文の里商店街と桃山学院高校・明浄学院高校(大阪市阿倍野区)。真夏に北野田駅から桃山学院大学まで歩いた思い出。「男の子は何でもさせてもらえてええなあ」なんて絶対嘘だ。ワカサギは鳥ではない、北野田は野田阪神の北側ではない――南大阪教会とその付近界隈【3/ 】
[第698回]
大阪市阿倍野区阪南町の日本キリスト教団南大阪教会 の東側の南北の通りの少し東に「あびこ筋」というクルマが通る広い通り、地下を大阪メトロ御堂筋線が走っている通りがあります。
※ 日本キリスト教団南大阪教会HP https://www.mochurch.net/
ウィキペディアー日本基督教団南大阪教会 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%9B%A3%E5%8D%97%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%95%99%E4%BC%9A
「あびこ筋」という大阪メトロ御堂筋線が地下を走っている南北の通りの西側が阿倍野区阪南町で、日本キリスト教団南大阪教会は「あびこ筋」の西側の阪南町にありますが、「あびこ筋」の東側は駅名にもなっている昭和町、「ウルトラマンの住んでる所は?」「ショワッチョ(昭和町)」の昭和町です。「あびこ筋」の少し東側に「文の里(ふみのさと)商店街」という南北の通りの昔ながらの商店街があります。 住居表示としては阿倍野区昭和町の北側に阿倍野区文の里 があるのですが、文の里商店街は阿倍野区昭和町に南北にあります。
南北の文の里商店街を一番北まで行くと東側に東西の商店街が少しだけあり、そこを東に行くと、阪神高速道路 松原線が北西から南東に高架で走っています。この北西から南東への通りはかつては南海平野線という路面電車が走っていた所ですが、今は南海平野線は廃線になり、かわりに大阪メトロ谷町線が地下を走っており、「あびこ筋」のすぐ東のあたりに「文の里(ふみのさと)」駅があるようです。南東に行くと「田辺」「駒川中野」「平野」「喜連瓜破(きれ うりわり)」・・・北西に行くと「阿倍野」「天王寺」・・と行き、かつての南海平野線は「天王寺」まででしたが今では谷町線で「谷町九丁目」で千日前線と、「谷町九丁目」~「大阪上本町」で近鉄奈良線・大阪線と、「谷町六丁目」で長堀鶴見緑地線と、「谷町四丁目」で中央線と、「天満橋」で京阪本線と、「南森町(みなみもりまち)」で堺筋線と、「南森町」~「大阪天満宮」でJR東西線と乗り換えができて、「東梅田」まで行くことができるけっこう便利な駅になりました。
大阪メトロ谷町線(旧 大阪市地下鉄2号線)は「四天王寺前」「谷町九丁目」「谷町四丁目」と、四とか九とか病院の病室名なら避けられるような名前の駅が続いているのですが、どっちが四でどっちが九だっけ? とそこがわかりにくいところですが、南から「四天王寺前夕陽丘」の後は、「くろうしてんな(谷町九丁目・谷町六丁目・谷町四丁目・天満橋・南森町)」と覚えるとわかりやすい。人生、なかなか大変でんなあ・・・・。
大阪メトロ谷町線「谷町九丁目」と近鉄「大阪上本町」駅は東西の千日前通り(せんにちまえどおり)にあってすぐ近くだけれども、大阪メトロ谷町線は南北の谷町筋(四天王寺の西側の筋)(市道大阪和泉泉南線)の地下を走っていて、近鉄は南北の上町筋(うえまちすじ)(四天王寺の東側の筋)(市道赤川天王寺線)の上本町に駅があり、現在は「大阪上本町」駅となった近鉄の駅はかつては「上本町」か「上本町六丁目」「上六(うえろく)」と言っていたので、上町筋のすぐ西側の谷町筋に駅がある大阪メトロ谷町線の駅も「谷町六丁目」かと思いそうだがこちらは「谷町九丁目」で「谷町六丁目」はひとつ北側の駅で長堀通り(ながほりどおり)にある・・というのがややこしい。さらに、上町筋を「市道赤川天王寺線」と地図帳には書いてあるのだが、天王寺はわかるが赤川てどこやねん・・と思って地図で北に追跡していくと、大阪市旭区と都島区の境目付近の旭区に旭区赤川1~4丁目があり、市道赤川天王寺線を北に行くと「赤川3丁目」交差点までたどりつくようだ。
阪神高速道路 松原線の下をくぐって東に行くと、まだもう少し東西の商店街が続きます。そこを東に出てすぐの所の北側に、明浄学院高校という高校があり、阪神高速道路松原線より東側の商店街はその高校の名前をつけて「文の里 明浄通商店街」と名づけられているようです。↓
( 東側から見たもの。)
明浄学院高校とは《 1921年2月に日蓮降誕700周年事業として、大阪市内の日蓮宗寺院団によって5年制高等女学校の設置が計画された。準備を経て、1921年4月に明浄高等女学校として設置された。》《 学制改革に伴い、1947年に新制明浄学院中学校、1948年に明浄学院高等学校に改編されている。中学校は1968年に募集停止となり、書類上はしばらく休校状態が続いていたが2004年に正式に廃止されている。》《 2024年4月1日に姉妹校の藍野高等学校と統合し、同時に共学となった。》(ウィキペディアー明浄学院高校https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B5%84%E5%AD%A6%E9%99%A2%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1#%E5%A4%96%E9%83%A8%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF )というもので、かつては女子校だったが今は共学らしい。
文の里商店街を南に進むと、クルマがけっこう通る「松虫通」という東西の広い通りに出ます。これを横断して南側にも文の里商店街は少し続きます。松虫通の南側の文の里商店街を南側、商店街がなくなる地点まで行くと、その南の方に学校らしきものが見えます・・が、それが桃山学院高校・桃山学院中学校で、大阪府の私立高校では私が最も嫌いな高校です。
桃山学院は大阪市阿倍野区に中学校と高校があるようですが、「大阪のとう大」とか「ピンク大学」「ピン大」(桃大)とか言われる桃山学院大学はどこにあるのか、桃山学院大学も阿倍野区昭和町にあるのかと思っていたらそうではなくて、1970年代の終わり、浪人中、堺市東区の南海高野線「北野田」駅から南南西の方に歩いていった先に桃山学院大学はあって、そこに駿台予備校が主催していた東大模試を受けに行きましたが、桃山学院というと阿倍野区昭和町かと思うと堺市と富田林市の境目付近の堺市、南海高野線の駅からけっこう歩いた先で、「北野田(きたのだ)」と言うからには阪神本線「野田」・大阪メトロ千日前線「野田阪神」駅の北側か、それともJR大阪環状線「野田」駅の北側かと思いきや、全然違う、南海高野線の「初芝」よりもまだ南・・、しかも、その南海高野線「北野田」駅からけっこう距離があって、「北野田」駅から夏の暑い中をせっせと歩いて行きました。 よく頑張ったなあ・・と思います。通った者は大変な思いをしてもその報いを得ることができたわけですが、通った者と比べても劣らないだけの努力をして労力を払ったにもかかわらず報いられなかったことに対して、過去の自分は今の自分ではなくて今の自分の弟のようなものだとするならば、「本当によく頑張ったなあ」とねぎらってあげたいように思います。
今、振り返って考えてみると、うちの親、特に父親は「息子の努力・労力はタダや」と思っていたようだ。そう考えていたとしか思えない。そういう人やった・・・。うちの父親には、(息子が)いくらなんでも「あれだけやったのだから」という発想・思考は完全に欠落していた。
もう、試験を受けに行くこともなくなった今、かつて、一生懸命、「北野田」駅から歩いて行った桃山学院大学に一度行ってみたいと思って地図を広げてみると・・⇒ない! 堺市東区の南海高野線「北野田」駅の南南西のあたりに桃山学院大学は・・⇒ないのだ!!!
どないなってんねん・・・と思ってインターネットで検索すると、「フェイスブック 桃山学院資料室」https://www.facebook.com/100057531247556/posts/1950738358488895/ なるものが見つかりました。それによると、桃山学院大学は今もあるけれども、南海高野線「北野田」駅から南南西のあたりに歩いて行った先にあった桃山学院大学のキャンパスは今はなくなり、その場所は はつしば学園小学校・初芝立命館中学校・初芝立命館高校 になっているようです。
この付近にはかつては「登美丘(とみおか)」という地名があったけれども今は住居表示としては「登美丘」はなくなってしまったようですが、府立登美丘高校が堺市東区西野にあるようです。 登美丘高校というと・・、最近、全国的に有名になった「バブリーダンス」で有名なダンス部の高校(^O^) 登美丘はけっこう耳にする地名でしたが、最寄駅は南海高野線「北野田」駅だったんですね。
「わかさぎ」というと「若鳥(わかどり)」が鳥であるのと同じく、「若い鷺(さぎ)」で鳥だろう・・・と思っていたら、1980年代前半、河口湖のあたりに行った時に食事をしようとしたところ、そこに「わかさぎ定食」というのがあって、「わかさぎ」は鳥ではなくて魚だったんだ! てことを知ったのだが、1970年代終わりの8月、駿台予備校が実施した東大模試の試験会場が堺市の南海高野線「北野田」駅から南に歩いた先にあった桃山学院大学のキャンパスでおこなわれたことから、「わかさぎ」は鳥ではなくて魚だというのと同じく「北野田」は大阪市福島区の阪神「野田」駅の北側とかJR大阪環状線「野田」駅の北側とかではなくて堺市でも富田林市に近いあたりの堺市で南海高野線の沿線なんだと知った。駅からずいぶんと遠かった。夏の暑いさかり、えんえんと駅から歩いて行った。本当によく頑張ったと思う。私が父親だったら、あれだけ努力することのできる息子がいたら絶対にものにしてやるところだが、私の父親は今の私みたいな人間ではなかった。「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに。すべてをすべてをわしのために。戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元、とってちってたあ~あ!」ばっかり言ってる男だった。そして、「わし、これまで、あんたに『わしに孝行せえよ』なんてことは、たったの一回として言うたことないやろ。いくらなんでも、そのくらいのことはわかってもらわんといかん」などと言う男だった。あんた、今、言うたやろうが。あんた、さっきから言いまくっておるやろうが、あんた、毎日毎日、毎年毎年、言いまくってきたやろうが・・・ということを「一回として口にしたことないはずや。いくいらなんでも、そのくらいのことはわかってもらわんといかん。わからんくわあ~あ!!!」と言う人だった。
「本当によく頑張ったなあ」と思いますし、過去の自分というものは今の自分と同じではなくて弟のような存在だとするならば、「本当によく頑張ったなあ」と心からねぎらってあげたいと思います。・・で、試験を受けに行った際に泊ったホテルの部屋で何気なしにつけたテレビに ↓ なんてのが流れていたりしてね・・・・
※ YouTube-GODIEGO / ガンダーラ // ゴダイゴ / Gandhara https://www.youtube.com/watch?v=mC0DxoVStGw
ウィキペディアー桃山学院大学 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%B1%B1%E5%AD%A6%E9%99%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6 によると、《 桃山学院大学(ももやまがくいんだいがく、英語: Momoyama Gakuin University/St. Andrew's University)は、大阪府和泉市まなび野1-1に本部を置く日本の私立大学 》で《日本聖公会系のキリスト教主義学校(ミッションスクール)》、《 桃山学院大学は、1959年にプロテスタント日本宣教100周年を記念して開学された。開学当初は経済学部の単科大学として大阪市阿倍野区昭和町に構えていた。》、《 1966年(昭和41年)に社会学部を設置し、1971年に登美丘学舎と移転統合した。その後、1973年の経営学部設置を皮切りに2学部1学科・大学院2研究科を増設し、1995年にキャンパスを大阪府和泉市に移設した。》《 2025年、桃山学院教育大学(旧・プール学院大学)と桃山学院大学が統合し、桃山学院大学傘下に旧・桃山学院教育大学人間教育学部を移行・設置する》そうだ。俗に「大阪のとう大」と言われるが「東京大学大阪分校」ではないらしい。
ウィキペディアー桃山学院中学校・高等学校https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%B1%B1%E5%AD%A6%E9%99%A2%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1 によると《 学校法人桃山学院によって運営されている日本聖公会系のキリスト教主義学校(ミッション・スクール)》だそうだ。 まあ、おもろいキリスト教もあったもんだ( 一一)
地図を見ると桃山学院中学校・高校の南西側に聖アンデレ教会という教会があるのが書かれているが、大阪聖アンデレ教会HP https://st-andrew-osaka.com/ を見ると、桃山学院と同じ聖公会の教会らしい。アンデレ・ザ・ジャイアントパンダとは関係ないみたいだ。
※ アンデレ・ザジャイアント・パンダ⇒ YouTube-アンドレザ・ジャイアントパンダ VS ハルク豊満 新根室プロレス https://www.youtube.com/watch?v=_2wd6fRM8QI
桃山学院高校は略称として「桃高(ももこう)」と言うが、「ピン高(ぴんこう)」〔←ピンク(桃)高 〕とも言う。 「桃高(ももこう)」は単なる略称だが、「ピン高」は少々バカにしたニュアンスがある。愛称ではないと思う、たぶん。我が家ではうちの母親の弟(私からすると叔父)が桃高(ももこう)に行っていたので、あいつの出身校かと思うと、程度の低い高校なんだな・・という印象を受けて、「ぴん高」と言いたくなる。
ついでに、プール学院というのは、1960年代後半くらい、うちのお姉さんが高校に進学する頃は女子校だったが、「プールがない」という特徴があったみたいだった〔今もないかどうかは知らん。今はあるのかもしれん。〕。「プールがない」のにプール学院とはこれいかに? ・・・て感じだが、ウィキペディアー学校法人プール学院https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%B3%95%E4%BA%BA%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%AD%A6%E9%99%A2 を見ると《 学校名は、イギリスから大阪に最初に派遣されたイギリス人主教アーサー・ウィリアム・プールに因む。英国聖公会から派遣された宣教師によって開かれたミッションスクールである。一般社団法人キリスト教学校教育同盟の加盟法人である。》と出ており、プール学院の「プール」は泳ぐプールではなくて人の名前だったみたい。
8月に堺市の南海高野線「北野田(きたのだ)」駅から南に歩いていった先にあった桃山学院大学の登美丘学舎 に駿台予備校が実施していた東大模試を受けに行った際、大阪府では駿台予備校が実施した東大模試は大阪府北部で1か所と南部で1か所おこなわれていて、桃山学院大学の登美丘学舎は南部の方で、もう1か所、北部でも実施されていた。駿台予備校の東大模試は書店で申し込みができて、うちの父親が申し込んでくると言って、たしか大阪梅田の紀伊国屋書店で申し込んできたのだったが、うちは大阪府北部に住んでいたのに、大阪府北部にも試験会場があったのになんでわざわざ大阪府南部の会場を申し込んできたのかいうと、おっさんは「桃山学院」と書いてあるのを見て阿倍野区昭和町だと思い込んだらしかった。阿倍野区昭和町の桃山学院の敷地はそんなに無茶苦茶広いわけではなく、高校と中学校だけでいっぱいではないかと思われたので、大学は別の場所ということは十分考えられたと思うのだが、そういうことを考えずに勝手に決めつけて申し込んでくるおっさんやった。
