光明寺(長岡京市)【5/8】女人坂から鐘楼・法然像・手水舎・御影堂。「えらい人」像は高い台座に載せないといけないか? 「普通の人と同じ高さで誰もがそばまで行くことができる福沢諭吉像」を「普通の人より高い場所で普通の人間はそばに行けない場所」に移す「自我が確立されている」「福沢精神」とそれに疑問を感じる「自我が確立されていないからわざわざ無理して逆らってそういうことを言うということですね」と「心理学」から「診断」される「受験勉強の悪影響」「思考の硬さが気にかかります」「未成熟」。

[第654回]
  西山浄土宗総本山 の念仏三昧院 光明寺(京都府長岡京市)参拝の5回目です。
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  この総門をくぐると、石段が正面に続きます。
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  現地の境内案内図には「表参道(女人坂)」と書かれています。↓
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( ↑ クリックすると大きくなるので、大きくして見てください。「表参道(女人坂)」と書かれています。)
石段ではあるけれども、比較的緩やかな傾斜の坂だからということでしょうか。光明寺では「女人坂」はあっても「男坂」があるわけではないようです。 坂も、このくらいの傾斜の坂がいい。若い時なら、「なんだ~坂、こんな~坂、なんだ~さか、こんな~坂」と登ったところですが、年齢をいってくると、急な坂はもうええわ・・て気持ちになってきます。

  ↑ の石段は「女人坂」と言うだけあって緩やかな傾斜で、「表参道」と言うだけあって幅が広い。その左側(南側)に、それよりも幅が狭い通路があり、↓
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↑ 左右に紅葉が植わっているということで「もみじ参道」と言うそうです。秋には紅葉が見られるのでしょう。この先に「薬医門」があって、その奥に勅使門があり、左に庫裏があるようですが、今回は阿弥陀堂と御影堂 訪問を目的として来ましたので、そちらには行かないことにしました。

  表参道(女人坂)を登っていき、振り返ると、↓
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↑ クリックすると大きくなるので大きくして見てください。手前の門は今、通ってきた総門。その向こうに、今、歩いてきたあたりが見えます。長岡京市からその向こうは「向日(むこう)市」でしょうか。

  さらに表参道(女人坂)を登ります。↓
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↑ 左右に「奉納」と書かれた壺が配置されています。

  さらに登ると、正面に御影堂が見えてきます。↓
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   ↓ ↓ ↓
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浄土真宗の寺の御影堂では「御影」は親鸞ですが、ここは西山浄土宗 の寺ですから、御影堂の「御影」は法然です。

  石段を登りきると、左右に樹木の植わった庭園が広がります。↓
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↑ 手前の石碑には「総本山 光明寺財団記念碑」と書かれています。

  京都洛西観音霊場第7番札所 で 長岡京市指定有形文化財 の 光明寺 観音堂 は石段を登り切った右手(北側)にあるようですが、今回は訪ねませんでした。又、観音堂の後ろあたりに経蔵(長岡市指定登録文化財)があるようです。
※ ウィキペディアー京都洛西観音霊場 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B4%9B%E8%A5%BF%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E9%9C%8A%E5%A0%B4
ウィキペディアー光明寺(長岡京市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82)
  
  正面の御影堂に向って進むと左手(南側)に鐘楼(長岡京市指定有形文化財)↓
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《 鐘楼は明歴3年(1657)頃に建てられました。「享保の火災」を免れ、寺内では御本廟についで古い建築です。
梵鐘は昭和24年(1949)第72世隆空徳準上人代に再鋳されました。》
( 光明寺HP 「境内案内 鐘楼・梵鐘」https://komyo-ji.or.jp/archives/keidai/%e9%90%98%e3%80%80%e6%a5%bc%ef%bc%88%e5%a0%82%ef%bc%89%e3%83%bb%e6%a2%b5%e3%80%80%e9%90%98%ef%bc%88%e9%90%98%ef%bc%89 )

