光明寺(長岡京市)【4/8】光明寺前・浄土門根元地・熊谷直実の念仏三昧院・法然の遺骨を荼毘にふして分骨。西谷流から西山浄土宗。総門は1845年、『死に至る病』の4年前、『共産党宣言』の3年前。おまけ「クロちゃん」。

[第653回]
  西山浄土宗(旧 浄土宗西山光明寺派)総本山 光明寺(京都府長岡京市)参拝の4回目です。
  光明寺道 を東から西に進んできて、「光明寺前」交差点まで来ました。↓
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  右側に「総本山 光明寺」と彫られた石柱が立っており、左側の常夜灯の前の看板には「京都 西山三山」と書かれて、中央に「総本山 光明寺」、左に「柳谷観音 揚谷寺(ようこくじ)」、右に「西国二十番札所 善峰寺(よしみねでら)」と書かれています。 「JR長岡京駅」から「阪急長岡天神駅」を通って「光明寺」バス停まで来るバスはこの交差点を左(南)に曲がり、曲がってすぐの所に「光明寺」バス停があります。
  ↑ の写真で見ると、右側の石柱はいいのですが、左側の看板の方は、ここにこの看板を立てるならば常夜灯は要らないことになるし、常夜灯を建てたならば、それを生かすためにはその前に看板を立てて常夜灯を隠してしまったのでは、常夜灯を建てた価値がなくなってしまうということはないか。「京都 西山三山 総本山 光明寺 柳谷観音 揚谷寺 西国二十番札所 善峰寺」と書かれた看板を立てて悪いということはないとしても、ここではなく他の場所でもいいということはないだろうか。
  正面の向こうの方に光明寺の総門が見えます。

  この道を正面に進みます。
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左の電柱の所には、
「← 子安勝手神社0.7km
  長法寺 1.1km 」
と書かれています。 ここを左(南)に曲がり、すぐ右(西)に曲がって登ると、子安勝手神社という神社があって、その南側に 京都洛西観音霊場 の第8番 粟生山 観音寺 が《子守勝手神社と同じ境内で隣接している。》(ウィキペディアー洛星観音霊場https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B4%9B%E8%A5%BF%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E9%9C%8A%E5%A0%B4 )所にあるようです。
  洛西観音霊場 は光明寺の総門をくぐって正面の石段を登ってすぐ右手の観音堂が第7番で、子安勝手神社や観音寺に登る所よりも南まで行って西に登った所にある長法寺が第9番のようです。
  もっとも、光明寺の観音堂の千手観音は京都国立博物館にあるそうで、粟生山観音寺は無住の寺で、普段は観音寺の千手観音が光明寺の観音堂におられるらしく、それなら、洛星観音霊場としては「京都国立博物館におられる光明寺の千手観音」が第7番で、光明寺の観音堂におられる「粟生山観音寺の千手観音」が第8番と考えるべきか、それとも、観音像がおられるかどうかではなく観音堂の建物が重要と考えて、建物を巡るべきなのか。
※ ウィキペディアー洛星観音霊場https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B4%9B%E8%A5%BF%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E9%9C%8A%E5%A0%B4
  光明寺は寺の本尊は阿弥陀如来だが、洛星観音霊場としての「札所本尊」は「光明寺の観音堂の千手観音」で京都国立博物館におられ、普段、「光明寺の観音堂」におられる千手観音は「粟生山 観音寺の千手観音」だということらしい。

「↑_ 京都西山短期大学 
    京都西山高等学校 」
と書かれています。光明寺のすぐ南側に短大があるらしく、京都西山短期大学HP の「建学の理念」https://seizan.ac.jp/outline/spirit/ には、
《 学仏大悲心とは、仏の慈悲の心を学ぶことです。それは、阿弥陀如来が全ての人々を慈悲で包み、必ず救うという願いを立てられて仏になられた由来を知り、人のよろこびを自らのよろこびとし、人の悲しみを自らの悲しみとして受け止め、自身の行動を通じて社会に貢献する人材の育成が本学の理念です。》
と書かれており、「歴史・沿革」 には、
《 1280年
光明寺により本学の前身である学寮が設置される
1950年
私立学校法施行令により、二年制の西山短期大学設立
1976年
仏教科に、仏教コース・国文コース・福祉コースを設置
・・・
1998年
国文コースを日本文化コースに改編 》
と書かれており、学校法人京都西山学園 が運営しているということですが、光明寺の系列のものみたいです。
短大だから女性専門かと思ったら、《ウィキペディアー京都西山短期大学》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E7%9F%AD%E6%9C%9F%E5%A4%A7%E5%AD%A6 を見ると、「著名な出身者」に「クロちゃん(安田大サーカス)」なんて出ているので、短大だけれども共学なの? と思ったが、女性のみなのか共学なのか、書かれたものは見つけられない。

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〔A〕「浄土門根元地」
  ここを正面に歩いていくと、右手に↓
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↑  「浄土門根元地」と書かれた石柱が立っています。
  ウィキペディアー光明寺(長岡京市)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82) には、
《 奈良へ学匠となるべき師を求めて比叡山延暦寺を下ってきた24歳の法然が、粟生野の里の村役だった高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りた際、茂右衛門夫妻は法然の真剣な求法の気持ちと、広く大衆が救われる道を求めての旅であることを聞いて「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と法然にお願いした。
そして承安5年(1175年)3月、ついに浄土宗を開いた法然は20年前の約束を守ろうと、この地で初めて念仏の法門を説いた。こうして法然が初めて「お念仏」の教えを説いた地であることからこの地は「浄土門根元地」といわれている。》
と書かれている。
※ 西山浄土宗総本山 光明寺HP https://komyo-ji.or.jp/
ウィキペディアー光明寺(長岡京市)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82)

  さらに真っ直ぐ進むと、↓
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↑ 「総本山 光明寺」と書かれた総門に至る。総門は長岡京市指定有形文化財の指定を受けているらしい。
  光明寺HP の「境内案内 総門」https://komyo-ji.or.jp/archives/keidai/%e7%b7%8f%e9%96%80 を見ると、
《 弘化2(1845)年に建てられた高麗門様式の重厚な総門は光明寺の表玄関です。左右に築地塀を構え、扉口の柱間は4.4mあります。左右の築地塀には、5本の筋があり定規筋と呼ばれる白い水平線が引かれています。定規筋の数が寺の格式を示し、5本線が最高格式を表すものです。》
と書かれています。
  1845年というと、「一番弱い(1848)ぞ、団結せよ」マルクス・エンゲルス『共産党宣言』発行の1848年の3年前、「嫌でごわす(1858)とムラビヨフ」愛琿(アイグン)条約の1858年の13年前、キルケゴールが『死に至る病』を発表したのが1849年で、その4年前。
  キルケゴールが『死に至る病』を発表したのは1849年で、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』の1年後。この2つの著書が発表されたのが同じ頃だったのです。私はキルケゴールの哲学を中心に研究したいと思っていたのでしたが、うちの父親とその仲間どもから「そんなもん、せんでもええんじゃ。甘ったれるな、チャンコロ」と言われ続けて、「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに、すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために。捧げ尽くす、捧げ尽くす、わしのためにささげ尽くす、犠牲になる、犠牲になる、わしのために犠牲になる。てってこっこテッテてって、ラッタらったラッタら♪ 撃ちてしやまん、一億火の玉、欲しがりません、勝つまでは。イッライッラしてきたっ! 戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事のもと! イッライッラしてきたっ、イッライッラしてきたっ! わしほど精神的に安定した人間はおらんねんぞ、イッライッラしてきたっ!」と言われ続けて、そして、小学校の1年から同級生が遊んでいる時も学習してきたその努力の果実を奪い取られた。うちの父親の同盟軍が口にしたのは、「きみは、そういう形而上学みたいなどうでもいいものが好きなんだろ」とか、それから、キルケゴールも含めてキリスト教と関係があるものはすべてについて、「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うておるのがわからんのか」とか、そして、うちの親は「産まれてこなかったら良かった子供を育ててやってあげてやってあげていただいてもらってくださってあげてやってやってやったったんじゃ。これから働いて、これまで育てるのにかかったカネをまどてもらわんといかんのにからに、そんなもん、哲学科みたいなもんに行かせてたまるか~あ! 誰が行かすか、そんなも~ん」という文句でした。
【1】  まず、「きみは、そういう形而上学みたいなどうでもいいものが好きなんだろ」とかそういった文句を言ってキルケゴールなどを否定しようとする者には、「キルケゴールが好んだというレンテンマルクの言葉」というものが大谷愛人(ひでひと)・泉治典『古典入門 キルケゴール《死に至る病》』(有斐閣新書)に書かれていたのだが、その言葉「これらの作品は鏡のようなものだ。猿がのぞいても使徒の顔はうかんでこない」があてはまるであろう。
【2】  又、「宗教はアヘンであるとマルクスは言うてお~る」というのは、これはうちの父親の「親友」の医者屋のM川という男(1980年頃当時、50代前半。自称「金沢大医学部卒」だが嘘くさい。実際は私立金権関西医大裏口入学卒か、そうでなかったとしても、「かわいいキンタマ」(川崎医大+愛知医大+金沢医大+埼玉医大=かわいいキンタマ)くらい卒か。当時、大阪府豊中市在住)から吹き込まれて感化されたもので、その実質、「新興宗教の教祖」の医者屋はどういう経緯で知って「親友」になったのかというと、大阪市北区の扇町あたりに北野病院という不良病院があるのだが、そこの院長だか副院長だかの田附という男に紹介されて「親友」になったらしかった。うちの父親は「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うてお~る」と実質「新興宗教の教祖」の医者屋のM川から吹き込まれて、日頃から家で「共産党は死刑にしろお。朝日新聞の記者は刑務所に叩き込めえ。日教組は刑務所に入れろお」と叫びまくっていて、私にも「学校の教師は全員、アカやから学校の教師にはなってはいか~ん。甘ったれとってはいかんぞ、甘ったれとってはチャンコロろすけっ!」「朝日新聞はアカやから勤めてはいかん。毎日新聞もアカやから勤めてはいかん。マスコミに勤めるならサンケイがええ、産経新聞が。産経新聞に応募しなさい」と私に言い、「産経新聞みたいなもん、首をもがれても絶対に嫌です」と私が言うと、「ええかげんにせえよ、このチャンコロろすけイタコ! わ~しが産経新聞がええと言うておるねんぞ、産経があ、んが、んが、んが~ア! 朝日はアカやからいか~ん。マスコミに勤めるなら産経新聞に勤めなさいとわ~しが言うてあげてやってやってあげていただいてくださってあげてやってやっておるねんぞ。感謝しろお!」と言い、私が「産経新聞はアホやからいか~ん。マスコミに勤めるなら朝日がええ~え!」と言うと、「こいつ、ええかげんにさらせよ、このチャンコロろすけイタコめが。えっらいえっらいエッライえっらいこのわしが、マスコミに勤めるなら産経がええ、朝日はアカやからいか~んと言うてあげてやっていただいてもらってくださっておるのがわからんのか」と言い、私が「マスコミに勤めるなら朝日がええ、産経はアホやからいか~んと言うてあげてやっていただいてもらってくださっておるのがわからんのか」と言っても、「こいつ、ええかげんにさらせ。朝日はアカじゃあ、毎日もアカじゃあ、あか、アカ、あか、アカ、あか、アカ、あか~ああ、あ~いらいらあ。イッライッラしてきたっ、イッライッラしてきたっ! 泰然自若・百戦錬磨・安心立命のわし~が、イッライッラしてきたっ、イッライッラしてきたっ! わしほど精神的に安定した気持ちの落ち着いた人間はおらんとM川先生がおっしゃっておるのにイッライッラしてきたっ、イッライッラしてきたっ!」と言い、「京大はアカやから行ってはいか~ん!」とか叫びまくっていた男が、「宗教はアヘンであるとマルクスは言うてお~る。焼き討ちじゃあ、焼き討ちじゃあ、焼き討ちじゃあ~あ!」と、「教条的マルクス主義者」と「焼き討ち織田信長大好き人間」が合体して叫んびまくっていたのだったが、なんで、その部分限定で「教条的マルクス主義者」になるのかマカ不思議だったのだが、蔵原惟人『宗教 その起原と役割』(新日本新書)にわかりやすく述べられていたが、
(1)カール=マルクスは「宗教はアヘン」という表現を使ったことがあるのか というと、『ヘーゲル法哲学批判序説』(岩波文庫)の中で一度だけ使っている。何度もあちらこちらで使っているわけではないが、、『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で一度だけ使っている。エンゲルスは「宗教はアヘン」というこの表現を使ったことはない。レーニンもこの表現を使ったことはない
(2)「宗教はアヘン」という表現はマルクスだけが使った表現かというと、そうではない。わかっているだけでも詩人のハイネ・哲学者のヘーゲルなどがこの「宗教はアヘン」という表現を使っており、どうも、マルクスが生きた時代のドイツでよく使われていた表現だったらしい。
(3)「宗教はアヘン」という表現を最初に使ったのは誰かというのはよくわからないらしいが、マルクスではない可能性が大きい、マルクスが最初に使った表現ではなさそうだ。
(4)「アヘン」という言葉には「毒薬」という意味と「なぐさめ」という意味の2通りの意味がある。宗教の中には毒薬のような宗教もあるけれども、マルクスは毒薬のような宗教を批判する時にはこの「宗教はアヘン」という表現は使っていない。そうではなく、キリスト教やユダヤ教のような宗教について、「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という意味でこの「宗教はアヘン」という表現を使っている。
・・・だから、うちの父親の「親友」の医者屋のM川やM川から感化されたうちの父親などが「宗教はアヘンであるとマルクスは言うておるのがわからんのかあ~あ!」と言っていたのは、M川やうちの父親の理解が間違っていたのであった。なおかつ、それを説明してあげても理解しないのだった。
(5)又、高神覚昇『般若心経講義』(角川文庫)では、「宗教はアヘン」という表現でマルクスが述べた「宗教」というのはキリスト教のような宗教のことであって、仏教のような宗教のことではないのではないか、と述べられているが、そういうところもあるかと思う・・のだが、これも言ってあげても理解しないのがうちの父親で、「わしはものごっつい謙虚な人間で常に絶対に正しいんじゃ」と常々発言している「新興宗教の教祖」M川はそれ以上に言ってあげても理解しないのだった。
【3】  そして、M川ら思想弾圧主義者が主張するのは、「キルケゴールとかニーチェとかそういう実存哲学というものは、マルクス主義の敵じゃあ」という主張だった。なんで、そうなる? ・・と思うのだが、うちの父親というのは、そういうことを言いまくる人間を呼び込んでくる男だった。遠山啓(ひらく)『教育問答 かけがえのないこの自分』(太郎次郎社)では「父親とは、息子を外敵から守ってくれる存在である」などと遠山啓が書いていたが、そういう父親というものも世の中にはいるであろうし、よそのお父さんを見て「いいお父さんだなあ」と思った人もいるのだけれども、「外敵から息子を守ってくれる存在」などというそんな人間ではない父親だっているのであり、遠山啓はそのあたりを理解できていない。 個人のありかた、特に個人の心のあり方を考えるとともに社会のあり方を考えるならばいいが、個人のありかた、特に個人の心のあり方を考えることを否定・弾圧して社会の変革を強制するという姿勢では、それは社会主義ではなく全体主義・ファシズムであり、M川らの主張はファシズムの主張だった。そもそも、「わしは医者で、医者というものは普通の人間ではない、特別にえらいエライえらいエライ人間なもんじゃからな。特に名医であるわしの言うことは誰でもみんなが、みんなが何でもきいて従わんといかんのじゃあ」とか常に言いまくっているM川の思想というのは、それ自体がファシズムの主張であって民主主義に敵対するものだった・・のだが、それをありがたがるのが打ちの父親だったのだ。
【4】  そして、「資本主義に対する批判がない」といった批判をキルケゴールなどにされることがあったのだが、これは福沢諭吉に対しても「資本主義に対しての批判がない」と言われることがあるのと共通している。慶應大学の「社会科学概論」という講義で、I教授が話されたものだが、福沢諭吉の問題点として「資本主義に対しての批判がない」といったことを言う人がいるが、福沢諭吉という人がどういう時代に生きた人かということを考える必要がある、福沢諭吉は江戸時代の1835年に生れて、1868年の明治維新をはさんで生きて、1901年に66歳で亡くなった、江戸時代に33年・明治に33年と、江戸時代と明治時代に半分ずつ生きたという人であって、戦後の人間ではないのであり、江戸時代に半分・明治に半分生きた人が「資本主義に対しての批判がない」としても、当たり前だ・・というのです。それとキルケゴールもまた似ているところがあります。セーレン=キルケゴールの主著の『死に至る病』が発表されたのは1949年で、カール=マルクスとフリードリヒ=エンゲルスによる『共産党宣言』が発表された1948年の1年後であり、そういう時代の人であり、セーレン=キルケゴールだって福沢諭吉と同じく「資本主義に対しての批判がない」としても、当たり前だ。それがどうした! てものだ。 その「それがどうした」ということを言わなきゃおれない、そうやってよその息子の大学進学を妨害するのが生き甲斐みたいな男がうちの父親の「親友」の医者屋のM川で、それに感化されまくっていたのがうちの父親だった( 一一)
  そして、そのうちの父親をヨイショしまくっていたのが北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代。北野高校卒。神戸大文学部卒)であり、「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」「私は家が貧乏だったから」とギャースカぎゃあーすかギャースカ叫びまくりながら、うちの父親が「学校の先生は全員アカやから、学校の先生にはなってはいか~ん」「うちは学校の先生みたいなもんにならすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」という「学校の先生」になり、又、私の場合は、たとえ京大でも東大でも「うちは文学部みたいなもんに行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われた文学部に神戸大しか行かれへんくせしやがってからに行き、そして、「学校の先生でも、特に国語や社会科の先生はなってはいけません。数学か英語でないと家庭教師のアルバイトができませんから、学校の先生はなってはいかんが、特に国語や社会科の先生は絶対になってはいか~ん」という「国語の先生」になっていたのだった。「ウルトラ甘ったれるなあ~あ!」とうちの父親の基準を適用して旧姓作野礼子に怒鳴りつけてやればよかったか・・と思い、後悔している。私だったら絶対に行かせてもらえなかった神戸大の文学部みたいなもんに行き、私だったらならせてもらえなかった「学校の先生」になり、私だったら特にならせてもらえなかった「国語科の先生」にならせてもらっていた、うちの父親の基準を適用したなら「ウルトラ甘ったれとる」ということになるはずの旧姓作野礼子は「あなたのお父さんほど、立派ないいお父さんはないわよお。いいお父さんよお。私だったら、あなたのお父さんみたいないいお父さんがいたらものすごいうれしいわよお」などと言いまくり、そして、うちの父親から「さ~すがは作野先生やなあ。北野高校の先生やってはるだけあるっ♪ さすがは北野高校でてられるだけのことあるでえ。女でも神戸大でておられるだけある。おまえとは違うねんぞ、おまえとは、おまえとは違うねんぞチャンコロとは」と言ってもらい、そう言ってもらって旧姓作野礼子はその気になっていたのだった。あのおっさんが、そんなにいいなら、旧姓作野礼子さんにあげるけどなあ・・。旧姓作野礼子さんにあのおっさんを引き取ってほしかった。「京大はアカやから行ってはいか~ん」「朝日はアカじゃあ、毎日もアカじゃあ。産経新聞に応募しなさい。産経新聞に。産経がええ、産経があ。原発はどんどん作れ、原発に反対する者は刑務所に叩き込めえ! とってちってたあ~あ! 」「すべての宗教はアヘンであ~る。甘ったれとってはいかんぞ、甘ったれとっては。焼き討ちじゃあ、焼き討ちじゃあ。焼~き討ちじゃあ~あ。とってちってたあ~あ!」とか何とかかんとか、毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに耳元で叫びまくるおっさんがいたらそんなにうれしいのなら、旧姓作野礼子さんにあげるから引き取ってほしかった〔⇒《YouTube-およげ!たいやきくん》https://www.youtube.com/watch?v=1uP9nw4S3Qc 〕・・・・が、旧姓作野礼子は「京大はアカやから行ってはいか~ん」「朝日はアカじゃあ、毎日もアカじゃあ。産経新聞に応募しなさい。産経新聞に」「宗教はアヘンであるとマルクスは言うてお~る。焼き討ちじゃあ、焼き討ちじゃあ。焼~き討ちじゃあ~あ。とってちってたあ~あ!」「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしのために、わしのために、すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために。犠牲にする、犠牲にする、わしのために犠牲にする、犠牲になる、犠牲になる、わしのために犠牲になる、おやおやコッココおやコッココ、コッコー、コッコー親コッコー、すべてをすべてを親こっこっこのために、すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてを親親こっここ親こっここのために、親孝行のために、親孝行のために、おやおやコッコー、親コッコー♪ 戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事のもと、わしに親孝行しよう♪ わしにい~い、イッライッラしてきた、イッライッラしてきた。世界は一家、人類は皆兄弟じゃ。朝日新聞の記者は全員、刑務所に叩きこめえ、毎日の記者も全員、刑務所に叩き込めえ。日教組は死刑であ~る。共産党は死刑にしろお。とってちってたあ~あ、イッラいっらイッラいっらイッラいっらイッラいっら、わしほど精神的に安定した気持ちの落ち着いた人間はおらんねんぞわしほど、イッラいっらイッラいっらしてきたしてきたしてきたねっ♪ おやおやコッコー、おやコッコー、わしに親孝行せんとバチあたるぞバチあたるぞバチあたるぞ、まんまんまんまんまんまん、アーメン、まんまんまんまんまんまん、アーメン。わし、これまでにわしに親孝行せえなんてことは、たったの一言として、あんたに言うたことはないやろ。いくらなんでも、そのくらいのことはわかってもらわんといかん!」と毎日毎日、わんわん言われてきた、そもそも、「わし、これまでにわしに親孝行せえなんてことは、たったの一言として、あんたに言うたことはないやろ。いくらなんでも、そのくらいのことはわかってもらわんといかん!」とおっしゃるけれども、あんた、今、言うたやろうが。あんた、まさに今、言うたばっかりやろうが。あんた、さっきから言いまくっておるやろうが。あんた、毎日毎日、朝から晩まで叫びまくってきたやろうが・・と思うのだったが、それでも「わし、これまでにわしに親孝行せえなんてことは、たったの一言として、あんたに言うたことはないはずや。いくらなんでも、そのくらいのことはわからんといかん。わからんかあ! おまえは、そんなことすらも理解できん、カスカス人間なんかあ~あ!」とおっしゃるのだったが、あんた、毎日毎日、朝から晩まで叫びまくってきたやろうが、勤め先の会社の部下のM尾さんから紹介された「金沢の拝み屋さん」からもらってきた呪具に向って、「わしに親孝行せえよお、わしに親孝行せえよお、わしにわしにわしにわしに。わしに親孝行せんとバチあたるぞバチあたるぞバチあたるぞ、まんまんまんまんまんまあ~ん。チーン♪ アーメン」と体はその呪具の方に向けて顔は私の方を向いて、毎日毎日「まんまんまんまんまんま~ん。アーメン」とやってきたやろうが、あんた。どこが「わし、これまでにわしに親孝行せえなんてことは、たったの一言として、あんたに言うたことはないはずや」や、あんた「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしに、わ、し、にいい~い♪ 戸締り用心、火の用心、マッチ一本火事のもと、イッライッラしてきたあ」と毎日毎日、私に言ってきただろうが( 一一)・・というのはすべて私に押しつけて、そして、「いいお父さんよお、あんなお父さんがいたら私だったら絶対にうれしいわよ」などと言いまくって、そして、そのおっさんから「ええ先生やでえ、作野先生はあ。ものごっつうええ先生やでえ、作野先生はあ」と言ってもらう役だけ取りやがった。人間のカスだ、あの女は。高校生の時および高校卒業してしばらくの私が間違っていたのは、北野高校の教諭というものを実状をはるかに超えて高く評価していたという点だった。あいつらは高校生にとって害がある。特に、旧姓作野礼子は人間として最低の女・高校教諭として最低の教諭だった。北野高校は行きたいと思って行った学校だったので、合格発表の時はうれしかったのだが、卒業して10年以上経って冷静に考えることができるようになってみると、どう考えてもいい学校ではなかった。いい部分もあったけれども、特に旧姓作野礼子に2年の時に担任を持たれたのは災難だった。「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」というのを自慢しまくっていたのだった、そもそも、そんなもん、自慢するもんと違うやろ・・とも思うのだが自慢しまくる女だったが、むしろ、あんな独善的でいがんだ性格しているから、だから旧姓作野礼子の母親も男に愛想つかされて離婚したのか・・と思ったりしないこともないが、それはどうだったのかはわからない・・・が、””「両親が離婚した」だの「父親がいなかった」だのと「そんなもん、自慢するもんかあ?」ということを自慢しなけりぁおれない症候群””〔「電気ショック療法」とかやってやれば「治る」か? それとも、「シベリア送り」にして「作業療法」で強制労働・無賃労働させてやればちょっとは「真人間になる」か?〕の女というのは、なんとも迷惑やった( 一一)
  「キルケゴールが『死に至る病』を発表したのが1849年、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』が発表された『労働者、一番弱いぞ(1848)団結せよ』の1848年の1年後」、この年号は私はずっと覚えてきた私にとっては大事な年号であるので忘れない。光明寺(長岡京市)の総門が建てられたのは1945年、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』の1848年の3年前、キルケゴール『死に至る病』の1849年の4年前である。
宗教 その起源と役割 (新日本新書 250) - 蔵原 惟人
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死に至る病 (岩波文庫) - キェルケゴール, 信治, 斎藤
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熊取六人衆の脱原発 - 哲二, 今中, 眞治, 川野, 裕章, 小出, 健, 瀬尾, 圭二, 小林, 徹, 海老澤
熊取六人衆の脱原発 - 哲二, 今中, 眞治, 川野, 裕章, 小出, 健, 瀬尾, 圭二, 小林, 徹, 海老澤
  今、振り返ってみると、北野高校は共学の学校だったが、女子生徒には「ちょっと性格いがんでる系女子」みたいな人も中にいた・・と思う。それから、中谷彰宏という人が『オヤジにならない60のビジネスマナー』(PHP文庫)で「オヤジというのは、その性別のその年代の人のことではなくて、オヤジと言われるようなことをする人のことであり、女性にもオヤジはいますし、若い男性にもオヤジはいます」と述べているが私もそう思うのだが、これはオヤジだけでなく、オバハン・オバタリアンもそうだと思う。そして、今、振り返ってみると、北野高校に「高校生の時からオバタリアン」みたいな女生徒というのもいたなあ・・・と思う。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子さんは私が嫌いだったようで、それに気づいていなかったという点で私は愚かだったが、旧姓作野礼子がいいという生徒も中にいて、旧姓作野礼子さんは女性だから男子生徒からの方が人気があったなんてことはなくて、一部のタイプの女生徒から人気があって、それはどういう生徒かというと「ちょっと性格いだんでる系女子」「高校生の時からオバタリアン」タイプの女生徒から人気があった。似た者同士だったのかもしれない。・・で、中に「ちょっと性格いがんでる系女子」「高校生の時からオバタリアン」みたいになった方が学校の成績が上がって大学進学にいい・・みたいに思っている人もいたみたいだが、私は違うと思う。「ち~が~う~だ~ろ、このハゲ~え!」と叫んで男性をボコボコ殴りつける怖いおばさんにならないと東大とか京大には通らないのか? ああいうことをすると東大に通るのか?・・というと、私は違うと思う。東大なり京大なりに通ったとしても、人間性が優れているから通ったわけでもなく、性格がねじくれまがっているから通ったというわけでもないと思うのだ。人間性が優れていてもなってなくても、性格がすなおでもねじくれ曲がっていても、ともかく合格最低点より1点でも高い点数を取ったら合格ということだ。性格がいいとか悪いとかいう問題ではない。そのあたりについても、旧姓作野礼子さんの指導は間違っていたと思う。
オヤジにならない60のビジネスマナー お客様・女性・部下に愛される具体例 (PHP文庫) - 中谷彰宏
オヤジにならない60のビジネスマナー お客様・女性・部下に愛される具体例 (PHP文庫) - 中谷彰宏


  ウィキペディアー光明寺(長岡京市)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82) によると、
光明寺の建物では、この総門のほか、薬医門・観音堂・経蔵・鐘楼・御影堂・本堂(阿弥陀堂)・釈迦堂・御廟・講堂・食堂など、17棟が長岡京市指定有形文化財 に指定されている。
  国の重要文化財の指定を受けているものは建築にはないが、絵が2点・仏像が1点あるものの、洛西観音霊場第7番となっている 平安時代後期の木造千手観音立像は京都国立博物館に「寄託」されていて、「絹本著色四十九化仏阿弥陀来迎図 1幅」は奈良国立博物館に「寄託」されているらしい。

〔B〕熊谷直実(法力坊蓮生)と念仏三昧院
  浄土宗の寺を訪ねると源氏の武士であった熊谷直実の名前が出てくることがよくある。『平家物語』に登場する話で、一の谷の合戦の後、平家の軍勢が舟で沖へ逃げようとする時、馬で舟の方へ行こうとする武者に熊谷直実が呼びかけて、直実が組み伏せた上で首を取ろうとしたところ、まだ若く、熊谷直実の息子より若いのではないかと思い、直実は殺すに忍びず「かまいませんから、どうぞ、行ってください」と言って助けようとしたものの、「敵に敗れておきながら命を助けられるわけにはいかない」と若者はいい、そのうち、源氏の兵がやってきて、それ以上、助けることもできず、熊谷直実は泣く泣く、その若武者の首を取ったが、前夜、笛の音が聴こえていたが、この若武者が吹いていたものかと思えたが、その若武者が平敦盛だった・・という話で熊谷直実は知られる・・が、熊谷直実はその後、法然の弟子となって念仏の行者となったらしい。
  家永三郎『日本文化史』(1959.岩波新書)には、
《 『平家物語』には、平重盛が藤原基房の行列に加えた暴行をその父 清盛のしたことにしてしまい、重盛を徹底的な善人、清盛を徹底的な悪人にしたてようとするごとき、文芸的なデフォルメが行われているにもかかわらず、根本的な真実の把握という点では、きわめて透徹したリアリズムがつらぬかれているともいえるのであって、『平家物語』の魅力はその点にかかることが大きいのである。》
と書かれているように、『平家物語』に書かれていることは、すべて事実というわけでもないようだが、熊谷直実が法然の弟子となって念仏の行者になったのは間違いないらしい。・・私が子供の頃に読んだ『少年少女 世界の偉人伝 小学校2年用』だったかの本には「父を諫める平重盛」という稿があったが、平重盛が「偉人」になっていたのは『平家物語』の影響か・・。もっとも、うちの父親なら「父を諫める」なんてことをしようとしても、「何でも服従、わしには服従♪ 何でも何でも服従服従、わしには何でも、何でもわしには♪」と言ってきかなかったけれども・・( 一一)
  家永三郎『日本文化史』(1959.岩波新書)には、
《 こうした社会的要求にこたえて、まず新仏教の第一声をあげたのが、法然(源空 げんくう)であったのである。
  法然は、末法の世においては、他の救いの道がなく、ただ口に阿弥陀仏の名を称えることによってのみ往生できるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを説き、浄土宗という宗派を新しく開いた。もちろんかれは念仏によって、あらゆる人々を救おうとしたのであるが、とくに、造寺造仏の財力をもたぬ「貧窮困乏の類」や、学問を修める余裕のない「愚痴下智(げち)」の者にも往生の道を開くために、誰にもできる口称(くしょう)念仏の行を仏が示したのであると力説することによって、民衆仏教の旗じるしを高くかかげえているのは、これまでの貴族仏教には全然見られなかった画期的現象であった、といわねばならない。法然の傘下に、皇族・公家貴族のほか、熊谷直実(くまがいなおざね)・宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)らの武士から、交野四郎(かたのしろう)のような強盗の張本、室泊(むろのとまり)の遊女のような最下層の人々まで、あらゆる階級の人々が集まってきたのも、専修念仏の教えが階級の差別を否定した万民平等の福音であったればこそであろう。》
と述べられている。
日本文化史 第2版 (岩波新書 黄版 187) - 家永 三郎
日本文化史 第2版 (岩波新書 黄版 187) - 家永 三郎
  村上重良『日本の宗教』( 岩波ジュニア新書)には、
《 浄土宗の祖となった法然(1133ー1212)は、美作(みまさか)国の豪族の家に生れ、同じ荘園の武士の夜討ちにあって殺された父の最期のことばに従って、父の菩提をとむらうために仏門に入りました。法然は、比叡山にのぼり、浄土教の学僧として聞こえた叡空(えいくう)に学び、法然房源空(げんくう)と名のりました。やがて法然は、その学識で「知恵第一の法然房」とよばれるようになりました。院政末期の比叡山では、僧たちは権力者のための加持祈祷に日をおくり、僧兵たちは力をたのんで平安京を脅かしていました。その中で法然は、ひたすら浄土の信仰を求めつづけ、念仏を行ずることによってのみ、阿弥陀仏の救いにあずかることができるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の信仰に到達しました。
  法然は、1175(安元元)年、比叡山を去って、京都東郊の吉水(よしみず)に住み、さまざまな身分の人びとに専修念仏を説きました。こうして浄土宗をひらいた法然は、学徳のほまれの高い僧であったことから、後白河法皇や摂政九条兼実のような有力者の帰依を受けました。
  それまでの浄土教では、現世をいとい来世のしあわせを願う逃避的な傾向が強かったうえ、むずかしい教学を学び、さまざまな行と結びついたきびしい修行をし、多くの財物を布施することが必要とされていました。法然は、念仏以外の行や複雑な教学を、阿弥陀仏の救済の本願をはばむものとしてしりぞけ、念仏のみで、あらゆる人間が救われると説きました。
  法然は、九条兼実に求められて『選択(せんじゃく)本願念仏宗』をあらわし、救済の教義を深く展開しました。法然によれば、末法の世に苦しみを背負って生きている、まずしい人、愚かな人、生きるためにやむをえず罪をおかす「悪人」も、武士は武士、農民は農民の日常生活のままで、念仏を唱えることで救われるというのです法然は、女性を差別して事実上、救済からしめ出していた古い仏教のあり方を批判し、説法の座を女性にたいしても完全に開放しました。
  法然は、浄土門以外の教えを聖道門(しょうどうもん)とよんで否定し、僧たちが、口では戒律を尊びながら、退廃した生活をおくっている実態を批判しました。法然の教えは、身分のちがいを超えて老若男女(ろうにゃくなんにょ)からつよい感動をもって迎えられ、専修念仏の教えは近畿から東国にひろがりました。とくに武士の間からは熊谷直実(くまがいなおざね)、宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)、結城朝光(ゆうきともみつ)ら熱心な信者があらわれました。日々、生死の間に身をおいている武士たちは、念仏に新しい救いを見いだしただけでなく、荘園を支配する貴族、天台、真言の寺院、神社などの力や権威とたたかうために、阿弥陀仏のみを信仰するこの一神教的な救済の宗教をすすんで受けいれたのです。
・・・ 》
と書かれています。
日本の宗教: 日本史・倫理社会の理解に (読みなおす日本史) - 重良, 村上
日本の宗教: 日本史・倫理社会の理解に (読みなおす日本史) - 重良, 村上
  
  渡辺照宏『日本の仏教』(1958.岩波新書)には、
《 鎌倉時代に入り、浄土教は法然によってはじめて有力な宗派として成立した。法然の教えた専修念仏唱名念仏「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば誰でもアミダの極楽浄土に往生できるというのである。その説は『観無量寿経』の下品下生の往生を典拠としている。当時は源平の戦乱の世で、生命財産の危険が多かったので、貴族や武士たちはこの救済の教えに喜んで耳を傾けた。
  そののち、法然の浄土宗はいくつかの派にわかれた。その正系と見なされる鎮西派は、13世紀には京都で天皇や貴族の信仰を受けたが、14世紀には江戸に伝通院・増上寺を開き、徳川家の支持によって栄えた。中でも了誉 聖冏(しょうげい)は密教などの規格にならって、五重相伝という儀式を作り、宗派としての体裁を整え、今日の浄土宗の基を築いた。
  法然の弟子のうちで、もっとも特色があるものは親鸞である。彼はどこまでも法然の教えを受けついだと言うが、実はまったく新しい境地を開拓した。・・・
 ・・・
  法然の孫弟子の一人に師事した一遍はまったく別の行き方をした。一遍はむしろむかしの空也上人にならって、民衆のあいだに念仏をひろめた。その足跡はひろく全国におよび、十六年のあいだに二十五万余人の入信者を記録している。そのほとんどすべては一般の民衆であった。むずかしい理屈をはなれ、空也にならって踊り念仏をひろめた。全国に念仏が普及した功績の大半は、一遍を開祖とする歴代の遊行(ゆぎょう)上人に帰せられるとも言われる。・・・・ 》
日本の仏教 (岩波新書) - 渡辺 照宏
日本の仏教 (岩波新書) - 渡辺 照宏

  熊谷直実と平敦盛との話は、いったいどこまで本当のことなのかわからないが、熊谷直実が一の谷の戦いの後、法然を訪ね、念仏の信者になったというのはたしからしい。
※ ウィキペディアー熊谷直実 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F

  総門より手前に光明寺の起こりについて書かれた説明書きが立っています。
《 寿永3年(1184年)〔「いい国(1192)を築こう、源頼朝」鎌倉幕府 設立の8年前〕、源平の一の谷の合戦。関東一の剛の者と呼ばれた熊谷次郎直実は、源義経率いる奇襲部隊に所属し、戦に臨んでいました。この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平敦盛(たいらのあつもり)(平清盛の甥・当時16歳)を呼び止め、その首を討ち取ります。しかし、自分の息子ほどの年齢の若武者を殺めたことで、直実は悔恨の念と世の無常を感じることになります。
  建久4年(1193年)〔「いい国(1192)を築こう、源頼朝」鎌倉幕府 設立の1年後〕、直実は犯した罪を償うために武士を捨て、東山吉水の法然上人を訪ねて仏門に入ります(法名・法力房蓮生 ほうりきぼうれんせい)。 建久9年(1198年)〔「いい国(1192)を築こう、源頼朝」鎌倉幕府 設立の6年後〕、修業を経た蓮生法師は、喧騒の吉水を離れ、静かに念仏を唱えられる地を求めて、ここ粟生(あお)の地に寺を建立します。そして、法然上人を招いて落慶法要を行い、上人を開山第1世、自らを第二世とし、上人から「念仏三昧院 ねんぶつざんまいいん」の寺号を頂きました。これが光明寺の発祥です。》
と書かれています。
  ウィキペディアー熊谷直実 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F によると、熊谷直実は名前の通り、埼玉県熊谷市の出身だったらしいが、埼玉県にではなく、京都府長岡京市の粟生に念仏三昧院を設けたらしい。


〔C〕法然の遺骨
  熊谷直実(法力房蓮生)が長岡京市の粟生に念仏三昧院を設けた・・という話が書かれた後に、
《 法然上人は建暦2年(1212年)に亡くなりました。晩年は、奈良や比叡山の古い教団から迫害を受けていたといいます。死後の嘉禄3年(1227年)、比叡山の僧徒が、東山大谷の上人の墓を暴き、遺骸を鴨川に流そうと企てます。この企てを知った弟子達は、密かに遺骸を太秦の西光寺(さいこうじ)に移しました
  翌 安貞2年(1228年)、上人の石棺が光明を放ち、粟生の地を照らすという不思議な事が起こったため、遺骸をこの地に移し、火葬にして裏山に御廟を立てました。この時の奇瑞にちなみ、念仏三昧院は四条天皇より「光明寺」の寺額を賜り、以後、光明寺と呼ばれるようになりました。》
と書かれていて、
  森谷 尅久 監修・京都商工会議所編『改訂版 京都観光文化検定公式テキストブック』(2007.8版。淡交社)には、
《 粟生光明寺(あおこうみょうじ)(長岡京市粟生西条内)
 ・・安貞2年(1228)、広隆寺の塔頭 来迎(らいこう)坊にあった法然の棺から発した瑞光に従い、弟子たちが法難を避けて粟生の地に遺骸を移して荼毘に付した。その遺骨は境内の御本廟に祀られ現在に至る。・・・》
と書かれており、どうも、吉水から太秦のあたりに移して、そこからさらに長岡京市の粟生に移したというのはわかったのですが、「太秦の西光院(さいこういん)」なのか「広隆寺の塔頭 来迎坊」なのか・・。ともかく、そのどちらかに移して、そこから長岡京市の粟生に移したのでしょう。
新版 京都・観光文化検定試験公式テキストブック -  , 森谷 尅久, 京都商工会議所
新版 京都・観光文化検定試験公式テキストブック -  , 森谷 尅久, 京都商工会議所

  そうかあ~あ、長岡京市の光明寺というのは、法然の遺骨を御廟で祀っている由緒あるお寺なんだあ~あ・・・と思ったのですが、しかし、ここで、ふと考えるのです。あれ、法然の遺骨って知恩院で祀られてなかったっけ? ・・・と。

  知恩院(華頂山 知恩教院 大谷寺)に行くと、御影堂より東、山側に御廟がありますよね・・。知恩院HP の「知恩院の建造物 御廟」
には、
《 法然上人のご遺骨をご奉安する廟堂。方三間の宝形造本瓦葺で、周囲には唐門のある玉垣がめぐらされています。法然上人は建暦2年(1212)、この地にあった大谷の禅房でご入滅されましたが、その後、門弟たちによって廟堂が建てられ、ご遺骨がご奉安されました。現在の御廟は、慶長18年(1613)常陸国土浦藩主 松平伊豆守信一の寄進を得て改築されたものです。》
と書かれているのです。ありぁ?
※ 知恩院HP 境内地図 https://www.chion-in.or.jp/guide/
知恩院の建造物 御廟(京都府指定有形文化財)https://www.chion-in.or.jp/highlight/building/gobyo.php

  浄土真宗でも、本願寺派は親鸞の廟所を大谷本廟、大谷派は大谷祖廟で祀っていますが、これは、一度、知恩院の南のあたりに埋葬したものの、江戸時代に徳川家が浄土宗だったこともあって浄土宗の力が強くなって知恩院が拡張されて移転させられたことによるものだったと思うのです。だから、遺骨があるわけではなくて、親鸞を弔う場とでもいった場所が本願寺派の大谷本廟と大谷派の大谷祖廟と2か所あるということなのでしょう。それはまだわかるのですが、大谷本廟の北側に「お荼毘所」と言って親鸞の遺骨を火葬した場所というのがあるのですが、ところが、ややこしいことに大谷派では親鸞の遺骨を荼毘にふした場所はそこではなく、別の場所だと言っているらしい。・・なんか、よくわからなくなってきますが、もしかして、法然の遺骨の場所も「浄土宗」(鎮西派)と西山浄土宗の光明寺とで別の場所に葬られたと言っているのだろうか・・・。

  村上重良『日本の宗教』(1981.初版、2009.改版。 岩波ジュニア新書)には、
《 ・・・こののち四年ほど、法然は摂津国にとどまり、1211(建暦元)年、帰京を許されて大谷に住み、念仏の再興を図りましたが、翌年(1212年)、80歳で没しました。専修念仏の禁止と弾圧は、法然の生前に六回にも及びましたが、その死後も念仏への攻撃はやみませんでした。法然の遺体は大谷に葬られましたが、その15年後に、比叡山の僧兵が墓を破壊しようとしたので、あらためて火葬にし、弟子たちに分骨されました弟子の源智(げんち)は、大谷の地に遺骨をおさめ、のちの浄土宗総本山知恩院(ちおんいん)を創建しました
  法然の死後、浄土宗は、教義上の対立から鎮西派(ちんぜいは)、西山派(せいざんは)、長楽寺派(ちょうらくじは)、九品寺派(くほんじは)など15派にわかれ、弾圧を避けるために天台宗との妥協が進みました。・・・》
と書かれており、
  ウィキペディアー法然 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6 を見ると、
《 建暦2年(1212年)1月25日、(法然は)大谷禅房にて死去。享年80(満78歳没)。なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。廟所は大谷禅房の隣(現・知恩院法然上人御廟)に建てられた。》
《 法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。》
とある。
  だから、知恩院が嘘を言っているわけでも光明寺が嘘を言っているわけでもなくて、法然の遺骸は「太秦の西光寺(さいこうじ)」なのか、「嵯峨の二尊院」を経て「太秦の広隆寺境内の塔頭の来迎院」へなのか、ともかく、比叡山に近い吉水から洛西の方に移されて、さらにそれよりも西の長岡京市の粟生の念仏三昧院・光明寺に移されて、そこで荼毘にふされて、そして、知恩院や光明寺などに分骨された・・ということらしい。田中正造翁の遺骨は、栃木県の佐野市の惣宗寺(佐野厄除け大師)・佐野市の田中正造旧宅前・(旧藤岡町の)田中霊祠・館林市だが渡良瀬川の左岸側の救現堂(「現世を救え」から)・埼玉県加須市の北川辺西小学校の5分骨かと思っていたら、ウィキペディアー田中正造 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0 を見ると、さらにもう1か所、足利市の寿徳禅寺の6カ所に分骨されたらしい。
人と思想 50 田中正造 - 布川 清司
人と思想 50 田中正造 - 布川 清司
私の骨なんか、分骨してあげます言うても誰も欲しがらんだろうけれども、田中正造とか法然の遺骨だと分骨してもらいたいという人がいるらしい・・ので、それで、田中正造の遺骨は5分骨だったかと思っていたら6分骨されたそうで、法然は何か所にかわからないが、ともかく、京都市東山区の「浄土宗」総本山の知恩院(華頂山 知恩教院 大谷寺)の御廟と長岡京市の念仏三昧院 光明寺の御本廟とには分骨された・・・ということのようだ。

〔D〕西山(せいざん)派⇒西谷(せいこく)流⇒西山光明寺派→西山浄土宗
  村上重良『日本の宗教』(1981.初版、2009.改版。 岩波ジュニア新書)には、
《 法然の死後、浄土宗は、教義上の対立から鎮西派(ちんぜいは)、西山派(せいざんは)、長楽寺派(ちょうらくじは)、九品寺派(くほんじは)など15派にわかれ、弾圧を避けるために天台宗との妥協が進みました。》
と書かれており、「浄土四流」という4つだけかと思ったらさらに11あって、15派に別れたらしい。法然の弟子の親鸞の浄土真宗・法然の弟子の西山 証空の西山派から出た一遍の時宗はそこに含まれていないとすると、15派+2宗 ということになる・・か。
  渡辺照宏『日本の仏教』(岩波新書)には、
《 (一遍の時宗と)同じ程度の少数派ではあるが注目すべきものに天台真盛(しんぜい)宗がある。これは十五世紀に比叡山で真盛称名念仏と円頓戒との一致を説き実行したことから始まった。法然や親鸞たちの逆を行ったものである。真盛の真剣な努力は後世まで影響をおよぼした。》とある。
  法然の死後、浄土宗は存続のために天台宗と妥協をはかったとも言われるが、天台宗の側でも浄土宗の方に近づく者がいたということ? ・・なのだろうか。しかし、そうであっても、15派+2派+1派 として天台真盛宗を一派として加えるということはしないか・・。

  ウィキペディアー光明寺 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82) には、
《 法然の弟子である西山上人証空西山義の教えを広めていき、浄土宗西山派が成立していくが、その弟子の浄音が証空の教えの上に更に自らの考えをも交えて西谷(せいこく)流を唱えると、光明寺の他に禅林寺(永観堂)も主な拠点として西山義、西谷流の教えを広めた。》
と書かれている。 明治になって、一時、「浄土宗」として全体がまとめられたが、西山(せいざん)派が離脱して、西谷(せいこく)流の「西本山」光明寺・「東本山」禅林寺(永観堂)と深草流の「北本山」誓願寺・「南本山」円福寺の4本山制になり、その後、西山光明寺派・西山禅林寺派・西山深草派の3つに別れたらしいが、誓願寺と円福寺は西山派の中でも深草流で、光明寺と禅林寺は西山派の中でも西谷(せいこく)流というのは、このあたりからか。 戦中、軍部から宗教もまとまるように命令されて西山派は1つになったが、戦後、再び3派に別れた際に、西山禅林寺派・西山深草派と「西山光明寺派」ではなくて「西山浄土宗」という言い方をするようになった、というのは、知恩院の「鎮西派」が単に「浄土宗」を名乗っているからということと、もしかすると、光明寺としては西谷流においては光明寺の方が禅林寺(永観堂)よりも優先的な立場なんだという意識があったのか・・。もしくは、知恩院の「浄土宗」(鎮西派)が「浄土宗鎮西派」とか名乗るのではなく単に「浄土宗」と名のっていることから、「浄土宗西山光明寺派」と名のるのではなく「西山浄土宗」と名のることで「浄土宗」(鎮西派)との違いを明確にしたか、「浄土宗」(鎮西派)と「浄土宗西山光明寺派」では単に「浄土宗」の方が正統派みたいな印象がするから、だから、対等だという意思表示として「西山浄土宗」としたか・・・。

  総門の裏側(内側)(山側)は、↓
DSC02566.JPG

  なお、今回、阪急京都線「長岡天神」駅から歩き、帰りは阪急バスで「光明寺」バス停からJR「長岡京」駅までバスに乗ったのですが、『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)に掲載の「光明寺・長岡天満宮」のところの地図を見て阪急「長岡天神」駅から歩いたのですが、
(1)「駅からバスに乗る」場合は阪急「長岡天神」駅からかJR「長岡京」駅からバスに乗ることになるようですが、
(2) 帰宅後、ヤフー地図を見ると、「駅から歩く」場合は、阪急 京都線「西向日(にしむこう)」駅から光明寺まで歩く方が「長岡天神」駅から歩くよりも近いようで、「西向日」駅の西側に降りて進むと、向日神社があって、西向日駅から向日神社までの距離と同じくらい歩くと赤根天神社にたどりつくようです。 但し、「駅から歩く」場合には「西向日(にしむこう)」駅からの方が光明寺に近いけれども、阪急京都線では「長岡天神」駅は特急が停まりますが、「西向日(にしむこう)」駅は各停しか停まらない・・ということはあるが、特急で長岡天神まで来て、そこから歩くか、そこから「歩く歩道」「エレベーター」に1回乗るように各停に1駅乗って、長岡天神駅より近い所から歩くか・・と考えるなら、今回は長岡天神駅から歩いたが、次回は比較的近い西向日駅からから歩くという選択は考えられます。

  次回https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499986510.html 、総門より中、参道の石段を登っていきます。

  (2023.7.11.)

☆ 長岡京市の光明寺(粟生光明寺)(西山浄土宗 総本山)参拝
1.西山浄土宗の総本山、長岡京市粟生にある光明寺、法然が最初に念仏を説いた地、熊谷直実が念仏三昧院を開いたのが始まり、法然の遺骨を荼毘にふして御本廟に祀る、「京都西山三山」、阪急「長岡天神」駅とJR「長岡京」駅。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499936472.html
2.長岡天神駅よりアゼリア通り・セブン通り・長法寺道を経て「早良親王ゆかり」の乙訓寺近くの「今里」交差点を経て今里大通りより「更ノ町」交差点を左折して光明寺道に。菅原道真・早良親王・明智光秀と恨みをのんで死去した者のゆかりの地。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499948381.html
3.更の町交差点より、赤根公園・赤根天神・大峰山禊所・赤根幼稚園・蓮が糸・光明寺道・光明寺前へ。崖から吊るして「親に孝行するかあ」と脅して言わせるのは愚か、精神的貧困。「わしはあんたに何一つやってもらったことはない」と息子に無理矢理言わそうとする父親、「あんたに世話になることは一切ない」と言って息子の結婚式に出てくれという「さわやかスポーツマン」。高校教師は害がある。「両親が離婚した」は自慢することとは違うやろ( 一一)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499962295.html
4.光明寺前・浄土門根元地・熊谷直実の念仏三昧院・法然の遺骨を荼毘にふして分骨。西谷流から西山浄土宗。総門は1845年、『死に至る病』の4年前、『共産党宣言』の3年前。おまけ「クロちゃん」〔今回〕
5.女人坂から鐘楼・法然像・手水舎・御影堂。「えらい人」像は高い台座に載せないといけないか? 「普通の人と同じ高さで誰もがそばまで行くことができる福沢諭吉像」を「普通の人より高い場所で普通の人間はそばに行けない場所」に移す「自我が確立されている」「福沢精神」とそれに疑問を感じる「自我が確立されていないからわざわざ無理して逆らってそういうことを言うということですね」と「心理学」から「診断」される「受験勉強の悪影響」「思考の硬さが気にかかります」「未成熟」。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499986510.html
6.御影堂・阿弥陀堂。熊谷直実は念仏の信者になったわりにその後も過激? トロッコ列車は警察手帳で乗れるのか? 『観無量寿経』に登場するビンビサーラ王とアジャンタシャトルとヴァイデーヒーの話。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500006097.html
7.保存樹木モミ。「モミの木の歌」は人畜無害化で作成された歌ではなかった。猪・「野生の猿」出没。善良な市民は、「野生の猿」と警察官は眼を見てはいけない。音楽・声楽とコーラスは別物、プロ合唱団と「学校のコーラス部」・「アマチュア合唱団」はレスリングとプロレスの違い以上の違いがある。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500030938.html
8.御影堂から観音堂脇を通り退出。丹波街道の「光明寺」バス停から長岡京駅へ。「わしに孝に、わしに孝に」を説くくだらない『観無量寿経』、森鴎外『青年』『舞姫』を「受験勉強だ。害があるんだ」と否定する慶應内部進学心理学、「何でも日本に持ってくると矮小化される」ことを危惧する者を病気・症候群と「診断」して「治療」しようとする小此木啓吾内部進学精神医学・精神分析学。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500042314.html


☆ 知恩院(華頂山 知恩教院 大谷寺)(京都市東山区)参拝
1.京都駅~京都河原町駅~知恩院新門。関西人を侮辱する東京もん・ぶぶづけ食って帰ろうとする東京もんは無神経。「サービス向上」していないJR。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_4.html
2.新門から三門へ。知恩院のムクロジ。知恩院への経路。鎮西派と西山派。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_6.html
3.「男坂」から御影堂・阿弥陀堂前まで。知恩院の場合、新門⇒三門⇒男坂⇒・・ルートは必ずしも正規ルートではないのではないか。裏口入学て自慢するものではないと思うぞ。ガチンコは裏口八百長野郎のゴルフバッグをかつがされる義務があるのか。「家族の政治学」を理解できない女は高校教諭にならないでもらった方がいい。御影堂と阿弥陀堂の配置、知恩院と西本願寺・東本願寺の違い。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_7.html
4.正面の御影堂・西の空を背にした阿弥陀堂・東山を背にした経蔵。多宝塔・池と橋と樹木と調和した納骨堂。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_8.html
5.宝仏殿・泰平亭。御影堂の前の広場越しに見る御影堂・経蔵・宝仏殿。「ほうじ茶」は「焙じた茶」か「法事の茶」か。「これからは俺がやるんやから」と言って何も法事をしない「さわやかラガーマン」。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_9.html
6.大方丈・唐門・集会堂。その他の堂宇の配置。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_10.html
7.女坂から南門へ。女坂から南門へ。知恩院の場合は「男坂」「女坂」という名称は適切ではないのではないか。「信教の自由」を侵害する深奥山方広寺(静岡県浜松市)は宗教の敵である。「心理学」と「坐禅研修」を従業員に強制する権利は企業経営者・使用者や深奥山方広寺には存在しない。坐禅を理解できていない臨済宗の僧はけっこういるのではないか。イカサマ「心理学」は少なくない。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_11.html
8.知恩院南門から円山公園。よその息子に合わさせようとする親。親に苦労する生徒を苛める高校教諭。あほくさい新聞配達姿の「働く少年の像」。自分の息子になら出さないカネをよその息子に特別献金する親。さきに言ってほしかった「 大学の学費と生活費をシブチンやりたがる親」。自己不一致の親の息子は生贄にされ「外罰的性格」にされる https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_12.html
9.祇園交番・花見小路通・京都色すき家・高瀬川。交番とは市民を守るものか警察が市民を監視する出張所か。交番は独創的なデザインで街の景観に溶け込むものではなく、全国一律のデザインで目立つものであるべきではないか https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202210article_1.html
10.めやみ地蔵 仲源寺(京都市・浄土宗)参拝。息子の眼鏡は「やふいのん、やふいのん」という父親、「眼えなんか、つぶれてもええ」と言う母親。生徒の力にならない・なれない・なる意思がない高校教諭。「子供手当」はホトケの敵。「子供」独善主義者に食い殺された我が子の無念を晴らしてもらうよう水子地蔵尊に参拝 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202210article_2.html 

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