私立の学校で高校と大学が同じ場所にある学校もあれば別の場所にある学校もあるわけで、桃山学院高校が大阪市阿倍野区昭和町にあったからといって桃山学院大学も阿倍野区昭和町にあるとは決まっていないはずで、申し込む際に場所の住所を確認して申し込むくらいするのは当然だと思ったがそれをしないのがうちの父親だった。「わしは会社っちゅう所ではわしいほどエライえらいエライえらい人間はないねんでええ~え」と言っていたが、そんなにおえらいのならば、申し込む時点でその「桃山学院大学」という会場は住所はどこなのか、最寄駅は何線の何駅なのか確認するくらいのことはするべきで、又、大阪府にほかに試験会場はないのか、他にも試験会場があるなら他の試験会場とどちらが近いのか確認するくらいのことはするべきではないのか、会社員ならそのくらいのことはするものと違うのか・・と思ったが、それをしないのが「会社ちゅう所では特別に特別にえらいエライえらい人」というものだった。だから、私はその「会社っちゅう所」には勤めたくなかった。大学院に進んで研究者になって「大学」という所に勤めるか、高校の教諭の資格を取得して「高校」「学校」という所に勤めるか、司法試験に合格して裁判官になって「裁判所」という所に勤めるか弁護士になって「法律事務所」という所に勤めるか、労働基準監督官の試験に通って労働基準監督官として「労働基準監督署」という所に勤めるか、ともかく「会社」でない所に勤めたいとずうっと思ってきたのだったが、ところが、うちの父親は「会社ちゅう所に勤めるを嫌がる人間は『モラトリアム人間(病)』という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえらいエライえら~いという先生がそうおっしゃってる」と言うのだった。「うちは大学院になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは学校の先生になんかならすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは司法試験なんか受け指すような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」とおっしゃるのだった。又、「学校の先生は全員、アカです。アカの仕事についてはいけません。甘ったれなさんな」とおっしゃるのだった。うちの母親から「親というものは、息子が大学に行く時に行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってやりたい勉強をやってつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と言われて、そんな与太話を本気にしてしまって小学校の1年から同級生が遊んでいる時もひたすら勉強してきて、結局、努力の果実は「すべてをすべてをわしのために」「すべてをすべてをわしのために」「おやおやコッコこ、おやコッコこ♪」「戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元」のために奪い取られた、「全部まとめてドブ中にどぼ~んと捨てさせられた」。
8月の暑い暑い時に、大阪府の北部の住人なのに、わざわざ、南海高野線に「難波(なんば)」から乗って「北野田」まで行って、「北野田」からけっこう遠かったがそれを暑い中、せっせと歩いて試験会場まで行った。10代・20代の頃の私のようなあんなものすごい努力をすることができる息子がいたら、私が親なら絶対にものにさせてやるところだが、うちの父親は大阪府北部に住んでいるのに、わざわざ大阪府南部の試験会場を申し込んでくるという、すべてがその調子のおっさんやった( 一一)
子どもの頃から、「男の子はええなあ。女はやりたいこともやらせてもらわれへんからなあ」と、私はうちの姉2人からずうっと言われてきた。そう言われるからにはそうかいなあ・・とかつては思っていたが、それは絶対に違うと思う。 うちの両親は日本キリスト教団南大阪教会で結婚式をあげて、その後、大阪市阿倍野区などに住んできたらしい。「らしい」というのはその時点では私はまだ生まれていなかったからだ。その後、JR阪和線を隔てて南大阪教会とは逆側の大阪市東住吉区に転居してから私は産まれた。
私は小学校の1年から大阪メトロ御堂筋線「西田辺」駅の近くにあったヤマハの店の2階でおこなわれていたオルガンを中心とする「ヤマハの音楽教室」に週に1回通わされた。最初、特別よく考えもせずに「そんなもの」かみたいに思って通ったが、ある日、毎日、練習していたオルガンを「オルガンをもらいにきましたあ」と言って持ち去った人たちがいて、「なんで、オルガンを持っていくのお? そのオルガン、ぼくが毎日、練習してるオルガンやでえ。なんで、ぼくが毎日練習してるオルガンを持っていくのお」と哀願したが、やってきた大人の男たちは子供の言うことなんかには耳を貸さず有無を言わさず無視して私が毎日練習に使っていたオルガンを軽トラックに積み込んで持ち去ってしまった。
1980年代、日本キリスト教団箕面教会(大阪府箕面市)の牧師だったS田さん(男。「大阪経大卒」と本人は言っていたようだが、「大阪経大卒」で牧師になることはできないはずで、大阪経大を卒業した後、トーシンダイ(東京神学大学)に行って牧師になられたらしい。「私は家が貧乏だった」と言いまくられるのだったが、「家が貧乏だった」にしては私立大学を2つも行った人だった。「家が貧乏だったから、本当は慶應に行きたかったけれども大阪経大に行った」とおっしゃる方だったが、日本育英会奨学金という制度があり、「家が貧乏だった」けれども「慶應大に行きたかった」のなら日本育英会奨学金で支給してもらえるのは「学費分」だったからそれを支給してもらって慶應大に行けば良さそうなものだったが行かずに「家が貧乏だったから大阪経大に行った」と言いまくる人だった。)が「私は子供の頃、家が貧乏で借金取りに追われていた。借金取りに追われるということほど大変な経験はない。こういう経験をした人間は何だってできる」と御自慢なさる方でそれが「牧師説教」だったのだが、そういう「牧師説教」を聞いて「この人はえらい人やあ」とカリスマ性を感じて、その後もその人の話を聞きたいという気持ちになる「信者」もいるのかもしれないが、私なんかは「ちょっと違う」ように感じた。 な~んかちょっと違うように感じたのは「借金取りに追われることほど大変な経験はない」と毎度毎度言われるのならば、せめて百回に一回でも「本来、払ってもらわないいけないもの払ってもらえずに逃げられた者の大変さ」というものも言ってみてはどうなのか、「払うべきものを払わずに逃げている人の大変さ」ばかり言いまくるのは片手落ちではないのか・・という点、そして、なんか「借金取りに追われていた」人間以外は何の苦労もしてきていないみたいな言い方だが、我が家は特別の金持ちとかではなかったが特に「借金取りに追われていた」ということでもなかったけれども、「借金取りに追われていた」わけではないけれども、子供が毎日、それで練習していたオルガンを取り上げに来て、子供が「なんで持っていくのお」と持っていかないでと哀願しているのに有無を言わさず持っていかれてしまう・・・という経験はしてきているのだ・・が、「借金取りに追われていた」わけではない家庭の息子はそういう経験なんかしてないだろうと勝手に決めつけたような態度・・・というのは、「牧師てそんなもんかなあ」と考えるべきなのかどうなのか・・・
後から母親に聞いた話では母親もいきさつを聞いていなかったらしく、又、オルガンを持ち去るために来た人がどういう人なのかもよく聞いていなかったらしい。うちの父親は時々そういうことをするらしい。うちの父親がどこかの喫茶店か何かで出会った人が「オルガンがあったらええねんけどな」「オルガンがあったらうちの子にオルガンを習わせるんやけどなあ」とか言ったか何かみたいで、それでうちの父親は「それやったら、クルマで取りに来てもろうたら、うちのオルガン、あげまっさあ」とか言いよったみたいだった。それで、私が毎日、練習して、練習後は布でふきあげていたオルガンをよその人間が突然やってきて持ち去ったらしかった。うちの父親はオルガンを持ち去られた後、言うのだった、「オルガンみたいなもん、要ら~ん」と。なんで「要らん」のお??? そんなこと言われても、そのオルガンで私は毎日毎日、オルガンの練習を続けてきたのであり、おっさんは私がそのオルガンで練習しているのを何度も何度も見ていたはずだったのだが、それでも「オルガンなんか、要ら~ん」と言ってよその人にあげてしまったのだった( 一一)
うちの父親は、うちの母親と結婚してすぐの頃、給料が安くて、しかも父の両親がいて、父の弟も家にいて子供が2人産まれて生活が大変だったらしいが、ボーナスがもらえるというのでうちの母親はそれでなんとかやっていける・・と思ったら、家にそのボーナスを持ち帰ることなく、途中でバイオリンを買ってボーナスをバイオリンに変えてしまった・・ということがあったらしく、うちの母親は「あのバイオリンを見た時は悲しかった」と話していた・・・が、そのバイオリンを時々ひいていたが、そのバイオリンを弾く際に音をとるのにピアノを使っていた。だから、「ピアノがあったらそれでええ。ピアノがあったらオルガンなんか要らん」と判断して、それで「オルガンがあったら子供にオルガンを習わせるのになあ」とか言っていたのか・・・という喫茶店かどこかにいたおっさんたちに私が毎日練習していたオルガンを「そんなもん、要ら~ん」と言ってあげてしまったのだった。悲しかった(泣)。
私が19歳から20歳になる年、うちの父親は「こいつには、小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでも、ええもんばっかしこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ!」などと言い出したので驚き、「そんなことない」「絶対にそんなことない」と言ったところ、「はあん。こいつ、こんなこと言いよる。難儀やなあ。こいつ、絶対におかしいわ」と言うのだった。「おかしい」のは、それはあんたやろうが、あんた。あんた、私が毎日毎日、練習していたオルガンを取り上げただろうが。あんた、私が毎日毎日、練習して、毎日毎日、布でふきあげていたオルガンをとりあげてよその人間にくれてやっただろうが! 何が「欲しいというものは、よそとはちごうて、何でも何でもどんなもんでも即座にこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ」じゃ 子供が毎日毎日練習しているオルガンを取り上げてよその人間にくれてやる親がどこにあるか・・・というと、そんじょそこらにはないが、我が家にあったのだった。その親が「こいつには、小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでも、ええもんばっかしこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ!」とその子供が20歳になる年になると言い出したのだった。私が「そんなことない」「絶対にそんなことない」と言ったのを聞いて、うちの父親の「親友」で医者屋で「女川教(めがわきょう)」という新興宗教の教祖の男が「お父さん、お父さん。こいつがこういうことを言うのは、それは病気やからです。お父さんはお父さんがおっしゃるように『小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでも、ええもんばっかしこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきた』のにからに、こいつがわかりよらんのはこれは病気やからです。病気がこいつにこういうことを言わせてるんです」と言い出した。それを聞いてうちの父親は「そうでんなあ。病気やからでっしゃろかなあ。難儀でんなあ。わしはこいつに『小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでも、ええもんばっかしこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきた』のにからに、それをわかりよらんというのは病気やからでんなあ。クスリ飲まさんといかん、クスリ、クスリ、クスリ、クスリ。それもちょっとではいかん、大量に飲ませてやらんといかん、クスリを大量に飲ませてメロンメロンにしてやらんといかん。いや、クスリではいかん。ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪ ロボトミーか電気ショックやったらんといかん。電気ショックやったるべきや、電気ショック。電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック、電気ショック♪」と言うのだった。おそろしい。実におそろしい。 しかし、ロボトミーでも電気ショックでもやればいい。キューバ革命の際、フィデル=カストロはバチスタ政権から裁判にかけられ、そこで「私に死刑を宣告せよ。そのようなことは何ら問題ではない。歴史が私に正義を宣告するであろう」と述べたというが、同様に「私にロボトミーもしくは電気ショックをおこなって殺せばよい。歴史が私に正義を宣告するであろう」というものだった。
スタンガン
( ↑ 「電気ショック療法」 )
わがキューバ革命 (1961年) (新しい人間双書) - フィデル・カストロ, 池上 幹徳
その後、毎日練習してきたオルガンを奪われた私は、オルガン教室に通っているのにオルガンの練習をピアノで代用した。 旧ソ連の映画『シベリア物語』には、第二次世界大戦に徴兵されて行かされたピアニストの男にピアノの指導者が「ピアノの練習はしていたか。ルビンシュタインは(ピアノがない場所では)板の上で指を動かして練習したという」と話す場面があったが、小学校1年2年の時の私はオルガンがないからピアノを代用してオルガンの練習をした。しかし、・・なんで、ピアノを代用させてオルガンの練習をさせるのか、なんで、子供がオルガン教室に通っているのにその子供が練習に使っているオルガンを奪い取ってよその人間にくれてやるのか・・・と思うが、それがうちの父親だった。それが「クリスチャン」なのだ。
〔 『シベリア物語』で、元ピアニストの男が船の上でアコーディオンを弾きながら「バイカル湖のほとり」を歌う場面はなかなか好きだ、26:40~ ・・が、今、視聴すると、この人、あんまりうまくないな・・、むしろ、背後のコーラスの方がうまい。 同映画ではシベリアはロシアの土地みたいに表現されているが、しかし、シベリアはロシアの植民地であって本来のロシアの土地ではないはずだが。
※ YouTube-【日本語字幕】シベリヤ物語 Ballad of sberia(1947)https://www.youtube.com/watch?v=QtMU0KAc9K4 26:40~
「バイカル湖のほとり」の歌はいい歌だと思う。 〕
ヤマハの(オルガンを中心とする)音楽教室は2年間のもので半年ごとに学費を払うことになっていたようだが、2年の前半が終わった時点で、うちの親は「あんなん、あかん」と言ってやめさせてしまったのだ。子供は最後まで行きたかった。「あかん」かどうかにかかわらず、1年半やってあと半年だったから最後まで行きたかった・・が、我が家の特徴として子供の意志は無視されるという特徴があった。
そして、かわりに近くの高校の音楽の先生が土曜日だけ自宅でピアノを教えているという人の所に、今度はピアノを習いに通わされた。その先生は悪くなかったとは思っていたが「指が寝ている。指を立ててひきなさい」と言われて、一生懸命、指を立てて弾こうとしたのだったがものすごくひきにくかった・・・が、それから何十年も経ち、その頃はなかったDVDというものができて、ピアニストと言われる人の演奏のDVDが販売されるようになり、そういうものを見てみると、「世界的ピアニスト」はその頃の私よりもはるかに指を寝かせて弾いていた。指を立てて弾くべきだというのがその先生の説だったが、必ずしも絶対的に正しいというものでもなかったのではないかと思う。
そのうち、小学校の4年の時に大阪府北部に転居した。通える所にピアノの先生がないか・・ということで、その阿倍野区の先生の妹さんが大阪市淀川区の阪急「十三(じゅうそう)」駅の近くで「ピアノの先生」をされていたので、そこにしばらく通った。しかし、その先生はすでに「バイエル」は終えている私に「第二バイエル」みたいな教本をさせて、これを終えたらひとまわり難易度の高いものをさせてもらえるだろうと思って頑張ってそれを終えると、「第二バイエル」を終えるとまたもや「第三バイエル」みたいなものをさせて、それをはてしなく繰り替えさせられて、そのうち、嫌になってしまった。「こういう基礎的なものをきっちりとやるのが大事だから」と言われるのだったが、野球で素振りが大事か、テニスで壁打ちが大事か、野村じいさんは南海ホークスの2年目の終わり、ハワイに優勝のご褒美を兼ねた練習旅行にチームが行った際に二軍の監督が推薦してくれて捕手を3人連れていった中で二軍選手の捕手として帯同させてもらった際に、夜、ほかの選手がハワイで遊びに出た後も、鶴岡監督の部屋の窓の前に行って只管バットを振り続けると、そのうち監督室の窓が開いて「こんな夜遅くまでバットを振ってるのは誰だ」「野村か」と言って窓が閉められた。そのうち、正捕手が怪我をしたが、正捕手が怪我をしても二番手捕手が試合に出ることになりその下の野村に出番はないと思っていたら、二番手捕手はハワイで夜は遊びまくり、宿舎に現地の若い女性が「ハ~イ」とか言って訪ねてきたりしていて、それを見た鶴岡は「こんなやつ、使いたくない」と思ったらしく、「野村、出い」と言って試合に出してくれた。ハワイのチームは野球のレベルは高くなくて成果を出せて、そして日本に帰ってからも試合に出してもらえて成果を出せて、そして公式戦が始まる直前、正捕手が「治りましたあ」と言ってきたが、鶴岡は「『治りました』と言えば試合に出してもらえると思ってるのか」と気分を害したらしく、正捕手の怪我が治っても野村を試合に出してくれて正捕手の座を掴んだ・・・・とどこやらに書いていたが、又、張本が「打者が練習するのにバット振らずに何やるんですか」と言うておったが、他方で「今浪さん」はYouTube で「ぼくは素振りはあんまりやらなかった」と言っていたが、素振りをやることが相当益になるタイプの打者とそうでない打者がいるそうだ・・・が、素振りが役に立つのかどうかはさておき、ピアノの練習をするのに「バイエル」を終えたら「第二バイエル」、それを終えたら「第三バイエル」、それを終えたら「第四バイエル」・・と「こういう基礎的なことをきっちりとやるのが大事だから」と言われて、それは間違いではなかったとしても、そのいち、もう嫌になってしまった。
高校の同級生とかで、初めて見る楽譜でもけっこう難しい曲を初見で簡単に弾いてみせたりするような人がいたが、私は一生懸命練習したのに、どうしてそうなれなかったか・・・というと、小学校の6年の時だったか「男の子だからピアノはもうやらなくてよろしい」と言ってやめさせられた、本人の意志なんかまったく聞くことなくやめさせられたから・・というのが一番の理由だが、それとともに、「街のピアノの先生」になんかピアノを習ってるから・・だったのではないかとも思うのだ。要するに、あの先生は「基礎的なことをきっちりと学んでおくのが大事だから」ではなくて、「第二バイエル」「第三バイエル」しか教えることができない人だったのではないか・・と思う。ルドルフ=ゼルキンとかカサドシュとか、そこまでの世界的ピアニストでなくてもいいから、ともかくも「プロのピアニスト」という人について学ぶか、単に「街のピアノの先生」に学ぶかで結果は違うように思うようになった。あれだけの努力をするのなら、「ともかくもプロのピアニスト」という人について学んでおれば、相当上達したのではないのか・・と思うのだが、「そのへんのおばさん」とたいして変わらない「街のピアノの先生」について一生懸命練習させる・・というのは、考えようによってはかわいそう・・のようにも思う。
それに対して、私と10歳程度違ううちのお姉さん2人は「プロのピアノの先生」にピアノを習ったらしかった。「なんで、その先生に私は習わせてもらえなかったの」とうちの母親に後からきいたところ、「男の子やから、いいかげんな先生でもええと思ったんや」と言うのだった・・・が、「男の子やから、ええかげんな先生でもええと思った」ということで「ええかげんな先生」についてピアノの練習させておきながら、それでいて「男の子はええなあ。なんでもさせてもらえて」とか何とかかんとか「プロのピアノの先生」についてピアノを学ばせてもらったお姉さんから言われまくったのだから、そのあたりについてはあんまり気分よくない。
うちのお姉さんが習った「プロのピアノの先生」はどこで知ったかというと、阿倍野区に住んでいた時に近くに住んでいた人だったことかららしい。 それなら、日曜ごとに南大阪教会の教会学校に通ったのだから、その先生の所に通わせてくれれば良かったのに・・とか思ったりもしたが、「プロのピアニスト」だけあってプライドが高くて「子守りとは違います」と小学校低学年くらいの子供を習わせる場合には常に親がついていかないといけないということで、その分、親は大変で、又、月謝も「街のピアノの先生」よりも高かったらしい。
しかし、たとえ高かったとしても「コストと利益を比較考量して」考えるならば、「そのへんのおばさん」とたいして変わらない「街のピアノの先生」について「第二バイエル」「第三バイエル」「第四バイエル」と素振りばっかり大量にさせられるよりいいのではないのかと思えないこともなかった。うちの親は子供の努力・労力はただだと思っていたみたいだったが、今から振り返ってみると子供の努力・労力というのは決してただではないと思うのだが、そういうことを考えない親だった。「コストと利益を比較考量して」という場合に子供の努力・労力というものを「コスト」のうちには決して入れない親だった。
天王寺のあたりに、母のいとこにあたるおばさんが住んでいて、一度行ったことがあったが、私より少し年上の息子と私より少し年下の娘があって、母とそこのお母さんがいとこだったらしく、お父さんは北野高校卒で北野高校在学中、漫画家の手塚治虫と同級生だったそうで『鉄腕アトム』に出てくる「ひげおやじ」だったか「お茶の水博士」だったかどっちかのモデルだったらしい。
※ YouTube-鉄腕アトムhttps://www.youtube.com/watch?v=Mh4Cn20ZbWY
うちの母とそこのお母さんがいとこということは、私とそこの息子・娘とは「またいとこ」ということになるか。その「またいとこ」は兄の方は高津高校に行き、妹は高津高校だったか住吉高校だったか、そのあたりだったような気がするが記憶がかならずしも確かではない・・が、その妹の方は、うちのお姉さんが習った人と同じピアノの先生について、そして、音楽の勉強にドイツに留学までさせてもらったらしい。うちの父親は「世の中の親でわしいほどエライえらいエライお父さんはないねんで」と言いまくっていたが、うちは特に豪邸とかではないけれどもともかくも土地付きの戸建の家に住んでいたが、それに対して「手塚治虫の北野高校の時の同級生」だったというおっさんは集合住宅に住んでおって、実際には貧相な家に住んでいても金持ちの人もおれば逆もあるとはいえ、住んでいる家で判断するならうちの方がそこより金持ちみたいに見えたのだったが、それでも「うちは芸大だの音大だのに行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」とうちの父親から言われたものだったが、ピアノの練習させられてコールユーブンゲンやって腹筋運動やって発声練習やって、あげくのはてに「おまえ、歌うまい。黒田節うたえ、黒田節。 歌えチャンコロ、黒田節~い! とってちってたあ~あ♪」と言われるはめになったが、それに対して、母のいとこの娘、私の「またいとこ」は北野高校で手塚治虫の同級生だったというおっさんがどこに勤めておったか記憶が曖昧だが、その時は天王寺の集合住宅に住んでいて、そんなに豪邸の住人ではなかったはずだが、それでも「プロのピアニスト」にピアノを習い、芸大だか音大だかに行かせてもらった上でドイツに留学して、あげくのはてに「ドイツ人と結婚しよった」・・・あ~あ・・て、ドイツ人が悪いわけではないが親としてはうれしくなかったらしいが、「その年齢の時に外国に行っていたのだからしかたがないのかもしれない」と母のいとこにあたったおばさんは私に話していたことがあった。うちの父親は「わしと女川先生がお好みあそばす女を10人ほど用意して連れてこ~い。甘ったれとってはいかんぞチャンコロろすけ! わしと女川先生がお好みあそばす女を10人ほど連れてこい。その中からどいつが一番ええか見て決めたるわあ」とおっしゃるのだった。「けっこうです」「決めていりません」と言うと、「ええかげんにせえよ、チャンコロろすけイタコ」「どういう相手と結婚するかというのは、これは大変大事なことやねんぞチャンコロ! おまえが決めたらいかんねんぞ、チャンコロが決めることとは違うねんぞチャンコロ! わしいとか女川先生とかのドイツ人が決めることやねんぞ、ドイツ人が。わしと女川先生はドイツ人でおまえはチャンコロやねんぞチャンコロ。わしはドイツ人で慶應の人間、女川先生はドイツ人で医者の階級のお方。医者というのは普通の人間とは違うねんぞ。医者というのは普通の人間とは違って超能力があんねんぞ。中でも女川先生のような名医中の名医になると、パっと一目見ただけでその人間が何を考えてるか見抜くことができて、パっと一目見ただけでその人間の将来を予測することができるねんぞ。チャンコロとは違うねんぞチャンコロとは。わしはドイツ人で慶應、女川先生はドイツ人で医者、おまえはチャンコロで浪商やねんぞ浪商! おまえは自分は北野高校に行ったとつけあがって思っておるかもしれんけれども、たとえ北野高校に行ってもそれでもおまえは浪商やねんぞ浪商! チャンコロで浪商の分際でドイツ人で慶應のわしいとかドイツ人で医者~の女川先生と一緒の人間やなんぞと思いあがってはならんぞチャンコロろすけ! 民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな! てってこっこてっててって、らったらったらったら、てってこっこてっててって、らったらったらったらあ~あ♪」と何度も何度も言われたものだった。
北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒。担当科目「国語」)が「あなたのお父さんほどすばらしいお父さんはなかなかないわよ」と言い、「私は父親がなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」と言い、そう言ってもらってうちの父親は喜び、「わしほどすばらしいお父さんはなかなかないねんで。北野高校の先生であられる作野先生がそうおっしゃってるねんで。わかってますのんかあ」と言うのだった。「『北野高校の先生』という『普通の先生』よりもえらい先生がおっしゃってることですねんでえ。わかっとんのかチャンコロ、わかっとんのかチャンコロ、わかっとんのかわかっとんのかわかっとんのかチャンコロ♪」とおっしゃるのだった。そのうち、旧姓作野礼子は大阪府立のどこだったか無名高校に転任になって移り、「北野高校の先生という普通よりもえらい先生」から「無名高校の普通の先生」に格下げになりよった(笑)
権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ
だいたい、旧姓作野礼子さんは「私は両親が離婚したんだからねえ」だの「私は父親がいなかったんだからねえ」だのというのを自慢しまくりなさるのだったが、「私は両親が離婚したんだからねえ」だの「私は父親がいなかったんだからねえ」だのなんて、そんなもん、自慢するもんかあ~あ??? 何年か前、キリスト教書店には「入れ墨クリスチャン」と言って「元ヤクザのクリスチャン」というおっさんたち4人だか5人だかの写真が載ったチラシが置かれていたことがあったが、「ちょっと違う」のではないかと思ったことがあった。「元ヤクザのクリスチャン」というのは「元ヤクザでないクリスチャン」よりも何かえらいのか? 芸能人とかで「元暴走族でしたあ」とか「元ワルでしたあ」とかカミングアウトする人が時々あるが、「正直に告白している」のなら悪くはないだろうが、それを「売り」にしているのではないかみたいな人もあり、それは違うのではないかと思えるのだ。「元暴走族」とか「元ワル」とかはそうでない人間よりも何かエライのか? 「元ヤクザのクリスチャン」がいても悪くはないだろうけれども、「元ヤクザのクリスチャン」は「元ヤクザでないクリスチャン」よりもえらいみたいに言うのならば、それは違うのではないか。それと同様に「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」とそういうことを自慢しまくる人って、ちょっと何か勘違いしているのではないか。
私は子供の頃から、うちの2人のお姉さんから「男の子は何でもさせてもらえてええなあ」と言われまくってきたのだった・・・が、違うと思うのだ。うちのお姉さん2人は「女の子だから」と「プロのピアニスト」の先生についてピアノを習わせてもらえたのに対して、私は「男の子だから、どうせ中学校に行く頃にはやめさせるんだから、いいかげんな先生でもいいと思った」などと言って「いいかげんな先生」についてピアノの練習させられた。 なによりも、その「どうせ中学校に行く頃にはやめさせるんだから」と、その「やめさせる」という前提でピアノの練習を子供にさせるという、その考え方が理解できない。私が親なら、その「やめさせるためにさせる」というのは、それはかわいそうではないか・・と思うがうちの親はそう思わなかったらしかった。
そして、「またいとこ」は女だったが・・なのか、女だったから・・なのか、「プロのピアニスト」にピアノを習いに行かせてもらい、そして音大だか芸大だかに行かせてもらって、さらにドイツに留学までさせてもらった。どう考えても「男の子は女と違ってええなあ。なんでもさせてもらえて」というのは違うように思うのだ。むしろ、このあたりについては女の方が得しているように思えてしかたがない。 ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ、わしぁ日陰の月見草や・・・
北野高校の音楽の先生だったN川先生(女。1970年代後半当時、40代後半くらい?)は「私は1年生の担任だったら持ってくれと言われればやりますけれども、3年の担任ならやってくれと言われても断ります」と言われていた。「やっぱり、3年の担任は京大とか阪大とか受ける人のために、そういう大学の入学試験にある科目を担当している人で、自分自身もそういう大学を受けた経験がある人がやった方がいいと思いますから。芸大(東京芸大音楽学部)に行きたいとかいう人なら私が受けた時の経験を聞かせてあげるとかもできますけれども、京大とか阪大とかを受ける場合のことは私はわかりませんから、3年の担任は自分がそういう大学を受けた経験のある人がやった方がいいと思います」と言われていた。良心的だと思う。
しかし、「女の子だったら芸大(東京芸大音楽学部)とか行ってもいいと思うけれども、男の子はここの高校の生徒は京大とか阪大とかに行ける可能性がある人だから、そういう人に芸大とかに行かせるのがいいかというと、私は勧めることはできません」と言われたのだった・・が、それはおかしいように思うのだ。なんで「女の子だったら」芸大とか行きたいと思う大学の学部に行かせてもらって、「男の子の場合は」行かせてもらうことができず、「撃ちてしやまん、一億火の玉」「欲しがりません、勝つまでは」「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に孝に孝に」「贅沢は敵だあ」「戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元~を。わしに孝行せえよお」の学部、近代経済学部みたいなもんに行かされなきゃならんのだ。それでいて、「男の子はええなあ」などと言われまくってからに、なんでやねん、「女の子」 の方が行きたい大学学部に行かせてもらってドイツに留学までさせてもらってからに、よっぽど「女の子の方がええなあ」やろうが。よく言うわ♪ バカ言ってんじゃないわ♪
ただし、北野高校あたりの生徒の場合、音楽や美術はある程度できたとしても、芸大・音大といった所をもしも受けて通ったとしても、京大・阪大などを受ける場合にある試験科目の勉強が音楽や美術にどれだけ役立つかという問題があり、芸大・音大に行くなら数学・英語・国語・理科・社会科の成績は京大や阪大に行けるだけの成績ほどは必要なくて、逆に音楽や美術の能力はもっと要る・・可能性があり、それだと、せっかく、ここまで勉強してきたのに、たいして勉強してきていない高校の生徒で音楽や美術だけできる生徒の方が有利になる可能性が考えられる・・と思うと、芸大・音大に進学させることは必ずしも奨励できない・・・というのはそうおかしな話でもないかもしれない。
しかし、だからといって、「撃ちてしやまん、一億火の玉」「欲しがりません、勝つまでは」「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に孝に孝に」「贅沢は敵だあ」「戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元~を。わしに孝行せえよお」の学部、近代経済学部みたいなもんに、なんで行かされなきゃならんのだ、せっかく小学校の1年から真面目に努力して勉強してきたのに、近代経済学部みたいなもんに行かされたのでは「高卒と一緒」にされてしまう。それではあほくさいではないか。
それで、だ。たとえば、慶應大学の文学部には「音楽学科」なんてのがあるわけで、「音楽」担当の教授という方がおられるのだが、「音楽」の教授て何をやっておられるかというと、音楽史を専門とされている。演奏するのは専門ではない。そういう先生がおられるのだ。東大とか京大とか阪大とかにも、それに該当する学部学科があるのではないかと思うのだ。
西洋音楽史 - ヴァルター コルネーダー, 中野 博詞, 樋口 隆一, 美山 良夫
それから、北野高校に入学した時、芸術科目は音楽・美術・書道の3科目から1科目選択で合格発表の日にその日のうちに決めないといけないということで、中学校と同じように高校でも音楽も美術もあるものだろうと思い込んでいた私は、突然、その日のうちにどっちか捨てないといけないと求められて苦悩したものだった。音楽も美術も苦手で嫌いという人は負担が軽い方を選ぶようだったが、私の場合は「体育以外増位山」みたいな人間で、「増位山」というのは、1980年頃に大関に昇進した7代目増位山(増位山太志郎)のことで、体育は力士として大関までなるし、音楽は「そんな夕子にほれました」とか大ヒット曲を出すわ、美術は2002年に二科会の特選に入賞しており、「巨泉のクイズダービー」で「今、小学生の間で、算数・国語・理科・社会科の主要科目以外の科目、体育・音楽・図画工作が得意な生徒のことをある人物名で呼ばれるようですが、それは誰でしょう?」という問題で、篠沢教授なんかは当然わからないが、原たいら さんは見事に「増位山(ますいやま)」と正解したのだったが、数学・英語・国語・理科・社会科よりも音楽と美術が好きな人間としては、どっちか捨てろと突然言われると困った。
※ YouTube-【MV】増位山太志郎/そんな夕子にほれました(full ver.)https://www.youtube.com/watch?v=JRPCoHi-zms
ところが、うちの父親が横から「あんたは音楽や」と言って決めてしまった 音楽にしようか美術にしようか考えていたのだったが、なんで、そんなものを父親に「あんたは音楽や」と決められなければならないのか・・・と思ったが、それがうちの父親だった。
美術や音楽は授業の前と後とに絵具や墨を用意して片づけないといけないのに対して、音楽は身ひとつでできる。しかし、音楽は演奏する場合でも聴く場合でもその音楽がその後に数学や英語や国語をやっている時に突然耳元に浮かんできたりすることがあるので、他の科目の学習の妨げになる危険もあった。又、私は小学校の3年の時の健康診断の視力測定では両眼とも1.5見えたが、その後、近視になってしまったのだが、音楽は「楽譜を見る」作業をする必要があるので眼を悪くしやすいのに対して、美術はそういうことはない。そういったことを考えて、どうしたものか考えだしたところを「あんたは音楽や」と決められてしまったのだった。そして、その後、「あんたは音楽や」と決めたおっさんは言うようになったのだ。「あんた、歌うまい。黒田節うたえ、黒田節。歌えチャンコロ、黒田節~い!」と。私は黒田節を歌わされるために音楽の練習・修行をさせられたらしかった