  鐘楼の向う(西側)に「立教開宗の像」(法然上人像)
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↑ 「改宗」ではなく「開宗」の像です。
  いつも思うのですが、こういう「えらい人の像」というのは、高い台座の上に乗っておられることが多いでしょ。どうしてでしょうね。法然という人はそういう人だったのでしょうか。

《 ・・もちろんかれは念仏によって、あらゆる人々を救おうとしたのであるが、とくに、造寺造仏の財力をもたぬ「貧窮困乏の類」や、学問を修める余裕のない「愚鈍下智」の者にも往生の道を開くために、誰にもできる口称(くしょう)念仏の行を仏が示したのであると力説することによって、民衆の旗じるしを高くかかげているのは、これまでの貴族仏教には全然見られなかった画期的現象であった、といわねばならない。法然の傘下に、皇族・公家貴族のほか、熊谷直実・宇都宮頼綱らの武士から、交野四郎のような強盗の張本、室泊(むろのとまり)の遊女のような最下層の人々まで、あらゆる階級の人々が集まってきたのも、専修念仏の教えが階級の差別を否定した万民平等の福音であったればこそであろう。
 (家永三郎『日本文化史』1959.岩波新書)
《 法然は、浄土門以外の教えを聖道門(しょうどうもん)とよんで否定し、僧たちが、口では戒律を尊びながら、退廃した生活をおくっている実態を批判しました。法然の教えは、身分のちがいを超えて老若男女からつよい感動をもって迎えられ、専修念仏の教えは近畿から東国にひろがりました。とくに武士の間からは熊谷直実・宇都宮頼綱・結城朝光(ともみつ)ら熱心な信者があらわれました。日々、生死の間に身をおいている武士たちは、念仏に新しい救いを見いだしただけでなく、荘園を支配する貴族、天台、真言の寺院、神社などの力や権威とたたかうために、阿弥陀仏のみを信仰するこの一神教的な救済の宗教をすすんで受け入れたのです。》
《 1200(正治2)年、開かれてまもない鎌倉幕府が念仏を禁止したのにつづいて、1207(建永2)年、朝廷は専修念仏に根こそぎの弾圧を加えました。後鳥羽上皇が熊野に参詣した留守に、法然の弟子が宮中で女官を出家させたことを、女犯(にょぼん)の罪をおかしたとされたのです。こうして、法然門下の僧4名が四条河原で斬られ、法然と弟子8名が流罪となりました。流罪となった弟子のなかには、のちに真宗を開いた親鸞(1173ー1262)もいました。
  このとき法然は、75歳でしたが、僧の身分をうばわれ、藤井元彦という俗名で讃岐国に流されました。法然は、「たとえ死罪となっても念仏はやめない。流罪で辺鄙な土地へ行って田夫野人(でんぶやじん)に念仏を勧めることができるのは、朝恩というべきだ」と語ったと伝えられます。法然は、流刑地への旅の途中でも布教をつづけ、港町の遊女にも念仏をすすめたということです。・・・》
 (村上重良『日本の宗教』1981.初版。2009.改版。岩波ジュニア新書)
そういう人であったという法然の像ならば、高い台座の上に乗らなくても・載せなくても、「普通の人と同じ高さに・普通の人と同じ大きさで・誰もがすぐそばまで行くことができる場所に」設けた方がいい・・ということはないか・・と思ったりもするのですが、どうも、「えらい人の像」というのは高い台座の上に乗せなきゃおれないシンドローム・・みたいな思考があるみたいですね。
日本文化史 第2版 (岩波新書 黄版 187) - 家永 三郎
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日本の宗教: 日本史・倫理社会の理解に (読みなおす日本史) - 重良, 村上
