「ファティマの聖母と羊飼い」「師イエズス修道女会」による「典礼センター ピエタ」。清水谷高校。「聖人」「福者」はヤハウェ以外を神と扱うことにならないか。サンピエトロ寺院「スイス人の傭兵」の無礼。『聖書』は読んではいかんと伝道する「クリスチャン」。自分の高校の卒業生に「浪人なんて」と責めて不良高校卒のやつが浪人することには応援する高校教諭。工繊大しか行けないくせに工学部行って大学教員になってる円満字。父親があるとどんなに大変か理解できないバカ女――大阪クリスチャンセンター・カトリック玉造教会【5/5】

[第695回]
  カトリック玉造教会(大阪市中央区玉造3丁目)の大阪聖マリア大聖堂の左より(西より)、高山右近像の前(南)のあたりに「ファティマの聖母と羊飼い」がある。↓
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《 ファティマの聖母と羊飼い
     (アリギーニ:作)
  1917年5月13日ポルトガルのファティマで、フランシスコ・マルト(9歳)とジャシンタ・マルト(7歳)は、従姉妹(いとこ)ルチア・ドス・サントス(10歳)と、羊の群れの世話をしていました。そこに、ロザリオを手にした輝く婦人が現れ、罪人の回心のために祈るようにと告げました。羊飼いたちはこの聖母マリアの出現を10月までの間、計6回にわたって受けました。ここに展示されている場面は、聖母マリアが羊飼いたちにメッセージを伝えているところです。
  2017年5月13日現地で、聖母出現100年を祝うと共に、フランシスコ・マルトとジャシンタ・マルトの2人の羊飼いが聖人の列に加えられました。聖母マリアと心をあわせて祈りましょう。
      カトリック大阪大司教区  》
と現地の説明書きに書かれています。
  1917年というと「人、悔いなし(1917)、ロシア革命」のロシア革命の年、第一次世界大戦(1914~1918)の最中、比較的最近・・のような感じがして、すでに107年経っている。
  「ルルドの聖母」が出現したのが1858年2月11日、「嫌でごわす(1858)とムラビヨフ」ロシア帝国のシベリア提督 ムラビヨフ=アムールスキーが清と交渉して、それまで極東方面のロシアと清との国境線は「権利の色はく(1689)権利章典」と同じ年の1689年のネルチンスク条約で決められたスタノボイ山脈(外興安嶺)より北がロシア領、それより南が清の領土という取り決めを改めて、アムール川(黒龍江)より北はロシア領で、アムール川(黒龍江)より南、ウスリー川より北の沿海州はロシアと清との「両国民雑居の地」としたアイグン条約(愛琿条約)が結ばれた都市。その2年後の北京条約でアイグン条約では「両国民雑居の地」とされたアムール川とウスリー川で挟まれた地域の沿海州をロシア領とすることにされた。ロシアが結ぶ条約における「両国民雑居の地」というのはくせもののようで、1855年の日露和親条約においても、千島列島はウルップ島(得撫島)より北がロシア領・エトロフ島(択捉島)より南が日本領でサハリン(樺太)は「両国民雑居の地」とされたはずだったが、その後、サハリン(樺太)に対してのロシアの支配が強まってきたことから1875年「千島の岩魚ごっそり(1875)、千島樺太交換条約」1875年の千島樺太交換条約を結んで、千島列島は全島日本領・サハリン(樺太)は全島、ロシア領・・ということにした、一般的にはサハリン(樺太)の半分と北千島ならサハリン(樺太)の半分の方が経済的価値はあると考えられるものを日本はロシアの圧力に屈して、単にサハリン(樺太)を失うだけよりは北千島を取得する方がいいと判断するに至った、ようで、1858年のアイグン条約でロシアと清との「両国民雑居の地」とされた沿海州がその2年後の北京条約でロシア領にされたのと似ている。考えてみると、1858年のアイグン条約より前はサハリン(樺太)の対岸もロシアの領土ではなかったのに、その3年前にロシアは日本との日露和親条約でサハリン(樺太)の領有を主張して「両国民雑居の地」という内容の条約を結んだわけだ。ロシアにとっては「両国民雑居の地」というのは「自分とこのもの」というつもりか。
1854年 日米和親条約・日英和親条約
1855年 日露和親条約
1856年 日蘭和親条約
1858年 「嫌でごわす(1858)とムラビヨフ」アイグン条約(愛琿条約)
      ルルドの聖母 出現
1860年 北京条約
      桜田門の変
1862年 坂下門外の変
1868年・明治1年 明治維新
1875年 「岩魚ごっそり(1875)」千島樺太交換条約
1904年 「ロシアに行くを知ってか(1904)兵隊さん」日露戦争
1905年 ポーツマス条約
1914~1918年 「行く意志(1914)あるのか」第一次世界大戦
1917年 「人、悔いなし(1917)」ロシア革命
      ファティマの聖母 出現
1923年 「幾人見つかる(1923)」関東大震災
1925年 「ひどく不合理(1925)」治安維持法
1926年・昭和1年
1931年 「人、苦しみ苛む(1931)」満州事変
1932年 「ひどく醜い(1932)」5・15事件
1936年 「ひどく寒い(1936)」2・26事件
1937年  盧溝橋事件
1937年~「戦さ長引く(1937)」日中戦争
なので、ファティマの聖母の出現はルルドの聖母よりも後の話ということになる。ルルドの聖母の出現は今(2024年)からだと126年前で、「ファティマの聖母」の話がロシア革命と同じ1917年で107年前。
※ ウィキペディアーファティマの聖母 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%9E%E3%81%AE%E8%81%96%E6%AF%8D

  それで、フランシスコ=マルトとジャシンタ=マルトの2人が「聖人」とされたそうで、高山右近は「福者」だそうだ。 そういえば、うちの父親は「わしは聖人やねんでえ~え。知ってたか~あ」と何度も言っていた。1980年代、うちの父親が言っていた話では「わし、女川(めがわ)先生、T子さん、M尾さん、それにヒットラー総統。この5人は聖人やね~ん」という話だった。 「女川先生」というのは、うちの父親の「親友」で、「患者」を薬漬けにして得たカネでドバカ息子を私立金権関西医大に裏口入学させた、というのが自慢の医者屋で「女川教(めがわきょう)」という新興宗教の教祖で「お父さんが、きみの家では一番しっかりしている。お父さんほど精神的に落ち着いた、気持ちの安定した、泰然自若の方はめったにおられない」とかなんとかかんとか言うものだから、うちの父親は「あの先生は名医やでえ。女川先生ほどええ先生はなかなかないでえ~え」だのなんだのと言うのだった。  T子さんはうちの上の方の姉で、我が家の3人兄弟中ではうちの父親が一番気に入っていた子供だった。どういうことをするから気に入るかというと、例をあげるならば、私が幼稚園の年少組だった時の正月、親戚のおじさん・おばさんからお年玉をもらったのだが、我が家はよその子と比べて、子供が欲しいと言ってもなかなか買ってもらえない家庭だったのだが、お年玉をもらったものだから、これで、よその子は買ってもらって持っているけれども私は買ってもらえなかったものを買える♪ ・・と思っていたら、うちの父親が私に「あんた、それ、使ったらもったいない。それ、全額、銀行に預金しなさい」と言ってきたのだった。「いやや! 絶対にいやや! せっかく、もらったのに、取り上げられるのん、いやや!」と私は言ったのだ。いくらなんでもそれはひどい! と子供でも思った。但し、その「いくらなんでもひどい」ということをやりたがるのがうちの父親だったのだが、子供はその点にはまだ気づいていなかった。うちの父親というのは、子供がいくら拒否してもそれで引き下がる男ではない。むしろ、うちの父親というのは「無理矢理やるのがええと思うねん、無理矢理、むりやり、無理矢理、無理矢理」と言う男、「無理矢理やるのが好きなタイプ」「嫌がることをさせるのが好きなタイプ」の男だったのだ。「お願い、そこだけはやめて」とか「かんにん。それだけは許してえ」なんて言おうものなら、ま~すますやりたくなってくる、ま~すますさせたくなってくるというそういう男だったのだ( 一一)
  下の姉がお見合いをした相手を嫌だと言うと、その時もまた「無理矢理やるのがええと思うねん、無理矢理、むりやり、無理矢理、むりやり」と言ってきかなかったが、そういう男、「無理矢理やるのが好きなタイプ」「嫌がることをさせるのが好きなタイプ」の男だったのだ。「あんた、銀行に預金するのは取られるのと違うねん。銀行にあずけたら利子がついて得するねん」などと言って騙して取り上げようとするのだった。銀行の預金というものが銀行に盗られるのではない・・なんてことは幼稚園児でも知っている。私は幼稚園児の頃からうちの母親が銀行に行く時にいつもついて行っていた。最寄駅の両側に三和銀行と住友銀行があったが、今はそこにはどちらもなくなってしまったが、どちらの銀行でだったかホール係の銀行員のおじさんからドロップをもらったことがあるのを覚えている。銀行に預金を預ければ利子がつき、定期預金だと満期になると最初に預けた金額より多い金額が返ってくる・・なんてことは幼稚園児も知っている。しかし、うちの父親が、幼稚園児がそれまで、よその家の子供は買ってもらえていたものを我が家は買ってもらえないで我慢してきたのだが、お年玉を親戚のおじさん・おばさんからもらったので、幼稚園の同じクラスの子供とか近所の子供とかは親に「お年玉で何何を買っていい?」ときくと、よほど変なものでなければ「いいよ」と言ってもらえて購入していたのだった・・が、我が家の場合はそうではなくて、普段、よその家庭と比べると、よその子供が買ってもらえているものでも私は買ってもらえないことが多かったのだが、お年玉をもらったのだから、それで買わせてもらえるだろう・・・と思っていたら、「あんた、それ、使ったらもったいない。全額、貯金しなさい」などとうちの父親が言い出したのであり、せっかくもらったお年玉を「それ、使ったらもったいない。全額、貯金しなさい」と言われて全額、取り上げられるということだったのだ。銀行に盗られるのではないが、うちの父親に取り上げられるのだった。それにしても、よくそういうことを言うと思う。幼稚園の年少組の時だから5歳の誕生日を過ぎてすぐの頃のことだ。5歳児に5年満期の定期預金に全額を入れろと言うのだ。よく、そういうかわいそうなことを言うものだと思う・・が、それがうちの父親だったのだ。1970年代後半、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代)が「あなたのお父さんほどいいお父さんはなかなかないわよ。私は父親がいなかったんだからねえ。私は両親が離婚したんだからねえ」とそれを自慢しまくるのだったが、「父親がいなかった」ということは、せっかくもらったお年玉を「あんた、それ、使ったらもったいない。全額、貯金しなさい」と言って取り上げる男がいないということだ。うらやましい限りである。そういう時にだが、うちの上の姉、T子さんというのはふと気づくとそばにいるのだ。そして、言うのだ、「あんた、預金というのは取り上げられるのとは違うねん。この子、預金というものがどういうものか知らんからこういうことを言うんやわ。あんた、銀行に預金として預けたるのは取り上げられるのとは違うねん。利子がついて得するねん。銀行に取り上げられるのとは違うねん」などと言うのだ。そんなもん、知っとるわ!!  銀行預金というのは「銀行にお金を盗られる」のではないということくらいは子供は知っている。しかし、うちの父親が「あんた、お年玉、もらったん、使ったらもったいない。それ、全額、銀行に預金しなさい」と言って「取り上げる」とどうなるかというと、それは銀行に5年の定期預金として預けさせられる。実際、預けさせられたのだ。そして、5年経って10歳になると、「あんた、それをまた5年の定期預金に預けなさい」とうちの父親は言うのだ。そして、永遠に使えないのだ。もしくは「あんた、それで勉強のもんを買いなさい」と言われて「勉強のもん」を買わされるのだが、「勉強のもん」なんか、お年玉で買わなくても、どうせ、買われるのだ。うちの父親からすれば、お年玉で「勉強のもん」を買わせれば、その分の費用を節約できることになる。だから、結局、「取られる」のであり「取り上げられる」のだった。子供はそれをわかっていたから、だから、必死でお年玉を取り上げようとする父親に対して抵抗していたのだった。親戚のおじさん・おばさんから受け取る時にはうちの母親から「ありがとうと言いなさい」と言われて「ありがとう」と言って受け取ったはずのお年玉だったが、結局、全額、うちの父親に取り上げられて、5年+5年=10年 の定期預金に預けさせられて、「勉強のもん」を買わされたかどうなったか、どうも記憶がはっきりしないが、幼稚園児にとっては大金でも10年後、高校生にとってはそれほどの金額ではないし、高校生の時も使わせてもらえないわけで、それから5年経ったり10年経ったりした時には、もう、たいした金額ではなく、もうどうでもいい・・ことになる。そうやって、子供のお年玉を全額、取り上げるのがうちの父親だった。「父親がいる」ということは、我が家の場合、そういうことをする人がいるということだ。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」と言い、「あなたのお父さんほどいいお父さんはなかなかないわよ。あなたのお父さんみたいなものすごいいいお父さんがいたら、私だったらものすごいうれしいわよ。あなたがそう思わないのは、それはあなたが思いあがっているからであって、あなたがつけあがっているからであって、あなたが甘ったれているからであって、あなたに素直さがないからであって、あなたが精神的にねじ曲がっているからであって、あなたが思考が硬いからよ。私は父親がいなかったんだからねえ!」とおっしゃるのだったが、「父親がいなかった」なら、いったん受け取ったお年玉を全額取り上げられるということもなかったであろう。お年玉なんかない方がいいと思う。お年玉みたいなもの、あるから、受け取る時には「ありがとうと言いなさい」と言われて「ありがとう」と言って受け取るものの、それを全額取り上げられるのだ。なんで、そういうことをされる人間がそういうことをされない人間から「私は父親がいなかったんだからねえ。あなたみたいにものすごいいいお父さんがありながら、そう思えない人というのは、それはあなたが思いあがっているからであって、あなたがつけあがっているからであって、あなたに素直さがないからであって、あなたの思考が硬いからであって、あなたの考えが甘いからであって、あなたのものの考え方がねじくれまがっているからよ。反省しなさい!!!」などと言われたのだった・・・が、反省すべきは旧姓作野礼子の方であろう・・と思う。あの女だけは許せん! 北野高校には「オバタリアン女子48」みたいな女子生徒もおり、旧姓作野礼子は男子生徒よりも女子生徒、それも「高校生の時からオバタリアン女子48」みたいなタイプの女子生徒から好かれる女だったが、似た者同士だったのだろうが、私はあのバカ女症候群に、なにゆえ、ああいう口をきかれなければならなかったのか。今からでも報復攻撃をおこないたい、西側から供与されたアメリカ合衆国製のハイマースででも旧姓作野礼子に爆撃を加えてやりたいところだ・・・が、なんなら北朝鮮製の「汚物爆弾」でもお見舞いしてやりたいところだが、あの女、よくまあ、ああいう口をきけたものだ、と思う。北朝鮮製のう〇こ風船でもお見舞いしてやりたいところだ・・が、その程度ですむものではない。それで、うちの上の姉T子さんは、私と仲が悪かったわけではなくて、11歳離れていたので私が子供の頃には生駒山の遊園地とか玉手山の遊園地とか弁天町の交通科学館とかによく連れていってくれたりしたものだったのだが、ところが、こういう時にはさりげなく寄ってきてふと気づくとそばにいて、「この子、銀行預金というものを知らないからこんなこと言うんやわ。預金というのは取り上げられるのとは違うねん。利子がついて得するねん」などと言ってお年玉を全額取り上げてやろうとするおっさんに加担するのだった。なんで、あんなことするかなあ~あ・・と思う。もしも、私に11歳年下の弟か妹がいて、その弟か妹が幼稚園児の時に子供がもらったお年玉を父親が「預金」を口実にして全額取り上げてやろうとしているのを見たならば、むしろ逆に「それは、いくらなんでもかわいそうですよ。もしも、子供がお年玉を子供が使うにはあまりにも多すぎると思われる金額をもらったとかいうことなら、半分、銀行に預金して半分だけ使うようにしようとかいうのは言ってもいいと思いますけれども、決してそんなに無茶苦茶多い金額もらったわけでもないのに、全額を銀行に預金しなさいというのはかわいそうですよ。やっぱり、お年玉というものはもらったもので子供が欲しいものを買わせてあげないと。むしろ、そこで何を買うかで買い物の練習を子供はするんだと思いますよ」と言ってあげると思うのだ。ところが、うちの上の姉はそういう時に、ふと気づくとそばにいて、うちの父親が子供のお年玉を全額取り上げてやろうとするとかに加担するのだった。そういうことを上の姉のT子さんがやったのはその時だけではない。何度もうちの父親に加担したものだ。うちの父親は上の姉のT子さんがそういうことをするものだから、だから、そのT子さんのことを「しっかりしたおねえさ~ん」「ドイツ人のおねえさ~ん」「奈良女子大のおねえさ~ん」と言いまくるのだった。その「しっかりしたおねえさん」「ドイツ人のおねえさん」は奈良女子大を受けたが落ちたのだったが、それは私が落としたそうだった。「なんでやねん」と思ったのだが、「なんで、それが私のせいやねん」と思ったのだが、「ほんまやったら絶対に奈良女子大に通ったT子さんが落ちた・・・てことは、おまえが悪いっちゅうことやねんぞ。ひとのせいにしたらいかんぞチャンコロろすけイタコ浪商! チャンコロろすけイタコ浪商が悪いねんぞ。おまえが大事な優秀なT子さんをほんまやったら奈良女子大に通ってるのにからに落としてんぞ。反省しろよ、チャンコロろすけイタコ浪商! T子さんはドイツ人で優秀やねんぞお~お。おまえとは違うねんぞ、チャンコロろすけ! チャンコロろすけとは違うねんぞ、浪商!!! 一緒やと思うたらいかんぞ。浪商でチャンコロのおまえとはT子さんは民族と階級が違うねんぞ、チャンコロろすけ! 民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな!」とおっしゃるのだった。T子さんが高校3年の時、私は小学校1年だった。T子さんが奈良女子大を受けて落ちた時、私は受験生のT子さんにいったい何をやったのか? それは「いた」のがいかんそうだった。もしも、チャンコロロスケの私が産まれなかったなら、もっとT子さんに「応援」してあげることができた。それなのに、「産まれなかったらよかったおまえが産まれてきやがったから」そのために、十分に「応援」できなかった。もっと「応援」さえすれば「優秀な優秀なドイツ人のT子さん」は絶対に間違いなく奈良女子大に通ったのにからに、「おまえが落としてんぞ、チャンコロろすけ! チャンコロろすけが落としたんやぞ。ひとのせいにしてはいかんぞ、この浪商チャンコロ! 浪商チャンコロが落としたのにからに、そやのにからに『なんで、それが私のせいなんですかあ』などと、おまえみたいなことを言うやつのことを『外罰的性格』と心理学では言うねんぞ、『外罰的性格』と。反省しろよ、このチャンコロ浪商ろすけイタコ! おまえが悪いねんぞ。おまえさえ産まれてこなかったら、わしい~いのようなエッライえっらいエッライえっらい、ものごっついものごっついエライえらいエライえらい、ドイツ人のお父さんの娘であるT子さんが奈良女子大に落ちるということは、これは天地がひっくり返ってもありえないことやねんぞ。そやのんにからに落ちた・・てことは、おまえのせいやねんぞ。ひとのせいにすんな、このチャンコロ浪商イタコ! おまえがT子さんを奈良女子大を落としたんやぞ。それを『なんで、それが私のせいになるんですかあ』などとおまえみたいなこと言うやつのことを心理学では『外罰的性格』と言うねんぞ。こいつ、外罰的性格を治療してやらんといかん、治療してやらんと。ロボトミーやったるべきや、ロボトミー! 電気ショックやったるべきや、電気ショック! 電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック♪」とおっしゃるのだった。 M尾さんはうちの父親の勤め先の部下で、一番お気に入りの人で、うちの父親に評価してもらえたおかげで出世させてもらったという人らしい。そんなに悪い人ではなさそうだが、うちの父親は「誠心誠意の人」だのなんだの言いまくっていたが、そこまで言いまくるのもどうかとも思う。 それにヒットラー総統を加えて、キリスト教の五大聖人らしかった。ほかに旧姓作野礼子が加わることもあるみたいで、そうなると六大聖人になるみたいだ。聖徳太子が加わることもあるようで、「わし」「女川先生」「T子さん」「M尾さん」「作野先生」「ヒットラー総統」「聖徳太子」、この7人が ””キリスト教の七大聖人”” らしかった。だから、私は「聖人」てやつが嫌いなのだ。
スタンガン
スタンガン
( ↑ 電気ショック療法。)
T子さんは「もっと応援すれば間違いなく奈良女子大に通った」そうだったのだが、「応援」さえすれば通ったのなら言ってくれれば、小学校1年生でも ↓ みたいな「応援」ならやったったのに・・と思う。
※ YouTube-コンバットマーチ【6人】早稲田大学応援2013 https://www.youtube.com/watch?v=waiBBVjToXA
私なら、そんなもんやって要らんけどな。やらんといてくれよ、やるなよ。絶対やるなよ。

  そういうのが「聖人」だ。高山右近の場合は「福者」だから「聖人」よりちょっと下てことかな。 どっちにしても、なりたくもないし、いいとも思わんな・・・。 「わしいなんかは聖人やねんでえ~え。おまえとは違うねんぞ、おまえとは。ちゃんころロスケとは違うねんぞ、ちゃんころロスケとは。わかっとんのか、わしはドイツ人で慶應で聖人で英雄でスーパーマンやねん。おまえとは違うねんぞ、おまえとは。おまえはチャンコロで浪商、わしはドイツ人で慶應やねんぞお、一緒にすんなよ、浪商」とおっしゃるのだったが、「聖人」とはそういうものだ( 一一)  「実はわしはスーパーマンやってんで、知ってたかあ」とおっしゃるのだったが、知らんかった。パーマンかと思うとった( 一一)
※ YouTube-パーマン[OP/ED]https://www.youtube.com/watch?v=8v6OjegTYjM

  「カトリック中央協議会 尊者・福者・聖人とは?」https://www.cbcj.catholic.jp/faq/saints/ を見ると、カトリックでは「尊者」「福者」「聖人」というのをカトリックの協議会だかで認定するらしい。うちの父親は「わしは聖人やね~ん」と自分で認定しておったが、カトリックでは、たぶん、うちの父親は「聖人」には認定されていないのではないかと思う。たぶん、「女川先生」とか「ヒットラー総統」も「聖人」には認定されていないのではないかな。おそらく、「尊者」「福者」にも認定されていないのではないか。旧姓作野礼子先生も・・。
  「ユスト高山右近」https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/saintbeato/ukon/ は「福者」らしい。明智光秀からすれば高山右近は織田軍の中で明智光秀の寄騎だったことから明智光秀の方についてもらいたいところだったのを羽柴秀吉の側にまわった男だったらしいが、カトリックとしては「福者」らしい。
  ウィキペディアーキリストの聖人一覧 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%B8%80%E8%A6%A7 を見ると、イスカリオテのユダ以外の12使徒とかパウロとか、それからゴルゴタの丘に登るイエス=キリストの額をぬぐった女とされるヴェロニカの名前が出ている。
聖書のなかの女性たち (講談社文庫) - 遠藤周作
聖書のなかの女性たち (講談社文庫) - 遠藤周作
  「福者」になっている高山右近は伝わっている話がすべて本当か否かはさておき、ともかく一応「歴史上の人物」であるのに対して、イスカリオテのユダ以外の十二使徒とかパウロとかヴェロニカとかになると実在した人もいるとしても「伝説上の人物」という色彩が強くなる。
  なぜか、うちの父親の名前とか、旧姓作野礼子とか「女川先生」とかの名前は見当たらない。ヒットラー総統の名前も見当たらない。

  北野高校は私は行きたいと思って行った高校だったので合格発表の時はうれしかった・・が、卒業して何十年か経ってみると、どう考えてもあんまりいい学校ではなかった。高校生の時、および大学受験に際して私が失敗した点のひとつは、北野高校の教諭というものを実状を超えて高く評価していた、という点だった。バカにバカでない対応をしてもらおうとしも無理だ。なぜなら、そいつらはバカなのだから。柴田孝之が『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で「能力的にも人間的にも優れた教師というのは、実は多くの人間が思っているよりもはるかに少ない」と書いていたが、今は私もそう思っている。
東京大学機械的合格法 アップグレード版: 難関大学を突破する超合理的勉強術 - 柴田 孝之
東京大学機械的合格法 アップグレード版: 難関大学を突破する超合理的勉強術 - 柴田 孝之
北野高校の教師どもというのは実際のところ、ろくなのがいなかった。特に2年の時に旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒。担当科目「国語」)に担任を持たれたのは災難やった。「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」というのを自慢しまくる女だったが・・・、まず第一に「そんなもん、自慢するもんなのかあ~あ?」と思う。「私は両親が離婚したんだからねえ」なんて言われても、私が旧姓作野礼子さんの両親が離婚する原因を作ったとでもいうのなら「そりぁどうも、えらいすんまへんでしたなあ」くらい言った方がいいかもしれないが、違うだろうが。私が最初に旧姓作野礼子さんと会った時、すでに旧姓作野礼子さんの親は離婚していたのだろうが。「私は父親がいなかったんだからねえ」と言いまくることで、「作野先生はお父さんがいなかったから苦労しておられるから」とか「作野先生はお父さんがいなかっただけに、しっかりしておられるわあ」とか言ってほめてもらう権利があるみたいに思っていたようだったが、そんな””権利”” みたいなもん、ないと思うぞ。むしろ、父親がいると、その父親とつきあうのにどんなけ大変か・・・ということをまったく理解できないバカ女症候群 に担任もたれてつきまとわれる者の方がそのバカ女症候群に苦労させられた。実際のところ、「私は父親がいなかったんだからねえ」というのを自慢にしている、父親というものがいると、そのおっさんとつきあうのにどんなけ大変か・・てことを理解できない「父親がいなかった」バカ娘は高校教諭に採用しないでほしい・・というのが私の本音だ。迷惑だ。

  「わしい~いなんかは、神さまからも万民からも産まれてくることを待ち望まれて産まれてきたメサイヤやねんで~え〔⇒《YouTube-メサイヤ「ハレルヤ」》https://www.youtube.com/watch?v=5NokjNCbCY4 〕。知ってたかあ、わしはメサイヤやねんぞお~お」とうちの父親は毎日おっしゃっていた。「それに対して、おまえは天の神さまから産まれてくるな! と言われておるのにからに、おまえは神の意志に逆らって産まれてきた、神にたてつく存在、神から祝福されることなく産まれてきた人間やねんでえ~え。産まれてこなかったらよかったのに、産まれてこなかったらよかったのに、産まれてこなかったらよかったのに」と毎日言われてきた。だから、私はその「神」というやつが嫌いなのだ。「神」とはうちの父親とかヒットラー総統とか旧姓作野礼子とかに祝福を与え、私に呪いを与える存在である。そんなやつ、嫌いなのだ。
・・というよりも、キリスト教の聖人らしいヒットラー総統と同じドイツ人の哲学者フリードリヒ=ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』には「神は死んだ」と書かれている。「あの修道者は今も知らぬのであろうか。すでに『神は死んだ』ということを」と。ヒットラー総統やうちの父親や「女川先生」や作野礼子先生に祝福を与えて私に呪いをかけた「神」というやつは死んだのだ。
※ リヒャルト=シュトラウス『ツァラトゥストラはこう語った』⇒YouTube-2001年宇宙の旅 オープニングhttps://www.youtube.com/watch?v=jazx94WocME
ツァラトゥストラは こう言った 上 (岩波文庫) - ニーチェ, 氷上 英廣
ツァラトゥストラは こう言った 上 (岩波文庫) - ニーチェ, 氷上 英廣
ツァラトゥストラは こう言った 下 (岩波文庫) - ニーチェ, 氷上 英廣
ツァラトゥストラは こう言った 下 (岩波文庫) - ニーチェ, 氷上 英廣

  「聖人」「尊者」「福者」といったものを認定したい気持ちもわからないこともないが、しかし、そうやって認定していくと、キリスト教ではヤハウエ・エホバ以外のい者を礼拝してはならないはずだったのが、いつしか、それ以外の「神に準ずる存在」ができてしまっているようなところがあるのではないだろうか。
  『旧約聖書』「出エジプト記」では、
《 神は次のような言葉をみな語って言われた、
「わたしは君をエジプトの地、奴隷の家から導き出した君の神ヤハウェである。
わたしのほかに君は他の神々を持ってはならない。 
君は上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの彫像、いかなる像(かたち)も作ってはならない。これに仕えてはならない。
何故なら君の神であるわれヤハウェは妬む神であり、わたしを憎む父たちの咎をその子らに罰して三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わが誠命を守る者のためには恵みを施して千代に及ぼすのである。・・・・》
( 『旧約聖書 出エジプト記』関根正雄訳。20章1-6節 )
と書かれているはずなのだが、ところが、本来、ヤハウェ以外の者を神として拝んではならないはずなのに、カトリックにおいては「聖人」「福者」「尊者」といった「神に準ずる存在」を作り出している・・ということには疑問を感じざるをえない。ローマ法王は「神の代理人」という扱いという点についても、『聖書』以外に神との間の存在はあってはならないと考えるならば、ローマ法王というものの存在は価値があるものではないのではないか。少なくとも、「神の代理人」といったものにはなってもらいたくないものだ・・・と私のように思う者にとってはカトリックの考え方というものはなじまないのかもしれない。アンドレ=ジッド『狭き門』ではアリサという女性を愛することを通じて神の信仰を得ようとするジェロームに、アリサは負担を感じる。神との間には『聖書』以外のものは必要ないはずで、「神の代理人」という人も必要ないはずだ・・と私などは考えるのだが、カトリックではローマ法王は「神の代理人」という扱いにしている、という点については私などは受け入れられない。ましてや、「神の代理人」ならば現実の政治についてなどの発言は慎重にしなければならないはずだが、ローマ法王が「ウクライナは白旗をあげる勇気を持つべきだ」などとわけのわからない発言をしたりしていることには理解に苦しむ。
旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) - 関根 正雄
旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) - 関根 正雄


  カトリック玉造教会 の右手前・東隣りに「師イエズス修道女会」が運営する「典礼センター ピエタ」がある。↓
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「典礼センター ピエタ
 師イエズス修道女会」

と書かれている。
  「ピエタ」とは、イタリア語らしいのだが、
pieta (女性名詞)憐れみ、同情、慈悲心;信仰心、敬虔;愛情;
Pieta 処刑後のキリストを抱くマリアを描いた・彫ったもの。

・・と、下位英一・坂本鉄男編『大学書林 イタリア語小辞典』(1962.2.1.大学書林)に出ている。
Monte di Pieta で、質屋 という意味になるらしい。
monte は、男性名詞で、山、大量 という意味だが、「憐れみの山」「慈悲心が大量にある」⇒質屋 ・・とはイタリアらしい・イタリア語らしい面白い表現だ・・と思う。
  私にとっては「ピエタ」とは、1997年1月にローマ・バチカンのサンピエトロ寺院のピエタ像の所に行った時の経験が「ピエタ」だ。ガラスに囲まれた区域にその像があったのだ。だから、これはすぐそばまで行かずにガラス越しみ見てくれということかと最初、思ったのだ。しかし、二度目にその前を通ったら、中に黒人のおっさんたちが何人も入ってその像を見ていたので、なんだ、入っていいのか・・と思って入口の方に行きかけた。ところが、そこに、本来は外に立っている「スイス人の傭兵」が本来の目立つカラフルな制服の姿でではなく、その上に目立たない紺の外套を着用していて、その目立たない紺の外套を着た「スイス人の傭兵」が手で私の胸をついたのだ。なんで、こいつに胸を突かれなければならないのか・・と思ったが、その「ピエタ」という像が置かれていた区域は特権階級の人だけが入っていい場所で、そこに入って見学していた黒人のおっさんどもは特権階級だったらしく、私のような「日陰の月見草」は入ってはならない所だったらしく、それで「スイス人の傭兵」は私の胸を突いて「なんで、おまえが入ろうとするんだ」という態度をとったらしかった。
  しかし、もしも、そこは特権階級の人間だけが入っていい場所であって、私のような日陰の月見草は入ってはならない場所であったのならば、それならそれで「スイス人の傭兵」は口でそう言うべきだったはずなのだ。私は入るなと言われていた所に無理矢理入ろうとしたのではない。私は、最初、ここはガラス越しに見てくれという所かと思っていたが、ところが黒人のおっさんたち数人が中に入っていたので、なんだ、中に入っていいのか・・と思って、それで、入口の方に方に進みかけたのだった。それも、あくまで「入口の方に進みかけた」のであって、内部に入ったのでもない。それを、なんで、その「スイス人の傭兵」に胸を突かれなければならないのだ。
  私は警備員・ガードマンの仕事をやったことがある。交通誘導警備の仕事を2社で・施設警備の仕事を1社でやったことがあるのだが、警備員・ガードマンは警備業法という法律で8時間/日×4日=32時間 の研修をおこなって業務につかさないといけないということになっており、その研修で言われたこととして、
「人を制止する時は口で制止するものであって、口で制止せずに手で制止してはいけません」
というものがあった。 サンピエトロ寺院の「スイス人の傭兵」というのは、そういう警備の仕事に従事する者の基礎の基礎・基本のき・入門の入門が理解できていないのか・・というのか、理解・認識できていない人間だった。 私は「高校までエリート」だったので、英語は基本のき・基礎の基礎くらいはわかる。イタリアに旅行する前に、その国の言葉について最低限の学習はしていくのがその国の人に対する礼儀だと思って、イタリアに行く前に何か月間かイタリア語について学習して行っており、イタリア語についても基礎の基礎の基礎くらいはわかるようになって行っていたつもりだった。その「スイス人の傭兵」はなぜ、イタリア語ででも英語ででも話さないのか? スイス語というものはないようで、ウィキペディアースイス https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9 を見ると、スイスの公用語はドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマンシュ語だそうだが、その「スイス人の傭兵」はどの国の言葉も話せないようだった。バチカン市国・サンピエトロ寺院は言語障碍者のスイス人を雇っていたようだ。
  又、警備員・ガードマンの会社で研修の際に言われたこととして、
「ガードマンの仕事にとって、制服を着ているということは大変大事なことです。交通誘導をするにしても、制服を着てそこで仕事についている、ということと、そうではなく私服で交通誘導をしているのは意味が違います。私用で外出して、ガードマンの仕事に行こうとした時に家にガードマンの服を置いていて取りに帰ったらガードマンの仕事に間に合わないから直接行って私服で業務についた、というのでは、これは半分しか仕事をしていないことになります」
と言われたものだ。サンピエトロ寺院の「スイス人の傭兵」は『地球の歩き方 イタリア』(ダイヤモンド社)にも書かれていた、カラフルで目立つ制服を着ているはずだったが、そのカラフルで目立つ制服は「警備の仕事についている者がここにいます」と周囲にアピールするもので、「ここに警備の仕事についている者がいる」と周囲にアピールすることで、それを見た者が、この人が立っている所の付近に黙って立ち入ってもらいたくない所があるのか、もしも、立ち入るならこの人に断ってからにするべきか・・と考えるのだが、ところが、その「スイス人の傭兵」はせっかく用意してもらっていたカラフルな目立つ「スイス人の傭兵」の制服の上から紺の外套を着てカラフルな目立つ制服を見えないようにしていたのだ。これでは「制服を着用していた」ことにならない。これでは半分も仕事をしていたことにならない。「スイス人の傭兵」は「正社員」だったのではないかと思うのだが、大学生のアルバイトのガードマンですら理解・認識していることを理解していなかった。
  それだけではないのだ。「ピエタ」という像が置かれていた区域が入ってはならない所なら入ってはならないはずなのに、なぜか、そこに入っていた黒人のおっさんが、そこから外に出てくると、「ピエタ」像が置かれている区域ではない一般人がいる区域で「俺さまが通るのだから、どけ」というように、これも無言で私の胸を突いて押しのけたのだ。なんだ、こいつは! これは厳密には日本なら「暴行罪」に該当する行為だ。バチカン市国ではかまわないのか? バチカン市国では黒人はそういう行為をしていいのか? 「スイス人の傭兵」はそいつに付き従っていたようだったが、あいつらはいったい何者なんだ? 「スイス人の傭兵」というのはゴロツキの従者なのか?
  私は「おい、あなたたちのその態度は何だ」と言いたかったのだが、イタリア語で話す語学力がなかったとともに、英語でもイギリス人やアメリカ合衆国人と同程度に話す語学力はなく、普通に話せる言葉というと、大阪弁かいわき弁か、東京弁と言うと東京もんは怒るのだが、実際のところ、東京圏でしか話されない言葉を東京もんは「標準語」だとか言うのだが、東京圏でしか話されない・通じない言葉が標準語なわけないはずだがそう言うと東京もんは怒るのでうるさいからこれは東京もんには言わないとして、関西流日本語・いわき流日本語・東京流日本語のいずれか・・では通じなさそうだったのであきらめた。しかし、その後、(株)一条工務店で栃木県佐野市の営業所に勤務していた時に折衝した見込客の方で、東南アジア方面に靴を販売する仕事についていたという人から聞いた話だが、入国・出国の所で、これはなんだと意味不明なことで文句を言われることがあって、靴だと言ってもわからないやつがいるそうで、怒ってやったことがあったと聞いたのだが、それで「それは何語で怒ったのですか」と尋ねたところ、「日本語だよ、日本語。あたりまえだ」と言われたのだ。それで、思ったのだ。私は外国に旅行するなら、その国の言葉をネイティブスピーカー並みに話せるようになるのは簡単ではないとしても、いくらかは学習して行くのがその国の人に対する礼儀だと思って、それでイタリアに行く前にイタリア語について一生懸命学習して行って、イタリアに行ってみると、直前に一生懸命学習したイタリア語はま~だまだ役に立たなくて、すでに錆びついていると思った英語の方が使えた・・という経験をしたが、イタリアは日本語を話せる人は少ないが英語を話せる人は比較的多い国なので、日本語で旅行するのは難しいが英語がある程度話せれば通じることが多いようだとわかったが、観光のためになら私程度の英語でも通じても、文句を言うには私程度の英語力では無理だと思ってあきらめたが、その東南アジア方面に靴を売る仕事についていた人から「日本語で言うんだよ。こっちは悪くないんだから、日本語で言ってやればいいんだ」と言われて、そうだ、こっちは何も悪くないんだから、日本語で言ってやればよかったんだ・・・と後から思った。
  日本では、黒人は常に虐げられていて、黒人は常に遠慮ばかりさせられていて・・・とか言う人がいるが、それはあまり正しくない。サンピエトロ寺院の「ピエタ」像の所にいた黒人のおっさんどもは、ちっとも虐げられていなかったし、ちっとも遠慮なんかしていなかった。黒人は常に虐げられてきたとか、黒人は常に遠慮ばかりしているなどというお話は嘘だ! あいつらは、ちっとも遠慮なんかしていなかった。遠慮していたのはこちらの方だ。ふざけんな!
  ・・・・それが「ピエタ」だ。ウィキペディアーピエタ(ミケランジェロ)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%82%BF_(%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD) を見ると、サンピエトロ寺院の「ピエタ」像というのはミケランジェロの作品だそうで、ミケランジェロはサンピエトロ寺院の「ピエタ」像のほか、「フィレンツェのピエタ」「パレストリーナのピエタ」「ロンダニーにのピエタ」の4体の「ピエタ」像を作成していて、《 『サン・ピエトロのピエタ』はミケランジェロの数ある彫刻の中でもダビデ像と並ぶ最高傑作である。》とウィキペディアには書かれているのだが、あんなもの、どこがいいのか、さっぱりわからん。極めて不愉快なものである。あの黒人のおっさんと「スイス人の傭兵」および「スイス人の傭兵」の雇い主は「すいませんでした」の一言くらい言うべきものだが、今もって何も言いよれへん。それが「ピエタ」だ

  『地球の歩き方 イタリア』(ダイヤモンド社)は「サンピエトロ寺院の『スイス人の傭兵』は態度悪いから要注意」という一文を入れておくべきだ・・と思う。
A09 地球の歩き方 イタリア 2024~2025 - 地球の歩き方編集室
A09 地球の歩き方 イタリア 2024~2025 - 地球の歩き方編集室

  それで、「典礼センター」とは何だろうか。葬儀社のことか?
ウィキペディアー典礼 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B8%E7%A4%BC
《 典礼(てんれい)とは、定まった儀式・儀礼あるいはこれを司る役である。通常はキリスト教(カトリック教会)のそれを指すことが多いが、釈奠典礼とも呼称される儒教の祖孔子を祀る儀礼である釈奠なども一般に典礼と呼ばれる。
・・・
  「典礼」は、もともとはカトリック教会の用語で、ギリシャ語で「公共の事業」「公衆の名で、あるいは公衆のために行われる奉仕」を意味する「レイトゥルギア」(λειτουργια、中世以降リトルギア、英語ではliturgy; リタジー)の訳語である。神と人への奉仕であるキリストの教会の行為、またはそのための儀式一般を意味する一方で、儀礼の様式を指す概念としても用いられる術語である。キリスト教における公的礼拝の意味での典礼は、「公祈祷(こうきとう)」とも称する。・・・》
と書かれている。この書き方だと、必ずしも葬式に限らないみたいな感じ。
  「典礼センター ピエタ」はホームページを持っていて、「典礼センター ピエタ」HPhttps://pddm.tokyo/index.html を見ると、「典礼センター ピエタ」は「師イエズス修道女会」が運営していて、「師イエズス修道女会」は、本部は東京都八王子市にあって、「典礼センター ピエタ」は東京都の四谷、大阪のこのカトリック玉造教会の隣り、それに長崎市にあるらしい。
「師イエズス修道女会」は、
《 パウロ家族の創立者 福者ヤコブ・アルベリオーネ神父 (1884~1971年)は、
1924年2月10日の聖スコラスチカの記念日、 道・真理・いのちである師イエスを 告げ知らせるために、 キリストにおける協働者として、 オルソラ・リバータを選び、 師イエズス修道女会を創立しました。》
《 日本では、1950年に2名のシスターの来日によって始められました。
現在、東京、大阪、広島、長崎に11の修道院があります。》
というものらしく、「典礼」とは、「師イエズス修道女会」においては
《 典礼:師イエスを人々に告げ、典礼にふさわしい美しさを伝えるために、
聖品の制作、普及(典礼センターはその普及の場である)の使徒職を行う。》
ということらしい。
  「典礼センター ピエタ」は聖具などを作成・販売している所らしい。

  私はカトリックの幼稚園に行っていて、幼稚園児の頃は特に理由はないのだけれども、シスターの黒い服を着た人というのが、なんだか「怖い」印象があった。特に何か怖いことをされたわけではないのだけれども、子供の印象としてシスターの黒い服装の人というのが怖い印象があった。それが、大人になってからは、逆に、シスターの服を着ている人を見ると、自分が幼稚園児だった頃のことを思い出して懐かしさと親しみを感じるようになった。海外に旅行に行った時には、教会の売店などでは、シスターはその国ではインテリなのか、サンピエトロ寺院の屋上の売店でも、多くのイタリア人はお釣りの計算が苦手なようだが、サンピエトロ寺院のシスターは何ら苦手とせずに平気で対応されたので、シスターというのはほかの人よりもインテリなのかな・・と思ったのだが、その後、どこだったか別の教会堂の売店に行った時に、同様の対応を期待したら、そうでもなかった、ということがあったので「ひとによる」のかもしれない。

  「典礼センター ピエタ」は量産品を販売しているキリスト教の一般的な「売店」ではなくて、聖職者が利用する店なのだろうか。一般人が立ち寄って悪いこともないのだろうから、入って尋ねてみてもよかったかもしれない。ホームページを見ると、シスターの手作りのもので、一般のキリスト教用品店というよりも、聖職者が使用する道具をシスターが作成している所か・・という感じ・・に見えるが、そうなのかどうか、入ってきいてみてもよかったかもしれない。


  カトリック玉造教会の西側の南北の道を南に行き、東西の長堀通り(地下を長堀鶴見緑地線が通っている)を東に行くとJR大阪環状線・大阪メトロ長堀鶴見緑地線「玉造」駅、西に行くと大阪メトロ長堀鶴見緑地線・谷町線「谷町六丁目」駅がある。「玉造」駅の方が「谷町六丁目」駅よりずっと近く、玉造カトリック教会からなら地図で見ると、「玉造」とその北の「森ノ宮」駅と同じくらいの距離かな・・という感じ。
  カトリック玉造教会からなら「玉造」と「森ノ宮」が同じくらいの距離で、「谷町六丁目」と「玉造」なら「玉造」の方がずっと近いのだが、今回は、あえて「谷町六丁目」まで歩いて「谷町六丁目」から電車に乗ることにした。
  長堀通りを西に歩くと、南側に ↓
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↑ 府立 清水谷高校。 私が高校に進学する頃は共学だったが、戦前は女子校で、大手前高校と夕日丘高校と清水谷高校の3つが大阪の代表的な女子校だったと、戦前生まれのうちの母親が言っていた。夕陽丘女学校卒だったらしいうちの母親が言うには「大手前と夕陽丘と清水谷の3つが女の子の学校だったけれども、清水谷は大手前・夕陽丘と比べてちょっと落ちた」そうだったが、今は3つとも共学になっている。大手前高校は戦後、北野高校と学生を半分半分入れ替えることで男子校だった北野高校が共学になり、女子高だった大手前高校が共学になった。夕陽丘高校もどこだったかと学生を半分半分入れ替えることで共学になったはずだったが、その後、大手前高校は北野・天王寺とともに(今はなくなったらしい)大阪新聞が「京大御三家」と書いたりする進学校になったが(最近では地盤沈下してきているようだが)、夕陽丘高校・清水谷高校は共学になってそれほど進学校ではなくなったみたいだ。

  1970年代後半、北野高校を卒業した後、高槻市にかつてあったYMCA予備校高槻校の「京大東大文系クラス」のK1クラスというのに行ったが、「京大東大文系クラス」という名称は「看板に偽りあり」だった。受講生の側では「京大東大文系クラス」と称するからには京大の法学部・経済学部・文学部・教育学部受験と東大の文科1類・2類・3類受験の対策をおこない、それらに進学するためのアドバイスをしてくれるクラスであろうと予想し期待してきたのだが、YMCA予備校の側はそうは考えておらず、そうではなく「京大東大文系クラス」と名前をつけて募集すれば学力の高い受験生が集まるから、そういう受験生に高校卒業時に受けた所よりも合格難易度が低い大学を受けさせれば合格する可能性が高いから、高校卒業時に受けた所より難易度が低い所を受けさせて合格させた上で「YMCA予備校から◇◇大学☆☆学部に合格」ということにすればYMCA予備校の評価が上がるだろう・・という浅はかな考えで「京大東大文系クラス」という名前をつけていた。それが予備校業としての商売としてうまいやり口だとYMCA予備校は考えたようだったが、1年浪人したあげく、そこなら高校卒業する時点で通ったのではないかと思う所に行かされても、そこなら高校卒業する時点で通ったのではないかと思う所に行くように「受験指導」されても、そんな予備校は受験生にとっては何の価値もない。 その結果、どうなったかというと、YMCA予備校のそのやり口について「話が違うじゃないか」「看板に偽りありだな」と受講生は口にし、そして、その何年か後、駿台予備校は京都にはあっても大阪にはなかったのが大阪校もでき、河合塾も大阪校ができ、代ゼミは中津のあたりに代ゼミと提携した教文研ゼミという予備校があって代ゼミの模擬試験はその教文研ゼミでおこなわれていたが代ゼミ自体はなかったのが代ゼミも大阪校ができると、浅はかなこと考えて受験生のために受験の対策をきっちりと取らず、「ガイダンス」と称して嘘ばっかり話していたYMCA予備校は1970年代後半においては大阪府に土佐堀・阿倍野・豊中・高槻・堺と5校と横浜に関内(かんない)と菊名の2校あったのが、あっという間に淘汰されて消え去った。今はかわりに阿倍野のあたりにYMCAの系列の高校ができたらしいがパッとしないみたいだ。かつて、小学校の低学年の時、阿倍野のYMCAの体操教室に通ったことがあって、元々はYMCAに親しみを感じていたのだったがYMCA予備校の特に「京大東大文系クラス」の良心的でない対応に不快感と嫌気がさしてYMCAが嫌いになった。特に「主事」という名前をつけてもったいつけていた男性事務職員の藤井という男は「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と毎日最低3回は言わないとおれない症候群の男で、この男を見て早稲田大学というのはくだらない大学なんだなと思うようになったのだが、東京で実際に早稲田大学に行っている人や卒業した人と会ってみて、むしろ、早稲田大学という大学がいい大学かろくでもない大学かという問題ではなくて、あの藤井という男が学歴詐称だった可能性が大きい、と思うようになった。私は「世間知」がない男の息子だったので高校卒業したくらいまでは私も「世間知」がそれほどある方の人間ではなく、学歴詐称する人というのはいるけれどもそんなに多くはないみたいに思っていて、特に予備校とはいえ学校という所に勤めているような人が学歴詐称するようなことはないだろうと勝手に思い込んでいたが、実際は学歴詐称する人なんてゴマンといるということを会社という所に勤めてよくわかった( 一一)  藤井は大学卒業後に高校の教諭とかになった人間ではなく教育・学校と関係のない会社という所に勤めたのちに予備校のYMCA予備校に勤めた男で、会社という所には学歴を詐称する人や資格を詐称する人などいっぱいいるのであり、1990年頃、私が勤めた小堀住研(株)の東京支店自由が丘営業所にいたK藤寿一(男。当時、20代。近畿大学経済学部卒)なんかは前に所属した営業課の課長から「おまえは大学も近大しか出てないし、卒業した学部も建築学科とかではなくて経済学部しか出てないし経歴にとりえがないから宅建主任〔宅地建物取引主任者⇒宅地建物取引士〕の資格を持ってることにしろ」と「業務命令」されたと言っていて、実際には宅地建物取引主任者(⇒宅地建物取引士)の資格なんか持っていない・試験に通っていないにもかかわらず、「ぼく、宅建主任もってますから」とギャースカギャースカ叫んでいた( 一一)  小堀住研(株)は不動産業ではなく建築業の会社で宅地建物取引業の会社で宅地建物取引主任者⇒宅地建物取引士を詐称するといかんが建築業の会社で詐称してもかまわないと近藤は思っていたかもしれないが、国家資格の詐称は軽犯罪法違反のはずで、法令に違反する「業務命令」は無効のはずだが、近藤は社会科学系学部卒のわりにそういうことを認識・理解していなかったようだ。同じ小堀住研(株)の千葉支店柏営業所にいた犀川(さいかわ)(男。当時、30代)は日大芸術学部卒なのに「わたし、早稲田の建築(早稲田大学理工学部建築学科)出てますから」などと称していたようだ・・が、おまえ、早稲田大卒みたいな顔なんかしてないだろうが・・て男だったが、そういうことを言いまくっていた。一般に「早稲田の政経」は学歴詐称の定番で、「早稲田の建築」は建築業界限定での学歴詐称の定番だったのだ。藤井もおそらく学歴詐称であると思うが、万一、違ったとしても、「『早稲田の政経でてる』と学歴詐称している男」なのか「実際に早稲田大政経学部卒だけれども《『早稲田の政経でてる』と学歴詐称している男》と内容は変わらない男」なのかの違いでしかない。どっちにしても嘘ばっかりつきまくって受験生を混乱させるくだらない男だった。この藤井という男は自称「敬虔なクリスチャン」で「『聖書』なんて、あんなもん、絶対に読んではいかん。『聖書』みたいなもん、あんなもん、ええことなんて何ひとつとして書いてないんやから、絶対に読んではいかん。あんなもん、読むもんと違うんや。『聖書』なんて読まんでも、洗礼うけて献金はらって日曜ごとに教会に行って礼拝に出ておけばそれでええんや。『聖書』なんてあんなもん、ろくなこと書いてないんやから、あんなも~ん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんてことは、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。たとえ読むにしても歳言ってから読んで『はあん、そんなもんか』と思えばいいことであって、若いうちに読むということは特にやってはいかん」と毎日、「伝道活動」をおこなっていた。そういうのを「敬虔なクリスチャン」と言うらしかった( 一一) うちの母親はそんな男のことを「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人ではない」だの「あの人はYMCAで主事をやっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並のクリスチャンではない。相当えらいクリスチャンのはずや」と「『聖書』なんか絶対に読んではいかん」だの「『聖書』みたいなもん、読まんでも洗礼うけて献金はらって日曜ごとに教会に行って礼拝に出ておけばそれでええんや」などと日夜、そういう「伝道活動」をおこなっている男のことを言っていた。最初、「主事」という役職名は、YMCA予備校の男性の事務職員である程度の年数勤めてある程度の年齢になった人がもらう役職名かと思っていたらそうではないみたいで、YMCA予備校では男性事務職員は全員が「主事」だったようだ。栃木県佐野市で勤務していた時、近所の読売と日経を扱っていた新聞販売店では従業員全員が「私が店長です」と言うておったらしいし、会社によっては箔づけのために全員が名刺に「課長」とか「部長」とか書いてある会社があるようで、(株)一条工務店は名刺の発注は本人が記入したものをファックスで送信して注文していたが、氏名・所属営業所・役職・資格を記入するようになっていたが、それは本人が記入すればそのまま総務部は印刷屋に依頼して作成して届けていたので、1992年に東京営業所(江東区潮見)で同じ営業所にいた〇ットリ(男。当時、20代)の名刺にはそんな資格あんのかあ? て資格が記入されていたし、新卒入社したばっかりで役職なんか当然ついていない男の名刺に「主任」なんて書いてあることがあったようだ。YMCA予備校の「主事」というのも「そんなもの」だったようで、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と言えばひとは評価してくれるだろうというのと同様の浅はかなものだった( 一一) YMCA予備校の「主事」なんてものは、実際は大学受験についてわかっていない単なる男性事務職員でしかない男に箔をつけるために創作した男性事務職員全員につけていた「役職」だったのだが、それをうちの母親は「あの人はYMCAで主事になっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並のクリスチャンではない。特別にえらいクリスチャンのはずや」などとアホなことを言っていた( 一一)  アメリカ合衆国ニューヨーク州立シラキュース大学の「精神科」教授トマス=サズは『「精神医学」という神話』(岩崎学術研究社)にアインシュタインの言葉だという「彼らが言っていることを聞くのではなく、彼らがやっていることを見るべきだ」というものを引用している。サズが引用していたものでは、サズは「彼ら」として「精神科医」「精神医学」について「『精神科医』と称する者が言っていることを聞くのではなく、『精神科医』と称する者がやっていることを見るべきだ」ということを言っていたのだが、「精神科医」「精神医学」に限ったことではなく、この「彼らが言っていることを聞くのではなく、彼らがやっていることを見るべきだ」という視点というものは大変有効なものだと私は思っているが、カール=マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』だったか『ユダヤ人問題について』だったかにおいてユダヤ人・ユダヤ教を考えるにおいて、これと同じ見方、ユダヤ教とはどういうものか考えるにおいて、ユダヤ教の教典から考えるのではなく「ユダヤ人」「ユダヤ教徒」とい言われる人が「何をやっているか」から考えるという視点で述べている箇所がある。「クリスチャン」というものも「『聖書』に帰れ」というルターの考え方などにより『聖書』がキリスト教のものさしだと考えるのではなく、「彼らが言っていることを聞くのではなく、彼らがやっていることを見るべきだ」という視点で考えるならば、YMCA予備校の藤井が「敬虔なクリスチャン」だとするならば、「『聖書』みたいなもん、あんなもん、ええことなんか何ひとつとして書いてないんやから、あんなも~ん。『聖書』なんてあんなもん、絶対に読んではいかん。『聖書』なんてあんなもん読まんでも、洗礼うけて献金はらって日曜ごとに教会に行って礼拝に出ておけばそれでええねん。『聖書』なんて絶対に読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。たとえ読むにしても歳いってから読んで『はあん、そんなもんか』と思えばいいことであって、若いうちに読むということは絶対にしてはいかん」と日夜、言いまくって精力的に「伝道活動」やりまくっている男のことを「敬虔なクリスチャン」「並ではない特別にえらいクリスチャン」と言うらしく、そういうのを「キリスト教」と言う・・ということになる。はたして、そういうのをキリスト教だと考えるべきなのかどうか、よくわからないが、そういうのをキリスト教だと信仰している人というのが現実にいる、というのは事実で、そういう人を「あの人はクリスチャンだから悪い人であるわけがない」などとうちの母親みたいにアホなこと言ってる人がいるということも事実だからしかたがない。
  YMCA予備校高槻校の「京大東大文系クラス」の担当の「主事」の藤井(男。1970年代終わり頃当時、50くらい? 自称「早稲田の政経でてる」だがおそらく学歴詐称。)はいいかげんなことをやっておいて、それで落ちた者には「YMCA予備校がやるように言ったことをやっておれば通ったのに落ちたということは、人間性に問題があるということだ」とか言いまくるのだったが、大学入試は通るために受けるのであって落ちるために受けるのではないから通った方がいいのだけれども、通ったとしてもそれは人間性が良かったから通ったのでもなく人間性がえげつなかったから通ったのでもなく落ちたとしても藤井が言うような「人間性が悪いから落ちた」ということではなく逆に人間性がいいから落ちたわけでもない。むしろ、「人間性に問題があるから落ちたんだ」などと言いまくる藤井のような人間こそ、人間性に問題があるのではないか。そういう人のことを「敬虔なクリスチャン」と言うらしい。

  YMCA予備校の高槻校の「京大東大文系クラス」のK1クラスに夕陽丘高校卒で高校卒業時に東大の文科1類を受けて落ちたという某くんがいた。彼が悪いわけではないのだけれども、私は北野高校に行ったのに卒業したら夕陽丘高校卒の人と同じ立場になってしまった、と少しショックを受けた。・・そして、1年後、彼は東大の文科一類の受験を回避して文科二類を受けて合格して行った。私は東大に進学できなかった。 彼が東大に1浪で行けて私が行けなかった理由の1つとして私が北野高校卒だったという点がある。北野高校では「大学は現役で行くのが基本」という考え方があり、浪人してしまったことから、なんだか宗教の戒律を破ってしまったみたいな圧力が加わった。特に2年の時の担任だった旧姓作野礼子から「私は両親が離婚したんだから」「私は父親がいなかったんだから」と執拗に言われ、「私だったら浪人なんか絶対にさせてもらえなかったわよ」と責められたのだったが、私が北野高校の教諭だったなら、もしくは天王寺高校とかそういう公立進学校の教諭だったなら、すでに浪人してしまった人間にそういうことを言って責めるということは絶対にしない。責められてももうどうしようもできないことを責めてもしかたがない。むしろ、次に通ることを考えるべきだと思うのだ。旧姓作野礼子は北野高校の卒業生、特に2年の時に担任だった私に執拗にそういうことを言って責めるのだったが、他校の卒業生には言わない。私は高校卒業時に東大の試験に落ちたけれども、どこでも良かったら・・なんて言ってもどこでもいいわけないのだけれども、国立大学でどこかというくらいなら通る所はあったと思おし、「練習のために」とうちの父親に言われてしかたなしに受けた立命館大学の産業社会学部には通ったわけで、それだって世間一般から考えるとそんなに「下の方」ではないはずだったが、旧姓作野礼子は私にはそう言って責めるのだったが、底辺の高校卒で高校卒業時にはろくな大学に通らない、立命館大学の産業社会学部なんか通らないような人で浪人する人には「私なんか、浪人なんて絶対にさせてもらえなかったわよ」「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」と執拗に言いまくって責めるといったことはまったくやらなかった。旧姓作野礼子はなんで自分の所の卒業生を苛めてよその高校の卒業生は苛めないのかと思うが、””そういう女””だったようだ。 慶應大学に「愛塾」奨励空手会という「空手使いの右翼団体」があり、そこに千葉クロマティ高校卒で1年浪人して「1浪で慶應の経済」と「1浪で慶應の文学部」の入試科目の数学1・2Bと英語の「1浪で慶應の経済」「1浪で慶應の文学部」の入試科目だけ学習して「1浪で慶應の経済」は当然落ちたが「1浪で慶應の文学部」の方はラッキーで合格して入学しおった富永という男がいたのだが、富永なんかは自分でも「高校卒業の時の成績だと通る所はたいした所はなかった」と話していたように、少し話をしただけでも「こいつ、勉強してないなあ」とわかる男だったが、そういう男には旧姓作野礼子は「私なんか、浪人なんて絶対にさせてもらえなかったわよ」「あなたが浪人したというのは、それはあなたが甘ったれているからであって、あなたが思いあがっているからで、あなたが考え甘いからよ」だの何だのかんだのと責め立てる・・ということはしない。 旧姓作野礼子は自分の所の高校の卒業生の私には「私なんか浪人なんて絶対にさせてもらえなかったわよ」と言ってすでに浪人してしまって今さらどうもできないことを責めるということをやるが、クロマティ高校卒の富永には絶対にやらなかった。あの女、いったい何なんだ・・と思うが””そういう女”” だったようだ。私はどこでもいいなら・・といってもどこでもいいことないが、どこか国立大学のそう下の方でない所でというくらいならどこか通るところはあった。それに対して、そんな高校の人が浪人なんてするのお? そんな高校の人が浪人なんてしてそんな大学を浪人して受けるのお? そんな大学に浪人して行くのお? そんな自分の氏名と受験番号さえ書けば合格するような大学に浪人して行くのお?・・という人が現実にいるのだが、旧姓作野礼子はそういう人には「私だったら浪人なんて絶対にさせてもらえなかったわよ」だのなんだの言って責めるということは絶対にしない。なんで? なんで、旧姓作野礼子は自分の所の卒業生は苛めて他校の卒業生は苛めないの? なんでえ?・・と思うが、””そういう女”” だったようだ。「両親が離婚した」「父親がいなかった」女というのはそういうものなのか? そういう問題でもないのではないか。「両親が離婚した」人でも・「父親がいなかった」人でも誰もが旧姓作野礼子みたいということはないと思うのだ。そもそも、「両親が離婚した」「父親がいなかった」娘が誰もが旧姓作野礼子さんみたいに「私は父親がいなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」とそういうものを自慢しまくっているかというと、そんなことないと思うのだ。「千葉クロマティ高校卒の富永」は「俺なんかはきっちりと1浪で通った」などと言ってそれを自慢するのだったが、「きっちりと1浪で通った」などという日本語があるとは思わなかったのだが、そういう高校卒の人には旧姓作野礼子は絶対に「私なんか浪人なんか絶対にさせてもらえなかったわよお」「あなたが浪人したのは、それはあなたが考えが甘いからであって、あなたに素直さがないからであって、あなたに根性がないからよ」だの何だのかんだのと私に言ったようなことを言って苛めるということはしない。なんか北野高校を卒業すると損みたいだ。北野高校を卒業すると、特に2年の時に旧姓作野礼子に担任を持たれて卒業すると、浪人してしまっても別に人を殺したわけでもないのに旧姓作野礼子からこういうことを言われていじめられる、富永みたいな不良は底辺の高校卒で「俺なんかはきっちりと1浪で通った」などと言って「1浪」というのをかえって自慢しよる( 一一) それには旧姓作野礼子は何も言わないみたいなのだ。なんで?  こういう点において、北野高校卒で浪人すると三流校卒で浪人した人間に比べて条件が悪い、三流校卒で浪人した人に比べて北野高校卒で浪人した者は受験生活が不利だという点があった。
  「私なんか浪人なんて絶対にさせてもらえなかったわよ」と言ってすでに浪人してしまって今さらどうもできないことを責める・・というのは旧姓作野礼子はそういうことをやって気持ちよかったのかもしれないが、
(1) ひとつには、なんで他校の卒業生、特に富永みたいな三流以下高校卒で高校卒業まで勉強してきてないやつが浪人して、浪人中に受ける大学の入試科目だけ学習して大学に行ったろかというやつには私に言ったようなことを言って責めるということは絶対にしないで、なんで自分の高校の卒業生だけ苛めるのか・・という問題があるが、
(2) もうひとつの問題として、高校生に「できるだけ現役で大学に行った方がいいよ」と言ってあげるのはいいとして、すでに浪人してしまって今さらどうもできない人間に、浪人してしまったということを責めても、責められた側はどうもできないのであり、そのどうかしようと思ってもどうもできないことを責めたてる・・というのは旧姓作野礼子は楽しくておもしろくて快感かもしれないが、責められた側はどうしたものか困ってしまう、という問題があった。 私はなんとかしないといけないが、どうすればいいのだろうか・・と真剣に考え、真剣に悩んだ。『あしたのジョー』で「少年院のボクシング大会」において、元プロボクサーの力石徹は生意気な矢吹丈を「1分以内に倒してやる」と宣言したが、1分以内に倒すことはできえなかった。「や~い、嘘つき、ほら吹き。にせもののカシアス=クレイ。1分以内に倒すんじゃなかったのかあ」だったか言いまくる矢吹に対し、「1分以内に倒せなかったことのつぐないとして、この矢吹をとことんやっつけてやります」とか言い出すのだったが、それでも「1分以内に倒す」という宣言を実行したことにはならない。すでに浪人してしまった人間に、旧姓作野礼子は「あなたが浪人したのは、あなたの考えが甘いからであって、あなたに素直さがないからであって、あなたの心がけがなってないからよ」だの何だのかんだの言いまくるのだったが、そういったことを言われて「こんちくしょう」と思って努力すれば浪人しなかったことにできるのならまだしも言って悪くはないかもしれないが、そういったことを言いまくられたとしても、もう今さらどうもできないものを、いったい、どうすればいいのか。
  それで、私は旧姓作野礼子からそういうことを言われて責められて、「それなら、次の受験の時には日本で一番難関と言われる東大の文科一類に1番で通れば、それで補える」かとか考えた・・・が、そういうことはあんまり考えない方がいいと思うよ。まず、その試験は「1番で通る」かどうかが重要な試験なのか? ということを考えるべきだ。そうではなくて「合格最低点より1点でも高い点数を取れるかどうか」が重要な試験なのであれば、むしろ、「1番でなんて通ってたまるか」「合格者最高得点答案なんて、そんなもの書いてたまるか」と考えるべきだと思うのだ。旧姓作野礼子からそういうことを言われたために、その後、模擬試験を受けて採点されたものが返ってきた時にその成績を見て、実際にはそんなに悪いわけでもないのに、「1番で合格できるか」という基準から見て相当悪いように思えた。そんなもの、「1番で通る」とかアホなことを考えるからいかんのだ。そうではなくて、「いかにして、合格最低点より少し下から合格最低点より少し上まで持っていくことができるか」を考えるべきであり、実際問題として東大の入試とかでバケモノみたいな点数とるやつが中にいるみたいだが、これは私が実際に2浪して思ったのだが「バケモノが何点とろうが、そんなもの、俺には何の関係もない!」ということだ。それこそ、たいして努力もしないで東大とかに1番で通るとかできる人・・というのがいるのかどうか知らんが、もしも、そういう人がいたとしたら、そんな人が何点とってるかなんてどうでもいいことだ。関係あるのは合格最低点付近の人間がどうかということだけだ。むしろ、「1番で通る」とかアホなこと考えるのは「勝負弱さ」である。「関係あるのは合格最低点のみ」と認識する姿勢こそ「勝負強さ」だ。旧姓作野礼子は「女だから北野高校に入れた」人が。男だったら入れていない女性が北野高校に入学した場合に、うまく合う人と合わない人がいるみたいで、「うまく合った」人には神戸大くらいに行く人がいるようだった・・が、それで神戸大に行ったというだけの女が旧姓作野礼子で、その程度の受験経験しかない女が言うことに惑わされた・・というのが1浪の時の私の失敗の1つだった。すでに浪人してしまった人間に「浪人したなんて」と、そこを責めてもしかたがないはずで、私が高校の教諭ならそういうことは言わないが、旧姓作野礼子はそんなこと言われても今さらどうもできないじゃないか・・ということを言って苛めるのが快感だったようだが、「両親が離婚した」「父親がいなかった」のが関係しているのかどうかわからないがあまりいい性格していないと言わざるをえない。
  そして、実施問題として、東大とか京大とか受けようとしているような人が、言っちゃなんだが「三流以下の私立大学」を受けるなら「1番で通る」とかやろうと思えばできるかもしれないが、東大とか京大とか受けるのに、そんなに簡単に「1番で通る」とかできるか?  ・・結論として、「別に1番で通らんでもええ」と思うのだ。「1番で通ることで、浪人してしまった罪を補わないといけない」とか考えると、なんだか「1番で通る成績」が合格最低点みたいになってしまうのだ。「ともかく通ればええんや」と認識すれば、実際の合格最低点を合格最低点として考えることができるのであり、「1番で通る」とかアホなことは考えない方がよろしい。・・大学入試に失敗した経験から「高校の教諭に警戒せよ」という認識を得た。私が父親で息子が浪人したならば、旧姓作野礼子みたいな女が寄ってきたら「ああいうアホは相手にすんな」と教えてあげるところである。  先日、YouTube で元ヤクルトスワローズの古田と誰だったかの対談を見たのだが、古田が言うには、巨人に松井が入ってすぐの頃は松井はバットを相当強烈に振っていたらしいが、そのうち、それほど大きく振らなくなったそうだ。そんなに振り回さなくてもスタンドまで入るということに気づいたらしい。それで、古田はオールスター戦で松井と会った時に「言ってやった」らしい。「おい、松井。おまえは志が低い。そんなちょこんとあてるような打ち方してホームラン打ってもしかたないだろう。もっと大きく振って東京ドームなら外野の一番上の席の上の看板にぶちあてるようなホームランを打ってこそ松井のホームランだろう」と、そう「言ってやった」そうだ。松井はどう反応したかというと・・、「もんのすごい嫌そうな顔された」そうだ(笑) 「1番で通る」とかいう思考は、いわば、「東京ドームなら外野席の上の看板にぶちあてるようなホームランを打たないとだめだろう」と言ってもっと振り回せと言って大振りさせて打ち損ねさせてやろうとするようなものだ。「ともかく、合格最低点を上回ることができれば、それでええんや」と認識することこそ「勝負強さ」だ。逆をさせようとするような高校教諭は害がある。害があるやつが北野高校にいた。もしも、1番で通ったなら入学式で総代で出してもらえるのかもしれない・・けれども、出たいか? そんなもん。私なら別に出たくないなあ。めんどくさいやろ。一般入学生として入学式に参加するなら、ええかげんなかっこしてでも、ともかく出ておけばいいのだが、「総代」というのか「新入生代表」とかそういうもので出るなら、それなりのおめかしして出なきゃならんし、めんどくさいやろ・・と私なら思う。そういうことを考えても「ともかく、通ればええんや」と認識するべきで、「ともかく通ればええんや」と認識することこそ「勝負強さ」であり、「1番で通る」だのとアホなことを考えるのは「勝負弱さ」でしかない・・と私は思う。そんなふうに考えさせようとするような良心的でない高校教諭に警戒せよ!・・と私が父親なら息子もしくはそれに対応するような受験生にアドバイスする。
  旧姓作野礼子が教諭やってる高校に進学してしまったのが失敗だった・・という面があるが、北野高校を受ける時点において旧姓作野礼子が北野高校の教諭をやっているということは知らなかった。

  夕陽丘高校卒でYMCA予備校高槻校に来ていた某くんは高校卒業時には東大の文科一類を受けて落ちたが、1浪後は文科一類の受験を回避して一類より少しだけ合格最低点が低い文科二類を受験して通って行ったようだったが、私の場合は経済学部は首をもがれても行かされたくなかったので、もしも、文科一類受験を回避するなら文科二類ではなく文科三類と考えていたし、そもそも、元々、法学部ではなく哲学・文学・宗教学・歴史学か心理学の研究者になりたいと思っていた者であったから、文科三類の方が良かったくらいだったのだ。同じ高校から文科で一番難易度が高い文科一類に現役で合格して進学した者だっているのに浪人しても東大の文科で一番難易度が低い文科三類に行くなんて・・とか考えたりもしたが、そういうことは考えない方がいい。プロ野球の選手がホームランを打つ場合に球場が狭い神宮球場で試合をしているなら、球場が広い甲子園球場でもスタンドに入るだけ飛ばさないといけないとかそういうことは考えない方がいい、神宮球場で試合するなら神宮球場の広さをもとに考えればいいことで、哲学・文学・宗教学や心理学を学び、そういう分野の研究者になりたいと思うならば東大なら文科三類を受けて通ればいいことであって、文科一類ならとか考える必要はない。我が家の場合は、うちの父親が大学は経済学部に行くものだという信念を持っている男で母親は「文学部なんて」と言って譲らなかったので、な~んとかしてそういう所に行くためにはと考え、又、なんとしてもあの家を出るためにはと考えると、東大の文科一類に通って行った上で入学後に文学部の哲学科・文学科・宗教学科・史学科といったところに転部するといったことを考えるしかなかった・・が、そういうことを考えないといけないというのは考える必要がない人に比べて条件が悪かった。
  夕陽丘高校卒でYMCA予備校高槻校に来ていて1浪で東大の文科二類に合格して行った某くんには模擬試験会場とかで会うことがあって向こうから話しかけてくれたことがあった。彼は1浪でともかくも東大に合格して行ったが私は行けなかった。「富永の行く大学」みたいなものに行かされてしまった。小学校の1年から同級生が遊んでいる時も勉強してきたおかげで、「不良の行く大学」に行かされた、不良と同じ大学に行かされてしまった・・・。日吉台学生ハイツにいた大阪府の堺市の公立高校卒の人で「慶應で我慢できるの? 俺なら、もしも北野みたいな高校卒業していたら慶應では絶対に我慢なんかできないけれどもなあ」と言ってくれたのだったが、その「我慢できないこと」を我慢させるというのがうちの父親にとっては快感だったみだいだ。なにしろ、うちの父親は「無理矢理やるのが好きなタイプ」「嫌がることをさせるのが好きなタイプ」の男だったのだ。
  うちの父親は「無理矢理やるのが好きなタイプ」「嫌がることをさせるのが好きなタイプ」で、下の姉がお見合いをした後、いったん、その人と結婚すると言ったものの、何回か会った後、あの人は嫌だと言い出したところ、うちの父親は言い出したのだった。「無理矢理やるのがええねん。無理矢理むりやり無理矢理むりやり」「無理矢理やるのがええと思うねん、無理矢理むりやり無理矢理」と。そして、「無理矢理」結婚させられた下の姉は結婚してすぐに離婚した。そうなると誰か悪いやつがいるわけだ。「わしいのようなエッライえっらいエッライえっらい、釈迦で孔子で孟子で聖徳太子でキリストでメサイヤのお父さんの娘であるA子さんが離婚するということは、本来、絶対にありえないことなんや。そのありえない離婚をA子さんがしたってことは、おまえが悪いちゅうこっちゃ! よくも大事なA子さんを離婚させやがったなあ、このチャンコロろすけイタコ浪商めがあ!!!」と私の眼を指で突き刺すようにして怒るのだった。「なんで、それが私のせいなんですか」などと言うと「外罰的性格」と「心理学」から「診断」されることになる。 なんで、私が悪いのかというと、私が中学生だった時、下の姉に「〇〇が高校に行くまでに結婚を決めてくれ」と言った、そのために下の姉は「あんな男とでも結婚して犠牲になったろ」と考えて結婚して失敗した。私が産まれてこなかったら「〇〇が高校に行くまでに結婚決めてくれ」とは言わなかったはずや、そやのにからに産まれてこなかったら良かった〇〇が神さまの意志に反して産まれてきおったから、だから「〇〇が高校に行くまでに結婚を決めてくれ」と言ったんや。だから、悪いのは〇〇なんや! 反省しろ、このチャンコロろすけイタコ浪商、よくも産まれてきやがったな、このロスケめがあ!!! ・・ということになるらしかった。だから、「悪いのはすべてあんたなんやでえ、わかってんのかあ」と毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに言われ続けることになった。「なんで、私のせいなんですか」と言うと「外罰的性格」と「心理学」に「診断」されることになるので怖くて言えないが、今もってなんで私のせいなのかわからない。中学生の弟は姉を守ろうとして、うちの父親が「無理矢理やるとええと思うねん、そう思えへんか」と言った時には「あかん。絶対にあかん。無理矢理やるなんてことは絶対にしてはいかん」と言って相当頑張ったのに、それでも「心理学」によると中学生だった弟のせいだという「診断」になるらしいのだ。
  あの「無理矢理やるのがええねん、無理矢理」「無理矢理やるとええと思うねん、無理矢理」と「何かと無理矢理やりたがる男」というのは、それがその人の性格なのだと思う・・が、難儀な性格やと思う( 一一)

  円満字洋介『京都|大阪|神戸 [名建築]ガイドマップ』(2011.10.31.エクスナレッジ)の「(31)今里・谷町ルート」に、大阪府立清水谷高校済美館の写真が掲載されて述べられている。
《 長堀通沿いの大阪府立清水谷高校済美館は、離れていてよく見えないが、曲面にアーチ窓というなかなか思い切ったデザインをしている。曲面アーチは土佐堀・福島ルートの菅澤眼科クリニックでも見たが、アーチが3次元曲線を描くことになるので作るのは難しいだろう。》
と書かれている・・が、気づかずに通り過ぎてきた。
京都・大阪・神戸【名建築】ガイドマップ - 円満字 洋介
京都・大阪・神戸【名建築】ガイドマップ - 円満字 洋介
  府立清水谷高校の済美館は、
《 遠目に見える西田カーブ
大阪府立清水谷高等学校 済美館(旧 大阪府立高等女学校 済美館)
1925年 西田勇
大阪市天王寺区清水谷町2-44 》
だそうだ。 西田勇とは、インターネットで検索すると、「大学教員のベンチャー企業奮闘記」http://www.bestows.biz/blog/wp/%e3%83%97%e3%83%ad%e3%83%95%e3%82%a3%e3%83%bc%e3%83%ab/ 《 こんちには,西田勇です.現在,神戸大学にて大学教員をしながら大学発ベンチャー”BESTOWS株式会社”を立ち上げて日々奮闘しています.》なんてのが出てきたが、清水谷高校の済美館というのは「ひどく不合理(1925)治安維持法制定」の1925年にできたというものだから、もしも、20歳の時に設計したものであったとしても、今現在119歳ということになるので、別人だろう。
  この『京都|大阪|神戸 [名建築]ガイドマップ』の著者の円満字の狸林・・ではなかった、円満字洋介という人は私より少し年下で、京都工芸繊維大学建築学科卒で、円満字建築事務所代表、《京都精華大学、摂南大学などの非常勤講師》という人らしいが、この人の問題点として、建築家業界の人、特に関西の建築家業界の人は知っている人であっても、世間一般に誰もが知っているというほどの知名度があるわけでもない人のことを知っているのが基本という姿勢で書いている、という点がある。「世界の丹下健三」とかなら、いいと思うか「なんだ、あんなもん」と思うかは別として名前くらいは知っている人が多いと思うのだ。丹波哲郎と間違えている人も中にいるかもしれないし、「姓は丹下、名は左膳」の丹下左膳と混同している人もいそうだが〔YouTube-丹下左膳 OP 高橋幸治https://www.youtube.com/watch?v=eBLGIFyOmzk 〕、建築家業界で仕事をしている人でなくても、ともかく、どっかで名前くらいは聞いたことがある・・という人が多いと思うのだ。それに対して「西田カーブ」とか当たり前みたいに言われても、西田勇て誰やねん・・と思う人間の方が多いはずなのだ。そういう、世間一般では当たり前ではないし、建築でも「建築家」同好会の人たちにとっては仲間かもしれないが、建築屋の方で仕事をしているような者にとっては当たり前でもない人を「西田カーブ」とか当たり前みたいな表現をするというところは、これは自称「建築家」の職業病というのか、「建築家」症候群とでもいうのか、なんかそういうもので、「この病気は一生、治らない」とでも「診断」すべきか・・、あんまりいいことないと思う・・・が、「簡単には治らない」ビョーキだと思う。・・「建築家」の西田勇はウィキペディアー西田勇https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%8B%87 によると《 西田 勇(にしだ いさむ、1897年 - 1984年)は、福井県出身の建築家。大阪府営繕課に勤務。無味乾燥になりがちな公共建築物に凛とした気品を与える作風で戦前、戦後に掛けてを多くの作品をてがけた。》という人で、清水谷高校の済美館(1925)のほか、曽根崎警察署庁舎(1929)・北野中学校(現 北野高校)校舎(1931)などの設計をした人らしい。北野中学校校舎は今の北野高校の校舎ではなく、建て替える前のものではないかと思われる。
  私はうちの父親から「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と毎日言われてきた。その結果、日本で一番嫌いな大学、首をもがれても行かされたくないと小学校の1年から思い続けてきた学部に暴力で無理矢理行かされた。円満字洋介さんは、ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ・・と思う。京都工芸繊維大しか行かれへんくせしてからに工学部建築学科なんて行かせてもろうてからに、ほんまにええなあ、うらやましいなあ・・・、わしぁ日陰の月見草やあ・・・、ほんまにほんまにうらやましいなあ、ほんまにほんまにええなあ、うらやましいなあ・・・と心から思う。京都工芸繊維大しか行かれへんくせしやがってからに工学部なんか行きくさってからに、ほんまにええなあ、うらやましいなあ・・とほんまにほんまに思う。

  うちの父親の弟である叔父に子供が2人いた。私より1つ年上の女と1つ年下の男、円満字洋介と同じ年齢の男とがいた。1960年代なかば、私が幼稚園の年長組だった年の正月、その2人を連れて叔父の夫婦が我が家に来て、そして、帰りがけに、私がその1週間ほど前、12月のクリスマスに幼稚園で「15ゲーム」という縦4マス・横4マスで4×4=16マスあるところに1~15の15の数字を書いた正方形が入っていて、空いている1マスを利用して並べ替えるというゲームをもらってきたのだが、私が1週間前のクリスマスに幼稚園でもらったばかりのものを「それ、もらって帰る」などと言い出しよったのだ。
ハナヤマ(HANAYAMA) かつのう 15ゲーム
ハナヤマ(HANAYAMA) かつのう 15ゲーム
  私だって、よその子の家に行った時に、私が持っていない物でよその子が持っている物を見て「いいなあ」と思ったことは何度もあるけれども、だからといって「それ、もらって帰る」などと言ったことは一度もない。もしも、そんなこと言ったら、うちの親からえらい怒られたものだと思う。それを、いとこは言いよったのだ。私が1週間前に幼稚園でもらったばかりの物をもらって帰ると言いよったのだ。
  私には姉が2人いて、そのうち、上の方の姉のT子さんも幼稚園で色違いの15ゲームをもらってきていたようだった。下の姉のA子さんも幼稚園に行ったが、A子さんは15ゲームは幼稚園でもらわなかったみたいで、その結果、我が家にはT子さんが幼稚園でもらったものと私が幼稚園でもらったばかりのものと2つあったのだ。しかし、私が幼稚園でもらったものは1つであり、我が家に2つあっても片方は上の姉の物であって私の物ではない。
  ところが、イトコ2人が帰る時、うちの母親が私に「これ、2つあるから、どっちか片方、あの子らにあげなさい」などと言い出した。「どっちをあげる? こっちにするか?」と言って、上の姉のT子さんが幼稚園でもらったものの方を指したのだが、A子さんがもらったものの方が使用感があるから、もらったばかりのものよりもそっちをあげた方がいいだろうと母は思ったらしかったが、それは私の物ではないから私がそれをあげるなどと言うことはできない。上の姉は私が幼稚園で同じ物をもらう前、それを私に使わせてくれていたが、くれたわけではない。姉はいつかは結婚して子供もできるだろうから、その時には自分の子供に使わせたいのではないか、とも思えた。
  「それは、お姉ちゃんのやから、あかん」と幼稚園の年長組だった時の私は言ったのだ。「そしたら、こっちをあげるということでええな」とうちの母親は言うのだった。私は信じられなかった。いったい、どこの世界に自分の子供が幼稚園でクリスマスにもらったばかりの物を正月に取り上げてよその子にやるんだ。いったいどこにそんな親があるか・・というと、我が家にあったのだ( 一一)
  「それ、幼稚園でクリスマスにもらったばかりの物やでえ」と私は言ったのだ。もしも、私が本当に小さい時に使っていたおもちゃで、もう、年齢的にそれで遊ぶ年齢でなくなったというような物なら、私より年下の子供にあげてくれというのもわからないことはない。しかし、それはそういう物ではなくて、私が幼稚園でもらったばかりの物なのだ、それも12月のクリスマスにもらったばかりの物であり、それを1週間後の正月によその子にやれなどという母親がいったいどこにあるか!・・というと、我が家にあったのだ。
  私が「それ、幼稚園でクリスマスにもらったばかりの物やでえ」と私が言ったのを聞くと、うちの母親は「それなら、こっちをあげるということでええな」と言って、上の姉が幼稚園でもらった物の方を指すのだったが、「だから、それはお姉ちゃんのやて。お姉ちゃんにきいて」と言うと、再び「それなら、こっちをあげるということやな」と言って私が幼稚園でクリスマスにもらったばかりの物の方を指すのだった。「だ~から、それは幼稚園でクリスマスにもらったばかりの物や」と言うと、「甘ったれなさんな。勝手なことばっかり言ってはいけません。どっちをあげるのか、どっちか選びなさい」とうちの母親は言うのだった。自分の物でない物を「あげる」と言うのか、それとも、幼稚園で1週間前にもらったばかりの物をよその子に「あげる」と言うのか、どっちか選びなさいと言うのだった。嫌だった。どちらも選ばされる理由がわからなかった。イトコだって幼稚園に行っていたのだから、イトコだってクリスマスに何かもらっているはずなのだ。それなのに、なんで、私は自分がクリスマスに幼稚園でもらったばかりの物をイトコにやらなきゃならないのだ? 私がクリスマスに幼稚園でもらったばかりの物を正月にイトコにやるのなら、イトコが幼稚園でクリスマスにもらったばかりの物を私がもらってもいいはずだったが、イトコはそれを私に渡すということはせず、自分がもらった物は自分のもの、イトコの私がもらったものも自分の物にしようとしていたのだった。ひどいじゃないか。巨人みたいや、長嶋みたいや、長嶋と一緒や、長嶋そっくりや・・・て感じやった。〔⇒YouTube-マツモトキヨシ 山口もえhttps://www.youtube.com/watch?v=ODDGyP5tweY 〕
  「なんで、あの子らにそんなもの、あげなきゃいけないの。あの子らももらってるでしょ」と私は言ったのだが、ところが、うちの母親は「それが、あの子らは、これ、持ってないらしいねん」と言うのだ。イトコは15ゲームは幼稚園でもらわなかったという意味らしいのだが、おそらく、他の物をもらったのだろう。うちのおねえさんも上の姉は15ゲームを幼稚園でもらったらしかったが、下の姉はもらわなかった。私も東住吉区のカトリック系の幼稚園で年長組の時に15ゲームをもらったが年少組の時には15ゲームはもらわなかった。
  結局、「わかった。こっちをあげなさい」と言って上の姉が幼稚園でもらった物の方を母は持っていって、それをイトコ2人に1つあげたのだった。私にとっては、「私の物ではない物」をイトコにあげるのか、「私が1週間前に幼稚園でもらったばかりの物」をイトコにあげるのかどっちか決めなさいと要求されたのであり、うちの親は「私の物ではない物」を私にイトコにあげさせてもいいし、「私が1週間前に幼稚園でもらったばかりの物」を私にイトコにあげさせてもいいと考えたのだ。私にとっては、物としてはイトコが持って帰ったのはうちの上の姉が幼稚園でもらった物の方だけだったが、気持ちの上では両方を奪われたようなものだった。
  そのイトコ2人の弟の方が住吉高校から京都工芸繊維大なんか行きやがった。「ええなあ、うらやましいなあ。ほんまにええなあ」と思った。京都工芸繊維大しか行かれへんくせしてからに工学部になんか行ってからに。ほんまにええなあ。巨人みたいや、長嶋みたいや、長嶋と一緒や・・と思ったものだった。私は「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな。思い上がりなさんな」と言われたものだったが、それをイトコは京都工芸繊維大にしか行かれへんくせしてからに工学部になんか行ってからに、ほんまにええなあ、うらやましいなあ・・・と思ったものだった。
  そのイトコの父親、私の父方の叔父は30代の時に脳卒中になってしまって十分に働けなくなってしまったようだった。だから、私は私が幼稚園の年長組の時に、よその子(わたし)が幼稚園でもらったばかりの物をとりあげてもらって帰らないといけないような、ものすごい気の毒なものすごい貧乏なものすごいかわいそうな家庭の子なのかと長年思っていた。ところが、私なら「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」なのに、下の弟の方は京都工芸繊維大しか行かれへんくせしやがってからに工学部土木学科みたいなものに行きやがった。上の姉の方は神戸市立外大しか行かれへんのにからに、私はうちの父親の親友の医者屋の女川(めがわ)と勝田から「義務教育は小学校と中学校であって高校は義務教育ではないんやから、あんたは高校には行ってはいけないはずなんや。それやのにからに、あんたが北野高校に行ったというのは、そこで罪を犯しているんや。あんたが北野高校に行ったのは、それはあんたが甘ったれているからであって、あんたが思いあがっているからであって、あんたがつけあがっているからであって、あんたが根性曲がっているからであって、あんたに素直さがないからであって、あんたが思考が硬いからなんや。あんたは高校には行ってはいけない人間なんや。ましてや、あんたは大学には絶対に行ってはいけない人間なんや」とバカ息子をバカ大学2つも行かせた女の勝田とドバカ息子を「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして得たカネで私立金権関西医大に裏口入学させた男の女川(めがわ)とに言われたもので、普通、よその人間がそんなこと言ったら親は怒るものだと思うのだが、うちの父親はそう言われて大喜び♪ 「そうや、その通りや♪ 高校は義務教育でない以上はおまえは高校には行ってはならない人間なんやぞお。それをおまえが北野高校に行ったというのは、それは勝田先生がおっしゃってくださっていただいたように、おまえが甘ったれておるからであって、おまえがつけあがっておるからであって、おまえがのぼせあがっておるからであって、おまえに素直さがないからであって、おまえの思考が硬いからであって、おまえが根性ねじくれまがっておるからなんや。思いあがるなあ! つけあがるなあ! 裏口入学なさったお方の爪の垢を飲めえ!」と、そう言われたのだった。私なら「高校は義務教育ではないのだから、あんたは高校には行ってはいけない人間で、あんたが北野高校に行ったというのは、そこで罪を犯したということなんや」と言われたものを、それをイトコは「あそこは、父親が身体が悪くて働けないから家が貧乏であんたと違って苦労してきているから」とか言いながら、その「家が貧乏」なはずの者が、「行ってはいけない」はずの高校に行き、そして私なら「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれるなあ!」と言われる工学部に京都工芸繊維大しか行かれへんくせしやがってからに、当たり前みたいに行きやがった。
  だいたい、「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」とうちの父親は私に言うのだったが、しかし、国立大学の場合は何学部でも学費は一緒であったはずで、それを私は言ったのだ。「国立大学なら何学部でも学費は一緒のはずや」と。ところが、うちの母親は「絶対に百パーセント間違いなく国立大学に通るとは限らんでしょ。国立大学に落ちる可能性が、たとえ1%でも0.1%でもあったら国立でも工学部は受けてはいかんでしょうがあ」と言うのだった。それなら、「いくらか下めの大学」を受けるようにすればどうなのか、という考え方があるかと思う。東大とか京大なら落ちる可能性もあったとするなら、阪大か神戸大にすれば東大・京大よりも通りやすいのではないか、と。しかし、それでも、あくまでも、京大よりもいくらか阪大の方が通りやすいのではないか、いくらか神戸大の方が通りやすいのではないか・・ということであって「絶対に」「百パーセント」とかいうものではない。ある程度以上の難易度の所を受けるからには、これは反比例のグラフみたいなもの、反比例のグラフではX軸の数値が大きくなればY軸の数値はゼロに近づく、Y軸の数値が大きくなればX軸の数値はゼロに近づくが、決してゼロにはならない。東大ならということではなく、京大ならということでもなく、阪大であれ神戸大であれ、ある程度以上の難易度の所を受ける限り、「絶対に」「百パーセント」などというものには絶対にならない・・・ということは、私は小学校の1年から「親というものは、子供が大学に行く時に行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行けて、やりたい勉強をしてつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理にでも勉強させようとするものなんや」とうちの母親から言われて、そんな与太話を本気にしてしまって同級生が遊んでいる時も勉強してきた結果、私よりずっと成績の悪いやつが工学部とか受けて行っているのに、私だけは経済学部・商学部・経営学部といった「卒業すると高卒と一緒になる学部」に行かされてしまうのだった。それでいて、私が幼稚園の年長組の時、私が12月のクリスマスの時に幼稚園でもらった15ゲームを1週間後の正月に「それ、もらって帰る」と言って持ち帰らないといけないような貧乏な家庭の子が京都工芸繊維大にしか行かれへんくせしやがってからに、工学部に行っていたのだった。なんでやねん!!!
  で、後から気づいたのだ。うちの父方の叔父は会社で東京に出張していた時に脳卒中になって倒れて、それ以来、普通に働けなくなってしまったようだが、それは私が幼稚園の年長組だった年よりも後のことだった、と。私が幼稚園の年長組だった年においては、叔父は営業の仕事についていて、けっこう羽振りが良かったらしく、叔父の家庭は決してものすごい貧乏でかわいそうな家庭ではなかった、ということを。それなのに、なんで、私は幼稚園で12月のクリスマスにもらったばかりの物を1週間後の正月にイトコに取り上げられなければならないんだ。
  何より、金持ちか貧乏かにかかわらず、もしも、私がよその家、うちより金持ちの家であれうちより貧乏な家であれ、幼稚園の同級生の家とか近所の子供の家とかに行った時に、私が買ってもらえない物でよその子が買ってもらっている物があった時に、「いいなあ」と思うことはあっても、「それ、もらって帰る」などと言って持ち帰ろうなどということをしたことは一度もなかったし、もしも、そういうことをしたならば、うちの親はかんかんに怒ったはずだったのだ。それなのに、なんで、うちの親はよその子がそういうことをするとそれを認めて私から私が幼稚園でもらったばかりの物を取り上げようとするのか。
  それから何十年か経ってわかった。私に言って私から15ゲームを取り上げようとしたのはうちの母親だったが、そうさせたのは父親だったようだ。うちの父親はそういう男だったのだ。「それ、どっちか、あの子らにあげるようにしなさい」とうちの父親がうちの母親に命じたのだった。うちの父親はそういう男で、そして、うちの母親は「夫に逆らえない女」だったのだ。夫婦ならば、夫がおかしなことをしようとしたならば、「それは違うのでは」と言うべきで、言えないなら夫婦と言えないと思う。夫が妻にであれ、妻が夫にであれ、言えてこそ夫婦であり、結婚するなら互いに言えるような関係になるべく努力すべきではないか。ところが、うちの親はそういう夫婦ではなかった。うちの父親は「絶対服従、何でも服従♪」と年中言っている男だった。「母親なら、夫が子供におかしなことをするなら、母親として夫に言うべきではないかと思う」と私がうちの下の姉に言ったところ、下の姉が言ったのは「あんた、うちのお父さんに言えるわけないでしょ。うちのお父さんに何か言ったら殴られるもの、言えるわけないでしょ。わからんのん」と言うのだった。たしかに、うちの父親は「女を殴る男」だった。「女である以上は殴らんといかんだろうが」と言っていた。男は殴らないのかというと、それは殴らない。なぜなら、男を殴ると反撃してくることが考えられるが、女は殴っても自分の方が力が強いし、「女なら殴らんといかんだろう」という「九州男児の教え」を受けて育った人だったからだ。「九州男児」もしくは「慶應タイプ」もしくは「ピーターパンシンドローム」のおっさんだったのだ。
  おそらく、そしてこれは間違っていないと思われるが、私が幼稚園の年長組だった年の正月に父方の叔父の夫婦とイトコが来て、帰りに15ゲームを強奪して帰ったのは、それはイトコが目を皿のようにして何をもらって帰ろうかと見まわしていて「それをもらって帰る」と言い出した、なんてやつだ・・と思ったが、「あんたとは違って、貧乏な家庭の子だから考え方が厳しいんや」と言われてきたが、私だって決して贅沢な暮らしはさせてもらっていなかったが、よその家に行って自分が持っていない物をよその子が持っていて「いいなあ」と思うことがあっても決して「それ、もらって帰る」などとは言わなかったし、そんなこと言ったらうちの親からえらい怒られたもので、それなのに、なんで、イトコはそういうことをやっていいのか、なんで、イトコがそういうことをやったら「あんたとは違って貧乏な家庭の子で苦労して育ってるから、あんたとは違って考え方が厳しいんや」などと言ってほめてもらえるんだ、おかしいじゃないか、と思ったものだったが、あれは、そういうことではなくて、うちの父親が「また、ええかっこしいやったろ」と思って、それで、イトコが「それ、もらって帰る」と言い出したのではなくて、うちの父親が「また、ええかっこしいやったろ」思うてはるう・・てもので、「それをあの子らにあげなさい」と言い出し、「うちは息子には、そんなもん、いつでもいつでも、いっくらでも、こうてやってやってやったっとんのや」などと事実と正反対のことを言いまくった・・ということだろう。そして、普通、夫婦ならば「あんた、いくらなんでも、そんなことしたら子供がかわいそうでしょ。1週間前のクリスマスに幼稚園でもらってきたばかりの物をとりあげてよその子にあげるなんて、いくらなんでもひどいでしょ」とそのくらいのことを母親は夫に言うべきだろう、言えて当然だろうと思っていたが、そうではなくて、うちの母親は「夫に逆らえない女」であり、うちの父親は「女を殴る男」で「女であるからには殴らんといかんだろうが」と言う男だったのだった。それで、私は「自分が幼稚園で1週間前のクリスマスにもらったばかりの物」か「自分の物でない物、上の姉の物」かどちらかをあげなさいと要求されて、「それはお姉ちゃんの物やから、あげたらいかん」「それをあげていいかどうかは、ぼくにきかないで、お姉ちゃんにきいて」と言うと、「それなら、こっちをあげるということやな」と言って自分が幼稚園でクリスマスにもらったばかりの物を「これをあげるということでええんやな」と言われ、「それは1週間前のクリスマスにもらったばかりの物やでえ」と言うと「それなら、こっちをあげたいんやな」と自分の物でない物を「あげる」と言わそうとされたのだった。そして、私が19歳の時、うちの父親は言うのだった。「こいつには、よそとはちごうて、欲しいという物は、どんなもんでも、何でもいつでも、何でも何でも、ええもんばっかし、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってやってやってやってきたからっ!」と言い出したので、びっくりした。「絶対違う! 絶対にそんなことない!」と私は言ったのだ。よくまあ、そんな文句が口から出たもんだ。あんた、私が小学校の年少組の時の正月には、それまで、よその子が買ってもらっていたような物を私だけ買ってもらえないということが何度もあって「よそはよそ、うちはうちです」と言われて我慢してきたが、正月に親戚のおじさん・おばさんからお年玉をもらったので、これで、これまでよその子は買ってもらって持っていたけれども自分だけ持っていなかった物を買える・・・と思ったら、「あんた、それを使ったらもったいない。それ、全額、貯金しなさい」と言って「貯金」を名目にして全額、お年玉を取り上げたじゃないか! 1月に幼稚園に行ったら「〇〇くん、お年玉で何を買ったあ?」という話題になったが、「ちょき~ん」なんて言った人間は私ひとりだけだった。「貯金てそれ、いったい何やあ~あ?」と何人もから言われたものだった。お年玉で「ちょき~ん」なんてものを買わされた幼稚園児はクラスで私ひとりだけだった。あんた、私が幼稚園の年少組の時、「それ、使ったらもったいない。全額、貯金しなさい」と言ってお年玉を全額取り上げただろうが、と思った。あんた、私が幼稚園の年長組の時、クリスマスに私が幼稚園でもらったばかりの物を正月に取り上げてよその子にやろうとしただろうが! それだけではない。同様のことはその後も何度も何度もある。それを「。「こいつには、よそとはちごうて、欲しいという物は、どんなもんでも、何でもいつでも、何でも何でも、ええもんばっかし、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってやってやってやってきたからっ!」とはいったい何だ! もしかして、このおっさん、ビョーキちゃうかあ~あ・・と思ったものだった。そうすると、うちの父親の親友で医者屋で「女川教(めがわきょう)」という新興宗教の教祖の女川(めがわ)(男。1980年頃当時、50代前半。自称「金沢大医学部卒」だが嘘くさい。ドバカ息子を私立金権関西医大に裏口入学させたというのを自慢にしていたので、本人も私立金権関西医大裏口入学卒か、そんなところだろう。1980年頃当時、大阪府豊中市在住)が「お父さん、お父さん。こいつ、病気ですから、だから、こういうことを言いまんねん。病気がこいつに言わせてますのんや。お父さんのようなすばらしい人格者で聖人で英雄でスーパーマンのお方の息子に、こんなんができて、ほんまにほんまに気の毒ですなあ。お父さんはお父さんがおっしゃったように、こいつには、小さい頃から、いつでもいつでも、よそとはちごうて、欲しいという物は、どんなもんでも、何でもいつでも、何でも何でも、ええもんばっかし、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってやってやってやってきたのにからに、こいつ、病気なもんやから、それをわかりよれへんのですわあ」と、そう言いよったのだ。それを聞いてうちの父親は「そういうことでっかあ。難儀でんなあ。わしは女川先生がおっしゃるように英雄で聖人でスーパーマンで人格者のお父さんで、こいつにはよそとはちごうて、小さい頃から、何時でも何でも何でもいつでも、欲しいというものは、どんなもんでも・なんでも何でもいつでも何でも、ええもんばっかしこうてきて、やあってやって、やあってやって、やあってやってやってやってきたのにからに、それをこいつはわかりよれへん。これは女川先生がおっしゃるように、間違いなく病気ですわ、間違いなく病気です。クスリ飲ませたらんといかん、それもちょっとではいかん。大量にクスリ飲ませてやらんといかん。いや、クスリではいかん、ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪ 電気ショックやったるべきや、電気ショック♪ な~にがなんでもこいつに電気ショックやって、二度とこういう口をきけんようにしてやらんといかん! 電気ショックやったるべきや、電気ショック! 何がなんでもこいつに電気ショックやったるべきや!」・・とうちの父親はそう言ったのだ。私が幼稚園の年少組の時には「あんた、それ、使ったらもったいない。それ、全額、貯金しなさい」と言って、幼稚園のクラスの生徒でただひとりだけ、お年玉を全額取り上げておいて、幼稚園の年長組の時には、私が12月のクリスマスに幼稚園でもらったばかりの物を正月に取り上げてイトコにくれてやろうとした男が、そうやって「また『ええかっこしいやったろ』思うてはるう」てことをやってきた男が、「ロボトミーやったらんといかん、ロボトミー♪ 電気ショックやったらんといかん、電気ショック♪ な~にがなんでもこいつに電気ショックやって、こいつが二度とこういう口をきけんように治療してやらんといかん」と、そう言ったのだ。

  そして、小学校に入ると小学校の1年の時、担任の先生が「算数」の授業で、足し算・引き算・掛け算・割り算をやった時、クラスでトーナメント大会を実施して、先生が足し算・引き算・掛け算・割り算の問題を出して隣の生徒と2人で先に正解を答えた方が勝ちということで、トーナメント方式で勝ち抜き戦をやり、優勝者と準優勝者には「連絡帳」に「よくできました」と先生が書いてくれた、ということがあったのだが、うちの父親は私に「次、優勝したらプラモデルをこうたる」と言ったので、それで、私は優勝すればプラモデルを買ってもらえるものだと思って、そして優勝したのだ。プラモデルを買ってもらえると喜んで帰ったのだが、そうすると、うちの父親は私に「あんた、プラモデルはどういうのが欲しい?」ときくのだった。私は「ゴジラが欲しいけれども、ゴジラは高くて4000円もするからうちは無理だと思う」と答えたのだ。今の4000円ではない。1960年代なかばの物価での4000円だ。その頃、住んでいた家の近くでアイスクリームを売っている店があって、そこでは10円のアイスクリームと20円のアイスクリームが売られていた。私は10円のアイスクリームは買ってもらえたのだが、10円のアイスクリームは決して悪くはないのだけれども、20円のアイスクリームてどんなものなのか一度食べてみたいと思ったものだったが、我が家は決して20円のアイスクリームは買ってもらえなかった。よそも同様だろうと思って幼稚園や小学校の同級生に「あれ、一度でいいから20円のアイスクリームを食べてみたいなあ」と言ったところ、同級生から「なんでえ? ぼく、そんなん、何回も食べたでえ~え」と言われた。今、コンビニとかに行くと100円少々のアイスクリームと200円少々のアイスクリームがあり、それ以上の値段のものもある。当時の10円のアイスクリームが今は100円、当時の20円のアイスクリームが今は200円だと仮定して、アイスクリーム物価による物価スライド制を実施して考えてみるならば、今の物価は1960年代なかばの10倍となり、4000円は4万円ということになる。実際にそうかどうかはわからないが、ともかく、その頃の4000円というのは今なら4万円くらいか? というくらいのものだったのだ。硬貨とお札がどうなっているかを見ても、その頃も現在も最小のものは1円硬貨で最大のものは1万円札だが、硬貨とお札の境目は違い、その頃、100円は硬貨とお札の両方あって、千円・5千円・1万円はお札のみ、1円・5円・10円・50円は硬貨のみだったのが、今は1円・5円・10円・50円・だけでなく100円・500円も硬貨のみになり、お札のみは千円・5千円・1万円になった。硬貨のみの最大のものがその頃は50円だったのが今は500円になっており、この「最大の硬貨の金額」の移行は「アイスクリーム物価による物価スライド制」と一致している。 その4000円のゴジラとゴジラと同じくらいの価格のバラゴンのプラモデルが、我が家から小学校までの通学路にあるプラモデル屋とか「文房具屋」とかの陳列ケースに並べてあって小学校低学年の男の子は「いいなあ」と毎日思いながらそこを通っていたのだった。4万円とすると怪獣のプラモデルに4万円とはちょっと高いなあ・・と今の私も思うのだが、しかし、そうであっても、小学校の同級生で、トーナメント大会で1回戦負けのくせしてからにゴジラもバラゴンも買ってもらって持っていたやつがいたし、我が家は特別の豪邸とかではないがともかく一戸建ての土地ありの家に住んでいたが、我が家の近所にYアパートと言って、トイレも洗面も共用の貧乏な人が住むと言われるアパートがあって、そこに住んでいた小学校の同級生もゴジラを買ってもらって持っていた。見た目、貧相な家に住んでいても実は金持ちという人もあるけれども、それにしても、あのアパートの住人が金持ちとは思えなかったが、そこの住人の子が当時の物価で4千円、アイスクリーム物価による物価スライド制で考えるなら、今の物価で4万円するゴジラを買ってもらって持っていたのだ。我が家は金持ちか貧乏かというと「真ん中くらい」かとその頃の私は思っていたのだが、「ちょうど真ん中」より上か下かわからないが、もしも、日本人の懐具合を1から10までの10段階に分けたとするなら、10ではないと思ったし1でもないと思った。真ん中より上の6なのか7なのか、真ん中より下の5なのか4なのかわからないが、ともかく、4~7の間くらいだろうと子供は思っていた。だから、どう考えても、あのYアパートの住人の子が買ってもらっているなら、我が家は買おうと思えば買えないことはないだろうと思った。しかし、それまでの経験からして、我が家は我が家と同じくらいか我が家より間違いなく懐具合は下だろうと思われる家の子が買ってもらっているものでも私は買ってもらえないということが多く、「何何くんは買ってもらってる」なんて言っても「よそはよそ、うちはうちです」と言われたもので、我が家は4千円のゴジラは無理だとうと小学校1年生は思ったのだ。
   それで、「ゴジラがいいけれども、ゴジラは4千円もするからうちは無理だと思う」と言ったのだ。そう言えば「そうやなあ、さすがに4千円は出せんわあ。もうちょっと安いもんはないのか。何百円というくらいのものなら買ってやるけれども、そのくらいのものではいかんか。一度、一緒にプラモデル屋に言って、何百円というくらいのものはないのかきいてみようや」とでも言うのではないかと思って、そう言ったのだった。ところが、予想に反して、うちの父親は「なんで、4千円したらいかんのや。4千円したってええやないか。こうたるがな、4千円したって。な~にをわけのわからん心配しとんねん。ほかでもないこのわしが『こうたる』と言うとるねんぞお。このわしが、いったん『こうたる』と口にしたからには、4千円しようがいくらしようが間違いなく絶対にこうたるがな。わけのわからん心配すな! 4千円しようがいくらしようが絶対にこうたる。よっしゃ、ゴジラを買いに行こう」とうちの父親が言ったのだ。それで、え? 買ってもらえるのお?・・と予想外の反応に驚くとともに、買ってもらえるんだあと思って喜んだのだ。ところが・・・。見通しが甘かった。我が家はそういう家ではなかったのだ。
   その頃、住んでいた家から少し西にあったプラモデル屋の扉を開けて入り、うちの父親がプラモデル屋の奥さんに「そこにある、ゴジラ言うのん、あれ、なんぼしますのん?」ときくと、プラモデル屋の奥さんは「ゴジラは4千円です」と小学校の同級生でゴジラを買ってもらっていたやつから私が聞いていた値段と同じ値段を言ったのだ。「それをお願いします」と言ってくれるもんだ・・・と思っていると、そうではなかった。考えが甘かった。甘すぎた。「ゴジラは4千円です」とプラモデル屋の奥さんが言うと、うちの父親は「ふええ~え。ほんまに4千円もしますのん? かなんなあ。冗談やないで、ほんま。怪獣のプラモデルがほんまにほんまに4千円もしますのんか」と言うのだった。「はい。ほんとに4千円します」とプラモデル屋の奥さんが言うと、「ふええ~え、ひいええ~え、ぎょおおえええ~え。かなんなもう、冗談やないで、ほんまあ。あかん! そんなもん、絶対にこうたらいかん! 怪獣のプラモデルみたいなもんに4千円やなんて絶対に出してはいかん。冗談やない!」と言うのだった。「冗談やないで」と言いたいのはこっちだった。「ほかでもないこのわしがいったん『こうたる』と言うたからには、天地がひっくり返っても絶対にこうたるがな。わしを誰やと思うとるねん、このわしをお。このわしがいったん『こうたる』と口にしたからには、4千円しようがいくらしようが何があっても絶対にこうたるがな! わけのわからん心配すな!」とほんの少し前に言うたのはどこの誰やねん!!!  「あんた、何がなんでもゴジラやないといかんのか」と言うので「バラゴンでもいい」と言ったのだが、そうするとプラモデル屋の奥さんが「バラゴンはもっと高いです。バラゴンは4200円です」だったか言ったのだが、うちの父親が「何? バラ、バルゴン?」と言いかえると「ああ、バルゴンなら安いです。バルゴンなら200円です」とプラモデル屋の奥さんが言ったのだ。それを聞いてうちの父親は「それがええわあ♪ バルゴン♪ よっしゃ、あんたが欲しいと言うバルゴンを買ってやろう」と言い出したので、「バルゴンじゃない。バラゴン。バルゴンじゃない」と必死で訴えたのだが、「だから、バルゴンやがな。あんたが欲しい欲しいと言うバルゴンを買ってやろう」と言うのだ。「違う! バルゴンじゃない。バラゴン! バルゴンと違う!」と必死に訴えたのだったが、「だから、バルゴンやがな、あんたが欲しい欲しいと思ってるのはバルゴンや、バルゴン♪ それをこうてやろう」と言い、「バルゴンをください。こいつが欲しい欲しいという200円のバルゴンを」と言って、私がいくら「違う。バルゴンじゃない!」と言っても言っても無視して「バルゴンやがな。あんたが欲しい欲しいと思ってるのはバルゴンや」と言って、4千円のゴジラを買ってやると言われてプラモデル屋に言ったのに、200円のバルゴンを買われてしまったのだった。1回戦負けのやつでもゴジラやバラゴンを買ってもらっていたのに、私は優勝したのに200円のバルゴンをそれを欲しいとはまったく言っていないのに買われてしまったのだった。そして、帰り道道、うちの父親は言いまくるのだった。「よかったねえ、あんたあ~あ。うれしいねえ~え、あんたあ~あ。あんたが前前から欲しい欲しいと思っていたバルゴンをお父ちゃんに買ってもらった。良かったねえ、うれしいねえ、しあわせやねえ、恵まれてるねえ、あんたあ~あ。よかったねえ、よかったねえ、よかったよかったよかったねえ」と家に着くまで言い続けたのだった・・が、ちっともよくなかった。この話を下の姉にしたところ、「あんた、私とよく似た経験してるねえ~え」と言うのだった。「4千円のゴジラ」がお人形さんに変わり、「200円のバルゴン」がチョコレートに変わると、すっかりそのまま同じ経験をうちの下の姉もしたらしかった。年年歳歳、花相似たり、歳歳年年、人同じからず・・と高校の「漢文」でやったが、まさにそれだ( 一一)  なんで、あのおっさんはああいうことをやらなきゃおれないのか・・と思うが、それがうちの父親だったのだ。それをやってこそ、あの人だったのだ。最初から「4千円の物は買えないけれども、二百円か三百円くらいのプラモデルがあったら買ってやれるけれども、そういうのがないかどうか、一度、一緒にプラモデル屋に行ってきいてみようや」と言われてプラモデル屋に行って200円のバルゴンを買われたのなら、同級生で一回戦負けのくせして4千円のゴジラや4200円のバラゴンを買ってもらっているやつがいても自分は200円のバルゴンであってもそれでも喜べたと思う。しかし、「そんなもん、4千円したっていくらしたって絶対にこうたげますて。ほかでもないこのわしが『こうたる』と言うとんねんぞお~お。このわしがいったん『こうたる』と口にしたからには、何があっても絶対にこうたるがな。わけのわからん心配すな」と言われてプラモデル屋に行って、プラモデル屋の奥さんから「4千円です」と言われると「ふううえええ~え。ぎょおおえええ~え。ひいいええええ~え。冗談やないで、ほんまあ」と言い出されたのでは、「冗談やないで、ほんまあ」と言いたいのはこちらだった。なんで、この人、こういうことをやらなきゃおれない症候群なんだろう・・と思ったが、そういう人だったのだ。それがうちの父親だったのだ。「あなたのお父さんほどすばらしいお父さんはなかなかないわよ」と北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子が言いまくるのだったが、同級生とか近所の子供とかのお父さんでも、こういうことをする人というのは、あんまりないみたいだった。私が19歳から20歳になる年、「あんたはなあ、わしのことを普通のお父さんやとかもしかすると思うておるかもしれんけれどもなあ、違うねんで。実は違ってんで。女川先生がおっしゃるには実はわしはスーパーマンやってんでえ。わしはスーパーマンのお父さんやってん。知ってたかあ」とおっしゃるのだった・・が、知らんかった。パーマンかと思うとった( 一一)  こういう「ふうえええ~え。ひいえええ~え。ぎょおえええ~え。かなんなもう、怪獣のプラモデルに4千円やて、冗談やないでえ」と「冗談やないでえ」とこっちが言いたくなるようなことをする「スーパーマンのお父さん」よりもそんなことはしない「普通のお父さん」の方がええわああ・・と思ったものだった。
※ ゴジラ⇒《YouTube-『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』 | 予告編 | ゴジラシリーズ 第7作目》https://www.youtube.com/watch?v=9_auhaD26WY
※ バラゴン⇒《YouTube-フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン 予告篇》https://www.youtube.com/watch?v=UzELuT8i7HA 
※ バルゴン⇒《YouTube-7/16(金)公開『妖怪・特撮映画祭』上映告知~『大怪獣決闘ガメラ対バルゴン』予告篇~》https://www.youtube.com/watch?v=QEb49B9Nf8U
バラゴン≠バルゴン

  さらに、小学校の1年の時の夏休み、うちの父親の勤め先の会社の人が社員旅行に小豆島に行くのに一緒に連れてもらったことがあった。「一緒に連れてもらった」と言っても、別に会社の人に私などの旅行費用を出してもらったわけではなく、旅行費用は我が家で出して行ったのだ。その時のことだ。 小豆島に行く前、うちの父親は小学校1年だった私に「小豆島の浜辺で花火をやろう。花火を買って来なさい」と言ったので、近くの神社の前にあった店で花火を買ってきたのだが、うちの父親は「花火は小豆島に行ってやります。家ではやりません」と言って買ってきた花火を見ることすらも禁じたのだった。
  2泊3日での旅行の1泊目の夜、「花火は小豆島に行ってやります。家ではやりません」とうちの父親が言っていたので、小豆島に行ったのだから、夜、花火をできるのだろうと思っていたら、うちの父親が「花火は2日目の夜にやります。1日目の夜にはやりません」と言うのだ。それで、2日目の夜に花火を浜辺でやるのだろうと思っていたら、2日目の夜、うちの父親は、食事をすませた後、そのまま、酒を飲んでいつまで経っても花火をしに行かないのだ。待って待って待って待ってしても行かず、このままでは花火をすることなく就寝する時刻になってしまうと思い、「花火しよう」「花火しに行こう」と言ってもうちの父親は無視するのだ。そのうち、一緒に行っていたその時は高校生だった下の姉が私に「あんた、ちょっと、いいかげんにしなさい! お酒のんだ人が夜の海になんか行ったら危ないでしょ。あんた、そんなこともわからんの!」と言って私に怒るのだった。なんで、私が怒られなければならないの?  「小豆島で花火をしよう。花火を買ってきなさい」と言って私に花火を買いに行かせたのはうちの父親だ。「花火は小豆島でします。家ではしません」と言ったのもうちの父親だ。そして、小豆島に行った1日目の夜に「花火は2日目の夜にします。1日目の夜にはしません」と言ったのもうちの父親だ。そう言われて2日目の夜に花火をするものだと思って待って待ってしたのに、いつまで経ってもうちの父親は花火をしに行こうとしないのだ。子供は父親が「小豆島で花火をしよう。花火を買ってきなさい」と言うから小豆島での夜に花火をするものだと思い、「花火は1日目の夜にはしません。2日目の夜にします」と父親が言うから、だから、2日目の夜に花火をするものだと思って待って待って待ってしたのに、いつまで経っても花火をしに行こうとしないで時間ばかり過ぎるので、このままでは花火をすることなく就寝時刻になってしまうと思って言ったのだったが、「会社の人」にすれば社員旅行だったから最後の夜には遅くまで酒を飲むものだと思っていたらしい・・・が、だからと言って、なんで「花火は2日目の夜にします」と言われてそのつもりになっていた小学校1年生が怒られなければならないんだ。
  もしも、子供を会社の社員旅行に一緒に連れていって、最後の夜に花火をやろうと思っていたら、一緒に行った会社の人間は最後の夜には酒を飲むものだと思っていて花火に行こうとしても行けない状態になってしまった・・ということならば、私なら子供に「〇〇ちゃん、ごめん。花火をしに行くつもりだったけれども、行けなくなってしまった。いつか、また、花火をする機会をもてるように考えるから」と言って謝ります。父親から謝られたならば子供も「なんでえ」と不満に思っても我慢するかもしれない。しかし、うちの父親はそういう時に絶対に謝らないのです。逆に下の姉から「あんた、ちょっと、いいかげんにしなさい! お酒のんだ人が夜の海になんか行ったら危ないでしょ。あんた、そんなこともわからんの!」と怒られたのだ。「あんた、そんなこともわからないの!」と言われても、酒なんか飲んだこともない小学校1年生にそんなもの、わかるかいな。
  結局、高校1年だった下の姉が小学校1年の弟を連れて2人で夜の浜辺に花火をしにいこうとしたのだった・・・が、考えようによっては高校生の娘が小学校1年の弟を連れて夜の浜辺に行く方がちょっと酒のんだくらいのおっさんが花火をしに浜辺に行くよりもよっぽど危なかったかもしれない・・し、曲がりなりにも父親が一緒に行っているのなら、そういうことがないように配慮するもので、そういう配慮をできてこそ父親ではないのか・・と思うのだが、そういう配慮なんかするような男ではなかった。たまたま、花火を取りに部屋に戻った時、会社の女性社員の人でうちの父親の「お気に入り」だった人が戻ってきていて、「何何さん、一緒に花火しに行きませんか」と姉が誘って一緒に浜辺に行って花火をすることになって、そのおねえさんと一緒に花火をできて子供は結果としてはけっこう喜んでいたのだった・・が、あの人はなんで一人だけ部屋に戻ってきていたのか、もしかすると男を待っていたけれども来よらんかったのか・・とか自分が成人してみると可能性として考えるのだが、そういうことは置いておいて、うちの父親というのは、小学校1年の子供に「小豆島に行って花火をしよう。花火を買ってきなさい」⇒「花火は小豆島でやります。家ではやりません」⇒「花火は2日目の夜にやります。1日目の夜にはやりません」⇒(2日目の夜になると花火をやりに行かず)「あんた、ちょっと、いいかげんにしなさい! お酒のんだ人が夜の海になんか行ったら危ないでしょ。あんた、そんなこともわからんの!」・・と、そういうことをするおっさんだった。
「小豆島に行って花火をしよう。花火を買ってきなさい」⇒「花火は小豆島でやります。家ではやりません」⇒「花火は2日目の夜にやります。1日目の夜にはやりません」⇒(2日目の夜になると花火をやりに行かず)「あんた、ちょっと、いいかげんにしなさい! お酒のんだ人が夜の海になんか行ったら危ないでしょ。あんた、そんなこともわからんの!」
・・て、こういうことをすると子供はこたえる・・ということを理解できない男であり、又、こういうことをした後、「〇〇ちゃん、申し訳なかった」と謝るといったことは絶対にしない人だった。旧姓作野礼子は「私は父親がいなかったんだからねえ」と自慢しまくり、父親がいた人間というのはもんのすごい得してきているみたいに思っていたようだが、「父親がいる」ということはどういうことかというと、「小豆島に行って花火をしよう。花火を買ってきなさい」⇒「花火は小豆島でやります。家ではやりません」⇒「花火は2日目の夜にやります。1日目の夜にはやりません」⇒(2日目の夜になると花火をやりに行かず)「あんた、ちょっと、いいかげんにしなさい! お酒のんだ人が夜の海になんか行ったら危ないでしょ。あんた、そんなこともわからんの!」ということをされるということであり、その上でこういうことを毎年毎年やってきた人から「わし~いほどエッライえっらいエッライえっらいお父さんはおらんねんでえ~え。わかりませんのんかあ~あ」と19歳・20歳くらいになると言われるということだ。それを理解できない女症候群が北野高校の教諭だった旧姓作野礼子だった。

  そういえば、まだ、小学校に行く前、幼稚園に行っていたかまだ幼稚園に行く前だったか、うちの父親は、朝、会社に出勤する時に「行ってくるねえ。お土産買ってくるからねえ~え」と言って家を出ることが何度もあったのを覚えている。「お土産買ってくるからねえ」と言って出たからには帰宅する時には高いものか安い物かはさておき、どんなものであるかにかかわらず、何かお土産を子供に買って帰ってくるものだろうと子供は思い期待する。ところが帰宅した時に子供が「お土産はあ?」ときくと「ないわあ~あ」とやるのだ。子供はおっさんが仕事をするために会社に行っていると思っているから、だから、お土産を買おうと思ったけれども買う時間がなかったのだろうと思って我慢する。しかし、翌日になるとまた、「お土産買ってくるからねえ~え」と言っておっさんは家を出る。子供は今日こそはお土産を買って帰ってくるものだと思うが、おっさんは帰宅するとまた「ないわあ~あ」とやる。それを毎日、繰り返す。今から考えてみると、おっさんは仕事をしに会社に出勤していたのだから、別にお土産を買って帰らないといけないことはないのだけれども、それなら子供に「お土産買ってくるからねえ」と言わなければいいのだ。それを言うから子供はお土産を買って帰ってきてくれるのだろうと期待してしまうのだが、おっさんの方では、朝、家を出る時には子供には「お土産買ってくるからねえ~え」と言って家を出るもので、帰ってくると期待している子供に「ないわあ~あ」とやるものだ・・とか思っていたのではないかと思う。・・しかし、おっさんは「そうするもの」と思っていたようだが、それをされると子供はこたえる・・ということをおっさんは理解できていないようだった。こういう父親のことを「スーパーマンのお父さん」とか「英雄のお父さん」とかうちの父親の「親友」で医者屋の「女川(めがわ)先生」は「診断」なさるようだった。「スーパーマン」で「英雄」だそうだ。私がハタチ過ぎた頃、「あんたはわしのことを、もしかすると『普通のお父さん』やと勘違いしていたかもしれんけれども、実は違ってんでえ」と言い、「『普通のお父さん』でないならどういうお父さんなんですか」と言うと、「女川(めがわ)先生がおっしゃるには、わしは『スーパーマン』やって~ん。知ってたかあ」とおっしゃるのだ。それで、「スーパーマンてことは、空を飛ぶんですかあ」と言うと、「アホか。飛ぶか、そんなもん。飛ぶわけないやろ」とおっしゃるのだ。「しかし、スーパーマンてことは空飛ぶのと違うのですかあ~あ?」と言うと、「飛ぶか、そんなもん。何を言うとんのんじゃ。飛ぶわけないやろ」とおっしゃるのだ。「空飛ばないけれどもスーパーマンなんですかあ」と言うと、「そうじゃ。スーパーマンなんじゃ」とおっしゃるのだった。「空飛ばないけどスーパーマンてことは、アラレちゃんみたいなもんでっかあ」と言うと、「何がアラレちゃんじゃ」とおっしゃるのだったが、「空飛ばないスーパーマン」というと、アラレちゃんみたいなものではないのだろうか。〔⇒《YouTube-Dr スランプ アラレちゃん OP ED》https://www.youtube.com/watch?v=oPYgijgqRGo 〕 そして、「英雄」だそうだった。〔⇒《YouTube-ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」カラヤン・ベルリンフィル》https://www.youtube.com/watch?v=5_LqWMG4Phg 〕 「女川先生がおっしゃるには、わしはヒットラー総統のような英雄らしいねん、わしはあ」とおっしゃるのだった。〔⇒《YouTube-WAGNER -ワーグナー:ワルキューレの騎行 / カラヤン/ ベルリンフィル Wagner: Ride of The Valkyrie / Karajan /Bphhttps://www.youtube.com/watch?v=ZOTdIhaGEuw フリードリヒ=ニーチェがたしか『ツァラトゥストラはこう語った』でリヒャルト=ワグナーは悪趣味だと述べていたように思ったが、ハタチ頃にそれを読んだ時にはどういう意味で言っているのかわからなかったが、たしかに、「ワルキューレの騎行」とか聴いてみると「悪趣味だ」というのがわかるように思う。〕 仕事に行くのにいちいちお土産を買って帰らないといけないことはないが、お土産を買ってこないのならば「お土産買ってくるからねえ」などと言わない方がいい・・と思う・・が、それを理解できないのがうちの父親で、そういううちの父親のことを「あなたのお父さんほどものすごいいいお父さんはなかなかないわよ」と言いまくることで、「あの先生はええ先生やでえ」とうちの父親から言ってもらっていたのが北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子だった。まったく、ろくな女じゃねえ・・・。旧姓作野礼子の母親もまた、そんな人間だから離婚したのか・・・どうかはそれはわからないが、おのれの娘に「両親が離婚した」だの「父親がいなかった」だのとそんなことを自慢するもんじゃないと教えることをしないできない母親だったようだ。 「わしは『普通のお父さん』やのうて特別に特別にえらい『英雄でスーパーマンのお父さん』やねんでえ。わかってますのんかあ」とおっしゃるのだったが「『普通のお父さん』の方がええわあ」と何度も思ったものだったが、そのおっさんのことを旧姓作野礼子は「あ~んなにいいお父さんはなかなかないわよ。私だったらあんなにいいお父さんがいたらものすごくうれしいわよ。それをあなたがそう思わないということは、あなたが甘ったれているからであって、あなたが考えが甘いからであって、あなたが思いあがっているからであって、あなたに厳しさがないからで思考に柔軟性がないからよ」と言われ、そう言ってもらっておっさんは「ええこと言う先生や♪ さすがは北野高校の先生だけのことあるっ♪ さすがに北野高校の先生だけのことあって並の先生と違うでえ、作野先生はあ。わかってるか、作野先生は並の先生やのうて、『北野高校の先生』という普通より一段上の先生やねんぞお。その先生がわしい~のようなええお父さんはなっかなかないとおっしゃっていただいてくださっておるんやぞお。わかっとんのかチャンコロ、わかっとんのかチャンコロ、わかっとんのかチャンコロ♪」とおっしゃるのだった( 一一)  疲れるわ・・・
  そういえば、「小豆島に行って花火をしよう。花火を買ってきなさい」⇒「花火は小豆島でやります。家ではやりません」⇒「花火は2日目の夜にやります。1日目の夜にはやりません」⇒(2日目の夜になると花火をやりに行かず)「あんた、ちょっと、いいかげんにしなさい! お酒のんだ人が夜の海になんか行ったら危ないでしょ。あんた、そんなこともわからんの!」 と、
「お土産買ってくるからねえ~え」⇒「ないわあ~あ」、「お土産買ってくるからねえ~え」⇒「ないわあ~あ」
というのは、似ているな・・・。そういうことを日常的にやらなきゃおれない「スーパーマンのお父さん」「英雄のお父さん」よりはそういうことをやらない「普通のお父さん」の方がええなあ・・と何度も思ったものだった。

  そして、小豆島の坂出(さかいで)だったか土庄(とのしょう)の港だったかから大阪の弁天ふ頭までのフェリーボートで。うちの母親は旅行するのに家からお茶を入れた水筒を持参するのが普通と考えていて、それで、うちの父親と下の姉と私の3人のために水筒にお茶を入れて下の姉に持たせたが、それと別に子供はのどが乾いたらかわいそうだと私専用に子供用の鉄腕アトムの絵柄がかかれた小さい水筒にお茶を入れて持たせたのだった。ところが、うちの母親は旅行するのに自分で水筒を持参してくるのが普通だと思っていたのだが、「会社の人」は誰もそう考えず、我が家以外に水筒を持参した人は誰もなかったのだ。もしも、のどが乾いたら、どこかの売店で飲み物を買うか清涼飲料水の自販機で買うかした方が荷物が少なくていいと考えたのかもしれない。
  しかし、うちの下の姉は、弁天埠頭から小豆島への往きの船の中で、親切のつもりで「会社の人」に「どうぞ」と言ってお茶を配ってまわったのだ。それがいけなかった。「すいませんが、少し、お茶を分けていただけませんか」と頼まれた場合に分けてあげるのなら悪くはなかったのではないか。しかし、頼まれもしないのに「どうぞ」と言ってお茶を入れてまわるものだから、「会社の人」からこの人たちは自分たちの給仕係に来ているんだと思われた・・・とまではいかないとしても、この人たちは自分たちのために水筒にお茶を入れて持ってきているんだ・・と思われてしまった。うちの下の姉は相手が「会社の人」だから親切にするべきだと思ったかもしれないが、こういうことをした場合に相手はどう思うか、相手はどう思っているかといったことを考えてやらないといけない・・ができていなかった。なぜ、できないかというと「世間知」がない男の娘だからだろう・・と思う。
  そのため、3日目、帰りに、うちの姉が私に「それじゃ、水筒に旅館でお茶を入れてもらっていこう」と言った時、近くにいたある男性社員が「お茶なんか要らん。お茶なんか入れてもらわんでええ」と言ったのだが、なんで、この人がそんなこと言うのかと思ったものだった。うちは「会社の人」の給仕係に行っているのではないし、うちが持って行っていた水筒はあくまでもうちの父親と下の姉と私との3人のためのものであって、もしも、お茶を分けてほしいと言う人がいたならば分けてあげてもいいけれども、「会社の人」のために水筒を持って行っていたのではなかったのだから、「会社の人」に「お茶なんか要らん」だの「お茶なんか入れてもらわんでええ」だの言われる筋合いはないし、その男性社員(30くらいか?)はそんなことを言うべきではなかったはずなのだ。
  ところが、うちの下の姉は言われて「そうですかあ」などと言い、そして、「それじゃあ、〇〇ちゃんのアトムの水筒にだけ、お茶を入れてもらっていこう」と言ったところ、その男性社員は「うん。そのくらいでいい」などと言ったのだが、なんで、この人がそんなことを言うのかと思ったのだった。我が家はあくまでもうちの父親と下の姉と私との3人のための水筒を持参していたのであって「会社の人」のために水筒を持って行っていたのではないし、うちの下の姉はその男性社員に意見をきく必要はなかったし、要るだの要らんだのと言われてもきく必要はなく、その男性社員は余計なことを口出していたということを自覚しないといけないし、うちの父親は自分の会社の自分の部下の男性社員が「余計な口出し」しているということを見ておかないといけない・・が見れない男がうちの父親だった。
  そして、うちの下の姉はその「男性社員」の指示にしたがって、私が持っていたごく小さい子供用の鉄腕アトムの絵柄が描かれた水筒にだけお茶を入れてもらってきたのだった。ところが、小豆島から大阪の弁天埠頭への船に乗ると、「会社の人」がお茶を欲しいと言い出したのだ( 一一)
  まず最初に、前日、私と一緒に花火をした美容部員のおねえさんが「お茶ちょうだい」と私に言ってきたのだった。私は一緒に花火をした仲だと思っていたので、一緒に花火をしたおねえさんからお茶を欲しいと言われて分けてあげたのだが、分けてあげるのがむしろ子供はうれしかったのだった・・が、そのおねえさんからすれば、それは言ってはならないことだったはずだ。小学校1年の子供からすれば、美容部員のおねえさんというのは相当年上に感じたが、高校生だったうちの下の姉より少し年上という程度、ハタチ過ぎたかどうかくらいの年齢でしかない人だったはずだ。それも、うちの父親が他界した後、私が30代の時、1990年代、(株)一条工務店で福島県いわき市の営業所にいた時、総務部にいた人でうちの父親の部下だった人で個人的にも親しくしていた人がうちの母の所に元気にしてられますかと電話してきてくれたことがあったのだが、その際に「坊ちゃんとかお嬢ちゃんとか皆、元気にしてられますか」と言われて「息子は今、福島県のいわき で勤めてるんです」とうちの母が話したところ、「いわき ですかあ。懐かしいですねえ。行きましたよお」と言われ、「何しに行かれたんですか」と言ったところ、「求人募集で言ったんです。美容部員さんの求人に、Y高校とかN高校とか行きました」と言われたのだが、申し訳ないが、いわき市でY高校とかN高校というと、いわき市では一番成績が悪い人が行く高校だった。要するに、そういう各地の高校の中でその地域では一番成績が悪い人が行く高校を卒業したような人に大阪まで出てきてもらって美容部員さんになってもらっていたのだ。だから、小学校1年の子供から見ると、相当年上のおねえさんに見えて、自分は子供であるのに対して相手は大人だと思い込んでいたが、実は各地で一番学業成績の悪い人が行く高校とかを卒業してすぐに大阪に出てきて美容部員さんやっていた人だったのだ。別に美容部員さんやるのに東大とか京大とか出たような人の学力・学識は必要ないが、もしも、その人が東大とか出てきたような人であったならば、何も教えないで、それまでまったく泳いだこともない人間の身体をつかんでプールに投げ込んで「それ、泳げえ」と言うようなそんなやり方で仕事をさせても、それでもおのれのプライドをかけてなんとか仕事をこなしよるかもしれん。しかし、その人はそういう人ではないのだから、だから、会社はきっちりと会社として指導しないといけない。美容部員さんというのは営業のはずだ。営業の仕事につく者ならば、お客さんの子供が持っている物を「それ、ちょうだい」などとは言ってはならないはずだ。上司の子供が持っている物を「それ、ちょうだい」などと言ってはいけないし、それを理解しない人は次の段階でお客さんの子供が持っている物を「それ、ちょうだい」と言い出す可能性がある。だから、上役は「子供が持っているものを『それ、ちょうだい』などとは決して言ってはならない」と きっちりと教えないといけないはずなのだ。あの会社のあのおねえさんの上役て誰だったんだ・・と考えてみたら・・⇒うちの父親やった( 一一) あれではあかんわ、あのおっさんではあかんわ( 一一)
  そのおねえさんは前日に私と一緒に花火をやって遊んでくれた人だったので、子供の方ではお茶を分けてあげるのがかえってうれしかったりしたのだった・・が、ところが、それを見てほかの「会社の人」までが「お茶、ちょうだい」と言い出したのだ。「お茶なんか要らん」「お茶なんか入れてもらわんでええ」と言った男性社員も「お茶ちょうだい」と言い出したように記憶している。自分が「お茶なんか要らん」と言ったはずなのに。それを見て、うちの父親はどうしたか。もしも、私がうちの父親の立場だったならば、「申し訳ない。子供が持っている物は取り上げないでもらえるか」と言って小さい鉄腕アトムの絵柄の子供用水筒を子供に返した上で、「お茶、ちょうだい」と言った従業員に千円札を2枚か3枚でも渡して「何何さん、申し訳ないが、船に売店があったと思うので、何人かで行ってこれでそこでみんなに飲み物を1本ずつ買ってきてもらえないかな」と言うべきだった、と思う。そうすれば、子供が持っているごく小さい水筒のお茶は守ることができて、そして、「会社の人」にも「部長がおごってくださった」ということで「ええかっこしい」できた・・はずだった。ところが、うちの父親はそうしないでどうしたか。 うちの父親は私に「ちょっと、それを貸してんかあ」と言って小学校1年の子供がもっているごく小さい子供用水筒を取り上げて、そして、「配給です、配給です♪ お茶の配給です」と言ってちゃらけてみせて、「お茶ほしい」と特に言っていない人にまでお茶を入れてまわって、そして子供用水筒に入っているごくわずかなお茶をすべて飲ませてしまったのだった。そして、子供が「のどか湧いた。お茶欲しい」と言うと、「ないねん。お茶もうないねん」などと言うのだった。私は何のためにその水筒を肩からかけて行ったのだろうか。子供が肩から下げているごく小さい子供用水筒に入っているお茶を大人がみんなでよってたかって飲み干してしまって、子供が「のどか湧いた。お茶ほしい」と言うと「ない。お茶はもうないねん」と何が悪いかみたいに言う大人って、そいつらは大人なのか? そいつらは社会人なのか? そいつらは会社員と言えるのか?
  うちの父親はそういうことをする男だった。そういう男、小学校1年の子供が持っているごく小さい水筒のお茶を奪い取って大人に飲ませて子供からお茶を奪う男が、私が19歳から20歳になる年になると「こいつには小さい頃から、どんなもんでも、欲しいというものは、いつでも何でも、何でもいつでも、どんなもんでも何でも何でも、ええもんばっかし、何でも何でもこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってやってやってあげてやってきたからっ!」と言い出し、「絶対にそんなことはない!」と私が言うと、「はあん。こいつ、こんなこと言いよる。かなわんなあ、こいつう。こいつには子供の頃から、いつでもいつでも、どんなもんでも、ええもんばっかし、どんなもんでも即座に買ってやってやってあげてやってあげてやってきたのにからに、こいつ、こんなこと言いよる」と言い出し、それを聞いて「神さまの女川(めがわ)先生」と称する男が「お父さん、お父さん。こいつがこういう口をきくのは、こいつが病気やからですわ。病気がこいつにこういう口をきかせておるんですわ。お父さんも大変ですなあ、ほんま。お父さんのような英雄で聖人で超人でスーパーマンで、常に沈着冷静・泰然自若・百戦錬磨のお方で、修行を積んで悟りを開いたブッダのようなお方であって、四十にして惑わずの孔子のようなお方でキリストのようなお方の息子にこんなんが産まれたんですから、苦労されますわあ。本来ならわしとかお父さんとかのような百戦錬磨の人間はイライラすることは絶対にありえないのにからに、お父さんもイライラされることがありまっしゃろ。それはすべて、こいつが悪いんですわ。お父さんのような聖人にこういう人間が産まれたというのは、それは生物学上の突然変異学説によるもんですわ。お気持ち察しますわあ。苦労されますなあ。お父さんはこいつが小さい頃から、どんなもんでも、何でも何でもいつでもいつでも、欲しいというものは何でも何でも即座にええもんばっかしこうてきてうやあってやって、やあってやって、やあってやってきたのにからに、それを理解しよらんどうしようもない最低の親不孝もんができたんですから、すべて病気によるもんですわ。病気がこいつにこういう口をきかせておるんですわ。これは病気によるもんですから、どうしようもありませんわ。難儀ですなあ」と言うのだった。そう言われて、うちの父親は「そうですなあ。病気によるもんですなあ。わしは女川先生がおっしゃるように英雄で聖人でキリストでメサイヤで超人でスーパーマンの人間で、修行を積んで悟りを開いたゴータマシッダルタであって、四十にして惑わずの孔子で孟子であって、山に命じれば山が空を飛んで海に入るというキリストの人間であるのにからに、そやのにからにイライラいらいらイライラしているというのは、すべてこいつが悪いんでんなあ」と言うのだった。「そうです、そうです。すべてこいつが悪いんです。お父さんは百戦錬磨、お父さんは沈着冷静、お父さんは泰然自若のお方で、お父さんは釈迦で孔子で孟子で聖徳太子でキリストでメサイヤのお方です。そういう絶対にイライラしないお方がイライラするというのは、すべてこいつが悪いんですわ。諸悪の根源はこいつですわ」と言って私の顔を指さすのだった。うちの父親はそう言われて喜ぶのだ。「そうです、そうです。社悪の根源はこいつですわ。女川先生がおっしゃいますように、わしい~いのような修行を積んで悟りを開いたブッダであって四十にして惑わずの孔子で孟子で聖徳太子であって、山に命じれば山が空飛んで海に入る、水に命じれば水が葡萄酒に変わるキリストである人間がイライラすることは絶対にありえない・・にもかかわらずイライラするってことは、こいつがすべて悪いんですわ」と言うのだった。そして私に言うのだった。「人間、ひとのせいにするような者は最低の人間やねんぞ。わかっとんのかチャンコロ! わしは女川先生がおっしゃるように釈迦で孔子で孟子でキリストで聖徳太子でヒットラー総統の人間でドイツ人で慶應やねんぞ。おまえはチャンコロで浪商やねんぞ。ドイツ人で慶應で釈迦で孔子で孟子でキリストでメサイヤで聖徳太子で英雄ヒットラー総統のわしがイライラすることは絶対にありえない! にもかかわらずイライラしているってことは、チャンコロで浪商のおまえのせいやねんぞ。ひとのせいにしてはかんぞチャンコロろすけイタコ! ひとのせいにする人間は人間としてクズやぞ。ひとのせいにする人間は人間として最低やねんぞ」とおっしゃるのだった。「ひとのせいにする人間」て、それはあんたのことと違うのか、あんたこそ、さっきから思いっきりひとのせいにしとるのと違うんかい・・・と思ったのだが、「心理学によると」そうではないらしく、「おまえのせいやねんぞ」と言われて「なんで、それが私のせいなんですか」と私が言うと「外罰的性格」と「診断」されることになるのであり、さっきから思いっきり「わしはキリストでメサイヤで釈迦で孔子で孟子で聖徳太子で超人で英雄でスーパーマンの人間であって沈着冷静百戦錬磨泰然自若の人間でイライラすることは絶対にありえないという人間であるっ・・にもかかわらずイライラしているってことは、おまえのせいやっちゅうことや!」と言ってひとのせいにしまくる男シンドロームは「外罰的性格」ではないらしいのだ。「心理学」とはそういうものだったようなのだ。
  うちの父親は小学校1年の子供が持っているごく小さい水筒を取り上げて「配給です、配給です、お茶の配給です♪」などと言ってちゃらけてみせるのが、それが「ええかっこ」だと思っていたようだったが、もしも私がうちの父親の部下だったならば、上役がそんなことしたとして、それを「ええかっこ」だとは思わない。子供が持ってる水筒を取り上げて「配給です、配給です、お茶の配給です♪」と言われても、たとえその時、のどが渇いていても「私はけっこうです」と言って辞退すると思う。その上で、この男、アホやな・・とその人を軽蔑したと思う。そおういう行為をうちの父親は私が小学校1年の時にやったのだった。その人が私が19歳から20歳になる年になると「こいつには、小さい頃から、いつでも何でも何でもいつでも、欲しいという物はどんなもんでも、何でも何でも、ええもんばっかし、何でも何でも即座にこうてきてやあってやって、やあってやってやあってやってやってやってきたからっ♪」と言い出したのだった。そういうおっさんやった( 一一) 我が家はよその子が買ってもらっていたものでも買ってもらえないことが多かったが、それだけではなく親戚のおじさん・おばさんからもらったお年玉も「あんた、それ、使ったらもったいない。全額、貯金しなさい」と言って「貯金」を名目にして全額取り上げられたし、幼稚園で12月のクリスマスにもらったばかりの物を1週間後の正月にとりあげられてよその子にくれてやるということをされるところだった。小学校1年の子供が持っている水筒をとりあげて「配給です、配給です、お茶の配給です♪」などと言ってちゃらけて子供のお茶を取り上げて大人にお茶を飲ませてまわる人なんて、あんまりないと思うがなあ~あ・・と思うがそういうことをする人が我が家にいたのだったが、その人が「「こいつには、小さい頃から、いつでも何でも何でもいつでも、欲しいという物はどんなもんでも、何でも何でも、ええもんばっかし、何でも何でも即座にこうてきてやあってやって、やあってやってやあってやってやってやってきたからっ♪」などと私が19歳から20歳になる年になると言い出したので「もしかして、この人、病気ちゃうかあ」て感じがしたのだったが、「こいつ、わかりよれへん。これは病気やわ。こいつ、絶対に間違いなく病気ですわ。クスリ飲ませたらんといかん、クスリ、クスリ、クスリ、クスリ♪ いや、クスリではいかん。ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪ こいつにロボトミーやったらんといかん、ロボトミー♪ もしくは電気ショックやったらんといかん、電気ショック! な~にがなんでもこいつに電気ショックやったらんといかん、電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック、電気ショック♪」と何度も何度もおっしゃるのだった。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」とそれを最大の自慢にしまくるのだったが、「父親がいる」ということはどういうことかというと、「4千円したって絶対にこうたげますて。ほかでもないこのわしがいったん『こうたる』と言うたからには何があっても天地がひっくり返っても絶対にこうたるがな」と言った上でプラモデル屋に行って「4千円です」と店の人間から言われると「ふううえええ~え、ぎょおえええ~え。ひいいえええ~え。かなんなもう、冗談やないでえ」と「冗談やないで」とこちらが言いたくなる態度をとる人がいるということであり、子供が持っているごく小さい水筒を取り上げて「配給です、配給です、お茶の配給です♪」と言ってちゃらけるおっさんがいる、ということを意味するのである。そういうことを日常的にされるということを意味するのである。それを旧姓作野礼子は「私は父親がいなかったんだからねえ」と言って自慢しまくるのだったが、「父親がいなかった」ということは「4千円したって絶対にこうたげますて。ほかでもないこのわしがいったん『こうたる』と言うたからには何があっても天地がひっくり返っても絶対にこうたるがな」と言った上でプラモデル屋に行って「4千円です」と店の人間から言われると「ふううえええ~え、ぎょおえええ~え。ひいいえええ~え。かなんなもう、冗談やないでえ」と「冗談やないで」とこちらが言いたくなる態度をとる人がいないということであり、子供が持っているごく小さい水筒を取り上げて「配給です、配給です、お茶の配給です♪」と言ってちゃらけるおっさんがいないということを意味するはずであり、この点において「父親がいなかった」人というのはずいぶんと恵まれていた人であり、ずいぶんとうらやましい人だった。ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ、旧姓作野礼子さんは・・てものやった。

   そして、小豆島に行った時の話はこれで終わりだとここまで読んで思った方がおられるかと思うがそうではないのだ。まだ、終わりではないのだ。うちの父親が「それ、貸してんか」と言って小学校1年の私が持っていたごく小さい子供用水筒を取り上げて「配給です、配給です。お茶の配給です♪」と言ってちゃらけてみせたことにより小学校1年の時の私が持っていた水筒のお茶はすべてなくなり、小学校1年生が「のど渇いた。お茶ほしい」と言うと「ない。お茶はない。もう、なくなってん」と「お茶なんか要らん」と自分が言ったくせに私の水筒から飲んだ会社の男性社員に言われて、そして、うちの父親は「よっしゃ。売店に行ってジュースこうたろ」と言い出し、そして、一緒に船の売店に行ったのだが、船の売店は閉まっていたのだった。うちの父親は「弁天埠頭についたらこうたろ」と言い、子供は弁天埠頭につくまで渇きを我慢したのだった。しかし、本来、我慢するのは大人が我慢するべきものであり、小学校1年の子供に我慢させるべきものではないはずだった。又、うちの母親は別に「会社の人」のために水筒を用意したつもりはなく、うちの父親とうちの下の姉と私との3人のために普通の水筒を用意して、それと別に子供はのどが渇いたらかわいそうだからと子供専用に別に、これはこの表現だと私などの年代の人間はわかると思うのだが、ごく小さい子供用の鉄腕アトムの絵柄の水筒を小学校1年の子供専用に私に持たせたのだった。それをうちの父親は取り上げて大人に飲ませたのだった( 一一) もしも我慢するなら大人が我慢するべきものを子供が持っている物を取り上げて大人が飲んでしまって子供に我慢させたのだった。
  そして、弁天埠頭につき、ああ、やっと弁天埠頭についた、ジュース買ってもらえると思いきや、うちの父親はこう言ったのだ。「バス来てる、バス来てる。弁天町の駅に着いたらこうたる」と言ってさらに子供に我慢させたのだ。そして、そのバスがやっと弁天町の駅に着いたと思いきや、今度はうちの父親はこう言ったのだ。「弁天町の駅のプラットホームでこうたる」と。そして、今はJR,その頃は国鉄の大阪環状線「弁天町」駅のプラットホームに行くと、うちの父親はこう言ったのだ。「電車来た、電車来た。天王寺の駅に着いたらこうたる」と。大阪環状線というのはその頃の用語で言うところの「国電」であり、「電車来た、電車来た」と言わなくても電車はしょっちゅう来る路線なのだ。そのしょっちゅう来る大阪環状線の電車が来たということで天王寺駅までまたもや我慢させられたのだ。・・そして、天王寺駅に着くとこう言ったのだ。「電車来てる、電車来てる。南田辺の駅に着いたらこうたる」と。 今はJR阪和線は快速・区間快速と有料の特急「くろしお」は天王寺駅から大阪環状線の西側に入って、快速・区間快速は大阪駅から環状線の「京橋」駅まで行き、特急「くろしお」と関空特急「はるか」は大阪駅から東海道本線に入って「新大阪」駅か「京都」駅まで行っていて天王寺駅止まりは「普通」だけだが、その頃は阪和線は「普通」も「快速」「区間快速」も急行「きのくに」「紀州」も特急「くろしお」もすべての電車・気動車が天王寺駅止まり、天王寺駅は阪和線はターミナル駅だったのだ。だから、天王寺駅では阪和線はたいてい「電車きてる」のであり、「きてる」けれどもターミナル駅だからなかなか発車しないのだった。
  「苦しい。水、飲みたい。どうか、お願いだから水を飲ませて」と言っても「もう、出ると言うとるやろ、わからんのか」とうちの父親は言うのだった。しかし、「もう、出ると言うとるやろ」と言われても天王寺駅では「普通」は天王寺駅に着いてから出発するまでかなり時間があり、なかなか出ないのだ。「まだ、出ないから、もう少し出ないから、どうかお願いだから水を飲ませて。苦しい、ものすごく苦しい。どうかどうかお願いだから水を飲ませて」と言っても言っても「もう出る、もう出る、出る出る出る出る」「出ると言うとるのがわからんのか、おまえはあ」とおっしゃるのだった・・が便秘の時のう〇こ と一緒で阪和線の天王寺駅に停車中の「普通」はなかなか出ないのだ。
   そして、やっと天王寺駅を出て2つめの「南田辺」駅に到着した。やっと着いた。とうとう南田辺駅に着いた。もう、ここから家までは歩くだけであって「バスきてる」もなければ「電車きてる」もなく「もう、電車でる」もない・・と思って安心したら甘かった。「もうすぐ、家です。もうすぐ、いええ~え!」とおっさんは言うのだった。あの人はなんでああいうことをやらなきゃ気が済まないのだろうか。「もうすぐ、家です。もうすぐ、いええ~え! わかりませんのんかあ!」とうちの父親は言うのだった。そして、家まで苦しい体をひきずって歩いて帰ったのだった。
「船の売店でこうたる」⇒「弁天埠頭についたらこうたる」⇒「弁天町の駅についたらこうたる」⇒「弁天町の駅のプラットホームでこうたる」⇒「天王寺の駅でこうたる」⇒「南田辺の駅でこうたる」⇒「もうすぐ、家です。もうすぐ、いええ~え!」
というこのやり口、
「小豆島に行って花火をしよう。花火を買ってきなさい」⇒「花火は小豆島でやります。家ではやりません」⇒「花火は2日目の夜にやります。1日目の夜にはやりません」⇒(2日目の夜になると花火をやりに行かず)「あんた、ちょっと、いいかげんにしなさい! お酒のんだ人が夜の海になんか行ったら危ないでしょ。あんた、そんなこともわからんの!」
と似ているといえば似ている。あの人は、なんで、ああいうことをしなければ気が済まないのだろうか。そういうことをしたおっさんが私が19歳から20歳になる年になると言うのだった。「こいつには小さい頃から、どんなもんでも、欲しいというものは、いつでも何でも、何でもいつでも、どんなもんでも何でも何でも、ええもんばっかし、何でも何でもこうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってやってやってあげてやってきたからっ!」と。 よく言うわ♪ バカ言ってんじゃないよ♪ 〔⇒《YouTube- 3年目の浮気 ヒロシ&キーボー 》https://www.youtube.com/watch?v=Xx47Nv4ndKA 〕 いつも騙してばかりね♪
  そして、「絶対にそんなことない!」とおのれの存在をかけて言うと、
権利のための闘争 (岩波文庫 白 13-1) - イェーリング,R. von, 村上 淳一
権利のための闘争 (岩波文庫 白 13-1) - イェーリング,R. von, 村上 淳一
( ↑ イェーリング『Recht(権利=法)のための闘争』
うちの父親の親友が言うのだった。
「お父さん、お父さん。こいつがこういうことを言うというのは、それは病気が言わせてるんです。病気やからこいつはこういうことを言うんです。お父さんのようなすばらしい、ものすごい人格者で、いついかなる時も沈着冷静・泰然自若・百戦錬磨のお方であって、英雄で聖人で超人でスーパーマンのお父さんのお方にこういうカスが産まれてくるというのは、これは生物学上の突然変異学説によるもんですわ。この病気は死ぬまで治らん。お父さんも大変でんなあ。こういうカスの息子ができてからに」と。それを聞いておっさんは言うのだった。
「そうでんなあ。女川先生がおっしゃいますように、わしいのようなエッライえっらいエッライえっらい特別に特別にえらい、いついかなる時も沈着冷静・泰然自若・百戦錬磨で英雄で聖人で超人でスーパーマンで釈迦で孔子で孟子で聖徳太子でキリストでメサイヤでヒットラー総統でドイツ人で慶應であるお方にこういうチャンコロで浪商が産まれてくるというのはこれは間違いなく絶対に生物学上の突然変異学説でんなあ。難儀出んなあもう、イライラしてきた。わしは女川先生がおっしゃるように風が吹こうが嵐が来ようが、台風が来ようが地震が来ようが津波が来ようが、怪獣が来ようが恐竜が来ようがゴジラが来ようが何が来ようがび~くともしないっ! という人間やのにからにっ、イライラしてきたっ♪ てことは、おまえのせいやちゅうこっちゃ。イライラしてきた♪ ひとのせいにすんなよ、チャンコロろすけイタコ浪商! ドイツ人で慶應であるわしい~いは天地がひっくり返ってもイライラすることはありえないっ・・・にもかかわらずイライラしているっ・・てことは、おまえのせいやっちゅうこっちゃ♪ ひとのせいにすんなよ、チャンコロろすけイタコ! すべておまえのせいやのにからに、それを『なんで、それが私のせいになるんですかあ』とか『そんなにイライラしないお方なら、イライラしないでいてくださるわけにはいかんもんですかあ』とかおまえみたいなことを言うやつのことを心理学では外罰的性格と言うねんぞ。わかっとんのか害罰的性格!!! こいつ、絶対に治療してやらんといかん。こいつ、ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪ こいつ、電気ショックやったるべきや、電気ショック、電気ショック、電気ショック♪」と。
  ロボトミーか電気ショックかされたくなければ、「申し訳ございませんでしたあ。申し訳ございませんでしたあ」とわけわからんでも言わないといけなかった。それが「心理学」だった。だから、言ったこともあったように思うが、何が申し訳ないのかさっぱりわからなかった・・が「何が申し訳ないのかさっぱりわからない」と口に出して言うと「病識がない」とか「診断」されることになり、ロボトミーとか電気ショックとかされる危険があるから危ない。なんで、そんなものが私のせいになるのか、わからんかったけども。「イライラしてきた、イライラしてきた、イライラいらいらイライラしてきたしてきたしてきたしてきた♪」と年中、四六時中言いまくっている人が父親で、その父親に「お父さんほど精神的に安定した・気持ちの落ち着いた・泰然自若・百戦錬磨・沈着冷静なお方はなかなかない。お父さんのような釈迦で孔子で孟子でキリストでメサイヤで聖徳太子のお方がイライラするということは、それはこいつが悪いということです」と私のせいにする「親友」がいる限り、理由もへちまも何にもなくても「申し訳ございませんでした。申し訳ございませんでした。申し訳ございませんでした」言わないとロボトミーとか電気ショックとかされる危険がある、ということだ。
  「父親がいる」ということは、そういうことを意味する。「父親がいる」ということは、「船の売店でこうたる」⇒「弁天埠頭についたらこうたる」⇒「弁天町の駅についたらこうたる」⇒「弁天町の駅のプラットホームでこうたる」⇒「天王寺の駅でこうたる」⇒「南田辺の駅でこうたる」⇒「もうすぐ、家です。もうすぐ、いええ~え!」とやる人がいるということであり、「小豆島に行って花火をしよう。花火を買ってきなさい」⇒「花火は小豆島でやります。家ではやりません」⇒「花火は2日目の夜にやります。1日目の夜にはやりません」⇒(2日目の夜になると花火をやりに行かず)「あんた、ちょっと、いいかげんにしなさい! お酒のんだ人が夜の海になんか行ったら危ないでしょ。あんた、そんなこともわからんの!」とされるということを意味している。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子が「あなたのお父さんほどすばらしいお父さんはなかなかないわよ♪」と言い、「私だったら、あなたのお父さんのようなものすごいすばらしいお父さんがいたら、ものすごいうれしいわよ。それをあなたがそう思えないというのは、あなたが甘ったれているからであって、あなたがつけあがっているからであって、あなたに素直さがないからよ。私は父親がいなかったんだからねえ!!! 私は両親が離婚したんだからねえ!!!!!」とおっしゃるのだったが、「父親がいなかった」とか「両親が離婚した」とかいうのが自慢になると旧姓作野礼子さんは思っていらっしゃったみたいだが、そんなもん、自慢するもんとちゃうと思うがな。そして、あの父親がいたというのが、そんなにうらやましいのなら、あげるよ、あのおっさん、旧姓作野礼子さんに・・と思ったものだった・・が、これを旧姓作野礼子と同年齢の下の姉に話したところ、「そうよ。作野さんにあげるよ、そんなにいいなら」と下の姉も言うのだった。そのおっさんとつきあうのに苦労してへとへとになっている者に勝手なことばかり言いまくる「私は父親がいなかったんだから」「私は両親が離婚したんだから」とわけわからんことを自慢するバカ女症候群は生徒・卒業生にとって迷惑だ。

  1981年、慶應大学に在学中にはうちの父親は「イライラっとしたから仕送り、送るのんやめたってん」と言って送金してこないことがあった。お金がないから、1週間ほど水だけ飲んで生活したが、その時、自動販売機の下のあたりに硬貨でも落ちてないかと思って日吉の街を下ばっかり見て捜してまわったことがあった。ある清涼飲料水の自動販売機の底に50円玉が落ちているのを発見して、道路にはらばいになって手を伸ばしたが届かず、付近に何かないかと思って捜したら絵が短いホウキだったかがあって、道路に腹ばいになった上で手を伸ばした上でホウキの先で手前に引き寄せてその50円玉を取得し、財布に残っていた10円玉3枚と合わせて80円でメロンパンを買って食べたのだったが、その時のメロンパンのおいしかったこと、おいしかったこと。今まで食べたもので、あの時のメロンパンほどおいしかったものはない。 自動販売機の底の50円玉を取り出そうとして道路に腹ばいになって手を伸ばした上でホウキで手前に引き寄せて取得した時、まさにその前のあたりにあった不二家というけっこう高いレストランから、小学校・中学校と同じ学校で同じ北野高校に行き、慶應大学の経済学部に現役で行った阪本という「なまたまご」を「なまなまこ」と発音する男の友人で、兵庫県の甲陽学院高校から東大の入試みたいなもんに浪人しないと行けずに東大の文科一類に1浪で行き、国家公務員1種試験合格で外務省に就職した加藤という男が友人2人ほどと一緒に出てきた。うちの父親から「民族の違いを忘れるな。階級の違いを忘れるな」と毎日言われてきたが、まさにその言葉の通りというのかその逆というのか、「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」てものだった。加藤はアルバイトなんてものは家庭教師や塾の講師のアルバイトもせず、私だったら「アルバイトを嫌がる人間はモラトリアム人間病という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえらいエライえら~いという先生がそうおっしゃってる」と言ってアルバイト漬けにされたものだったが、加藤はそういう私とは生活が全然違った。そして、私がお金がなくて自動販売機の底から道路に腹ばいになって50円玉を引っ張り出していたまさにその時に、不二家というけっこう高いレストランで食事して出てきたのだった。まさに「民族の恨みを忘れるな(不忘民族怨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」というものだった。その時の私の気持ちについてのバックミュージックとしては、↓ のような感じ・・かな。
※ YouTube-【ロシア語】仕事の歌 (Дубинушка ドゥビヌーシカ 棍棒 ) (日本語字幕)https://www.youtube.com/watch?v=rk0C1GputJ8 
もしくは、こんな感じ ↓ かな、
※ YouTube-【和訳付き】聖なる戦い (ソ連音楽) "Священная война " - カタカナ読み付き https://www.youtube.com/watch?v=-QFveH_V6Q0 
まさに「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」というものだった。

  うちのイトコは幼稚園児だった私が12月のクリスマスに幼稚園でもらったばかりの物を正月にもらって帰らないといけないくらいに貧乏で「かわいそうな家庭」の子だったはずだった。それにもかかわらず、私は北野高校に行ったのにイトコは天王寺高校ではなく住吉高校にしか行けず、京都工芸繊維大しか行けないにもかかわらず工学部に行かせてもらった。私なら「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います」と言われて行かせてもらえない工学部に行った。なんでやのん? なんで、幼稚園児の私が12月のクリスマスに幼稚園でもらったばかりのものをそれから1週間後の正月に奪い取って持ち帰らないといけないような貧乏で「かわいそうな家庭」の子のイトコが京都工芸繊維大しか行かれへんのにからに、私なら「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言って行かせてもらえない工学部に行くの?
  私はうちの母親に言ったのだ。「なんで、私は『うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな』で、『長居の子』(イトコは大阪市住吉区長居 に住んでいたので我が家では『長居の子』と言っていた)は京都工芸繊維大しか行けないのにからに工学部に行かせてもらえるの?」と言ったのだ。京都工芸繊維大でもある程度以上の難易度の大学だから「絶対に通る」などということはない・・としても、マア一般的には東大より入りやすいであろうし、京大よりも入りやすいであろうし、阪大よりも神戸大よりも入りやすいと考えられた。その京都工芸繊維大学しか行けないやつなのに、なんで、幼稚園児の私が12月のクリスマスに幼稚園でもらったばかりの物を強奪して帰らないといけないくらいに貧乏で「かわいそうな家庭」の子のイトコが工学部に行かせてもらえるのか、納得いかなかったのだ。
そうすると、うちの母親は私に言うのだった。「長居の子はあんたと違って家が貧乏で苦労してきているから、だから、工学部に行かせてもらえるんやわ♪」と。 要するに、我が家より少しでも金持ちの家庭の子ならば「あそこは家が金持ちやから」工学部でも何学部でも本人が行きたいと思う所に行かせてもらえたのであり、我が家より少しでも貧乏な家庭の子ならば「あそこは家が貧乏で苦労してきているから」工学部でも何学部でも本人が行きたいと思う所に行かせてもらえたのであり、私はピンポイントで中途半端に金持ちで中途半端に貧乏な家庭の子だったから、だから、日本で一番嫌いな大学の小学校1年の時からそこだけは行きたくない行かされたくないと思い続けてきた学部(経済学部・商学部・経営学部)に暴力で無理矢理行かされたのだった。
  そして、その「長居の子」の「家が貧乏」やったというのは嘘だった。うちの父親と叔父(父親の弟)は同じ会社、うちの父親の父親(私からすると祖父)のイトコが社長やってる会社に勤めていて、うちの父親より少し年下だった叔父は営業の仕事についていて、私が幼稚園児だった頃はまだ脳卒中はやっておらず、けっこう羽振りが良かったらしかった。かつ、我が家は豪邸ではないけれども一応土地つきの戸建住宅に住んでいたが叔父夫婦とイトコは「団地」に住んでいたので、借家住まいかと勘違いしていたのだったが、「公団」には「分譲の公団j」と「賃貸の公団」があって叔父夫婦が住んでいたのは「賃貸の公団」ではなく「分譲の公団」であって持ち家だったらしかった。な~んや、騙された・・てものだった。曲がりなりにも持ち家に住んでいた人の子供が、幼稚園児だった私がクリスマスに幼稚園でもらったばかりの物を1週間後の正月に強奪して帰ったのだった。
  叔父が脳卒中になったのは私が小学校に入ってから、私が小学校の2年だったか3年だったかの時で、私が幼稚園児だった時はまだ脳卒中になっていなくて営業の仕事についていてけっこう羽振りがいい時期だったらしい。それなのに、「あそこの子はあんたみたいに何でも買ってもらえない子らしいから」などと嘘をつかれて幼稚園でクリスマスにもらったばかりのものを1週間後の正月に奪われたのだった。
  「あそこの子はあんたと違って家が貧乏やから苦労してきているから、だから工学部に行かせてもらえるんやわ」とうちの母親に言われたのだが、嘘だ。私と私より1歳年下のイトコが幼稚園児だった時、クリスマスに幼稚園でもらったばかりの物を奪われたのは私であり、強奪して帰ったのはイトコの方だ。決して逆ではない。「バカ言ってんじゃないわ♪」てものだ。 『聖書』には「持つものはさらに与えられ、持たざる者はさらに奪い取られるであろう」と書かれているが、まさにその通りだった。幼稚園児だった時にクリスマスに幼稚園でもらったばかりの物を奪われた私は大学に進学する時にも工学部とかは受けさせてもらえず、日本で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくない学部、小学校1年の時から「そこだけはいや!」と思い続けてきた学部に暴力で行かされたのに対して、幼稚園児だった時の私から私が12月のクリスマスに幼稚園でもらったばかりの物を強奪して帰ったイトコは、私が北野高校に行ったのにイトコは天王寺高校に行けずに住吉高校に行き、京都工芸繊維大しか行けないくせしやがってからに工学部に行ったのだった。まさに「持てる者はさらに与えられ、持たざる者はさらに奪い取られるであろう」という『聖書』の言葉が成就したのだった。
  その私から幼稚園児の私が12月のクリスマスに幼稚園でもらったばかりの物を強奪して帰ったイトコが行ったのが、住吉高校から京都工芸繊維大学の工学部土木学科で、私なんかと違って「けっこういい所」に就職したみたいだった。そのイトコと同じ年齢で、京都工芸繊維大学の工学部の土木学科ではなく建築学科に行ったのが円満字洋介先生だったのだ。むかつく男だ。
  円満字洋介 建築事務所 円満字洋介HPhttps://directory.asj-net.com/public/architect/data/3474 を見ると、
《 1960年 10月 大阪府生まれ
1987年 3月 京都工芸繊維大学建築学科 卒業 》
と書いてあるけれども、出身高校の名前は書いてない・・てことは、北野高校とか天王寺高校とか三国ヶ丘高校とかそういう高校ではないということだ。たぶん。
  あんまり評価の高くない高校卒のくせしてからに、京都工芸繊維大学の工学部建築学科なんて行かせてもろうてからに、そんでもって京都精華大学だの摂南大学だのの講師なんかさせてもろうてからに、ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ、円満字は・・・、この長嶋みたいなやつ!!! てものだ。
  円満字洋介は私より1歳年下のイトコと同じ年齢、幼稚園児だった時の私が12月に幼稚園でクリスマスにもらったばかりのものを強奪して帰ったイトコと同じ年齢で、私は「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれるなあ!」と言われて行かせてもらえない工学部に行った、それも東大の理科一類・理科二類ではなく京大の工学部でもなく、京都工芸繊維大学しか行けないくせしやがってからに工学部に行ったイトコと同じ年齢で、イトコは京都工芸繊維大学の工学部土木学科だったのに対して円満字の狸林のおっさんは京都工芸繊維大学の工学部建築学科卒だった。 ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ、円満字はあ・・・わしぁ日陰の月見草やあ・・てものだ。
この長嶋みたいなやつ! てものだ。〔⇒《YouTube-氷川きよしさんと阪神ファンのコラボによる東京音頭!》https://www.youtube.com/watch?v=Vt2yXzBWMiA 〕
”” くたばれ洋介、くたばれ洋介♪ ”” てものだ。
まったくつくづく気分の悪いやつだ。
⇒《YouTube-中日ファンによる平成最後の商魂込めて※讀賣ファン非推奨》https://www.youtube.com/watch?v=fZ2wLceCN2w
《YouTube-【歌詞付き】商魂こめて (巨人ファン閲覧注意)》https://www.youtube.com/watch?v=GdbqSM-Oc6k

 工学部建築学科なんて行かせてもろうてからに、ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ(・・わしぁ日陰の月見草やあ~あ)・・と心の底から思う。
  
  今回はここまで。
  (2024.6.8.)

★ 日本の教会シリーズ
東京都
東京カテドラル聖マリア大聖堂[東京都文京区]
(「建築家」と「建築屋」と「建築士」はどう違うのでしょうか??? 〔引っ越し掲載〕)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_3.html
日本キリスト教団 本郷中央教会[東京都文京区](ヴォーゲル)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201412article_1.html
日本ハリストス正教会 東京復活大聖堂(ニコライ堂)(ミハイル=シチュールポフ・ジョサイヤ=コンドル) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201512article_2.html
サントリーホール背後の霊南坂教会十字架 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201612article_1.html
青山学院 1.ウェスレー像 他 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201702article_2.html
  2.ガウチャー記念礼拝堂・蔦のからまるチャペル 他 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201702article_3.html
新国立美術館 安藤忠雄展。「光の教会」(大阪府茨木市 日本キリスト教団 茨木春日丘教会 教会堂の「復元」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201711article_11.html
早稲田奉仕園 スコットホール・友愛学舎、信愛学舎 訪問。
1.スコットホール・奉仕園会館・友愛学舎・ベニンホフ像 他 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_5.html
2.信愛学舎。「・・・のために」なしで生きられない人。いかさまの慈善。慶應の不良サークル。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_6.html
3.聖書を否定する「敬虔なクリスチャン」。「クリスチャンの4大義務」。YMCA予備校はなぜだめか。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_7.html
4.「敬虔なクリスチャン」に取り上げられた聖書。入試で白紙で出して望みをかなえられた人と踏みにじられた者。 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_8.html
5.国立大学の哲学科・宗教学科に行かせてもらえなかった私、大阪経大とトーシンダイ(東京神学大学)に行った牧師。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_9.html
6.私の親が私には出してくれなかったカネを「特別献金」で払ったカネで 私大出の男がトーシンダイに行った。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_10.html
田園調布と田園調布の教会
1. 魅力のある街(東京圏)。田園調布はどこまでか。態度の悪い不動産屋にへつらうな。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_1.html
2. 放射線状道路の扇の要の位置の田園調布駅はおしゃれ https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_2.html
3. 放射線状道路の扇の要の位置の広場。 独特のデザインの田園調布駅 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_3.html
4. 居住環境を考えた田園調布の街並み。居心地のよい宝来公園 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_4.html
5  日本基督教団 田園調布教会(1) 高すぎる樹木、鎧をかぶったみたいな教会堂、倉庫みたいな建物 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_5.html
6.  同 (2) 跳ね返す素材、教会堂は重厚である必要があるか。「セコム、必要ですか」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_6.html
7.  同 (3) 牧師館がなぜ教会堂の脇にないのか。遮る扉の玄関扉 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_7.html
8.  同 (4) 「ああ、無情」 「太客」vs「どうでもいい来場者」vs「酔っ払い」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_8.html
9.  同 (5) バザーの際の違和感。 新教会堂ファサードは・・・みたい https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_9.html
10. 同 (6) パイプオルガン・ハンドベルと偶像崇拝・惑溺 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_10.html
11.台(うてな)人体実験と精神医学ファシズム 吉益脩夫 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_11.html
12.今は見当たらない「矢野一郎邸」と「旧人見純一画室」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_12.html
13.カトリック田園調布教会聖フランシスコ修道院 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_13.html
14.日本福音ルーテル田園調布教会、事故物件田園調布警察署 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_14.html 
救世軍 本営[東京都千代田区]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201905article_2.html
明治学院礼拝堂と記念館・インプリー館[港区]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201912article_3.html
「サンパウロ」「サンパオリーノ」[新宿区]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201604article_3.html
日本キリスト教団 番町教会 と 四谷界隈の「キリスト教」関連施設。
1.市ヶ谷駅から番町教会へ。「結婚式場専用教会」と日本キリスト教団の教会を一緒にする安藤忠雄。「教会」と名づけたパフォーマンス建築の丹下健三。教会の建物は特別の建物でなくてよいけれども「教会らしい」建物の方がいい。息子には出さないカネをよその息子に「特別献金」する親とそれを勧める牧師 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202207article_1.html
2.「さりげなく教会」型デザインの番町教会とさりげなく存在する十字架。背後から聴こえるオルガンはいかがか。「キリスト教系」学校出身者は慶應内部進学と共通点がある https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202207article_2.html
3.幼きイエス会・雙葉高校・上智大学・聖イグナチオ教会・女子パウロ会。「隅の親石」を捨てる戸建住宅建築業の会社。聖パウロ修道会が作ったらしい文化放送 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202207article_3.html
4.聖パウロ修道会「サンパウロ」と修道院製品店「サンパオリーノ」。大阪星光学院なんて受けなくてよかった。上智大西側の通りと堤。信仰するなら神と『聖書』を信仰すべきで、「聖職者」を信仰するな! 価値観は多様化なんてしてないと思うぞ https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202207article_4.html
※ (2016年4月) 東京のキリスト教書店1 「サンパウロ」「サンパオリーノ」及、四谷界隈。イナカモンの低俗「高級ホテル」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201604article_3.html
日本キリスト教団 富士見町教会(東京都千代田区)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/501854311.html

神奈川県
慶應義塾大学 YMCAチャペル[横浜市港北区](ヴォーリズ)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201206article_3.html
日本キリスト教団 清水が丘教会[横浜市南区]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201309article_1.html

愛知県
豊橋ハリストス正教会(正使徒福音記者マトフェイ聖堂) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201609article_1.html

京都府
京都大学YMCA会館・地塩寮、京都府立医大橘井寮(ヴォーリズ)[京都市左京区] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201705article_2.html
同志社 今出川校地
1.共学同志社見学。JRと京都地下鉄の駅名のつけ方。母親の自慢を本気にする男 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201902article_1.html
2.裏口入学は「庶民」か? 「思考が柔軟」か? 西門、彰栄館https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201902article_2.html
3.グリーン設計の礼拝堂。「パンのみにて生きるにあらず」を理解する者しない者 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201902article_3.html
4.「ハリス理化学館 同志社ギャラリー」、大学からなくなるスピーカーズコーナー https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
5.明徳館、『同志社のシンボルとなっている塔』のある建物。「美しき水車屋」の娘? https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
6.千葉教会と同じリヒャルト=ゼール設計の「大志を抱け」とは別人のクラーク記念館 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
7.寒梅軒、牛の像と大日如来石碑。有終館、致遠館、正門からすぐの良心の碑 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
8.啓明館。ヴォーリズ設計は新島遺品庫。栂と黒松。京都御苑から相国寺 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
9.アーモスト館。パラディアンウインドウ、ギャンブレル屋根。「アマースト大学」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_6.html
10.同志社女子大栄光館。武田五一知ってる? 学校は建築家が完成させない方がいい https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_7.html
11.大丸ヴィラ・日本ナザレン教団上京教会・日本聖公会聖アグネス教会ほか https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_9.html

大阪府
日本キリスト教団 南大阪教会[阿倍野区](村野藤吾)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201206article_2.html
カトリック大阪梅田教会[北区]
《1》 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201405article_1.html
《2》 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201510article_5.html
高槻カトリック教会(高山右近記念聖堂)[高槻市] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
日本キリスト教会高槻教会[高槻市]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201510article_4.html
日本基督教団東梅田教会(一粒社ヴォーリズ建築事務所) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201604article_1.html
日本基督教団扇町教会 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201604article_2.html
日本キリスト教団 箕面東教会[箕面市] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201709article_2.html
ガラシア病院[箕面市] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201710article_7.html
日本基督教団 箕面教会
1.一般的「洋風教会型建物」だが使える建物の箕面教会 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201811article_2.html
2.府道から箕面教会。北川原公園・箕面川の紅葉はきれい。高層ビルは野蛮
3.寺社と違って植木を刈らない牧師+「高卒のおっさん」との「競争」は災難 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201811article_4.html
4.「債権者に追われた」人て被害者ですか?「家が貧乏」なら慶應には行けませんか? https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201811article_5.html
5.「特別献金」でトーシンダイに行った男。「思考が柔軟だから」裏口入学の男。 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201811article_6.html
大阪クリスチャンセンター・日本キリスト教団大阪教区事務所・大阪女学院・カトリック玉造教会(聖マリア大聖堂)〔大阪市中央区〕
1.大阪クリスチャンセンター・日本キリスト教団大阪教区事務所・大阪女学院 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503467754.html
2.「芋畑なんか相手にしないのよ」てイメージの神戸女学院vsそうでもないイメージの大阪女学院https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503486093.html
3.大阪大司教区の司教座教会のカトリック玉造教会(大阪聖マリア大聖堂)、細川ガラシャの像があるのはhttps://philoarchi2212.seesaa.net/article/503513548.html
4.大阪聖マリア大聖堂、左側の高山右近像と右側の細川ガラシャ像。細川ガラシャの碑。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503526785.html
5.〔今回〕

兵庫県
神戸文学館(旧・関学 ブランチメモリアルチャペル)[神戸市灘区](ウィグノ―ル)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201311article_1.html 
日本基督改革派神港教会・カトリック六甲教会[神戸市灘区]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201312article_1.html
関西学院教会 関学 ランバス記念礼拝堂(一粒社ヴォーリズ建築事務所)、関学神学部棟(ヴォーリズ) 他[西宮市]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
カトリック夙川教会[西宮市] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201406article_1.html
ショファイユの幼きイエズス修道会 修道院・アンティエの家。 日本キリスト改革派宝塚教会。仁川学院。 [宝塚市] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201706article_1.html
カルメル会修道院・日本基督教団甲東教会・仁川学院[西宮市]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201909article_1.html
家族の政治学 - R.D. レイン, Laing,R.D., 良男, 阪本, 嘉, 笠原
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家族の死 - デーヴィッド クーパー, Cooper,David, 嘉寿, 塚本, 嘉, 笠原
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告発する!狂人は誰か―顛狂院の内と外から (1977年)
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