大阪聖マリア大聖堂、左側の高山右近像と右側の細川ガラシャ像。細川ガラシャの碑。信仰深い人が訪ねるロンドンのウエストミンスター大聖堂と黒人のおっさんに突き飛ばされたサンピエトロ寺院のその程度のピエタ像。アルバイトのガードマンに劣るその程度のサンピエトロ寺院の「スイス人の傭兵」、わが父の宮は祈りの家であるべきであるのにぼったくりの店が並んでいたサンピエトロ寺院――大阪クリスチャンセンター・大阪女学院・カトリック玉造教会【4/5】

[第694回]
  大阪市中央区玉造3丁目 の カトリック玉造教会・大阪聖マリア大聖堂 訪問の2回目です。
IMG_0619.JPG
IMG_0620.JPG
↑ カトリック玉造(たまつくり)教会 大阪聖マリア大聖堂(大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂)(大阪市中央区玉造3丁目)
※ カトリック玉造教会HP https://tamatsukuri.ostk.catholic.jp/
※ ウィキペディアー大阪カテドラル聖マリア大聖堂https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%82%AB%E3%83%86%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%AB%E8%81%96%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

  カトリック玉造教会のホームページhttps://tamatsukuri.ostk.catholic.jp/ には、
《 当教会は、大阪高松大司教区(大阪府・兵庫県・和歌山県・香川県・愛媛県・高知県・徳島県)のカテドラル、司教座聖堂です。》と書かれています。
「大阪府・兵庫県・和歌山県」の近畿3府県と、「香川県・愛媛県・高知県・徳島県」の四国4県のカテドラル、司教座聖堂のようです。

  カトリック大阪大司教区HPhttps://www.osaka.catholic.jp/ の「大阪大司教区について」https://www.osaka.catholic.jp/a_shoukai.html を見ると、《 カトリック大阪大司教区(大阪教区)は、日本にあるローマカトリック教会16教区のうちのひとつで、大阪府、兵庫県、和歌山県におけるカトリック教会の活動を管轄範囲としています。》と書かれていますが、 《 ひとつの教区として独立した組織になったのは1888年で、1969年以降は、名古屋・京都・広島・高松の各教区を管轄する大司教区となり今日に至っています。》とも書かれており、名古屋教区・京都教区・広島教区・高松教区と大阪教区を管轄する大司教区・・という意味でしょうか。 カトリック玉造教会HPに《 当教会は、大阪高松大司教区(大阪府・兵庫県・和歌山県・香川県・愛媛県・高知県・徳島県)のカテドラル、司教座聖堂です。》と書かれているのと、なんかちょっと違うみたいな感じがしないでもないけれども・・・、まあ、いいか・・・。

IMG_0623.JPG
《 大阪カテドラル聖マリア大聖堂
  大聖堂は、建築面積2,480㎡、延床面積3,700㎡。正面には日本画の泰斗 堂本印象(どうもと いんしょう)画伯の筆になる、聖母子に福者ユスト高山右近(たかやまうこん)殉教者と細川ガラシャを配した大壁画を掲げ、東西の窓にはキリストの生涯の主要場面を写したステンドグラスがあります。設計は長谷部鋭吉(はせべ えいきち)氏。
  2階のグランドパイプオルガンはオランダのL.Verschueren(フェルシューレン)社製で2,400本のパイプで美しい音色を奏でます。
      カトリック大阪大司教区 》
と書かれています。
  ウィキペディアー堂本印象https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E6%9C%AC%E5%8D%B0%E8%B1%A1 を見ると、「主な作品」のところに
《 『栄光の聖母マリア』(壁画)(1962年) 大阪カテドラル聖マリア大聖堂 》
が載っている。

  設計者の長谷部鋭吉(はせべ えいきち)は《長谷部 鋭吉(はせべ えいきち、1885年10月7日 - 1960年10月24日)は日本の建築家、実業家。泉屋博古館、住友銀行本店などを手掛ける。東京都出身(北海道生まれ)。住友総本店出身で、日建設計の母体の長谷部竹腰建築事務所の竹腰健造と共に創業者の1人である。大阪市北浜の住友ビルディング(旧住友銀行本店・現三井住友銀行大阪本店)や千代田区の日本神学校(現東京ルーテルセンター教会)などが代表作として知られている。》(ウィキペディアー長谷部鋭吉https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E9%83%A8%E9%8B%AD%E5%90%89 )という人だそうだ。
※ 泉屋博古館(京都)HPhttps://sen-oku.or.jp/kyoto/
東京ルーテルセンター教会HP http://tokyo-lutheran.com/
 泉屋博古館(京都)の写真や東京ルーテルセンター教会の写真を見て、大阪聖マリア大聖堂と照らし合わせて考えてみると、四角・直方体による構成という点で共通点があるようにも思える。

  「カテドラル」とはどういう意味か。 ウィキペディアーカテドラルhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%AB には、
《 カトリック教会における司教座聖堂・主教座聖堂のことで、狭義(かつ語源)では聖堂の首座たる司教または主教が礼拝儀礼中に着座する専用の椅子を指す。大聖堂と訳されることが多いが、正教会の大聖堂と聖公会やカトリック教会の大聖堂とでは語義に差がある。》
と書かれています。

