アジテーターが政治家になったヒトラー・諜報機関員が政治家になったプーチンの暴走は本来でない役割をあてられた者の悲劇か。「世界社会主義」が「世界ロシア主義」への変化を認識できていない人がいるのか。
[第606回]
村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー』(中公新書)は、なかなか面白い。村瀬氏は決してヒトラーが好きではないしヒトラーを擁護しようという気持は毛頭ないが、しかし、ともかく、必死になってヒトラーを悪いやつだ、能無しだと言いまくらないとおれない・・という人もまた、ちょっと違うのではないかと言う。まず、ヒトラーがけしからん人間だったとして、けしからん人間というのは他の国にも他の時代にもいたのだが、そのけしからん人間を政権につけたのは誰なのか。そのけしからん人間に権力を持たせたのは誰なのか。そのけしからん人間を政権につけた者、けしからん人間に権力を持たせた者には責任はないのか、という問題がある。
それから、ヒトラーを必死になって悪いやつだと責める者には、中にはヒトラー1人だけに責任を負わせようとしている者がいるのではないか。ヒトラー以外の者は誰もが被害者だったのか。ヒトラーとともにナチスを運営した人間にも責任があるはずだが、悪いのはヒトラー個人であるということにして責任を逃れようとしている人がいるのではないか。そういったことが述べられている。
又、ヒトラーはもともと美術学校を卒業した者で絵を描いていて、建築が好きだったらしいが、そのあたりについても、美術学校で劣等生だったと一生懸命けなす人がいるが、実際にはヒトラーが描いた絵は購入者がいたらしいが、相当の目利きというような人はヒトラーの絵は買わなかったとも言われるらしいが、しかし、美術学校に行っても「世界的画家」になれる人となれない人ならなれない人の方が圧倒的に多いわけだし、何も必死になって劣等生だったと言わなくても、別にいいのではないか、と。実際に美術学校での成績が良くても悪くても、それは個人的な問題であって、成績が悪かったとしても、学校の成績が悪かった者が政治家としていい成果を出す場合もあるかもしれないし、劣等生だったと必死になって言わなくてもいいではないか、と。
それから、もうひとつ、ナチス政権というのは最初から最後まで「ユダヤ人虐殺」ばっかりやっていたというわけでもなく、第一次世界大戦後、多額の賠償金にあえぐドイツをなんとかしようとしてまったく何もしなかったということではない、福利厚生に力を入れたといったこともあったらしい。だからこそ、ドイツで支持を受けたということも認めて悪いことはないはずなのです。
そして、ここで、私が注目したのは、ヒトラーは最初は自分自身が指導者になるつもりではなかったらしい。ヒトラーのことを「単なるアジテーターだ」「単なるアジテーターでしかない」と言う人がいるが、実はヒトラーは最初は自分自身が政治的指導者になるつもりではなく、ヒトラーが指導者になってもらおうと考えた人がいて、その人物を応援する立場、その人物の名実ともに「アジテーター」をやろうとしていたらしい。選挙参謀のようなものか。そして、ヒトラーはアジテーターとしてはけっこう優秀だったらしい。「ヒトラーなんて、単なるアジテーターでしかない男だった」とか言う人がいるが、もともと、ヒトラーはアジテーターの役割の人間だったようです。
ところが、その人物が政治的指導者としての役割を果たさないことから、アジテーターの役割のはずだったヒトラーが自分で政治的指導者の役をやることになってしまった。もともとは政治的指導者ではなく、政治的指導者を応援するアジテーターの役をやるはずだった男が政治的指導者の役をやることになってしまった・・ということが、ヒトラーとナチス政権がおかしな方向に進む一因だったのかもしれない。

アドルフ・ヒトラー―「独裁者」出現の歴史的背景 (中公新書 478) - 村瀬 興雄
歴史上は、似たことはあるのではないか。「おっさんが大好きな戦国大名の話」なんて持ち出すと「おっさん」になってしまう。中谷彰宏『オヤジにならない60のビジネスマナー』(PHP文庫)では、「オヤジというのは、ある年代のある性別の人のことではなく、オヤジとされるようなことをする人がオヤジなのです」と規定する。その基準からすれば「オヤジは若い人にもいますし女性にもいます」ということになる。「おばはん」「おばたりあん」というのも、その性別のその年代の人が「おばはん」「おばたりあん」ではなく、そう言われるようなことをする人が「おばはん」「おばたりあん」だとも言えます。比較的若い人にも「おばはん」「おばたりあん」はいるのです。

オヤジにならない60のビジネスマナー お客様・女性・部下に愛される具体例 (PHP文庫) - 中谷彰宏
その「オヤジとされる行為」として、私は「何でも野球かゴルフにたとえる」というのがあり、「人物中心の日本史としての『戦国武将のお話』が大好き」というものがあると私は思っている。だから、オヤジにならないために、この2つは避けたいと思ってきたのだが、「野球のたとえ」の方は「日陰の月見草」のじいさんの話とか、けっこう面白いので、ついはまってしまうのだが、「日陰の月見草」のじいさんの話については「オヤジ」的ではないと私は思っている。法隆寺宮大工棟梁だった西岡常一さんが「大工の棟梁というものは大工としての腕がいいだけではだめで、技術も一流、人間としても一流でないといけないと言われた」と西岡常一『木に学べ』(小学館)だったかで述べていたが、そういった話というのは宮大工でない人間が読んでも価値があることだと思うが、野球の話でも野村克也・筑紫哲也『功なき者を生かす』(カッパブックス)とかは、それに通じるものがあり、「オヤジ」的ではないと思っている。
「おっさんが大好きな人物中心の日本史と人物中心の『戦国武将のお話』」については、これは、実際のところ、私は小学校高学年から中学生にかけては嫌いではなかったのだが、高校になって「歴史物語」ではなく「歴史学」の方を学ぶようになって、「歴史学」に比べて「人物中心の歴史」という「歴史に題材をとった物語」というのは価値が低いと思うようになったのだ・・が、職場に「人物中心の日本史」「人物中心の歴史としての戦国武将のお話」が好きなおっさんには、こういうことを言うと怒りよる・・もしくは「共産党」呼ばわりされるので、そういうオヤジどもにはこういうことは言わない方がいい。
2001年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の栃木県南部営業所 佐野展示場にいた「高木のおっさん」(男。当時、50代。最終学歴:高卒)は「俺は戦国武将の話とか好きなんだ」と言っていました。いかにも、好きそうに見えました。「自分がこの武将だったらとか思いながら読むが好きなんだ」と言っていました。いかにも、そんな感じのおっさんでした。あんたが、もしも、戦国時代に生きていたら、どう考えても殿さんにはなってないだろうなあ・・て感じがしましたが、それでも、自分が殿さんになった気分で司馬遼太郎とかそういうあほくさいやつの小説を読んだり、白痴向けのNHK大河ドラマなんて見るのが好きそうでした( 一一) そういうおっさんと一緒にされたくないし、一緒になりたくないので、私は「おっさん向け歴史小説」とか「おっさん向け大河ドラマ」とかが好きではありません。・・それから、北朝鮮の放送で独特の言い回しで時事問題を述べるピンクの色の朝鮮衣装を着たおばさんのことが取り上げられることがありますが(うちの母親に聞くと、戦中の日本の放送もそれに似た感じだったらしいのですが)、「NHKの大河ドラマのナレーターのおっさん」もまた、独特の言い回し・独特の口調というのがありますよね。あれに洗脳されて喜んでるおっさん症候群 てのは気色悪いというのか、自分でそれに気づかないと、はたの者が教えてあげようとしてもききませんから、どうしようもありません。
・・それで、あえて、ここでは「戦国武将の話」をするが、関ケ原の戦いというのは、西軍で実際に戦ったのは石田三成・宇喜多秀家・大谷吉継の隊に、ほかは小西行長隊はどうだったのか、そのくらいで、小早川秀昭がいつから東軍側についていたのか、「裏切った」というけれども、もともと、関ケ原の戦いというのは徳川家康が「豊臣政権の五大老筆頭」の立場で上杉景勝を攻撃しに行った時に一緒についていった者が「東軍」で、それに参加せずに大阪や京都にいて、徳川追討に立ち上がった石田三成や宇喜多秀家らに同行した者が西軍だったので、どっちがどっちに移ったとしても「寝返った」と解釈すべきかどおうかわからない。小学校の5年の時の「社会科」の教科書には「石田三成を中心とする西軍」とか書いてあったと思うのだが、石田三成が中心だったのか? 西軍の「総大将」は誰だったのかというと毛利輝元で、「副大将」が宇喜多秀家だったらしく、結局、その「総大将」は関ケ原の戦いが終わるまで大阪城にいて、関ケ原の戦いが終わるとさっさと両国に帰ってしまった。そして、大きく領土を削減された。アホちゃうか・・とか、毛利輝元は世紀のバカ殿だったのではないかとも言われるらしい。もっとも、毛利輝元は最初から最後まで日和見を続けて、その結果、領国を大幅に削り取られた、日和見やったらそうなるとわかっているのに日和見やって領国を大幅に縮小した・・ということではなく、実際は西軍側で積極的に動いていたという説もあるらしく、よくわからないところもあるようです、又、「三本の矢」の1本の吉川広家は毛利本家の為に働いたのか、自分が徳川方にすり寄りたかっただけなのかもよくわからない。
石田三成が「『豊臣恩顧の大名』に嫌われていた人徳のなさ」が西軍の敗北の原因とかいう人がいるらしいが、石田三成は20万石程度の中大名だったが、羽柴秀吉が近江の国で鷹狩をしていた時に近所の寺に行って「茶を所望」と言うと、小坊主がでてきて最初は大きな椀に冷たい水を持ってきて、次に小さい椀にぬるめの湯を持ってきて、その後、さらに小さい椀に舌が焼けるほど熱い茶を入れて持ってきた、それを見て秀吉が「こいつは使える」と思って取り立てた・・とかいう「ほんまかいやあ」というお話から大名にならせてもらい五奉行の1人にならせてもらったという人間だった。だから、同じように秀吉に取り立ててもらった中大名、加藤清正や福島正則や蜂須賀なんとかさんとか黒田如水とかそういう大名からすると、なんで、石田三成が五奉行でわしは「単なる中大名」やねん・・と思っても不思議はないわけで、秀吉が存命中は「五奉行の石田三成」であっても、宇多天皇から取り立てられて右大臣になった菅原道真とか9代将軍 徳川家重・10代将軍 徳川家治に取り立ててもらって老中・側用人にしてもらった田沼意次と同様、後ろ盾となってくれる存在があってこその存在で、豊臣秀吉という後ろ盾があってこその五奉行だった石田三成が後ろ盾の豊臣秀吉に亡くなられてしまうと、存命中とは事情は変わってくるし、それは「人徳」がどうこういうことでもないだろう。
「戦前型 天皇を中心とする人物中心の日本史」から「天皇を中心とする」という性格を弱めた現在の「人物中心の日本史」たる司馬遼太郎などの「歴史物語」の「戦国武将のお話」の中でも、特に「おっさん的」な司馬遼太郎の歴史物語、司馬遼太郎『関ケ原』(新潮社)では、もしも、徳川家康と戦をすることになったとしても、石田三成が総大将ではだめです・・と石田三成の家臣の島左近が言う場面がある。石田三成もそれは了解していて、前田利家に総大将になってもらうつもりでいた・・ことになっている。「ことになっている」というのは、司馬遼太郎の歴史小説などというものは、俗説をかき集めて集大成したようなものばかりであり、実際に歴史上の検証なんてされていないものが大部分なので、司馬遼太郎の小説に書かれていてもそうだったのかどうかわからないが、実際にそうだった可能性はありそうだ。
豊臣秀吉が他界後、しばらく、「五奉行+五大老第2位 前田利家」対「五大老筆頭 徳川家康」で、けっこう均衡した勢力を保っていた時期があったらしい。ところが、秀吉が他界して半年ほどで前田利家も他界してしまった。前田利家の長男の利長が後を継いだものの、「五大老第2位」ではなく「五大老第5位」に格下げになってしまい、徳川家康から脅しをかけられると「徳川、来るなら来んかい」という態度をとった上杉景勝とは違って、徳川に従う立場を取ってしまった。そこで、徳川家康は石田三成に五奉行を引退するように勧めて石田三成は五奉行から退いた。ここで、徳川家康にすり寄っておけば石田三成は加賀前田家と同じように江戸時代も生き延びて明治維新まで存続したかもしれないが、前田利長や浅野長政のように徳川家康にすりよることができなかったらしい。そして、前田利家のかわりに総大将になってもらうことにした毛利輝元が実は・・バカ殿だった? ・・のかどうかはわからないが、関ケ原までも行かない「総大将」であり、かわりに関ケ原に行った毛利秀元は徳川方についていた吉川広家に止められて参戦もできなかった。関ケ原の戦いの西軍では、(1)豊臣秀頼は関ケ原に来ることはなく、(2)総大将の毛利輝元は最後まで大阪城から動かず、関ケ原に来ることはなく、(3)豊臣秀吉の養子であったことがある、小早川秀昭と副大将の宇喜多秀家とを看板に掲げれば、西軍の豊臣政権としての正当性を主張できるはずだったが、片方の小早川秀昭が東軍側についてしまい、(4)石田三成は西軍の総大将でなく副大将でもなく、五奉行も引退した立場だった。「武断派」だか「武闘派」だか言われて体育会系の運動バカみたいに言われてきた加藤清正は実は領国の熊本では行政手腕はなかなか優れていたらしく、他方で「文治派」と言われた石田三成の軍は関ケ原の戦いでは相当奮戦したらしいが、しかし、総大将でも副大将でもなく関ケ原の戦いの時点では五奉行でもなかった者が「石田三成を中心とする」だったのかどうか。
考えてみれば、石田三成というのは、かわいそうな男だったのかもしれない。豊臣秀吉に仕える文官として能力を発揮した者が、秀吉が他界した後、前田利家を助けて徳川家康に対抗しようとしたら前田利家にも死なれてしまい、前田利家の息子の利長には徳川の側につかれてしまい、さらにかわりに総大将になってもらうことにした毛利輝元には関ケ原までも来てもらえない。豊臣秀吉の息子・・だったのか別の男の子だったのかの秀頼もまた、関ケ原まで来てくれなかった。その結果、もともとは「徳川家康に対抗する西軍の中心人物」の役をやるつもりでなかった男が、結果として「西軍の中心人物」のようになってしまった。もしも、西軍の総大将を相応に務める者がいたならば、その補佐役くらいの立場でかなり優秀な成果を出したかもしれない男が「中心人物なの?」という立場に立たされてしまった悲劇のようなものがあったのかもしれない。
それで、今回、指摘したいと思ったのは、プーチンだ。プーチンも似たところがあるのではないか。プーチンの支持によるウクライナ侵攻について、プーチンはいったい何をしたいのか、どうしたいのか。たぶん、プーチン自身がわかってないのではないか。
ソビエト連邦において、ロシア人以外の民族が不利な扱いを受けてきた、「社会主義だと少数民族が迫害される」とか「慶應タイプ」は言いたがるのです。大学受験の際には私なんかより、はるかに格下の成績しか取っていなかったやつが、なんでこんなやつが大学受けるんだてやつが・・というより、1970年代後半から1980年代前半にかけて慶應大学の経済学部・文学部は入試の科目は数学1・2Bと英語の2科目だけでしたので、「1浪で慶應の経済」のやつとか、「『1浪で慶應の経済』に行ければ最高だが『1浪で慶應の文学部』でもいい」という三流高校卒で高校卒業時に行ける大学なんてろくな所がなかった男が1年浪人して、その間に慶應大の経済学部と文学部の入試科目だけ学習してなんとか合格した、(祝)「1浪で慶應の経済」という最大の目標を見事達成♪ とか、「1浪で慶應の経済」は落ちたが「1浪で慶應の文学部」に合格できたのは御の字も御の字というクロマティ高校卒のやつ・・とかいう「慶應タイプ」「慶應ボーイ」というのは私などとは違って、もともと「世界史」なんて最初からちっとも勉強していませんからね。そういうやつが得意がって言いよるわけです。「社会主義の国になったらソ連のように少数民族が迫害される」と、ふんぞり返って言いよるわけです。「それは違うでしょう」なんてこと言うと、「おまえのような共産党は・・」とか「共産党」と認定されてしまうのです。「慶應タイプ」は大学に入学するまでに「世界史」を勉強してきていませんから、自分たちの妄想が作り上げた世界観の間違いを指摘する者は社会党でも自民党でも「共産党」なのです。そういう人間を「思考が柔軟な慶應ボーイ」とか「慶應の人間」は言うのです。「慶應ボーイ」「慶應タイプ」にとっては小泉信三も福沢諭吉も「共産党」でマックス=ウェーバーだって「共産党」なのです。彼らの頭ではそうなのです。そういう人間を「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神がある」とか「慶應心理学」は言うのです。ほんと、「慶應タイプ」にはうんざりします。ほんと、「慶應の人間」てのはネトウヨと一緒、というよりも、ネトウヨそのもの、まっくろの気色悪い街宣車で軍歌流しながら走っていたおっさんどもと一緒です。慶應という学校はそういう人が主流派になっている学校です( 一一) こういうことを言うと「モラトリアム人間病にかかっている」とか小此木啓吾一派・小此木啓吾信奉者から言われます。「治療」されそうで、怖いこわい怖いこわい怖いこわい怖いこわい・・
「人、悔いなし(1917)、ロシア革命」1917年のロシア革命によってソビエト連邦が誕生したのですが、クリストファー=ヒル『レーニンとロシア革命』(岩波新書)「ソビエト」とはロシア語で評議会の意味で、ソビエト連邦の正式名称の ソビエト社会主義共和国連邦 とは《「評議会によって運営される社会主義国」の連邦》という意味で、「等しい権限を持つ15の社会主義共和国による連邦」であったはずで、ロシア革命以前は「ロシア人以外の諸民族の牢獄」と言われたロシア帝国の状態を改めようとして「等しい権限を持つ15の社会主義共和国による連邦」が作られたのでしたが、そのソビエト連邦においても、ロシア人中心主義はなかなか改まらなかったらしい。「ロシア人以外の諸民族の牢獄」という状態は「慶應ボーイ」(大学入学までに「世界史」をちっとも勉強してきていない人)が主張するような「ロシア革命によって社会主義になったからそうなった」というようなものではなく、ロシア革命以前、ロマノフ朝のロシア帝国にいおいて「ロシア人以外の諸民族の牢獄」と言われる状態であったのであり、ロシア革命によりソビエト連邦を設立した際、その状態を解消しよう・改善しようとした人がいたけれども、十分に改善できていなかった・・というものだったはずで、「慶應ボーイ」「慶應タイプ」(≒ネトウヨ、白痴右翼)の言うことはデタラメ、無茶苦茶なのです・・が彼らに言うと殴りかかられるおそれがあります。そういう気に入らないことを言われると殴りかかるような人間を「慶大生らしい思考の柔軟さ」とか「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神がある」とか「慶應心理学」は「診断」するのです。

レーニンとロシヤ革命 (1955年) (岩波新書) - クリストファー・ヒル, 岡 稔
これを、「慶應タイプ」(≒ネトウヨ)は「社会主義だと民族の差別をするようになるからロシア人以外の民族が虐待されているんだ」と主張するのです。何ら学習していないやつが。大学入試の際の成績などでは私などよりずっと格下だったやつが、慶應大学ではふんぞり返ってこういう口をきくのです。「そうではないですよ。ロシア革命によって『諸民族の牢獄』という状態を改めようとしたけれども、ロシア革命後のソビエト連邦においても必ずしも、ロシア人以外が不利な扱いになっているという状況を十分に改善できていないということであって、社会主義が『ロシア人以外の諸民族の牢獄』にしたというわけではないですよ」などと言おうものなら、「慶應タイプ」は激怒して「なに、おまえ、そういうラディカルな思想の人間なのか」とか「おまえみたいな共産党は就職先ないぞ」とか言われることになるのです。「ラディカル」という言葉と「リベラル」という言葉があり、「慶應の人間」というのは「リベラル」あるいは「実証的態度」のことを「ラディカル」もしくは「共産党」と言い、そして、反動・観念的悪口雑言を「慶應リベラル」と言うのです。「慶應リベラル」とは反動のことです。だから、「慶應リベラル」と称する反動、ネトウヨとは口ききたくないなあ・・と思うようになりました。そういう連中のことを「心理学」では「自我が確立されている」とか「アイデンティティーを持っている」とか「思考が柔軟」とか「独立自尊の精神を持っている」とか「企業はそういう人間を喜ぶ」とか「ギャルにもてもて」とか、言うみたいです( 一一) なんで、そんなのが「自我が確立されている」なの? ・・と思うのですが、うかつにそういうことを言うと「モラトリアム人間病にかかっているから、そういうことを言うということですね」とか、「自我が確立されていたら、そういうことは言わないはずです」とか「受験勉強の悪影響ですね」とかなんとかかんとか言われることになります。慶應の内部進学の学生および教授・助教授は「われわれは受験勉強の悪影響を受けていないから」と言うのですが、「受験勉強の悪影響」を受けていないのではなく、「小学校から高校までの勉強をしてない」のだろうが・・・・と思いますが、慶應という大学はそういう人たちの学校であって、私のような小学校:公立、中学校:公立、高校:公立、大学も国立大学に行くつもりだったものが何の因果か慶應大学に入らされてしまった・・というような人間というのは内部進学の人からすれば「自分たちの家の軒の先っぽの下にお情けで入れてあげてやってる」みたいな感覚ですから、あの学校では公立高校出身者はまともに口きくのはアホです。
そういう「慶應リベラル」とか称しているネトウヨどもはほっといて・・・、ロシア革命の趣旨としてのソビエト連邦というものは「ソビエトという評議会によって運営される等しい権限を持つ15の社会主義国共和国による連邦」であったはずだったので、ロシア人中心主義が改まらなかったとしても、それは「十分に改善できていない」というものであったはずなのです。但し、「十分に改善できていない」ものでも、それが長く続くと「十分に改善できていない」のか、それとも「改善しようとは考えていない」ものなのか、よくわからなくなってきます。
アンドレ=ジッドはもともとは社会主義についてもロシア革命についても好意的に見ていたが、好意的に見ていた人間だからこそ、ロシア革命後のソビエト連邦に招かれたりしたわけだが、そこで、ジッドは「どうも違う」「なにか違う」と気づく。アンドレ=ジッド『ソビエト紀行』(光文社古典新訳文庫)ではジッドが気づいたソビエト連邦の問題点を述べるが「慶應タイプ」(≒ネトウヨ)みたいに理屈もへちまもなく無茶苦茶悪口雑言を浴びせるような態度は取っていない。「彼らも努力している」という点についてはジッドは認めており、ソビエト連邦の運営者が何の努力もしていないとは考えていない。実際、何の努力もしていなかったわけではないでしょう。しかし、どうも、うまくいっていないところが感じられる。たとえば、本来なら3日間かかるものを6時間だか8時間だかできるようにした・・と言われたものがあったが、ジッドはつい思ったことを口にしてしまった。「それは、3日間かかるものを6時間でできるようにしたのではなくて、もともと、6時間でできるものを3日間かけてやっていたのと違うのですか」と。そういうものもあったらしい。

ソヴィエト旅行記 (光文社古典新訳文庫) - Gide,Andr´e, ジッド,アンドレ, 俊宏, 國分
アンドレ=ジッドは「慶應タイプ」(≒ネトウヨ)とは全然違って良心的であり、ともかく社会主義とソビエト連邦に悪口雑言を浴びせようという姿勢はとっていない。だから、アンドレ=ジッドなどは片方でソビエト連邦を批判した人間だとして「慶應タイプ」から喜ばれるだろうが、他方で「慶應タイプ」のような悪口雑言罵詈讒謗をとにかく浴びせるというような姿勢は取らないので、その点でアンドレ=ジッドもまた「慶應タイプ」からすれば「共産党」なのだろう( 一一)
ゼレンスキーが「ソビエト連邦の悪い部分だけを残したのが今のロシア連邦だ」と言っていたと思いますが、そういう面があるのでしょう。1990年から1991年にかけて、ソビエト連邦を構成した15の社会主義共和国が「独立」してソビエト連邦が解消されました。その際、「社会主義から資本制経済への移行」と「15の共和国の独立」が同時におこなわれた。「独立」はロシア共和国もまた「独立」したわけで、エリツィンは「独立」の側だったはずだ。他の14の共和国が「独立」を志向するとして、ロシア共和国が15の共和国の分離・解体を支持するのだろうか・・と思ったが、「独立国家共同体」なるものが「ソビエト連邦」に変わって構成された。しかし、この「独立国家共同体」についての考え方が、ロシア共和国とその他の共和国で認識が違ったのかもしれない。
元外務省の佐藤優 氏の『国家の罠』(新潮文庫)や『憂国のラスプーチン』(小学館)によると、ソビエト連邦解体の際に、モスクワでは3つの派があったらしい。ひとつは
(A) 「社会主義のソビエト連邦を維持しながら改革を進めていこうという人たち」で、ひとつは
(B)エリツィンら「社会主義を改めて資本制経済の国にしていこうとする人たち」で、
(C)もうひとつはその中間で、どちらなのか態度がよくわからない人たち
でゴルバチョフはその中間のようなところにいたらしい。
この頃、ロシアでは社会主義のソビエト連邦を維持しながら改革していこうという立場の人のことを「守旧派」とか「保守派」と言い、資本制経済に改めようとする人たちを「改革派」と言ったりしたので、そこから「保守」と「革新」がどっちがどっちなのか、よくわからないことになった。
もともとは、資本制経済を維持しようという人たちが「保守」で、資本制経済から社会主義経済へ移行させようという人たちが「革新」だったはずなのですが、1990年から1991年にかけてのソビエト連邦崩壊において、用語が逆に使われた。
日本では「保守」という言葉と「反動」という言葉が同じように使われてきたが、それは戦後の日本では反動の政党(要するに、自民党)が「保守」を名乗ってきたから、だから保守とは反動のことなんだと誤解を招いたのだ・・と慶應大学の「経済史」の講義の時にU教授が話されたのを聞き、なるほど、そうかと思ったのだ。「本来、保守と反動は別なんだ」と。
まず、「保守」というのは資本制経済を維持した上で民主的な社会を築いていこうというもの、資本制経済を維持した上で個々の問題点を解決していこうとするものを言い、「革新」というのは急激に変えるか徐々に変えるかは別として、究極的には社会主義経済の社会にすることで民主的な社会を築こう、社会主義経済のもとで理想的な社会を築こうとするものを言う・・というのが「保守」と「革新」の定義です。
それでは「反動」はというと、反動というのは「力でもって歴史の歯車を逆にまわそうとする人たち」と『毛沢東語録』には書かれているが、そういうものです。すでにこれは間違いだと否定されて改められたものを復活させてやろうとする者。又、社会は日々刻刻変化していくものであるにもかかわらず、現在の状態を変えてはならないと固執し変化させないようにしようとするのも「反動」です。「保守」は変化しないのではなく、「保守」は資本制経済を維持しながらも変化していくものであり、変化させてなるものかとするのは「反動」であって「保守」ではないのです。「保守」の対語は「革新」ですが、「反動」の対語はというと「進歩」です。ですから、「保守」だけれども「進歩」というものはありうるのです。資本制経済を維持しながら「進歩」していこうという立場ということはありえますし、又、概念として「革新」で「反動」ということもありえます。
この定義づけで考えた時、自民党という政党は戦後、日本において政権を担当することが多かった政党ではあるけれども、必ずしも文化的水準が高い政党ではなく、保守か革新かといえば保守であっても、進歩か反動かというと反動のような性格が強い政党であったのです。そのために、「保守反動」とか言って「保守」と「反動」を一緒だと思う人が少なからずいるのです。かつての慶應義塾の塾長だった近代経済学者の小泉信三は『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫)の序文で、戦後、革新政党が議席を伸ばしたことには理解できるということを述べている。彼ら革新の人間には気概があるのに対して、保守の政党の人間の言うことを聞いていると耳を覆いたくなるようなものがある。小泉信三は近代経済学者で資本制経済を維持しようとする側の人間であったけれども、しかし、革新政党の人間に見られる気概とでもいったものは評価するし、保守の側の人間でも耳を覆いたくなるような下品なことしか言えないような程度の低い人間を支持するつもりはない、と言う。
・・・だいたい、生稲晃子なんて30年前のグラビアタレントで、今ではグラビアタレントでは通じないおばさんになったから国会議員に転職しよう・・なんて、そんなおばさんが統一協会の支持で当選してしまうのだから、「御輿は軽くてバカがいい」とか自民党の誰やらが言ったとかいうけれども、そんなのが議員になるのですからね。
日本では、
保守 ⇔ 革新、 反動 ⇔ 進歩
が対語で、保守=反動 ではなく、革新=進歩 というわけでもなく、
保守で進歩ということもありうることで、革新で反動ということもありうることでした。
しかし、1990年から1991年にかけて、ソビエト連邦が「解体」なのか「解消」なのか「崩壊」なのかした頃、ソビエト連邦では、「社会主義によるソビエト連邦の体制を守りながら改革を進める」という人たちを「守旧派」とか「保守派」と呼び、資本制経済に変えようという人が「改革派」を名乗ったので、そうなると、どっちが「保守」なのか、よくわからなくなってきます。
しかし、社会主義経済から資本制経済への移行なんて、簡単にできるものなのか。
ロシア革命が起こる頃、社会主義とロシア革命に好意的に見ていたが、その後、否定的な評価になった人は何人かいるのですが、精神分析学者でドイツ共産党員だったヴィルヘルム=ライヒは『性道徳の誕生』(大平出版社)の初版では「抑圧的な社会=資本主義社会」「抑圧的でない社会=社会主義社会」として書いていたのが、第3版ではそうではなく、抑圧的な社会とそうでない社会とは資本制経済をとる社会か社会主義経済の社会かとは別の問題としてとらえるようになったようです。ロシア革命後に成立したソビエト連邦を見て、ライヒは「これでは国営資本主義だ」と絶望したらしい。
そして、ソビエト連邦は実際、「国営資本主義」だったのか、1990年から1991年のソビエト連邦解体後、国鉄の「分割民営化」みたいに「分割民営化」された企業が出現したらしい。2000年に、新潟空港からイルクーツク空港までアエロフロートの飛行機に乗って行ったのですが、同乗した人から聞いた話では、その少し前にはアエロフロートを「分割民営化」したバイカル航空という会社が日本とイルクーツクの間の便を飛ばしていたらしいが、アエロフロートを「分割民営化」した会社だったみたいです。国鉄を「分割民営化」してJR8社にするみたいな感じでロシア連邦では「分割民営化」ができたということは、ソビエト連邦というのは、結局、「国営資本主義」だったということなのだろうか。「国営資本主義」だったから、それを「分割民営化」できたということなのか。
社会主義経済の国を資本制経済の国のするということが、はたしてできるのか。その難しさとして、ひとつは資本制という経済体制を倒して社会主義にするという理論はあっても、その逆についてはマルクスもレーニンも想定しておらず、はたして、できるものなのか・・という問題があったけれども、もうひとつの問題として、1917年のロシア革命の時点で、ロシアは資本制経済が成熟していた国ではなく封建制から資本制への移行段階・移行途中の国だったわけで、過去に十分に成熟した資本制経済が存在したわけではない国で、そこに資本制経済の社会を築くということができるのか、という問題もあったわけです。 十分に成熟した資本制経済の国が社会主義経済に行こうしたという社会主義の国が資本制経済に戻すのであれば、社会主義を否定すれば資本制経済になるということもありえたかもしれないが、ロシア革命以前のロシアは十分に資本制経済が発達した国ではなかったので、社会主義を否定したとしても、社会主義を否定した時にどういう社会になるのか、以前に戻すとなると「戻す以前」というものがない。
人間というのは、「知性のたが」をはずしても「理性のたが」というものがその内側にあるはずなのですが、時々、「知性のたが」をはずすと内側に「理性のたが」がない人というのがいますでしょ。資本制経済社会を克服したものとしての社会主義の国であれば、社会主義を否定した時に資本制経済が復活するかもしれないけれども、「封建制から資本制へ移行段階の国」が資本制を飛ばして社会主義になった国が社会主義を否定した場合には、《「知性のたが」をはずしたら「理性のたが」が内側にない人》みたいになってしまうということはないか・・。
ですから、「社会主義を維持しながら改革していこうという人たち」「社会主義経済をやめて資本制経済の国にしようという人たち」と「その中間の曖昧な立場の人たち」のうち、もしも、「社会主義を維持しながら改革していこうという人たち」が実権を握って、折衷的な社会に移行するということなら、それこそ、中国が今でも中国共産党という政党が政権を握っていな実権がら、なんだか社会主義ではなく資本主義みたいな国になっているみたいに、ロシアもそのようになっていったかもしれない。
しかし、そうではなく、「社会主義経済をやめて資本制経済の国にしようという人たち」が実権を握って進んだ。その時、どういう社会にするのかというヴィジョンを明確に持てていたかどうか。
ややこしいのは、「社会主義経済から資本制経済への移行」と「ソビエト連邦の解体」が同時におこなわれた点だ。「ソビエト 社会主義共和国 連邦」を解体して、かわりに「独立国家共同体」を設立するとしたものの、その「独立国家共同体」についての認識は、各共和国で違ったのではないか。
「独立国家共同体」とは「『独立した国家』の共同体」であるから、その共同体にどういう関わり方をするか、それはそれぞれの国家が決めればいいことで、離脱したいと思えばそれも自由であるはずだと考える国家もあれば、ソビエト連邦が「独立国家共同体」に変わったのであって、離脱は認められないと考える者もいたのではないか。
かつて、ソビエト連邦の時代においては、「ハンガリーに行く頃(1956)起こったハンガリー動乱」、1956年の「ハンガリー動乱」の時にはソ連軍がハンガリーに進駐して鎮圧した。 1968年(1964年の東京オリンピックの4年後、1970年の大阪万博の2年前。東大闘争が1968年から1969年。)の「プラハの春」の時にもソ連軍がプラハに戦車隊を派遣して鎮圧した。その際、ブレジネフが言ったのが「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という発言だった。
※ ウィキペディアーハンガリー動乱 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%8B%95%E4%B9%B1
ウィキペディアープラハの春 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%81%AE%E6%98%A5
マルクスが描いた社会主義革命というのは一国で社会主義革命が起こると、それが全世界に広がって全世界が社会主義の国になっていくという構想であったが、1917年のロシア革命の後、いくつかの社会主義国が誕生したけれども全世界が社会主義国にはならなかった。全世界が社会主義国になることで社会主義の理想が達成されるのか、そうではなく、一国もしくは数か国でも社会主義の社会は実現できるのか、世界社会主義と一国社会主義の主張の違いについて、ソビエト連邦では一国社会主義のスターリンがトロツキーを制して政権についたが、しかし、社会主義国の世界がある程度以上広い範囲に存在してこそ成り立つのであり、社会主義国が減っていけば存立の危機に瀕することになる。だから、「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という理屈はまったくありえない理屈ということもなかった。そして、ソビエト連邦が社会主義国のリーダーとしての役割を果たして「社会主義国全体の利益」を守るということも理屈としてありえないことではなかった。
しかし、1990年から1991年にかけてのソビエト連邦の解消の際、「社会主義国としてのソビエト連邦を維持しながら改革していこうという主張」の人たちが政権を握ったなら、その後も「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という主張はありえたが、そうではなく「資本制経済へ移行させて改革していこうという主張」の人たちが政権を握ったので、そうなると「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という大義名分はなくなる。
「ハンガリー動乱」にしても「プラハの春」にしても、ソビエト連邦がハンガリーやチェコの問題に戦車隊まで派遣して口出すのは他国に対する干渉ではないのか、それは「侵略」ではないのか、という問題もあったが、しかし、「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という大義名分はあったが、社会主義をやめた以上はその大義名分は存在しない。
「北方領土」をソビエト連邦が「実効支配」している点にしても「社会主義の国が帝国主義の国に領土を渡すわけにはいかない」という大義名分があったが、社会主義をやめたからにはその大義名分はなくなった。
ゼレンスキーが「ロシア連邦はソビエト連邦の悪い部分だけを残した国だ」と言ったのは、ひとつは社会主義経済のもとで人民が幸福な生活を送れるようにと真剣に考えた人はいたはずだが、ロシア連邦においてはそういった考えはなくなった。かわって資本制経済のもとで理想的な社会を築こうと考えた人はいたのか。そこで、問題となるのがプーチンの出自だ。KGB出身ということは、もともとは諜報機関員であり、経済の専門家ではなかったのだ。
ソビエト連邦の問題点として「ソ連社会帝国主義」と言われた国際的な姿勢があった。第二次世界大戦後、フランスのジャン=ポール=サルトルはソビエト連邦に比較的好意的な姿勢をとっていた時期があったが、ソビエト連邦にまったく問題点がないと思っていたわけではなかったようだが、西側の国の国際的な問題においての姿勢、アメリカ合衆国のベトナムに対する態度・フランスのアルジェリアに対する態度などは支持できないものであり、国際的な問題においてはソ連は抑圧される側についている場合が多かったという点があったようだ。しかし、国際的な問題においては「抑圧される側」につく場合が多かったとはいえ、社会主義であっても帝国主義ではないのかと言われるような態度・姿勢というものも見られた。それは1917年のロシア革命以前のロシア帝国の姿勢がソビエト連邦にも引き継がれてしまったということがあったのではないか。
又、中国では毛沢東が相当長生きしたけれども最後の頃はぼけていたのではないかとも言われるが、ロシアにおいてはロシア革命の後、レーニンが比較的早くに他界してしまい、その後、レーニンが「この人は書記長になるのはふさわしい人ではない」と言っていたスターリンが書記長に就任してしまったということが一因としてあったかと思われるが、スターリン政権のもとでソビエト連邦は国際的に社会主義であったとしても帝国主義のような「社会帝国主義」と言われるような姿勢を取るようになった。
しかし、それでも社会主義であり、マルクス・エンゲルスからレーニンが考えたような社会主義経済のもとでの労働者・人民が誰もが幸福な生活をできる国を世界中に実現しなければならないという思想があった。しかし、その実現は世界のすべての民族が等しく考えて行動してのものであるはずだったが、ロシア人が実行するというような意識がソビエト連邦には定着してしまったのではないか。
第二次世界大戦後の「シベリア抑留」はどういう考えでおこなわれたのか。スターリンは「日本には日露戦争以来の貸しがある」と言っていたというが、「貸しがある」とかそういう考え・思考自体が社会主義の思考ではない。 そもそも、スターリンはマルクスの著作を読んだことがあるのか? ・・とも思えてくる。

シベリア抑留―いま問われるもの (ユーラシア・ブックレット) - 堀江 則雄
『憂国のラスプーチン』ではロシアの政治家が「かつて、ソビエト連邦では『社会主義者には国境はない』と言っていた。嘘だけれどもね」と言う場面がある。実質、嘘だと覚めた意識での発言だったが、物事の考え方として「社会主義者には国境はない」という考え方はある。その大義名分がロシア革命以前のロシア帝国主義と結びつき、ソ連社会帝国主義になり、そして、ソビエト連邦が解体された後においても、「独立国家共同体」をソビエト連邦にかわるものとしてロシア連邦が主導して「国境はない」⇒「すべての国をロシアが指示して動かす」という意識の人がいるのではないか。「日本が言うこときかないなら原爆落としてやれ」と言うような人が。
1980年代前半、どこだったか、社会主義を名乗っていたが、専制的な政治をおこなっていた国について、どこだったか社会主義の国の大統領だかが「狂った男に社会主義が結びつくと、狂った社会主義が実現する」と言ったことがあった。そういう「狂った社会主義」のような思想・主張の人は特定の国にだけいるのではなく、複数の国にいて、そういう人から「ソビエト連邦の悪い部分だけ残した」ように「狂った社会主義」から社会主義だけ取り除いたならば「狂った」の部分だけが残ることになる。
しかし、ロシア連邦が主導して独立国家共同体を動かすとか、あるいは「ひと回り小さなソビエト連邦」である「ロシア連邦」を拡大して、かつてのソビエト連邦に所属していた国をロシア連邦に属する国にしようという主張は、それは1917年のロシア革命の際の「等しい権限を持つ15の社会主義共和国による連邦」というソビエト連邦設立の趣旨にも反するものだ。ところが、今現在のロシア連邦には「ロシア連邦に旧ソ連の国を取り込み、ロシア人による統治を復活させたい」という人がいるのではないか。少なくとも、ベラルーシとウクライナはスラブ人の中でもロシア人と同じ「東スラブ」に属する民族であるということで、ロシア連邦と一緒になるべきだと考える人がロシア連邦にはいるのではないか。しかし、それは両方の国の国民が一緒になりたいと思っている場合に合併するのなら悪くないとしても、片方が一緒になりたくないと言っているのに強引に併合しようというのでは、それは「侵略」であろう。
今のプーチンは「3代目プーチン」だという話がある。中村逸郎教授の話では、初代プーチンが2代目プーチンに変わる時に初代プーチンの妻と離婚して、元新体操のメダリストの誰やらを愛人にしていたのは2代目プーチンで、その元メダリストの女性はしばらく見かけないが、ソチの別荘の地下に遺体があるという説があるらしく、現在のプーチンは3代目プーチンだと言われるらしい。・・ほんまかいやあ・・と思ってインターネットで検索すると、初代プーチンの写真というのが出ていて、たしかに、初代プーチンは今のプーチンのような丸っこい顔をしておらず、もっと細長い精悍な感じの顔つきをしている。柔道家のプーチンは何代目なんだ? 3代目プーチンが柔道家なのか。
「プーチンは3人目」説が正しいなら、「元KGBのプーチン」はどのプーチンなのだろう。
「プーチン3人説」が正しいのかどうかわからないが、KGBという諜報機関出身の人間というのは、普通は表の政治家にはならないものではないかと思うのだが、プーチンは大統領になった。しかし、諜報機関出身だけあって、「ソビエト連邦の悪い部分」として「諜報機関による支配」は実行できても、どういう経済の国にしていくのか、どういう社会にしていくのがいいのかといったヴィジョンというものをプーチン自身が明確に持っていないのではないか。
なおかつ、旧ソビエト連邦の国をロシア連邦に復帰させなければならないという使命感のようなものを元KGBとして持っているのではないのか。

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そのあたりについて、もともと、アジテーターであって自分自身が政治上の指導者になろうという立場ではなく、政治的指導者を応援していこうという立場だったヒトラーが自分自身が政治的指導者の立場につかされてしまったことから、「アジテーターのような政治」をおこなうようになって、そして、最後は崩壊したのと似ているところがあるように思われる。
プーチンもまた、元KGB,元諜報機関員として、政治的経済的ヴィジョンを持つ者を応援するような立場にいたならば、けっこう優秀な人間として成果を出せたのかもしれないが、本来は諜報機関員であるのに自分自身が表の政治家になったというあたりから、政治的ヴィジョン・経済的ヴィジョンを明確に持たない・持てない人間が諜報機関や秘密警察・軍隊の力で支配しようという姿勢になってしまった・・ということはないか。
又、ソビエト連邦が解体されて、資本制経済の社会に変えようとする人が出たとしても、ロシアは資本制経済の国から社会主義に移行したのではなく、封建制から資本制へ移行しかけのような状態の国が社会主義国になった国なので、そういう国から社会主義を取り除いてしまうと、資本制経済の社会ではなく、それ以前の社会のような社会になってしまうおそれがあり、そして、そうなってしまったようなところがあったのではないか。
「おっさん」向けに石田三成も出したけれども石田三成の例はかえって出さない方が良かったかもしれないが、ヒトラーとプーチンとは同じということではないとしても、本来、自分が果たそうとしていた役割とは違う役割をいつのまにかやるようになってしまった男の悲劇とでもいうものが、この2人には共通してあるように思える。
(2022.10.9.)

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彼らは自由だと思っていた: 元ナチ党員十人の思想と行動 - M・マイヤー, 田中 浩, 金井 和子
村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー』(中公新書)は、なかなか面白い。村瀬氏は決してヒトラーが好きではないしヒトラーを擁護しようという気持は毛頭ないが、しかし、ともかく、必死になってヒトラーを悪いやつだ、能無しだと言いまくらないとおれない・・という人もまた、ちょっと違うのではないかと言う。まず、ヒトラーがけしからん人間だったとして、けしからん人間というのは他の国にも他の時代にもいたのだが、そのけしからん人間を政権につけたのは誰なのか。そのけしからん人間に権力を持たせたのは誰なのか。そのけしからん人間を政権につけた者、けしからん人間に権力を持たせた者には責任はないのか、という問題がある。
それから、ヒトラーを必死になって悪いやつだと責める者には、中にはヒトラー1人だけに責任を負わせようとしている者がいるのではないか。ヒトラー以外の者は誰もが被害者だったのか。ヒトラーとともにナチスを運営した人間にも責任があるはずだが、悪いのはヒトラー個人であるということにして責任を逃れようとしている人がいるのではないか。そういったことが述べられている。
又、ヒトラーはもともと美術学校を卒業した者で絵を描いていて、建築が好きだったらしいが、そのあたりについても、美術学校で劣等生だったと一生懸命けなす人がいるが、実際にはヒトラーが描いた絵は購入者がいたらしいが、相当の目利きというような人はヒトラーの絵は買わなかったとも言われるらしいが、しかし、美術学校に行っても「世界的画家」になれる人となれない人ならなれない人の方が圧倒的に多いわけだし、何も必死になって劣等生だったと言わなくても、別にいいのではないか、と。実際に美術学校での成績が良くても悪くても、それは個人的な問題であって、成績が悪かったとしても、学校の成績が悪かった者が政治家としていい成果を出す場合もあるかもしれないし、劣等生だったと必死になって言わなくてもいいではないか、と。
それから、もうひとつ、ナチス政権というのは最初から最後まで「ユダヤ人虐殺」ばっかりやっていたというわけでもなく、第一次世界大戦後、多額の賠償金にあえぐドイツをなんとかしようとしてまったく何もしなかったということではない、福利厚生に力を入れたといったこともあったらしい。だからこそ、ドイツで支持を受けたということも認めて悪いことはないはずなのです。
そして、ここで、私が注目したのは、ヒトラーは最初は自分自身が指導者になるつもりではなかったらしい。ヒトラーのことを「単なるアジテーターだ」「単なるアジテーターでしかない」と言う人がいるが、実はヒトラーは最初は自分自身が政治的指導者になるつもりではなく、ヒトラーが指導者になってもらおうと考えた人がいて、その人物を応援する立場、その人物の名実ともに「アジテーター」をやろうとしていたらしい。選挙参謀のようなものか。そして、ヒトラーはアジテーターとしてはけっこう優秀だったらしい。「ヒトラーなんて、単なるアジテーターでしかない男だった」とか言う人がいるが、もともと、ヒトラーはアジテーターの役割の人間だったようです。
ところが、その人物が政治的指導者としての役割を果たさないことから、アジテーターの役割のはずだったヒトラーが自分で政治的指導者の役をやることになってしまった。もともとは政治的指導者ではなく、政治的指導者を応援するアジテーターの役をやるはずだった男が政治的指導者の役をやることになってしまった・・ということが、ヒトラーとナチス政権がおかしな方向に進む一因だったのかもしれない。

アドルフ・ヒトラー―「独裁者」出現の歴史的背景 (中公新書 478) - 村瀬 興雄
歴史上は、似たことはあるのではないか。「おっさんが大好きな戦国大名の話」なんて持ち出すと「おっさん」になってしまう。中谷彰宏『オヤジにならない60のビジネスマナー』(PHP文庫)では、「オヤジというのは、ある年代のある性別の人のことではなく、オヤジとされるようなことをする人がオヤジなのです」と規定する。その基準からすれば「オヤジは若い人にもいますし女性にもいます」ということになる。「おばはん」「おばたりあん」というのも、その性別のその年代の人が「おばはん」「おばたりあん」ではなく、そう言われるようなことをする人が「おばはん」「おばたりあん」だとも言えます。比較的若い人にも「おばはん」「おばたりあん」はいるのです。

オヤジにならない60のビジネスマナー お客様・女性・部下に愛される具体例 (PHP文庫) - 中谷彰宏
その「オヤジとされる行為」として、私は「何でも野球かゴルフにたとえる」というのがあり、「人物中心の日本史としての『戦国武将のお話』が大好き」というものがあると私は思っている。だから、オヤジにならないために、この2つは避けたいと思ってきたのだが、「野球のたとえ」の方は「日陰の月見草」のじいさんの話とか、けっこう面白いので、ついはまってしまうのだが、「日陰の月見草」のじいさんの話については「オヤジ」的ではないと私は思っている。法隆寺宮大工棟梁だった西岡常一さんが「大工の棟梁というものは大工としての腕がいいだけではだめで、技術も一流、人間としても一流でないといけないと言われた」と西岡常一『木に学べ』(小学館)だったかで述べていたが、そういった話というのは宮大工でない人間が読んでも価値があることだと思うが、野球の話でも野村克也・筑紫哲也『功なき者を生かす』(カッパブックス)とかは、それに通じるものがあり、「オヤジ」的ではないと思っている。
「おっさんが大好きな人物中心の日本史と人物中心の『戦国武将のお話』」については、これは、実際のところ、私は小学校高学年から中学生にかけては嫌いではなかったのだが、高校になって「歴史物語」ではなく「歴史学」の方を学ぶようになって、「歴史学」に比べて「人物中心の歴史」という「歴史に題材をとった物語」というのは価値が低いと思うようになったのだ・・が、職場に「人物中心の日本史」「人物中心の歴史としての戦国武将のお話」が好きなおっさんには、こういうことを言うと怒りよる・・もしくは「共産党」呼ばわりされるので、そういうオヤジどもにはこういうことは言わない方がいい。
2001年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の栃木県南部営業所 佐野展示場にいた「高木のおっさん」(男。当時、50代。最終学歴:高卒)は「俺は戦国武将の話とか好きなんだ」と言っていました。いかにも、好きそうに見えました。「自分がこの武将だったらとか思いながら読むが好きなんだ」と言っていました。いかにも、そんな感じのおっさんでした。あんたが、もしも、戦国時代に生きていたら、どう考えても殿さんにはなってないだろうなあ・・て感じがしましたが、それでも、自分が殿さんになった気分で司馬遼太郎とかそういうあほくさいやつの小説を読んだり、白痴向けのNHK大河ドラマなんて見るのが好きそうでした( 一一) そういうおっさんと一緒にされたくないし、一緒になりたくないので、私は「おっさん向け歴史小説」とか「おっさん向け大河ドラマ」とかが好きではありません。・・それから、北朝鮮の放送で独特の言い回しで時事問題を述べるピンクの色の朝鮮衣装を着たおばさんのことが取り上げられることがありますが(うちの母親に聞くと、戦中の日本の放送もそれに似た感じだったらしいのですが)、「NHKの大河ドラマのナレーターのおっさん」もまた、独特の言い回し・独特の口調というのがありますよね。あれに洗脳されて喜んでるおっさん症候群 てのは気色悪いというのか、自分でそれに気づかないと、はたの者が教えてあげようとしてもききませんから、どうしようもありません。
・・それで、あえて、ここでは「戦国武将の話」をするが、関ケ原の戦いというのは、西軍で実際に戦ったのは石田三成・宇喜多秀家・大谷吉継の隊に、ほかは小西行長隊はどうだったのか、そのくらいで、小早川秀昭がいつから東軍側についていたのか、「裏切った」というけれども、もともと、関ケ原の戦いというのは徳川家康が「豊臣政権の五大老筆頭」の立場で上杉景勝を攻撃しに行った時に一緒についていった者が「東軍」で、それに参加せずに大阪や京都にいて、徳川追討に立ち上がった石田三成や宇喜多秀家らに同行した者が西軍だったので、どっちがどっちに移ったとしても「寝返った」と解釈すべきかどおうかわからない。小学校の5年の時の「社会科」の教科書には「石田三成を中心とする西軍」とか書いてあったと思うのだが、石田三成が中心だったのか? 西軍の「総大将」は誰だったのかというと毛利輝元で、「副大将」が宇喜多秀家だったらしく、結局、その「総大将」は関ケ原の戦いが終わるまで大阪城にいて、関ケ原の戦いが終わるとさっさと両国に帰ってしまった。そして、大きく領土を削減された。アホちゃうか・・とか、毛利輝元は世紀のバカ殿だったのではないかとも言われるらしい。もっとも、毛利輝元は最初から最後まで日和見を続けて、その結果、領国を大幅に削り取られた、日和見やったらそうなるとわかっているのに日和見やって領国を大幅に縮小した・・ということではなく、実際は西軍側で積極的に動いていたという説もあるらしく、よくわからないところもあるようです、又、「三本の矢」の1本の吉川広家は毛利本家の為に働いたのか、自分が徳川方にすり寄りたかっただけなのかもよくわからない。
石田三成が「『豊臣恩顧の大名』に嫌われていた人徳のなさ」が西軍の敗北の原因とかいう人がいるらしいが、石田三成は20万石程度の中大名だったが、羽柴秀吉が近江の国で鷹狩をしていた時に近所の寺に行って「茶を所望」と言うと、小坊主がでてきて最初は大きな椀に冷たい水を持ってきて、次に小さい椀にぬるめの湯を持ってきて、その後、さらに小さい椀に舌が焼けるほど熱い茶を入れて持ってきた、それを見て秀吉が「こいつは使える」と思って取り立てた・・とかいう「ほんまかいやあ」というお話から大名にならせてもらい五奉行の1人にならせてもらったという人間だった。だから、同じように秀吉に取り立ててもらった中大名、加藤清正や福島正則や蜂須賀なんとかさんとか黒田如水とかそういう大名からすると、なんで、石田三成が五奉行でわしは「単なる中大名」やねん・・と思っても不思議はないわけで、秀吉が存命中は「五奉行の石田三成」であっても、宇多天皇から取り立てられて右大臣になった菅原道真とか9代将軍 徳川家重・10代将軍 徳川家治に取り立ててもらって老中・側用人にしてもらった田沼意次と同様、後ろ盾となってくれる存在があってこその存在で、豊臣秀吉という後ろ盾があってこその五奉行だった石田三成が後ろ盾の豊臣秀吉に亡くなられてしまうと、存命中とは事情は変わってくるし、それは「人徳」がどうこういうことでもないだろう。
「戦前型 天皇を中心とする人物中心の日本史」から「天皇を中心とする」という性格を弱めた現在の「人物中心の日本史」たる司馬遼太郎などの「歴史物語」の「戦国武将のお話」の中でも、特に「おっさん的」な司馬遼太郎の歴史物語、司馬遼太郎『関ケ原』(新潮社)では、もしも、徳川家康と戦をすることになったとしても、石田三成が総大将ではだめです・・と石田三成の家臣の島左近が言う場面がある。石田三成もそれは了解していて、前田利家に総大将になってもらうつもりでいた・・ことになっている。「ことになっている」というのは、司馬遼太郎の歴史小説などというものは、俗説をかき集めて集大成したようなものばかりであり、実際に歴史上の検証なんてされていないものが大部分なので、司馬遼太郎の小説に書かれていてもそうだったのかどうかわからないが、実際にそうだった可能性はありそうだ。
豊臣秀吉が他界後、しばらく、「五奉行+五大老第2位 前田利家」対「五大老筆頭 徳川家康」で、けっこう均衡した勢力を保っていた時期があったらしい。ところが、秀吉が他界して半年ほどで前田利家も他界してしまった。前田利家の長男の利長が後を継いだものの、「五大老第2位」ではなく「五大老第5位」に格下げになってしまい、徳川家康から脅しをかけられると「徳川、来るなら来んかい」という態度をとった上杉景勝とは違って、徳川に従う立場を取ってしまった。そこで、徳川家康は石田三成に五奉行を引退するように勧めて石田三成は五奉行から退いた。ここで、徳川家康にすり寄っておけば石田三成は加賀前田家と同じように江戸時代も生き延びて明治維新まで存続したかもしれないが、前田利長や浅野長政のように徳川家康にすりよることができなかったらしい。そして、前田利家のかわりに総大将になってもらうことにした毛利輝元が実は・・バカ殿だった? ・・のかどうかはわからないが、関ケ原までも行かない「総大将」であり、かわりに関ケ原に行った毛利秀元は徳川方についていた吉川広家に止められて参戦もできなかった。関ケ原の戦いの西軍では、(1)豊臣秀頼は関ケ原に来ることはなく、(2)総大将の毛利輝元は最後まで大阪城から動かず、関ケ原に来ることはなく、(3)豊臣秀吉の養子であったことがある、小早川秀昭と副大将の宇喜多秀家とを看板に掲げれば、西軍の豊臣政権としての正当性を主張できるはずだったが、片方の小早川秀昭が東軍側についてしまい、(4)石田三成は西軍の総大将でなく副大将でもなく、五奉行も引退した立場だった。「武断派」だか「武闘派」だか言われて体育会系の運動バカみたいに言われてきた加藤清正は実は領国の熊本では行政手腕はなかなか優れていたらしく、他方で「文治派」と言われた石田三成の軍は関ケ原の戦いでは相当奮戦したらしいが、しかし、総大将でも副大将でもなく関ケ原の戦いの時点では五奉行でもなかった者が「石田三成を中心とする」だったのかどうか。
考えてみれば、石田三成というのは、かわいそうな男だったのかもしれない。豊臣秀吉に仕える文官として能力を発揮した者が、秀吉が他界した後、前田利家を助けて徳川家康に対抗しようとしたら前田利家にも死なれてしまい、前田利家の息子の利長には徳川の側につかれてしまい、さらにかわりに総大将になってもらうことにした毛利輝元には関ケ原までも来てもらえない。豊臣秀吉の息子・・だったのか別の男の子だったのかの秀頼もまた、関ケ原まで来てくれなかった。その結果、もともとは「徳川家康に対抗する西軍の中心人物」の役をやるつもりでなかった男が、結果として「西軍の中心人物」のようになってしまった。もしも、西軍の総大将を相応に務める者がいたならば、その補佐役くらいの立場でかなり優秀な成果を出したかもしれない男が「中心人物なの?」という立場に立たされてしまった悲劇のようなものがあったのかもしれない。
それで、今回、指摘したいと思ったのは、プーチンだ。プーチンも似たところがあるのではないか。プーチンの支持によるウクライナ侵攻について、プーチンはいったい何をしたいのか、どうしたいのか。たぶん、プーチン自身がわかってないのではないか。
ソビエト連邦において、ロシア人以外の民族が不利な扱いを受けてきた、「社会主義だと少数民族が迫害される」とか「慶應タイプ」は言いたがるのです。大学受験の際には私なんかより、はるかに格下の成績しか取っていなかったやつが、なんでこんなやつが大学受けるんだてやつが・・というより、1970年代後半から1980年代前半にかけて慶應大学の経済学部・文学部は入試の科目は数学1・2Bと英語の2科目だけでしたので、「1浪で慶應の経済」のやつとか、「『1浪で慶應の経済』に行ければ最高だが『1浪で慶應の文学部』でもいい」という三流高校卒で高校卒業時に行ける大学なんてろくな所がなかった男が1年浪人して、その間に慶應大の経済学部と文学部の入試科目だけ学習してなんとか合格した、(祝)「1浪で慶應の経済」という最大の目標を見事達成♪ とか、「1浪で慶應の経済」は落ちたが「1浪で慶應の文学部」に合格できたのは御の字も御の字というクロマティ高校卒のやつ・・とかいう「慶應タイプ」「慶應ボーイ」というのは私などとは違って、もともと「世界史」なんて最初からちっとも勉強していませんからね。そういうやつが得意がって言いよるわけです。「社会主義の国になったらソ連のように少数民族が迫害される」と、ふんぞり返って言いよるわけです。「それは違うでしょう」なんてこと言うと、「おまえのような共産党は・・」とか「共産党」と認定されてしまうのです。「慶應タイプ」は大学に入学するまでに「世界史」を勉強してきていませんから、自分たちの妄想が作り上げた世界観の間違いを指摘する者は社会党でも自民党でも「共産党」なのです。そういう人間を「思考が柔軟な慶應ボーイ」とか「慶應の人間」は言うのです。「慶應ボーイ」「慶應タイプ」にとっては小泉信三も福沢諭吉も「共産党」でマックス=ウェーバーだって「共産党」なのです。彼らの頭ではそうなのです。そういう人間を「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神がある」とか「慶應心理学」は言うのです。ほんと、「慶應タイプ」にはうんざりします。ほんと、「慶應の人間」てのはネトウヨと一緒、というよりも、ネトウヨそのもの、まっくろの気色悪い街宣車で軍歌流しながら走っていたおっさんどもと一緒です。慶應という学校はそういう人が主流派になっている学校です( 一一) こういうことを言うと「モラトリアム人間病にかかっている」とか小此木啓吾一派・小此木啓吾信奉者から言われます。「治療」されそうで、怖いこわい怖いこわい怖いこわい怖いこわい・・

「人、悔いなし(1917)、ロシア革命」1917年のロシア革命によってソビエト連邦が誕生したのですが、クリストファー=ヒル『レーニンとロシア革命』(岩波新書)「ソビエト」とはロシア語で評議会の意味で、ソビエト連邦の正式名称の ソビエト社会主義共和国連邦 とは《「評議会によって運営される社会主義国」の連邦》という意味で、「等しい権限を持つ15の社会主義共和国による連邦」であったはずで、ロシア革命以前は「ロシア人以外の諸民族の牢獄」と言われたロシア帝国の状態を改めようとして「等しい権限を持つ15の社会主義共和国による連邦」が作られたのでしたが、そのソビエト連邦においても、ロシア人中心主義はなかなか改まらなかったらしい。「ロシア人以外の諸民族の牢獄」という状態は「慶應ボーイ」(大学入学までに「世界史」をちっとも勉強してきていない人)が主張するような「ロシア革命によって社会主義になったからそうなった」というようなものではなく、ロシア革命以前、ロマノフ朝のロシア帝国にいおいて「ロシア人以外の諸民族の牢獄」と言われる状態であったのであり、ロシア革命によりソビエト連邦を設立した際、その状態を解消しよう・改善しようとした人がいたけれども、十分に改善できていなかった・・というものだったはずで、「慶應ボーイ」「慶應タイプ」(≒ネトウヨ、白痴右翼)の言うことはデタラメ、無茶苦茶なのです・・が彼らに言うと殴りかかられるおそれがあります。そういう気に入らないことを言われると殴りかかるような人間を「慶大生らしい思考の柔軟さ」とか「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神がある」とか「慶應心理学」は「診断」するのです。

レーニンとロシヤ革命 (1955年) (岩波新書) - クリストファー・ヒル, 岡 稔
これを、「慶應タイプ」(≒ネトウヨ)は「社会主義だと民族の差別をするようになるからロシア人以外の民族が虐待されているんだ」と主張するのです。何ら学習していないやつが。大学入試の際の成績などでは私などよりずっと格下だったやつが、慶應大学ではふんぞり返ってこういう口をきくのです。「そうではないですよ。ロシア革命によって『諸民族の牢獄』という状態を改めようとしたけれども、ロシア革命後のソビエト連邦においても必ずしも、ロシア人以外が不利な扱いになっているという状況を十分に改善できていないということであって、社会主義が『ロシア人以外の諸民族の牢獄』にしたというわけではないですよ」などと言おうものなら、「慶應タイプ」は激怒して「なに、おまえ、そういうラディカルな思想の人間なのか」とか「おまえみたいな共産党は就職先ないぞ」とか言われることになるのです。「ラディカル」という言葉と「リベラル」という言葉があり、「慶應の人間」というのは「リベラル」あるいは「実証的態度」のことを「ラディカル」もしくは「共産党」と言い、そして、反動・観念的悪口雑言を「慶應リベラル」と言うのです。「慶應リベラル」とは反動のことです。だから、「慶應リベラル」と称する反動、ネトウヨとは口ききたくないなあ・・と思うようになりました。そういう連中のことを「心理学」では「自我が確立されている」とか「アイデンティティーを持っている」とか「思考が柔軟」とか「独立自尊の精神を持っている」とか「企業はそういう人間を喜ぶ」とか「ギャルにもてもて」とか、言うみたいです( 一一) なんで、そんなのが「自我が確立されている」なの? ・・と思うのですが、うかつにそういうことを言うと「モラトリアム人間病にかかっているから、そういうことを言うということですね」とか、「自我が確立されていたら、そういうことは言わないはずです」とか「受験勉強の悪影響ですね」とかなんとかかんとか言われることになります。慶應の内部進学の学生および教授・助教授は「われわれは受験勉強の悪影響を受けていないから」と言うのですが、「受験勉強の悪影響」を受けていないのではなく、「小学校から高校までの勉強をしてない」のだろうが・・・・と思いますが、慶應という大学はそういう人たちの学校であって、私のような小学校:公立、中学校:公立、高校:公立、大学も国立大学に行くつもりだったものが何の因果か慶應大学に入らされてしまった・・というような人間というのは内部進学の人からすれば「自分たちの家の軒の先っぽの下にお情けで入れてあげてやってる」みたいな感覚ですから、あの学校では公立高校出身者はまともに口きくのはアホです。
そういう「慶應リベラル」とか称しているネトウヨどもはほっといて・・・、ロシア革命の趣旨としてのソビエト連邦というものは「ソビエトという評議会によって運営される等しい権限を持つ15の社会主義国共和国による連邦」であったはずだったので、ロシア人中心主義が改まらなかったとしても、それは「十分に改善できていない」というものであったはずなのです。但し、「十分に改善できていない」ものでも、それが長く続くと「十分に改善できていない」のか、それとも「改善しようとは考えていない」ものなのか、よくわからなくなってきます。
アンドレ=ジッドはもともとは社会主義についてもロシア革命についても好意的に見ていたが、好意的に見ていた人間だからこそ、ロシア革命後のソビエト連邦に招かれたりしたわけだが、そこで、ジッドは「どうも違う」「なにか違う」と気づく。アンドレ=ジッド『ソビエト紀行』(光文社古典新訳文庫)ではジッドが気づいたソビエト連邦の問題点を述べるが「慶應タイプ」(≒ネトウヨ)みたいに理屈もへちまもなく無茶苦茶悪口雑言を浴びせるような態度は取っていない。「彼らも努力している」という点についてはジッドは認めており、ソビエト連邦の運営者が何の努力もしていないとは考えていない。実際、何の努力もしていなかったわけではないでしょう。しかし、どうも、うまくいっていないところが感じられる。たとえば、本来なら3日間かかるものを6時間だか8時間だかできるようにした・・と言われたものがあったが、ジッドはつい思ったことを口にしてしまった。「それは、3日間かかるものを6時間でできるようにしたのではなくて、もともと、6時間でできるものを3日間かけてやっていたのと違うのですか」と。そういうものもあったらしい。

ソヴィエト旅行記 (光文社古典新訳文庫) - Gide,Andr´e, ジッド,アンドレ, 俊宏, 國分
アンドレ=ジッドは「慶應タイプ」(≒ネトウヨ)とは全然違って良心的であり、ともかく社会主義とソビエト連邦に悪口雑言を浴びせようという姿勢はとっていない。だから、アンドレ=ジッドなどは片方でソビエト連邦を批判した人間だとして「慶應タイプ」から喜ばれるだろうが、他方で「慶應タイプ」のような悪口雑言罵詈讒謗をとにかく浴びせるというような姿勢は取らないので、その点でアンドレ=ジッドもまた「慶應タイプ」からすれば「共産党」なのだろう( 一一)
ゼレンスキーが「ソビエト連邦の悪い部分だけを残したのが今のロシア連邦だ」と言っていたと思いますが、そういう面があるのでしょう。1990年から1991年にかけて、ソビエト連邦を構成した15の社会主義共和国が「独立」してソビエト連邦が解消されました。その際、「社会主義から資本制経済への移行」と「15の共和国の独立」が同時におこなわれた。「独立」はロシア共和国もまた「独立」したわけで、エリツィンは「独立」の側だったはずだ。他の14の共和国が「独立」を志向するとして、ロシア共和国が15の共和国の分離・解体を支持するのだろうか・・と思ったが、「独立国家共同体」なるものが「ソビエト連邦」に変わって構成された。しかし、この「独立国家共同体」についての考え方が、ロシア共和国とその他の共和国で認識が違ったのかもしれない。
元外務省の佐藤優 氏の『国家の罠』(新潮文庫)や『憂国のラスプーチン』(小学館)によると、ソビエト連邦解体の際に、モスクワでは3つの派があったらしい。ひとつは
(A) 「社会主義のソビエト連邦を維持しながら改革を進めていこうという人たち」で、ひとつは
(B)エリツィンら「社会主義を改めて資本制経済の国にしていこうとする人たち」で、
(C)もうひとつはその中間で、どちらなのか態度がよくわからない人たち
でゴルバチョフはその中間のようなところにいたらしい。
この頃、ロシアでは社会主義のソビエト連邦を維持しながら改革していこうという立場の人のことを「守旧派」とか「保守派」と言い、資本制経済に改めようとする人たちを「改革派」と言ったりしたので、そこから「保守」と「革新」がどっちがどっちなのか、よくわからないことになった。
もともとは、資本制経済を維持しようという人たちが「保守」で、資本制経済から社会主義経済へ移行させようという人たちが「革新」だったはずなのですが、1990年から1991年にかけてのソビエト連邦崩壊において、用語が逆に使われた。
日本では「保守」という言葉と「反動」という言葉が同じように使われてきたが、それは戦後の日本では反動の政党(要するに、自民党)が「保守」を名乗ってきたから、だから保守とは反動のことなんだと誤解を招いたのだ・・と慶應大学の「経済史」の講義の時にU教授が話されたのを聞き、なるほど、そうかと思ったのだ。「本来、保守と反動は別なんだ」と。
まず、「保守」というのは資本制経済を維持した上で民主的な社会を築いていこうというもの、資本制経済を維持した上で個々の問題点を解決していこうとするものを言い、「革新」というのは急激に変えるか徐々に変えるかは別として、究極的には社会主義経済の社会にすることで民主的な社会を築こう、社会主義経済のもとで理想的な社会を築こうとするものを言う・・というのが「保守」と「革新」の定義です。
それでは「反動」はというと、反動というのは「力でもって歴史の歯車を逆にまわそうとする人たち」と『毛沢東語録』には書かれているが、そういうものです。すでにこれは間違いだと否定されて改められたものを復活させてやろうとする者。又、社会は日々刻刻変化していくものであるにもかかわらず、現在の状態を変えてはならないと固執し変化させないようにしようとするのも「反動」です。「保守」は変化しないのではなく、「保守」は資本制経済を維持しながらも変化していくものであり、変化させてなるものかとするのは「反動」であって「保守」ではないのです。「保守」の対語は「革新」ですが、「反動」の対語はというと「進歩」です。ですから、「保守」だけれども「進歩」というものはありうるのです。資本制経済を維持しながら「進歩」していこうという立場ということはありえますし、又、概念として「革新」で「反動」ということもありえます。
この定義づけで考えた時、自民党という政党は戦後、日本において政権を担当することが多かった政党ではあるけれども、必ずしも文化的水準が高い政党ではなく、保守か革新かといえば保守であっても、進歩か反動かというと反動のような性格が強い政党であったのです。そのために、「保守反動」とか言って「保守」と「反動」を一緒だと思う人が少なからずいるのです。かつての慶應義塾の塾長だった近代経済学者の小泉信三は『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫)の序文で、戦後、革新政党が議席を伸ばしたことには理解できるということを述べている。彼ら革新の人間には気概があるのに対して、保守の政党の人間の言うことを聞いていると耳を覆いたくなるようなものがある。小泉信三は近代経済学者で資本制経済を維持しようとする側の人間であったけれども、しかし、革新政党の人間に見られる気概とでもいったものは評価するし、保守の側の人間でも耳を覆いたくなるような下品なことしか言えないような程度の低い人間を支持するつもりはない、と言う。
・・・だいたい、生稲晃子なんて30年前のグラビアタレントで、今ではグラビアタレントでは通じないおばさんになったから国会議員に転職しよう・・なんて、そんなおばさんが統一協会の支持で当選してしまうのだから、「御輿は軽くてバカがいい」とか自民党の誰やらが言ったとかいうけれども、そんなのが議員になるのですからね。
日本では、
保守 ⇔ 革新、 反動 ⇔ 進歩
が対語で、保守=反動 ではなく、革新=進歩 というわけでもなく、
保守で進歩ということもありうることで、革新で反動ということもありうることでした。
しかし、1990年から1991年にかけて、ソビエト連邦が「解体」なのか「解消」なのか「崩壊」なのかした頃、ソビエト連邦では、「社会主義によるソビエト連邦の体制を守りながら改革を進める」という人たちを「守旧派」とか「保守派」と呼び、資本制経済に変えようという人が「改革派」を名乗ったので、そうなると、どっちが「保守」なのか、よくわからなくなってきます。
しかし、社会主義経済から資本制経済への移行なんて、簡単にできるものなのか。
ロシア革命が起こる頃、社会主義とロシア革命に好意的に見ていたが、その後、否定的な評価になった人は何人かいるのですが、精神分析学者でドイツ共産党員だったヴィルヘルム=ライヒは『性道徳の誕生』(大平出版社)の初版では「抑圧的な社会=資本主義社会」「抑圧的でない社会=社会主義社会」として書いていたのが、第3版ではそうではなく、抑圧的な社会とそうでない社会とは資本制経済をとる社会か社会主義経済の社会かとは別の問題としてとらえるようになったようです。ロシア革命後に成立したソビエト連邦を見て、ライヒは「これでは国営資本主義だ」と絶望したらしい。
そして、ソビエト連邦は実際、「国営資本主義」だったのか、1990年から1991年のソビエト連邦解体後、国鉄の「分割民営化」みたいに「分割民営化」された企業が出現したらしい。2000年に、新潟空港からイルクーツク空港までアエロフロートの飛行機に乗って行ったのですが、同乗した人から聞いた話では、その少し前にはアエロフロートを「分割民営化」したバイカル航空という会社が日本とイルクーツクの間の便を飛ばしていたらしいが、アエロフロートを「分割民営化」した会社だったみたいです。国鉄を「分割民営化」してJR8社にするみたいな感じでロシア連邦では「分割民営化」ができたということは、ソビエト連邦というのは、結局、「国営資本主義」だったということなのだろうか。「国営資本主義」だったから、それを「分割民営化」できたということなのか。
社会主義経済の国を資本制経済の国のするということが、はたしてできるのか。その難しさとして、ひとつは資本制という経済体制を倒して社会主義にするという理論はあっても、その逆についてはマルクスもレーニンも想定しておらず、はたして、できるものなのか・・という問題があったけれども、もうひとつの問題として、1917年のロシア革命の時点で、ロシアは資本制経済が成熟していた国ではなく封建制から資本制への移行段階・移行途中の国だったわけで、過去に十分に成熟した資本制経済が存在したわけではない国で、そこに資本制経済の社会を築くということができるのか、という問題もあったわけです。 十分に成熟した資本制経済の国が社会主義経済に行こうしたという社会主義の国が資本制経済に戻すのであれば、社会主義を否定すれば資本制経済になるということもありえたかもしれないが、ロシア革命以前のロシアは十分に資本制経済が発達した国ではなかったので、社会主義を否定したとしても、社会主義を否定した時にどういう社会になるのか、以前に戻すとなると「戻す以前」というものがない。
人間というのは、「知性のたが」をはずしても「理性のたが」というものがその内側にあるはずなのですが、時々、「知性のたが」をはずすと内側に「理性のたが」がない人というのがいますでしょ。資本制経済社会を克服したものとしての社会主義の国であれば、社会主義を否定した時に資本制経済が復活するかもしれないけれども、「封建制から資本制へ移行段階の国」が資本制を飛ばして社会主義になった国が社会主義を否定した場合には、《「知性のたが」をはずしたら「理性のたが」が内側にない人》みたいになってしまうということはないか・・。
ですから、「社会主義を維持しながら改革していこうという人たち」「社会主義経済をやめて資本制経済の国にしようという人たち」と「その中間の曖昧な立場の人たち」のうち、もしも、「社会主義を維持しながら改革していこうという人たち」が実権を握って、折衷的な社会に移行するということなら、それこそ、中国が今でも中国共産党という政党が政権を握っていな実権がら、なんだか社会主義ではなく資本主義みたいな国になっているみたいに、ロシアもそのようになっていったかもしれない。
しかし、そうではなく、「社会主義経済をやめて資本制経済の国にしようという人たち」が実権を握って進んだ。その時、どういう社会にするのかというヴィジョンを明確に持てていたかどうか。
ややこしいのは、「社会主義経済から資本制経済への移行」と「ソビエト連邦の解体」が同時におこなわれた点だ。「ソビエト 社会主義共和国 連邦」を解体して、かわりに「独立国家共同体」を設立するとしたものの、その「独立国家共同体」についての認識は、各共和国で違ったのではないか。
「独立国家共同体」とは「『独立した国家』の共同体」であるから、その共同体にどういう関わり方をするか、それはそれぞれの国家が決めればいいことで、離脱したいと思えばそれも自由であるはずだと考える国家もあれば、ソビエト連邦が「独立国家共同体」に変わったのであって、離脱は認められないと考える者もいたのではないか。
かつて、ソビエト連邦の時代においては、「ハンガリーに行く頃(1956)起こったハンガリー動乱」、1956年の「ハンガリー動乱」の時にはソ連軍がハンガリーに進駐して鎮圧した。 1968年(1964年の東京オリンピックの4年後、1970年の大阪万博の2年前。東大闘争が1968年から1969年。)の「プラハの春」の時にもソ連軍がプラハに戦車隊を派遣して鎮圧した。その際、ブレジネフが言ったのが「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という発言だった。
※ ウィキペディアーハンガリー動乱 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%8B%95%E4%B9%B1
ウィキペディアープラハの春 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%81%AE%E6%98%A5
マルクスが描いた社会主義革命というのは一国で社会主義革命が起こると、それが全世界に広がって全世界が社会主義の国になっていくという構想であったが、1917年のロシア革命の後、いくつかの社会主義国が誕生したけれども全世界が社会主義国にはならなかった。全世界が社会主義国になることで社会主義の理想が達成されるのか、そうではなく、一国もしくは数か国でも社会主義の社会は実現できるのか、世界社会主義と一国社会主義の主張の違いについて、ソビエト連邦では一国社会主義のスターリンがトロツキーを制して政権についたが、しかし、社会主義国の世界がある程度以上広い範囲に存在してこそ成り立つのであり、社会主義国が減っていけば存立の危機に瀕することになる。だから、「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という理屈はまったくありえない理屈ということもなかった。そして、ソビエト連邦が社会主義国のリーダーとしての役割を果たして「社会主義国全体の利益」を守るということも理屈としてありえないことではなかった。
しかし、1990年から1991年にかけてのソビエト連邦の解消の際、「社会主義国としてのソビエト連邦を維持しながら改革していこうという主張」の人たちが政権を握ったなら、その後も「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という主張はありえたが、そうではなく「資本制経済へ移行させて改革していこうという主張」の人たちが政権を握ったので、そうなると「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という大義名分はなくなる。
「ハンガリー動乱」にしても「プラハの春」にしても、ソビエト連邦がハンガリーやチェコの問題に戦車隊まで派遣して口出すのは他国に対する干渉ではないのか、それは「侵略」ではないのか、という問題もあったが、しかし、「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という大義名分はあったが、社会主義をやめた以上はその大義名分は存在しない。
「北方領土」をソビエト連邦が「実効支配」している点にしても「社会主義の国が帝国主義の国に領土を渡すわけにはいかない」という大義名分があったが、社会主義をやめたからにはその大義名分はなくなった。
ゼレンスキーが「ロシア連邦はソビエト連邦の悪い部分だけを残した国だ」と言ったのは、ひとつは社会主義経済のもとで人民が幸福な生活を送れるようにと真剣に考えた人はいたはずだが、ロシア連邦においてはそういった考えはなくなった。かわって資本制経済のもとで理想的な社会を築こうと考えた人はいたのか。そこで、問題となるのがプーチンの出自だ。KGB出身ということは、もともとは諜報機関員であり、経済の専門家ではなかったのだ。
ソビエト連邦の問題点として「ソ連社会帝国主義」と言われた国際的な姿勢があった。第二次世界大戦後、フランスのジャン=ポール=サルトルはソビエト連邦に比較的好意的な姿勢をとっていた時期があったが、ソビエト連邦にまったく問題点がないと思っていたわけではなかったようだが、西側の国の国際的な問題においての姿勢、アメリカ合衆国のベトナムに対する態度・フランスのアルジェリアに対する態度などは支持できないものであり、国際的な問題においてはソ連は抑圧される側についている場合が多かったという点があったようだ。しかし、国際的な問題においては「抑圧される側」につく場合が多かったとはいえ、社会主義であっても帝国主義ではないのかと言われるような態度・姿勢というものも見られた。それは1917年のロシア革命以前のロシア帝国の姿勢がソビエト連邦にも引き継がれてしまったということがあったのではないか。
又、中国では毛沢東が相当長生きしたけれども最後の頃はぼけていたのではないかとも言われるが、ロシアにおいてはロシア革命の後、レーニンが比較的早くに他界してしまい、その後、レーニンが「この人は書記長になるのはふさわしい人ではない」と言っていたスターリンが書記長に就任してしまったということが一因としてあったかと思われるが、スターリン政権のもとでソビエト連邦は国際的に社会主義であったとしても帝国主義のような「社会帝国主義」と言われるような姿勢を取るようになった。
しかし、それでも社会主義であり、マルクス・エンゲルスからレーニンが考えたような社会主義経済のもとでの労働者・人民が誰もが幸福な生活をできる国を世界中に実現しなければならないという思想があった。しかし、その実現は世界のすべての民族が等しく考えて行動してのものであるはずだったが、ロシア人が実行するというような意識がソビエト連邦には定着してしまったのではないか。
第二次世界大戦後の「シベリア抑留」はどういう考えでおこなわれたのか。スターリンは「日本には日露戦争以来の貸しがある」と言っていたというが、「貸しがある」とかそういう考え・思考自体が社会主義の思考ではない。 そもそも、スターリンはマルクスの著作を読んだことがあるのか? ・・とも思えてくる。

シベリア抑留―いま問われるもの (ユーラシア・ブックレット) - 堀江 則雄
『憂国のラスプーチン』ではロシアの政治家が「かつて、ソビエト連邦では『社会主義者には国境はない』と言っていた。嘘だけれどもね」と言う場面がある。実質、嘘だと覚めた意識での発言だったが、物事の考え方として「社会主義者には国境はない」という考え方はある。その大義名分がロシア革命以前のロシア帝国主義と結びつき、ソ連社会帝国主義になり、そして、ソビエト連邦が解体された後においても、「独立国家共同体」をソビエト連邦にかわるものとしてロシア連邦が主導して「国境はない」⇒「すべての国をロシアが指示して動かす」という意識の人がいるのではないか。「日本が言うこときかないなら原爆落としてやれ」と言うような人が。
1980年代前半、どこだったか、社会主義を名乗っていたが、専制的な政治をおこなっていた国について、どこだったか社会主義の国の大統領だかが「狂った男に社会主義が結びつくと、狂った社会主義が実現する」と言ったことがあった。そういう「狂った社会主義」のような思想・主張の人は特定の国にだけいるのではなく、複数の国にいて、そういう人から「ソビエト連邦の悪い部分だけ残した」ように「狂った社会主義」から社会主義だけ取り除いたならば「狂った」の部分だけが残ることになる。
しかし、ロシア連邦が主導して独立国家共同体を動かすとか、あるいは「ひと回り小さなソビエト連邦」である「ロシア連邦」を拡大して、かつてのソビエト連邦に所属していた国をロシア連邦に属する国にしようという主張は、それは1917年のロシア革命の際の「等しい権限を持つ15の社会主義共和国による連邦」というソビエト連邦設立の趣旨にも反するものだ。ところが、今現在のロシア連邦には「ロシア連邦に旧ソ連の国を取り込み、ロシア人による統治を復活させたい」という人がいるのではないか。少なくとも、ベラルーシとウクライナはスラブ人の中でもロシア人と同じ「東スラブ」に属する民族であるということで、ロシア連邦と一緒になるべきだと考える人がロシア連邦にはいるのではないか。しかし、それは両方の国の国民が一緒になりたいと思っている場合に合併するのなら悪くないとしても、片方が一緒になりたくないと言っているのに強引に併合しようというのでは、それは「侵略」であろう。
今のプーチンは「3代目プーチン」だという話がある。中村逸郎教授の話では、初代プーチンが2代目プーチンに変わる時に初代プーチンの妻と離婚して、元新体操のメダリストの誰やらを愛人にしていたのは2代目プーチンで、その元メダリストの女性はしばらく見かけないが、ソチの別荘の地下に遺体があるという説があるらしく、現在のプーチンは3代目プーチンだと言われるらしい。・・ほんまかいやあ・・と思ってインターネットで検索すると、初代プーチンの写真というのが出ていて、たしかに、初代プーチンは今のプーチンのような丸っこい顔をしておらず、もっと細長い精悍な感じの顔つきをしている。柔道家のプーチンは何代目なんだ? 3代目プーチンが柔道家なのか。
「プーチンは3人目」説が正しいなら、「元KGBのプーチン」はどのプーチンなのだろう。
「プーチン3人説」が正しいのかどうかわからないが、KGBという諜報機関出身の人間というのは、普通は表の政治家にはならないものではないかと思うのだが、プーチンは大統領になった。しかし、諜報機関出身だけあって、「ソビエト連邦の悪い部分」として「諜報機関による支配」は実行できても、どういう経済の国にしていくのか、どういう社会にしていくのがいいのかといったヴィジョンというものをプーチン自身が明確に持っていないのではないか。
なおかつ、旧ソビエト連邦の国をロシア連邦に復帰させなければならないという使命感のようなものを元KGBとして持っているのではないのか。

KGB (新潮選書) - フリーマントル, 新庄 哲夫

CIA (新潮選書) - フリーマントル, 新庄哲夫
そのあたりについて、もともと、アジテーターであって自分自身が政治上の指導者になろうという立場ではなく、政治的指導者を応援していこうという立場だったヒトラーが自分自身が政治的指導者の立場につかされてしまったことから、「アジテーターのような政治」をおこなうようになって、そして、最後は崩壊したのと似ているところがあるように思われる。
プーチンもまた、元KGB,元諜報機関員として、政治的経済的ヴィジョンを持つ者を応援するような立場にいたならば、けっこう優秀な人間として成果を出せたのかもしれないが、本来は諜報機関員であるのに自分自身が表の政治家になったというあたりから、政治的ヴィジョン・経済的ヴィジョンを明確に持たない・持てない人間が諜報機関や秘密警察・軍隊の力で支配しようという姿勢になってしまった・・ということはないか。
又、ソビエト連邦が解体されて、資本制経済の社会に変えようとする人が出たとしても、ロシアは資本制経済の国から社会主義に移行したのではなく、封建制から資本制へ移行しかけのような状態の国が社会主義国になった国なので、そういう国から社会主義を取り除いてしまうと、資本制経済の社会ではなく、それ以前の社会のような社会になってしまうおそれがあり、そして、そうなってしまったようなところがあったのではないか。
「おっさん」向けに石田三成も出したけれども石田三成の例はかえって出さない方が良かったかもしれないが、ヒトラーとプーチンとは同じということではないとしても、本来、自分が果たそうとしていた役割とは違う役割をいつのまにかやるようになってしまった男の悲劇とでもいうものが、この2人には共通してあるように思える。
(2022.10.9.)

憂国のラスプーチン 全6巻完結セット (ビッグ コミックス) - 佐藤 優

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて―(新潮文庫) - 佐藤 優

彼らは自由だと思っていた: 元ナチ党員十人の思想と行動 - M・マイヤー, 田中 浩, 金井 和子
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