音楽が嫌いな理由はもうひとつあった。橋下徹が「クラシック音楽が好きな人間はインテリぶりたい俗物だ」と言ったことがあったが、それは正しいかというと、結論としては正しくない。「インテリぶりたい俗物」でない人で「クラシック音楽が好きな人間」はいる。しかし、「クラシック音楽が好き」という人間で「インテリぶりたい俗物」だから「クラシック音楽が好き」ということにしている人が少なからずいるのは事実だ。 だから、「クラシック音楽が好きな人間はインテリぶりたい俗物だ」というのは正しいかというと結論としては正しくはないが、「インテリぶりたい俗物だからクラシック音楽が好きだということにしている人」がいないかというといると思う、「クラシック音楽が好きな人間はインテリぶりたい俗物だ」という一面がないかというと、ないことはないと思うのだ。 うちの父親は私に言ったのだ。「おまえみたいなもんにクラシック音楽みたいなもん、わかるわけないやろ。おまえなんかに。クラシック音楽というのは、わしい~いのようなこおきゅう~うな人間がわかるもんや。おまえみたいなチャンコロがわかるわけないだろ、チャンコロに。ちゃんちゃんころころ、ちゃんころころ」 それで私はクラシック音楽というものが嫌いになった。クラシック音楽というのは、うちの父親のような「エッライえっらいエッライえっらいドイツ人が聴く音楽」だそうだったので。嫌いになった。本当に嫌いになった。
学校の体育の成績が少しくらい良くても、それでスポーツで「食べていける」ものでもない。同様に美術とか音楽とかの成績が良かったとしても、画家とか音楽家とかで「食べていける」というものでもないだろう。しかし、音大・芸大とかに行って高校・中学校の「音楽」「美術」の教諭の資格を取れば高校・中学校の「音楽」「美術」の先生として「食べていける」のではないか。その上で、画家として絵を描いて応募すれば、もしかして入賞するかもしれない、入賞できなくても入賞めざして絵を描きながら「学校の先生」として「食べていける」のではないか。
文学部の音楽家・美学科の大学院に行って「大学の先生」になれば、画家とかで成功できなくても「大学の先生」として「食べていける」のではないか。私が考えたのは「学芸員」として美術館・博物館で雇ってもらえないか・・ということだったが、学芸員という国家資格が難しいのかどうかは受けたことがないのでわからないが、資格を取得したとしても学芸員の採用は多くないので、採用してもらえるかどうかという方がけっこう難しいとか聞く。
新聞社に就職すると、政治部・社会部に比べて文化部は主流ではないみたいだけれども、元々、文化部がやることをやりたい者にとってはその方がいい。しかし、朝日新聞社・毎日新聞社はうちの父親が「朝日はアカやから勤めてはいかん。毎日もアカやから勤めてはいかん」とか言うし、それ以前に朝日新聞社・毎日新聞社は人気企業だからけっこう入社難易度は高いみたい。
新聞社ではなくて、音楽や美術を扱う出版社ならば音楽や美術について学んだ者は歓迎されるのではないか・・とか考えたのだが、これも難しいのは我が家の場合、うちの父親は「岩波書店はアカやから勤めてはいかん」とかともかくまともな出版社・新聞社はすべて「アカ」にしてしまうので勤められない。「学校の先生」というのも「学校の先生はアカやからなってはいかん」と言うのです。
結局、我が家はなっていいものなんか、ほとんどないのです。
「男の子は何でもさせてもらってええなあ」と私は子供の頃からうちのお姉さん2人にずっと言われてきたが、それは嘘だ。ちっともそんなことない。「朝日はアカやから勤めてはいけません」「毎日もアカやから勤めてはいかん」「岩波書店はアカやから勤めてはいかん」「出版社は給料が安いから勤めてはいかん」「学校の先生はアカやからなってはいかん」・・・「うちは大学院になんか行かすような金持ちとは違ます。甘ったれなさんな」「うちは文学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは医学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな。4年で卒業できる学部にしなさい」「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「商社は海外勤務があるからいけません」「うちは司法試験なんか受けさせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「国家公務員は転勤が多いからなってはいかん」・・・と、結局、我が家にはなっていいものなんて、ほとんどないのでした。あげくのはてに「あんた、箕面市役所に勤めてくれへんか」と言い出しよった( 一一) 疲れた・・・ 結局、我が家は「親というものは子供が大学に行く時に行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってやりたい勉強をやってつきたい仕事につけるようにさせてやりたいと思うからこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」とうちの母親から言われた嘘っぱちを本気にして小学校の1年から同級生が遊んでいる時も只管勉強してきて、あげくのはてに「高卒と一緒にされる学部」に行かされてしまった( 一一) 「とってちってたあ~あ」の学部に。
阪神タイガースに入団した赤星選手は亜細亜大学を卒業する時、プロ野球選手になりたいですと宣言していたが、どこの球団からも指名してもらえなかったが、その後、JR東日本で「駅員さん」をやりながら野球を続けていたところ、社会人野球の選手をプロ野球の球団の練習に参加させることがあって阪神タイガースの練習に参加した際に、そのすばらしい脚力を見た監督の野村が「プロでやりたいという気持ちはないのか」と尋ね、「やりたいです」と言い、「どこの球団でないと嫌とかいうのはあるか」ときかれて「嫌な所とかいうのはありません。どこでも、プロでできるならやりたいです」と答えたところ、野村が「ぜひ、あの選手を取ってくれ」とスカウトに言って指名されたらしい。阪神のスカウトでも赤星選手を取るべきだと主張したスカウトと、プロではだめだろうと言ったスカウトがいて、だめだろうというのはプロの野球選手としては身体が小さく非力だからプロでは通じないのではないかという意見だったらしいが、「どうしてもだめなら、試合終盤の代走要員としてでも使えるだろう」と野村じいさんが言って阪神が指名することになったらしい。しかし、指名されてから再び考えたらしい。プロ野球の選手になっても絶対に成功するとは限らない、2年くらいで自由契約にされる可能性だってある。そうなったなら、せっかく、JR東日本という簡単につぶれない会社で雇ってもらっているのに、その勤め先を失うだけになってしまう。はたして、プロ野球の選手になっていいものかどうか・・・思案したところ、これは赤星選手が引退後にYouTube で話していたことだが、その時に「親が『でも、やりたかったのでしょ』と、そう言ってくれた」そうだ。赤星選手の親は「でも、やりたかったのでしょ」とそう言ってくれたらしい。
それに対して、うちの父親はこう言ったのだった。「そんなもん、せんでもええんじゃ、チャンコロろすけイタコ!!! すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために。朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに。すべてをすべてをわしのために、ためにために。わしのためにわしのために」と。その上で言うのだった。「わしい、今まで、あんたに『わしに孝行せえ』なんてこと言うたことはたったの一回としてないやろお。いくらなんでも、そのくらいのことはわかってもらわんといかん」と。 あんた、今、言うたばっかりやろうが。「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝にわしに孝にわしに孝に孝に孝に・・」と今まさに言いまくったばっかりやろうが。あんた、これまで毎日毎日、ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝にわしに孝にわしに孝に孝に孝に・・」と言いまくってきたやろうが・・というおっさんが「わしい、今まで、あんたに『わしに孝行せえ』なんてこと言うたことはたったの一回としてないやろお。いくらなんでも、そのくらいのことはわかってもらわんといかんでえ」とおっしゃるのだった。そして、赤星選手の親とは逆で「そんなもん、せんでもええんじゃチャンコロろすけイタコ! 甘ったれるなあ~あ!!!」とおっしゃるのだった。
「男の子は何でもさせてもらえてええなあ」と、うちのお姉さん2人から言われ続けてきたが、嘘だ、そんなものは。「そんなもん、せんでもええんじゃ、チャンコロろすけイタコ!」と常に言われてきた。 努力の果実はすべて「わしのために、わしのために」「わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに」のために奪い取られた。 「男の子は何でもさせてもらえてええなあ」なんて嘘だ。「またいとこ」の女の子は私は「そのへんのおばさん」とたいして変わらない「街のピアノの先生」に習わされたのと違って「プロのピアニストの先生」についてピアノを学び、そしてドイツに留学までさせてもらった。「そんなもん、せんでもええんじゃチャンコロろすけイタコ!」とは言われなかったみたいだ。 「男の子は女と違って何でもさせてもらえてええなあ」なんて嘘だ。むしろ、逆だ。ええなあ、「プロのピアニスト」についてピアノを習えて。うらやましいなあ、ほんまにええなあ。・・・ええなあ、音楽の大学に行かせてもらえてからに、ドイツに音楽の留学になんか行かせてもらえてからに、女の子はほんまにええなあ、うらやましいなあ。わしらは「大学は勉強する所とは違うねんぞ、大学はあ。大学はアルバイトする所やねんぞ、アルバイト。アルバイトを嫌がる人間はモラトリアム人間病という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえらい先生がそうおっしゃってる。てってこっこてっててってらったらったらったら♪ 欲しがりません、勝つまでは。贅沢は敵だあ。とってちってたあ~あ!!!」と毎日毎日言われ続けてきたもんだ。「下の仕事を長く多くやればやるほどええんや」と言われて、うちの父親は私にその「下の仕事」をはてしなくさせようとした。よその息子にはそういうことは絶対に言わないおっさんやった。
ええなあ、うらやましいなあ、女の子はええなあ、ほんまにええなあ。ほんまにうらやましいなあ・・と心の底から思う。なにしろ、わしぁ日陰の月見草・・・・・
天皇制 (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 20) - 菅 孝行, 貝原 浩
教育勅語 - 山住 正己
昭和史 新版 (岩波新書) - 遠山 茂樹, 今井 清一, 藤原 彰
小此木啓吾はどういう経歴の人かというと、小学校:慶應(慶應幼稚舎)・中学校:慶應(慶應中等部)・高校:慶應(慶應義塾高校)・大学:慶應(慶應大学医学部)・勤務先:慶應(慶應大学医学部および慶應病院)というサラブレッド的慶應もしくは「ほとんどビョーキ」の人であり、ひとには「アルバイトを嫌がる人間はモラトリアム人間病という病気です。病気は治療せんといかん、治療せんといかん。ロボトミーやったるべきや、ロボトミー! 電気ショックやったらんといかん、電気ショック!」などと勝手なことを言っていたようだが、それならば「揺り籠から墓場まで慶應」症候群は大学生の時にそんなにアルバイト漬けの生活をしていたのかというと、そんなもん、普通に考えて、慶應の内部進学がそんなもん、するわけないだろうが( 一一) まったく、つくづく勝手な男だ。
だいたい、「会社という所に勤めるのを嫌がる人間はモラトリアム人間病という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえら~い先生がそうおっしゃってる。ロボトミーやって治療してやらんんといかん、ロボトミー。電気ショックやって治療してやらんといかん、電気ショック♪」というのならば、何より小此木啓吾こそ「会社という所に勤めるのを嫌がる人間」だから「大学」という所と「病院」という所に勤めて「会社」という所に勤めないモラトリアム人間病の重症患者であり、「ロボトミーやったらんといかん、ロボトミー」「電気ショックやったらんといかん、電気ショック!」の人間だったはずだった。
小此木啓吾、死ね! 死ね、小此木啓吾!・・と思ったら、2003年9月にやっと死によった( 一一)
それにしても内部進学小此木啓吾独善主義症候群はほんま迷惑な男やった( 一一) その信奉者・エピゴウネンともども、二度とよみがえってこないでもらいたいものだ。
桃山学院高校は大阪府の私立高校の中で私が最も嫌いな高校だが、それには理由がある。理由なく嫌いだと言っているのではない。それを述べようと思ったが、字数がけっこう多くなったので、それは次回にきっちりと・ねっとりと述べることとする。・・「まあ、そう言わんと」と言われても嫌いなものは嫌いなんだ。その理由を次回に述べる。
(2024.7.4.)
週刊文春 2024年7月11日号[雑誌] - 週刊文春編集部
《 北海道旭川市三条通六丁目界隈は、地名をなぞり「三・六(サンロク)街」という通称で道民に親しまれている。ススキノに次ぐ道内第二の歓楽街には、約一千軒の飲食店がひしめき合い、週末になるときらびやかなネオンに包まれ、観光客や地元の酔客、若い客引きらが交錯する。
この街を拠点とする若者中心の不良グループが「サンロクキッズ」だ。殺人の疑いで北海道警に逮捕された旭川市の無職・内田梨瑚(りこ)容疑者(21)もその一員とされる。・・・
留萌の女子高生・村山月’(るな)さん(17)を、旭川市内の渓谷「神居古潬(かむいこたん)」の神居大橋から十メートル下の石狩川に突き落とし溺死させたとして、内田とA子容疑者(19)が再逮捕されてから約三週間が経過した。
・・・・
「内田は旭川の所轄署では”オンナ半グレ”として有名なワルで、彼女のことを知らない捜査員はモグリと言われます。というのも、内田は旭川を拠点とする暴力団の末端構成員と密接な関係を持ち、シャブの卸先になっていたとみられているため。・・・ 」
・・・・
三・六街のとあるバー。すでに複数の男と浮名を流していた内田は、ある年上の男性と偶然知り合い、談笑していた。内田のタイプだったのか、杯を交わすごとに親密さが増し、上機嫌に寄った二人は、夜の街に消えていった――
このおpとこは一体、何者か。捜査幹部が打ち明ける。
「旭川中央署のX警部補です。実は内田は、このX警部補と肉体関係を持っていた。彼は五月まで同署の刑事第一課強行犯係で係長を勤めていました。今回の事件は道警本部の捜査一家が主導しているとはいえ、実際は旭川方面本部が管轄する旭川中央署三階に帳場(捜査本部)が立っていた。つまり、X警部補は内田が起こした一連の事件を担当する刑事。彼には妻子がおり、内田とは、不倫関係にあったことになります」
・・・・ 》
( 「旭川17歳女子高生殺人犯 内田梨瑚(りこ)と担当刑事が不倫していた!」
「週刊文春」2024年7月11日号 ↑ 所収。 )
※ 懲役太郎チャンネルー【衝撃的事実】内田梨瑚と旭川警察の警部補が「不倫関係」でヤバすぎる!【旭川17歳女子高生殺人事件】https://www.youtube.com/watch?v=mU2-6s9oLWY
※ タカユキー旭川中央署 不倫不祥事刑事は複数人だった!! 内田梨瑚グループと合コンで穴兄弟確定!!https://www.youtube.com/watch?v=u0gtCGIv7Nc
※ ドラゴン記者チャンネルー旭川中央警察警部補と内田リコ不倫😱‼️北海道警察 https://www.youtube.com/watch?v=WOgbJp485Qk
,※ 衝撃スクープ 旭川殺人犯が担当刑事と不倫関係 週刊文春電子版 https://www.youtube.com/watch?v=GWtCIBnJFWU
北海道警察 日本で一番悪い奴ら (だいわ文庫) (だいわ文庫 H 68-2) - 織川 隆
警察腐敗―警視庁警察官の告発 (講談社+α新書) - 黒木昭雄
☆ 日本キリスト教団 南大阪教会 とその付近・界隈
1.寺西家長屋(大阪市)・昭和町駅付近、アルバイト漬けにされてもモラトリアム人間病で小此木啓吾やアルバイトなんか何もしない大学生はモラトリアム人間病ではないのは月5万円酒代使う男がアル中で10万円酒代使う男がアル中でないのと似ているhttps://philoarchi2212.seesaa.net/article/503680045.html
2.日本基督教団南大阪教会(大阪市阿倍野区)・村野藤吾設計の塔屋・さっちゃんの歌の碑。「東大に行ったら思いあがった人間になって女を泣かす」か「慶應に行ったら女たらしに『教育』されて悪影響うける」か https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503752327.html
3.文の里商店街と桃山学院高校・明浄学院高校。真夏に北野田駅から桃山学院大学まで歩いた思い出。「男の子は何でもさせてもらえてええなあ」なんて絶対嘘だ〔今回〕
4.桃山学院高校が嫌いな理由1「女子大生がいたら慶應の学生証を顔の前に突きつけてやろうか」という「水戸黄門の印籠」男( 一一) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503932251.html
5.桃山学院高校が嫌いな理由[2]ラグビーのため「だけ」に生まれてきた男。おのれの立場を認識できない男〔今回〕
6.桃山学院高校が嫌いな理由[3]お葬式があると必ず何かやる男。うちはあんたに今後絶対に何か頼むことはないと言ってすぐ後で息子の結婚式に出てくれと頼む男 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/504126690.html
7.桃山学院高校が嫌いな理由[4]嫌いな甥の悪口言うために関係ない高校をけなす男 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/504156267.html
8.