  カトリック玉造教会 大阪聖マリア大聖堂に向かって左側に、
IMG_0622.JPG
↑ 福者 ユスト 高山右近殉教者の像
  高山右近は、豊臣秀吉がキリシタン禁教令を出し、大名の地位を捨てるかキリスト教を捨てるかと問われて、多くのキリシタン大名は大名の地位を守るためにキリスト教を捨てた、もしくは表面上、キリスト教はやめたような体裁をとったのに対して、高山右近だけは大名の地位を捨ててキリシタンの立場を守った。もっとも、高山右近は築城の技術に長けていたとも言われ、加賀前田家の金沢城とかに尽力したとか、自分自身が大名としての地位は失っても小西行長とか親交があった大名のもとで支援されて生活できていたらしい。
ウィキペディアー高山右近 には、
《  天正15年(1587年)6月、バテレン追放令が出され、右近も追放された。追放後は、小西行長に庇護されて、行長が肥後に移封されるまで小豆島に住んだ。
  天正16年(1588年)に前田利家に預けられて加賀国金沢に赴いたものの、囚人のような扱いを受けていたとされる。ところが天正18年(1590年)になると、利家から、父・高山図書の分を含めて2万6000石の扶持を受けて暮らしていることが確認される。この待遇の変化は秀吉の意思によるものと考えられ、秀吉は右近を豊臣政権に復帰させようとしたが、右近の棄教を拒否する意思の前に秀吉も断念し、前田家の管理下に置くことで、相応の待遇を容認したのではないかと指摘されている。また右近とその家臣達の活動により、前田家中にもキリスト教に改宗する者が多く見られるようになった[34]。
  天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍し、小田原攻めの中で八王子城の戦いにも参加している。慶長4年(1599年)12月からは、徳川との戦いが想定される中、金沢城下で内惣構と呼ばれる堀の掘削を指揮し、27日で3キロを完成させた。小田原攻めの際に学んだ小田原城の外堀に倣ったものと言われている。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が役に立ったともいわれる。また、利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事に渡って相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。》
と書かれており、豊臣政権の時期においては、大名の地位は捨てたものの、小西行長や前田利家・前田利長に庇護され、前田軍に所属して北条家との戦いにも参戦していたらしく、名目上は大名ではなくなったものの、それに準ずるような扱いは受けていたらしい。
  しかし、さらに徳川政権になってから、大名の地位を捨てるだけではだめで、キリスト教を捨てないならば国外に追放と言われ、高山右近はそれならとマニラへ向かう船に乗り込んだ。
《 慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督・フアン・デ・シルバ(英語版)らから歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取った。享年63。マニラ到着からわずか40日のことだった。》
  ウィキペディアー小西行長https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7 には、
《 天正13年(1585年)、小豆島で1万石を与えられた。
これに前後して、天正12年(1584年)には高山右近の後押しもあって洗礼を受けキリシタンとなる。小豆島ではグレゴリオ・デ・セスペデスを招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。また、天正15年(1587年)のバテレン追放令の際に改易となった右近を島に匿い、秀吉に諫言している。
と出ている。「島」とは小豆島のことだ。元々、キリシタン大名だった小西行長は小豆島の領主だった時期があったようで、それで、大名の立場を失った高山右近はその時期に小豆島に住んだらしい。

  藤堂裕・明智憲三郎『信長を殺した男』(秋田書店)では、山崎の戦の際には、明智光秀にとっては羽柴秀吉が大軍を率いて東上してくることも「想定内」で、「中国大返し」として岡山付近から短い期日の内に羽柴秀吉が率いる大軍が大阪まで引き返してきたが、大軍だから有利とは限らず、かつ短い期日のうちに戻ってきたから有利とも決まっておらず、そんなに短い期日のうちに岡山から大阪まで戻ってきたときには、その兵は相当疲労していたはずで、それに対して、明智光秀の軍は京都付近にずっといたのであり、万全の体調の明智軍に対して疲労困憊の羽柴軍は数で多くても有利とは言えなかった。そこに明智軍が攻め込むかと思いきやそうではなく、摂津から山城に入ってすぐの所に明智軍は待機していて、そこに羽柴秀吉らの大軍が押し寄せていったが、「いかん」と秀吉は気づいた。摂津と山城の間、現在の大阪府島本町と京都府大山崎町との境目のあたりというのは北側には山が迫っていて、南側は淀川が流れており、その狭い平地の部分に羽柴秀吉らの大軍が押し寄せたとすると、相手の方が数では少なくても、一時に大軍がそこを通ることはできない狭隘な場所であり、そこを攻撃されたなら、いかに羽柴秀吉の軍が大軍であってもひとたまりもない。さすがは明智光秀だけあって、それをねらってその場所での勝負にかけた。北に山が迫り南に淀川が流れている狭隘な所に押し寄せる羽柴秀吉らの軍に対して、その狭い通路の部分で羽柴軍めがけて鉄砲をかまえて迎撃の用意をしていたのが当初は明智光秀の側についていた高山右近と中川清秀であった・・・が、まさにここで勝負・・というその時、高山右近・中川清秀の軍は鉄砲の向きを逆にして明智軍の方に向けた。それで山崎の戦は勝負が決した。・・・高山右近と中川清秀の裏切りによって明智光秀は敗れた・・・ということになっていた、なぜ、高山右近は最後の最後で明智光秀を裏切って羽柴秀吉らについたかというと、キリスト教の宣教師が高山右近に秀吉の側につくように密かに書面に書いたからではないか・・と。はたして・・・。
信長を殺した男~本能寺の変431年目の真実~ 全8巻+外伝 全巻セット 明智憲三郎 藤堂裕
信長を殺した男~本能寺の変431年目の真実~ 全8巻+外伝 全巻セット 明智憲三郎 藤堂裕
※ YouTube-山崎の戦い / 明智光秀、最後の12日間。https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?q=%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%82%92%E6%AE%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E7%94%B7%E3%80%80%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6&mid=4FA80E4E1F46EE2069B34FA80E4E1F46EE2069B3&ajaxhist=0

IMG_0621.JPG
↑ 大阪聖マリア大聖堂 右側の細川ガラシャの像
  大阪聖マリア大聖堂の入口に向かって左側に高山右近の像がありますが、右側には細川ガラシャの像が立っています。
  しかし、高山右近の場合は戦国時代の「キリシタン大名」と言われた人というのは、いったい、どれだけキリスト教について理解していたのか、珍しさから好意的な態度をとっていただけみたいな人もいたのではないかとも言われ、そして、多くのキリシタン大名は豊臣政権がキリシタン禁教令を出して大名の地位を捨てるかキリスト教を捨てるかどちらかを選べと言われた時に大名の地位の方を守ったのでしたが、ただ一人、高山右近だけはそれなら大名の地位を捨てますと、キリスト教の信仰を守って大名の地位を捨てた。 もっとも、大名でなくなった後も、小西行長や前田利家・前田利長といった大名から高山右近は保護され、北条家との戦いの際にも前田隊に属して戦っていたというので、大名でなくなったとはいえ、路頭に迷ったわけではなかったらしく、高山右近が小西行長や前田利家に庇護されていることについて、豊臣秀吉も黙認していたらしい。しかし、そうはいっても、高山右近はキリシタンであることと大名であることと、どちらかを捨てないといけないという立場に立たされた時に、ただひとり、大名であることの方を捨てた。
  豊臣政権の時の禁教令はまだ緩かったが、徳川の世になって、徳川政権での禁教令は単に大名であることをやめればよいということではなく、キリシタンであることをやめないならば国外追放にするというより厳しいものになったが、高山右近はそれならとマニラに向かう船に乗り込んだ。 マニラでは歓迎されたらしいが、船旅の疲れによるものか慣れない気候によるものか翌年の1月に63歳で息を引き取った。キリスト教を捨てないからと斬首されたとかではないが、大名の地位を捨て、国外追放も受け入れ、そのまま日本において大名として暮らしておればもっと長生きできたかもしれないものをマニラにて客死したということで「殉教者」としての扱いを受けているらしい。カトリック玉造教会の説明書きにも「福者ユスト高山右近殉教者」と書かれている。

  それに対して、右側の細川ガラシャの場合は、少々事情が違う。
  前回、[第693]《カトリック玉造教会(聖マリア大聖堂)。職場にいる「池田輝政みたいなやつ」「吉川広家みたいなやつ」。大阪市の中央区はもっともな名称。クリスチャンに評判良くない東京カテドラル聖マリア大聖堂とそれよりいい大阪聖マリア大聖堂。自分が知らないだけなのに「大阪なんて何もない」と言う「東京もんのおっさん」。細川ガラシャの死は殉教でない。「人物中心の日本史」司馬遼太郎の小説は史実と違うものが多い―大阪クリスチャンセンター・日本キリスト教団大阪教区事務所・大阪女学院・カトリック玉造教会(聖マリア大聖堂)【3/ 】》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503513548.html でも述べたが、大阪府の歴史散歩編集委員会 編『大阪府の歴史散歩タン大名の高山右近と細川ガラシャの像が立っており、構内にはガラシャの顕彰碑もある。》
《  そこから、大阪市が史跡と史跡を結ぶプロムナードとして整備している「歴史の散歩道」に従って北へ200mほど進むと、道路の中央に取り残された茂みの中に、生垣に囲まれて越中井がある。
  ここの辺りは、細川越中守 忠興の屋敷があった所で、越中井はその屋敷内にあった井戸といわれている。忠興の妻は明智光秀の娘 玉(たま)で、キリシタンとなり洗礼名をガラシャといった。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いの前、石田三成は諸大名の妻子を人質として大坂城に移そうとしたが、ガラシャは忠興がの徳川家康に従ったため、これをこばみ、教義によって自害できなかったことから、家臣にみずからの胸を突かせて死んだ。「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」の辞世の句を刻んだ記念碑が井戸の脇に建てられている。》
と書かれている。この記述を読んだ上で、大阪聖マリア大聖堂の入口の左側に高山右近の像が立っているのと対のように右側に細川ガラシャの像が立っているのを見ると、細川ガラシャも殉教者なのか、石田三成らによってキリスト教を捨てないことをとがめられて殉教したのか・・と思いそうになるが、そうではないはずなのだ。
1.細川ガラシャはキリスト教を捨てるように要求されて、それを断って死を受け入れたのではなく、関ケ原の戦いの前、西軍側が東軍に従軍した大名の大阪にいた妻子を大阪城内に人質として入れようとした際に、それを断って家臣に胸を槍で突かれて死亡したのであり、ここではキリスト教は特に関係はない。
2.大阪府の歴史散歩編集委員会 編『大阪府の歴史散歩 上 大阪市/豊能・三島』(2007.9.18.山川出版社)では、《石田三成は》と書いているが、関ケ原の戦いについて、あまりにも石田三成が主導権をもって動いていたかのように述べるのは間違いではないかと最近は言われてきたらしい。西軍の大将になっていた毛利輝元は石田三成や安国寺恵瓊に「のせられた」とか「かつぎあげられた」「まつりあげられた」とかいうことではなく、自分自身で判断して動いていて、当初はやる気まんまんだったと最近は言われるようになったらしく、又、豊臣政権の長束正家と増田長盛・前田玄以の3奉行のうちでは長束正家だけが関ヶ原まで行き、増田長盛と前田玄以は大阪にいたが、最初は奉行として特に反家康ではなかったらしいが、毛利が大軍を率いて大阪城に入場して以降は腰を据えて西軍側の立場になったらしいし、大坂城の二の丸を徳川が拠点としていたが、その二の丸を取り囲んで退去を求めたのは石田三成ではなく毛利秀元の軍であって、大阪にいた東軍に属した大名の妻子を大阪城内に移して人質とするというのも石田三成がしたということではなく西軍の総意でやっていたのではないのか。
3.細川ガラシャは大阪城内に移される際に、キリシタンでは自殺は禁じられていることから細川家の家臣に胸を槍でつかせることで実質的に自分から死亡していった・・と言われているけれども、司馬遼太郎『関ヶ原(上・中・下)』(新潮社)では、細川忠興という男は少々偏執的というのか、妻のガラシャに対しての拘束がはなはだしく、自分が東軍に属して上杉攻めに参加して東上した後に、大阪で反徳川の兵を上げる者がいてガラシャを大阪城内に移そうとすることがあったなら、移される前に殺せと家臣に命じていて、家臣はガラシャから言われて槍で刺したのではなく、主君の細川忠興から言われていたことを実行したのであり、ガラシャは逆らえないことを覚悟して死んでいったということで、大阪城内に移されるなら自分から死んだ方がいいと判断したのではなく、細川忠興という男なら大阪城内に移されそうになったなら自分は細川家の家臣に殺されるであろうと予想していた、という話になっていたが、その可能性は考えられる。
4.ウィキペディアを見ても、最後の頃、ガラシャと細川忠興とは必ずしも仲は良くなくて、ガラシャは離婚したい旨を話していたというが、もとより、ガラシャは明智光秀の娘であり、明智光秀と羽柴秀吉らの戦いの際に、元々は明智光秀の方につきあいが深かった細川藤孝・細川忠興が明智光秀に加担せず、むしろ、「消極的に羽柴秀吉側についた」ことがガラシャの父親である明智光秀が敗れる原因のひとつになったわけであり、たま(ガラシャ)からすれば、細川忠興は夫ではあってもたま(ガラシャ)の父に敵対してたま(ガラシャ)の父を死なせた男でもあった。 明智憲三郎『本能寺の変の真実』では、本能寺の変は明智・徳川・長曾我部連合によるもので、元々はそれに細川藤孝が加わっていたが、その細川藤孝が裏切って羽柴秀吉に計画を伝えていて、それゆえに羽柴秀吉は本能寺の変が起ることを知っていて、それゆえに、北陸にいた柴田勝家は上杉景勝と戦っていた最中で、関東にいた滝川一益は北条と戦っていた最中で、堺にいた織田信孝と丹羽長秀の軍はまだ四国の長曾我部に向けて出航する前だったが、京都で本能寺の変が起った時に事態を十分に理解できず、属していた兵士の多くは逃散してしまい、織田信孝・丹羽長秀の軍に属していた織田信長の弟の子で明智光秀と縁組していた津田信澄が実際は違ったのに明智光秀軍の仲間だろうと誤解して攻撃して討ち取ったり混乱を極めていたのに対して、羽柴秀吉の軍は整然と即座に「中国大返し」として急遽、岡山付近から大阪まで戻ってくることができたというのは、それは細川藤孝が織田軍の中では明智光秀の寄騎であって、明智光秀が織田信長に仕えるより前からともに足利義輝・足利義昭につかえていた古くからつきあいがあった関係であったにもかかわらず、明智光秀と徳川・長曾我部との計画に最初は加わっていたにもかかわらず裏切って羽柴秀吉に計画を伝えていたことから、なおかつ、羽柴秀吉は本能寺の変の計画をそうやって知りながら信長に伝えずに本能寺の変が起るのを待っていたのではないか・・といった推測が述べられている。細川家こそ、足利ー織田ー明智ー豊臣ー徳川 と生き残ったしたたかな存在で(「平成」の元号の時代にも総理大臣を出したし(^^)/ )、本能寺の変の際にもそうやって生き残ったのではないのか、と。だから、たま(ガラシャ)からすれば、細川忠興は夫とはいえ父親の仇といえば仇であったし、逆に細川忠興からすれば、豊臣政権に仕える者として、豊臣の敵であった明智光秀の娘であり、扱いに困った女で、それがなおさらキリシタンの洗礼まで受けたことで細川忠興はなおさらたま(ガラシャ)の扱いに困った、という面があったのではないか。 豊臣秀吉が自分自身も織田信孝を滅ぼし自害させ、織田信雄も大名の地位を奪った主君に仇で報いた者でありながら〔織田信孝は「昔より 主(しゅう)を内海(うつみ)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」と秀吉に呪いの句を残して死んでいったという話もある。 ウィキペディアー織田信孝https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AD%9D 〕、豊臣秀吉は明智光秀を逆賊として扱っていたその明智光秀の娘というものの扱いに苦労していて、それゆえに、ガラシャを外に出さないようにして人にできるだけ合わさないようにしていた、にもかかわらず、それだけではなく豊臣秀吉がキリシタン禁教令を出したにもかかわらずキリシタンの洗礼まで受けやがった・・ということで扱いに困っていたのではないか。だから、自分が家康に協力して上杉攻めに参加している最中に大阪で反徳川の兵をあげる者がいて細川家の屋敷からガラシャを移そうとする者がいた場合には、守ろうとせずに殺してしまえと家臣に命じていたか・・・。
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫) - 明智 憲三郎
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫) - 明智 憲三郎
5.石田三成は反キリスト教であったかというと、特にそういった記録はないようで、司馬遼太郎『関ヶ原(上・中・下)』(新潮社)では堺などにいたキリシタンと言われる人たちにも、豊臣対徳川の戦いになった際には豊臣の側についてもらいたいと思いながらも、豊臣政権はキリシタン禁教令を出したことから、豊臣ではない側にキリシタンがつきそうであることに苦労していた話がある。
6.YouTube で日本史ものを扱っている「学者」の話では、石田三成は堺・博多・京都の奉行をしたらしく、石田三成が京都の奉行をしていた時に京都でキリシタンが何人か処刑されたということがあったが、石田三成はその際にはできるだけ処刑される人数を少なくするべく努力していたらしい。だから、別に石田三成はキリシタンを迫害した当事者ということではないようで、ガラシャが死亡した際も、大阪城内に移そうとしたのも「西軍」であり、あくまで生きた状態で大阪城内に移して人質にしようとしたのであって細川屋敷を襲ってガラシャを殺したわけではなく、むしろ、司馬遼太郎『関ヶ原(上・中・下)』(新潮社)などでは細川忠興が上杉攻めに従軍する際に、自分が東方にいる間に大阪でガラシャを細川屋敷から他に移そうとする者がいたなら殺せと家臣に命じていたことから細川家の家臣に殺されたということになっており、さらにはガラシャの扱いに困っていた忠興は、西軍がではなくガラシャが自分自身の意志で細川家から出て行こうとすることがあったなら殺せと命じていた可能性もありそうにも思える。
  だから、カトリック玉造教会・大阪聖マリア大聖堂のすぐ後ろ、すぐ北側のあたりに細川家の屋敷があったらしいことから、細川ガラシャの像が高山右近の像と並べて建てられているけれども、戦国時代に苦労した女性であったとしても、キリスト教の殉教者の扱いにするなら、それはあまり適切ではないのではないか・・・と思えるのだが、カトリック玉造教会でもそのあたりは理解しているようで、現地の説明書きにも、
《  正面には日本画の泰斗 堂本印象(どうもと いんしょう)画伯の筆になる、聖母子に福者ユスト高山右近(たかやまうこん)殉教者と細川ガラシャを配した大壁画を掲げ、・・》
と、高山右近については「殉教者」と記載しても、細川ガラシャにはそうは書かず、単に「細川ガラシャ」とのみ書かれている。
  細川ガラシャが「私よりも父また母を愛する者は私にふさわしくない。私よりも夫または妻を愛する者は私にふさわしくない」という『新約聖書』「福音書」の中のイエスの言葉を実行した人として評価しているのならば、夫よりもキリストを愛したその夫とは細川忠興のことであって石田三成ではない。どうも、そのあたりが、ここでは曖昧なまま、ガラシャの像が建てられている。
大阪府の歴史散歩 (上) (歴史散歩 27) - 大阪府の歴史散歩編集委員会
大阪府の歴史散歩 (上) (歴史散歩 27) - 大阪府の歴史散歩編集委員会