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  一般に「たか~い台座の上に載っている像の人」と「普通の人と同じ大きさで・普通の人と同じ高さで・誰もがすぐそばまで行くことができる場所に像が設けられている人」像が設けられている人」とでは後者の人の方が値打ちがある人が多い・・という印象があります。 私が、これまでに見た像で「普通の人と同じ大きさで・普通の人と同じ高さで・誰もがすぐそばまで行くことができる場所に像が設けられている人」の像としては、1980年代、東京都港区三田の慶應義塾大学の三田キャンパスの構内、槙文彦設計の三田新図書館の北側に設置されていた福沢諭吉の胸像。「天は人の上に人を作らずと言えり」と述べた福沢諭吉の像だから、「普通の人と同じ大きさで・普通の人と同じ高さで・誰もがすぐそばまで行くことができる場所に設けられているということだった。「天は人の上に人を作らずと言えり」は『学問のすすめ』の冒頭だが、『福翁自伝』では「私にとっては門閥制度は親の仇でござる」とも語られている。 それから、2000年前後頃に見た、栃木県佐野市の郷土博物館の前に立っていた義人・田中正造翁の立像。それから、2000年にロシア連邦のイルクーツク州イルクーツク市の公園で見た、カール=マルクスの胸像。
  逆に、「これでもかあ」というくらい高い台座の上に乗っておられた像というと、京都大学の吉田キャンパス、時計台記念館の前に何柱も並んでおられた胸像群で、誰なのか見ようと思っても、首が痛くなるくらい上の方を見あげないと見えないし、そのうち、「もういいや」みたいな気持ちになったが、誰なんだ?・・というと、「歴代総長の胸像」だったようだ。なるほど、これを「祭り上げの大技」と言うのか・・と思った。要するに「邪魔だから上の方に上げている」というものだ( 一一) 京都大学は昔から「アカデミックな伝統」とか「反骨の学風」と言い、それにあこがれて入学する学生も少なくない大学であり、2011年3月の福島第一原発事故の後、インターネット上で見たものでは、日本の国立大学で本格的に原子力について研究をおこなっているのは東大・京大・東京工大の3つだけだそうで、かつ、東大と東京工大は推進派だけであり、京大だけは推進派と反対派がいるということだった。YouTube に京都大学原子炉研究所の助教 小出裕章さんが「京都大学では破廉恥罪に該当するような犯罪を犯さないかぎり、反体制であるとか反権力であるとかいう理由で追い出されるようなことはない。その点で京都大学は日本一です」と語っている動画があった。但し、京大でも賛成派・推進派は出世させてもらえるのに対して、反対派はなかなか昇進させてもらえないらしく、小出裕章さんにしてもかつて自分が教えた人間が教授になっても定年の65歳まで助教(助手)のままだったが、「助教というのは大学の教員の中では一番下の役職で、誰にも指導しなくていい、研究に集中できる役職です。こんなにいいものはない」と語っているのが動画で見られたが、京都大学は昔からそういった骨のある教員がいる大学だった・・と思うのだが、「歴代総長の胸像」については、よくここまでやるなあ・・・というくらい高い台座の上に鎮座しておられた( 一一)  まさに「祭り上げの大技」「邪魔だから上の方に上げている」という感じだった( 一一)
  高い台座の上に乗っておられる人が値打ちのない人と決まっているわけでもなく、値打ちのある人である場合もあるのですが、しかし、その像を設けた人は、「えらい人」の像は「高い台座の上に載せるもの」という固定観念を持っていたのかもしれませんが、その考え方は違うように思います・・がどうでしょうか。
人と思想 50 田中正造 - 布川 清司
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熊取六人衆の脱原発 - 哲二, 今中, 眞治, 川野, 裕章, 小出, 健, 瀬尾, 圭二, 小林, 徹, 海老澤
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原発のウソ (扶桑社新書) - 小出裕章
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  2000年代、ひさしぶりに東京都港区三田の慶應大学三田キャンパスに行ってみると、福沢諭吉の胸像は、かつて私もすぐそばまで行って像に語りかけたことがある新図書館のすぐ北側から移設されて、曾根中條設計事務所設計の重要文化財に指定されている「慶應大学三田旧図書館」の前、生け垣の内側に移設されてしまった。大きさは前のまま、「普通の人間と同じ大きさ」だが、普通の人間よりも高い場所に・普通の人間が通る通路から生垣で隔てられて普通の人間はすぐそばまで行くことができない所に動かされてしまった。1980年代に私が福沢諭吉像に語りかけた場所は、今もその場所に設置しておくことは可能な状態であるにもかかわらず、である。
  なおかつ、1985年に横浜市港北区日吉 の慶應大学日吉キャンパス(教養課程)に槙文彦設計で新しく建設された日吉新図書館の入口前に、二礼二拍手して通らないと図書館に入れないという場所に設けられた、「中途半端に普通の人間よりも大きい」福沢諭吉の像( 一一)が造られ、それだけならまだしも、慶應義塾新聞だったか、慶應義塾が発行して無料で配布されていた機関紙には「この像に肘をついたり足をかけたりすると留年すると言われています」などという、実にくだらない話が書かれていた。まったくつくづく馬鹿馬鹿しい。それを書いた人間、その「お話」を捏造した人間は恥を知れ!・・と言いたいが、もしも、言ったならば、「慶應タイプ」から「おまえよりも出世している人だぞ」とか言われそうで、二重に馬鹿馬鹿しい( 一一)  別に、肘をつけとか足をかけろとか言うつもりはないが、しかし、たとえ、その像に肘をついたとしても足をかけたとしても、福沢諭吉自身ではなくて石像であり、福沢諭吉という人は、自分の石像に肘をつかれたとか足をかけられたということで、それで「留年させてやろう」などと考えるような人か、そのあたりをよく考えてみるべきだ。『福翁自伝』では福沢諭吉は述べている。福沢諭吉がまだ子供の頃、兄が習字の練習をしていて、反故(ほご)〔書き損じの紙〕がそのあたりに散らばっていたので、その紙をまたいで通ったところ、兄から「おまえはいったい何をした」と怒られた。その紙に殿様の名前が書いてあったらしい。「殿様の名前が書かれた紙をまたぐとは何事だ」と激しく怒られ、それで謝ったのだったが、しかし、殿様の顔を踏みつけにしたとでもいうなら良くないであろうけれども、名前を書いた紙でしかないものをまたいだというくらいのことで、そこまで怒られなければならないものか、と納得いかなかった、というのである。そういう福沢諭吉が、自分自身の顔を踏みつけにしたとでもいうならともかく、石像でしかないものに肘をついたとか足をかけたとしても、だから「留年させてやろう」などと考えるかというと、福沢諭吉という人は、そんなちっぽけな人ではないはずだ。その「お話」を考えた者こそ、慶應によくいる、特に内部進学に多い「福沢諭吉の墓参りには行くが福沢諭吉の著作や伝記は読まない人」の一員、『旧約聖書』「イザヤ書」には「この民は口では私を敬うが、心は遠く離れている」と述べられているその文句があてはまるような人、「この民は口では『福沢諭吉』『福沢精神』と叫びまくるが、その心は遠く福沢諭吉を離れている」という類の人であろう。そんな人が設けた像だから、「中途半端に普通の人間よりも大きい像」になり、なおかつ、その像の近くに行きたい者はすぐそばまで行けるが、そばまで行きたいと思わない人は前を通らなくても図書館に入って図書館を利用することができる・・という場所に設ける・・のではなくて、二礼二拍手一礼しないと図書館に入れないという場所に設ける・・という下品なことをやった・・ということであろう。たぶん、あの像を設けた人も、《「肘をついたり足をかけたりすると留年する」などというしょーもない話》を考えた人も、私よりも「えらい人」だと思うので、私なんかに批判されても、へでもないであろうけれども、愚かな行為である・・・と思う。
新訂 福翁自伝 (岩波文庫) - 福沢 諭吉, 富田 正文
新訂 福翁自伝 (岩波文庫) - 福沢 諭吉, 富田 正文
福沢諭吉 (岩波新書 青版 590) - 小泉 信三
福沢諭吉 (岩波新書 青版 590) - 小泉 信三
  ちなみに、「慶應心理学」によると、「中途半端に普通の人間よりも大きい福沢諭吉の像」を「二礼二拍手一礼して通らないと図書館に入れない場所」に設置しようとする人とか、「普通の人間と同じ大きさ」の福沢諭吉の胸像を「普通の人間と同じ高さ」で「誰もがすぐそばまで行くことができる場所」から「普通の人間よりも高い場所」で「普通の人間が通る通路とは生け垣で隔てられて、普通の人間はすぐそばまで行けない場所」に移設してやろうとした人のことを「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神を身に着けている」とか「福沢精神を身に着けている」とか「思考が柔軟」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「アイデンティティーを持っている」とか「スマート」とか、さらに「企業はそういう人間を喜ぶ」とか「ギャルにもてもて」とか「診断」します。そして、なんでやねん・・と思って、私がここで述べたようなことを言うと、「受験勉強の悪影響だと思います」「思考の硬さが気にかかります」「自我が確立されていないから、だから、わざわざ無理して逆らってそういうことを言うということですね」とか「アイデンティティーを持っていないからそういうことを言うということです」とか「独立自尊の精神を身に着けておればそういうことは言わないはずです」とか「未成熟だからそういうことを言うということですね」とか「診断」されます。もっと「精神医学」的「病名」をつけられるおそれもあります。「おまえ、そういうことを言っていると勤め先なくなるぞお」と脅されることもあります。「おまえみたいなこと言うやつは結婚相手なくなるぞお」と言われることもあります。「おまえに結婚相手できたら、俺がその女を奪ってやる」とか言うやつも出てきます。実際に、私、言われたことあるのです。それが「慶應タイプ」であり「慶應心理学」です。「心理学者」というのはそういう連中です。そもそも、福沢諭吉の著作や行動と正反対のものが、なんで「福沢精神」なんだ?!?・・と思うのですが、慶應義塾においては福沢諭吉の主張や行動と正反対のものを「福沢精神」と言い、塾風迎合主義のことを「独立自尊の精神」と言い、「心理学」によると塾風迎合主義・権力随順主義のことを「自我が確立されている」「独立自尊の精神がある」「スマート」「思考が柔軟」と言うのです。逆らうと怖いから逆らわない方がいいのかもしれませんが、不快指数は上昇します。
反精神医学 - 野口昌也, デーヴィッド・グラハム・クーパー
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現代精神医学解体の論理 - 森山公夫
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  「立教開宗の像」のさらに後ろ、御影堂の左手前に、手水舎
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  そして、正面に御影堂 (長岡市指定有形文化財)↓
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《 現在の建物は宝暦3(1754)年に建てられたもので、十八間四面(約33メートル)、本瓦葺、総欅の入母屋造で、近世浄土宗本堂の典型的な建築様式です。京都の浄土宗寺院本堂としては最大級であり、長岡京市では最大の木造建築です。御本尊は法然上人の御自作「張子の御影」を奉安し、また善導大師、證空上人、熊谷蓮生法師、浄音上人等祖師像も安置しています。》
( 光明寺HP 「境内案内 御影堂」https://komyo-ji.or.jp/archives/keidai/miedo )
  1754年というと1776年のアメリカ合衆国独立宣言「人、七浪(1776)もするべからず」の22年前、「火縄くすぶる(1789)バスチーユ」フランス革命の1789年の35年前。
  1776年のアメリカ合衆国独立宣言と「人、七浪(1776)もするべからず」て、全然、関係ないやんけ・・といっても、ほかに語呂合わせを思いつかなかったのだからしかたがない。1980年代前半、横浜市港北区箕輪町、慶應大学日吉キャンパスの南側にあった日吉台学生ハイツ に「カウンセラー」という肩書でいた元自衛隊の新倉(にいくら)(男。当時、50代後半か60代前半か?)とその息子が亜細亜大学に行ったというのを、なんかふんぞりかえって言うておったのだが、新倉や新倉の息子が亜細亜大にふんぞりかえって行くこと考えると、東大や京大に行った人・行こうとしていけなかった人が10年浪人しようが・20年留年しようが・30年休学しようが、そんなものはたいした問題ではない・・と新倉を見て思った。
  最近、ロシア連邦軍のウクライナ侵攻に際して、ロシア連邦の政治家で「日本が言うこときかないなら原爆落としてやれ」とか言っているやつがいるらしい。又、ロシア連邦軍がウクライナ侵攻を始めた時、「日本の場合は返してもらう方だけですけれども」などと楽天的なことをテレビで話していたタレントだかコメンテーターだかがいたが、そんな甘いものとは違うだろうと思っていたら、ロシア連邦の政治家で「ロシアは日本の北海道に対して権利があるはずだ」などと言い出す者が出てきた。「ジョージア」(グルジア、サカルトヴェロ)の日本駐在大使が「ロシアとの間の国境線は『はう国境線』と言って、いったん、国境線を決めても、赤ん坊が『はう』ように、常にこちらに向かって『はってくる』、そういう国境線であって、常に油断できないものだ」と話していたが、それは日本との間でもそうで、「日本はロシア連邦との間では、こちらが返してもらうかどうかのものだけだから」などと楽天的なことを思っていてはいけないのだ。
  「ロシアは日本の北海道に対して権利があるはずだ」などという発言は、それはどういうことを言っているのかというと、日露和親条約が結ばれた時、日本(江戸幕府)は「北海道に住んでいるアイヌ人は千島列島にも住んでいる。ゆえに、千島列島は全島、日本領だ」と主張したところ、ロシア代表は「同じ理由で、カムチャッカ半島に住んでいるアイヌ人は千島列島にも住んでいる。ゆえに、千島列島(クリル列島)は全島、ロシア領だ」という主張をしたらしい。最近、ロシア連邦の政治家には「ロシアは単一民族の国だ」などと中曽根康弘か日吉台学生ハイツの新倉(にいくら)みたいなことを言うやつがいるらしい。よくまあ、そこまで無茶苦茶言うなあと思うが、ソビエト連邦の時代においても、バイカル湖の東のあたりの「ブリヤート共和国」は最初はソビエト連邦内のロシア社会主義共和国内の「ブリヤート・モンゴル自治共和国」と言っていて、「モンゴル人のブリヤート族の国」ということだったが、「ブリヤート・モンゴル自治共和国」だとモンゴル人のハルハ族の国であるモンゴル人民共和国⇒モンゴル国 と一緒になろうといった話が出てこないとも限らないので、それで「モンゴル人のブリヤート族」のことを「ブリヤート人」ということにした、他にもフィンランドに接する「ソビエト連邦内のロシア社会主義共和国内のカレリア自治共和国」⇒「ロシア連邦内のカレリア共和国」も、もともとは「カレリア・フィン共和国」でフィンランドと同じフィン人の住む所だったが、「カレリア・フィン共和国」ではフィンランドと一緒になるべきだとか、なぜ、フィンランドと別の国になっているんだとかいう話が出てくるおそれがあるから、だから「カレリア・フィン共和国」ではなく「カレリア共和国」と改めたはずで、そこの人間は「カレリア人」ではなくて「カレリア地方のフィン人」だったはずなのだが、それだけではないが、そういうロシア連邦が「単一民族の国」であるわけないのだ( 一一)
  それから、アイヌ人といっても、北海道は「カムチャッカ半島に住んでいるアイヌ人」の土地を日本人が奪って「北海道に住んでいたアイヌ人」をカムチャッカ半島に追い出して住んでいるというわけではなくて、「北海道に住んでいたアイヌ人」の子孫と本州から北海道に渡って住んだ「シサム」(隣人)とアイヌ人が呼んだ「狭い意味での日本人」とが混住しているのであり、「カムチャッカ半島に住んでいるアイヌ人」がカムチャッカ半島に住んでいるからという理由で、元々はウラル山脈より西側にいたはずの「スラブ人の中の東スラブに属するロシア人」に「北海道に対して権利がある」わけないのであり、又、《元々はウラル山脈より西側にいたはずの「スラブ人の中の東スラブに属するロシア人」》と「カムチャッカ半島にいるアイヌ人」「千島列島にいるアイヌ人」「北海道に住んでいるアイヌ人」とが「単一民族」であるわけないのであり、そういう無茶苦茶なことを言うヤカラが今のロシア連邦の政治家にはいるらしい。むしろ、第二次世界大戦で日本がポツダム宣言を受諾した後、日ソ中立条約を破って進行してきたソ連軍は千島列島に居住していた「狭い意味での日本人」とアイヌ人を区別もせずに(というよりも、ロシア人に千島列島に住んでいた「狭い意味での日本人」とアイヌ人の区別なんかできなかったのではないか)追い出して北海道に移したということがあったようで、千島列島からソ連軍によって北海道に移住させられたアイヌ人の子孫にこそ千島列島に対して権利があるはずであるのだが、「ロシア人は北海道に対して権利がある」とか言っているロシア連邦の政治家がいるらしい。そういう文化的に程度が低い野蛮人でありながら核兵器だけは世界一保有しているらしいヤカラが隣にいるということを考えると、日本も今よりも軍備を充実させる必要があるのだろうか・・・と思ったりもしてくるのだが、・・・しかし、日吉台学生ハイツにいた「カウンセラー」の新倉(にいくら)とか、館長の藤井さんとか、そういった元自衛隊の人を見ると、あの人たちに武器を持たせてしまうとかえってよくない。むしろ、彼ら自衛隊に武器を持たせたのでは「きちがいに刃物」であって、「かえってよくない」と思えてくる。・・これは実際に「元自衛隊」の人間と接して、こいつら、なんで、ここまでなってないんだ・・と実感した経験がある者でこそわかるものかもしれないが、実際、片方でロシア連邦の危なっかしい政治家を見ると、日本も今より軍備を充実させる必要があるのではないかとも思えてくるが、他方において元自衛隊の新倉とかを見ると、あいつらに武器を持たせたのでは「かえって危ない」とも思えるのだ( 一一)
もう一度、言う。新倉や新倉の息子がふんぞりかえって亜細亜大みたいなもんに行く・行ったことを考えるならば、東大や京大に行った人間もしくは行けなかったとしても行こうとした人間が10年浪人しようが20年留年しようが30年休学しようが〔実際には、制度上、留年は4年までという大学が多いかと思うので20年の留年はできないだろうけれども〕、新倉だの新倉の息子だのが亜細亜大みたいなもんに行くことから考えるなら、そんなことはたいしたことではない。
・・で、「人、七浪(1776)もするべからず」でアメリカ合衆国独立宣言・・て、全然関係ないやんけ・・としても、他に語呂合わせを思い浮かばんかったんやから、しゃあないやんけ・・・。


※ 光明寺HP https://komyo-ji.or.jp/
ウィキペディアー光明寺(長岡京市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82)

  次回https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500006097.html 、御影堂・阿弥陀堂 に参ります。

 (2023.7.11.)

☆ 長岡京市の光明寺(粟生光明寺)(西山浄土宗 総本山)参拝
1.西山浄土宗の総本山、長岡京市粟生にある光明寺、法然が最初に念仏を説いた地、熊谷直実が念仏三昧院を開いたのが始まり、法然の遺骨を荼毘にふして御本廟に祀る、「京都西山三山」、阪急「長岡天神」駅とJR「長岡京」駅。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499936472.html
2.長岡天神駅よりアゼリア通り・セブン通り・長法寺道を経て「早良親王ゆかり」の乙訓寺近くの「今里」交差点を経て今里大通りより「更ノ町」交差点を左折して光明寺道に。菅原道真・早良親王・明智光秀と恨みをのんで死去した者のゆかりの地。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499948381.html
3.更の町交差点より、赤根公園・赤根天神・大峰山禊所・赤根幼稚園・蓮が糸・光明寺道・光明寺前へ。崖から吊るして「親に孝行するかあ」と脅して言わせるのは愚か、精神的貧困。「わしはあんたに何一つやってもらったことはない」と息子に無理矢理言わそうとする父親、「あんたに世話になることは一切ない」と言って息子の結婚式に出てくれという「さわやかスポーツマン」。高校教師は害がある。「両親が離婚した」は自慢することとは違うやろ( 一一)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499962295.html
4.光明寺前・浄土門根元地・熊谷直実の念仏三昧院・法然の遺骨を荼毘にふして分骨。西谷流から西山浄土宗。総門は1845年、『死に至る病』の4年前、『共産党宣言』の3年前。おまけ「クロちゃん」https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499970352.html
5.表参道(女人坂)から鐘楼・立教開宗の像・手水舎・御影堂。「えらい人」の像は高い台座に載せないといけないのか? 「普通の人と同じ高さで誰もがそばまで行くことができる福沢諭吉像」を「普通の人より高い場所で普通の人間はそばに行けない場所」に移す「自我が確立されている」「福沢精神」とそれに疑問を感じる「自我が確立されていないからわざわざ無理して逆らってそういうことを言うということですね」と「心理学」から「診断」される「受験勉強の悪影響」「思考の硬さが気にかかります」「未成熟」。〔今回〕
6.御影堂・阿弥陀堂。熊谷直実は念仏の信者になったわりにその後も過激? トロッコ列車は警察手帳で乗れるのか?  『観無量寿経』に登場するビンビサーラ王とアジャンタシャトルとヴァイデーヒーの話。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500006097.html
7.保存樹木モミ。「モミの木の歌」は人畜無害化で作成された歌ではなかった。猪・「野生の猿」出没。善良な市民は、「野生の猿」と警察官は眼を見てはいけない。音楽・声楽とコーラスは別物、プロ合唱団と「学校のコーラス部」・「アマチュア合唱団」はレスリングとプロレスの違い以上の違いがある。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500030938.html
8.御影堂から観音堂脇を通り退出。丹波街道の「光明寺」バス停から長岡京駅へ。「わしに孝に、わしに孝に」を説くくだらない『観無量寿経』、森鴎外『青年』『舞姫』を「受験勉強だ。害があるんだ」と否定する慶應内部進学心理学、「何でも日本に持ってくると矮小化される」ことを危惧する者を病気・症候群と「診断」して「治療」しようとする小此木啓吾内部進学精神医学・精神分析学。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500042314.html


☆ 「浄土宗」 祐天寺(東京都目黒区)については、
⇒[慎腹風呂愚]祐天寺(東京都目黒区)参拝1~7
1.表門・仁王門。祐天寺商店会。警察は犯罪者の味方。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201712article_5.html
2.地蔵堂・地蔵堂門・子守地蔵・水子地蔵。「寅さん」「鬼太郎」「マグマ大使」「パンダ」浅見光彦論。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201712article_6.html
3.かさね塚。仏舎利殿。海難供養碑。職場の我儘女と「少子高齢化対策」に殺された我が子。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201712article_7.html
4.鐘楼堂・阿弥陀堂・五社稲荷。お堂の免震構造の問題。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201712article_8.html
5.本堂。お堂の免震構造とその周囲。免震とバリアフリーとの関係。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201712article_9.html
6.書院。免震とバリアフリーの関係。鬼怒川・毛野国の地名の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201712article_10.html
7.宝篋印塔・祐天上人墓。C57車輪。みよし商店会。「権威主義的パーソナリティー」の「デザイナー」。親に加担する教諭。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201712article_11.html  

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