大阪市阿倍野区阪南町の日本キリスト教団南大阪教会 の東側の南北の通りの少し東に「あびこ筋」というクルマが通る広い通り、地下を大阪メトロ御堂筋線が走っている通りがあります。
※ 日本キリスト教団南大阪教会HP https://www.mochurch.net/
ウィキペディアー日本基督教団南大阪教会 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%9B%A3%E5%8D%97%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%95%99%E4%BC%9A
「あびこ筋」という大阪メトロ御堂筋線が地下を走っている南北の通りの西側が阿倍野区阪南町で、日本キリスト教団南大阪教会は「あびこ筋」の西側の阪南町にありますが、「あびこ筋」の東側は駅名にもなっている昭和町、「ウルトラマンの住んでる所は?」「ショワッチョ(昭和町)」の昭和町です。「あびこ筋」の少し東側に「文の里(ふみのさと)商店街」という南北の通りの昔ながらの商店街があります。 住居表示としては阿倍野区昭和町の北側に阿倍野区文の里 があるのですが、文の里商店街は阿倍野区昭和町に南北にあります。
南北の文の里商店街を一番北まで行くと東側に東西の商店街が少しだけあり、そこを東に行くと、阪神高速道路 松原線が北西から南東に高架で走っています。この北西から南東への通りはかつては南海平野線という路面電車が走っていた所ですが、今は南海平野線は廃線になり、かわりに大阪メトロ谷町線が地下を走っており、「あびこ筋」のすぐ東のあたりに「文の里(ふみのさと)」駅があるようです。南東に行くと「田辺」「駒川中野」「平野」「喜連瓜破(きれ うりわり)」・・・北西に行くと「阿倍野」「天王寺」・・と行き、かつての南海平野線は「天王寺」まででしたが今では谷町線で「谷町九丁目」で千日前線と、「谷町九丁目」~「大阪上本町」で近鉄奈良線・大阪線と、「谷町六丁目」で長堀鶴見緑地線と、「谷町四丁目」で中央線と、「天満橋」で京阪本線と、「南森町(みなみもりまち)」で堺筋線と、「南森町」~「大阪天満宮」でJR東西線と乗り換えができて、「東梅田」まで行くことができるけっこう便利な駅になりました。
大阪メトロ谷町線(旧 大阪市地下鉄2号線)は「四天王寺前」「谷町九丁目」「谷町四丁目」と、四とか九とか病院の病室名なら避けられるような名前の駅が続いているのですが、どっちが四でどっちが九だっけ? とそこがわかりにくいところですが、南から「四天王寺前夕陽丘」の後は、「くろうしてんな(谷町九丁目・谷町六丁目・谷町四丁目・天満橋・南森町)」と覚えるとわかりやすい。人生、なかなか大変でんなあ・・・・。
大阪メトロ谷町線「谷町九丁目」と近鉄「大阪上本町」駅は東西の千日前通り(せんにちまえどおり)にあってすぐ近くだけれども、大阪メトロ谷町線は南北の谷町筋(四天王寺の西側の筋)(市道大阪和泉泉南線)の地下を走っていて、近鉄は南北の上町筋(うえまちすじ)(四天王寺の東側の筋)(市道赤川天王寺線)の上本町に駅があり、現在は「大阪上本町」駅となった近鉄の駅はかつては「上本町」か「上本町六丁目」「上六(うえろく)」と言っていたので、上町筋のすぐ西側の谷町筋に駅がある大阪メトロ谷町線の駅も「谷町六丁目」かと思いそうだがこちらは「谷町九丁目」で「谷町六丁目」はひとつ北側の駅で長堀通り(ながほりどおり)にある・・というのがややこしい。さらに、上町筋を「市道赤川天王寺線」と地図帳には書いてあるのだが、天王寺はわかるが赤川てどこやねん・・と思って地図で北に追跡していくと、大阪市旭区と都島区の境目付近の旭区に旭区赤川1~4丁目があり、市道赤川天王寺線を北に行くと「赤川3丁目」交差点までたどりつくようだ。
阪神高速道路 松原線の下をくぐって東に行くと、まだもう少し東西の商店街が続きます。そこを東に出てすぐの所の北側に、明浄学院高校という高校があり、阪神高速道路松原線より東側の商店街はその高校の名前をつけて「文の里 明浄通商店街」と名づけられているようです。↓
( 東側から見たもの。)
明浄学院高校とは《 1921年2月に日蓮降誕700周年事業として、大阪市内の日蓮宗寺院団によって5年制高等女学校の設置が計画された。準備を経て、1921年4月に明浄高等女学校として設置された。》《 学制改革に伴い、1947年に新制明浄学院中学校、1948年に明浄学院高等学校に改編されている。中学校は1968年に募集停止となり、書類上はしばらく休校状態が続いていたが2004年に正式に廃止されている。》《 2024年4月1日に姉妹校の藍野高等学校と統合し、同時に共学となった。》(ウィキペディアー明浄学院高校https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B5%84%E5%AD%A6%E9%99%A2%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1#%E5%A4%96%E9%83%A8%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF )というもので、かつては女子校だったが今は共学らしい。
文の里商店街を南に進むと、クルマがけっこう通る「松虫通」という東西の広い通りに出ます。これを横断して南側にも文の里商店街は少し続きます。松虫通の南側の文の里商店街を南側、商店街がなくなる地点まで行くと、その南の方に学校らしきものが見えます・・が、それが桃山学院高校・桃山学院中学校で、大阪府の私立高校では私が最も嫌いな高校です。
桃山学院は大阪市阿倍野区に中学校と高校があるようですが、「大阪のとう大」とか「ピンク大学」「ピン大」(桃大)とか言われる桃山学院大学はどこにあるのか、桃山学院大学も阿倍野区昭和町にあるのかと思っていたらそうではなくて、1970年代の終わり、浪人中、堺市東区の南海高野線「北野田」駅から南南西の方に歩いていった先に桃山学院大学はあって、そこに駿台予備校が主催していた東大模試を受けに行きましたが、桃山学院というと阿倍野区昭和町かと思うと堺市と富田林市の境目付近の堺市、南海高野線の駅からけっこう歩いた先で、「北野田(きたのだ)」と言うからには阪神本線「野田」・大阪メトロ千日前線「野田阪神」駅の北側か、それともJR大阪環状線「野田」駅の北側かと思いきや、全然違う、南海高野線の「初芝」よりもまだ南・・、しかも、その南海高野線「北野田」駅からけっこう距離があって、「北野田」駅から夏の暑い中をせっせと歩いて行きました。 よく頑張ったなあ・・と思います。通った者は大変な思いをしてもその報いを得ることができたわけですが、通った者と比べても劣らないだけの努力をして労力を払ったにもかかわらず報いられなかったことに対して、過去の自分は今の自分ではなくて今の自分の弟のようなものだとするならば、「本当によく頑張ったなあ」とねぎらってあげたいように思います。
今、振り返って考えてみると、うちの親、特に父親は「息子の努力・労力はタダや」と思っていたようだ。そう考えていたとしか思えない。そういう人やった・・・。うちの父親には、(息子が)いくらなんでも「あれだけやったのだから」という発想・思考は完全に欠落していた。
もう、試験を受けに行くこともなくなった今、かつて、一生懸命、「北野田」駅から歩いて行った桃山学院大学に一度行ってみたいと思って地図を広げてみると・・⇒ない! 堺市東区の南海高野線「北野田」駅の南南西のあたりに桃山学院大学は・・⇒ないのだ!!!
どないなってんねん・・・と思ってインターネットで検索すると、「フェイスブック 桃山学院資料室」https://www.facebook.com/100057531247556/posts/1950738358488895/ なるものが見つかりました。それによると、桃山学院大学は今もあるけれども、南海高野線「北野田」駅から南南西のあたりに歩いて行った先にあった桃山学院大学のキャンパスは今はなくなり、その場所は はつしば学園小学校・初芝立命館中学校・初芝立命館高校 になっているようです。
この付近にはかつては「登美丘(とみおか)」という地名があったけれども今は住居表示としては「登美丘」はなくなってしまったようですが、府立登美丘高校が堺市東区西野にあるようです。 登美丘高校というと・・、最近、全国的に有名になった「バブリーダンス」で有名なダンス部の高校(^O^) 登美丘はけっこう耳にする地名でしたが、最寄駅は南海高野線「北野田」駅だったんですね。
「わかさぎ」というと「若鳥(わかどり)」が鳥であるのと同じく、「若い鷺(さぎ)」で鳥だろう・・・と思っていたら、1980年代前半、河口湖のあたりに行った時に食事をしようとしたところ、そこに「わかさぎ定食」というのがあって、「わかさぎ」は鳥ではなくて魚だったんだ! てことを知ったのだが、1970年代終わりの8月、駿台予備校が実施した東大模試の試験会場が堺市の南海高野線「北野田」駅から南に歩いた先にあった桃山学院大学のキャンパスでおこなわれたことから、「わかさぎ」は鳥ではなくて魚だというのと同じく「北野田」は大阪市福島区の阪神「野田」駅の北側とかJR大阪環状線「野田」駅の北側とかではなくて堺市でも富田林市に近いあたりの堺市で南海高野線の沿線なんだと知った。駅からずいぶんと遠かった。夏の暑いさかり、えんえんと駅から歩いて行った。本当によく頑張ったと思う。私が父親だったら、あれだけ努力することのできる息子がいたら絶対にものにしてやるところだが、私の父親は今の私みたいな人間ではなかった。「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに。すべてをすべてをわしのために。戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元、とってちってたあ~あ!」ばっかり言ってる男だった。そして、「わし、これまで、あんたに『わしに孝行せえよ』なんてことは、たったの一回として言うたことないやろ。いくらなんでも、そのくらいのことはわかってもらわんといかん」などと言う男だった。あんた、今、言うたやろうが。あんた、さっきから言いまくっておるやろうが、あんた、毎日毎日、毎年毎年、言いまくってきたやろうが・・・ということを「一回として口にしたことないはずや。いくいらなんでも、そのくらいのことはわかってもらわんといかん。わからんくわあ~あ!!!」と言う人だった。
「本当によく頑張ったなあ」と思いますし、過去の自分というものは今の自分と同じではなくて弟のような存在だとするならば、「本当によく頑張ったなあ」と心からねぎらってあげたいと思います。・・で、試験を受けに行った際に泊ったホテルの部屋で何気なしにつけたテレビに ↓ なんてのが流れていたりしてね・・・・
※ YouTube-GODIEGO / ガンダーラ // ゴダイゴ / Gandhara https://www.youtube.com/watch?v=mC0DxoVStGw
ウィキペディアー桃山学院大学 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%B1%B1%E5%AD%A6%E9%99%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6 によると、《 桃山学院大学(ももやまがくいんだいがく、英語: Momoyama Gakuin University/St. Andrew's University)は、大阪府和泉市まなび野1-1に本部を置く日本の私立大学 》で《日本聖公会系のキリスト教主義学校(ミッションスクール)》、《 桃山学院大学は、1959年にプロテスタント日本宣教100周年を記念して開学された。開学当初は経済学部の単科大学として大阪市阿倍野区昭和町に構えていた。》、《 1966年(昭和41年)に社会学部を設置し、1971年に登美丘学舎と移転統合した。その後、1973年の経営学部設置を皮切りに2学部1学科・大学院2研究科を増設し、1995年にキャンパスを大阪府和泉市に移設した。》《 2025年、桃山学院教育大学(旧・プール学院大学)と桃山学院大学が統合し、桃山学院大学傘下に旧・桃山学院教育大学人間教育学部を移行・設置する》そうだ。俗に「大阪のとう大」と言われるが「東京大学大阪分校」ではないらしい。
ウィキペディアー桃山学院中学校・高等学校https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%B1%B1%E5%AD%A6%E9%99%A2%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1 によると《 学校法人桃山学院によって運営されている日本聖公会系のキリスト教主義学校(ミッション・スクール)》だそうだ。 まあ、おもろいキリスト教もあったもんだ( 一一)
地図を見ると桃山学院中学校・高校の南西側に聖アンデレ教会という教会があるのが書かれているが、大阪聖アンデレ教会HP https://st-andrew-osaka.com/ を見ると、桃山学院と同じ聖公会の教会らしい。アンデレ・ザ・ジャイアントパンダとは関係ないみたいだ。
※ アンデレ・ザジャイアント・パンダ⇒ YouTube-アンドレザ・ジャイアントパンダ VS ハルク豊満 新根室プロレス https://www.youtube.com/watch?v=_2wd6fRM8QI
桃山学院高校は略称として「桃高(ももこう)」と言うが、「ピン高(ぴんこう)」〔←ピンク(桃)高 〕とも言う。 「桃高(ももこう)」は単なる略称だが、「ピン高」は少々バカにしたニュアンスがある。愛称ではないと思う、たぶん。我が家ではうちの母親の弟(私からすると叔父)が桃高(ももこう)に行っていたので、あいつの出身校かと思うと、程度の低い高校なんだな・・という印象を受けて、「ぴん高」と言いたくなる。
ついでに、プール学院というのは、1960年代後半くらい、うちのお姉さんが高校に進学する頃は女子校だったが、「プールがない」という特徴があったみたいだった〔今もないかどうかは知らん。今はあるのかもしれん。〕。「プールがない」のにプール学院とはこれいかに? ・・・て感じだが、ウィキペディアー学校法人プール学院https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%B3%95%E4%BA%BA%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%AD%A6%E9%99%A2 を見ると《 学校名は、イギリスから大阪に最初に派遣されたイギリス人主教アーサー・ウィリアム・プールに因む。英国聖公会から派遣された宣教師によって開かれたミッションスクールである。一般社団法人キリスト教学校教育同盟の加盟法人である。》と出ており、プール学院の「プール」は泳ぐプールではなくて人の名前だったみたい。
8月に堺市の南海高野線「北野田(きたのだ)」駅から南に歩いていった先にあった桃山学院大学の登美丘学舎 に駿台予備校が実施していた東大模試を受けに行った際、大阪府では駿台予備校が実施した東大模試は大阪府北部で1か所と南部で1か所おこなわれていて、桃山学院大学の登美丘学舎は南部の方で、もう1か所、北部でも実施されていた。駿台予備校の東大模試は書店で申し込みができて、うちの父親が申し込んでくると言って、たしか大阪梅田の紀伊国屋書店で申し込んできたのだったが、うちは大阪府北部に住んでいたのに、大阪府北部にも試験会場があったのになんでわざわざ大阪府南部の会場を申し込んできたのかいうと、おっさんは「桃山学院」と書いてあるのを見て阿倍野区昭和町だと思い込んだらしかった。阿倍野区昭和町の桃山学院の敷地はそんなに無茶苦茶広いわけではなく、高校と中学校だけでいっぱいではないかと思われたので、大学は別の場所ということは十分考えられたと思うのだが、そういうことを考えずに勝手に決めつけて申し込んでくるおっさんやった。
私立の学校で高校と大学が同じ場所にある学校もあれば別の場所にある学校もあるわけで、桃山学院高校が大阪市阿倍野区昭和町にあったからといって桃山学院大学も阿倍野区昭和町にあるとは決まっていないはずで、申し込む際に場所の住所を確認して申し込むくらいするのは当然だと思ったがそれをしないのがうちの父親だった。「わしは会社っちゅう所ではわしいほどエライえらいエライえらい人間はないねんでええ~え」と言っていたが、そんなにおえらいのならば、申し込む時点でその「桃山学院大学」という会場は住所はどこなのか、最寄駅は何線の何駅なのか確認するくらいのことはするべきで、又、大阪府にほかに試験会場はないのか、他にも試験会場があるなら他の試験会場とどちらが近いのか確認するくらいのことはするべきではないのか、会社員ならそのくらいのことはするものと違うのか・・と思ったが、それをしないのが「会社ちゅう所では特別に特別にえらいエライえらい人」というものだった。だから、私はその「会社っちゅう所」には勤めたくなかった。大学院に進んで研究者になって「大学」という所に勤めるか、高校の教諭の資格を取得して「高校」「学校」という所に勤めるか、司法試験に合格して裁判官になって「裁判所」という所に勤めるか弁護士になって「法律事務所」という所に勤めるか、労働基準監督官の試験に通って労働基準監督官として「労働基準監督署」という所に勤めるか、ともかく「会社」でない所に勤めたいとずうっと思ってきたのだったが、ところが、うちの父親は「会社ちゅう所に勤めるを嫌がる人間は『モラトリアム人間(病)』という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえらいエライえら~いという先生がそうおっしゃってる」と言うのだった。「うちは大学院になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは学校の先生になんかならすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは司法試験なんか受け指すような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」とおっしゃるのだった。又、「学校の先生は全員、アカです。アカの仕事についてはいけません。甘ったれなさんな」とおっしゃるのだった。うちの母親から「親というものは、息子が大学に行く時に行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってやりたい勉強をやってつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と言われて、そんな与太話を本気にしてしまって小学校の1年から同級生が遊んでいる時もひたすら勉強してきて、結局、努力の果実は「すべてをすべてをわしのために」「すべてをすべてをわしのために」「おやおやコッコこ、おやコッコこ♪」「戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元」のために奪い取られた、「全部まとめてドブ中にどぼ~んと捨てさせられた」。
8月の暑い暑い時に、大阪府の北部の住人なのに、わざわざ、南海高野線に「難波(なんば)」から乗って「北野田」まで行って、「北野田」からけっこう遠かったがそれを暑い中、せっせと歩いて試験会場まで行った。10代・20代の頃の私のようなあんなものすごい努力をすることができる息子がいたら、私が親なら絶対にものにさせてやるところだが、うちの父親は大阪府北部に住んでいるのに、わざわざ大阪府南部の試験会場を申し込んでくるという、すべてがその調子のおっさんやった( 一一)
子どもの頃から、「男の子はええなあ。女はやりたいこともやらせてもらわれへんからなあ」と、私はうちの姉2人からずうっと言われてきた。そう言われるからにはそうかいなあ・・とかつては思っていたが、それは絶対に違うと思う。 うちの両親は日本キリスト教団南大阪教会で結婚式をあげて、その後、大阪市阿倍野区などに住んできたらしい。「らしい」というのはその時点では私はまだ生まれていなかったからだ。その後、JR阪和線を隔てて南大阪教会とは逆側の大阪市東住吉区に転居してから私は産まれた。
私は小学校の1年から大阪メトロ御堂筋線「西田辺」駅の近くにあったヤマハの店の2階でおこなわれていたオルガンを中心とする「ヤマハの音楽教室」に週に1回通わされた。最初、特別よく考えもせずに「そんなもの」かみたいに思って通ったが、ある日、毎日、練習していたオルガンを「オルガンをもらいにきましたあ」と言って持ち去った人たちがいて、「なんで、オルガンを持っていくのお? そのオルガン、ぼくが毎日、練習してるオルガンやでえ。なんで、ぼくが毎日練習してるオルガンを持っていくのお」と哀願したが、やってきた大人の男たちは子供の言うことなんかには耳を貸さず有無を言わさず無視して私が毎日練習に使っていたオルガンを軽トラックに積み込んで持ち去ってしまった。
1980年代、日本キリスト教団箕面教会(大阪府箕面市)の牧師だったS田さん(男。「大阪経大卒」と本人は言っていたようだが、「大阪経大卒」で牧師になることはできないはずで、大阪経大を卒業した後、トーシンダイ(東京神学大学)に行って牧師になられたらしい。「私は家が貧乏だった」と言いまくられるのだったが、「家が貧乏だった」にしては私立大学を2つも行った人だった。「家が貧乏だったから、本当は慶應に行きたかったけれども大阪経大に行った」とおっしゃる方だったが、日本育英会奨学金という制度があり、「家が貧乏だった」けれども「慶應大に行きたかった」のなら日本育英会奨学金で支給してもらえるのは「学費分」だったからそれを支給してもらって慶應大に行けば良さそうなものだったが行かずに「家が貧乏だったから大阪経大に行った」と言いまくる人だった。)が「私は子供の頃、家が貧乏で借金取りに追われていた。借金取りに追われるということほど大変な経験はない。こういう経験をした人間は何だってできる」と御自慢なさる方でそれが「牧師説教」だったのだが、そういう「牧師説教」を聞いて「この人はえらい人やあ」とカリスマ性を感じて、その後もその人の話を聞きたいという気持ちになる「信者」もいるのかもしれないが、私なんかは「ちょっと違う」ように感じた。 な~んかちょっと違うように感じたのは「借金取りに追われることほど大変な経験はない」と毎度毎度言われるのならば、せめて百回に一回でも「本来、払ってもらわないいけないもの払ってもらえずに逃げられた者の大変さ」というものも言ってみてはどうなのか、「払うべきものを払わずに逃げている人の大変さ」ばかり言いまくるのは片手落ちではないのか・・という点、そして、なんか「借金取りに追われていた」人間以外は何の苦労もしてきていないみたいな言い方だが、我が家は特別の金持ちとかではなかったが特に「借金取りに追われていた」ということでもなかったけれども、「借金取りに追われていた」わけではないけれども、子供が毎日、それで練習していたオルガンを取り上げに来て、子供が「なんで持っていくのお」と持っていかないでと哀願しているのに有無を言わさず持っていかれてしまう・・・という経験はしてきているのだ・・が、「借金取りに追われていた」わけではない家庭の息子はそういう経験なんかしてないだろうと勝手に決めつけたような態度・・・というのは、「牧師てそんなもんかなあ」と考えるべきなのかどうなのか・・・
後から母親に聞いた話では母親もいきさつを聞いていなかったらしく、又、オルガンを持ち去るために来た人がどういう人なのかもよく聞いていなかったらしい。うちの父親は時々そういうことをするらしい。うちの父親がどこかの喫茶店か何かで出会った人が「オルガンがあったらええねんけどな」「オルガンがあったらうちの子にオルガンを習わせるんやけどなあ」とか言ったか何かみたいで、それでうちの父親は「それやったら、クルマで取りに来てもろうたら、うちのオルガン、あげまっさあ」とか言いよったみたいだった。それで、私が毎日、練習して、練習後は布でふきあげていたオルガンをよその人間が突然やってきて持ち去ったらしかった。うちの父親はオルガンを持ち去られた後、言うのだった、「オルガンみたいなもん、要ら~ん」と。なんで「要らん」のお??? そんなこと言われても、そのオルガンで私は毎日毎日、オルガンの練習を続けてきたのであり、おっさんは私がそのオルガンで練習しているのを何度も何度も見ていたはずだったのだが、それでも「オルガンなんか、要ら~ん」と言ってよその人にあげてしまったのだった( 一一)
うちの父親は、うちの母親と結婚してすぐの頃、給料が安くて、しかも父の両親がいて、父の弟も家にいて子供が2人産まれて生活が大変だったらしいが、ボーナスがもらえるというのでうちの母親はそれでなんとかやっていける・・と思ったら、家にそのボーナスを持ち帰ることなく、途中でバイオリンを買ってボーナスをバイオリンに変えてしまった・・ということがあったらしく、うちの母親は「あのバイオリンを見た時は悲しかった」と話していた・・・が、そのバイオリンを時々ひいていたが、そのバイオリンを弾く際に音をとるのにピアノを使っていた。だから、「ピアノがあったらそれでええ。ピアノがあったらオルガンなんか要らん」と判断して、それで「オルガンがあったら子供にオルガンを習わせるのになあ」とか言っていたのか・・・という喫茶店かどこかにいたおっさんたちに私が毎日練習していたオルガンを「そんなもん、要ら~ん」と言ってあげてしまったのだった。悲しかった(泣)。
私が19歳から20歳になる年、うちの父親は「こいつには、小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでも、ええもんばっかしこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ!」などと言い出したので驚き、「そんなことない」「絶対にそんなことない」と言ったところ、「はあん。こいつ、こんなこと言いよる。難儀やなあ。こいつ、絶対におかしいわ」と言うのだった。「おかしい」のは、それはあんたやろうが、あんた。あんた、私が毎日毎日、練習していたオルガンを取り上げただろうが。あんた、私が毎日毎日、練習して、毎日毎日、布でふきあげていたオルガンをとりあげてよその人間にくれてやっただろうが! 何が「欲しいというものは、よそとはちごうて、何でも何でもどんなもんでも即座にこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ」じゃ 子供が毎日毎日練習しているオルガンを取り上げてよその人間にくれてやる親がどこにあるか・・・というと、そんじょそこらにはないが、我が家にあったのだった。その親が「こいつには、小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでも、ええもんばっかしこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ!」とその子供が20歳になる年になると言い出したのだった。私が「そんなことない」「絶対にそんなことない」と言ったのを聞いて、うちの父親の「親友」で医者屋で「女川教(めがわきょう)」という新興宗教の教祖の男が「お父さん、お父さん。こいつがこういうことを言うのは、それは病気やからです。お父さんはお父さんがおっしゃるように『小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでも、ええもんばっかしこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきた』のにからに、こいつがわかりよらんのはこれは病気やからです。病気がこいつにこういうことを言わせてるんです」と言い出した。それを聞いてうちの父親は「そうでんなあ。病気やからでっしゃろかなあ。難儀でんなあ。わしはこいつに『小さい頃から、よそとはちごうて、欲しいというものは、どんなもんでも、何でも何でも何でも何でも、どんなもんでもどんなもんでも、ええもんばっかしこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきた』のにからに、それをわかりよらんというのは病気やからでんなあ。クスリ飲まさんといかん、クスリ、クスリ、クスリ、クスリ。それもちょっとではいかん、大量に飲ませてやらんといかん、クスリを大量に飲ませてメロンメロンにしてやらんといかん。いや、クスリではいかん。ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪ ロボトミーか電気ショックやったらんといかん。電気ショックやったるべきや、電気ショック。電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック、電気ショック♪」と言うのだった。おそろしい。実におそろしい。 しかし、ロボトミーでも電気ショックでもやればいい。キューバ革命の際、フィデル=カストロはバチスタ政権から裁判にかけられ、そこで「私に死刑を宣告せよ。そのようなことは何ら問題ではない。歴史が私に正義を宣告するであろう」と述べたというが、同様に「私にロボトミーもしくは電気ショックをおこなって殺せばよい。歴史が私に正義を宣告するであろう」というものだった。
スタンガン
( ↑ 「電気ショック療法」 )
わがキューバ革命 (1961年) (新しい人間双書) - フィデル・カストロ, 池上 幹徳
その後、毎日練習してきたオルガンを奪われた私は、オルガン教室に通っているのにオルガンの練習をピアノで代用した。 旧ソ連の映画『シベリア物語』には、第二次世界大戦に徴兵されて行かされたピアニストの男にピアノの指導者が「ピアノの練習はしていたか。ルビンシュタインは(ピアノがない場所では)板の上で指を動かして練習したという」と話す場面があったが、小学校1年2年の時の私はオルガンがないからピアノを代用してオルガンの練習をした。しかし、・・なんで、ピアノを代用させてオルガンの練習をさせるのか、なんで、子供がオルガン教室に通っているのにその子供が練習に使っているオルガンを奪い取ってよその人間にくれてやるのか・・・と思うが、それがうちの父親だった。それが「クリスチャン」なのだ。
〔 『シベリア物語』で、元ピアニストの男が船の上でアコーディオンを弾きながら「バイカル湖のほとり」を歌う場面はなかなか好きだ、26:40~ ・・が、今、視聴すると、この人、あんまりうまくないな・・、むしろ、背後のコーラスの方がうまい。 同映画ではシベリアはロシアの土地みたいに表現されているが、しかし、シベリアはロシアの植民地であって本来のロシアの土地ではないはずだが。
※ YouTube-【日本語字幕】シベリヤ物語 Ballad of sberia(1947)https://www.youtube.com/watch?v=QtMU0KAc9K4 26:40~
「バイカル湖のほとり」の歌はいい歌だと思う。 〕
ヤマハの(オルガンを中心とする)音楽教室は2年間のもので半年ごとに学費を払うことになっていたようだが、2年の前半が終わった時点で、うちの親は「あんなん、あかん」と言ってやめさせてしまったのだ。子供は最後まで行きたかった。「あかん」かどうかにかかわらず、1年半やってあと半年だったから最後まで行きたかった・・が、我が家の特徴として子供の意志は無視されるという特徴があった。
そして、かわりに近くの高校の音楽の先生が土曜日だけ自宅でピアノを教えているという人の所に、今度はピアノを習いに通わされた。その先生は悪くなかったとは思っていたが「指が寝ている。指を立ててひきなさい」と言われて、一生懸命、指を立てて弾こうとしたのだったがものすごくひきにくかった・・・が、それから何十年も経ち、その頃はなかったDVDというものができて、ピアニストと言われる人の演奏のDVDが販売されるようになり、そういうものを見てみると、「世界的ピアニスト」はその頃の私よりもはるかに指を寝かせて弾いていた。指を立てて弾くべきだというのがその先生の説だったが、必ずしも絶対的に正しいというものでもなかったのではないかと思う。
そのうち、小学校の4年の時に大阪府北部に転居した。通える所にピアノの先生がないか・・ということで、その阿倍野区の先生の妹さんが大阪市淀川区の阪急「十三(じゅうそう)」駅の近くで「ピアノの先生」をされていたので、そこにしばらく通った。しかし、その先生はすでに「バイエル」は終えている私に「第二バイエル」みたいな教本をさせて、これを終えたらひとまわり難易度の高いものをさせてもらえるだろうと思って頑張ってそれを終えると、「第二バイエル」を終えるとまたもや「第三バイエル」みたいなものをさせて、それをはてしなく繰り替えさせられて、そのうち、嫌になってしまった。「こういう基礎的なものをきっちりとやるのが大事だから」と言われるのだったが、野球で素振りが大事か、テニスで壁打ちが大事か、野村じいさんは南海ホークスの2年目の終わり、ハワイに優勝のご褒美を兼ねた練習旅行にチームが行った際に二軍の監督が推薦してくれて捕手を3人連れていった中で二軍選手の捕手として帯同させてもらった際に、夜、ほかの選手がハワイで遊びに出た後も、鶴岡監督の部屋の窓の前に行って只管バットを振り続けると、そのうち監督室の窓が開いて「こんな夜遅くまでバットを振ってるのは誰だ」「野村か」と言って窓が閉められた。そのうち、正捕手が怪我をしたが、正捕手が怪我をしても二番手捕手が試合に出ることになりその下の野村に出番はないと思っていたら、二番手捕手はハワイで夜は遊びまくり、宿舎に現地の若い女性が「ハ~イ」とか言って訪ねてきたりしていて、それを見た鶴岡は「こんなやつ、使いたくない」と思ったらしく、「野村、出い」と言って試合に出してくれた。ハワイのチームは野球のレベルは高くなくて成果を出せて、そして日本に帰ってからも試合に出してもらえて成果を出せて、そして公式戦が始まる直前、正捕手が「治りましたあ」と言ってきたが、鶴岡は「『治りました』と言えば試合に出してもらえると思ってるのか」と気分を害したらしく、正捕手の怪我が治っても野村を試合に出してくれて正捕手の座を掴んだ・・・・とどこやらに書いていたが、又、張本が「打者が練習するのにバット振らずに何やるんですか」と言うておったが、他方で「今浪さん」はYouTube で「ぼくは素振りはあんまりやらなかった」と言っていたが、素振りをやることが相当益になるタイプの打者とそうでない打者がいるそうだ・・・が、素振りが役に立つのかどうかはさておき、ピアノの練習をするのに「バイエル」を終えたら「第二バイエル」、それを終えたら「第三バイエル」、それを終えたら「第四バイエル」・・と「こういう基礎的なことをきっちりとやるのが大事だから」と言われて、それは間違いではなかったとしても、そのいち、もう嫌になってしまった。
高校の同級生とかで、初めて見る楽譜でもけっこう難しい曲を初見で簡単に弾いてみせたりするような人がいたが、私は一生懸命練習したのに、どうしてそうなれなかったか・・・というと、小学校の6年の時だったか「男の子だからピアノはもうやらなくてよろしい」と言ってやめさせられた、本人の意志なんかまったく聞くことなくやめさせられたから・・というのが一番の理由だが、それとともに、「街のピアノの先生」になんかピアノを習ってるから・・だったのではないかとも思うのだ。要するに、あの先生は「基礎的なことをきっちりと学んでおくのが大事だから」ではなくて、「第二バイエル」「第三バイエル」しか教えることができない人だったのではないか・・と思う。ルドルフ=ゼルキンとかカサドシュとか、そこまでの世界的ピアニストでなくてもいいから、ともかくも「プロのピアニスト」という人について学ぶか、単に「街のピアノの先生」に学ぶかで結果は違うように思うようになった。あれだけの努力をするのなら、「ともかくもプロのピアニスト」という人について学んでおれば、相当上達したのではないのか・・と思うのだが、「そのへんのおばさん」とたいして変わらない「街のピアノの先生」について一生懸命練習させる・・というのは、考えようによってはかわいそう・・のようにも思う。
それに対して、私と10歳程度違ううちのお姉さん2人は「プロのピアノの先生」にピアノを習ったらしかった。「なんで、その先生に私は習わせてもらえなかったの」とうちの母親に後からきいたところ、「男の子やから、いいかげんな先生でもええと思ったんや」と言うのだった・・・が、「男の子やから、ええかげんな先生でもええと思った」ということで「ええかげんな先生」についてピアノの練習させておきながら、それでいて「男の子はええなあ。なんでもさせてもらえて」とか何とかかんとか「プロのピアノの先生」についてピアノを学ばせてもらったお姉さんから言われまくったのだから、そのあたりについてはあんまり気分よくない。
うちのお姉さんが習った「プロのピアノの先生」はどこで知ったかというと、阿倍野区に住んでいた時に近くに住んでいた人だったことかららしい。 それなら、日曜ごとに南大阪教会の教会学校に通ったのだから、その先生の所に通わせてくれれば良かったのに・・とか思ったりもしたが、「プロのピアニスト」だけあってプライドが高くて「子守りとは違います」と小学校低学年くらいの子供を習わせる場合には常に親がついていかないといけないということで、その分、親は大変で、又、月謝も「街のピアノの先生」よりも高かったらしい。
しかし、たとえ高かったとしても「コストと利益を比較考量して」考えるならば、「そのへんのおばさん」とたいして変わらない「街のピアノの先生」について「第二バイエル」「第三バイエル」「第四バイエル」と素振りばっかり大量にさせられるよりいいのではないのかと思えないこともなかった。うちの親は子供の努力・労力はただだと思っていたみたいだったが、今から振り返ってみると子供の努力・労力というのは決してただではないと思うのだが、そういうことを考えない親だった。「コストと利益を比較考量して」という場合に子供の努力・労力というものを「コスト」のうちには決して入れない親だった。
天王寺のあたりに、母のいとこにあたるおばさんが住んでいて、一度行ったことがあったが、私より少し年上の息子と私より少し年下の娘があって、母とそこのお母さんがいとこだったらしく、お父さんは北野高校卒で北野高校在学中、漫画家の手塚治虫と同級生だったそうで『鉄腕アトム』に出てくる「ひげおやじ」だったか「お茶の水博士」だったかどっちかのモデルだったらしい。
※ YouTube-鉄腕アトムhttps://www.youtube.com/watch?v=Mh4Cn20ZbWY
うちの母とそこのお母さんがいとこということは、私とそこの息子・娘とは「またいとこ」ということになるか。その「またいとこ」は兄の方は高津高校に行き、妹は高津高校だったか住吉高校だったか、そのあたりだったような気がするが記憶がかならずしも確かではない・・が、その妹の方は、うちのお姉さんが習った人と同じピアノの先生について、そして、音楽の勉強にドイツに留学までさせてもらったらしい。うちの父親は「世の中の親でわしいほどエライえらいエライお父さんはないねんで」と言いまくっていたが、うちは特に豪邸とかではないけれどもともかくも土地付きの戸建の家に住んでいたが、それに対して「手塚治虫の北野高校の時の同級生」だったというおっさんは集合住宅に住んでおって、実際には貧相な家に住んでいても金持ちの人もおれば逆もあるとはいえ、住んでいる家で判断するならうちの方がそこより金持ちみたいに見えたのだったが、それでも「うちは芸大だの音大だのに行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」とうちの父親から言われたものだったが、ピアノの練習させられてコールユーブンゲンやって腹筋運動やって発声練習やって、あげくのはてに「おまえ、歌うまい。黒田節うたえ、黒田節。 歌えチャンコロ、黒田節~い! とってちってたあ~あ♪」と言われるはめになったが、それに対して、母のいとこの娘、私の「またいとこ」は北野高校で手塚治虫の同級生だったというおっさんがどこに勤めておったか記憶が曖昧だが、その時は天王寺の集合住宅に住んでいて、そんなに豪邸の住人ではなかったはずだが、それでも「プロのピアニスト」にピアノを習い、芸大だか音大だかに行かせてもらった上でドイツに留学して、あげくのはてに「ドイツ人と結婚しよった」・・・あ~あ・・て、ドイツ人が悪いわけではないが親としてはうれしくなかったらしいが、「その年齢の時に外国に行っていたのだからしかたがないのかもしれない」と母のいとこにあたったおばさんは私に話していたことがあった。うちの父親は「わしと女川先生がお好みあそばす女を10人ほど用意して連れてこ~い。甘ったれとってはいかんぞチャンコロろすけ! わしと女川先生がお好みあそばす女を10人ほど連れてこい。その中からどいつが一番ええか見て決めたるわあ」とおっしゃるのだった。「けっこうです」「決めていりません」と言うと、「ええかげんにせえよ、チャンコロろすけイタコ」「どういう相手と結婚するかというのは、これは大変大事なことやねんぞチャンコロ! おまえが決めたらいかんねんぞ、チャンコロが決めることとは違うねんぞチャンコロ! わしいとか女川先生とかのドイツ人が決めることやねんぞ、ドイツ人が。わしと女川先生はドイツ人でおまえはチャンコロやねんぞチャンコロ。わしはドイツ人で慶應の人間、女川先生はドイツ人で医者の階級のお方。医者というのは普通の人間とは違うねんぞ。医者というのは普通の人間とは違って超能力があんねんぞ。中でも女川先生のような名医中の名医になると、パっと一目見ただけでその人間が何を考えてるか見抜くことができて、パっと一目見ただけでその人間の将来を予測することができるねんぞ。チャンコロとは違うねんぞチャンコロとは。わしはドイツ人で慶應、女川先生はドイツ人で医者、おまえはチャンコロで浪商やねんぞ浪商! おまえは自分は北野高校に行ったとつけあがって思っておるかもしれんけれども、たとえ北野高校に行ってもそれでもおまえは浪商やねんぞ浪商! チャンコロで浪商の分際でドイツ人で慶應のわしいとかドイツ人で医者~の女川先生と一緒の人間やなんぞと思いあがってはならんぞチャンコロろすけ! 民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな! てってこっこてっててって、らったらったらったら、てってこっこてっててって、らったらったらったらあ~あ♪」と何度も何度も言われたものだった。
北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒。担当科目「国語」)が「あなたのお父さんほどすばらしいお父さんはなかなかないわよ」と言い、「私は父親がなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」と言い、そう言ってもらってうちの父親は喜び、「わしほどすばらしいお父さんはなかなかないねんで。北野高校の先生であられる作野先生がそうおっしゃってるねんで。わかってますのんかあ」と言うのだった。「『北野高校の先生』という『普通の先生』よりもえらい先生がおっしゃってることですねんでえ。わかっとんのかチャンコロ、わかっとんのかチャンコロ、わかっとんのかわかっとんのかわかっとんのかチャンコロ♪」とおっしゃるのだった。そのうち、旧姓作野礼子は大阪府立のどこだったか無名高校に転任になって移り、「北野高校の先生という普通よりもえらい先生」から「無名高校の普通の先生」に格下げになりよった(笑)
権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ
だいたい、旧姓作野礼子さんは「私は両親が離婚したんだからねえ」だの「私は父親がいなかったんだからねえ」だのというのを自慢しまくりなさるのだったが、「私は両親が離婚したんだからねえ」だの「私は父親がいなかったんだからねえ」だのなんて、そんなもん、自慢するもんかあ~あ??? 何年か前、キリスト教書店には「入れ墨クリスチャン」と言って「元ヤクザのクリスチャン」というおっさんたち4人だか5人だかの写真が載ったチラシが置かれていたことがあったが、「ちょっと違う」のではないかと思ったことがあった。「元ヤクザのクリスチャン」というのは「元ヤクザでないクリスチャン」よりも何かえらいのか? 芸能人とかで「元暴走族でしたあ」とか「元ワルでしたあ」とかカミングアウトする人が時々あるが、「正直に告白している」のなら悪くはないだろうが、それを「売り」にしているのではないかみたいな人もあり、それは違うのではないかと思えるのだ。「元暴走族」とか「元ワル」とかはそうでない人間よりも何かエライのか? 「元ヤクザのクリスチャン」がいても悪くはないだろうけれども、「元ヤクザのクリスチャン」は「元ヤクザでないクリスチャン」よりもえらいみたいに言うのならば、それは違うのではないか。それと同様に「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」とそういうことを自慢しまくる人って、ちょっと何か勘違いしているのではないか。
私は子供の頃から、うちの2人のお姉さんから「男の子は何でもさせてもらえてええなあ」と言われまくってきたのだった・・・が、違うと思うのだ。うちのお姉さん2人は「女の子だから」と「プロのピアニスト」の先生についてピアノを習わせてもらえたのに対して、私は「男の子だから、どうせ中学校に行く頃にはやめさせるんだから、いいかげんな先生でもいいと思った」などと言って「いいかげんな先生」についてピアノの練習させられた。 なによりも、その「どうせ中学校に行く頃にはやめさせるんだから」と、その「やめさせる」という前提でピアノの練習を子供にさせるという、その考え方が理解できない。私が親なら、その「やめさせるためにさせる」というのは、それはかわいそうではないか・・と思うがうちの親はそう思わなかったらしかった。
そして、「またいとこ」は女だったが・・なのか、女だったから・・なのか、「プロのピアニスト」にピアノを習いに行かせてもらい、そして音大だか芸大だかに行かせてもらって、さらにドイツに留学までさせてもらった。どう考えても「男の子は女と違ってええなあ。なんでもさせてもらえて」というのは違うように思うのだ。むしろ、このあたりについては女の方が得しているように思えてしかたがない。 ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ、わしぁ日陰の月見草や・・・
北野高校の音楽の先生だったN川先生(女。1970年代後半当時、40代後半くらい?)は「私は1年生の担任だったら持ってくれと言われればやりますけれども、3年の担任ならやってくれと言われても断ります」と言われていた。「やっぱり、3年の担任は京大とか阪大とか受ける人のために、そういう大学の入学試験にある科目を担当している人で、自分自身もそういう大学を受けた経験がある人がやった方がいいと思いますから。芸大(東京芸大音楽学部)に行きたいとかいう人なら私が受けた時の経験を聞かせてあげるとかもできますけれども、京大とか阪大とかを受ける場合のことは私はわかりませんから、3年の担任は自分がそういう大学を受けた経験のある人がやった方がいいと思います」と言われていた。良心的だと思う。
しかし、「女の子だったら芸大(東京芸大音楽学部)とか行ってもいいと思うけれども、男の子はここの高校の生徒は京大とか阪大とかに行ける可能性がある人だから、そういう人に芸大とかに行かせるのがいいかというと、私は勧めることはできません」と言われたのだった・・が、それはおかしいように思うのだ。なんで「女の子だったら」芸大とか行きたいと思う大学の学部に行かせてもらって、「男の子の場合は」行かせてもらうことができず、「撃ちてしやまん、一億火の玉」「欲しがりません、勝つまでは」「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に孝に孝に」「贅沢は敵だあ」「戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元~を。わしに孝行せえよお」の学部、近代経済学部みたいなもんに行かされなきゃならんのだ。それでいて、「男の子はええなあ」などと言われまくってからに、なんでやねん、「女の子」 の方が行きたい大学学部に行かせてもらってドイツに留学までさせてもらってからに、よっぽど「女の子の方がええなあ」やろうが。よく言うわ♪ バカ言ってんじゃないわ♪
ただし、北野高校あたりの生徒の場合、音楽や美術はある程度できたとしても、芸大・音大といった所をもしも受けて通ったとしても、京大・阪大などを受ける場合にある試験科目の勉強が音楽や美術にどれだけ役立つかという問題があり、芸大・音大に行くなら数学・英語・国語・理科・社会科の成績は京大や阪大に行けるだけの成績ほどは必要なくて、逆に音楽や美術の能力はもっと要る・・可能性があり、それだと、せっかく、ここまで勉強してきたのに、たいして勉強してきていない高校の生徒で音楽や美術だけできる生徒の方が有利になる可能性が考えられる・・と思うと、芸大・音大に進学させることは必ずしも奨励できない・・・というのはそうおかしな話でもないかもしれない。
しかし、だからといって、「撃ちてしやまん、一億火の玉」「欲しがりません、勝つまでは」「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に孝に孝に」「贅沢は敵だあ」「戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事の元~を。わしに孝行せえよお」の学部、近代経済学部みたいなもんに、なんで行かされなきゃならんのだ、せっかく小学校の1年から真面目に努力して勉強してきたのに、近代経済学部みたいなもんに行かされたのでは「高卒と一緒」にされてしまう。それではあほくさいではないか。
それで、だ。たとえば、慶應大学の文学部には「音楽学科」なんてのがあるわけで、「音楽」担当の教授という方がおられるのだが、「音楽」の教授て何をやっておられるかというと、音楽史を専門とされている。演奏するのは専門ではない。そういう先生がおられるのだ。東大とか京大とか阪大とかにも、それに該当する学部学科があるのではないかと思うのだ。
西洋音楽史 - ヴァルター コルネーダー, 中野 博詞, 樋口 隆一, 美山 良夫
それから、北野高校に入学した時、芸術科目は音楽・美術・書道の3科目から1科目選択で合格発表の日にその日のうちに決めないといけないということで、中学校と同じように高校でも音楽も美術もあるものだろうと思い込んでいた私は、突然、その日のうちにどっちか捨てないといけないと求められて苦悩したものだった。音楽も美術も苦手で嫌いという人は負担が軽い方を選ぶようだったが、私の場合は「体育以外増位山」みたいな人間で、「増位山」というのは、1980年頃に大関に昇進した7代目増位山(増位山太志郎)のことで、体育は力士として大関までなるし、音楽は「そんな夕子にほれました」とか大ヒット曲を出すわ、美術は2002年に二科会の特選に入賞しており、「巨泉のクイズダービー」で「今、小学生の間で、算数・国語・理科・社会科の主要科目以外の科目、体育・音楽・図画工作が得意な生徒のことをある人物名で呼ばれるようですが、それは誰でしょう?」という問題で、篠沢教授なんかは当然わからないが、原たいら さんは見事に「増位山(ますいやま)」と正解したのだったが、数学・英語・国語・理科・社会科よりも音楽と美術が好きな人間としては、どっちか捨てろと突然言われると困った。
※ YouTube-【MV】増位山太志郎/そんな夕子にほれました(full ver.)https://www.youtube.com/watch?v=JRPCoHi-zms
ところが、うちの父親が横から「あんたは音楽や」と言って決めてしまった 音楽にしようか美術にしようか考えていたのだったが、なんで、そんなものを父親に「あんたは音楽や」と決められなければならないのか・・・と思ったが、それがうちの父親だった。
美術や音楽は授業の前と後とに絵具や墨を用意して片づけないといけないのに対して、音楽は身ひとつでできる。しかし、音楽は演奏する場合でも聴く場合でもその音楽がその後に数学や英語や国語をやっている時に突然耳元に浮かんできたりすることがあるので、他の科目の学習の妨げになる危険もあった。又、私は小学校の3年の時の健康診断の視力測定では両眼とも1.5見えたが、その後、近視になってしまったのだが、音楽は「楽譜を見る」作業をする必要があるので眼を悪くしやすいのに対して、美術はそういうことはない。そういったことを考えて、どうしたものか考えだしたところを「あんたは音楽や」と決められてしまったのだった。そして、その後、「あんたは音楽や」と決めたおっさんは言うようになったのだ。「あんた、歌うまい。黒田節うたえ、黒田節。歌えチャンコロ、黒田節~い!」と。私は黒田節を歌わされるために音楽の練習・修行をさせられたらしかった
音楽が嫌いな理由はもうひとつあった。橋下徹が「クラシック音楽が好きな人間はインテリぶりたい俗物だ」と言ったことがあったが、それは正しいかというと、結論としては正しくない。「インテリぶりたい俗物」でない人で「クラシック音楽が好きな人間」はいる。しかし、「クラシック音楽が好き」という人間で「インテリぶりたい俗物」だから「クラシック音楽が好き」ということにしている人が少なからずいるのは事実だ。 だから、「クラシック音楽が好きな人間はインテリぶりたい俗物だ」というのは正しいかというと結論としては正しくはないが、「インテリぶりたい俗物だからクラシック音楽が好きだということにしている人」がいないかというといると思う、「クラシック音楽が好きな人間はインテリぶりたい俗物だ」という一面がないかというと、ないことはないと思うのだ。 うちの父親は私に言ったのだ。「おまえみたいなもんにクラシック音楽みたいなもん、わかるわけないやろ。おまえなんかに。クラシック音楽というのは、わしい~いのようなこおきゅう~うな人間がわかるもんや。おまえみたいなチャンコロがわかるわけないだろ、チャンコロに。ちゃんちゃんころころ、ちゃんころころ」 それで私はクラシック音楽というものが嫌いになった。クラシック音楽というのは、うちの父親のような「エッライえっらいエッライえっらいドイツ人が聴く音楽」だそうだったので。嫌いになった。本当に嫌いになった。
学校の体育の成績が少しくらい良くても、それでスポーツで「食べていける」ものでもない。同様に美術とか音楽とかの成績が良かったとしても、画家とか音楽家とかで「食べていける」というものでもないだろう。しかし、音大・芸大とかに行って高校・中学校の「音楽」「美術」の教諭の資格を取れば高校・中学校の「音楽」「美術」の先生として「食べていける」のではないか。その上で、画家として絵を描いて応募すれば、もしかして入賞するかもしれない、入賞できなくても入賞めざして絵を描きながら「学校の先生」として「食べていける」のではないか。
文学部の音楽家・美学科の大学院に行って「大学の先生」になれば、画家とかで成功できなくても「大学の先生」として「食べていける」のではないか。私が考えたのは「学芸員」として美術館・博物館で雇ってもらえないか・・ということだったが、学芸員という国家資格が難しいのかどうかは受けたことがないのでわからないが、資格を取得したとしても学芸員の採用は多くないので、採用してもらえるかどうかという方がけっこう難しいとか聞く。
新聞社に就職すると、政治部・社会部に比べて文化部は主流ではないみたいだけれども、元々、文化部がやることをやりたい者にとってはその方がいい。しかし、朝日新聞社・毎日新聞社はうちの父親が「朝日はアカやから勤めてはいかん。毎日もアカやから勤めてはいかん」とか言うし、それ以前に朝日新聞社・毎日新聞社は人気企業だからけっこう入社難易度は高いみたい。
新聞社ではなくて、音楽や美術を扱う出版社ならば音楽や美術について学んだ者は歓迎されるのではないか・・とか考えたのだが、これも難しいのは我が家の場合、うちの父親は「岩波書店はアカやから勤めてはいかん」とかともかくまともな出版社・新聞社はすべて「アカ」にしてしまうので勤められない。「学校の先生」というのも「学校の先生はアカやからなってはいかん」と言うのです。
結局、我が家はなっていいものなんか、ほとんどないのです。
「男の子は何でもさせてもらってええなあ」と私は子供の頃からうちのお姉さん2人にずっと言われてきたが、それは嘘だ。ちっともそんなことない。「朝日はアカやから勤めてはいけません」「毎日もアカやから勤めてはいかん」「岩波書店はアカやから勤めてはいかん」「出版社は給料が安いから勤めてはいかん」「学校の先生はアカやからなってはいかん」・・・「うちは大学院になんか行かすような金持ちとは違ます。甘ったれなさんな」「うちは文学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは医学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな。4年で卒業できる学部にしなさい」「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「商社は海外勤務があるからいけません」「うちは司法試験なんか受けさせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「国家公務員は転勤が多いからなってはいかん」・・・と、結局、我が家にはなっていいものなんて、ほとんどないのでした。あげくのはてに「あんた、箕面市役所に勤めてくれへんか」と言い出しよった( 一一) 疲れた・・・ 結局、我が家は「親というものは子供が大学に行く時に行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってやりたい勉強をやってつきたい仕事につけるようにさせてやりたいと思うからこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」とうちの母親から言われた嘘っぱちを本気にして小学校の1年から同級生が遊んでいる時も只管勉強してきて、あげくのはてに「高卒と一緒にされる学部」に行かされてしまった( 一一) 「とってちってたあ~あ」の学部に。
阪神タイガースに入団した赤星選手は亜細亜大学を卒業する時、プロ野球選手になりたいですと宣言していたが、どこの球団からも指名してもらえなかったが、その後、JR東日本で「駅員さん」をやりながら野球を続けていたところ、社会人野球の選手をプロ野球の球団の練習に参加させることがあって阪神タイガースの練習に参加した際に、そのすばらしい脚力を見た監督の野村が「プロでやりたいという気持ちはないのか」と尋ね、「やりたいです」と言い、「どこの球団でないと嫌とかいうのはあるか」ときかれて「嫌な所とかいうのはありません。どこでも、プロでできるならやりたいです」と答えたところ、野村が「ぜひ、あの選手を取ってくれ」とスカウトに言って指名されたらしい。阪神のスカウトでも赤星選手を取るべきだと主張したスカウトと、プロではだめだろうと言ったスカウトがいて、だめだろうというのはプロの野球選手としては身体が小さく非力だからプロでは通じないのではないかという意見だったらしいが、「どうしてもだめなら、試合終盤の代走要員としてでも使えるだろう」と野村じいさんが言って阪神が指名することになったらしい。しかし、指名されてから再び考えたらしい。プロ野球の選手になっても絶対に成功するとは限らない、2年くらいで自由契約にされる可能性だってある。そうなったなら、せっかく、JR東日本という簡単につぶれない会社で雇ってもらっているのに、その勤め先を失うだけになってしまう。はたして、プロ野球の選手になっていいものかどうか・・・思案したところ、これは赤星選手が引退後にYouTube で話していたことだが、その時に「親が『でも、やりたかったのでしょ』と、そう言ってくれた」そうだ。赤星選手の親は「でも、やりたかったのでしょ」とそう言ってくれたらしい。
それに対して、うちの父親はこう言ったのだった。「そんなもん、せんでもええんじゃ、チャンコロろすけイタコ!!! すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために。朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに。すべてをすべてをわしのために、ためにために。わしのためにわしのために」と。その上で言うのだった。「わしい、今まで、あんたに『わしに孝行せえ』なんてこと言うたことはたったの一回としてないやろお。いくらなんでも、そのくらいのことはわかってもらわんといかん」と。 あんた、今、言うたばっかりやろうが。「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝にわしに孝にわしに孝に孝に孝に・・」と今まさに言いまくったばっかりやろうが。あんた、これまで毎日毎日、ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝にわしに孝にわしに孝に孝に孝に・・」と言いまくってきたやろうが・・というおっさんが「わしい、今まで、あんたに『わしに孝行せえ』なんてこと言うたことはたったの一回としてないやろお。いくらなんでも、そのくらいのことはわかってもらわんといかんでえ」とおっしゃるのだった。そして、赤星選手の親とは逆で「そんなもん、せんでもええんじゃチャンコロろすけイタコ! 甘ったれるなあ~あ!!!」とおっしゃるのだった。
「男の子は何でもさせてもらえてええなあ」と、うちのお姉さん2人から言われ続けてきたが、嘘だ、そんなものは。「そんなもん、せんでもええんじゃ、チャンコロろすけイタコ!」と常に言われてきた。 努力の果実はすべて「わしのために、わしのために」「わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに」のために奪い取られた。 「男の子は何でもさせてもらえてええなあ」なんて嘘だ。「またいとこ」の女の子は私は「そのへんのおばさん」とたいして変わらない「街のピアノの先生」に習わされたのと違って「プロのピアニストの先生」についてピアノを学び、そしてドイツに留学までさせてもらった。「そんなもん、せんでもええんじゃチャンコロろすけイタコ!」とは言われなかったみたいだ。 「男の子は女と違って何でもさせてもらえてええなあ」なんて嘘だ。むしろ、逆だ。ええなあ、「プロのピアニスト」についてピアノを習えて。うらやましいなあ、ほんまにええなあ。・・・ええなあ、音楽の大学に行かせてもらえてからに、ドイツに音楽の留学になんか行かせてもらえてからに、女の子はほんまにええなあ、うらやましいなあ。わしらは「大学は勉強する所とは違うねんぞ、大学はあ。大学はアルバイトする所やねんぞ、アルバイト。アルバイトを嫌がる人間はモラトリアム人間病という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえらい先生がそうおっしゃってる。てってこっこてっててってらったらったらったら♪ 欲しがりません、勝つまでは。贅沢は敵だあ。とってちってたあ~あ!!!」と毎日毎日言われ続けてきたもんだ。「下の仕事を長く多くやればやるほどええんや」と言われて、うちの父親は私にその「下の仕事」をはてしなくさせようとした。よその息子にはそういうことは絶対に言わないおっさんやった。
ええなあ、うらやましいなあ、女の子はええなあ、ほんまにええなあ。ほんまにうらやましいなあ・・と心の底から思う。なにしろ、わしぁ日陰の月見草・・・・・
天皇制 (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 20) - 菅 孝行, 貝原 浩
教育勅語 - 山住 正己
昭和史 新版 (岩波新書) - 遠山 茂樹, 今井 清一, 藤原 彰
小此木啓吾はどういう経歴の人かというと、小学校:慶應(慶應幼稚舎)・中学校:慶應(慶應中等部)・高校:慶應(慶應義塾高校)・大学:慶應(慶應大学医学部)・勤務先:慶應(慶應大学医学部および慶應病院)というサラブレッド的慶應もしくは「ほとんどビョーキ」の人であり、ひとには「アルバイトを嫌がる人間はモラトリアム人間病という病気です。病気は治療せんといかん、治療せんといかん。ロボトミーやったるべきや、ロボトミー! 電気ショックやったらんといかん、電気ショック!」などと勝手なことを言っていたようだが、それならば「揺り籠から墓場まで慶應」症候群は大学生の時にそんなにアルバイト漬けの生活をしていたのかというと、そんなもん、普通に考えて、慶應の内部進学がそんなもん、するわけないだろうが( 一一) まったく、つくづく勝手な男だ。
だいたい、「会社という所に勤めるのを嫌がる人間はモラトリアム人間病という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえら~い先生がそうおっしゃってる。ロボトミーやって治療してやらんんといかん、ロボトミー。電気ショックやって治療してやらんといかん、電気ショック♪」というのならば、何より小此木啓吾こそ「会社という所に勤めるのを嫌がる人間」だから「大学」という所と「病院」という所に勤めて「会社」という所に勤めないモラトリアム人間病の重症患者であり、「ロボトミーやったらんといかん、ロボトミー」「電気ショックやったらんといかん、電気ショック!」の人間だったはずだった。
小此木啓吾、死ね! 死ね、小此木啓吾!・・と思ったら、2003年9月にやっと死によった( 一一)
それにしても内部進学小此木啓吾独善主義症候群はほんま迷惑な男やった( 一一) その信奉者・エピゴウネンともども、二度とよみがえってこないでもらいたいものだ。
桃山学院高校は大阪府の私立高校の中で私が最も嫌いな高校だが、それには理由がある。理由なく嫌いだと言っているのではない。それを述べようと思ったが、字数がけっこう多くなったので、それは次回にきっちりと・ねっとりと述べることとする。・・「まあ、そう言わんと」と言われても嫌いなものは嫌いなんだ。その理由を次回に述べる。
(2024.7.4.)
週刊文春 2024年7月11日号[雑誌] - 週刊文春編集部
《 北海道旭川市三条通六丁目界隈は、地名をなぞり「三・六(サンロク)街」という通称で道民に親しまれている。ススキノに次ぐ道内第二の歓楽街には、約一千軒の飲食店がひしめき合い、週末になるときらびやかなネオンに包まれ、観光客や地元の酔客、若い客引きらが交錯する。
この街を拠点とする若者中心の不良グループが「サンロクキッズ」だ。殺人の疑いで北海道警に逮捕された旭川市の無職・内田梨瑚(りこ)容疑者(21)もその一員とされる。・・・
留萌の女子高生・村山月’(るな)さん(17)を、旭川市内の渓谷「神居古潬(かむいこたん)」の神居大橋から十メートル下の石狩川に突き落とし溺死させたとして、内田とA子容疑者(19)が再逮捕されてから約三週間が経過した。
・・・・
「内田は旭川の所轄署では”オンナ半グレ”として有名なワルで、彼女のことを知らない捜査員はモグリと言われます。というのも、内田は旭川を拠点とする暴力団の末端構成員と密接な関係を持ち、シャブの卸先になっていたとみられているため。・・・ 」
・・・・
三・六街のとあるバー。すでに複数の男と浮名を流していた内田は、ある年上の男性と偶然知り合い、談笑していた。内田のタイプだったのか、杯を交わすごとに親密さが増し、上機嫌に寄った二人は、夜の街に消えていった――
このおpとこは一体、何者か。捜査幹部が打ち明ける。
「旭川中央署のX警部補です。実は内田は、このX警部補と肉体関係を持っていた。彼は五月まで同署の刑事第一課強行犯係で係長を勤めていました。今回の事件は道警本部の捜査一家が主導しているとはいえ、実際は旭川方面本部が管轄する旭川中央署三階に帳場(捜査本部)が立っていた。つまり、X警部補は内田が起こした一連の事件を担当する刑事。彼には妻子がおり、内田とは、不倫関係にあったことになります」
・・・・ 》
( 「旭川17歳女子高生殺人犯 内田梨瑚(りこ)と担当刑事が不倫していた!」
「週刊文春」2024年7月11日号 ↑ 所収。 )
※ 懲役太郎チャンネルー【衝撃的事実】内田梨瑚と旭川警察の警部補が「不倫関係」でヤバすぎる!【旭川17歳女子高生殺人事件】https://www.youtube.com/watch?v=mU2-6s9oLWY
※ タカユキー旭川中央署 不倫不祥事刑事は複数人だった!! 内田梨瑚グループと合コンで穴兄弟確定!!https://www.youtube.com/watch?v=u0gtCGIv7Nc
※ ドラゴン記者チャンネルー旭川中央警察警部補と内田リコ不倫😱‼️北海道警察 https://www.youtube.com/watch?v=WOgbJp485Qk
,※ 衝撃スクープ 旭川殺人犯が担当刑事と不倫関係 週刊文春電子版 https://www.youtube.com/watch?v=GWtCIBnJFWU
北海道警察 日本で一番悪い奴ら (だいわ文庫) (だいわ文庫 H 68-2) - 織川 隆
警察腐敗―警視庁警察官の告発 (講談社+α新書) - 黒木昭雄
☆ 日本キリスト教団 南大阪教会 とその付近・界隈
1.寺西家長屋(大阪市)・昭和町駅付近、アルバイト漬けにされてもモラトリアム人間病で小此木啓吾やアルバイトなんか何もしない大学生はモラトリアム人間病ではないのは月5万円酒代使う男がアル中で10万円酒代使う男がアル中でないのと似ているhttps://philoarchi2212.seesaa.net/article/503680045.html
2.日本基督教団南大阪教会(大阪市阿倍野区)・村野藤吾設計の塔屋・さっちゃんの歌の碑。「東大に行ったら思いあがった人間になって女を泣かす」か「慶應に行ったら女たらしに『教育』されて悪影響うける」か https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503752327.html
3.文の里商店街と桃山学院高校・明浄学院高校。真夏に北野田駅から桃山学院大学まで歩いた思い出。「男の子は何でもさせてもらえてええなあ」なんて絶対嘘だ〔今回〕
4.桃山学院高校が嫌いな理由1「女子大生がいたら慶應の学生証を顔の前に突きつけてやろうか」という「水戸黄門の印籠」男( 一一) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503932251.html
5.桃山学院高校が嫌いな理由[2]ラグビーのため「だけ」に生まれてきた男。おのれの立場を認識できない男〔今回〕
6.桃山学院高校が嫌いな理由[3]お葬式があると必ず何かやる男。うちはあんたに今後絶対に何か頼むことはないと言ってすぐ後で息子の結婚式に出てくれと頼む男 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/504126690.html
7.桃山学院高校が嫌いな理由[4]嫌いな甥の悪口言うために関係ない高校をけなす男 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/504156267.html
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