  カトリック玉造教会では、大阪聖マリア大聖堂の入口の左側に高山右近、右側に細川ガラシャの像が立っているが、それとともに、大聖堂の右手前、南東側にも細川ガラシャの碑が立っている。↓
IMG_0626.JPG
↑ 右側のオベリスクみたいな塔の北面に細川ガラシャの絵が描かれており、その下の部分に
「 DONNA
 GRATIA
 HOSOKAWA 」

と書かれている。
  ウィキペディアー細川ガラシャhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A3 には、
《 天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので[注釈 2]、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。
 再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャGratiaラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた。》
と書かれている。「 DONNA GRATIA HOSOKAWA 」の「GRATIA」はその洗礼名で、ローマ・バチカン式発音に近い仮名表記では「グラツィア」なのでしょう。

  ヨーロッパの教会は、その多くが誰でも内部を見学させてもらえる所が多い。それに対して、日本では、特に知り合いでそこの教会の教会員の人がいるとかでなければ見学させてもらえない場合が多く、特にカトリックの教会の場合は「ミサ」に参加させてもらうというのも難しそうという印象がある。カトリック玉造教会のホームページhttps://tamatsukuri.ostk.catholic.jp/ を見ると、
《  もちろんミサは、カトリック信者でない方でも参加することができます。他宗教や他宗派の方や、無宗教の方も、どうぞお越しください。》
と書かれているので、誰でも参加させていただくことは可能なのでしょう・・けれども、どうも、印象としてカトリックの教会というのはプロテスタントの教会と比べて敷居が高い印象があり、又、「ミサ」には誰でも参加させてもらっていいと言われても、そこでどう対処していいのか、おかしなことをしては怒られるのではないかとか思うと、プロテスタントの教会に比べると「敷居が高い」印象がどうしてもある。
  建築探偵団としては、宗教上どうかは別として、カトリックの教会の建築には魅力的な建物が少なくないので、道路から見える外観を見せていただくのは悪くないとして、できれば内部も見学させてもらえればと思うのだが、東京都文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂の場合は、「世界の丹下健三」設計ということで「建築家」ぶりっ子 の人たちが見学に来ることが多いようで、入口付近にも見学していただいてかまいませんという表示があったように思う。又、クリスマスにクリスマスコンサートが催されて、うちの母を連れて行ったこともあった。東京カテドラル聖マリア大聖堂は「世界の丹下健三」をヨイショすることによって自分もまた丹下健三のエピゴウネンとして評価されたい症候群みたいなおっさんどもが参拝することが多く、そういう人の間での評価は高いようだったが、「クリスチャン」と言われる人の評価はあまり高くないみたい。それに対して、私が訪問して外観を見せてもらってきたカトリックの教会としては、大阪の中津のカトリック大阪梅田教会・兵庫県西宮市の遠藤周作にゆかりのカトリック夙川教会などは、内部は知らないが外観は魅力的なものだ。カトリック玉造教会も外観は特別の形状ではないが色合いとか魅力的なものになっている。 そして、扉は開いていて中に入らせてもらうこともできるみたいだったので入らせてもらってきた。
  カトリックの教会には共通する雰囲気のようなものがある。ロンドンにはウエストミンスター寺院とウエストミンスター大聖堂があり、ウエストミンスター寺院の方が日本人には有名だが、ウエストミンスター寺院はイギリス国教会の教会で、ウエストミンスター大聖堂の方がカトリックの教会らしい。 1998年1月、ロンドンに行った時、ウエストミンスター大聖堂の近くのホテルに泊まり、空港へ行くまで少しだけ時間があったことからウエストミンスター大聖堂に寄ってみたのだが、次から次へと真剣に祈りをささげに訪れる人があり、観光名所としてはウエストミンスター寺院などほど高い評価は受けていない所だけれども、いい所に行ったと思ったものでした。
  もっとも、カトリックの寺院としては、ローマ・バチカンのサンピエトロ寺院では、ピエタ像の所に内部に入って見ている黒人の人たちが何人もいたので、中に入らせてもらっていいのかと思って入ろうとしたら、「スイス人の傭兵」というのに手で制止されて気分を害した、ということがあった。「おまえ、口ないのか?」と思ったものだ。内部に入って見ていた黒人の来訪者というのは、政治家なのか特別の「えらい人」なのかそういうものだったらしく、一般の来訪者はピエタ像のある所にはガラス越しでしか見せてもらえないということだったらしいが、黒人のおっさんどもが何人も中に入っていたので、中に入って見せてもらえるものかと思ったのであり、入らせてもらえないのなら「スイス人の傭兵」はそう言うべきだったはずで、手で体を押して制止するというのはそれは礼儀に反する。 さらに、一般の人間はそばまで行かせてもらえないピエタ像がある区域のい中から出てきた黒人のおっさんに邪魔だというように手で押しのけられた・突き飛ばされたのだが、あの黒人のおっさんはいったい何様だったのだろうか。 よく、黒人が人種差別を受けるとかいう話があるが、1998年1月にサンピエトロ寺院に行った際にピエタ像の所ででくわした黒人のおっさんどもについては、むしろ、逆だった。何様なのか、「えらい人」だったのか何かわからないが、ピエタ像のある所の外で私はその黒人のおっさんに無言で押しのけられたのであり、厳密にはその黒人のおっさんに「暴行を受けた」と解釈することだってできるはずであり、その黒人のおっさんは自分は「えらい人」だと思っていたのかもしれないが、私にとっては関係のないことであり神にとっても関係のないことであったはずだが「スイス人の傭兵」にとっては関係あるようだった。サンピエトロ寺院にいた「スイス人の傭兵」は神に仕えていたのではなく黒人のおっさんにテカ・パシリとして仕えていた。「スイス人の傭兵」はその黒人のおっさんのテカ・パシリだった。
  「スイス人の傭兵」が間違っていた点が2つある。1つは、私は警備員・ガードマンの仕事を交通誘導警備を2社・施設警備を1社でやったことがあるが、いずれの会社でも研修で「人を止める時は手で止めるのではなく口で止めるものです」と教えられたものだったが、ところが「スイス人の傭兵」はたいそうな格好しておきながら、それを理解できていない痴れ者だった。私は「高校までエリート」だから最低限の英語はわかる。イタリアに旅行するに際してイタリア語も少しは学習して行ったので、基礎の基礎の基礎・入門の入門の入門程度ならイタリア語もちょっとくらいはわかった。そうであるにもかかわらず、「スイス人の傭兵」は一言として口にしないで手で私の身体を押しつけたのだった。イタリア語で日本語なみに話せたら、あなたのその態度は何ですか・・・と苦情を言うべきところだったが、それだけのイタリア語の語学力がなかったので我慢したが、その時に関しては悪いのは向こうだから、そういう場合については日本語で文句言ってやってよかったのではないか、と今は思っている。
  それから、警備会社の研修では「ガードマンにとって制服を着ているということは大変大事なことです」と言われたのだ。警備員・ガードマンの制服を着た者がそこに立っているということで、周囲に対して、これより内部に入るには断って入ってくださいとか何らかのメッセージを送るものなので、家にガードマンの制服を置いているがどこかに行った帰りに家に取りに帰ったら時間に間に合わないから私服で行って警備の仕事をする者が制服を着ずに私服で仕事をするというのは、それでは仕事は半分しかしていないことになりますと教えられたものだった。 ところが、サンピエトロ寺院の「スイス人の傭兵」は『地球の歩き方 イタリア』(ダイヤモンド社)に「特徴のある衣服のスイス人の傭兵」として出ている服を着ていたものの、比較的寒い冬場の1月であったことから、その特徴ある服の上に何ら特徴のない紺の服をはおって特徴のある服が見えないようにしていたのだ。それでは「半分しか仕事をしていることにならない」。 その特徴のある服というのは、贅沢でそういうデザインのものを着ているのではなく、警備の仕事についている者がここを警護していますよおと周囲にアピールするためにその目立つ特徴のある服装をしているはずであり、せっかくそういう服を用意してもらっているのに、その服が見えないようにその上からありきたりの紺色の外套をはおったのでは、「スイス人の傭兵」は特徴がある目立つその服を着ている意味がないことになる。「おまえのそのい態度は何だ」と「スイス人の傭兵」と黒人のおっさんどもに””日本語で””言ってやるべきだったな・・と今、後悔している。 黒人は人種差別を受けて虐げられているといったことを言う人がいるが、すべての黒人がすべての場所においてでは決してない。むしろ、逆の人間もいる。そういう経験をしたので、私はサンピエトロ寺院と特にピエタ像が好きではない。
  もうひとつ、サンピエトロ寺院の前で飲み物とかを売っている店でぼったくられた。イエスは宮の前で鳩やら何やらを売る屋台をひっくり返して、「私の父の家は祈りの場でないといけないと聖書に書いてある。それをおまえたちは商人の巣にしている」と言われた・・・というのだが、イエスと同じことをそこでするわけにもいかないだろうとは思ったが、同じことをやってやりたいくらいの気持ちだった。イタリアでは値段を書かずに売ってる屋台は要注意だが、サンピエトロ寺院の前は値段を書いていない店が多かった。イエスなら怒ってそれらの屋台を足で蹴り飛ばしてひっくり返したところかもしれないが、残念ながら同じだけのことをする勇気はなかった。

  「ピエタ」とはどういう意味か。ウィキペディアーピエタ を見ると、
《 ピエタ(伊: Pietà、哀れみ、慈悲などの意)とは、主にキリスト教美術における題材として、聖母子像のうち「死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)」の彫刻や絵画などの作品である》
と書かれている。 サンピエトロ寺院のピエタ像がすばらしいと言う人があるようだが、私はサンピエトロ寺院のピエタ像は嫌いだ。その前で一般の人間はガラス越しにしか見せてもらえないピエタ像をガラスで遮られた区画の中まで入っていた「えらい人」らしい黒人のおっさんから、そのガラスで遮られた区画の外で中からでてきた「えらい人」らしい黒人のおっさんから突き飛ばされたのであり、「スイス人の傭兵」はその「えらい人」らしい黒人のおっさんに同調していた。サンピエトロ寺院のピエタ像というものはそういうものであり、そういう像がすばらしい像だとはまったく思わない。「スイス人の傭兵」は「えらい人」だったらしい黒人のおっさんに仕えていたのであり、治安維持のために勤務していたのでもなければ神に仕えていたのでもない。あいつらはそういう存在だったということを知ることができた、という点においてよい経験をした・・と思う。

  最初にローマに行った時、イタリア人はお金の計算が日本人に比べて苦手で、お釣りの計算がうまくできない人が多いようだと知り、できるだけ、お釣りがないように、お釣りをもらう場合でもあまり難しい計算をしなくていいようにしてあげないとだめだと知ったのだったが、サンピエトロ寺院は屋上に登れたのだが、その屋上に売店があって修道女の服を着たシスターが担当していたのだが、シスターは他のイタリア人とは違って何ら苦労することなく日本における日本人と同じようにお釣りを出してくれたので、シスターはインテリだから多くの一般的なイタリア人とは違うのか・・と思ったという経験をした。
  そういった経験をしたので、私はロンドンのウエストミンスター大聖堂はもう一度行ってみたいと思うが、サンピエトロ寺院はもう一度行きたいとはあまり思わない。ぼったくりの店が前に出ているサンピエトロ寺院はそのあたりを見ると、あまり神聖な場所に思えない。
ミケランジェロのローマ (建築巡礼 5) - 長尾 重武
ミケランジェロのローマ (建築巡礼 5) - 長尾 重武
  ロンドンではセントポール寺院(セントポール大聖堂)はバロック建築の代表と言われたので足を運んだが、セントポール寺院はカトリックかと思っていたらそうではなく《 イングランド国教会ロンドン教区の主教座聖堂で、聖パウロを記念するものである。》(ウィキペディアーセントポール大聖堂https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82 )らしい。
 
