後もつきあいがあって悪いことはないし、卒業生の親とも「家族ぐるみ」でつきあいがあっても悪いということはないであろうけれども、しかし、旧姓作野礼子さんの場合は生徒が卒業後にその卒業生を飛ばして卒業生が知らない間にその親とつきあっていたのであり、それも卒業生がその教諭を嫌がっているにもかかわらず、ストーカーのごとく嫌がっている卒業生の親と執拗につきあっていたのであり、それは立場としてやるべきではないことをやっていた、と考えるべきもののはずだ。実際のところ、あのバカ女症候群に私が北野高校を卒業して何年も経つのに私が知らない間にうちの親と連絡とって関わっていたという点において、私は迷惑していたのであり、あのストーカー女、許しがたいと思っている。

  ちびすけ2人がほしいと言うから、高校生の男にとっては買うのが恥ずかしいものでも、それでも頑張って買ってやった・・というあたりの話を聞くと、あのおっさんもいいところがあるじゃないか・・とも思えたのだが、「あのおっさんのことだから、そんないいものじゃないだろ」と考えるべきだったのかもしれない。
  うちの母方のイトコは、私より10歳程度年上のグループが5人いてすべて女、私と同じくらい及び少し下の年齢のグループが6人いて、それは5人が男で1人だけ女で、母のすぐ下の叔母の下の方の娘のTちゃんはその中間くらいの年齢だった。男は私のほかは、母の下の方の妹の息子2人とラグビー屋のおっさんの息子2人だったが、「あの子と関わると、みんな、ラグビーにしてしまいよる」とうちの母が言ってその点については嫌がっていたように、ラグビー屋のおっさんは親戚の息子(甥っ子)と関わると、たぶん、本人は悪気ではなかったのではないのかと思うのだが、必ず「ラグビー」にしてしまいよるのだった。この場合、「ラグビー」とは北野高校とか天王寺高校とかに進学して「文武両道」やって高校3年間、ラグビーやって体格もラグビー選手みたいな体格になった上で京大医学部とか東大理科一類とか文科一類とかに現役で合格させる・・・とかいう意味ではなくて「ラグビーはやるけど、勉強はちっともやりよれへん」という人間にしてしまいよる・・という意味で、だから、うちの母親は嫌がっていたのだ。松山ではこれから大学に進学する年代の息子がいる家庭では「正岡子規とつきあわせてはいかん」と言ったとかいうのと同様・・というのか、それ以上に、うちの母親は「ラグビーばっかりやって、ちっとも勉強しよれへん」という弟と息子をつきあわせるのを嫌がっていたのだった・・・が、ラグビー屋のおっさんの方でも、どうも、自分が避けられているみたいと気づいたようで、どうも、おもしろくない・・と思うようになったみたいだった・・けれども、やっぱり、普通は「つきあわせたくない」と親が思ったとしても不思議はないと思うぞ。ラグビーやって悪いとは言わんが、「アタマがラグビーでできてる」おっさんて、なんか「あんなになったらいややなあ・・」と私が親でも思うなあ・・・( 一一) 『シェイプアップ乱』に登場する「走るため””だけ””に生まれてきた女、カール=ルイ子」さんも、「走るために生まれてきた女」だったらまだいいのだが、「走るため””だけ””に生まれてきた女」てのは・・・( 一一)
イトコのTちゃんは年齢が近かったこともあって子供の頃、かわいがってくれたのだが、同年代の方のイトコの中で私が一番、勉強はできたので、いつか、きっと、えらい人になってTちゃんが困っていることがあった時には役に立ってあげようと思ったりしたこともあったが、何にもなれなかった。Tちゃんの母である叔母が亡くなった時、お葬式に行きたかったのだけれども、叔母が亡くなったこととお葬式を知った時にはすでにお葬式は終わっていた。「なんで、教えてくれなかったの」と母に言うと、「あんた、教えたら行くやろ。あんたは教えたら葬式に行く人間やから、そやから教えんかったんや」と言うのだった。「教えても行かない人間」になら教えてもしかたがないから教えないというのはわかるが、「教えたら行く人間」になんで教えてくれなかったのかと思ったが、うちの母は伯父の葬式の時も葬式が終わった後になってから言うし、祖母が亡くなる前にも「一度、私が行ってみようか」と言っても「行かんでええ」などと言うので亡くなる前に祖母に会うことができなかった。うちの母親というのは、なんで、ああいうことを言うのか・・と思ったが、そんなところがあった。Tちゃんは女2人の兄弟だったから、母親(私の叔母)がなくなった時、男の兄弟はいなかったわけで、せめて、弟のかわりの役をしてあげたかったが、できなかった。女性でもしっかりしている人はいるかもしれないが、冠婚葬祭の時になると男性の親戚がいるかどうかは関係するし、だんながいたとしても冠婚葬祭の時にはだんなは結婚相手の方の家の人間であり、自分の側の親族の男性が出席しているかどうかで、うちのお姉さんは「弟なんか要らなかった。お兄ちゃんがほしかった」と2人そろって言いまくっていたが、弟がいるのといないのとでは冠婚葬祭の時に立場が違うと思うのだ。Tちゃんには男の兄弟がなかったから、せめて、イトコの私が弟のかわりの役としてでもお葬式には出てあげたかった、女性の兄弟しかいないというのと、「そこにいる」だけでも男性の親族がいるというのとでは違うと思うのだ。だから、せめて、叔母のお葬式には出てあげたかったのだが、お葬式を知った時にはすでに終わっていた。ラグビー屋のおっさんは、そういった冠婚葬祭、特にお葬式があると「出てくれる人」「来てくれる人」だったのだが、私は子供の頃、この人はそういう時に「とりあえず、来てくれる人」だと思って感謝していたし、それは暇だから来るのではなくて、行くべきだと思って都合をつけて来てくれていたと思ったのだったが、そのうち、「おまえは来るな」と思うようになった。そういう人だったことに気づいた。危篤の時もお葬式の時も「アタマはラグビー」の人は、来ないでくれ・・と思うようになった。そんなこと言わないでと言う人がいるかもしれないが、そう思うようになった者が悪いのではなくて、思われる人間の方に責任がある。Tちゃんの母である私の叔母はラグビー屋のおっさんの姉でもあったから、おそらく、ラグビー屋のおっさんもお葬式には出たのではないかと思うが、あのおっさんでは「親戚の男性で来ている人がいた」という役は果たせないだろう。来るなとまでは言わないとしても、「あの人は来てもらっても・・・」というようなものだったのではないか・・と推測された。ボクシングをやってあまりにも相手のパンチを受けると「パンチドランカー症状」になってしまうことがあると言われ、モハメド=アリも晩年はパーキンソン症状に苦しんだらしく、プロレスラーの大木金太郎は「原爆頭突き」という頭突きを得意技にしたが、その結果なのか晩年は身体に症状が出たとかインターネット上に出ていた。「サッカーをするとアホになる」から子供にサッカーさせない方がいいという説があって、「野球は頭でやるもんや」と野村じいさんも言うておったように野球の場合はけっこう考えて動くところがあるのに対して、サッカーはそれほど落ち着いて考えることなく本能的に体を動かすことが多いので、瞬時に体を動かす敏捷さは身についても逆にじっくりと考えずに本能的に動くようなそんな「脳」になってしまうのか・・と思ったが、「サッカーやるとアホになる」説はそちらの方の話ではなくて、まだ、頭蓋骨や大脳が定着していない少年の頃からヘディングを頻繁にやると頭に衝撃が加わって、あまり良くない影響が頭に出るのではないか、だから、ある程度の年齢になるまではヘディングはあまりやらない方がいいという説があるらしい。そういうこともあるかもしれないが、うちの叔父のラグビー屋のおっさんを見ると「ラグビーやるとアホになる」のとちゃうか・・て感じがして、子供にはラグビーさせたくないなあ・・て気持ちになってくる・・が、あれはラグビーが原因なのか、ラグビーは関係ないのか、どっちかようわからんが、やっぱり「ラグビーやるとアホになる」のと違うか・・て感じがやっぱりする。北野高校とかではラグビー部に3年までいて3年の11月までラグビーやった上で京大医学部に現役で通ったとか、東大の理科一類に現役で通ったとか文科一類に現役で通ったとかいった人がいたけれども、大学入試についてはそうやって「文武両道」やった人もいたのだろうけれども、それでもやっぱり、「ラグビーやると(人間的に)アホになる」のと違うのか・・・と、ラグビー屋のおっさんを見ると思えてしかたがない。
医界、腐蝕の構図 (1984年) - 保阪 正康
医界、腐蝕の構図 (1984年) - 保阪 正康
  (2024.7.22.) 

☆ 日本キリスト教団 南大阪教会 とその付近・界隈
1.寺西家長屋(大阪市)・昭和町駅付近、アルバイト漬けにされてもモラトリアム人間病で小此木啓吾やアルバイトなんか何もしない大学生はモラトリアム人間病ではないのは月5万円酒代使う男がアル中で10万円酒代使う男がアル中でないのと似ているhttps://philoarchi2212.seesaa.net/article/503680045.html
2.日本基督教団南大阪教会(大阪市阿倍野区)・村野藤吾設計の塔屋・さっちゃんの歌の碑。「東大に行ったら思いあがった人間になって女を泣かす」か「慶應に行ったら女たらしに『教育』されて悪影響うける」か https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503752327.html
3.文の里商店街と桃山学院高校・明浄学院高校。真夏に北野田駅から桃山学院大学まで歩いた思い出。「男の子は何でもさせてもらえてええなあ」なんて絶対嘘だ https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503810290.html
4.桃山学院高校が嫌いな理由[1]必殺「水戸黄門の印籠」男 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503932251.html
5.桃山学院高校が嫌いな理由[2]ラグビーのため「だけ」に生まれてきた男。おのれの立場を認識できない男〔今回〕
6.桃山学院高校が嫌いな理由[3]お葬式があると必ず何かやる男。うちはあんたに今後絶対に何か頼むことはないと言ってすぐ後で息子の結婚式に出てくれと頼む男 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/504126690.html 
7.桃山学院高校が嫌いな理由[4]嫌いな甥の悪口言うために関係ない高校をけなす男 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/504156267.html 
8.

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック