光明寺(京都府長岡京市)参拝【1/8】西山浄土宗の総本山、長岡京市粟生にある光明寺、法然が最初に念仏を説いた地、熊谷直実が念仏三昧院を開いたのが始まり、法然の遺骨を荼毘にふして御本廟に祀る、「京都西山三山」、阪急「長岡天神」駅とJR「長岡京」駅。
[第650回]
西山浄土宗総本山 光明寺(京都府長岡京市)に参拝してきました。 法然の死後、浄土宗は九州の草野氏の庇護を受けた鎮西派・法然の弟子である西山(せいざん)国師 証空の西山派、それに長楽寺派・九品寺派の浄土四流(じょうどしりゅう)と親鸞の浄土真宗に分かれ、それぞれの派はさらに分かれ、西山派の中から一遍の時宗が生れ、江戸時代においては浄土真宗と時宗を別にすると鎮西派の「浄土宗」と浄土宗西山派が存続した。明治になって浄土宗としてひとつになった。
《ウィキペディアー浄土宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97 によると、
《 1876年(明治9年)9月25日 - 浄土宗から西山義が分派し、浄土宗西山派を結成した。この時に浄土宗西山派は西谷流・粟生光明寺が西本山、西谷流・禅林寺が東本山、深草流・誓願寺が北本山、深草流・円福寺が南本山となり、四本山制となる。》
1876年に「浄土宗」から浄土宗西山派が離脱した際に西谷流の西本山・光明寺、東本山・禅林寺と深草州の北本山・誓願寺、南本山・円福寺の四本山制となった、その西谷流の西本山・光明寺が今回、訪問する京都府長岡京市の光明寺である。
《 1919年(大正8年)4月30日 - 浄土宗西山派が粟生光明寺を総本山とする浄土宗西山光明寺派(後の西山浄土宗)、禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派の三つに分裂する。この三つを総称して西山三派という。》
「行く、行く(1919)ベルサイユ」ベルサイユ条約が締結された1919年、浄土宗西山派は3派に分かれた・・というより、深草流は誓願寺を本山とする浄土宗西山深草派になり、西谷流は禅林寺(永観堂)を総本山とする浄土宗西山禅林寺派と長岡京市の光明寺を総本山とする 西山光明寺派 の2つに分かれ、西山派としては深草流の西山深草派と西谷流の西山禅林寺派と西山光明寺派に分かれた、ということのようだ。円福寺は京都市中京区の誓願寺のすぐ南のあたりにあったようだが、愛知県岡崎市にあった妙心寺と「寺号交換」をして岡崎市に移転し、京都市中京区には妙心寺という寺が蛸薬師の隣にあるようだが、現在の妙心寺は規模としては小さい寺で、愛知県岡崎市の円福寺は西山深草派の大本山になっているようだ。
《 1941年(昭和16年) - 日中戦争中の戦時統制によって西山三派が再び合流して浄土宗西山派となる。》
「行くよ、勇んで(1941)、真珠湾」真珠湾攻撃、太平洋戦争開始の1941年、「戦時統制」として、宗教もまとまるように指示されて、西山深草派・西山禅林寺派・西山光明寺派の西山三派は「浄土宗西山派」に再び合流した。
戦後の《1946年(昭和21年)「宗教法人浄土宗」が宗教法人令に基づき設立。
宗教法人浄土宗から、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を本山とする黒谷(くろだに)浄土宗が分派する。》・・が、《 1977年(昭和52年) - 黒谷浄土宗が浄土宗に合流する。》
戦後、《 1947年(昭和22年)12月8日 - 宗教法人浄土宗から、知恩院を本山とする本派浄土宗(後に浄土宗本派に改称)が分派し、「宗教法人本派浄土宗」が宗教法人令に基づき設立。
浄土宗西山派が粟生光明寺を総本山とする西山浄土宗(浄土宗西山光明寺派が改称)、禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派の三つに再び分裂する。》
《1948年(昭和23年) - 西山浄土宗から曼陀羅寺を本山とする浄土宗西山曼陀羅寺派が分派する(1961年・昭和36年、西山浄土宗に合流)。》
曼荼羅寺愛知県江南市にある寺で本堂は国の重要文化財に指定されており、1948年、ポツダム宣言受託の3年後、朝鮮戦争の2年前に西山浄土宗を離脱して西山曼荼羅寺派として分派したが、それから13年後の1961年(昭和36年)、東京オリンピック・東海道新幹線開通・名神高速道路開通・誓願寺の本堂が鉄筋コンクリート造で再建の1964年(昭和39年)の3年前、再び、西山浄土宗に合流したらしい。
《 1950年(昭和25年) - 浄土宗から一心院を本山とする浄土宗捨世派が分派する。》
一心院は京都市東山区にあり、《 知恩院敷地に多くを囲まれるが、同院とは独立した別の寺である。》 《 一心院本堂はちょうど除夜の鐘で有名な知恩院大梵鐘の上段に位置する。一心院の敷地は本堂以外のほとんどが墓地のため、山門に「墓地に付き通行禁止」の看板が掲げられ、軒下には防犯カメラが設置してある。しかし、山門は知恩院の開山時間内は原則的に開放されているため、知恩院を訪れる観光客がしばしば観光スポットと勘違いして一心院の境内に入り込んでしまうことがある。》( 《ウィキペディアー 一心院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BF%83%E9%99%A2 )という寺らしく、《 西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山粟生光明寺)・浄土宗西山禅林寺派(総本山禅林寺)・浄土宗西山深草派(総本山誓願寺)の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山一心院)の勢力も存在する。》(《ウィキペディアー浄土宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97 )とあり、「浄土宗捨世派」《の勢力も存在する》らしい。
《 1952年(昭和27年)4月7日 - 「宗教法人浄土宗本派」(本派浄土宗を改めた)が宗教法人法に基づく規則の認証を受け、設立。
7月25日 - 「宗教法人浄土宗」が宗教法人法に基づく規則の認証を受け、設立。》
《 1962年(昭和37年)3月27日 - 宗教法人浄土宗と宗教法人浄土宗本派の合併が認証され、新しい「宗教法人浄土宗」が設立。》
京都府長岡京市の光明寺は、1876年(明治9年)〔「藩と言わない(1871)、県と言う」廃藩置県の5年後、「岩波(1873)ほど大きくない明六社」明六社設立の3年後、「千島の岩魚ごっそり(1875)」千島樺太交換条約の1年後〕、「浄土宗」から西山派が分派して四本山制をとった時の西本山で、その後、西山派が分派して西山派の西谷流が西山光明寺派と西山禅林寺派に分かれた時の西山光明寺派の総本山。
戦中、1941年(昭和16年)に西山派が合流するが、戦後、1947年(昭和22年)に西山三派は再び分離し、光明寺は西山光明寺派を改称した西山浄土宗の総本山となる。
1948年(昭和23年)、西山浄土宗から曼荼羅寺が西山曼荼羅寺派として西山浄土宗から離脱するが、13年後の1961年(昭和36年)に復帰。
「光明寺」という寺は日本国中にいくつもあり、特に浄土宗には多く、鎌倉市の光明寺は「浄土宗」の大本山で、《1946年(昭和21年)・・・宗教法人浄土宗から、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を本山とする黒谷(くろだに)浄土宗が分派する。》・・が、《 1977年(昭和52年) - 黒谷浄土宗が浄土宗に合流する。》ことになった黒谷(くろだに)の「金戒光明寺」もあり、金戒光明寺は《 浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院、百万遍知恩寺、清浄華院)の一つ》(《ウィキペディアー金戒光明寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%88%92%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA )らしい。 浄土宗の七大本山とは、京都市の京大の近くの百万遍知恩寺・清浄華院と金戒光明寺、東京の増上寺・鎌倉の光明寺と長野市の善光寺の大本願、それに、福岡県久留米市の善導寺らしい。
浄土宗系の寺で有名なところだけでも、
鎮西派の「浄土宗」の大本山の鎌倉市の光明寺
鎮西派の「浄土宗」の大本山で「京都四箇本山」のひとつで、一時「黒谷浄土宗」の本山だった金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)。
それに、今回、訪問する西山浄土宗の総本山である京都府長岡京市の光明寺。
これだけでも3寺ある。
長岡京市の光明寺は「光明寺」と書かれている場合と「粟生光明寺(あおこうみょうじ)」と書かれている場合がある。
『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)には、
《 もみじ参道で有名な西山浄土宗総本山
光明寺 こうみょうじ
西山浄土宗の総本山。法然上人が初めて念仏の教えを説いた「浄土門根源地」に蓮生法師(熊谷直実)が創建した。秋は紅葉が見事な参道を進んだ奥に、御影堂、阿弥陀堂、法然上人御本廟などが建っている。》
《 宝暦3年(1753年)再建の御影堂。法然上人自作と伝わる「張子の御影」をまつる。》
と書かれており、この本では「光明寺」となっている。住所が《 長岡京市粟生西条ノ内26》と記載されており、《「長岡京市粟生」にある光明寺》のようだ。

歩く地図 京都散歩 2024 (SEIBIDO MOOK) - 成美堂出版編集部
浄土宗の寺を巡ると熊谷直実の名前がよく出てくる。熊谷直実というと『平家物語』で、一の谷の合戦の後、須磨の海岸から平家の舟にめがけて去ろうとする若武者がいたのを熊谷直実が呼び止め、組み敷いて首を取ろうと見たところ、まだ十代くらいの若者であり、我が子よりも若いのではないかと思った熊谷直実が殺すに忍びず「かまいませんから、どうぞ行ってください」と逃がそうとしたが、敵に敗れて組み敷かれておきながら助命されるわけにはいかないと若武者は拒み、なんとか説得して逃がそうと直実はするが、やがて、源氏の兵たちがやってくるのがわかり、もはや、逃がすこともあたわず、熊谷直実はやむなく首を取る、思えば、前日の夜、聴こえてきていた笛の音があり、この若武者が吹いていたのか・・とも思えた。まだ十七歳だったかの平 敦盛であった・・・という話が有名だが、熊谷直実はこのことにショックを受けて・・なのかどうかはようわからんが、熊谷直実は法然の浄土宗に帰依するようになったらしい。須磨寺にはその時の熊谷直実と平敦盛を描いた像が建っている。
京都の北東部、大原の三千院の北側の勝林院の脇に「鉈捨ての竹林」というのがあって、法然が誰とだったか仏教の上での討論をおこなうことになり、熊谷直実はもしも法然が敗れることがあれば、この鉈で相手を倒す・・と思って鉈を持って控えていたが、法然が、そのようなことをしてはいけません、その鉈を捨てなさいと言い、討論よりも前に熊谷直実が竹林に持っていた鉈を捨てたという竹林があった。
森谷尅久監修・京都商工会議所編『改訂版 京都観光文化検定試験 公式テキストブック』(2007.8版。淡交社)には、
《 粟生光明寺 あおこうみょうじ (長岡京市粟生西条内)
西山(せいざん)浄土宗の総本山。山号は報国山。院号は念仏三昧院(ねんぶつざんまいいん)。本尊は阿弥陀如来。
法力坊蓮生(熊谷直実)が、法然の勧めにより建久9年(1196)〔「いい国(1192)を築こう、源頼朝」鎌倉幕府成立の4年後〕に念仏三昧院を開いたことに始まる。
本堂(御影 〔みえ〕堂)に法然自作の「張子の御影」を祀る。安貞2年(1228)、広隆寺の塔頭 来迎(らいこう)坊にあった法然の棺から発した瑞光に従い、弟子たちが法難を避けて粟生の地に遺骸を移して荼毘にふした。その遺骨は境内の御本廟に祀られ現在に至る。法然が初めて念仏の教えを説いた「浄土門根元地」として信仰を集めている。》
と書かれている。

新版 京都・観光文化検定試験公式テキストブック - , 森谷 尅久, 京都商工会議所
※ 西山浄土宗 総本山 光明寺 HP https://komyo-ji.or.jp/
ウィキペディアー光明寺(長岡京市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82)
ウィキペディアー光明寺(長岡京市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82) には「正式名」は「報國山 念佛三昧院 光明寺」と書かれており、「別称」として「粟生光明寺(あおこうみょうじ、あおうこうみょうじ)」と書かれている。
光明寺の前の「光明寺」交差点の所に ↓


↑ 右側の石柱には「総本山 光明寺」と書かれていますが、左側の常夜灯の前の看板には「京都 西山三山」と書かれているようですが、「京都 西山三山」とはどこを言うのか。↓

↑ 「京都 西山三山」とは、
真ん中に「総本山 光明寺」と書かれ、
左側に「柳谷観音 揚谷寺(ようこくじ)」
右側に「西国二十番札所 善峰寺(よしみねでら)」
と書かれています。「京都 西山三山」と言うからには 京都の浄土宗西山派の寺3つか?・・と思いませんか。ということは、西山浄土宗の光明寺・浄土宗西山深草派の誓願寺・浄土宗西山禅林寺派の禅林寺(永観堂)の3つか・・と思うと、そうではなくて、光明寺以外の2つは別の寺の名前が書かれています。ということは、西山派の3つではなくて、西山浄土宗の寺3つか・・と思ったのですが、左側の揚谷寺(ようこくじ)は西山浄土宗に属する寺ですが、右側の善峰寺(よしみねでら)は天台宗の単立寺院のようです。
右側の 善峰寺は 森谷尅久監修・京都商工会議所編『改訂版 京都観光文化検定試験 公式テキストブック』(2007.8版。淡交社)にも、『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)にも掲載されています。大原野にあるようです。紛らわしい地名ですが「大原野」は「大原」とはまったく別です。
『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)には、
《 桂昌院が再興した松や花の寺
善峰寺 よしみねでら
西国第20番札所。長元2年(1029)に源算上人が開き、5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が再興した。
樹齢600年の遊龍の松(天然記念物)が枝をのばす境内は、桜・ボタン・ツツジ・サツキ・紫陽花・秋明菊・紅葉など四季折々に美しい。》
《元和7年(1621)に再建された多重塔(重文)》
《幹の左右に長さ37メートルの枝をのばす遊龍の松》
《 西山の山中に立派な伽藍を構える西国20番札所の「松の寺」こと善峰寺・・》
と書かれているが、住所は《京都市西京区大原野小塩町1372》で、長岡京市の光明寺もけっこう駅からあるが、光明寺のさらに西の山の中にあり、「善峰寺」バス停というのがあるようだが、行くのはけっこう大変そう。
森谷尅久監修・京都商工会議所編『改訂版 京都観光文化検定試験 公式テキストブック』(2007.8版。淡交社)には、「京都の寺院」「1 天台宗」のところに、
《 善峰寺 よしみねでら(西京区大原野小塩町)
山号は西山(にしやま)。本尊は十一面千手観音。
源算(げんざん)(恵心僧都源信の弟子)が当地に小堂を建てたことが起こりという。天喜元年(1053)頃にに源算がのちの後三条天皇の皇后の安産を祈願したところ男子(白河天皇)が生まれ、その功績により伽藍を造営。
鎌倉時代には慈円僧正や証空上人が住持を勤め、青蓮院の各法親王が代々住職を務めたため、西山宮(にしやまのみや)門跡と称された。
その後も、源頼朝らの援助を受けて繁栄したが、応仁の乱で衰退。
元禄年間(1688~1704)に桂昌院(徳川綱吉の生母)の寄進によって再興した。
夏季の縁日(五月~十月の第二日曜)に沸かす薬湯(やくとう)風呂は有名。神経痛・腰痛平癒に効能があるとされる。
また境内に長大な枝を延ばす遊龍松は、樹齢六百年とされる天然記念物。
西国三十三観音霊場の第二十番札所。現在は単立寺院。》
善峰寺(よしみねでら)は、浄土宗の西山派でないだけでなく浄土宗でもなく、天台宗の単立寺院だというのですが、「京都 西山三山」の「西山」は西山派のことではなくて京都の西の方の山という意味なのかと思うと、浄土宗の西山派と何の関係もないわけでもなくて、《鎌倉時代には・・証空上人が住持を勤め》たことがあったということですから、浄土宗の西山派との縁もある寺のようです。浄土宗は法然の死後、存続のために天台宗との妥協をはかったそうで、天台宗とはつながりがあるようですし。
揚谷寺(ようこくじ)はこの2冊には掲載されていません。インターネットで検索すると出てきました・・が、揚谷寺は善峰寺よりもさらに行くのは大変そう。
ウィキペディアー揚谷寺 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%B0%B7%E5%AF%BA を見ると、西山浄土宗 に属している寺のようだけれども、本尊は阿弥陀如来ではなくて 十一面千手千眼観音菩薩 らしい。本堂と別に阿弥陀堂があって、《 現在阿弥陀如来立像を納める厨子は、もともとは淀殿が本堂にある本尊のために寄進したものであるが、豊臣家が滅んで徳川家の世になると本堂から阿弥陀堂に移されたものであるという。》。
揚谷寺HP https://yanagidani.jp/ を見ると、
「独鈷水(おこうずい)」と言って、《 811 年弘法大師「空海」が眼病に悩む人々のために霊水にされた、霊験あらたかなる湧き水》があるらしく、西山浄土宗に属している寺だというが、本堂の《ご本尊は古来より眼病に霊あらたかな十一面千手千眼観世音菩薩》らしい。住所は《京都府長岡京市浄土谷堂ノ谷2》で滅茶苦茶山中だが自動車で行く場合は有料の駐車場があるらしい。電車の最寄駅というと阪急京都線「長岡天神」「西山天王山」、JR東海道本線「長岡京」が最寄駅ということになるが近くないようで、駅からのバスというものもないらしく、ハイキングだと思って歩くかタクシーかということになるらしい。
ウィキペディアー光明寺(長岡京市)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82) を見ると、
《 法然上人二十五霊跡第16番 京都洛西観音霊場第7番 西山国師遺跡霊場第13番 》
と書かれています。
「法然上人二十五霊跡」は、ウィキペディアー法然上人二十五霊場 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E9%9C%8A%E5%A0%B4 によると、《 法然上人二十五霊場(ほうねんしょうにんにじゅうごれいじょう)は、浄土宗の開祖である法然ゆかりの寺院を巡る霊場巡拝》で、光明寺が第16番に入っているほか、誓願寺が第20番、大原の勝林院が第21番、百万遍知恩寺が第22番、知恩院が第25番、永観堂禅林寺は「縁故本山」という、なんじゃそりぁ、裏口入学かい・・みたいな名称で入っていて、浄土宗系でない宗派の寺でも、第5番に大阪府箕面市の勝尾寺(高野山真言宗)の二階堂、第6番に大阪市天王寺区の四天王寺(和宗)の阿弥陀堂、第11番に東大寺(華厳宗)の指図堂などが入っている。
「京都洛西観音霊場」は、ウィキペディアー京都洛西観音霊場 によると《京都洛西観音霊場(きょうとらくさいかんのんれいじょう)とは、桂川西岸から西山にかけての地域(旧乙訓郡及び葛野郡に相当)に置かれた観音霊場。三十三番までの札所と番外札所三ヶ所の計36寺院から構成される。洛西三十三観音霊場、また旧称の洛西観音霊場とも呼ばれる。 》。第1番札所が「京都西山三山」でもある大原野の善峰寺、第7番が光明寺で、第9番は光明寺の少し南にある長法寺。
「西山国師遺跡霊場」は、ウィキペディアー西山国師遺跡霊場 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E5%B8%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1%E9%9C%8A%E5%A0%B4 によると、《 西山国師遺跡霊場(せいざんこくしいせきれいじょう)は、西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の浄土宗西山三派の祖で、法然の高弟である証空(西山国師あるいは西山上人ともいう)ゆかりの寺社21箇所を巡る霊場巡拝である。札番付き寺院の数にちなみ、西山国師十六霊場あるいは西山国師十六遺跡霊場とも言い、朱印には西山国師十六霊場と書かれている。》 第1番は寺ではなくて福島県の白河の関で、第6番に愛知県岡崎市の円福寺、第8番に禅林寺(永観堂)、第9番に誓願寺、第11番に京都市伏見区の真宗院(しんじゅいん)、第13番に長岡京市の光明寺が入っているほか、「客番」として神奈川県鎌倉市の鶴ヶ丘八幡宮や長野市の善光寺などが入っている。
1.「報国山 念仏三昧院 光明寺」が「正式名称」で、
2.法然が初めて念仏の教えを説いた「浄土門根元地」、
3.熊谷直実(法力坊蓮生)が、1196年に法然の勧めにより念仏三昧院を開いたのが始まり。
4.1228年、広隆寺の塔頭の来迎坊にあった法然の棺を法難を避けて弟子が長岡京市粟生 の地に移して荼毘にふした。その遺骨は法然上人御本廟に祀られている。
5.「京都 西山三山」と言っており、他の2つは、西山浄土宗の揚谷寺(長岡京市浄土堂)と天台宗の善峰寺(京都市西京区大原野)。揚谷寺は西山浄土宗に属し、善峰寺は天台宗とはいえ、浄土宗西山派の派祖の西山国師証空が住持を勤めたこともある寺らしく、いずれも浄土宗西山派とは縁がある寺だが、「京都 西山三山」は西山派というよりも「京都の西山にある寺」の方の意味か・・。
6.「法然上人25霊跡」16番、
「西山国師 遺跡霊場」13番、
7.「京都洛西観音霊場」7番。
ウィキペディアー光明寺(長岡京市) によると、阿弥陀堂(長岡京市指定有形文化財)の本尊は阿弥陀如来、御影堂(長岡京市指定有形文化財)では法然上人を祀り、観音堂(長岡京市指定有形文化財)が-「京都洛西観音霊場第7番札所」だが、《 札所本尊である千手観音像は京都国立博物館に寄託されているため、普段は無住である京都洛西観音霊場第8番札所の粟生山観音寺の千手観音を替わりに祀っている。この千手観音は正月などの行事の際には粟生山観音寺に戻されている。》そうだ。
美術品としても価値がある仏像は維持して、盗難に遭わないようにしていくために博物館に保存することがよくあることだけれども、しかし、仏像というものはやっぱり、博物館にではなくお寺にあるのが好ましい・・ように思うのだが、京都国立博物館にあるらしい。
「京都洛西観音霊場」巡りでは第7番では京都国立博物館に行って、第8番で長岡京市の光明寺の観音堂に行くべきなのだろうか。どう考えるべきだろう。
京都府長岡京市は大阪府と京都府の境目の京都府で、大阪府三島郡島本町と一部が接していて、阪急京都線・JR東海道本線で移動すると、大阪府三島郡島本町から京都府乙訓郡大山崎町を経て長岡京市になる、京都とはいえ、「ディープな京都」ではなくて「大阪と京都の間みたいな京都」「茨木・高槻の続きみたいな京都府」です。
長岡京市の光明寺に行くには、鉄道の駅としては阪急京都線「長岡天神」が最も近く、次いでJR東海道本線「長岡京市」が近い・・のですが、それほど近くない。「JR 長岡京市駅」から「阪急 長岡天神駅」を経て「光明寺」へ行く阪急バスが走っていて、円弧を描くように走っていて「光明寺」バス停は円弧の真ん中あたりなので、どちら回りのバスに乗っても所要時間は同じくらいなので、どちら回りに乗ってもいいのですが、バスの本数が多くなく、時間によって1時間に1本の時、1時間に2本の時があるというくらいで、必ずしも便利とは言えない。
今回は、行きは阪急「長岡天神」駅から北に進んで、「光明寺通り」という東西の道に出て、光明寺通りを西に進んで光明寺の正面に出るように行き、帰りはそれよりも距離が短い道を通って帰るつもりでしたが、「光明寺」バス停でバスの時刻を見ると、それほど待たないで次のバスが来るようでしたので、「光明寺」バス停から阪急バスに乗って、行きは阪急「長岡天神」駅から行ったので、帰りはJR「長岡京」駅から帰りました。
実際のところ、行き・帰りともに歩くのは大変なので、行きを歩いていったなら、参拝の前にバス停に行ってバスの時刻を確認して、その時刻までに戻ってくるように考えて参拝するのがいいかと思います。 初回の訪問は、お寺の近くの道もある程度、歩いてみたいものですが、二度目以降は、バスで「光明寺」バス停まで行き、帰りもバスで帰ってもいいかと思います。
光明寺まで歩く場合は、阪急「長岡天神」駅からでもけっこうあるので、阪急「長岡天神」駅よりさらに東側にあるJR「長岡京」駅から歩くのはきついと思われます。光明寺に行くのに「駅から歩く」場合は阪急「長岡天神」駅からにした方がいいと思います。
阪急「長岡天神」駅は今では特急停車駅になり、大阪梅田からなら、十三(じゅうそう)・淡路・茨木市・高槻市の次に長岡天神に停まります。 大阪モノレールの沿線からなら「南茨木」で阪急京都線の準急に乗り換えて、茨木市か高槻市で特急に乗り換えることになるかと思います。京都側から行く場合は、特急に乗ると京都河原町・烏丸・桂の次が長岡天神ですから速く行けます。
JR東海道本線「長岡京」駅は各停しか停まらない駅ではあるのですが、1960年代後半、私が子供の頃はJR東海道本線の快速の停車駅は、大阪・新大阪・茨木・高槻・京都で、そのうち、新快速ができて、新快速は大阪ー京都間をノンストップで、そのうち、新大阪にも停まるようになり、高槻にも停まるようになったのですが、それとともに、快速は大阪・新大阪・茨木・高槻市までが快速で、高槻から東はすべての駅に停車するようになり、いわば、区間快速みたいになって長岡京駅にも停まるようになりました。
だから、JR「長岡京」駅は「各停しか停まらない駅」とはいえ、実際には大阪側から行く場合には、大阪・新大阪・茨木・高槻・島本・山崎・長岡京と、阪急の特急とそれほど変わらない停車駅数で行けることになります。京都側からは各停も快速も各停なので、京都・西大路・桂川・向日町・長岡京・・とすべて停まりますが、それほどの距離ではないので、そう苦痛を感じることもないでしょう。
阪急京都線と大阪モノレールは「南茨木」で接続するのに対して、JR東海道本線には大阪モノレールと接続する駅がなく、たとえば、「千里中央」からならば、もしくは「蛍池」「山田」からならば、あるいは京阪本線「門真市」駅からならば阪急京都線を利用する場合は大阪モノレールで「南茨木」乗換ができるのに対して、JR東海道本線を利用する場合は「千里中央」からならば北大阪急行電鉄・大阪メトロ御堂筋線で「新大阪」乗換になるのでJR東海道本線利用の方が遠回りになるので、その分、時間がかかり、又、「蛍池」「山田」からなら「大阪梅田」~「大阪」駅経由になり、京阪本線「門真市」からならば、「京橋」で乗り換えて「大阪」で乗り換えてとなり不便です。京都駅まで行く場合は、新大阪で乗り換えても、新快速は阪急京都線の特急よりも今は速いので、新快速でぶっとばせば京都駅には比較的速く着くのですが、長岡京駅になると新快速は停まらず、高槻から各駅に停車する快速に乗車することになるので、千里中央から行く場合ならば、阪急利用の方が時間は短くすみます。
駅名が「長岡天神」と「長岡京」と微妙に違うのは、阪急「長岡天神」駅から西の方に歩いた所に長岡天神があるから阪急は「長岡天神」で、市の名前が長岡京市で、この付近がかつて、平安京が設営される前に計画された長岡京の一部分にあたるからJRは「長岡京」駅のようです。
今回は阪急京都線「長岡天神」駅 ↓ から歩き、帰りは阪急バスで「光明寺」バス停からJR「長岡京」駅まで行ってJR東海道本線で帰りました。

↑ 阪急京都線「長岡天神」駅。
特急が停車するようになったとはいえ、これぞ特急停車駅て感じでもありません。
むしろ、↓

↑ 各停と「高槻から東は各停になる快速」のみ停車のJR東海道本線「長岡京」駅の方が、駅前にロータリーがあります。
次回 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499948381.html 、阪急京都線「長岡天神」駅から光明寺に向い、アゼリア通り・セブン通り・長法寺道を経て「早良親王ゆかり」の乙訓寺の近くの「今里」交差点より今里大通りを北上して「更ノ町(ふけのまち)」交差点まで。
(2023.7.6.)
☆ 長岡京市の光明寺(粟生光明寺)(西山浄土宗 総本山)参拝
1.西山浄土宗の総本山、長岡京市粟生にある光明寺、法然が最初に念仏を説いた地、熊谷直実が念仏三昧院を開いたのが始まり、法然の遺骨を荼毘にふして御本廟に祀る、「京都西山三山」、阪急「長岡天神」駅とJR「長岡京」駅。〔今回〕
2.長岡天神駅よりアゼリア通り・セブン通り・長法寺道を経て「早良親王ゆかり」の乙訓寺近くの「今里」交差点を経て今里大通りより「更ノ町」交差点を左折して光明寺道に。菅原道真・早良親王・明智光秀と恨みをのんで死去した者のゆかりの地。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499948381.html
3.更の町交差点より、赤根公園・赤根天神・大峰山禊所・赤根幼稚園・蓮が糸・光明寺道・光明寺前へ。崖から吊るして「親に孝行するかあ」と脅して言わせるのは愚か、精神的貧困。「わしはあんたに何一つやってもらったことはない」と息子に無理矢理言わそうとする父親、「あんたに世話になることは一切ない」と言って息子の結婚式に出てくれという「さわやかスポーツマン」。高校教師は害がある。「両親が離婚した」は自慢することとは違うやろ( 一一)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499962295.html
4.光明寺前・浄土門根元地・熊谷直実の念仏三昧院・法然の遺骨を荼毘にふして分骨。西谷流から西山浄土宗。総門は1845年、『死に至る病』の4年前、『共産党宣言』の3年前。おまけ「クロちゃん」。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499970352.html
5.女人坂から鐘楼・法然像・手水舎・御影堂。「えらい人」像は高い台座に載せないといけないか? 「普通の人と同じ高さで誰もがそばまで行くことができる福沢諭吉像」を「普通の人より高い場所で普通の人間はそばに行けない場所」に移す「自我が確立されている」「福沢精神」とそれに疑問を感じる「自我が確立されていないからわざわざ無理して逆らってそういうことを言うということですね」と「心理学」から「診断」される「受験勉強の悪影響」「思考の硬さが気にかかります」「未成熟」。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499986510.html
6.御影堂・阿弥陀堂。熊谷直実は念仏の信者になったわりにその後も過激? トロッコ列車は警察手帳で乗れるのか? 『観無量寿経』に登場するビンビサーラ王とアジャンタシャトルとヴァイデーヒーの話。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500006097.html
7.保存樹木モミ。「モミの木の歌」は人畜無害化で作成された歌ではなかった。猪・「野生の猿」出没。善良な市民は、「野生の猿」と警察官は眼を見てはいけない。音楽・声楽とコーラスは別物、プロ合唱団と「学校のコーラス部」・「アマチュア合唱団」はレスリングとプロレスの違い以上の違いがある。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500030938.html
8.御影堂から観音堂脇を通り退出。丹波街道の「光明寺」バス停から長岡京駅へ。「わしに孝に、わしに孝に」を説くくだらない『観無量寿経』、森鴎外『青年』『舞姫』を「受験勉強だ。害があるんだ」と否定する慶應内部進学心理学、「何でも日本に持ってくると矮小化される」ことを危惧する者を病気・症候群と「診断」して「治療」しようとする小此木啓吾内部進学精神医学・精神分析学。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500042314.html
☆ 神奈川県鎌倉市の光明寺(「浄土宗」大本山)
☆ 「浄土宗」大本山 光明寺(神奈川県 鎌倉市)1~11
「慎腹風呂愚」
1.光明寺は、浄土宗の鎮西派。菊と三つ葉葵の紋が入った総門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_1.html
2.「山門」と桜。鐘楼。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_2.html
3.「大殿」(本堂)と桜。火灯窓。善導大師とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_3.html
4.「大聖閣」と「記主庭園」。景観に隠す建築と新たに創造する建築 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_4.html
5.「開山堂」。「網引地蔵」。地蔵とは。「戦没者碑」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_5.html
6.天照山の展望台から見た山門・大殿と海、「廟所」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_6.html
7.「鎌倉アカデミア」碑。 「『教育』する側」の論理・「される側」の論理 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_7.html
8.2階追焚有浴室と耐力壁配置。自分の都合に合わせ構造基準を変える会社+光明寺前の海 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_8.html
9.コンパネはぬるま湯ではがれる? 釘と接着剤による接合の違い。建築専門学校は役立つか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_9.html
10.「集成材はムク材の1.5倍強い」て誰が言った? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_10.html
11.九品寺・日本基督教団鎌倉教会・「共産党建築」・「警察建築」研究 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_11.html
☆長岡天満宮(長岡京市)4部作
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所)他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
西山浄土宗総本山 光明寺(京都府長岡京市)に参拝してきました。 法然の死後、浄土宗は九州の草野氏の庇護を受けた鎮西派・法然の弟子である西山(せいざん)国師 証空の西山派、それに長楽寺派・九品寺派の浄土四流(じょうどしりゅう)と親鸞の浄土真宗に分かれ、それぞれの派はさらに分かれ、西山派の中から一遍の時宗が生れ、江戸時代においては浄土真宗と時宗を別にすると鎮西派の「浄土宗」と浄土宗西山派が存続した。明治になって浄土宗としてひとつになった。
《ウィキペディアー浄土宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97 によると、
《 1876年(明治9年)9月25日 - 浄土宗から西山義が分派し、浄土宗西山派を結成した。この時に浄土宗西山派は西谷流・粟生光明寺が西本山、西谷流・禅林寺が東本山、深草流・誓願寺が北本山、深草流・円福寺が南本山となり、四本山制となる。》
1876年に「浄土宗」から浄土宗西山派が離脱した際に西谷流の西本山・光明寺、東本山・禅林寺と深草州の北本山・誓願寺、南本山・円福寺の四本山制となった、その西谷流の西本山・光明寺が今回、訪問する京都府長岡京市の光明寺である。
《 1919年(大正8年)4月30日 - 浄土宗西山派が粟生光明寺を総本山とする浄土宗西山光明寺派(後の西山浄土宗)、禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派の三つに分裂する。この三つを総称して西山三派という。》
「行く、行く(1919)ベルサイユ」ベルサイユ条約が締結された1919年、浄土宗西山派は3派に分かれた・・というより、深草流は誓願寺を本山とする浄土宗西山深草派になり、西谷流は禅林寺(永観堂)を総本山とする浄土宗西山禅林寺派と長岡京市の光明寺を総本山とする 西山光明寺派 の2つに分かれ、西山派としては深草流の西山深草派と西谷流の西山禅林寺派と西山光明寺派に分かれた、ということのようだ。円福寺は京都市中京区の誓願寺のすぐ南のあたりにあったようだが、愛知県岡崎市にあった妙心寺と「寺号交換」をして岡崎市に移転し、京都市中京区には妙心寺という寺が蛸薬師の隣にあるようだが、現在の妙心寺は規模としては小さい寺で、愛知県岡崎市の円福寺は西山深草派の大本山になっているようだ。
《 1941年(昭和16年) - 日中戦争中の戦時統制によって西山三派が再び合流して浄土宗西山派となる。》
「行くよ、勇んで(1941)、真珠湾」真珠湾攻撃、太平洋戦争開始の1941年、「戦時統制」として、宗教もまとまるように指示されて、西山深草派・西山禅林寺派・西山光明寺派の西山三派は「浄土宗西山派」に再び合流した。
戦後の《1946年(昭和21年)「宗教法人浄土宗」が宗教法人令に基づき設立。
宗教法人浄土宗から、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を本山とする黒谷(くろだに)浄土宗が分派する。》・・が、《 1977年(昭和52年) - 黒谷浄土宗が浄土宗に合流する。》
戦後、《 1947年(昭和22年)12月8日 - 宗教法人浄土宗から、知恩院を本山とする本派浄土宗(後に浄土宗本派に改称)が分派し、「宗教法人本派浄土宗」が宗教法人令に基づき設立。
浄土宗西山派が粟生光明寺を総本山とする西山浄土宗(浄土宗西山光明寺派が改称)、禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派の三つに再び分裂する。》
《1948年(昭和23年) - 西山浄土宗から曼陀羅寺を本山とする浄土宗西山曼陀羅寺派が分派する(1961年・昭和36年、西山浄土宗に合流)。》
曼荼羅寺愛知県江南市にある寺で本堂は国の重要文化財に指定されており、1948年、ポツダム宣言受託の3年後、朝鮮戦争の2年前に西山浄土宗を離脱して西山曼荼羅寺派として分派したが、それから13年後の1961年(昭和36年)、東京オリンピック・東海道新幹線開通・名神高速道路開通・誓願寺の本堂が鉄筋コンクリート造で再建の1964年(昭和39年)の3年前、再び、西山浄土宗に合流したらしい。
《 1950年(昭和25年) - 浄土宗から一心院を本山とする浄土宗捨世派が分派する。》
一心院は京都市東山区にあり、《 知恩院敷地に多くを囲まれるが、同院とは独立した別の寺である。》 《 一心院本堂はちょうど除夜の鐘で有名な知恩院大梵鐘の上段に位置する。一心院の敷地は本堂以外のほとんどが墓地のため、山門に「墓地に付き通行禁止」の看板が掲げられ、軒下には防犯カメラが設置してある。しかし、山門は知恩院の開山時間内は原則的に開放されているため、知恩院を訪れる観光客がしばしば観光スポットと勘違いして一心院の境内に入り込んでしまうことがある。》( 《ウィキペディアー 一心院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BF%83%E9%99%A2 )という寺らしく、《 西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山粟生光明寺)・浄土宗西山禅林寺派(総本山禅林寺)・浄土宗西山深草派(総本山誓願寺)の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山一心院)の勢力も存在する。》(《ウィキペディアー浄土宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97 )とあり、「浄土宗捨世派」《の勢力も存在する》らしい。
《 1952年(昭和27年)4月7日 - 「宗教法人浄土宗本派」(本派浄土宗を改めた)が宗教法人法に基づく規則の認証を受け、設立。
7月25日 - 「宗教法人浄土宗」が宗教法人法に基づく規則の認証を受け、設立。》
《 1962年(昭和37年)3月27日 - 宗教法人浄土宗と宗教法人浄土宗本派の合併が認証され、新しい「宗教法人浄土宗」が設立。》
京都府長岡京市の光明寺は、1876年(明治9年)〔「藩と言わない(1871)、県と言う」廃藩置県の5年後、「岩波(1873)ほど大きくない明六社」明六社設立の3年後、「千島の岩魚ごっそり(1875)」千島樺太交換条約の1年後〕、「浄土宗」から西山派が分派して四本山制をとった時の西本山で、その後、西山派が分派して西山派の西谷流が西山光明寺派と西山禅林寺派に分かれた時の西山光明寺派の総本山。
戦中、1941年(昭和16年)に西山派が合流するが、戦後、1947年(昭和22年)に西山三派は再び分離し、光明寺は西山光明寺派を改称した西山浄土宗の総本山となる。
1948年(昭和23年)、西山浄土宗から曼荼羅寺が西山曼荼羅寺派として西山浄土宗から離脱するが、13年後の1961年(昭和36年)に復帰。
「光明寺」という寺は日本国中にいくつもあり、特に浄土宗には多く、鎌倉市の光明寺は「浄土宗」の大本山で、《1946年(昭和21年)・・・宗教法人浄土宗から、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を本山とする黒谷(くろだに)浄土宗が分派する。》・・が、《 1977年(昭和52年) - 黒谷浄土宗が浄土宗に合流する。》ことになった黒谷(くろだに)の「金戒光明寺」もあり、金戒光明寺は《 浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院、百万遍知恩寺、清浄華院)の一つ》(《ウィキペディアー金戒光明寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%88%92%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA )らしい。 浄土宗の七大本山とは、京都市の京大の近くの百万遍知恩寺・清浄華院と金戒光明寺、東京の増上寺・鎌倉の光明寺と長野市の善光寺の大本願、それに、福岡県久留米市の善導寺らしい。
浄土宗系の寺で有名なところだけでも、
鎮西派の「浄土宗」の大本山の鎌倉市の光明寺
鎮西派の「浄土宗」の大本山で「京都四箇本山」のひとつで、一時「黒谷浄土宗」の本山だった金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)。
それに、今回、訪問する西山浄土宗の総本山である京都府長岡京市の光明寺。
これだけでも3寺ある。
長岡京市の光明寺は「光明寺」と書かれている場合と「粟生光明寺(あおこうみょうじ)」と書かれている場合がある。
『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)には、
《 もみじ参道で有名な西山浄土宗総本山
光明寺 こうみょうじ
西山浄土宗の総本山。法然上人が初めて念仏の教えを説いた「浄土門根源地」に蓮生法師(熊谷直実)が創建した。秋は紅葉が見事な参道を進んだ奥に、御影堂、阿弥陀堂、法然上人御本廟などが建っている。》
《 宝暦3年(1753年)再建の御影堂。法然上人自作と伝わる「張子の御影」をまつる。》
と書かれており、この本では「光明寺」となっている。住所が《 長岡京市粟生西条ノ内26》と記載されており、《「長岡京市粟生」にある光明寺》のようだ。

歩く地図 京都散歩 2024 (SEIBIDO MOOK) - 成美堂出版編集部
浄土宗の寺を巡ると熊谷直実の名前がよく出てくる。熊谷直実というと『平家物語』で、一の谷の合戦の後、須磨の海岸から平家の舟にめがけて去ろうとする若武者がいたのを熊谷直実が呼び止め、組み敷いて首を取ろうと見たところ、まだ十代くらいの若者であり、我が子よりも若いのではないかと思った熊谷直実が殺すに忍びず「かまいませんから、どうぞ行ってください」と逃がそうとしたが、敵に敗れて組み敷かれておきながら助命されるわけにはいかないと若武者は拒み、なんとか説得して逃がそうと直実はするが、やがて、源氏の兵たちがやってくるのがわかり、もはや、逃がすこともあたわず、熊谷直実はやむなく首を取る、思えば、前日の夜、聴こえてきていた笛の音があり、この若武者が吹いていたのか・・とも思えた。まだ十七歳だったかの平 敦盛であった・・・という話が有名だが、熊谷直実はこのことにショックを受けて・・なのかどうかはようわからんが、熊谷直実は法然の浄土宗に帰依するようになったらしい。須磨寺にはその時の熊谷直実と平敦盛を描いた像が建っている。
京都の北東部、大原の三千院の北側の勝林院の脇に「鉈捨ての竹林」というのがあって、法然が誰とだったか仏教の上での討論をおこなうことになり、熊谷直実はもしも法然が敗れることがあれば、この鉈で相手を倒す・・と思って鉈を持って控えていたが、法然が、そのようなことをしてはいけません、その鉈を捨てなさいと言い、討論よりも前に熊谷直実が竹林に持っていた鉈を捨てたという竹林があった。
森谷尅久監修・京都商工会議所編『改訂版 京都観光文化検定試験 公式テキストブック』(2007.8版。淡交社)には、
《 粟生光明寺 あおこうみょうじ (長岡京市粟生西条内)
西山(せいざん)浄土宗の総本山。山号は報国山。院号は念仏三昧院(ねんぶつざんまいいん)。本尊は阿弥陀如来。
法力坊蓮生(熊谷直実)が、法然の勧めにより建久9年(1196)〔「いい国(1192)を築こう、源頼朝」鎌倉幕府成立の4年後〕に念仏三昧院を開いたことに始まる。
本堂(御影 〔みえ〕堂)に法然自作の「張子の御影」を祀る。安貞2年(1228)、広隆寺の塔頭 来迎(らいこう)坊にあった法然の棺から発した瑞光に従い、弟子たちが法難を避けて粟生の地に遺骸を移して荼毘にふした。その遺骨は境内の御本廟に祀られ現在に至る。法然が初めて念仏の教えを説いた「浄土門根元地」として信仰を集めている。》
と書かれている。

新版 京都・観光文化検定試験公式テキストブック - , 森谷 尅久, 京都商工会議所
※ 西山浄土宗 総本山 光明寺 HP https://komyo-ji.or.jp/
ウィキペディアー光明寺(長岡京市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82)
ウィキペディアー光明寺(長岡京市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82) には「正式名」は「報國山 念佛三昧院 光明寺」と書かれており、「別称」として「粟生光明寺(あおこうみょうじ、あおうこうみょうじ)」と書かれている。
光明寺の前の「光明寺」交差点の所に ↓
↑ 右側の石柱には「総本山 光明寺」と書かれていますが、左側の常夜灯の前の看板には「京都 西山三山」と書かれているようですが、「京都 西山三山」とはどこを言うのか。↓
↑ 「京都 西山三山」とは、
真ん中に「総本山 光明寺」と書かれ、
左側に「柳谷観音 揚谷寺(ようこくじ)」
右側に「西国二十番札所 善峰寺(よしみねでら)」
と書かれています。「京都 西山三山」と言うからには 京都の浄土宗西山派の寺3つか?・・と思いませんか。ということは、西山浄土宗の光明寺・浄土宗西山深草派の誓願寺・浄土宗西山禅林寺派の禅林寺(永観堂)の3つか・・と思うと、そうではなくて、光明寺以外の2つは別の寺の名前が書かれています。ということは、西山派の3つではなくて、西山浄土宗の寺3つか・・と思ったのですが、左側の揚谷寺(ようこくじ)は西山浄土宗に属する寺ですが、右側の善峰寺(よしみねでら)は天台宗の単立寺院のようです。
右側の 善峰寺は 森谷尅久監修・京都商工会議所編『改訂版 京都観光文化検定試験 公式テキストブック』(2007.8版。淡交社)にも、『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)にも掲載されています。大原野にあるようです。紛らわしい地名ですが「大原野」は「大原」とはまったく別です。
『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)には、
《 桂昌院が再興した松や花の寺
善峰寺 よしみねでら
西国第20番札所。長元2年(1029)に源算上人が開き、5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が再興した。
樹齢600年の遊龍の松(天然記念物)が枝をのばす境内は、桜・ボタン・ツツジ・サツキ・紫陽花・秋明菊・紅葉など四季折々に美しい。》
《元和7年(1621)に再建された多重塔(重文)》
《幹の左右に長さ37メートルの枝をのばす遊龍の松》
《 西山の山中に立派な伽藍を構える西国20番札所の「松の寺」こと善峰寺・・》
と書かれているが、住所は《京都市西京区大原野小塩町1372》で、長岡京市の光明寺もけっこう駅からあるが、光明寺のさらに西の山の中にあり、「善峰寺」バス停というのがあるようだが、行くのはけっこう大変そう。
森谷尅久監修・京都商工会議所編『改訂版 京都観光文化検定試験 公式テキストブック』(2007.8版。淡交社)には、「京都の寺院」「1 天台宗」のところに、
《 善峰寺 よしみねでら(西京区大原野小塩町)
山号は西山(にしやま)。本尊は十一面千手観音。
源算(げんざん)(恵心僧都源信の弟子)が当地に小堂を建てたことが起こりという。天喜元年(1053)頃にに源算がのちの後三条天皇の皇后の安産を祈願したところ男子(白河天皇)が生まれ、その功績により伽藍を造営。
鎌倉時代には慈円僧正や証空上人が住持を勤め、青蓮院の各法親王が代々住職を務めたため、西山宮(にしやまのみや)門跡と称された。
その後も、源頼朝らの援助を受けて繁栄したが、応仁の乱で衰退。
元禄年間(1688~1704)に桂昌院(徳川綱吉の生母)の寄進によって再興した。
夏季の縁日(五月~十月の第二日曜)に沸かす薬湯(やくとう)風呂は有名。神経痛・腰痛平癒に効能があるとされる。
また境内に長大な枝を延ばす遊龍松は、樹齢六百年とされる天然記念物。
西国三十三観音霊場の第二十番札所。現在は単立寺院。》
善峰寺(よしみねでら)は、浄土宗の西山派でないだけでなく浄土宗でもなく、天台宗の単立寺院だというのですが、「京都 西山三山」の「西山」は西山派のことではなくて京都の西の方の山という意味なのかと思うと、浄土宗の西山派と何の関係もないわけでもなくて、《鎌倉時代には・・証空上人が住持を勤め》たことがあったということですから、浄土宗の西山派との縁もある寺のようです。浄土宗は法然の死後、存続のために天台宗との妥協をはかったそうで、天台宗とはつながりがあるようですし。
揚谷寺(ようこくじ)はこの2冊には掲載されていません。インターネットで検索すると出てきました・・が、揚谷寺は善峰寺よりもさらに行くのは大変そう。
ウィキペディアー揚谷寺 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%B0%B7%E5%AF%BA を見ると、西山浄土宗 に属している寺のようだけれども、本尊は阿弥陀如来ではなくて 十一面千手千眼観音菩薩 らしい。本堂と別に阿弥陀堂があって、《 現在阿弥陀如来立像を納める厨子は、もともとは淀殿が本堂にある本尊のために寄進したものであるが、豊臣家が滅んで徳川家の世になると本堂から阿弥陀堂に移されたものであるという。》。
揚谷寺HP https://yanagidani.jp/ を見ると、
「独鈷水(おこうずい)」と言って、《 811 年弘法大師「空海」が眼病に悩む人々のために霊水にされた、霊験あらたかなる湧き水》があるらしく、西山浄土宗に属している寺だというが、本堂の《ご本尊は古来より眼病に霊あらたかな十一面千手千眼観世音菩薩》らしい。住所は《京都府長岡京市浄土谷堂ノ谷2》で滅茶苦茶山中だが自動車で行く場合は有料の駐車場があるらしい。電車の最寄駅というと阪急京都線「長岡天神」「西山天王山」、JR東海道本線「長岡京」が最寄駅ということになるが近くないようで、駅からのバスというものもないらしく、ハイキングだと思って歩くかタクシーかということになるらしい。
ウィキペディアー光明寺(長岡京市)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E5%B8%82) を見ると、
《 法然上人二十五霊跡第16番 京都洛西観音霊場第7番 西山国師遺跡霊場第13番 》
と書かれています。
「法然上人二十五霊跡」は、ウィキペディアー法然上人二十五霊場 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E9%9C%8A%E5%A0%B4 によると、《 法然上人二十五霊場(ほうねんしょうにんにじゅうごれいじょう)は、浄土宗の開祖である法然ゆかりの寺院を巡る霊場巡拝》で、光明寺が第16番に入っているほか、誓願寺が第20番、大原の勝林院が第21番、百万遍知恩寺が第22番、知恩院が第25番、永観堂禅林寺は「縁故本山」という、なんじゃそりぁ、裏口入学かい・・みたいな名称で入っていて、浄土宗系でない宗派の寺でも、第5番に大阪府箕面市の勝尾寺(高野山真言宗)の二階堂、第6番に大阪市天王寺区の四天王寺(和宗)の阿弥陀堂、第11番に東大寺(華厳宗)の指図堂などが入っている。
「京都洛西観音霊場」は、ウィキペディアー京都洛西観音霊場 によると《京都洛西観音霊場(きょうとらくさいかんのんれいじょう)とは、桂川西岸から西山にかけての地域(旧乙訓郡及び葛野郡に相当)に置かれた観音霊場。三十三番までの札所と番外札所三ヶ所の計36寺院から構成される。洛西三十三観音霊場、また旧称の洛西観音霊場とも呼ばれる。 》。第1番札所が「京都西山三山」でもある大原野の善峰寺、第7番が光明寺で、第9番は光明寺の少し南にある長法寺。
「西山国師遺跡霊場」は、ウィキペディアー西山国師遺跡霊場 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E5%B8%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1%E9%9C%8A%E5%A0%B4 によると、《 西山国師遺跡霊場(せいざんこくしいせきれいじょう)は、西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の浄土宗西山三派の祖で、法然の高弟である証空(西山国師あるいは西山上人ともいう)ゆかりの寺社21箇所を巡る霊場巡拝である。札番付き寺院の数にちなみ、西山国師十六霊場あるいは西山国師十六遺跡霊場とも言い、朱印には西山国師十六霊場と書かれている。》 第1番は寺ではなくて福島県の白河の関で、第6番に愛知県岡崎市の円福寺、第8番に禅林寺(永観堂)、第9番に誓願寺、第11番に京都市伏見区の真宗院(しんじゅいん)、第13番に長岡京市の光明寺が入っているほか、「客番」として神奈川県鎌倉市の鶴ヶ丘八幡宮や長野市の善光寺などが入っている。
1.「報国山 念仏三昧院 光明寺」が「正式名称」で、
2.法然が初めて念仏の教えを説いた「浄土門根元地」、
3.熊谷直実(法力坊蓮生)が、1196年に法然の勧めにより念仏三昧院を開いたのが始まり。
4.1228年、広隆寺の塔頭の来迎坊にあった法然の棺を法難を避けて弟子が長岡京市粟生 の地に移して荼毘にふした。その遺骨は法然上人御本廟に祀られている。
5.「京都 西山三山」と言っており、他の2つは、西山浄土宗の揚谷寺(長岡京市浄土堂)と天台宗の善峰寺(京都市西京区大原野)。揚谷寺は西山浄土宗に属し、善峰寺は天台宗とはいえ、浄土宗西山派の派祖の西山国師証空が住持を勤めたこともある寺らしく、いずれも浄土宗西山派とは縁がある寺だが、「京都 西山三山」は西山派というよりも「京都の西山にある寺」の方の意味か・・。
6.「法然上人25霊跡」16番、
「西山国師 遺跡霊場」13番、
7.「京都洛西観音霊場」7番。
ウィキペディアー光明寺(長岡京市) によると、阿弥陀堂(長岡京市指定有形文化財)の本尊は阿弥陀如来、御影堂(長岡京市指定有形文化財)では法然上人を祀り、観音堂(長岡京市指定有形文化財)が-「京都洛西観音霊場第7番札所」だが、《 札所本尊である千手観音像は京都国立博物館に寄託されているため、普段は無住である京都洛西観音霊場第8番札所の粟生山観音寺の千手観音を替わりに祀っている。この千手観音は正月などの行事の際には粟生山観音寺に戻されている。》そうだ。
美術品としても価値がある仏像は維持して、盗難に遭わないようにしていくために博物館に保存することがよくあることだけれども、しかし、仏像というものはやっぱり、博物館にではなくお寺にあるのが好ましい・・ように思うのだが、京都国立博物館にあるらしい。
「京都洛西観音霊場」巡りでは第7番では京都国立博物館に行って、第8番で長岡京市の光明寺の観音堂に行くべきなのだろうか。どう考えるべきだろう。
京都府長岡京市は大阪府と京都府の境目の京都府で、大阪府三島郡島本町と一部が接していて、阪急京都線・JR東海道本線で移動すると、大阪府三島郡島本町から京都府乙訓郡大山崎町を経て長岡京市になる、京都とはいえ、「ディープな京都」ではなくて「大阪と京都の間みたいな京都」「茨木・高槻の続きみたいな京都府」です。
長岡京市の光明寺に行くには、鉄道の駅としては阪急京都線「長岡天神」が最も近く、次いでJR東海道本線「長岡京市」が近い・・のですが、それほど近くない。「JR 長岡京市駅」から「阪急 長岡天神駅」を経て「光明寺」へ行く阪急バスが走っていて、円弧を描くように走っていて「光明寺」バス停は円弧の真ん中あたりなので、どちら回りのバスに乗っても所要時間は同じくらいなので、どちら回りに乗ってもいいのですが、バスの本数が多くなく、時間によって1時間に1本の時、1時間に2本の時があるというくらいで、必ずしも便利とは言えない。
今回は、行きは阪急「長岡天神」駅から北に進んで、「光明寺通り」という東西の道に出て、光明寺通りを西に進んで光明寺の正面に出るように行き、帰りはそれよりも距離が短い道を通って帰るつもりでしたが、「光明寺」バス停でバスの時刻を見ると、それほど待たないで次のバスが来るようでしたので、「光明寺」バス停から阪急バスに乗って、行きは阪急「長岡天神」駅から行ったので、帰りはJR「長岡京」駅から帰りました。
実際のところ、行き・帰りともに歩くのは大変なので、行きを歩いていったなら、参拝の前にバス停に行ってバスの時刻を確認して、その時刻までに戻ってくるように考えて参拝するのがいいかと思います。 初回の訪問は、お寺の近くの道もある程度、歩いてみたいものですが、二度目以降は、バスで「光明寺」バス停まで行き、帰りもバスで帰ってもいいかと思います。
光明寺まで歩く場合は、阪急「長岡天神」駅からでもけっこうあるので、阪急「長岡天神」駅よりさらに東側にあるJR「長岡京」駅から歩くのはきついと思われます。光明寺に行くのに「駅から歩く」場合は阪急「長岡天神」駅からにした方がいいと思います。
阪急「長岡天神」駅は今では特急停車駅になり、大阪梅田からなら、十三(じゅうそう)・淡路・茨木市・高槻市の次に長岡天神に停まります。 大阪モノレールの沿線からなら「南茨木」で阪急京都線の準急に乗り換えて、茨木市か高槻市で特急に乗り換えることになるかと思います。京都側から行く場合は、特急に乗ると京都河原町・烏丸・桂の次が長岡天神ですから速く行けます。
JR東海道本線「長岡京」駅は各停しか停まらない駅ではあるのですが、1960年代後半、私が子供の頃はJR東海道本線の快速の停車駅は、大阪・新大阪・茨木・高槻・京都で、そのうち、新快速ができて、新快速は大阪ー京都間をノンストップで、そのうち、新大阪にも停まるようになり、高槻にも停まるようになったのですが、それとともに、快速は大阪・新大阪・茨木・高槻市までが快速で、高槻から東はすべての駅に停車するようになり、いわば、区間快速みたいになって長岡京駅にも停まるようになりました。
だから、JR「長岡京」駅は「各停しか停まらない駅」とはいえ、実際には大阪側から行く場合には、大阪・新大阪・茨木・高槻・島本・山崎・長岡京と、阪急の特急とそれほど変わらない停車駅数で行けることになります。京都側からは各停も快速も各停なので、京都・西大路・桂川・向日町・長岡京・・とすべて停まりますが、それほどの距離ではないので、そう苦痛を感じることもないでしょう。
阪急京都線と大阪モノレールは「南茨木」で接続するのに対して、JR東海道本線には大阪モノレールと接続する駅がなく、たとえば、「千里中央」からならば、もしくは「蛍池」「山田」からならば、あるいは京阪本線「門真市」駅からならば阪急京都線を利用する場合は大阪モノレールで「南茨木」乗換ができるのに対して、JR東海道本線を利用する場合は「千里中央」からならば北大阪急行電鉄・大阪メトロ御堂筋線で「新大阪」乗換になるのでJR東海道本線利用の方が遠回りになるので、その分、時間がかかり、又、「蛍池」「山田」からなら「大阪梅田」~「大阪」駅経由になり、京阪本線「門真市」からならば、「京橋」で乗り換えて「大阪」で乗り換えてとなり不便です。京都駅まで行く場合は、新大阪で乗り換えても、新快速は阪急京都線の特急よりも今は速いので、新快速でぶっとばせば京都駅には比較的速く着くのですが、長岡京駅になると新快速は停まらず、高槻から各駅に停車する快速に乗車することになるので、千里中央から行く場合ならば、阪急利用の方が時間は短くすみます。
駅名が「長岡天神」と「長岡京」と微妙に違うのは、阪急「長岡天神」駅から西の方に歩いた所に長岡天神があるから阪急は「長岡天神」で、市の名前が長岡京市で、この付近がかつて、平安京が設営される前に計画された長岡京の一部分にあたるからJRは「長岡京」駅のようです。
今回は阪急京都線「長岡天神」駅 ↓ から歩き、帰りは阪急バスで「光明寺」バス停からJR「長岡京」駅まで行ってJR東海道本線で帰りました。
↑ 阪急京都線「長岡天神」駅。
特急が停車するようになったとはいえ、これぞ特急停車駅て感じでもありません。
むしろ、↓
↑ 各停と「高槻から東は各停になる快速」のみ停車のJR東海道本線「長岡京」駅の方が、駅前にロータリーがあります。
次回 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499948381.html 、阪急京都線「長岡天神」駅から光明寺に向い、アゼリア通り・セブン通り・長法寺道を経て「早良親王ゆかり」の乙訓寺の近くの「今里」交差点より今里大通りを北上して「更ノ町(ふけのまち)」交差点まで。
(2023.7.6.)
☆ 長岡京市の光明寺(粟生光明寺)(西山浄土宗 総本山)参拝
1.西山浄土宗の総本山、長岡京市粟生にある光明寺、法然が最初に念仏を説いた地、熊谷直実が念仏三昧院を開いたのが始まり、法然の遺骨を荼毘にふして御本廟に祀る、「京都西山三山」、阪急「長岡天神」駅とJR「長岡京」駅。〔今回〕
2.長岡天神駅よりアゼリア通り・セブン通り・長法寺道を経て「早良親王ゆかり」の乙訓寺近くの「今里」交差点を経て今里大通りより「更ノ町」交差点を左折して光明寺道に。菅原道真・早良親王・明智光秀と恨みをのんで死去した者のゆかりの地。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499948381.html
3.更の町交差点より、赤根公園・赤根天神・大峰山禊所・赤根幼稚園・蓮が糸・光明寺道・光明寺前へ。崖から吊るして「親に孝行するかあ」と脅して言わせるのは愚か、精神的貧困。「わしはあんたに何一つやってもらったことはない」と息子に無理矢理言わそうとする父親、「あんたに世話になることは一切ない」と言って息子の結婚式に出てくれという「さわやかスポーツマン」。高校教師は害がある。「両親が離婚した」は自慢することとは違うやろ( 一一)https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499962295.html
4.光明寺前・浄土門根元地・熊谷直実の念仏三昧院・法然の遺骨を荼毘にふして分骨。西谷流から西山浄土宗。総門は1845年、『死に至る病』の4年前、『共産党宣言』の3年前。おまけ「クロちゃん」。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499970352.html
5.女人坂から鐘楼・法然像・手水舎・御影堂。「えらい人」像は高い台座に載せないといけないか? 「普通の人と同じ高さで誰もがそばまで行くことができる福沢諭吉像」を「普通の人より高い場所で普通の人間はそばに行けない場所」に移す「自我が確立されている」「福沢精神」とそれに疑問を感じる「自我が確立されていないからわざわざ無理して逆らってそういうことを言うということですね」と「心理学」から「診断」される「受験勉強の悪影響」「思考の硬さが気にかかります」「未成熟」。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/499986510.html
6.御影堂・阿弥陀堂。熊谷直実は念仏の信者になったわりにその後も過激? トロッコ列車は警察手帳で乗れるのか? 『観無量寿経』に登場するビンビサーラ王とアジャンタシャトルとヴァイデーヒーの話。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500006097.html
7.保存樹木モミ。「モミの木の歌」は人畜無害化で作成された歌ではなかった。猪・「野生の猿」出没。善良な市民は、「野生の猿」と警察官は眼を見てはいけない。音楽・声楽とコーラスは別物、プロ合唱団と「学校のコーラス部」・「アマチュア合唱団」はレスリングとプロレスの違い以上の違いがある。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500030938.html
8.御影堂から観音堂脇を通り退出。丹波街道の「光明寺」バス停から長岡京駅へ。「わしに孝に、わしに孝に」を説くくだらない『観無量寿経』、森鴎外『青年』『舞姫』を「受験勉強だ。害があるんだ」と否定する慶應内部進学心理学、「何でも日本に持ってくると矮小化される」ことを危惧する者を病気・症候群と「診断」して「治療」しようとする小此木啓吾内部進学精神医学・精神分析学。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/500042314.html
☆ 神奈川県鎌倉市の光明寺(「浄土宗」大本山)
☆ 「浄土宗」大本山 光明寺(神奈川県 鎌倉市)1~11
「慎腹風呂愚」
1.光明寺は、浄土宗の鎮西派。菊と三つ葉葵の紋が入った総門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_1.html
2.「山門」と桜。鐘楼。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_2.html
3.「大殿」(本堂)と桜。火灯窓。善導大師とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_3.html
4.「大聖閣」と「記主庭園」。景観に隠す建築と新たに創造する建築 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_4.html
5.「開山堂」。「網引地蔵」。地蔵とは。「戦没者碑」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_5.html
6.天照山の展望台から見た山門・大殿と海、「廟所」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_6.html
7.「鎌倉アカデミア」碑。 「『教育』する側」の論理・「される側」の論理 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_7.html
8.2階追焚有浴室と耐力壁配置。自分の都合に合わせ構造基準を変える会社+光明寺前の海 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_8.html
9.コンパネはぬるま湯ではがれる? 釘と接着剤による接合の違い。建築専門学校は役立つか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_9.html
10.「集成材はムク材の1.5倍強い」て誰が言った? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_10.html
11.九品寺・日本基督教団鎌倉教会・「共産党建築」・「警察建築」研究 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_11.html
☆長岡天満宮(長岡京市)4部作
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所)他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
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