  カトリック玉造教会は大阪聖マリア大聖堂の内部にも入らせてもらうことはできるようだったので入らせてもらってきた。 お寺でもお堂の外観の写真は撮影してよくてもお堂の内部では写真撮影禁止であるお寺が多く、カトリック玉造教会では特に何も言われなかったが同様かと思ったので内部の写真はない。 内部を見たい人は自分で行って肉眼で見るしかない。東京カテドラル聖マリア大聖堂よりも大阪聖マリア大聖堂の方が内部も私は好きだ。 東京カテドラル聖マリア大聖堂は、せっかく東京の街中に広い敷地があるにもかかわらず、わざわざ、洞窟の内部みたいにしてしまっている。「世界の丹下健三設計」と言われるとほめにゃならん・・と思う「建築家ぶりっ子」が多いようだが、「王様は裸だ」みたいなもので、もっと正直に自分が思ったことを口にする姿勢を「建築家」志望者は持った方がいい・・と私は思う。
※ YouTube-はだかの王様・歌(21)「王様ははだかだ」https://www.youtube.com/watch?v=VDkWs9VuL_o
現代社会学大系 (12) - T.W.アドルノ, 田中 義久, 矢沢 修次郎
現代社会学大系 (12) - T.W.アドルノ, 田中 義久, 矢沢 修次郎
権威主義的人間 - 曽良中 清司
権威主義的人間 - 曽良中 清司
権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ
権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ

  カトリックのシスターは黒いシスターの服を着ているのが普通ではないかと思うのだが、私はカトリックの幼稚園に行ったので、黒いシスターの服を着ている人を幼稚園児の頃に日常的に見ていたのだが、幼稚園児だった時には、シスターの黒い服を着た人というのが、なんか怖い印象があった。何か怖いことをされたわけではないのだけれども、幼稚園児にとって、黒いシスターの服装が何か怖い印象があった。
  それが大人になってみると、逆にその服装をしている人を見かけると、幼稚園児だった時のことを思い出して懐かしさを感じ、むしろ、親しみを感じるところがある・・が、今回、カトリック玉造教会においては見かけることはなかった。

  大阪聖マリア大聖堂に向かって左後ろのあたり、高山右近の像の前のあたりに「ファティマの聖母と羊飼い」がある。又、カトリック玉造教会の東隣りに「師イエズス修道女会」による「典礼センター ピエタ」がある。↑ で述べたサンピエトロ寺院での経験からピエタというのは好きではないのだけれども、この「典礼センター ピエタ」のことではない。
  次回https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503580028.html 、「ファティマの聖母と羊飼い」と「典礼センター ピエタ」について述べたい。  

  (2024.6.6.)
聖書のなかの女性たち (講談社文庫) - 遠藤周作
聖書のなかの女性たち (講談社文庫) - 遠藤周作
★ 日本の教会シリーズ
東京都
東京カテドラル聖マリア大聖堂[東京都文京区]
(「建築家」と「建築屋」と「建築士」はどう違うのでしょうか??? 〔引っ越し掲載〕)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_3.html
日本キリスト教団 本郷中央教会[東京都文京区](ヴォーゲル)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201412article_1.html
日本ハリストス正教会 東京復活大聖堂(ニコライ堂)(ミハイル=シチュールポフ・ジョサイヤ=コンドル) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201512article_2.html
サントリーホール背後の霊南坂教会十字架 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201612article_1.html
青山学院 1.ウェスレー像 他 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201702article_2.html
  2.ガウチャー記念礼拝堂・蔦のからまるチャペル 他 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201702article_3.html
新国立美術館 安藤忠雄展。「光の教会」(大阪府茨木市 日本キリスト教団 茨木春日丘教会 教会堂の「復元」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201711article_11.html
早稲田奉仕園 スコットホール・友愛学舎、信愛学舎 訪問。
1.スコットホール・奉仕園会館・友愛学舎・ベニンホフ像 他 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_5.html
2.信愛学舎。「・・・のために」なしで生きられない人。いかさまの慈善。慶應の不良サークル。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_6.html
3.聖書を否定する「敬虔なクリスチャン」。「クリスチャンの4大義務」。YMCA予備校はなぜだめか。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_7.html
4.「敬虔なクリスチャン」に取り上げられた聖書。入試で白紙で出して望みをかなえられた人と踏みにじられた者。 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_8.html
5.国立大学の哲学科・宗教学科に行かせてもらえなかった私、大阪経大とトーシンダイ(東京神学大学)に行った牧師。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_9.html
6.私の親が私には出してくれなかったカネを「特別献金」で払ったカネで 私大出の男がトーシンダイに行った。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201801article_10.html
田園調布と田園調布の教会
1. 魅力のある街(東京圏)。田園調布はどこまでか。態度の悪い不動産屋にへつらうな。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_1.html
2. 放射線状道路の扇の要の位置の田園調布駅はおしゃれ https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_2.html
3. 放射線状道路の扇の要の位置の広場。 独特のデザインの田園調布駅 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_3.html
4. 居住環境を考えた田園調布の街並み。居心地のよい宝来公園 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_4.html
5  日本基督教団 田園調布教会(1) 高すぎる樹木、鎧をかぶったみたいな教会堂、倉庫みたいな建物 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_5.html
6.  同 (2) 跳ね返す素材、教会堂は重厚である必要があるか。「セコム、必要ですか」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_6.html
7.  同 (3) 牧師館がなぜ教会堂の脇にないのか。遮る扉の玄関扉 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_7.html
8.  同 (4) 「ああ、無情」 「太客」vs「どうでもいい来場者」vs「酔っ払い」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_8.html
9.  同 (5) バザーの際の違和感。 新教会堂ファサードは・・・みたい https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_9.html
10. 同 (6) パイプオルガン・ハンドベルと偶像崇拝・惑溺 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_10.html
11.台(うてな)人体実験と精神医学ファシズム 吉益脩夫 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_11.html
12.今は見当たらない「矢野一郎邸」と「旧人見純一画室」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_12.html
13.カトリック田園調布教会聖フランシスコ修道院 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_13.html
14.日本福音ルーテル田園調布教会、事故物件田園調布警察署 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_14.html 
救世軍 本営[東京都千代田区]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201905article_2.html
明治学院礼拝堂と記念館・インプリー館[港区]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201912article_3.html
「サンパウロ」「サンパオリーノ」[新宿区]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201604article_3.html
日本キリスト教団 番町教会 と 四谷界隈の「キリスト教」関連施設。
1.市ヶ谷駅から番町教会へ。「結婚式場専用教会」と日本キリスト教団の教会を一緒にする安藤忠雄。「教会」と名づけたパフォーマンス建築の丹下健三。教会の建物は特別の建物でなくてよいけれども「教会らしい」建物の方がいい。息子には出さないカネをよその息子に「特別献金」する親とそれを勧める牧師 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202207article_1.html
2.「さりげなく教会」型デザインの番町教会とさりげなく存在する十字架。背後から聴こえるオルガンはいかがか。「キリスト教系」学校出身者は慶應内部進学と共通点がある https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202207article_2.html
3.幼きイエス会・雙葉高校・上智大学・聖イグナチオ教会・女子パウロ会。「隅の親石」を捨てる戸建住宅建築業の会社。聖パウロ修道会が作ったらしい文化放送 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202207article_3.html
4.聖パウロ修道会「サンパウロ」と修道院製品店「サンパオリーノ」。大阪星光学院なんて受けなくてよかった。上智大西側の通りと堤。信仰するなら神と『聖書』を信仰すべきで、「聖職者」を信仰するな! 価値観は多様化なんてしてないと思うぞ https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202207article_4.html
※ (2016年4月) 東京のキリスト教書店1 「サンパウロ」「サンパオリーノ」及、四谷界隈。イナカモンの低俗「高級ホテル」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201604article_3.html
日本キリスト教団 富士見町教会(東京都千代田区)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/501854311.html

神奈川県
慶應義塾大学 YMCAチャペル[横浜市港北区](ヴォーリズ)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201206article_3.html
日本キリスト教団 清水が丘教会[横浜市南区]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201309article_1.html

愛知県
豊橋ハリストス正教会(正使徒福音記者マトフェイ聖堂) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201609article_1.html

京都府
京都大学YMCA会館・地塩寮、京都府立医大橘井寮(ヴォーリズ)[京都市左京区] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201705article_2.html
同志社 今出川校地
1.共学同志社見学。JRと京都地下鉄の駅名のつけ方。母親の自慢を本気にする男 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201902article_1.html
2.裏口入学は「庶民」か? 「思考が柔軟」か? 西門、彰栄館https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201902article_2.html
3.グリーン設計の礼拝堂。「パンのみにて生きるにあらず」を理解する者しない者 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201902article_3.html
4.「ハリス理化学館 同志社ギャラリー」、大学からなくなるスピーカーズコーナー https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
5.明徳館、『同志社のシンボルとなっている塔』のある建物。「美しき水車屋」の娘? https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
6.千葉教会と同じリヒャルト=ゼール設計の「大志を抱け」とは別人のクラーク記念館 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
7.寒梅軒、牛の像と大日如来石碑。有終館、致遠館、正門からすぐの良心の碑 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
8.啓明館。ヴォーリズ設計は新島遺品庫。栂と黒松。京都御苑から相国寺 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
9.アーモスト館。パラディアンウインドウ、ギャンブレル屋根。「アマースト大学」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_6.html
10.同志社女子大栄光館。武田五一知ってる? 学校は建築家が完成させない方がいい https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_7.html
11.大丸ヴィラ・日本ナザレン教団上京教会・日本聖公会聖アグネス教会ほか https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201903article_9.html

大阪府
日本キリスト教団 南大阪教会[阿倍野区](村野藤吾)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201206article_2.html
カトリック大阪梅田教会[北区]
《1》 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201405article_1.html
《2》 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201510article_5.html
高槻カトリック教会(高山右近記念聖堂)[高槻市] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
日本キリスト教会高槻教会[高槻市]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201510article_4.html
日本基督教団東梅田教会(一粒社ヴォーリズ建築事務所) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201604article_1.html
日本基督教団扇町教会 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201604article_2.html
日本キリスト教団 箕面東教会[箕面市] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201709article_2.html
ガラシア病院[箕面市] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201710article_7.html
日本基督教団 箕面教会
1.一般的「洋風教会型建物」だが使える建物の箕面教会 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201811article_2.html
2.府道から箕面教会。北川原公園・箕面川の紅葉はきれい。高層ビルは野蛮
3.寺社と違って植木を刈らない牧師+「高卒のおっさん」との「競争」は災難 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201811article_4.html
4.「債権者に追われた」人て被害者ですか?「家が貧乏」なら慶應には行けませんか? https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201811article_5.html
5.「特別献金」でトーシンダイに行った男。「思考が柔軟だから」裏口入学の男。 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201811article_6.html
大阪クリスチャンセンター・日本キリスト教団大阪教区事務所・大阪女学院・カトリック玉造教会(聖マリア大聖堂)〔大阪市中央区〕
1.大阪クリスチャンセンター・日本キリスト教団大阪教区事務所・大阪女学院 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503467754.html
2.「芋畑なんか相手にしないのよ」てイメージの神戸女学院vsそうでもないイメージの大阪女学院https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503486093.html
3.大阪大司教区の司教座教会のカトリック玉造教会(大阪聖マリア大聖堂)、細川ガラシャの像があるのはhttps://philoarchi2212.seesaa.net/article/503513548.html
4.大阪聖マリア大聖堂、左側の高山右近像と右側の細川ガラシャ像。細川ガラシャの碑。〔今回〕
5.「ファティマの聖母と羊飼い」「師イエズス修道女会」による「典礼センター ピエタ」。清水谷高校。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/503580028.html

兵庫県
神戸文学館(旧・関学 ブランチメモリアルチャペル)[神戸市灘区](ウィグノ―ル)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201311article_1.html 
日本基督改革派神港教会・カトリック六甲教会[神戸市灘区]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201312article_1.html
関西学院教会 関学 ランバス記念礼拝堂(一粒社ヴォーリズ建築事務所)、関学神学部棟(ヴォーリズ) 他[西宮市]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201405article_2.html
カトリック夙川教会[西宮市] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201406article_1.html
ショファイユの幼きイエズス修道会 修道院・アンティエの家。 日本キリスト改革派宝塚教会。仁川学院。 [宝塚市] https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201706article_1.html
カルメル会修道院・日本基督教団甲東教会・仁川学院[西宮市]https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201909article_1.html 

大乱 関ヶ原 コミック 1-2巻セット - 宮下英樹
大乱 関ヶ原 コミック 1-2巻セット - 宮下英樹
大乱 関ケ原 3 (SPコミックス) - 宮下 英樹
大乱 関ケ原 3 (SPコミックス) - 宮下 英樹

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック