めやみ地蔵 仲源寺(京都市・浄土宗)参拝。息子の眼鏡は「やふいのん、やふいのん」という父親、「眼えなんか、つぶれてもええ」と言う母親。生徒の力にならない・なれない・なる意思がない高校教諭。「子供手当」はホトケの敵。「子供」独善主義者に食い殺された我が子の無念を晴らしてもらうよう水子地蔵尊に参拝-知恩院参拝[10/10]
[第605回]
四条通り と 東大路通り がぶつかる八坂神社の西楼門の前のT字路の南西側を四条通りに沿って西に進みます。
祇園交番の前を西に進み、花見小路通りを過ぎて少し行くと左手(南側)に、↓

↑ 寿福山 仲源寺(浄土宗)があります。
左の石碑には「めやみ地蔵尊 仲源寺」、
門の左右の木の札には「洛陽三十三観音霊場 第十六番札所」
と書かれています。

( 京都府京都市東山区四条通大和大路東入ル祇園町南側585-1 寿福山 仲源寺。 )
「洛陽三十三観音霊場」は、《ウィキペディアー洛陽三十三所観音霊場》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%89%80%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E9%9C%8A%E5%A0%B4
洛陽三十三所観音霊場巡礼HP https://rakuyo33.jp/
によると、ひとつ前の15番は六波羅蜜寺、次の17番は三十三間堂、仲源寺の「霊場本尊」は観音堂の千手観音らしい。
※ 洛陽三十三所観音霊場巡礼HP https://rakuyo33.jp/
洛陽三十三所観音霊場巡礼 第十六番札所 仲源寺https://rakuyo33.jp/chugenji/
《ウィキペディアー洛陽三十三所観音霊場》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%89%80%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E9%9C%8A%E5%A0%B4
《ウィキペディアー仲源寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%BA%90%E5%AF%BA
※ 通称寺の会HP https://tusyoji.wixsite.com/tusyojinokai/home
通称寺の会 めやみ地蔵 仲源寺 https://tusyoji.wixsite.com/tusyojinokai/meyamijizou
《ウィキペディアー通称寺の会》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E7%A7%B0%E5%AF%BA%E3%81%AE%E4%BC%9A
※ 京都観光オフィシァルサイト 仲源寺 https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=539
現地に京都市による木製の説明書きの札が建っている。
《 浄土宗に属する寺院で一般に「目疾地蔵」の名で人々に親しまれている。》
「浄土宗公式サイト」https://jodo.or.jp/ ⇒「寺院を捜す」http://otera.jodo.or.jp/ ⇒「寺院を検索する」http://otera.jodo.or.jp/temple/ ⇒「・・京都府」http://otera.jodo.or.jp/temple/kyoto/ ⇒「・・京都市」http://otera.jodo.or.jp/temple/kyoto/ka/kyotosi/
で見ると、[29ー082]仲源寺 が掲載されています。間違いなく浄土宗に属している寺です。
そこから、「洛陽三十三観音霊場巡礼 仲源寺」https://rakuyo33.jp/chugenji/ に行くこともできます。
《 ・・平安時代の治安(ちあん)2年(1022)、仏師 定朝(じょうちょう)が四条橋の東北に地蔵菩薩を祀ったことに由来する。
寺と地蔵菩薩の由来は、安貞(あんてい)2年(1228)の鴨川氾濫の時に、勢多判官(せたのはんがん)中原為兼(なかはらためかね)が、防鴨河使(ぼうかし)になった際、この地蔵菩薩が溺れ人を救う姿を見、それ以降 地蔵菩薩を「雨止(あめやみ)地蔵」と称し、「中原」の傍らに人と水を添えて寺名としたことによる。
その後、信仰深い老夫婦の眼病を自らの右目に移し、苦しみを救ったという逸話から、いつしか「目疾地蔵」になり、現在も眼病治療に霊験があるとして広く信仰を集めている。》
とあり、元々はすぐ西の鴨川の氾濫の際に溺れる人を救った「あめやみ(雨止)地蔵」だったのが、後に「めやみ(目疾)地蔵」になったということらしい。
入って正面に地蔵堂があり、地蔵堂が本堂らしい。↓

↑ 正面上の額には「目疾地蔵尊」と書かれている。
《 本堂の地蔵尊の傍らには室町時代の作といわれる「山越(やまごえ)阿弥陀像」を祀る。》
とある。その「山越阿弥陀像」が浄土宗の寺としての阿弥陀像が祀られているということなのだろう。
眼病に効く神さん・仏さんというと、東京都に新井薬師 がある。「東京人 no.185 2002年12月号 特集:寺見物」(都市出版)に、「新井薬師」が掲載されていて、東京都足立区西新井 にある 五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)の 西新井大師 のことかと思ったら全く別の寺で、新井薬師は東京都中野区新井 にあり、真言宗豊山派の寺で、新井山 梅照院(ばいしょういん) と言うらしく、眼病に効果がある寺だとされているらしい。西武新宿線に「新井薬師前」という駅があって南側に徒歩5分ほどの所にあるらしい。
※ 新井薬師・新井山 梅照院HP https://baishoin.com/
《ウィキペディアー梅照院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E7%85%A7%E9%99%A2

東京人 no.185 2002年12月号【雑誌】 特集:「寺見物」近ごろはやりの散歩術 小特集:ラーメン、恐るべし
※ 「眼病に効能がある 東京都中野区の 新井薬師(新井山 梅照院)」ではなく、「弘法大師を祀る関東厄除け三大師 の1つとされる東京都足立区の西新井大師(五智山 遍照院 總持寺)」については、⇒[第78回]《西新井大師(總持寺)訪問、及、さざえ堂、佐野厄除け大師他関東の「大師」の寺、及、足立区の放射線量》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201201article_7.html
関西で眼を治すことに霊験のある寺・神社というと、奈良県の壷阪寺がある。小学校の高学年の時だったか中学生の時だったか、うちの母親と一緒にバスで行った記憶があるが、どういう団体のバスだったか忘れてしまった。近鉄吉野線に「壺阪山」駅があるが、「壺阪山」駅から壷阪寺まではけっこうあるようで、「壺阪山」駅から壷阪寺まで奈良交通のバスがあるようだが本数は多くなく、バスがない時間帯ならタクシーでとなるようです。山の中にあったと記憶しており、バスで行った方が行きやすい場所ではあったが、逆にバスで行くと、いったいどこに行ったのかよくわからない面がある。観光バスではなく電車と路線バスで行くか、自動車でも自分でクルマを運転して行くかした方が往復の経路もまた、どこに行っているかわかっていい面があります。
※ 壷阪寺 HP http://www.tsubosaka1300.or.jp/
奈良県観光公式サイト 壷阪寺 http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/009enmusubi/tsubosakadera/n720q4xyei/
《ウィキペディアー南法華寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AF%BA によると、壷阪寺は正式には、壺阪山 南法華寺 と言うらしく、壷阪寺は何宗かというと、真言宗らしいが「単立」で何派というものはないらしい。
うちの母親は私が小学生の頃からそういう所に一緒に出かけてきたので、私がそういった分野の大学の研究者になったり「歴史」の先生とかになったら喜んでくれるのだろうと思ったらが勘違いだったようだ。せっかく努力しても勘違いによる努力はドブに捨てさせられることになる。
関西で眼を治すことに霊験のある寺・神社としては、壷阪寺の他にも、ここ京都市の阪急京都線「京都河原町」駅・京阪本線「祇園四条」駅のそばにも「めやみ地蔵尊 仲源寺」があった。壷阪寺よりはずっと行きやすい場所にある。
「けち」と「しぶちん」「しみったれ」とは違いまんねん・・と、大日本ドケチ教の「教祖」吉本なんとか いうおっさんが言っていたが、「けち」というのは節約すべきものを徹底して節約するが、出すべきところでは出すというもので、
「しぶちん」「しみったれ」というのはそうではなく、出すべきところで出さない者のことを言うそうだ。
但し、こういうことを言って「わしは『けち』ではあっても『しぶちん』とは違いまんねん」と言う人というのは、そうか、この人は出すべきところでは出してくれるんだ・・なんて思っていたら、出すべきところでも出しよれへんがな・・なんてことは、けっこうあることだ。
2006年だったか2007年だったか、(株)エイブルhttps://www.able.co.jp/ の千葉支店に「次長」という肩書をもらっていた人間が男性2人・女性1人の3人いたのだが、同社の佐倉市の京成本線「勝田台」駅の南側の勝田台店にいた時のことだが、その男性の1人の若造が勝田台店に来て私に(店の中は狭いので)外で話をしましょうと言って出たところ、「どこか、缶コーヒーの自動販売機ない?」と言うので、自販機のところに案内したら、なんと、この男は自分の分だけ買って飲みよった( 一一) たとえ、私の方が年齢が上でも「次長」ならば自分の分だけ買うのではなくて私の分も買うものと違うのか。「どこか缶コーヒーなんかの自動販売機ない?」と言って私に清涼飲料水の自動販売機の場所まで案内させておいて自分の分だけ買うとは( 一一) こいつが次長やよお( 一一) (株)エイブルはこの「缶コーヒーとかの自動販売機とかない?」と私にきいて案内させた上で自分にだけ買うやつを若造を「次長」にならせて私より上の役職につけていたのか( 一一) ・・と思った。私に「清涼飲料水の自動販売機ない?」と尋ねて案内させた上で、なんと自分の分だけ買って飲みやがった( 一一) なんだ、こいつ。あきれた。(株)エイブルの「次長」てのはそういうものなんだなあ・・その程度の男が(株)エイブルでは「次長」なんだなあ・・と思った。そういう時に、「出すべきところ」か「出す必要がないところ」かの判断を的確にできるかどうかで人の評価が変わる。名前を思い出せなくなってしまったが、男2人のうちの門倉(かどくら)ではない方の男だが、「しぶちん」「しみったれ」だったのだ。「しぶちん」「しみったれ」。
2005年、千葉県などでリフォーム業をおこなう(株)ウッディホームhttps://www.woodyhome.com/ の船橋店で、船橋市海神 にあった住設メーカーのショールームで「リフォーム相談会」というのを(株)ウッディホームが実施させてもらった時のことだ。(株)ウッディホームの船橋店にはリフォームについて経験があるらしい古田部(男。50代)と遠藤(男。50代)の2人と事務でパートタイマーのYさん(女。30代)がいたところに新築についてはベテランの経験者だがリフォームについては経験がない私が入社して4人でいたのだが、古田部と遠藤の2人は営業が3人いたにもかかわらず(株)ウッディホームが用意したチラシのホスティングは私ひとりにさせやがったのだが、当日、その4人に千葉県の東部に中途採用で入社した新人の某くん(男。当時、30代前半)の5人で行ったのだが、昼時になって、古田部が「お昼御飯、〇〇くんと某くんとYさんの3人で先に食べに行ってきてえ。帰ったら俺と遠藤さんの2人で食べに行くから」と言うので、え? なんで?・・と思ったのだが、理由はわかった。普通ならば、私は新築については経験があるがリフォームについては新人でわからない部分が多く、新人の某くんは新築の会社に少しだけいたようなことを言っていたが実質、住宅建築業については新築もリフォームも新人だったようで、Yさんは6年ほどいるように聞いたがパートタイマーの扱いで営業ではなく事務の職種の人であり、古田部と遠藤の2人は2人とも(株)ウッディホームでは入社して1年ほどだったらしいが、遠藤はリフォームのキリン住宅にいたらしく、2人とも、新築ではなくリフォームの方に経験がある男だったはずだ。それならば、もし、半分半分に分かれて昼食を取るのならば、リフォームに経験がある古田部と遠藤が分かれて、リフォームについてはよくわかっていない私と新人の某くんとが分かれて、事務でパートタイマーのYさんはそのどちらかと一緒に行くというようにするべきものだ。それを、あえてリフォームについて経験がある古田部と遠藤の2人がその2人だけで一緒に昼食を取りに行って、新築の経験はあってもリフォームについてはわかっていない私と新人の某くんと事務でパートタイマーのYさんをくっつけようとしてのはなぜか? それは古田部が「しぶちん」「しみったれ」だからだ( 一一) パートタイマーの扱いの人というのは、基本的には終業時刻になれば残業せずに帰ってもらっていい、休日出勤はないという条件で、そのかわりに「正社員」の扱いの者よりも給与の待遇はいくらか低いはずだった。その休日出勤はないはずのパートタイマーのYさんに休日出勤して出て来てもらっていたわけであり、それに対しては基本的には会社に責任があるものではあるが、営業は「基本給+歩合給」で報酬は払われていたわけであり、Yさんに休日出勤してもらうことで営業社員はプラスになるはずだったのだ。その状況では、「正社員」の営業でリフォームの経験があり、(株)ウッディホームで1年超えたらしい古田部と1年程度らしい遠藤がYさんと一緒に食事に行ったならば、普通は「Yさん、きょうは無理言ってすいません。Yさんの食事代は私が出します」と言って、船橋店の「正社員」の営業では一番古い古田部が出すか、古田部と遠藤の2人で出すかするべきものだ。それに対して、私が一緒に食事に行ったなら、私が出すことも考えたけれども、しかし、その時点で私は入社して1か月少し過ぎたくらいだったので、新築の方では経験があってもリフォームについての経験はなく、その会社には入社して1か月少しの人間が自分より前からいる人に食事代をおごるわけにもいかないだろうと思って、それはしなかった。しかし、Yさんの立場からすれば、船橋店の男どもは気が利かない・・と思ったのではないか・・と思う。Yさんがそう思ったかどうかはわからないけれども、そういう状況で、自分がYさんと一緒に昼食を取りに行ったなら、古田部が・もしくは古田部と遠藤がYさんの食事代を出さなきゃならない状況になると思ったから、だから、古田部は入社して1か月少しの私と私より後から入社した某くんを一緒に食事に行かせて、その2人にYさんをくっつけたのだった( 一一) まったく、つくづく、超ド級の「しぶちん」「しみったれ」の男だった( 一一) こういう時だが、大日本ドケチ教の教祖 吉本なんとか のおっさんの定義する「けち」、「節約する時はとことん節約するけれども出すべきところでは出す」という姿勢のことを「スマート」と言ったりもする。「慶應ボーイ」の場合は「女をたぶらかす時にはカネを出すが男には出すべきものも出さない」という態度のことを「慶應ボーイらしいスマートさ」と言うのだが、そういう「慶應タイプ」のミミッチイ「スマート」ではなく、こういう時には、むしろ、古田部は古田部と遠藤が分かれて私と新人の某くんが分かれて、古田部と私か某くんのどちらかが一緒に食事に行き、遠藤と私か某くんのどちらかが一緒に行き、Yさんは古田部と一緒に食事に行くグループの方に入れて古田部が「Yさん、きょうは休日なのに無理をお願いして出勤してもらってすいません。Yさんの食事代は私が出させてもらいます」と言って出せば、このおっさん、いいところあるじゃないか・・となるはずだった・・のに、逆やりよった( 一一) なんや、このおっさん・・とあきれたが、そういうおっさんやった。そういうのを「しぶちん」「しみったれ」もしくは「スマートでない態度」と言う。私はこういう点に気づいていたが、気づかない人もいるだろう。Yさんには申し訳ないと思ったが、だからといって入社して1か月少しの人間が出すわけにもいかないと思った。後から考えてみると、事実の通り、Yさんに話して、「Yさん、コーヒーでも飲みたくありませんか。きょう、休日出勤してもらったお礼に、私にコーヒーおごらせてください」と言ってコーヒー代(ファミリーレストランに入ったから、ドリンクバー代)を私が出すというのなら悪くなかったかもしれない。社長は従業員のそのあたりの態度・対応を見ておくべきであるし、見るのが社長の仕事だと思うが、同社の社長の細木さんにそういうものを見る眼があったかなかったかというと、あったようにはあんまり思えない。今から考えてみると、そういうものを見る眼がない経営者の会社にばっかり勤めてきたような気がする。
1994年の7月頃だったと思うのだが、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の福島県いわき市の営業所にいた時のことだ。会津若松市で土地を買って建てたいという方があった。(株)一条工務店は最近では土地の紹介も会社としてやるようになったとかインターネットで出ているけれども、もともとは建築屋であって、1990年代においては土地を持たない人に対しては、もしも、土地を紹介する場合は営業が個人的に不動産屋に話をして捜していた。 会津若松市で何件かの土地を捜した上で、一緒に私のクルマでいわき から会津若松まで行って一日かけてまわり、夜になった時、「どこか、そのへんで食事していきましょうか」と言うと、「いいですよ。私、出しますから」と言われたのだ。へえ、けっこういい収入とっている人のわりに財布のひもがかたい人だと思っていたが、さすがに(株)一条工務店の営業の仕事でもないものを、この人のために好意で一日かけて案内したからには、夕食の1つくらい出そうと、そのくらいは考えるんだ・・と思ってファミリーレストランだったかに入って食事をした後、会計しようとすると「別で」と言うのだった( 一一) はあ? 「私、出しますから」と言うものだから、(株)一条工務店の私の担当の仕事でもないものをその人のために個人的に好意で・・というのか親切でというのかで、いわば無料奉仕でやってあげて、一日かけて私が私のクルマで私が運転して案内してあげたのだから、夕食くらいおごりますよという意味で「私、出しますから」と言ったのかと思ったらそうではなくて、自分の分は出しますからというつもりだったらしい( 一一) この人は、もしも、「私、出しますから」と言わなかったら自分の分を(株)一条工務店にではなく営業担当の私個人におごらせるつもりだったらしい( 一一)
1992年に(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ に入社した時、研修で講師役の従業員が「一条工務店のお客さんというのは他社のお客さんと比べて『いい人』が多い」と話したのだが、そうかあ~あ? ・・と思うことが何度もあったのだが、ビジネスであるからには価格交渉があっても当たり前であろうし、会社に何かサービスしてもいいだろうと言って通る場合もあれば通らない場合もあるだろうけれども、営業担当者個人に出させようなどという人なんて、いくらなんでもおらんだろう・・なんて私は最初、思っていたのだったが・・そうでもなかった。「(株)一条工務店のお客さん」にはいたのだった。 住宅建築業の営業の仕事をすると、特に私がいた頃の(株)一条工務店のような未成熟な会社で営業の仕事をすると、「そんなん、俺の仕事と違うやろお」というものがあって、しかし、営業の担当の仕事ではないとしても、設計は自分の担当ではないと言い、工事課の人間も自分の担当ではないと言い、営業以外の職種の従業員誰もが自分の担当ではないと主張した時、それなら担当の者はいませんからやりません・・なんてしたなら、そのお客さんの家は建たなくなってしまうという場合があって、そういう時に「俺の担当の仕事とは違うと思うがなあ」と思いながらやったりしたことが何度もあった。かつ、それをやるために休日出勤したり、サービス残業したりしてやったことが何度も何度もあった。そういう時に、お客様の方で、この人が自分の所の家のために個人的にやってくれているんだと理解してくれる人と、やってもらえばいいだろ、もっとやってもらおうとする人とがいたのだ。
やってもらえるなら、もっとやってもらえばいいだろ・・・と考えるのが得だと考える人というのがいたようだが、それは違うと思う。むしろ、そういうところで理解を示すのが「粋(いき)」であり「スマート」な態度だと思う。グリム童話に、「ヒラメの願い」という話があった。ある漁師が海で大きなヒラメをつかまえたところ、そのヒラメは口をきくヒラメで「私は魔法使いにヒラメの姿に変えられた王子なんです。私なんか食べてもおいしくありません。どうか逃がしてください」と哀願するので漁師はかわいそうに思って逃がしてやったが、家に帰ってその話をすると、妻が「おまえさん、バカなことをやったね。そのヒラメは私達の願いをかなえることができる能力があるはずだったんだ。今すぐもう一度行って、ヒラメに今よりもいい家にすませてくださいと頼んでごらん」と言う。漁師は海に行って「ヒラメさん、うちのカカアが言うことをきかないんだ」と言うとヒラメがでてきて「奥さんはどうしてほしいと言われるのですか」と言い、「今よりもいい家に住みたいと言うんだ」と漁師が言うとヒラメは「どうぞ、家に帰ってください。奥さんは今までよりいい家に住まれていますよ」と言う。家に帰ると前よりずっといい家が建っていて妻はその家の中にいた。「ヒラメが願いをかなえてくれたのか。感謝して住ませてもらおうではないか」と漁師は言うが、ところが妻は満足せず、「私がこれっぽっちで満足するわけないだろう。あんた、もう一度、海に行ってヒラメに街で一番の金持ちにしてくれと頼んでおいで」と言う。漁師は「なんで、ヒラメにそこまで頼むんだ。ヒラメはこんなにいい家を私たちに用意してくれたじゃないか。これで満足すべきだろう」と言うが妻は納得しない。漁師は海に行ってヒラメに言うとヒラメはそれもかなえてくれたが妻はそれでも納得しない。妻の要求はエスカレートしていき、「ヒラメはこれもかなえてくれたんだ。まだもっとできるはずだ。今度は私を王にするようにヒラメに要求しておいで」と夫に命令する。漁師が海に行くと海は恐ろしく荒れ狂っていたがヒラメは「それじゃ、家にお帰りなさい。奥さんは王になっていますよ」と言う。さらに妻は法王になりたいと言い、夫が「もう、やめよう」と言ってもきかず、夫が海に行くと、海は恐ろしく荒れ狂い最初とは似てもにつかぬ色をしていたが、漁師がヒラメに話した後、家に帰ると妻は法王になっていた。しかし、妻はそれでも納得しない。「あんた、私は神様になりたくなったよ。海に行ってヒラメに私を神様にならせるように命令してきな」と夫に言う。「おまえ、お願いだから、もうやめてくれ。ヒラメはおまえを法王にまでならせてくれたではないか。神様になんかいくらなんでもなれるわけないだろう。どうかお願いだからもうやめてくれ」と言うが妻はきかない。漁師は海に行ってヒラメに妻が神様になりたいと言っていると話すと、ヒラメはこう言った。「どうぞ、家に帰ってください。奥さんは最初と同じあばら家に座っていますよ」と。そして、家に帰ると妻は最初と同じあばら家に座っていた。限度というものを認識せずに要求する人は、結果としてこの漁師の妻のようになる可能性が考えられる。
「(株)一条工務店のお客さん」というのは地方の「豪農」とまでいかない場合でも、元庄屋さんとか、比較的裕福な方の農家もしくは元農家の人がけっこう多くて、「金持ち喧嘩せず」の対応もしくは、特に金持ちでなくても「元庄屋」としての対応をしてくれる人があり、それを「一条工務店のお客さんというのは他社のお客さんよりも『いい人』が多い」と営業が感じることがあったようだ。しかし、他方で小堀住研(株)などは関西発祥の会社であり、「高級住宅の小堀」として「小堀で家を建てた」というのが「中より上」のサラリーマンとしては「ステータス」だった時期があったが、そういうビジネスマンと違って「地方の人」にはビジネス社会の「相場」のようなものがわからない人というのがいて、又、「関西発祥の会社」というのは「商人の街」の大阪の感覚というのがあるのに対して、「地方の会社」の「(株)一条工務店のお客さん」というのはそういう「商人の思考」がない場合があり、私なんかはビジネスである以上は、それが通るかどうかは別としてビジネスである以上は価格交渉が入るのは当然のことという感覚があるが、しかし、価格交渉していいのはその相手の会社に対してであって、たいして高い給料もらっているわけでもない担当者個人に出させようなどというのはもってのほか・・と思っていたのだが、ところが「一条工務店のお客さん」の場合は「都市圏のビジネスマンの思考・常識」でもなく「大阪に代表される商人の街の思考」でもなく、そのいずれも身に着けていない人がいて、そういう人に油断すると営業社員個人に出してもらおうと考え出されてしまうし、又、値引き交渉でも「通る話と通らない話」「限度・相場というもの」があるという認識が欠落している人がおり、それが「地方」の人間を相手にした時の恐ろしい点のようだ・・と気づいた。1992年に(株)一条工務店に入社した時に見た「ビーイング」に掲載されていた(株)一条工務店の求人募集には「研修制度が充実していますので売れなくて困るということは絶対にありません」などと書かれていたのだったが、実際に入社してみると実状はその逆で「研修制度」は「充実」なんておよそしていなかったし、会社というものは営業職の従業員が「売れなくて困る」ことがないように会社として配慮して指導すべきもののはずだったが、こういったことは自分自身で経験して気づいて学ぶしかなく、(株)一条工務店は会社としてそういった指導をまったくしなかった。
大日本ドケチ教の教祖 吉本なんとか というおっさんの定義づけによるなら、うちの父親は常に「しぶちん」「しみったれ」だった。それに対して、うちの母親の方は「けち」である場合があった。その例として眼鏡というものがある。
私は小学校5年の時から近視になってしまって眼鏡をかけるようになった。小学校3年の時の視力検査では両眼とも1.5見えていたのにだ。こういう場合、親が気を配って、それ以上悪くならないように配慮して、又、一時的に近視になることがあっても回復するように配慮すべきものだが、我が家の親にはそういう姿勢は完全に欠落していた。又、日本の医者には「自分が治す方法を知らない」ことを「この病気は絶対に治らない」と表現する者がいるが、1970年頃当時の眼科医は「自分が治す方法を知らない」ものだから「近視はいったんなったら治らない」と言っていたが、そう決めつけることが悪化を招いた面もある。

眼鏡よさようなら―裸眼視力1.0を実現する - リゼット ショール, 由美子, 篠崎

近視は治らないの常識は間違いだった―1日15分わずか3週間の視力回復法 (サラブレッド・ブックス) - 良一, 山地, 憲幸, 藤本
ひとつには、小学校4年の時、大阪市内から大阪府の北摂地区に転校したのだが、それまで、小学校の1~4年の前半までは教室の席はくじ引きで決めていたが、ところが、北摂地区のM私立N小学校のハナブサという教諭(男。当時、40代。大阪府立池田高校卒⇒大阪教育大卒)は担任の教諭であるハナブサがすべて生徒の席を決めるようにした。教師が席を決めた方が授業をやりやすくて効果が出るという主張だったが、結論としてそれはハナブサとハナブサが気に入る生徒にとって都合がいいという主張でしかなかった。そういう際に5年・6年の時に同じクラスだった「野口くん」てやつは常に《「センター」の前の方》に席を決められた。AKBだって「センター」はファンの人気によって決められるのに「野口くん」はハナブサ個人によって「センター」に決められた。「野口くん」とその母親というのはそういう存在だったのだ( 一一)
それで、《特別扱いの「野口くん」》は4年の時は別のクラスだったのだが、私はハナブサからはあまり好かれていなかったらしく、常に左右ウイングで「センター」には配置されず、なおかつ、4年の時は教師から見て右、生徒の側から教師の方を見るなら左の一番後ろの席に配置されて、そして、Nなどは遠慮なく前の方まで歩いて行って黒板を見ていたが、私は勝手に席を立って前の方まで行ってはいけないものだと思い込んで、無理をして見えないものを見ようとしたことが近視になるひとつの原因だったと思っている。
うちの親はそういう時に教師に物が言えない親だった、ということが私が近視になったひとつの原因だったと思う。
又、相撲だって前の方の升席と後ろの椅子席なら升席の方が高いし、プロレスだってリングサイドの席は後ろの方の席よりも高い、プロ野球だって外野席よりも内野席やバックネット裏席の方が高いはずで、「同じカネ払ってるのに常に『センター』の前の方の席に座らせてもらうやつがいて、左右ウイングの後ろの方にされる者がいるというのは不公平やろうが」と言いたいところだが、ところが、うかつにそういうことを言うと小学校の教諭というのは「小学校は義務教育でおまえもおまえの親も1円もカネ払ってないんじゃ。それが義務教育ちゅうもんじゃ」とか言って居直る。・・それは話のすり替えだと思うのだ。カネ払っていようがいまいが、教師たるもの、生徒は公平に扱うべきであろう・・と思うが、「カネ払ってないからには俺が何をどのようにしようが俺の自由じゃ」とか小学校の教諭というのは言うのだ( 一一) ・・日本には「国公立族」と「私立族」というものがおり、私などは「基本的には国公立族」で、「基本的には」というのは私立でいいものがあるならば絶対に私立のものを否定はしないという「国公立族」で、「筋がね入りの私立族」としては慶應の教授(内部進学)などは、あいつらは「筋がね入りの私立族」であり、「私学ってことはいいってことじゃないか。こんな常識すらもわからんのかあ!」などと講義の最中にマイクに向かってお叫びになったりする。福沢諭吉は『学問の独立』という著作で、教育・学校というものは国・藩といったものから独立したものであるべきで、それゆえ、教育・学問は私立であるべきだといったことを述べているが、その後、国立・公立が「おかみの学校」ではなく「おおやけの学校」「民衆の学校」に変化し、他方で「私立」は「わたくしの学校」「誰かの私物である学校」という色彩・傾向が強い学校が少なくない状況になり、福沢諭吉が教育・学校は私立・民間によるべきものだと主張した時代とは状況が変わった・・・が時代が変わり・状況が変わってもそれを理解できない人シンドローム というのが慶應の教授(内部進学)には大変多い・・のだが、しかし、自分が行った小学校・中学校・高校を振りかえって考えてみると、たとえば、1960年代後半、大阪市東住吉区の 大阪市立M小学校3年の時の担任だったF河福三なんかは「俺は国からカネもらって教師をやってるんや。おまえからもおまえの親からも1円としてカネもらってないんや。そやから、俺がどういう授業をやろうがどういう教育をやろうが国からどうこう言われる筋合いはあってもはおまえからもおまえの親からもまったく文句言われる筋合いはないんや。逆に俺はお前を俺の好きなように教育する権利があるし、おまえは俺の教育を受ける義務があり、おまえの親はおまえに俺の教育を受けさせる義務があるんや。それが義務教育というものなんや」などと言っていたのだが、「この野郎」と思ったのだが、そういう主張をする教諭もいたということを考えるなら、やっぱり、小学校の授業料がタダてのはいかんてことないか、医療給付を本人は健康保険組合が全額負担だと医者にカネを払っているという認識が患者の側になくなってしまって医者がやりたい放題になってしまうのと同じく、義務教育の小学校・中学校は授業料が無料というからには教師は国の命令はきかないといけないけれども生徒や生徒の親の言うことはまったくきく筋合いはないんやと認識する教師、F河福三のようにはっきりとそう発言する教師が出現する、ということを考えるなら、義務教育でも授業料無料ではなく、ほんのわずかでも有料にした方がかえっていいということはないか・・とか思ってみたりもする。
「野口くん」の母親は「スピーカー」だったので、それで教諭が怖がって「野口くん」を常に特別扱いして優遇したという説があったが、あの男はどこの学校に行っても教師および学校職員に同様の扱いを受けることがあり、それだけが理由ではなく他にも何かあった可能性が考えられるが、それが何か、残念ながらはっきりとすべてのネタはつかめていない。
それで・・・、「けち」というのは「節約するところでは節約するが出すべきところではだす」というように、最初に眼鏡を作りに大丸の眼鏡売り場に行った時、うちの母親は「フレームは特に高いものでなくてもいいけれども、レンズはできるだけ眼が悪くならないように、いいものを」と言って、5種類あったうちで上から2番目の値段のものを選んだのだ。
それに対して、次の年、近視が進んで、ひとまわり度が強いレンズに変更するために、やはり、大丸の眼鏡売り場に今度はうちの父親と一緒に行くと、うちの父親は眼鏡売り場の店員にこう言ったのだ。
「やふいのん、やふいのん、やっふ~いのんがええ。一番、やふいのんにしてください。どうせ、すぐ悪なるねん。やっふ~いのんがええ♪」と。
・・そんなこと言うかなあ、普通、親がそんなこと言うかなあ・・と思ったが、うちの父親というのはそういう男だった。「やっふう~いのんがええ」「こいつの眼鏡は一番やっふいのん、一番やっふ~いのんにしてください」と。
中学校の3年の時、うちの母親と眼鏡を作り変えに大阪府M市の眼鏡店に行った時、眼鏡店の店主が「眼の為には電気スタンドも蛍光灯よりも白熱灯の方が『ちらつき』がなくていいんです」と言い、うちの母親はそれを聞いて、私の机の上に載せて使用していた蛍光灯の電気スタンドを白熱灯のものに変えようと考えたのだった・・・が、それを買うために、うちの父親と一緒に近所の電気量販店に行くと、またもや、うちの父親は言うのだった。いつものセリフを。
「やふいのん、やふいのん、やっふいのんがええ。やっふう~いのんが♪」と。
そして、うちの父親が買った「やっふいのん」というのは、ピアノライトというやつで、アップライトピアノの上に載せて楽譜と鍵盤を照らすスタンドだった。アップライトピアノの上に載せて上から下を照らすことを考えて作られたものだから、それを机の上に載せて机の上に置いた本やノートを照らしたのではまぶしすぎて、また、光が強すぎてたまったものではない。
この時、私は日本のある諺の意味を学んだ。「安物買いの銭失い」という諺を。
そして、私が19歳から20歳になる年、うちの父親はこう言ったのだ。「こいつには、小さい頃から、よその家とはちごうて、いつでも何でもどんなもんでも、欲しいというものは何でも何でも、どんなもんでも、一番ええもんばっかしばっかし、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ!」と。「やふいのん、やふいのん、やふいのんがええ、やっふう~いのんがええ」と常に言いまくってきた男がそう言ったのだ。
よく言うわ・・・とあきれた( 一一)
「そんなことない。絶対、そんなことない」と私は言ったのだが、すると、うちの父親はこう言ったのだ。「はあん。こいつ、こんなこと言いよる。これは病気やわ、絶対に。病気がこいつにこういう口をきかせるんや。わしはいついかなる時も、こいつにはよその親とはちごうて、何でも何でも一番ええもんばっかしばっかしばっかし、こうてきて やあってやって、やあってやって、やあってやってやってやってやってきたのにからに、それをこいつ、わかりよれへん。これは病気がこいつにこういう口をきかせてるんや。これは治療してやらんといかん♪ 電気ショック療法やったるべきや、電気ショック療法♪ もしくはロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪ ロボトミーやってこいつがこういう口をきけんようにしてやらんといかん。ロボトミーやったるべきや、こいつにロボトミーやったらんといかん、ロボトミー♪」
と、そう言ったのだ。

告発する!狂人は誰か―顛狂院の内と外から (1977年) - ロイ・メドヴェーデフ, 石堂 清倫
むしろ、うちの父親の方こそ「病識がない」状態ではないのか・・と思うが、そんなことを言っても通じない。
フィデロ=カストロはバチスタ政権から裁判にかけられて死刑を宣告されるが、その際、弁護士でもあったカストロは裁判において自分自身の弁護をおこない、「私に死刑を宣告せよ。そんなことは何ら問題ではない。歴史が私に正義を宣告する」と発言したそうだが、それと同じく、私もまた「私にロボトミーでも電気ショックでもやって私を殺せばいい。歴史が私に正義を宣告する」と考えた。

わがキューバ革命 (1961年) (新しい人間双書) - フィデル・カストロ, 池上 幹徳
「な~にが何でもこいつにロボトミーやったるべきや。もしくは電気ショックやったるべきや、電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック♪」と、常に「やふいのんがええ、やふいのん♪ やふいのん♪ やふいのんがええ! やっふう~いのん♪」と言いまくってそうしてきた男が言いまくるのだった。
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《 ウクライナ軍が9月の電撃攻勢で、ロシアから最初に奪還した街の一つ、バラクリヤ。約半年に及ぶ及ぶ占領から解放されたが、住民にはロシアへの複雑な感情と、「協力者」への不信が残っていた。
・・・・・・(略)・・・
住民には侵攻前、「ロシアは占領しないし、何も(悪いことは)しない」と信じる人たちもいたという。だが、実際には略奪や拷問を繰り返した。
「お前のことは彼から聞いている」
工場勤務のビクトル・ルデュクさん(48)はロシア兵に拘束された際、そう告げられた。「彼」とは隣人のこと。ルデュクさんは「密告」されていた。
ルデュクさんの父親は、2014年の東部地域の紛争で親ロシア派と戦った志願兵だった。ルデュクさんと母親は密告され、警察署に1週間以上にわたり監禁された。
ロシア兵はナイフを耳に突きつけ、「切り落とすぞ」と脅した。電気ショックを肩から加えられ、目の前が真っ暗になった。
「協力者」の隣人は、ロシア側の息のかかった「役所」で働いていたが、バラクリヤが奪還される前に姿を消したという。・・・》
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《 「誰が警察官なんだ」
約1ヵ月間拘束されたというセルギーさん(52)は、そんな尋問を受けた。
銃床で頭を殴られた。最も恐ろしかったのは、尋問の際にポリ袋を頭にかぶせられ、右手の親指に発電機のコードを巻き付けられたこと。電流で気を失いそうになり、袋で息ができなくなった。
「耐え抜いて生きているのはラッキーとしか言いようがなかった」。指の感覚はまだ戻らないままだという。 》
(バラクリヤ=高野裕介)

(「朝日新聞」2022.10.10.(月)<朝刊>)
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そしてさらにその後、私が22歳になる年には「『安売り眼鏡の店』てあるやろ。おまえの眼鏡はそういう店で作るようにせえ。おまえの眼鏡代がかかって迷惑なんじゃ」と、そう言ったのだ。
「おまえの眼鏡は安売り眼鏡♪ おまえの眼鏡は安売り眼鏡♪」(「とんぼの眼鏡は水色眼鏡」の歌の節で。⇒《YouTube-♪とんぼのめがね〈振り付き〉》https://www.youtube.com/watch?v=5dlh8HEMECo )と。
うちの父親というのは、そういう男だった。「父親というもの」がそういうものかというと、父親にもいろいろあると思うが、「うちの父親」はそういうものだった。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。北野高校卒⇒神戸大文学部卒。1970年代後半当時、20代)は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」というのが最大の自慢の女で(・・そんなもん、自慢するもんか~あ? と思うが)、「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ」と言い、そう言ってもらって、うちの父親は「作野先生は、あの先生はええ先生やでえ。さすが、北野高校でてるだけのことある。さすが、神戸大出てるだけのことはある♪」などと言って喜んでいたのだが、そんなにいいと思うなら、あげるよ、あのおっさん、旧姓作野礼子に。旧姓作野礼子こそ、ロボトミーとか電気ショックとかやってもらったらどうだ?
どこに収納したか見つからなくなってしまったのだが、慶應大学医学部の眼科だったか慶應病院の眼科だったかに勤務の眼科医の著書で青春出版社の青春新書で発行されていた眼鏡の作り方だか選び方だかいうような本に書かれていた話だが、「安売り眼鏡の店」というのが出てきたが、眼鏡というのはフレームとレンズからなるが、レンズのどの部分を切り取ってフレームに入れるか、その作業には眼鏡造りの職人として技術の習得にいくらかの時間がかかるのだが、ところが「安売り眼鏡の店」には十分に職人としての経験を積んでいない人が眼鏡を作っている場合がある、ということが書かれていた。
実際、私が21から22歳になる年、うちの父親が「おまえの眼鏡は安売り眼鏡にせえ」と言い、「東京でそういう店を探しなさい」と言うので、慶應の生協が紹介していた「安売り眼鏡の店」で、たしか、「ロベルト・パリ」と言ったと思うのだが、そこで作ったところ、どうもよく見えない。大阪府M市の眼科に行って見てもらったら、レンズの中心を基準としてレンズを切り取ってフレームに入れるべきものを、レンズの端の方を使ってフレームにいれていたそうで、だから、見えにくくて当然だと言われた。「東京の店だから言うけれども、その眼鏡屋、二度と行かない方がいいと思よ」と言われたのだ。うちの父親が「おまえの眼鏡は安売り眼鏡の店の眼鏡にせえ」と言って作らされた「安売り眼鏡」というのは、電気量販店で「やふいのん、やふいのん」とうちの父親が言って選んだ一番安いピアノライトと同様に「安物買いの銭失い」だった。
同じ小学校・同じ中学校・同じ北野高校から慶應大学経済学部に行ったS本 彰という「なまたまご」を「なまなまこ」と発音する男がいたのだが、私は慶應大学にいた時、東京と大阪を行き来する時には国鉄夜行バス「ドリーム号」か、東京駅を夜11時半くらいに出る「大垣行夜行普通」に乗って大垣駅で西明石行に乗り換えて大阪駅まで行くか、このどちらかが多かったのに対して、阪本はいつも新幹線で東京と大阪を行き来していた。「ええなあ、うらやましいなあ、阪本は。ほんまにええなあ」と思ったものだった。「わしぁ貧乏やからな。わしぁ日陰の月見草や」と思ったものだった。「この長嶋みたいなやつ!」とも思ったものだった。〔⇒《YouTube-くたばれ読売で盛り上がった東京音頭》https://www.youtube.com/watch?v=_lGaI9y6XVA 〕
そういえば、阪本は『早慶入試合格作戦』(エール出版社)などという本に「合格体験記」を書いて、その本が書店に並んでいたのだったが、私は買う気は毛頭なかったが、書店でパラパラと立ち読みしたところ、「こいつ、なんか恥ずかしい情けないこと買いとんなあ」と思ったのだった。阪本が何を書いていたかは今は忘れてしまったが、「こいつ、なんか恥ずかしい情けないこと買いとんなあ」と思ったというのが書店で立ち読みした時の私の感想だったが、ところが、阪本と会った時、私の方は何も言っていないのに阪本は「あれ、いい文章やと思えへんか」などと言ってきたので、私が「こいつ、なんや恥ずかしい情けないみっともないこと買いとんなあ」と思ったものを、逆に「いい文章や」などと自分では思っていたらしかった。・・・マア、私自身にしても、高校3年の時、「(月刊)受験の国語 学燈」(学燈社)の「懸賞作文」に応募して、「優秀賞」「準優秀賞」は文章が掲載されて、「佳作」は氏名と高校在校生は高校名と学年、浪人せいは高校名のみ(普通は「◇◇高校3」か「◇◇高校」)のみが掲載されて文章そのものは掲載されなかったのだが、私は3回、応募して2回、「佳作」に選んでもらったのだったが、その時は「残念。あと少しで文章を載せてもらえたのに」と思ったのだったが、何十年か経って考えてみると、むしろ、氏名と高校名だけの掲載で良かったかもしれん・・という気もしてきたのだ。その時は名文を書いたつもりだったのだが、何十年か経って考えてみると、何十年か後に人から見られたら恥ずかしくてたまらん・・てことになっていたかもしれん。〔 《ウィキペディアー学燈社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%87%88%E7%A4%BE によると、学燈社は《2009年『國文學』を休刊とし解散した。》らしい。悲しい。〕
松島みどりさんが『東大入試合格作戦』(エール出版社)に「合格体験記」を書いて、そこに「私は早稲田大学に落ちた時、何が何でも東大に合格してこの早稲田大学という大学を軽蔑してやるんだと心に誓った」とか、「私は文教地区と言われる大阪府の豊中市の中でも学力水準が高いと言われる☆☆小学校でオール5でした」などと書いていて、マア何を書いたとしても私なんかが書いたってどうってことないのだけれども、議員になったり大臣になったりする人の場合は、うかつなことを書くと何十年も経ってから「フライデー」に掘り返されて引用されて、「こいつ、嫌な女やなあ」とかいった調子で掲載される・・なんてことになるから、だから、議員になったり大臣になったりするような人は『☆☆大学入試合格作戦』とかいった本に体験記を書く時は内容をよく注意した方がいいと思う(^○^) 阪本は議員にも大臣にもなっていないし、ならないだろうし、なれないだろうけれども、そうであっても、世間一般に発売される本に書く時には気をつけて書かないと「こいつ、恥ずかしい情けないみっともないこと書いとんなあ」と同じ高校の同学年の人間とかに思われることになる・・・が、阪本はそうではなく「あれ、ええこと書いてると思えへんか」などと言ってきたあたりを見ると、「病識がない」状態だった・・のかもしれない。ロボトミーとか電気ショックとかやってやれば「治療」「治癒」されたか?・・というと、「この病気はそう簡単には治らない」状態だったのではないか・・という気がする。
阪本は東京と大阪を行き来する時は常に新幹線を使っていたのに対して、「日陰の月見草」の私は国鉄バス「ドリーム号」を使うか、東京駅を午後11時半くらいに出ていた「大垣行夜行普通」に乗って大垣駅で西明石行に乗り換えるという、その2つのどちらかが多かったが、新幹線に乗ったことも何回かはあった。その時のことだが、新幹線で東京から新大阪、新大阪から東京まで乗ると、かつては3時間10分かかったので、その間に昼食を取ることになることが多かったのだが、うちの父親が「東京駅か新大阪駅で弁当売ってるから、おまえはとんかつ弁当を買って食ったらええ。わしはいつでも、うなぎ弁当を食うんやけどな。おまえは、とんかつ弁当がええ♪」と言うので、なんで、そんなこと言うかなあ、新幹線の中で食べる弁当なんて、実際に食べる人間が食べたいと思うものを選んで買って食べればいいのと違うのか、なんで、おっさんが「おまえはとんかつ弁当や」などと決めるのかなあ・・と思ったのだったが、東京駅および新大阪駅の弁当売り場に行って見て、おっさんがそう言った意味がわかった。東京駅および新大阪駅の弁当売り場で売っている弁当の中では「とんかつ弁当」が一番安くて、「うなぎ弁当」が一番高かったのだ。それで、うちの父親は「おまえはとんかつ弁当や」と決めたのだった。「わしは、いつでも、うなぎ弁当を食うんやけどな」と。なるほど、そういうことだったのかと、わかった。なるほど。
「民族の違いを忘れるな」「階級の違いを忘れるな」というやつだったのだ。
「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」だ。

中国の旅 (朝日文庫) - 本多 勝一

南京への道 (朝日文庫) - 本多 勝一
※ 《YouTube-中華人民共和国国歌「義勇軍行進曲(March of the Volunteers)」》
https://www.youtube.com/watch?v=7wvyITD2stg
慶應大学に行っていた時、最初、横浜市港北区の日吉台学生ハイツに住んだが、後に川崎市幸区のアパートに引越したのだが、幸区のアパートにいた時、近所の「ほかほか弁当」の店で弁当を買ったことが何度かあったが、その時、何を買って食べたかというと、
「雨、雨、権藤、雨、権藤」みたいな調子で、
「のり弁当、のり弁当、さけ弁当。のり弁、のり弁、のり弁、さけ弁」
と、「のり弁当」か「さけ弁当」だった。他にもメニューはあったが、「ほかほか弁当」の店で1番安い「のり弁当」か2番目に安い「さけ弁当」以外は買ったことも食べたこともなかった。他にもメニューはあったというのは覚えているが、「のり弁当」と「さけ弁当」以外にメニューの名前は思い出せない。なぜ、思い出せないかというと、「のり弁当」か「さけ弁当」以外のものを買ったことがないからだ。そうすると、うちの父親が電話してきた言うのだった。「贅沢してはおらんやろうなあ。贅沢してはいかんぞ、チャンコロ。決して決して贅沢してはいかんぞ、チャンコロ」「贅沢は敵だあ! 撃ちてしやまん、一億火の玉」と。
まわりの大学生はどいつもこいつもフランスも私よりも高いものを食っていたが、私は「雨、雨、権藤。雨、権藤」でも「贅沢してはいかんぞ、贅沢は」と言われ、「贅沢は敵だあ!」「欲しがりません、勝つまではあ。とってちってたあ~あ!」と毎日毎日、言われ続けてきた。

昭和史 新版 (岩波新書) - 茂樹, 遠山, 彰, 藤原, 清一, 今井
うちの父親はそういう男だった。旧姓作野礼子はそういう男を持ち上げる女で、持ち上げてもらっておっさんは大喜びして「作野先生は、あの人はええ先生やで、あの人は」などと言っていたが、生徒にすればなんとも迷惑な女だった。
うちの父親はそういう男、「しぶちん」「しみったれ」だったが、母親の方はうちの父親と同じということではなく、眼鏡を作る時にも「できるだけ、眼が悪くならないように、レンズはいいものにしてください」と頼んでくれたのだった。母親の方はうちの父親のような「しぶちん」「しみったれ」ではなくて節約するところでは相当節約するが、眼鏡のレンズについては費用をかけてもいいものをとそこでは出すという「けち」の方だった。
しかし、眼に関しては悲しい思い出もある。
私が小学校の高学年だったか中学校の1年か2年の時だったか。夜、家で眼鏡をかけた状態で眼鏡をさわっていた時、指をすべらせて指先の爪の部分で眼を突いてしまったのだ。激痛を感じたが幸いなことに白眼の部分で、もう少しで黒眼にかかりそうな位置だったが黒眼にはかからなかったが、しかし、それでも激痛を感じた。
夜だったが、それでも、どこかの眼科に電話を入れて、こういう状況なので急遽見てもらえないですかとお願いするか、そうでなかったら119番に電話して夜間でも見てもらえる眼科を教えてもらうかして行くべきだと思ったのだ。それで、2階の私が使用していた部屋から階段を降りて1階に行って、うちの母に「眼を爪で突いてしまった。ものすごく痛いんや」と言ったのだが、そうすると、うちの母親はこう言ったのだ。「そんなもん、勉強したら治る」と( 一一)
「そんなんじゃないんや。ものすごく、痛いんや。眼に赤い筋がいってるんや。ほんまなんや。嘘じゃないんや」と言ったのだが、「勉強せえへんから、そんなんなるんや。勉強したら、そんなもん、治る」と、うちの母親は言うのだ。
「だから、そんなんじゃないんや。本当や。嘘ついてるのと違うんや。本当にものすごく痛いんや。眼に赤い血のような筋がいってるんや」と何度も何度も訴えたのだが、「やかましい! 勉強せえへんから、そんなになるんや。勉強したら治ると言うてるやろ!」と言うのだ。
「勉強したら治る」なんて言われても、痛くて痛くて、勉強なんかできるような状態じゃなかった。
そして、結果としては、不幸中の幸いとして突いたのは白眼の部分であったからか失明などはしなかったけれども、その後、しばらく痛みはとれず、そして、それから50年以上経った今も、その時に突いた後、赤い筋がいったものはなくなることなく、今も赤い筋は残っている。
「勉強したら治る」とうちの母親から何度も何度も言われたのだったが、どんなに勉強しても治らなかった











( 『ぷち 本当にあった愉快な話 総決算! 笑激! 投稿天国SP』(2022.9.23.竹書房)所収
安斎かなえ『みんなに聞け☆ かなえ の投稿わーるど!』より )
↑ というようなことだってあるのだ。私の場合は手の指の爪で突いてしまったのが幸い白眼の部分で、その時は激痛がして、それから50年ほど経つ今でも白眼の赤い筋はなくならないが失明とかはしなかったけれども、そういう場合は、たとえ、夜間でも見てもらえる眼科を捜して行くべきで、「勉強したら治る」などとおかしなことを言うものではない・・と思う。

ぷち本当にあった愉快な話 総決算!笑激!! 投稿天国SP (バンブーコミックス) - 安斎かなえ, 田島みるく
うちの父親が言うには「この世の中というものは、人に命令する人間ばっかしでもあかんし、人から命令されてせっせせっせと働く人間ばっかしでもあかんのや。両方の人間がおってこそ世の中は成り立つんや。そやからやなあ。『天の神さま』というお方は大変賢明なお方であって、わしいとかM川先生(うちの父親の親友の医者屋。1980年頃当時、50代前半。当時、大阪府豊中市在住。自称「金沢大医学部卒」だったが嘘くさい。実際は私立金権関西医大卒か、そんなところではないか)とかはドイツ人の民族で、わしは慶應の階級、M川先生は医者の階級の人間で、わしとかM川先生とかは典型的な人に命令して号令かけなければならない民族で階級の人間として『天の神さま』から決められて産まれてきた人間なんや。それに対して、あんたあは常に人に服従するべき民族で階級の人間やねん。これは『天の神さま』というお方がそのようにお決めになったんや。これは変えようと思うても決して変えることはできないことであるし、又、『天の神さま』は神さまがお決めになった掟を変えようとするような者を決してお許しにはなれへんねん。わしとM川先生は自分ではやらずに人に号令かけるのが得意の人間、あんたは人から号令かけられるというのが何よりも大好物。あんたは号令かけられると喜ぶねん。おまえはチャンコロの民族で浪商の階級の人間やねん。民族と階級の違いを忘れてはいかんぞチャンコロ浪商! これは『天の神さま』というお方が生まれる時点でお決めになったことやねん。これを適材適所とこう言うわけや♪」と、そう何度も何度もうれしそうに言っていたものだった。そもそも、「自分ではやらずに人に号令かけるのが得意」なんて、そんな人間、いない方がいいのではないのか?(会社という所には時々もしくは「しばしば」そういう人がいるけれども。) 「人に命令されてせっせせっせと働く人間」というのは「自分ではやらずに人に号令かけるのが得意の人間」にとって必要かもしれないが、「せっせせっせと働く人間」にとっては「自分ではやらずに人に号令かけるのが得意の人間」なんて、そんな人間、いない方がいいはずなのだ。「天の神さま」とかいうやつにとってどうかは知らんが「人に命令されてせっせせっせと働く人間」と「天の神さま」から認定された者としては「自分ではやらずに人に号令かけるのが得意の人間」なんて、そんな人間、いなくてもいいのだ。
うちの父親はそういう男だったので、私に日夜、号令かけていた。「てってこっこ、てっててって、らったらったらったら♪ てってこっこ、てっててって、らったらったらったら♪ 撃ちてしやまん、一億火の玉、欲しがりません、勝つまでは! とってちってたあ~あ♪ 木口小平は死んでもラッパを放しませんでしたあ! いっらいっらしてきた、いっらいっらしてきた。いらいらしてきた、いらいらしてきた、してきたしてきたしてきたしてきた。戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元~お! わしに孝行せえよお! わしに感謝感謝感謝感謝じゃあ~あ、いっらいっらしてきたあ~あ、いっらいっらしてきたあ~あ♪」と、毎日毎日、叫んでいた。
そして、私が小学生の頃から毎日のように言っていた。「寝ずにや~る! 根性でや~る! 気合でや~る!」と。 そして、それはあくまでも私に言うことであって、自分はというと、午後9時にもなると「寝よ、寝よ、ぽんぽん、寝よ、ぽんぽん♪ 寝よ、寝よ、ぽんぽん、寝よ、ぽんぽん♪ もう、歯あ、磨きました♪」といつもその節回しでつぶやくと、午後9時過ぎには寝床に入っていた。そして、私には言うのだった。「寝ずにや~る! 気合でや~る! 根性でや~る! とってちってたあ~あ!」と。・・そういうおっさんやった( 一一)
そして、「朝起きの悪いやつというのはあかんのや。その点、わしは、朝、6時になったら自然と眼がさめて、ぽんと起きる。そして、ゆうゆうと電車には座って行く」と言うのだった。「電車に座って行く」のは始発駅から乗っていたからだったのだが、「朝、6時になったら自然と眼がさめて、ぽんと起きる」と言うが、おっさんは夜9時頃には寝床に入っているのであり、そんな時刻から寝床に入って、そして、寝床の中でプロ野球ニュース見て、終わったら寝ていたのだから、「ぽんと起きる」くらいできるだろうが・・と思ったが、そういうおっさんやった。それでいて、私には「寝ずにやる、根性でやる、気合でやる」と言うのだった。要するに「わしは自分ではやらずに人に号令かけるのが得意の人間やねん」てのは、そのことを言っていたのかもしれない。
会社にも、たとえば、1990年、小堀住研(株)〔⇒エスバイエル(株)・・⇒(株)ヤマダエスバイエルホーム⇒(株)ヤマダホームズ https://yamadahomes.jp/ 〕の東京都目黒区 の自由が丘展示場で課長にならせてもらっていた高橋賢一郎などは、高橋は毎日、定時過ぎに帰宅して、私は夜11時前後まで仕事をしていたのだが、私が始業時刻より前に出勤しても、高橋賢一郎も普段はその時の私と同じくらいの時刻に出勤しているのに、たまたま、自分が少し早めに出勤することがあると「遅い」とか言いよったことがあって、「なんだ、こいつ?」と思ったことがあったが、そういう男というものはいるものだ。課長というものは、その営業課の従業員がそれほど夜遅くまで勤務しなくてもやっていけるように配慮するのが仕事のはずなのだが、自分だけさっさと先に帰っていた男が、たまたま、早めに出勤するとそういう態度をとるという、そういう性格の人間だった。 北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」というのを最大の自慢にしていたが、小堀住研(株)にいた高橋賢一郎(男。1990年当時、30代半ば過ぎ。福島県喜多方市出身、東京電機大学卒)もまた「両親が離婚した」男で、高橋賢一郎の場合は母親の方ではなく父親の方にくっついていった男だったらしいが、「両親が離婚した」人間というのは、この2人のように性格いがんでいるのか・・というと、そういうものでもなく、それは「人による」のではないかと思う。高橋のような人間には本来なら支店長が注意しないといけないはずだが、東京支店長の高倉はそのあたりを把握できていなかった。把握できない人が支店長になっていた。高倉は初対面で見ると、身なりなどきっちりと整えていて営業の経験を積んできた人という印象を受けたし、営業担当として、もしくは営業課長であったなら悪くない方の営業課長だったかもしれないが、つきあえばつきあうほど「やっぱり、高卒の支店長やなあ( 一一) 」と思えてくるという人だった。小堀住研(株)はその程度の人だらけの会社だった。私は大学生だった時、うちの父親の勤め先の工場にアルバイトに行ったことがあったが、他業種だが創業以来の年数、従業員数などは同じくらいで、社長はどちらもその時点で2代目で、うちの父親の勤め先は上場していなかったが小堀住研(株)は一部上場だったので、上場している分だけわずかに上かと思って入社したが、入社してみると、そこで部長とか支店長とかになっている人間、さらには東部営業本部長とかになっている人間を見て、「この会社、『一部上場』とか『(その頃の時点で)戸建住宅建築業で施工棟数全国8位』とか言うわりに、こんなに程度低いのお?」とびっくりした。うちの父親の勤め先よりも上場している分だけわずかに上かと思ったら、そうではなく下だった。・・私は高校を卒業する時に東大を落ちたところ、うちの父親の親友の医者屋のK田とM川から「高校は義務教育ではないんやから、あんたなんか高校には行ってはいかんはずやのにからに、あんたが高校に行ったというのは、それはあんたが甘ったれているからや。ましてや、あんたなんか、大学には行ってはいかんはずや」と言われて、なおかつ、そういうことを言うK田の息子は私立バカ大学を2つも言っていて、M川の息子はM川が「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして貯め込んだカネから私立金権関西医大に裏口入学させていて、M川の息子は高校も私立高校(おそらく、これも裏口)だったが、おのれらのドバカ息子はそういうドバカ大学に行かせておいて小学校:公立・中学校:公立、高校:その地域で一番の公立高校で最終的に通るかどうかは別として旧帝大系国立大学に合格できる可能性が十分あった私には「義務教育でない以上はあんたは高校には行くべきではないのに行ったんや。ましてや、あんたは大学には行ってはいかんはずや」などと言ってきたのであり、私が親なら、そんなことを言ってくるやつには「なんで、あんたらにそんなこと言われなきゃなりまへんねん。そんなこと言うなら、あんたらのドバカ息子こそ、小学校行ったのが余計やろうが!」と言い返してやるところだったが、ところが、うちの父親というのはよその親からそういうことを言われると喜ぶ男だったのだ。「そうや、その通りや♪ ええ~えこと、言いはるっ♪」と言って喜ぶのだ。それならK田の息子はバカ大学を2つも行っていいのかというと「2つも大学に行ってるんやから、一生懸命勉強せんといかんなあ」という結論に持っていき、M川の裏口息子はというと「裏口入学で大学に行かせてもろうたんやから、勉強させてやらんといかんいうこっちゃ」ということになり、実力で旧帝大系国立大学に合格できる可能性が十分あるというところまで努力してきた私はというと「義務教育でないからには行ってはいかんはずや」という結論に持って行くのだった。「義務教育は小学校と中学校だけで高校は義務教育とは違う」という最初の理屈は同じでも、K田のドバカ息子やM川の裏口息子と私とでは結論は正反対の所に持って行くのだった。その基準からいくならば、高橋賢一郎なんかは、義務教育であろうがなかろうが「小学校行ったのは余計や」ということになるはずだったが、ところが、私などは、うちの父親から「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われ、私が「国立大学なら何学部でも学費は一緒のはずや」と訴えても、うちの母親が「何を甘ったれた口をきいてますのん、何を。絶対に間違いなく百パーセント、国立大学に通るとは決まってませんでしょ。たとえ、0.1%でも落ちる可能性があったら国立大学でも工学部なんか受けてはいかんでしょうがあ」と言われて工学部などは受けさせてもらえなかったし、又、「東大に行くというのなら東京で下宿してでも行ったらいいし、行くべきやし、下宿は嫌やなどと甘ったれたことを言うておってはいかんし、東大でなくても慶應か早稲田なら下宿してでも行く値打ちはあるけれども、そんなもん、法政やたら明治やたら専修やたら東洋大やたらなんたらかんたらいうようなアホ大学に行くのに下宿してまで行く必要あらへん。甘ったれとってはいかん、甘ったれとっては」と私が高校3年の時にうちの父親は言っていたのだったが、高橋賢一郎の父親というのはラーメン屋をやっていたらしいが、会津地方、喜多方市の人間だったらしいが、東京電機大なんて、そんな電気代か電話代かガス代かわからんような私立大学に行くのに東京だか埼玉だかで下宿までして行くやなんて、よっぽど金持ちやったのと違うかて感じがする。どうも、ラーメン屋て相当儲かるみたいやなあ・・・。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」というのを最大の自慢にしていて「私は家が貧乏だったから」と言っていたが、「両親が離婚した」「父親がいなかった」というのは本当のようだが「家が貧乏だった」というのは嘘だと思う。なにしろ、私なら「うちは文学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われたものだが、それを旧姓作野礼子は神戸大の文学部になんか行っていたのだから。しかも、私は「うちは学校の先生になんかならせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われて高校の教諭にはならせてもらえなかったところを旧姓作野礼子は高校の教諭になっていたし、私は「うちは高校の先生になんか、ならせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな。特に国語とか社会科とかの先生はなってはいけません。たとえ、高校の先生でも数学か英語の先生でなかったら家庭教師のアルバイトができません。そやから、国語とか社会科とかの先生は絶対になってはいけません」と言われてその道を閉ざされたものだったが、ところが旧姓作野礼子は私なら絶対に行かせてもらえない神戸大の文学部みたいなもんに行って、しかも私はならせてもらえない高校の先生になって、しかも、「特になってはいけません」という「国語」の教諭になっていたのだから、旧姓作野礼子は「うちは家が貧乏だったから」などとナマ言っていたが、それは大嘘で実際は金持ちだったはずだ。少なくとも、大学進学と就職においては大金持ちだったはずだ。実は「両親が離婚した」「父親がいなかった」という娘というのは金持ちだったのだ。高橋賢一郎もまた、うちの父親は私が高校3年の時には「国立大学か私立でも早稲田・慶應か、せめて、関関同立くらいにでも行くのなら大学に行ったらええけれども、そんなもん、き~ん大とかぴ~ん大とか、あるいは法政やたら明治やたら専修やたら東洋大やたら、そんなアホ大学に行くようなやつ、大学に行くことあらへん。甘ったれとってはいかん、甘ったれとっては。そんなアホ大学に行くようなやつなんか、自衛隊に入れたるべきや、自衛隊に。自衛隊に入れ、自衛隊に。とってちってたあ~あじゃ」と言っていて、又、「下宿して大学に行くのも、東京で下宿して東大に行くというのなら下宿してでも行ったらいいし、行くべきやし、下宿生活は嫌やなどと甘ったれたことを言うておってはいかんし、東大でなくても慶應か早稲田に行くのでも下宿して行く値打ちはあるけれども、そんなもん、法政やたら明治やたら専修やたら東洋大やたらなんたらアホ大学に行くようなやつが下宿してまで大学に行くことあらへん」と言っていて、又、「東大に行くのなら下宿して行くしかないけれども、京大に行くなら自宅から通うべきや。下宿することあらへん。甘ったれとってはいかんぞ」と言って、もし、京大に行ったら片道2時間以上かかるところに毎日、通えと言われたものだった。同じ小学校・中学校・高校から1浪して京大の法学部に行った「野口くん」てのは京都で下宿して京大にと行っていたが、うちの父親が私に言った基準からすると「甘ったれとる」ということになるはずで、箕面から石橋・十三・京都河原町と3 回、乗り換えて「京都河原町」からバスに乗って百万遍の京大まで通学しないといけないはずだったが、「野口くん」はウルトラ甘ったれとったようで、京都で下宿して京大に通っていて、なおかつ、週末ごとに大阪府箕面市までけっこう高い交通費をかけて帰ってきて往復しておった。又、私はうちの親から「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われ、「国立大学なら何学部でも学費は一緒のはずや」と言っても「百パーセント、絶対に国立大学に通るとは限らんでしょうが。たとえ、0.1%でも落ちる可能性があったら国立大学でも工学部は受けてはいかんでしょうがあ」と言われたものだったが、ところが、高橋賢一郎は「小さい頃に両親が離婚した」そうで旧姓作野礼子とは違って父親の方にくっついていったらしく「母親がいなかった」らしいが、福島県の会津地方、喜多方市の人間だったのに、私立も私立の東京電機大学なんてわけのわからんどこの馬の骨かわからん、電気代か電話代かガス代かわからんような私立大学の工学部みたいなもんに、東京で下宿までして行きよった。よっぽど金持ちだったようだ。旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」と言えば誰もが「作野先生はお父さんがおられなくて苦労してこられただけあって、しっかりしておられるわあ」とか言ってほめる義務があると考えていたようだったが、そんな義務なんかないし、旧姓作野礼子はそういうことを言ってもらう権利があると認識していたようだったが、そんな権利なんかない。なによりも、旧姓作野礼子にしても高橋賢一郎にしても「両親が離婚した」という人間は大学進学については「めっちゃ金持ち!」である。「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」だの「うちは子供の頃に両親が離婚して母親がいなかったから」だのと自慢みたいに言う人間というのは、実はもんのすごい金持ちなのだ。うちなんか、東京電機代か電話代かガス代かみたいなわけのわからん私立大学の工学部になんか、行きたいなんて思ったことはまったくないし、少なくともそれよりはマシな大学に合格できたはずだが、まず、およそ、行きたいなんて口にできなかった。それを高橋賢一郎は当たり前みたいな顔して行って、そして、そういう大学を卒業した人には卒業した大学の名前をあんまり言いたくないという人がいて、住宅建築業の会社では建築学科卒は高く評価されるのでそれを言いたいという場合でも、「御主人さん、私、××大学ですけども、一応、建築学科でてますんでえ」とか申し訳なさそうに言うおっさんがいるのだが、高橋賢一郎の場合は私に「『うちの課長は建築士の資格は持ってませんけれども建築学科でてますから』とそれを売りにするといいよ」などと言うので、はあ? はあ~あ? と思ったことがあった。小堀住研(株)は「大卒しか採らない会社」と何十年前から言いまくっていた会社で、かつ「創業者の小堀林栄は竹中工務店で設計をやっていて、それで竹中工務店が建てるような戸建住宅を専門とする会社を作ろうとして小堀住研を作ったんです」と言いまくっていた会社だった(実際は小堀林衛という人は高卒の人で、竹中工務店の設計というのは京大くらいの建築学科でも学部卒ではなかなか採用してもらえなくて修士卒くらいの人が勤める所であり、高卒の小堀林衛さんが勤めていたとは考えにくく、そして、実際には竹中工務店で設計やっていたというのは嘘だったらしいが)、そういうことを言いまくってきた会社で「うちは一部上場ですからね」と言っていた会社だったので、そう言われた客の側では小堀住研(株)の従業員というのは、せめて国立大学か早慶か関関同立くらいの大学は出ている人ばかりかと思うようになったのだったが、そういう相手に「うちの課長は建築士の資格は持っていませんが建築学科でてますから」などと言ったなら、言われた側としては、国立大学か早稲田大か、いくらなんでも立命とかそのくらいの大学の建築学科くらいは出ているのだろうと思って、「どちらの大学なんですかあ?」ときくことが予想されるのだが、そこで「△△さんなんかはご存知ないでしょうけれども、東京電機大学という名前の私立大学が東京の御茶ノ水と大手町の間くらいにあったんですけれども、最近、埼玉県の方に引越したみたいですが、そこみたいです」などと言ったなら、「はあ? 小堀住研にそんな大学の人がいるんですかあ」と言われてしまうことになる・・ということが予想されたのだった・・が、そういうことを言わせようとするということは、高橋賢一郎は東京電機大学なんてそんなところ、そんな私立大学のしかも工学部になんかに福島県の人間が下宿までして行ったということについて、私なら絶対に行かせてもらえないし、そんな大学に行きたいと思ったことは一度もないし、又、そんな大学に行かなくてもそこよりはマシな大学に合格できたが、私ならたとえ行きたいと言っても絶対に行かせてもらえなかったような私立大学の、しかも工学部に行ったということを、むしろ「ちょっと自慢」に思っていたらしかった( 一一) ( 一一) ( 一一) 北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」と自慢しまくり、「うちは家が貧乏だったから」と嘘を言ったが、実際には「両親が離婚した」人で親が片方しかいなかった人というのは決して貧乏などではなくて、我が家なんかと違ってもんのすごい大金持ちだったようだ( 一一) 騙された( 一一)
会社という所には、自分は終業時刻過ぎたらさっさと帰って夜9時には布団の中に入って、布団の中で酒 飲んでプロ野球ニュース見て寝て、「朝、6時になったら、ポンと起きる♪」とか、深夜まで働いてへとへとになっている従業員にえらそうな口をきくというようそういう人が時々いるのだが、そういう人というのは、たいてい、自分の息子には「おまえ、あんなヨタ話にひっかかったらいかんぞ」と教えて、そういう「寝ずにや~る! 気合でや~る! 根性でや~る!」とかいうのはひとの息子に言うものだったが、うちの父親はそうではなくて、私にその「寝ずにや~る! 気合でや~る! 根性でや~る!」というのをやって、そして、ひとの息子には「ええかっこしい」やるのだった。「わしは思いやりがあるね~ん」とか言って。
私が近視になってしまったのも、ひとつには父親がそんな人間だったから、そんなもの、「寝ずにや~る」だの「気合でや~る」だのなんて、そういう大日本帝国軍隊の精神主義みたいなもの、通じるわけないだろうが( 一一) ・・・と思っても、それでも、そういうおっさんの叫び声を毎日毎日聞かされてきて、その影響を受けてしまっていたようで、会社に勤めても、そういう影響を受けてそういう勤め方をして、ふと気づくとそんなものやっているのは私ひとりだけで、他にそんなものやっている人間なんて誰もない・・ということが何度もあった。

菊と刀 (講談社学術文庫) - ルース・ベネディクト, 長谷川 松治
1990年、小堀住研(株)の自由が丘営業課 課長の高橋賢一郎は、同社では「応募条件」が「技術系(設計・工事・工務・アフターサービス)」は「4年制大学の建築学科卒もしくは土木学科卒で、普通自動車第1種免許取得者」、「営業系(営業・人事・総務・経理)」は「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人で、普通自動車第1種免許取得者」という条件で、採用実績校は「神戸大・新潟大・同志社大・関西大・甲南大」だったか書いてあったと思ったのだが、高橋賢一郎はこの「営業系」の条件である「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」の条件も「普通自動車第1種免許取得者」の条件も、どちらの条件も満たしていないにもかかわらず採用してもらっていたが、「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」という方の条件は満たしていない代わりに「4年制大学の建築学科卒の人」という「技術系」の方の条件を満たしているということで、その条件を満たしている人に「準ずる」という扱いにしたとしても、「普通自動車第1種免許取得者」という方の条件は満たしていないにもかかわらず採用してもらったなら、いわば「選考進級」で進級させてもらったような人なのだから、入社後に速やかに普通自動車第1種免許は取得するようにすべきだったはずだが、ところが取得していなかった。小堀住研(株)では新卒入社の人間は入社1年目は電車・バスで営業するということになっていて、その間、もし、自動車で行かないとできない業務があった場合は営業課長が課長のクルマに新人を乗せて課長が運転して行くということになっていて、そのかわりに課長は課長の役職手当を受け取っていた。ところが、高橋賢一郎は自分が普通自動車第1種免許を持たず自動車も持たず、自分の営業課の課長ではない営業担当者に営業担当者のクルマに乗せてもらって運転してもらって行っていた。それでいて課長の役職手当は高橋賢一郎を乗せてあげて運転してあげて高橋賢一郎が担当の見込客・契約客の居住地や建築地に連れて行った営業担当者が受け取るのではなく、乗せてもらった高橋賢一郎が取得していた。これでは「やらず、ぶったくり」だったが、高橋賢一郎はその「やらず、ぶったくり」をやっていて、小堀住研(株)という会社は高橋賢一郎に「やらず、ぶったくり」をさせていた。
それだけではなく、入社2年目に入った私が仕事で使用するクルマとして「比較的悪くない中古の乗用車」を購入しようかと考えたが、うちの母親が、離れて暮らしていることであり、普通自動車第1種免許は前から持っていても普通自動車の運転は初めて運転するのだから、運転の能力が十分でないなら自動車の方は確かなものに乗ってもらいたいので、不足分は出すから新車を買ってくれと言ってくれて、それで新車を購入しようとしたところ、課長の高橋賢一郎が「それじゃあ、俺がそのクルマを運転してやろうか」などと怖ろしいことを言ってきた。高橋賢一郎はその時点で普通自動車第1種免許を保有しておらず、自動車学校に通っていた最中だったのであり、そんな人間が運転したならば「無免許運転」になるし、運転させたなら運転させた側もまた責任を問われる危険がある。小堀住研(株)はそんな危険な男を課長にならせていたのだった( 一一) 会社というものは、その時の高橋賢一郎のようなことを言い出す人間がいないように十分に気をつける必要があるはずだ。そもそも、小堀住研(株)の営業課や工事課・アフターサービス課の職種の従業員は日常的に自動車を運転して移動しないと仕事にならない職種であり、そういう職種であるから「応募条件」として「普通自動車第1種免許取得者」という条件になっていたものを、高橋賢一郎はそれを取得していないにもかかわらず「選考進級」のように採用されて入社したのだったが、そうであるならば、営業担当者から営業課長への昇進は最低でも「選考進級」の条件を解消してから、普通自動車第1種免許を取得してからでないとおかしいはずで、それを取得してもいない人間を課長にならせるから、だから、この時の高橋賢一郎のような違法行為の要求、反社会的な要求をする者が出てくるのだった。私なら自動車の運転免許を持っていても、それでも運転になれていない段階の時なら、ひとのクルマを運転させてくれなんて言わないし、ましてや、新車を購入したなら購入した者よりも先に「運転してやろうか」などと言わないが、高橋賢一郎は無免許でありながら「ぼくが運転してやろうか」などと言ってきたのであり、こういう発言は新卒社員でも非常識だが高橋賢一郎はその時点で30代の半ばを過ぎていた人間であったが、そういう非常識な男を「選考進級」であるにもかかわらず課長に昇進させた東京支店長の高倉には責任があるとともに、東部営業本部長にも責任があるはずで、東部営業本部長の増田和二は富士銀行から出向できて、何ら小堀住研(株)に貢献しなくても優遇してもらう権利があるみたいに思っていた人間だったが、そういう男を出向で東部営業本部長に送りつけた富士銀行(現 みずほ銀行)の代表者 代表取締役・頭取にも使用者責任があるはずだ。
※ 無免許でひとのクルマを運転したがるやつのお話としては⇒《YouTube-トラブルバスターズ――【スカッと】私の車が無い…→盗難届を出すと…義母「娘が仮免で事故った!」【スカッとする話】【アニメ】【漫画】【2ch】》https://www.youtube.com/watch?v=TZta0u3vK2U
この「トラブルバスターズ」の「義妹のなつきさん」を見て、高橋賢一郎みたいなやつだな・・と思った( 一一) 私は小堀住研(株)にいた時、展示場の事務所の机の上に自分の自動車の鍵を置いて少し席を離れたことがあったが、少しの間なら、机の上にクルマの鍵を置いていても勝手に持ち去って人のクルマを無断で運転しようなんて人間はいないと思いこんでいたし、それまで在籍した展示場にいた営業社員でも展示場の事務所の自分の机の上に自分の自動車の鍵を置いて席を離れる人はいたのだが、そういう人は、まさか、小堀住研(株)の展示場の事務所の机の上にクルマの鍵を置いていても、自分の会社の従業員で断りもなくひとのクルマの鍵を持ち去ってひとのクルマを運転してやろうなんて人間はいないだろうと思ってそうしていたのだが、高橋賢一郎がいる展示場の場合は安心できない。無免許の男が「ぼくが運転してやろうか」などと言うそういう男がいる展示場(営業所)の場合は、うかつに事務所の机の上にクルマの鍵を置いて席を離れるといったことをするのは危険だったと今は思います。ああいう男をよく課長にならせるなあ・・と思いますね。
「そうは言いましても、高橋賢一郎さん、まだ免許 持っていませんよね~え」
学校の成績を上げようと考えるならば、そういう精神主義というのか、日本軍国主義の悪影響というのか、竹槍で突撃せよみたいな考え方では成果は出ない・・と思う・・のだが、うちの親は私にそれをさせようとしたのだ。大学入試は平等ではないと私は思っている。北野高校の同級生とかでお父さんが東大とか京大を出た人、もしくは東大とかに行きたいと思ったが行けなくて慶應大・早稲田大とかに行った人の息子・娘というのは本当にうらやましいと思ったものだった。親の理解が全然違う。 大王製紙の二代目社長は北野高校から東大を受けたけれども合格できず慶應大に行ったが、息子には何が何でも東大に行かせたいと思って息子は筑波大付属駒場高校から東大に合格して行って卒業して大王製紙(株)の3代目を継いだ・・が、ラスベガスのカジノでしょーもないことやりよったあ~あ・・あ~あ・・ということだったらしいが、実際に合格して行ったか、合格できずに息子にこそ行かせたいと思ったかは、それはどちらが息子にとっていいかは一概に言えないと思うが、うちの親なんかとは全然違うと実感した。
なんというのか、竹槍でB29に突撃しろとかいうような、「気合でや~る! 根性でや~る! 寝ずにや~る!」というのは・・、もう実際のところ・・疲れる( 一一) ・・⇒《YouTube-リゲイン TVCM|2014 すみれ「どーなっとるんだ」篇 「3、4時間」篇》https://www.youtube.com/watch?v=1TbzRq6QmWE
「24時間戦うのは、しんどい」
うちの父親と漫画家の水木しげる は同じ年の生まれで誕生日も1か月ほどしか変わらなかったのだが、ところが、戦後になって言うことは全然違った。水木しげる は戦中の体験として「我々はアメリカ(合衆国)人とは違って大和魂というものを持っていて精神が優れているので、食べるものがなくて栄養が足らなくても気合が充実しており、アメリカ(合衆国)人の兵隊は食料に恵まれていてたらふく食っていても水ぶくれであって精神がないから、だから、彼らは精神が充実した我らに比べるとたいしたことないのだ」と教えられた・・が、実際に戦ってみると、やっぱり、食うもの食ってるやつには勝てんということがよくわかった・・と水木しげるは書いていたのだが、同じ年の生まれで誕生日だって1か月ほどしか変わらないはずのうちの父親はそうではなくて、「寝ずにや~る! 気合でや~る! 根性でや~る! とってちってたあ~あ!」と戦後になっても、朝鮮戦争過ぎても1964年の東京オリンピック過ぎても、1970年の大阪万博を過ぎても言っていた。あくまで私に言うのであり、自分自身には決して言わなかったが。私が小学校3年の時の視力検査では両眼ともに1.5見えていたのに近視になってしまったのは、うちの父親がそんなのだったからということが一因としてあると思っている。
小学校の5~6年だったか中学校の1~2年だったか、どちらの時だったか、定期考査があったと思うから、中学校の1年か2年の時のことだったかもしれないが、私が中学校2年の初めに結婚した上の姉がまだ家にいた時期のことだから中学校1年の時だったかもしれない。
陸上競技の中距離層では「スタートダッシュ」「中間疾走」「ラストスパート」という考え方があり、「スタートダッシュ」というのは最初に走り出す時、走り出せるように気合を入れて走る、「中間疾走」はスタートダッシュで走り出した走力を活かしてスピードを落とさずに走る、「ラストスパート」は最後に気力を振り絞って走る・・ということらしく、その文章だけ読むと、なんやねん、結局、「スタートダッシュ」で必死に走る、「中間疾走」で必死に走る、「ラストスパート」で必死に走る・・と最初から最後まで必死に走らされるということかい・・て思えてくるが、それは説明が悪いのであり、人間の身体というものは習慣づけができると比較的苦労せずにできてみたりするもので、その習慣づけのようなものができるまでは頑張ってやらないといけない、それが「スタートダッシュ」で、勢いがついた状態でその状態を利用して走るのが「中間疾走」で、最後、あと少しだからその後のことは考える必要ないから力の限り走るというのが「ラストスパート」ということのようで、これは陸上競技の中距離層に限ったことではなく、日常においても似たことはあると思うのだ。
小此木啓吾の ””「モラトリアム人間論」を喜ぶおっさん症候群”” というのがいて、うちの父親なんかもそうで、「大学生というのは遊んど~る。甘ったれと~る」と言って「てってこっこ、てっててって、らったらったらったら♪ てってこっこてっててって、らったらったらったら♪」と言いたがるのだったが、そもそも、大学生というのはそんなに「遊んど~る」かというと、人にもよるだろうがそんなことないと私は思ったし、何より、うちの父親が大学生がどうなのか実態を知って言っていたかというと、知らずに言っていた、自民党系・右翼反動系政治家やその取り巻きの程度の低い「文化人」が大学生が大学在学中に様々な問題について自ら考えることを妨げて、「見る前に跳べ」というように右翼反動の側の思考を観念的に見につけるようにしむけようとして発言しまくっていたものに簡単に感化されていただけのことだったと思われる・・が、慶應大学の商学部の「経済学」という必修科目の講義の時に、マルクス経済学者ではなく近代経済学者のN教授が言われたのが
「パンツのゴムでも引っ張ってばっかりでは、そのうち、伸びきって役に立たなくなるわ」
という発言で、別に何も大学生というのは「モラトリアム人間」でけしからん、もっと、せっせせっせと滅私奉公的に働けとか言わなくたって、どうせ、就職したら働かなきゃならんのだから、大学に入るまでに相当根詰めて勉強してきたことだし、大学生の間、少しくらい遊んだって、そんなことに目くじら立てる方がおかしい・・ということをこの「パンツのゴムでも引っ張ってばっかりでは、そのうち、伸びきって役に立たなくなるわ」言われたのだった、又、商業学のH教授は「商業学総論」という講義の中で、東北大卒で国家公務員やっている人から、もっと慶應大学の人に国家公務員になってもらいたいと言われたという話をされて、その理由として、ひとつは同じ大学の卒業生ばかりでは思考が一定化して組織が硬直化してしまう、ある程度、異なる大学の出身者がいる方がいいと言われ、そのために慶應大学の人にはもっと国家公務員になってほしいと言われたそうで、もうひとつの理由として、旧帝大系国立大学卒の人には中に「伸びきったパンツのゴムみたいな人」というのがいると言われたそうで、「伸びきったパンツのゴム」というのは、大学に入学するまでに全力を注ぎこんで、大学を卒業したらもうその時点で止まってしまってもうまったく伸びないという人というのがいると言われ、その点、慶應大学卒の人はよく伸びる・・と言われたそうで、「そりぁ、俺たち、遊んでるもんなあ」などと言われたのだが、私なんかはちっとも遊んでないが、しかし、大学の体質として、旧帝大系国立大学と慶應大なら、イメージとしては旧帝大系国立大学の方が《「伸びきったパンツのゴム」みたいな人》というのは多そうなイメージはある。1990年、小堀住研(株)に富士銀行(現 みずほ銀行)から出向できていた増田和二(男)なんかも東北大法学部卒だったようだが、その旧帝大系国立大学に合格した時点で力尽きた「伸びきったパンツのゴムみたいな男」のひとりだったのではないか、と思う。
それで、人生のある程度長いスパンで考えるのでなく、もう少し短い期間で考えて、中学校には中間考査・期末考査というものがあったが、常に「ラストスパート」みたいな走り方をしていたのでは長く持たない。そうではなくて、「スタートダッシュ」で勢いをつけたなら、そこからは「中間疾走」として長く続けられるようなやり方でやり、中間考査・期末考査の前など限定で「ラストスパート」のようなやり方でやるようにするべきで、そうしないと眼を悪くすると私は言ったのだ。ところが、そういう時になると、うちの上の姉はうちの親に加担するのだったが、あのおねえさんはどうもそういうところがあった。
その時だが、うちの母親はこう言ったのだ。
「眼えみたいなもん、なんや。眼えなんか、つぶれてもかまわん。受験がすべてや。眼えなんか、つぶれてもかまわん!」と。
うちの母親は私にそう言ったのだった


えらいこと言うなあ~あ・・と思った。
そういえば、1970年代後半、北野高校の「漢文」の教諭だった藤尾というおっさん(男。当時、40代)が、「懇談なんかいたしますとね。お母さんが『東大でたって出世するとは限りませんからね』なんておっしゃるんですよね。『そうですね』なんて言っちゃいましてね」などと授業中に言うのだったが、自分が東大文学部中国文学科を卒業して高校の「国語」の教諭になって「漢文」と「現代国語」を教えていたことを、「東大でたって出世するとは限りませんからね」の例だとして「『そうですね』なんて言っちゃいましてね」と言ったという話だったが、東大の文学部中国文学科を卒業した人の勤め先というと、大学院に進んで大学の教授・助教授といったものになるか、そうでなければ高校・中学校の「国語」の先生になるか、そうでなかったら出版社とか新聞社とかそういう所に勤めるか、もしくは中国文学に関係があるような博物館とかそういった所に勤めるか、そういうものが東大文学部中国文学科卒の人の勤め先のはずだから、北野高校の「国語」の教諭になっているというのは悪くない勤め先のはずで、「東大でたって出世するとは限りませんからね」と言われて「そうですね」とか言ってひがむ必要はないのではないか、もしも、国家公務員として出世したいのなら東大でも文学部ではなく法学部に行って国家公務員1種試験合格で官庁に勤めるべきだし、裁判官とかになりたければ司法試験合格を目指すべきだし、商社とか銀行とかで出世したかったのなら経済学部にでも行くべきだったのであり、文学部の◇◇文学科に行った人というのはそうではなく、文学を学び、職業としては高校の先生とかの方が国家公務員とか商社とか銀行とかで出世するよりもいいと思ってその方向に進んだ人なのだから、「『そうですね』なんて言っちゃいましてね」などと言わなくてもいいのではないのか・・と思ったのだった・・が、この話をクラブのOBである京大に行った人に話したところ、「違うよ、違うよ。あいつの場合は、そういうことを言うことで『自分は東大出だ』と言いたいんだよ。だから、藤尾がそういうことを言いだした時は無視してやらなきゃだめなんだよ。相手にしちゃだめなんだ」と言うのでした。
マア、「『そうですね』なんて言っちゃいましてね」とか言ってみたければ言ってもいいのだけれども、しかし、「旧帝大系国立大学卒の人には『伸びきったパンツのゴムみたいな人が中にいる』という話を聞いた後に、この発言を考えてみると、そう言われると、藤尾という男も「初日に勝ったことで残りの14日間も勝ったみたいに勘違いしている相撲取り」みたいなところがあるおっさんやったな・・と思うようになった。相撲取りは初日に負けても2日目から15日目まで14連勝して優勝することもあるし、初日に勝っても2日目から14連敗することだってある。慶應大の学生や卒業生で「東大の人間は・・」と言う悪口には、実際には慶應の人間の方がよりあてはまるというものが少なくないと私は慶應大学で感じた、又、これを慶應大学の学生に話すと「そうです、そうです。その通りです。慶應の人間の方がむしろあてはまりますよ」と言う者が大学から入った人間には少なからずいたのだったが、しかし、東大の出身者・・といっても人によって違うのだけれども、東大の出身者の中には「初日に勝ったことで2日目から14日目までも勝ったみたいに勘違いしている人」というのが現実にいると思う。北野高校の「国語」「漢文」の教諭だった藤尾には、その傾向が現実にあった、と私は認識するようになった。高校生だった時には気づかなかったが、卒業して10年以上経って、気づいた。大学でやっていること・大学卒業までに学んだものというのは大学卒業後、特に仕事において役立つのかどうか・・という問題において、「学んできたものがそのまま役立つ仕事」としては、大学の教授・助教授といった教員、高校・中学校の教諭、裁判官・検事・弁護士とか公認会計士とかは「そのまま役立つ」度合いが大きい。工学部・理学部卒で会社に勤めた場合でも研究所のような所に勤めた場合は「そのまま役立つ」度合いが大きいであろうし、外国語学部を卒業して商社など外国語を使うことが多い仕事に勤めた場合も「そのまま役立つ度合い」はけっこうあるのではないかと思うが、経済学部・商学部・経営学部といった学部を卒業して会社に勤めた場合や法学部卒でも弁護士・司法書士のような仕事ではなく会社に勤めた場合には役立たないわけではないが「そのまま」は役立たない、会社に勤めてある程度以上、そこで勤めてこそ役立つようになってくる傾向がある。高校の先生とか「そのまま役立つ仕事」についた場合には「そのまま役立つわけではない仕事」についた場合よりも、東大に合格して卒業した人は「初日に勝った」ということから「2日目から14日目までも勝ったみたいに勘違いしている」ような状態になりやすい傾向があると見られる。北野高校の「国語」「漢文」の教諭だった藤尾先生にはその傾向が見られた。あの人がそれに気づくのは、おそらく死ぬまでないだろう。
世の中には、国家公務員とか大企業で出世した人間がエライと思う人というのもいるでしょうけれども、しかし、高校の先生になった人というのは、公務員とか会社員で出世するよりも高校の先生になった方がいいと思う人がなったのではないのでしょうか。そうでないのなら、高校の先生ではない道に進めばよかったはずです。『味いちもんめ』という板前を描いた漫画で、高校を卒業して板前の世界に入った者が高校のクラス会に行ったら大学に行った者から馬鹿にされて殴り合いの喧嘩をした男がいた時に、花板の熊野さんは「もし、おまえが花板かその次の立場だったなら、その殴り合いした顔でお客さんの前に立つのか。ひとが何と言おうが自分が自分の仕事に誇りをもってやっておれば、何を言われても、腹立てたりせんもんや」と言うという場面があったが、高校の教諭という仕事に誇りを持てないのなら教師として情けない男だ。又、藤尾さんのこの言い方では、高校の教諭というのは他の仕事よりもなりやすい仕事のような誤解を招くおそれがある。これから大学に進学しようとする者は大学を卒業した後のことも考えないといけない。ひとつの選択肢として高校の教諭というものもあるはずだが、この言い方なら高校の教諭というのは他の仕事よりなりやすい仕事みたいに聞こえるが、実際には「一流大学」に行った人が高校の教諭になりたいと思ったとしても、必ずなれるというものでもないようです。
戦前は大学と大学卒の人間の数が少なかったので、学校の先生というのは、大学卒業した者なら教諭の国家資格を取得していなくてもなれたらしく、山本有三『路傍の石』には次野先生という登場人物が商業高校の先生になっていたが、国家主義・軍国主義が進むとともに嫌われたのかにらまれたのかで解雇されてしまう場面があるが、その際、教諭の国家資格を持って勤めていた人と持たずに勤めていた人がいて、教員免許を持っていない人間はやめさせられる人間に選ばれやすかったらしい。戦中から戦後すぐの時代も小学校の先生は大学を出ていなくてもなれた時期があったらしく、三浦綾子は大学は出ていなかったけれども小学校の先生をやっていたらしい。しかし、今は違い、短大卒だと幼稚園・保育園の先生とかになるコースはあるようだが、高校や中学校の先生の場合は大学を出ていないとなれないのではないか。但し、英語の先生は英文科卒でないとなれないというものでもなく、慶應大学の法学部・経済学部・商学部・文学部卒ならば、教員養成課程を履修すれば、英語・国語・社会科の教諭の資格を取得することができた。他の大学でも総合大学の場合は経済学部・法学部でも英語や国語の教諭の資格を取得できるはずですが、国立大学の経済学部でも文学部もある総合大学の経済学部なら英語や国語の教諭の資格も取得できる場合が多いようですが、たとえば滋賀大学の経済学部などは、滋賀大学は経済学部と教育学部だけの大学なので社会科の教諭の資格は取得できても国語や英語の教諭の資格は取得できなかったはずです。北野高校には法学部卒で英語の先生をしていた人がいて、フランス文学科卒で英語の先生をしている人がいた。高校の教諭の資格にはフランス語・ドイツ語の教諭の資格というものもあるが、文学部でもフランス文学科・ドイツ文学科卒で教諭の資格を取得する場合、フランス語・ドイツ語の教諭の資格を取得しても、実際問題としてフランス語・ドイツ語の教諭の求人というものがあるかというと、高校でフランス語とかドイツ語を教えている高校というと慶應義塾高校とか、私立大学の系列の高校で入試なしに大学に進学するような高校でわずかにあるというくらいで、公立の高校や私立でも大学受験を経て進学する高校では英語の授業はあってもフランス語・ドイツ語の授業をやっている高校はあまりないから、フランス文学科・ドイツ文学科卒でも英語の教諭の資格を取得して英語の先生になる人が少なくない。中学校の「歴史」は高校では「日本史」「世界史」になるが、大学の学科では史学科は日本史と世界史ではなく、日本史と東洋史と西洋史に分かれる。古い時代については考古学科になるから、中学校の「歴史」・高校の「日本史」「世界史」は大学の学科では史学科の日本史・東洋史・西洋史のコースと考古学科に分かれることになるが、慶應大学のスチューデントカウンセラーズが編集した文学部の学科案内によると、考古学科卒の場合、高校の「社会科」の先生(「日本史」「世界史」担当)に就職する場合、史学科卒と比べると不利らしい。経済学部・商学部には経済史(史的理論)専攻のゼミがあり、経済学は純粋理論(理論経済学)・経済史(史的理論)・経済政策・経済学史よりなるとされ、経済史(史的理論)は経済学の分野で重要な一分野であるとともに、歴史において経済史は重要であり、経済の動きと政治の動きは互いに影響しあうものであり、文化は経済の状態のもとに存在するのであり、経済の流れを無視して政治や文化を考えることはできないが、経済学部・商学部卒で社会科の教諭の資格を取得した場合、高校の「政治経済」・中学校の「公民」の先生なら経済学部や法学部卒の人が向きそうだが、経済学部・商学部卒で「歴史」の先生としては採用してもらえるものかどうか。
高校・中学校の先生になるには、今は教諭の国家資格を取得することと、資格を取得した上で採用してもらえるかという問題とがある。大学生に家庭教師を頼もうとする人は、一般に比較的評価が高い大学の学生に頼もうと考え、「そんな大学、アホでも行けるわ」という大学の学生には頼まないが、高校・中学校の教諭の資格は「アホでも行ける大学」でも取得することができて、採用される場合もあるのに対して、東大でても京大でても教諭の国家資格を取得していない人は高校・中学校の教諭にはなれない。予備校になると教諭の資格を持っていないとやってはいけないという仕事ではないはずだが、持っている方が採用されやすいかもしれない。「懇談なんかいたしますとね。お母さんが『東大でたって出世するとは限りませんからね』なんておっしゃるんですよね。『そうですね』なんて言っちゃいましてね」などという発言は、高校の教諭という職業について高校生に誤解を与えるおそれがある発言であり、感心しない。
そして、「眼えなんかつぶれてもかまわん。受験がすべてや」と言ったうちの母親は私が高校3年の時には「こいつ、現役で大学に通ると思いあがった人間になって女を泣かすようになるから、こいつ、な~にが何でも落としてやらんといかん」「こいつ、東大に行ったら思いあがった人間になって女を泣かすようになるから、な~にがなんでも落してやらんといかん」・・と、そう言って、夜、私が高校から帰って自分の部屋で学習していると、洗面所にあった電気の分電盤で私の使用していた部屋のブレーカーを落として照明がつかないようにして、さらに、私の服を後ろからつかんで椅子に座った状態から背後にひっくり返したり、ホウキを持ってきて「こいつめ、こいつめ、こいつめ!」と言ってボコボコ殴りつけたりとか、次から次へとよくやってくれたなあと思うが、そういうことを繰り返した。夜、高校から家に帰ると雨戸はすべて閉められて、玄関扉も閉められてインタホンのソケットを抜いて鳴らないようにして、家の中に入れてもらえず、しかたなしに外で時間を費やしていると、その間に高校に電話して「息子が帰ってきませんねえ~ん」と言うとか、そういうことをずいぶんとやられた。
北野高校という高校は行きたいと思って行った高校だったので合格した時はうれしかったが、卒業して10年以上経って冷静に考えることができるようになって振りかえってみると、どう考えてもいい学校ではなかった。特に2年の時の担任だった旧姓作野礼子は、あの女、いったい私に何の恨みがあったのかと思う。うちの親が家の雨戸をすべて閉めて窓から入れないようにして、玄関扉も勝手口の扉も鍵をかけてしめて、屋外の照明もすべて消して、インタホンのソケットを抜いて鳴らないようにして、「ああ、またやられた」と絶望的な気持ちで外にいると、そのうち、高校に電話したり、クラス名簿で上から順番に電話して「息子が帰ってきませんねえ~ん」とやったりと、よくそこまでやるなあ・・ということをやられたが、翌日、高校に行くと、旧姓作野礼子から「あなた、いったい、昨日はどこに行ったの」などと言われるのだが、「どこも行ってませんよ」と言っても、「何、言ってるの。お母さんから学校に電話が来たのよ。よく反省しなさい」などと言われたのだが、いったい何を反省すればいいのか、さっぱりわからなかった。音楽のN川先生からは「『おかあさあ~ん。お願いでえす。入れてくださあ~い』と叫んだの? どうして、そう叫ばないの。次からこういうことがあったら、『おかあさあ~ん。お願いでえす。中に入れてくださあ~い』と大声で叫んでお願いしなさい」などと言われたのだったが、幼稚園児じゃあろまいし、なんで、そんなことさせられなきゃならんのだと思ったし、我が家だけ、なんで、こんな家庭なんだ・・と絶望的な気持ちになったものだった。N川先生の音楽についての考え方については私はもっともだと思うものが多いのだが、しかし、「『おかあさあ~ん。お願いでえす。入れてくださあ~い』と叫んだの? どうして、そう叫ばないの。次からこういうことがあったら、『おかあさあ~ん。お願いでえす。中に入れてくださあ~い』と大声で叫んでお願いしなさい」なんて、よく高校生に向ってそういうことを言うよなあ・・( 一一) と今は思う。
「こいつめえ。な~にがなんでも落してやる。落ちろお、こいつう~う! 落ちろお、落ちろお、落ちろお~お!!!」と連日やられたが、少しくらいのハンデがあっても何とか乗り越えて・・と思ったが、今から考えてみると、ハンデが大きすぎた。
「眼えみたいなもん、つぶれてもかまわん。受験がすべてや」とうちの母親は言ったのだったが、結果としては、眼だけ奪われた。40代の前半から老眼が始まる人がいるようだが、私の場合は40代の半ばくらいまでは老眼は出なかったが、40代の終わりくらいから老眼が出て、そして、いったん始まると、今度は近視と老眼の両方をかかえることになった。せめて、片方だったらなあといつも思う。「眼えみたいなもん、つぶれてもかまわん」と思って自分の眼をつぶすのならいいが、「眼えみたいなもん、つぶれてもかまわん」と言って息子の眼をつぶしにかかる親というのは、私が親ならば、それは親のあり方として好ましいあり方ではないと思う・・のだが、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「あなたの両親ほどいい親はないと思うわよ。私は両親が離婚したんだから」と「両親が離婚したんだから」というのを自慢しまくるのだったが、おまえの「両親が離婚した」なんてことことに俺は責任ないだろうが。そんなに、夜、高校から家に帰ると玄関扉も勝手口も閉めて雨戸もすべて閉めて、インタホンのソケットを抜いてならないようにして入れないようにした上で、高校に電話して「息子が帰ってきませんねえ~ん」と言ったり、クラス名簿で上から順番に電話して「息子が帰ってきませんねえん」と言ったりと、そういうことをされる親というものがうらやましいのなら、そうされる役を旧姓作野礼子がやってくれよ。ほんと、頼むから、そうされる役を旧姓作野礼子がやってくれ。ほんと、頼むわ。おのれがそういう役をさせられるということは全くしないで勝手なことばっかり言いまくるバカ女症候群 旧姓作野礼子というのを育てた母親というのは、いったいどういう人間だったのか。「親の顔が見たい」という気がする。・・但し、「親の顔が見たい」という言葉には2通りの意味があるが、実物を見せられても、どうもしようがない。どうせ、旧姓作野礼子と似たような独善的で身勝手な性格の女なのだろう。
せめて、眼が人並みに見えたらなあ・・・と思う・・が、視力回復方法というのはないわけではないのだが、悲しいことに還暦すぎるとそれをやる気も減退してしまう。

眼はこのツボでよくなる (ゴマライフ) - 小杉 喜一郎
「眼えみたいなもん、つぶれてもええ。受験がすべてや」という主張は、まず第一に、その「つぶれてもええ」という眼が発言している人の眼ではなく、息子の眼だという点でその発言は間違っているが、もうひとつ、間違っている点として、視力を悪化させても眼鏡で矯正できるなら、高校入試・大学入試で合格できれば失うものと得るものとで得るものが大きいという認識は違うと思うのだ。私は防衛大とか水産大学とかを受けることはあまり考えなかったが、大学学部によっては受験資格として視力がどれだけ以上というものがある大学があったと思うのだ。
又、空港の管制官とかパイロットとか、視力が悪いとなれないか、なりにくい職業というものもあったと思う。だから、嘘だけれどもうちの母親は私が小学校高学年から中学校の時、「親というものは、息子が大学に行く時に、行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってやりたい勉強をやってつきたいと思う仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」という口先だけの発言を基準として考えたとしても、片方で視力を悪くしてしまうと、せっかく努力して成績をあげても、視力を悪化させたことでつけなくなる仕事というものがあるはずだ。だから、その意味でも「眼えみたいなもん、つぶれてもええ。受験がすべてや」という主張は正しくない、と思う。
プールとか浴場とかサウナとかでは視力の悪い者は苦労する。水泳ではゴーグルには度付きのものも売られているが、ゴーグルをはずすと視力の悪い者はトイレに行こうとしてもトイレの表示が見えない。
「眼えみたいなもん、つぶれてもかまわん」と、1970年代前半、私が中学校の1年の時だったかにうちの母親は言ったのだが、そういえば、2000年代、私が40代の時、うちの母親は「この子は老後の対策のために産んだ子やから、老後の対策に役立ったらそれでええ子やねん。その後はどうなってもかまわん子やねん」と言ったのだ。・・そういうことを言うかなあ~あ・・と思ったが言うのだった。「親というものは、そういうもの」なのかどうかわからないが、うちの親はそういうことを言うのだった。
そういえば、うちの父親の方は「うちの家の中心はT子さん(上の姉)やねんぞお~お。お~ま~え~はあ、わしのっために、わしのっために。すべてをすべてをわしのっために♪ てってこっこテッテテッテ、らったらったラッタラ♪ てってこっこテッテテッテ、らったらったラッタラァ~ア♪」とか言うておった。「親というもの」がそういうものかどうかわからんが、うちの親はそういう親やった。
北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」というのを最大の自慢にしていて〔そんなもん、普通、自慢するかなあ・・と思う人もいるかと思うが、自慢しまくっておった( 一一) 〕、「あなたのお父さんほどいいお父さんはいないわよ」などと私は何度も言われたが、そんなにいいと思うなら、旧姓作野礼子にあげるよ、ほんと。「てってこっこテッテテッテ、らったらったラッタラ♪ てってこっこテッテテッテ、らったらったラッタラ♪ 撃ちてしやまん、一億火の玉、欲しがりません、勝つまではあ! イッライッラしてきたあ、イッライッラしてきたあ! 贅沢は敵だあ! とってちってたあ~あ! 戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元! イッライッラしてきたあ、イッライッラしてきたあ。親に感謝、わしに感謝、親に感謝、わしに感謝じゃ、いらいらあ! すべてをすべてをわしのっためにっ! すべてをすべてをわしのっために、ためにっ、ためにっ! いっらいっらイッライッラいっらいっらイッライッラじゃああ~あ! とってちってたあ~あ!」と毎日毎日、朝から晩まで叫んでいるおっさんがいるというのが、そんなにうらやましいなら、あげるよ、旧姓作野礼子に。何より、「イライラっとしたら、かけたんねん」と言って四六時中、かけてくる電話がうらやましいなら、旧姓作野礼子が引き受けてほしかった。「イライラっとしたら、かけたんねん」と言ってかけてくる電話というのは私の所だけかと思ったら下の姉の所にもかけていたようで、「あの人のあの『イライラっとしたら、かけたんねん』という電話、あれ、かなわんねええ~え。かける方はそれでいくらかスッとするのかもしれんけれども、瘤取爺さんの瘤と一緒で、かけられた方はその分、ストレス溜まるんやからねえ」と言うのだったが、そういう電話攻撃を受けるのがうらやましいなら、旧姓作野礼子はその電話だけでも引き受けてほしかった。おのれはそういう電話攻撃とかまったく受けずにいて、教諭としてのカネもらった上で生徒・元生徒に対して勝手なことばっかり言いまくる権利というのが高校の教諭にはあると旧姓作野礼子は思い込んでいたようだったが、そんな権利なんか本来ないと思うぞ、そんな権利みたいなもん
うちの父親は「おまえの眼鏡代がカネかかって迷惑なんじゃ」と言い、「『安売り眼鏡の店』てあるやろ。おまえの眼鏡は『安売り眼鏡の店』で作るようにせえ。おまえの眼鏡は安売り眼鏡にするのがええ」と言うのだったが、うちの父親というのはそういう男だった。
うちの母親は「(世の中には障害をもって産まれてくる子供もあるが、私には)五体満足な子に産んでやった、やった」と言うのだったが、しかし、産まれる時点では五体満足な状態で産まれてきた人間であっても、産まれてから体を悪くするようなことをさせて悪くさせたというものはあるし、外敵から守るべきものを守ることができなかったものや、親が外敵と手を組んで私を攻撃して傷めつけたものもある。それをうちの母親は認識できていないし、認識しようとしない。
江川卓が巨人に在籍して9年間しかプレーせずに1987年限りで引退した時、右肩に障害があるという理由を言ったが、1987年も13勝5敗の成績を残しており、年齢も32歳で引退するには早すぎるように思われ、肩に「中国針」を打ったのがどうこうといったことを言ったが、そのあたりは嘘ではないのかと言われたりもした。その点について元阪急ブレーブスの投手 山田久志が『プロ野球 勝負強さの育て方』(PHP文庫)で、右肩の具合が悪かったというのは、まず、嘘ではないと思うと書いていた。その理由は、ある程度以上の年数、プロ野球の投手をやってきた人間で肩とか肘とかがまったく悪くない人間なんてほとんどいないから、江川だって悪かったはずだ、というのだ。しかし、山田は自分だって肩とか肘とか相当悪かったけれども、だから、辞めるのかというと辞める気持になれないから、だから、悪くても続けてきたのだそうだ。スポーツというのは何のためにあるのか、スポーツというのは何のためにやるのか、と考えて、健康増進のためと定義づけるなら、職業としてのスポーツ・商業スポーツというのは実際にやっている人間はそれをやることで、むしろ、体を損傷しているようなところもある。又、プロではなく健康増進・身体機能促進・レクリエーションとしてやるスポーツとして考えた時、野球というスポーツはサッカー・バレーボール・ラグビーなどと比べて投手と捕手の活動量が他の守備位置の選手と比べて多すぎるという欠点があるという点があるが、そういうこともあり、職業として野球の投手をやれば、肩とか肘とかを他の職業をやっている人間と比べると傷めやすい傾向がある。
これと似たものとして、「ちいっとも勉強せんとラグビーばっかりやってる人間」と「小学校から中学校・高校と勉強して『一流大学』に進学するような人間」を比べると、「ちいっとも勉強せんとラグビーばっかりやってる人間」より「小学校から中学校・高校と勉強して『一流大学』に進学するような人間」は近視になりやすい条件はある。一般の会社員ならプロ野球の投手が肩とか肘とか傷めるようなそんな条件で肩とか肘とかは使わないから傷めにくいのと同じく、「ちいっとも勉強せんとラグビーばっかりやってる人間」は、そんなに本を読んだりしないから(たまに「ちいっとも勉強しない人間」なのに漫画ばっかり読んで眼を悪くする人というのもいるみたいだけれども)、視力を悪化させにくい。しかし、プロ野球の投手というのは肩とか肘とかを傷めやすい職業ではあっても同時に肩とか肘とかを傷めないように気をつけないといけない職業でもあるはずで、同様に「小学校から中学校・高校と勉強して『一流大学』に進学するような人間」というのは、「ちいっとも勉強せんとラグビーばっかりやってるやつ」とは違って視力を悪化させて近視になりやすい立場ではあっても、視力を悪化させて近視にならないように気をつけるべき立場でもあるはずなのだ。私が親の立場だったら、子供を育てるにおいて、そのあたりを考える。そういったことを考えることのできる親の子かそうでないかで違いが出る。ところが、うちの父親は「子供ちゅうもんは女が育てるものやねんぞお。心得違いを起こしたらいかんぞ、心得違いを起こしたら」と日夜、言っている男で、「子供ちゅうもんは女が産んだと思うたらいかんぞ。女は畑であって、畑に種を植えてやってあげていただいてくださってもらってあげてやってやっていただいてくださったお方のおかげで種が畑から芽を出したのであって、畑が芽を出したのとは違うねんぞ。勘違いしたらいかんぞ。そんで、畑から種が芽を出したら育てるのは畑の役目じゃ。畑が育てて芽が伸びて実がなるようになったら、その時には種を植えた人間に権利があるんや。畑に権利があるのとは違うんや。茄子でも胡瓜でもそうやろ。畑に権利があるのとは違うねん。ましてや、茄子や胡瓜に権利があるのとは違うねんぞ。心得違いを起こしたらいかんぞチャンコロ。わかっとんのか茄子! 茄子には何の権利もないねんぞ、この茄子、胡瓜!」と言うのだったが、そういう男だから、息子が視力を悪くしないように配慮しようなどという意識はまったくなかった。息子が視力を悪化させないように考える姿勢がある親というものが私は本当にうらやましかった。うちの親は小学校3年の時の視力検査では両眼とも1.5で、小学校1年・2年の時の視力検査でも1.2とかだった者を0.1の視力にまで悪化させたのだ。私が親ならば、その点で息子を守ってやれなかった、近視にならせて眼鏡という「眼の松葉づえ」を使用しなければならない状態にならせてしまったという点に親として責任を感じる。ところが、うちの父親は小学校の1年から3年の時の視力検査では1.2とか1.5とかの結果だった息子の視力を悪化させてることを防ごうという姿勢がない男だった。小学校の担任の教諭が息子に視力を悪化させる可能性が考えられるような状態に学校でしていても何もできない・何もしない・何もする意思がないという男だったのだ。そうして私は、もともとは1.2から1.5くらいの視力があったのに0.1まで視力を悪化させてしまった。そして、うちの母親は「眼えみたいなもん、なんや。受験がすべてや。眼えみたいなもん、つぶれてもかまわん」と発言して、そして、私は眼だけ奪われた。
うちの父親は「おまえの眼鏡代がかかって、わしは迷惑なんじゃ、迷惑なんじゃ」と、自分が息子の視力を守れなかった、守ろうという姿勢すらもない人間だったという点に自覚がない・認識がない・「病識がない」男であり、「小学校5年の時から眼鏡を購入する費用がかかった」という点について、「おまえのおかげで、わしは眼鏡代がかかって迷惑しとるんじゃ。反省しろチャンコロ!」と言うのだったが、私からすれば、ああいう親の子供に産まれなければ、産まれた時点では視力は悪くなかったのだから、眼を奪われることはなかったはずだった。
実際、老眼と近視の両方というのはけっこう大変で、せめて、眼が普通に見えたらなあ・・と思う。
北野高校の1年の時、英語の教諭で 田中 博 という男(1970年代後半当時、40代と聞いた。京大文学部英文科卒という説があったが、お父さんが京大卒の男が京都大学の卒業生名簿を調べたら、田中博という名前はなかったそうだから「京大文学部英文科卒」という説は違っていて実際は関大卒とかその程度の大学卒だったのかもしれない。)が私に「めがね」と言ったことがあった。私の名前は「めがね」ではないので私のことではないと思って返事しなかったところ、何度も何度も「めがね」と言い続けるのだった。俺の名前は「めがね」ではないし、そういう失礼無礼な口のきき方というのは受け入れるべきではないと思って黙っていると、クラスの人間で「おまえのことやろ」と言ってきた者がいたが、私の名前は「めがね」ではない。
最近ではコンタクトレンズというものが私が小学生・中学生の頃よりも「市民権」を得てきたが私が中学生・高校生の頃はコンタクトレンズというのは役者・タレントといった人がやるもの、もしくは女性で眼鏡をかけている人が結婚前にお見合いをする際に女性で眼鏡をかけているのはマイナスの評価になると思ってコンタクトレンズにする人がいるという、そういうもので、中学生や高校生でコンタクトレンズを入れる者というのは、ちょっと変わっている人間、なんかちょっと「にやけた」ようなタイプの人間という印象があり、その理由でうちの親は中学生や高校生はコンタクトレンズはだめだと言っていた。しかし、田中博が眼鏡をかけている人間は嫌いでコンタクトレンズにしてほしかったのであれば、田中博がコンタクトレンズの費用を負担するのであればコンタクトレンズに変更したって別に良かったのだが、眼鏡をコンタクトレンズに変更する費用を出すわけでもなく、人が眼鏡をかけていることに文句を言うのはおかしい。・・それより、どうも、記憶が不確かになってしまったのだが、田中博こそ、眼鏡をかけていたような気がするのだが、人が眼鏡をかけていることに文句を言うのなら、まず、自分が眼鏡をかけるのをやめるべきだったのではないか。
何よりも、私の場合、↑ に述べてきたように、小学校3年の時の視力検査では両眼とも1.5の視力があったのだが、その後、↑ に述べてきたような経緯があって視力を悪化させてしまったのだが、眼鏡をかけていたことが不服だったのならば、それなら、眼鏡をかけなくてもいいように、視力を悪化させなくてもよかったように、田中博が何らかの尽力をするべきであったであろう。それらに何の力にもならず、人が眼鏡をかけているということに文句を言うというのはおかしい。田中博にそういう口をきかれる筋合いはない。
田中博が「めがね」と言った時、私は私の名前は「めがね」ではないので、かつ、そのようなものには返答すべきではないと判断して返答しなかったのだが、そうすると、横にいたやつが「おまえやろ」と言ったのだが、私は「めがね」ではないので、かつ、そのようなものに返答すべきではないと判断したので「ちがうよ」と言ったのだが、私がそういうものに返答してはいけないと思って返答しないでいたにもかかわらず、それでも「おまえだって」と執拗に言った男がいた。それが誰だったか忘れてしまったが、そういうものは、そいつが誰かきっちりと記憶して、さらに記録しておくべきだった。うかつだった。
「めやみ地蔵」様は、もしも、私の視力を過去にさかのぼって回復させてくださるのでないならば、せめて、このような無礼な態度をとった男に対して、それに対する報いを与えてもらいたいものだ。賽銭も入れてきたことだし・・・。
そういえば、北野高校の教諭については、「数学」の S田教諭は、[第379回]《卒業生2人と駅で会って、片方とだけ話をする教諭-受験生を応援するシリーズ》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_15.html で述べたようなようなことをしやがったな( 一一)
南から北に入って正面の地蔵堂の左手前に、「水子供養地蔵尊」がいらっしゃる。↓

巨人の坂本勇人は「胎児は人ではないから殺してもいい」みたいに思っているようだが、そういう認識の男に対しては堕胎は認めるべきではないのではないか。そもそも、医師というものは医療行為でないのに人体に傷つけるということは許されてはいないはずなのだ。誰が堕胎を合法だと決めたのだ? もしも、出産することで母体の命が危ないとかそういった事情があるか、もしくは強姦されて妊娠したというようなケースであれば堕胎は認められるべきとしても、そうでない場合、堕胎・人工中絶というのは今の法律がどうなっているかにかかわらず、「命を殺す」行為であり、それを安易に考えている坂本勇人という男というのは野球がうまかったとしても人間として欠陥があるのではないか。
1990年代、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の福島県いわき市の営業所(展示場)にいた時、妻帯者でありながら女性に妊娠させたらしい男性従業員がいて、女性から展示場に何度も何度も電話がかかってきた。「お仕事中、誠に申し訳ありませんがS藤K一さんはおられますでしょうか」と悲壮な声でかけてきた電話を私は何度も何度も取らされた。そのたびにその男性社員S藤(当時、20代後半)は「いないと言え」と私に言うのだったが、私はS藤K一さんの使用の電話をとるのは仕事ではないのであり、「いないと言え」と言われる筋合いはないのであり、男女の関係でどうだったのかは知らないが、いずれにしても、自分自身で電話に出てきっちりと対応するべきものであり、何回も何回も私に仕事と関係のない電話を取らせておいて「すいません」の一言もないというのは、それは会社員として・社会人としていかがなものであろうか・・と思うし、それよりも、(株)一条工務店はその従業員に対して「何の電話なんだ。きっちりと自分で会って話すなりして対応しろ」と注意するべきもので、それを怠って私に迷惑かけて平気でいたというのは、これは会社の態度としておかしい。
さらに、2001年、(株)一条工務店の総務部長の天野雅弘(男。当時、40代後半か50代初め?)は、栃木県小山市の展示場に営業として勤務していた某さんが「紹介」で栃木県佐野展示場に入社させた小嶋という男(当時、40代前半)は入社早々、女性社員の尻を撫でたりして営業妨害をおこなう男で、よくも、他展示場にこういう営業妨害おこなう男を縁故入社させたものだとあきれたものだったが、ある時、佐野展示場勤務の女性社員S藤雅美(女。当時、20代後半。後に結婚してK林雅美。その後、離婚したかどうかは知らん)の尻を展示場の事務所で撫でてS藤が「いやあ、お尻さわったああ~あ」と大声で絶叫。もはや、これでは職場ではない。私は栃木県南部営業所の所長だった木下(きした)(男。当時、40代前半)から注意するように言われていて、しかたなしに「小島さん、あなた、そのようなことしていたのでは、そのうち、会社におれなくなるよ」と注意したところ、小嶋は「なにおお~お。このお。こいつう~う」と入社したばかりの男が十年選手の私に向ってすごんできたということがあったのだが、ところが、総務部長の天野雅弘は私に「なんで女が『いやあ』と言ったら嫌だということになるんだ。『いやあ』と女が言ったら『うれしい』という意味だろうが。おまえはそんなことすらもわからんのか」などと言うので、「『いや』と言ったら『いや』という意味でしょう。なんで『いや』と言ったら『うれしい』という意味なんですか。『うれしい』のなら『いや』と言わずに『うれしい~い』と言ってくださいよ」と言ったのだ。しかし、それでも総務部長の天野雅弘は「『いやよ、いやよもいいのうち』と言うだろうが。女が職場で尻を撫でられて『いやあ』と言ったら『うれしい』という意味だろうが。おまえはそんなことすらもわからんのか」などと言うのだった( 一一)
「なんで、『いや』と言ったら『うれしい』のですか。『うれしい』のだったら『うれしい』と言ってくださいよ」と私は言ったのだが、ところが、天野雅弘は「おまえ、そんなに女の気持ちがわかるのか」と言うのだ。「わかりますよ。『いや』と言ったら『いや』という意味でしょう」と言ったのだが、「なんでじゃ。女が職場で尻を撫でられて『いやあ』と言ったら『うれしい』という意味だろうが。なんで『いや』と言ったら『いや』という意味だとおまえにわかるんじゃ。おまえは何人、女を知っとるんじゃ」と言うのだ。「なんですか、それは。そういう発言は私に対する人権侵害ですよ」と言ったのだ。
ところが、(株)一条工務店の総務部長の天野雅弘は「なんでじゃ。おまえが女が『いや』と言ったら『うれしい』という意味ではなくて『いや』という意味だと女の気持ちがわかると言うから、だから、何人、女、知っておるんじゃと尋ねておるんだろうが。何人、女を知っておるんじゃ。答えろ! 総務部長がおまえに、何人、女を知っておるんじゃと質問しておるんじゃ。答えろ」と言うのだった。(株)一条工務店という会社は、なんだか最近、調子いいみたいだが、たとえ、最近、調子よくても、そういう会社であり、そういう男が総務部長になっている会社だった。
それで・・・、何人もの女性と肉体関係を持ったとしても「女性の気持ちをわかるようになる」などということはない。もしも、何人もの女性と肉体関係を持てば「女性の気持ちをわかるようになる」のであれば、毎週、週休日とその前日、週に2回、ソープランドに通って異なる女性と肉体関係を持つようにすれば、365×2/7= 104.28・・ 1年あたり、104人。10年、それを繰り返せば、104×10=1040人と肉体関係を持つことになり、「祝 千人切り達成」(笑)となり、天野雅弘の説に従えば「女性の気持ちを理解できるように」なったであろうけれども、そうことをやったなら「女性の気持ちをわかるようになる」・・と思うか? そうではあるまい。 福島県いわき市の営業所で、妊娠したということでらしく電話してきていた女性からの電話をとって悲壮な声を聞いたのは私であり、その女性と肉体関係を持ってはらませた妻帯者の男ではない。電話してきた時の悲壮な声を聞いて、そんなことはするものではないと思ったが、そう思ったのは電話を取った私であって、妻帯者でありながら独身の女性と肉体関係を持って妊娠させたらしいその男性従業員ではなかったのだ。何人もの女性と肉体関係を持っても「女性の気持ちを理解できるようになる」などということはない。そういう愚かなことを大きな顔して言っている男というのが(株)一条工務店の総務部長であり、(株)一条工務店という会社はそういう男を総務部長にならせている会社だったのだ。
私は、そのようなことをして女性に孕ませるだけ孕ませて人工中絶させるなどといったことをしたことはない。だから、水子地蔵といったものは私には無縁だとかつては思っていたが、今は違うと思っている。
(株)一条工務店 https://www.ichijo.co.jp/ は「嫁と子供がある人間」と未婚の人間とで給料に大きく差をつける会社だった。片方で「営業はどれだけ契約を取ったかがすべてだ」などと総務部長の天野雅弘などは言っていたのだが、「営業はどれだけ契約を取ったかがすべて」ならば、「嫁と子供がある人間」は未婚の人間よりも多く契約を取ったわけでもないのに、あるいは、未婚の人間より取得した契約棟数がずっと少ないのに、なんで多い給料をもらえるのだ? ・・ということになるはずだった。営業本部長の天野隆夫は「独身の人間よりも結婚している人間の方が役に立つのだから」などと事実がどうかなど見ないで発言していたが、実際には営業所全体の仕事があっても、「俺は子供が待ってるから」とか言い、「あとは独身の人間でやっておいてな」などと言って未婚の人間に営業所全体の仕事を押しつけて帰ってしまうということが、しばしばあったのだ。そうやって、営業所全体の仕事を未婚の人間に押しつけておいて、その上で「結婚している人間の方が役に立つんだから」などと言って、契約棟数は決して多くないくせに未婚の人間よりも多い給料を盗っていたのだ。それも、「ほんのちょっと多い」とかではないのだ。(株)一条工務店の営業職は「基本給(嫁と子供がある人は『家族手当』を含む)+歩合給」の給与システムになっていたが、「家族手当」の金額が相当大きく、それは妻帯者・子持ちの給料が高かったのではなく、未婚の人間の給料が安かったのだ。「営業はどれだけ売ったかがすべてだ」とか言うのならば、それならば妻帯者・子持ちなのにちびっとしか売っていない人が、未婚でそれなりに売った人間よりも多い給料を盗っていたというのはおかしいではないか。又、「結婚して子供がある人間は生活にカネがかかるんだから」と言うが、そして、さらにひどいことに営業本部長の天野隆夫は私に「おまえ、独身なら、カネ余って余ってしゃあないやろ」などと、そういう口をきいたのだ。よく、そういう口をきけるものだ。(株)一条工務店の給料が「家族手当」をもらわない者の給料がどれだけ安いか、営業本部長なら知っているはずで、知っていて天野隆夫はそういう口をきいたのだ。なおかつ、そういう口をきいた上で「ぼくなんかは学校でてないから(最終学歴:中卒)、だから、気さくで人間性が優れていて人から好かれるんだ。そう思うだろ」と言い、はあ?・・と思っていたら、「おい、『思うだろ』と言ってるんだ。『思います』と言えよ、『思います』と。思わないのか、思えよ。『思います』と言え」と言い、無理矢理、「思います」と言わされてしまった。そういう、人に無理矢理、「思います」と言わせるようなそういう男のことを「学校出てないから気さくで人間性が優れていて人から好かれる」と言うそうなのだ( 一一)
実際に仕事をする時には「俺は子供があるから帰らせてもらうから。あと、独身の人間でやっておいて」と言って未婚の人間に仕事を押しつけて帰る人が給料を受け取る時には「結婚している人間の方が役に立つんだから」と勝手なことを言って、契約棟数は未婚の人間よりずっと少ないのに多額の給料を盗り、その上で税金を支払う時には扶養控除で安くなり、それだけではなく、さらに「盗人に追銭」として公明党が「子供手当」なるものをおこない、民主党は「地域振興券」なるものをおこなって「子供」ではなく「『子供』がある者」に子供がない者が払った税金を資源としてカネを渡すという行為をおこなった。
私などは子供の頃から、おつきあいをして、この人とやっていこうということになって結婚してから肉体関係を持って子供を作るものだというように「教えられた」というよりも学んできて、それが基本だと認識してきたが、日本という国はいったいいつから「後先考えずに性交やって、できちゃった婚やった人間が得する社会」になってしまったんだ。日本という国はいったい、いつから「後先考えずに性交やって子供つくったもんが勝ちの国」になってしまったんだ。そういう「子供」を大義名分に掲げれば何でもまかり通ると考える「子供」帝国主義・「子供」独善主義とでもいうような者どもが「少子高齢化対策のためにお国に貢献しているんだ」とか勝手な口をきくのだ。おまえのクローンみたいな子供を拡大再生産されても迷惑なだけなんだよ! てやつが。「将来、社会に貢献する子供を育てているんだから」などと言う者もいるが、その子供が「将来、社会に貢献する」か「将来、社会に迷惑をかける」かなんて、わからないじゃないですか。「将来、社会に貢献する子供を育てている」などという文句は実際に社会に貢献してから口にしてもらいたいものだ。
創価学会の人は自分たちの主張に同意しない人間には「仏敵」と言うらしいが、公明党が主張してやった、「子供」を大義名分に勝手なことやっている人間に「子供手当」などと言ってカネをくれてやるという行為は、それはホトケの精神に反する行為、「仏敵」行為ではないのか?
2011年、千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング(有)〔建築業〕・ビルダーズジャパン(株)〔不動産業〕〔いずれも、2013年11月に正式に倒産。〕に社長の長谷川新二(男。当時、40代前半)の嫁の河野利華(女。当時、40代前半)の友人だということで縁故入社した滝口恵(女。当時、30代)は人並み外れて我儘な性格の人間で、「親の顔が見たい」という気にならされる女だった。「親の顔が見たい」と思っても、実物を見せられてもどうしようもないのだけれども、いったい親はどんな教育をしたのかと、たいていの人間は思うのではないか。 まず、「自分の担当の仕事は自分でやるのが基本だ」という認識がない。自分が担当の仕事を担当外の従業員に労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働でやってもらったなら、「すいませんでした」「ありがとうございます」という言葉くらい言うべきだということを、この女の親は娘に教えていない。時々、「性格がいがんでいる」とか「我儘な性格をしている」というのを「積極的だ」とか「やる気がある」とか変な解釈をした主張をする女性がいるが、それは間違いだ。まず、おのれが担当の仕事を担当外の従業員にやってもらったら、「どうも、すいません」「ありがとうございます」くらいは言わないといけない・・が、そのくらいのことすらも言えない女・・というのは、高校・大学を卒業したばかりの年齢の人間なら、まだしも「教えてわからせる」こともできるかもしれないが、滝口のように30過ぎて思考が固まった人に教育するのは大変だ。徳島市の(株)フィットが提携して「フィット」としてやる事業については「住宅建築業の営業の経験がない人を採用してください」と言ったそうで、新華ハウジング(有)・ビルダーズジャパン(株)の社長の長谷川がその指針に従って、嫁の友人で「住宅建築業の営業の経験がない」滝口を採用したらしかったが、私が小堀住研(株)に入社してすぐの新卒社員研修の時に、TQC推進本部営業部会部長のSさんが「守⇒破⇒離」ということを言ったのだが、最初は研修で教えられたこと・上役から教えられたことを「守る」が、次にそれを「破る」ということをおこない、そして、そこから「離れる」という状態になり自分自身のスタイルを確立して営業として一人前になる、という意味だ。この「離れる」という段階まで行った営業は転職して他の会社に移ったり、それまで勤務した場所から条件が異なる場所に移ったり、それまで扱った商品とは異なるタイプの商品を扱うことになっても対応できる可能性が大きいが、「守る」の段階の人が転職した他社に移ると、まったく経験がない人よりもかえって成果を出しにくいという場合もある。さらには、営業の経験が3年程度の人でまだ「守る」の段階の人というのはわかるのだが、10年超え営業をやっていても、それでも「守る」の段階で営業をやっている人というのもおり、そういう人は「かえってうまくいかない」場合もある。(株)フィットはそういう「守る」の段階の人ではなく、むしろ、「まったく経験がない人」の方がいいということを言ったようだが、人間としての思考が固まっていない段階の人なら「全く経験がない人」を採用するというのはひとつの考え方だが、滝口さんのようにすでに思考が固まっている人の場合、それも経験なく思考が固まっている人の場合は経験があって「守る」の段階の人と比べてもプラスの要素は考えにくい。
むしろ、「私は子供があるんだから」と「子供」を大義名分にすれば自分が担当の仕事を担当外の従業員が労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働でやるのが「当たり前でしょお」と認識していたようだった。そして、多くの従業員が滝口のその態度に怒っていたのだ。「子供がない」人間といっても、ふさわしい結婚相手に巡り合うことができずにいる人間・結婚はできたが子供が欲しいと思いながらできずにいる人間に対して、やはり滝口と同じく社長の嫁の友人として縁故入社した大竹加代子(当時、40代)が「滝口さんは子供があるんだから、子供がある人間は何でも子供がない人間にやってもらうのが当然でしょおおお」「〇〇さんは子供がないんだから、子供がない人は滝口さんのために何でもやってあげるのが当たり前でしょおおおお」などと勝手な口をほざいていたが、許しがたい。大竹加代子のような反社会的勢力は人間として日本国民として許せない。
社長の長谷川新二は「滝口さんは子供があるんだから、子供がない人間に何でもやってもらうのが当然じゃないかあ。〇〇さんが子供がないのがいけないんだろうがあ。子供がない人間は子供がある人間のために何でも尽くすのが当たり前じゃないかあ」と暴言をはき、そして、「子供がある人間のために何でも尽くすのが当然だろうがあ」と言って労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働をさせていた。私はそのような身勝手な者のために労基法違反を許すつもりはなかったし、許してはいけない、そのようなものを許してあのでは反社会的であると判断して、千葉労働基準監督署に言って代表取締役の長谷川新二を送検して処罰してもらいたいと訴えたのだが、ところが労基法違反を取り締まっているふりをしながら実際は取り締まらないことにより労基法違反の不良企業と不良経営者を必死になって守のが仕事だと認識している千葉労働基準監督署と労働基準監督官の佐野という男は「この問題は取り上げないことにしました」などと言い、私が「どうしてですか。労基署が勝手に『とりあげないことにしました』などと言って通じるものではないでしょう」と言ったのだが、言っても言っても佐野はな~んとしても労基法違反を守ろうと必死になったのだ。私が「起訴しないなら検察審査会に訴えますよ」と言ったところ、労働基準監督官の佐野は「検察審査会は送検されたものを起訴しない場合に訴えることができるものであって、これは労基署が送検していませんから検察審査会に訴えることは、でっきませえ~えん♪」とうれしそうに言うのだった。この野郎! と思ったが、今から考えると、労働基準監督署というのは労働事件における警察署であり、告訴は警察におこなってもいいが検察におこなってもいいのであり、労働基準監督官の佐野がな~んとしても送検してなるものかあと悪人を守るのならば、かつ、送検されていないなら検察審査会に訴えることはできないのであれば、それなら労基署ではなく検察庁に直接、告訴してやるという方法もあったのだった。そこに気づかなかったのはうかつだった。
滝口恵は労働基準法から考えて、終業時刻になったら退社していいはずだと主張したかったようだが、しかし、それは滝口だけにあてはまることではない。滝口恵以外の従業員だってそうであるわけで、滝口恵以外の従業員は労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働で滝口恵が担当の業務をおこない、滝口恵だけが終業時刻より前から帰る準備をして、終業時刻ぴったりにタイムカードを押して帰り、「あと、やっておいてよお」と言って滝口恵以外の従業員に労基法違反を強制する権利というものが「子供があるんだから」という大義名分により滝口恵にあるわけではないはずだった。しかし、そういう暴論を主張する者というのがいたのだ。私はそういった暴論を主張して国民をいじめる反社会的勢力を、特に公務員で本来ならその逆をおこなわないといけないはずの立場でありながら、反社会的勢力滝口恵に加担していた悪党どもを決して許すわけにはいかないと思っている。私の残りの人生はそれらの悪党どもを退治するために存在している。
すでに子供が2人あった滝口恵は「子供があるんだから」と「子供」を大義名分に掲げて定時に退社して、滝口が担当で滝口がその業務に対する報酬を受け取っている仕事を担当外の従業員、ふさわしい相手と巡り合うことができずにいる人間や結婚はできたが子供が欲しいと思いながらできずにいる人間に労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働でさせておいて、まさにその時間に自分は夫と妊活(性交)やって3人目を孕んで出産したのだった。その3人目の子供は、ふさわしい相手と巡り合うことができずにいる人間・結婚はできたが子供が欲しいと思いながらまだできずにいる人間から「婚活」「妊活」の時間を奪い、ふさわしい相手と巡り合うことができずにいる人間・結婚はできたが子供が欲しいと思いながらまだできずにいる人間にできていたかもしれない子供を食い殺して産まれた鬼子、鬼畜の子である。
さらには滝口はおのれが担当でおのれがその業務に対する報酬を受け取っている仕事を担当外の従業員に労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働でさせておいて、そうやって空けた時間に「PTA役員やってます」と子供の学校のPTA役員をやり、「PTA役員も悪くないなと思いました」と、あきれたことに新華ハウジング(有)・ビルダーズジャパン(株)のホームページとリンクしたブログに掲載した。滝口の子供のおかげで、ふさわしい相手と巡り合うことができずにいる人間は「婚活」できず、結婚はできたが子供が欲しいと思いながらも子供ができずにいた人間は「妊活」ができず、産まれていたかもしれない子供が滝口の子供のおかげで産まれなくなったのである。特に、滝口恵の3人目の子供はひとの子供を食い殺すことによって産まれてきたような子供である。その子供は存在していること自体が反社会的である。
公明党の「子供手当」・民主党の「地域振興券」など、どうも、日本の政治家は「ひとより先に子供を作った者」を、その者より後から結婚し、後から子供を作ろうとする者を犠牲にして優遇するのが、それが「少子高齢化対策」で「景気回復策」だと言いたい人間が多いようだが、それは逆ではないか。滝口のようにすでに2人も子供を作った人間が3人目の「妊活」(性交)やるために、まだ子供がない人間を犠牲にするというのは、それは「少子高齢化対策」とは逆行するもののはずだ。「子供一般を大事にしよう」というのと「『子供』を大義名分に掲げれば何でもまかり通ると考える不逞のヤカラの横暴を無制限に通そう」というのは同じではない。
「人を呪わば穴二つ」などと言う人がいるが、誤解している人というのがいるのだが、「利権などおのれの身勝手な主張のために人を呪う」ということをするならば、その呪いがおのれに帰ってくるという場合が考えられる。しかし、そうではなく、不当な扱いを受けた者が正しい裁きを求めるというのは「人を呪わば穴二つ」というものとは別のものだ。映画『マルコム=X』では、警官から暴力を振るわれて大怪我をさせられた黒人が救済されるようにと、マルコム=Xらは警察署のまわりを取り囲み、「 We want justice. We want justice. ・・」と叫ぶ場面がある。justice を求めるのは「人を呪わば穴二つ」というものとは別のものだ。「子供」を大義名分に身勝手放題なふるまいをおこなってきた不逞のヤカラどもを成敗するのは正義のおこないであり、正しい裁きを求めるものだ。滝口恵の子供、特に3番目の子供は私の子供を食い殺して産まれてきたようなものである。その3番目の子供は存在すること自体が不正義なのであり、存在すること自体が反社会的なのである。
※ 《YouTube-Malcolm X, Hospital Scene》https://www.youtube.com/watch?v=5Uoy6xy5AFM
この仲源寺の水子地蔵尊にもまた、お賽銭を多めに入れた上で、滝口恵とその夫と子供、特に三番目の子供に食い殺された私の子供のために「正しい裁き」を求めてきた。滝口恵の3番目の子供と同様に人の子供を食い殺して産まれてきた子供というのは他にもいるかもしれない。そのような存在していること自体が反社会的である子供に対して、正しい報いを与えてくださるように、私の子供の無念な思いを決して無視しないように心よりお願いしてきた。
入口脇の木札の説明書きには、
《 また、観音堂には平安後期の春日仏師の作とされる木造の千手観音座像(重要文化財)が安置されている。
京都市 》
とある。 洛陽三十三所観音霊場 の 第16番札所 になっており、観音堂の千手観音座像が洛陽三十三所観音霊場の観音様なのだろう・・が、南側から入って正面に地蔵堂があって、めやみ(眼疾)地蔵 がおられ、その傍らに浄土宗として「山越阿弥陀像」がおられて、地蔵堂の左手前(南西側)に水子地蔵がおられるが、敷地はそれほど広いわけではなく、千手観音座像がおられる観音堂はどこか・・というと、右手前、水子地蔵尊の向いあたりの建物がそうだったのかもしれませんが、今回は地蔵像と水子地蔵さんにお参りして、観音堂は素通りして帰ってきてしまいました。 阪急「京都河原町」駅・京阪「祇園四条」駅からすぐ近くですから、また、訪ねてみたいと思います。
(2022.10.6.)
☆ 知恩院(京都市東山区)参拝
1.京都駅~京都河原町駅~知恩院新門。関西人を侮辱する東京もん・ぶぶづけ食って帰ろうとする東京もんは無神経。「サービス向上」していないJR。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_4.html
2.新門から三門へ。知恩院のムクロジ。知恩院への経路。鎮西派と西山派。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_6.html
3.「男坂」から御影堂・阿弥陀堂前まで。知恩院の場合、新門⇒三門⇒男坂⇒・・ルートは必ずしも正規ルートではないのではないか。裏口入学て自慢するものではないと思うぞ。ガチンコは裏口八百長野郎のゴルフバッグをかつがされる義務があるのか。「家族の政治学」を理解できない女は高校教諭にならないでもらった方がいい。御影堂と阿弥陀堂の配置、知恩院と西本願寺・東本願寺の違い。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_7.html
4.正面の御影堂・西の空を背にした阿弥陀堂・東山を背にした経蔵。多宝塔・池と橋と樹木と調和した納骨堂。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_8.html
5.宝仏殿・泰平亭。御影堂の前の広場越しに見る御影堂・経蔵・宝仏殿。「ほうじ茶」は「焙じた茶」か「法事の茶」か。「これからは俺がやるんやから」と言って何も法事をしない「さわやかラガーマン」。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_9.html
6.大方丈・唐門・集会堂。その他の堂宇の配置。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_10.html
7.女坂から南門へ。女坂から南門へ。知恩院の場合は「男坂」「女坂」という名称は適切ではないのではないか。「信教の自由」を侵害する深奥山方広寺(静岡県浜松市)は宗教の敵である。「心理学」と「坐禅研修」を従業員に強制する権利は企業経営者・使用者や深奥山方広寺には存在しない。坐禅を理解できていない臨済宗の僧はけっこういるのではないか。イカサマ「心理学」は少なくない。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_11.html
8.知恩院南門から円山公園。よその息子に合わさせようとする親。親に苦労する生徒を苛める高校教諭。あほくさい新聞配達姿の「働く少年の像」。自分の息子になら出さないカネをよその息子に特別献金する親。さきに言ってほしかった「 大学の学費と生活費をシブチンやりたがる親」。自己不一致の親の息子は生贄にされ「外罰的性格」にされる https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_12.html
9.祇園交番・花見小路通・京都色すき家・高瀬川。交番とは市民を守るものか警察が市民を監視する出張所か。交番は独創的なデザインで街の景観に溶け込むものではなく、全国一律のデザインで目立つものであるべきではないか 。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202210article_1.html
10.めやみ地蔵 仲源寺(京都市・浄土宗)参拝。息子の眼鏡は「やふいのん、やふいのん」という父親、「眼えなんか、つぶれてもええ」と言う母親。生徒の力にならない・なれない・なる意思がない高校教諭。〔今回〕
四条通り と 東大路通り がぶつかる八坂神社の西楼門の前のT字路の南西側を四条通りに沿って西に進みます。
祇園交番の前を西に進み、花見小路通りを過ぎて少し行くと左手(南側)に、↓

↑ 寿福山 仲源寺(浄土宗)があります。
左の石碑には「めやみ地蔵尊 仲源寺」、
門の左右の木の札には「洛陽三十三観音霊場 第十六番札所」
と書かれています。
( 京都府京都市東山区四条通大和大路東入ル祇園町南側585-1 寿福山 仲源寺。 )
「洛陽三十三観音霊場」は、《ウィキペディアー洛陽三十三所観音霊場》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%89%80%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E9%9C%8A%E5%A0%B4
洛陽三十三所観音霊場巡礼HP https://rakuyo33.jp/
によると、ひとつ前の15番は六波羅蜜寺、次の17番は三十三間堂、仲源寺の「霊場本尊」は観音堂の千手観音らしい。
※ 洛陽三十三所観音霊場巡礼HP https://rakuyo33.jp/
洛陽三十三所観音霊場巡礼 第十六番札所 仲源寺https://rakuyo33.jp/chugenji/
《ウィキペディアー洛陽三十三所観音霊場》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%89%80%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E9%9C%8A%E5%A0%B4
《ウィキペディアー仲源寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%BA%90%E5%AF%BA
※ 通称寺の会HP https://tusyoji.wixsite.com/tusyojinokai/home
通称寺の会 めやみ地蔵 仲源寺 https://tusyoji.wixsite.com/tusyojinokai/meyamijizou
《ウィキペディアー通称寺の会》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E7%A7%B0%E5%AF%BA%E3%81%AE%E4%BC%9A
※ 京都観光オフィシァルサイト 仲源寺 https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=539
現地に京都市による木製の説明書きの札が建っている。
《 浄土宗に属する寺院で一般に「目疾地蔵」の名で人々に親しまれている。》
「浄土宗公式サイト」https://jodo.or.jp/ ⇒「寺院を捜す」http://otera.jodo.or.jp/ ⇒「寺院を検索する」http://otera.jodo.or.jp/temple/ ⇒「・・京都府」http://otera.jodo.or.jp/temple/kyoto/ ⇒「・・京都市」http://otera.jodo.or.jp/temple/kyoto/ka/kyotosi/
で見ると、[29ー082]仲源寺 が掲載されています。間違いなく浄土宗に属している寺です。
そこから、「洛陽三十三観音霊場巡礼 仲源寺」https://rakuyo33.jp/chugenji/ に行くこともできます。
《 ・・平安時代の治安(ちあん)2年(1022)、仏師 定朝(じょうちょう)が四条橋の東北に地蔵菩薩を祀ったことに由来する。
寺と地蔵菩薩の由来は、安貞(あんてい)2年(1228)の鴨川氾濫の時に、勢多判官(せたのはんがん)中原為兼(なかはらためかね)が、防鴨河使(ぼうかし)になった際、この地蔵菩薩が溺れ人を救う姿を見、それ以降 地蔵菩薩を「雨止(あめやみ)地蔵」と称し、「中原」の傍らに人と水を添えて寺名としたことによる。
その後、信仰深い老夫婦の眼病を自らの右目に移し、苦しみを救ったという逸話から、いつしか「目疾地蔵」になり、現在も眼病治療に霊験があるとして広く信仰を集めている。》
とあり、元々はすぐ西の鴨川の氾濫の際に溺れる人を救った「あめやみ(雨止)地蔵」だったのが、後に「めやみ(目疾)地蔵」になったということらしい。
入って正面に地蔵堂があり、地蔵堂が本堂らしい。↓

↑ 正面上の額には「目疾地蔵尊」と書かれている。
《 本堂の地蔵尊の傍らには室町時代の作といわれる「山越(やまごえ)阿弥陀像」を祀る。》
とある。その「山越阿弥陀像」が浄土宗の寺としての阿弥陀像が祀られているということなのだろう。
眼病に効く神さん・仏さんというと、東京都に新井薬師 がある。「東京人 no.185 2002年12月号 特集:寺見物」(都市出版)に、「新井薬師」が掲載されていて、東京都足立区西新井 にある 五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)の 西新井大師 のことかと思ったら全く別の寺で、新井薬師は東京都中野区新井 にあり、真言宗豊山派の寺で、新井山 梅照院(ばいしょういん) と言うらしく、眼病に効果がある寺だとされているらしい。西武新宿線に「新井薬師前」という駅があって南側に徒歩5分ほどの所にあるらしい。
※ 新井薬師・新井山 梅照院HP https://baishoin.com/
《ウィキペディアー梅照院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E7%85%A7%E9%99%A2

東京人 no.185 2002年12月号【雑誌】 特集:「寺見物」近ごろはやりの散歩術 小特集:ラーメン、恐るべし
※ 「眼病に効能がある 東京都中野区の 新井薬師(新井山 梅照院)」ではなく、「弘法大師を祀る関東厄除け三大師 の1つとされる東京都足立区の西新井大師(五智山 遍照院 總持寺)」については、⇒[第78回]《西新井大師(總持寺)訪問、及、さざえ堂、佐野厄除け大師他関東の「大師」の寺、及、足立区の放射線量》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201201article_7.html
関西で眼を治すことに霊験のある寺・神社というと、奈良県の壷阪寺がある。小学校の高学年の時だったか中学生の時だったか、うちの母親と一緒にバスで行った記憶があるが、どういう団体のバスだったか忘れてしまった。近鉄吉野線に「壺阪山」駅があるが、「壺阪山」駅から壷阪寺まではけっこうあるようで、「壺阪山」駅から壷阪寺まで奈良交通のバスがあるようだが本数は多くなく、バスがない時間帯ならタクシーでとなるようです。山の中にあったと記憶しており、バスで行った方が行きやすい場所ではあったが、逆にバスで行くと、いったいどこに行ったのかよくわからない面がある。観光バスではなく電車と路線バスで行くか、自動車でも自分でクルマを運転して行くかした方が往復の経路もまた、どこに行っているかわかっていい面があります。
※ 壷阪寺 HP http://www.tsubosaka1300.or.jp/
奈良県観光公式サイト 壷阪寺 http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/009enmusubi/tsubosakadera/n720q4xyei/
《ウィキペディアー南法華寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AF%BA によると、壷阪寺は正式には、壺阪山 南法華寺 と言うらしく、壷阪寺は何宗かというと、真言宗らしいが「単立」で何派というものはないらしい。
うちの母親は私が小学生の頃からそういう所に一緒に出かけてきたので、私がそういった分野の大学の研究者になったり「歴史」の先生とかになったら喜んでくれるのだろうと思ったらが勘違いだったようだ。せっかく努力しても勘違いによる努力はドブに捨てさせられることになる。
関西で眼を治すことに霊験のある寺・神社としては、壷阪寺の他にも、ここ京都市の阪急京都線「京都河原町」駅・京阪本線「祇園四条」駅のそばにも「めやみ地蔵尊 仲源寺」があった。壷阪寺よりはずっと行きやすい場所にある。
「けち」と「しぶちん」「しみったれ」とは違いまんねん・・と、大日本ドケチ教の「教祖」吉本なんとか いうおっさんが言っていたが、「けち」というのは節約すべきものを徹底して節約するが、出すべきところでは出すというもので、
「しぶちん」「しみったれ」というのはそうではなく、出すべきところで出さない者のことを言うそうだ。
但し、こういうことを言って「わしは『けち』ではあっても『しぶちん』とは違いまんねん」と言う人というのは、そうか、この人は出すべきところでは出してくれるんだ・・なんて思っていたら、出すべきところでも出しよれへんがな・・なんてことは、けっこうあることだ。
2006年だったか2007年だったか、(株)エイブルhttps://www.able.co.jp/ の千葉支店に「次長」という肩書をもらっていた人間が男性2人・女性1人の3人いたのだが、同社の佐倉市の京成本線「勝田台」駅の南側の勝田台店にいた時のことだが、その男性の1人の若造が勝田台店に来て私に(店の中は狭いので)外で話をしましょうと言って出たところ、「どこか、缶コーヒーの自動販売機ない?」と言うので、自販機のところに案内したら、なんと、この男は自分の分だけ買って飲みよった( 一一) たとえ、私の方が年齢が上でも「次長」ならば自分の分だけ買うのではなくて私の分も買うものと違うのか。「どこか缶コーヒーなんかの自動販売機ない?」と言って私に清涼飲料水の自動販売機の場所まで案内させておいて自分の分だけ買うとは( 一一) こいつが次長やよお( 一一) (株)エイブルはこの「缶コーヒーとかの自動販売機とかない?」と私にきいて案内させた上で自分にだけ買うやつを若造を「次長」にならせて私より上の役職につけていたのか( 一一) ・・と思った。私に「清涼飲料水の自動販売機ない?」と尋ねて案内させた上で、なんと自分の分だけ買って飲みやがった( 一一) なんだ、こいつ。あきれた。(株)エイブルの「次長」てのはそういうものなんだなあ・・その程度の男が(株)エイブルでは「次長」なんだなあ・・と思った。そういう時に、「出すべきところ」か「出す必要がないところ」かの判断を的確にできるかどうかで人の評価が変わる。名前を思い出せなくなってしまったが、男2人のうちの門倉(かどくら)ではない方の男だが、「しぶちん」「しみったれ」だったのだ。「しぶちん」「しみったれ」。
2005年、千葉県などでリフォーム業をおこなう(株)ウッディホームhttps://www.woodyhome.com/ の船橋店で、船橋市海神 にあった住設メーカーのショールームで「リフォーム相談会」というのを(株)ウッディホームが実施させてもらった時のことだ。(株)ウッディホームの船橋店にはリフォームについて経験があるらしい古田部(男。50代)と遠藤(男。50代)の2人と事務でパートタイマーのYさん(女。30代)がいたところに新築についてはベテランの経験者だがリフォームについては経験がない私が入社して4人でいたのだが、古田部と遠藤の2人は営業が3人いたにもかかわらず(株)ウッディホームが用意したチラシのホスティングは私ひとりにさせやがったのだが、当日、その4人に千葉県の東部に中途採用で入社した新人の某くん(男。当時、30代前半)の5人で行ったのだが、昼時になって、古田部が「お昼御飯、〇〇くんと某くんとYさんの3人で先に食べに行ってきてえ。帰ったら俺と遠藤さんの2人で食べに行くから」と言うので、え? なんで?・・と思ったのだが、理由はわかった。普通ならば、私は新築については経験があるがリフォームについては新人でわからない部分が多く、新人の某くんは新築の会社に少しだけいたようなことを言っていたが実質、住宅建築業については新築もリフォームも新人だったようで、Yさんは6年ほどいるように聞いたがパートタイマーの扱いで営業ではなく事務の職種の人であり、古田部と遠藤の2人は2人とも(株)ウッディホームでは入社して1年ほどだったらしいが、遠藤はリフォームのキリン住宅にいたらしく、2人とも、新築ではなくリフォームの方に経験がある男だったはずだ。それならば、もし、半分半分に分かれて昼食を取るのならば、リフォームに経験がある古田部と遠藤が分かれて、リフォームについてはよくわかっていない私と新人の某くんとが分かれて、事務でパートタイマーのYさんはそのどちらかと一緒に行くというようにするべきものだ。それを、あえてリフォームについて経験がある古田部と遠藤の2人がその2人だけで一緒に昼食を取りに行って、新築の経験はあってもリフォームについてはわかっていない私と新人の某くんと事務でパートタイマーのYさんをくっつけようとしてのはなぜか? それは古田部が「しぶちん」「しみったれ」だからだ( 一一) パートタイマーの扱いの人というのは、基本的には終業時刻になれば残業せずに帰ってもらっていい、休日出勤はないという条件で、そのかわりに「正社員」の扱いの者よりも給与の待遇はいくらか低いはずだった。その休日出勤はないはずのパートタイマーのYさんに休日出勤して出て来てもらっていたわけであり、それに対しては基本的には会社に責任があるものではあるが、営業は「基本給+歩合給」で報酬は払われていたわけであり、Yさんに休日出勤してもらうことで営業社員はプラスになるはずだったのだ。その状況では、「正社員」の営業でリフォームの経験があり、(株)ウッディホームで1年超えたらしい古田部と1年程度らしい遠藤がYさんと一緒に食事に行ったならば、普通は「Yさん、きょうは無理言ってすいません。Yさんの食事代は私が出します」と言って、船橋店の「正社員」の営業では一番古い古田部が出すか、古田部と遠藤の2人で出すかするべきものだ。それに対して、私が一緒に食事に行ったなら、私が出すことも考えたけれども、しかし、その時点で私は入社して1か月少し過ぎたくらいだったので、新築の方では経験があってもリフォームについての経験はなく、その会社には入社して1か月少しの人間が自分より前からいる人に食事代をおごるわけにもいかないだろうと思って、それはしなかった。しかし、Yさんの立場からすれば、船橋店の男どもは気が利かない・・と思ったのではないか・・と思う。Yさんがそう思ったかどうかはわからないけれども、そういう状況で、自分がYさんと一緒に昼食を取りに行ったなら、古田部が・もしくは古田部と遠藤がYさんの食事代を出さなきゃならない状況になると思ったから、だから、古田部は入社して1か月少しの私と私より後から入社した某くんを一緒に食事に行かせて、その2人にYさんをくっつけたのだった( 一一) まったく、つくづく、超ド級の「しぶちん」「しみったれ」の男だった( 一一) こういう時だが、大日本ドケチ教の教祖 吉本なんとか のおっさんの定義する「けち」、「節約する時はとことん節約するけれども出すべきところでは出す」という姿勢のことを「スマート」と言ったりもする。「慶應ボーイ」の場合は「女をたぶらかす時にはカネを出すが男には出すべきものも出さない」という態度のことを「慶應ボーイらしいスマートさ」と言うのだが、そういう「慶應タイプ」のミミッチイ「スマート」ではなく、こういう時には、むしろ、古田部は古田部と遠藤が分かれて私と新人の某くんが分かれて、古田部と私か某くんのどちらかが一緒に食事に行き、遠藤と私か某くんのどちらかが一緒に行き、Yさんは古田部と一緒に食事に行くグループの方に入れて古田部が「Yさん、きょうは休日なのに無理をお願いして出勤してもらってすいません。Yさんの食事代は私が出させてもらいます」と言って出せば、このおっさん、いいところあるじゃないか・・となるはずだった・・のに、逆やりよった( 一一) なんや、このおっさん・・とあきれたが、そういうおっさんやった。そういうのを「しぶちん」「しみったれ」もしくは「スマートでない態度」と言う。私はこういう点に気づいていたが、気づかない人もいるだろう。Yさんには申し訳ないと思ったが、だからといって入社して1か月少しの人間が出すわけにもいかないと思った。後から考えてみると、事実の通り、Yさんに話して、「Yさん、コーヒーでも飲みたくありませんか。きょう、休日出勤してもらったお礼に、私にコーヒーおごらせてください」と言ってコーヒー代(ファミリーレストランに入ったから、ドリンクバー代)を私が出すというのなら悪くなかったかもしれない。社長は従業員のそのあたりの態度・対応を見ておくべきであるし、見るのが社長の仕事だと思うが、同社の社長の細木さんにそういうものを見る眼があったかなかったかというと、あったようにはあんまり思えない。今から考えてみると、そういうものを見る眼がない経営者の会社にばっかり勤めてきたような気がする。
1994年の7月頃だったと思うのだが、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の福島県いわき市の営業所にいた時のことだ。会津若松市で土地を買って建てたいという方があった。(株)一条工務店は最近では土地の紹介も会社としてやるようになったとかインターネットで出ているけれども、もともとは建築屋であって、1990年代においては土地を持たない人に対しては、もしも、土地を紹介する場合は営業が個人的に不動産屋に話をして捜していた。 会津若松市で何件かの土地を捜した上で、一緒に私のクルマでいわき から会津若松まで行って一日かけてまわり、夜になった時、「どこか、そのへんで食事していきましょうか」と言うと、「いいですよ。私、出しますから」と言われたのだ。へえ、けっこういい収入とっている人のわりに財布のひもがかたい人だと思っていたが、さすがに(株)一条工務店の営業の仕事でもないものを、この人のために好意で一日かけて案内したからには、夕食の1つくらい出そうと、そのくらいは考えるんだ・・と思ってファミリーレストランだったかに入って食事をした後、会計しようとすると「別で」と言うのだった( 一一) はあ? 「私、出しますから」と言うものだから、(株)一条工務店の私の担当の仕事でもないものをその人のために個人的に好意で・・というのか親切でというのかで、いわば無料奉仕でやってあげて、一日かけて私が私のクルマで私が運転して案内してあげたのだから、夕食くらいおごりますよという意味で「私、出しますから」と言ったのかと思ったらそうではなくて、自分の分は出しますからというつもりだったらしい( 一一) この人は、もしも、「私、出しますから」と言わなかったら自分の分を(株)一条工務店にではなく営業担当の私個人におごらせるつもりだったらしい( 一一)
1992年に(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ に入社した時、研修で講師役の従業員が「一条工務店のお客さんというのは他社のお客さんと比べて『いい人』が多い」と話したのだが、そうかあ~あ? ・・と思うことが何度もあったのだが、ビジネスであるからには価格交渉があっても当たり前であろうし、会社に何かサービスしてもいいだろうと言って通る場合もあれば通らない場合もあるだろうけれども、営業担当者個人に出させようなどという人なんて、いくらなんでもおらんだろう・・なんて私は最初、思っていたのだったが・・そうでもなかった。「(株)一条工務店のお客さん」にはいたのだった。 住宅建築業の営業の仕事をすると、特に私がいた頃の(株)一条工務店のような未成熟な会社で営業の仕事をすると、「そんなん、俺の仕事と違うやろお」というものがあって、しかし、営業の担当の仕事ではないとしても、設計は自分の担当ではないと言い、工事課の人間も自分の担当ではないと言い、営業以外の職種の従業員誰もが自分の担当ではないと主張した時、それなら担当の者はいませんからやりません・・なんてしたなら、そのお客さんの家は建たなくなってしまうという場合があって、そういう時に「俺の担当の仕事とは違うと思うがなあ」と思いながらやったりしたことが何度もあった。かつ、それをやるために休日出勤したり、サービス残業したりしてやったことが何度も何度もあった。そういう時に、お客様の方で、この人が自分の所の家のために個人的にやってくれているんだと理解してくれる人と、やってもらえばいいだろ、もっとやってもらおうとする人とがいたのだ。
やってもらえるなら、もっとやってもらえばいいだろ・・・と考えるのが得だと考える人というのがいたようだが、それは違うと思う。むしろ、そういうところで理解を示すのが「粋(いき)」であり「スマート」な態度だと思う。グリム童話に、「ヒラメの願い」という話があった。ある漁師が海で大きなヒラメをつかまえたところ、そのヒラメは口をきくヒラメで「私は魔法使いにヒラメの姿に変えられた王子なんです。私なんか食べてもおいしくありません。どうか逃がしてください」と哀願するので漁師はかわいそうに思って逃がしてやったが、家に帰ってその話をすると、妻が「おまえさん、バカなことをやったね。そのヒラメは私達の願いをかなえることができる能力があるはずだったんだ。今すぐもう一度行って、ヒラメに今よりもいい家にすませてくださいと頼んでごらん」と言う。漁師は海に行って「ヒラメさん、うちのカカアが言うことをきかないんだ」と言うとヒラメがでてきて「奥さんはどうしてほしいと言われるのですか」と言い、「今よりもいい家に住みたいと言うんだ」と漁師が言うとヒラメは「どうぞ、家に帰ってください。奥さんは今までよりいい家に住まれていますよ」と言う。家に帰ると前よりずっといい家が建っていて妻はその家の中にいた。「ヒラメが願いをかなえてくれたのか。感謝して住ませてもらおうではないか」と漁師は言うが、ところが妻は満足せず、「私がこれっぽっちで満足するわけないだろう。あんた、もう一度、海に行ってヒラメに街で一番の金持ちにしてくれと頼んでおいで」と言う。漁師は「なんで、ヒラメにそこまで頼むんだ。ヒラメはこんなにいい家を私たちに用意してくれたじゃないか。これで満足すべきだろう」と言うが妻は納得しない。漁師は海に行ってヒラメに言うとヒラメはそれもかなえてくれたが妻はそれでも納得しない。妻の要求はエスカレートしていき、「ヒラメはこれもかなえてくれたんだ。まだもっとできるはずだ。今度は私を王にするようにヒラメに要求しておいで」と夫に命令する。漁師が海に行くと海は恐ろしく荒れ狂っていたがヒラメは「それじゃ、家にお帰りなさい。奥さんは王になっていますよ」と言う。さらに妻は法王になりたいと言い、夫が「もう、やめよう」と言ってもきかず、夫が海に行くと、海は恐ろしく荒れ狂い最初とは似てもにつかぬ色をしていたが、漁師がヒラメに話した後、家に帰ると妻は法王になっていた。しかし、妻はそれでも納得しない。「あんた、私は神様になりたくなったよ。海に行ってヒラメに私を神様にならせるように命令してきな」と夫に言う。「おまえ、お願いだから、もうやめてくれ。ヒラメはおまえを法王にまでならせてくれたではないか。神様になんかいくらなんでもなれるわけないだろう。どうかお願いだからもうやめてくれ」と言うが妻はきかない。漁師は海に行ってヒラメに妻が神様になりたいと言っていると話すと、ヒラメはこう言った。「どうぞ、家に帰ってください。奥さんは最初と同じあばら家に座っていますよ」と。そして、家に帰ると妻は最初と同じあばら家に座っていた。限度というものを認識せずに要求する人は、結果としてこの漁師の妻のようになる可能性が考えられる。
「(株)一条工務店のお客さん」というのは地方の「豪農」とまでいかない場合でも、元庄屋さんとか、比較的裕福な方の農家もしくは元農家の人がけっこう多くて、「金持ち喧嘩せず」の対応もしくは、特に金持ちでなくても「元庄屋」としての対応をしてくれる人があり、それを「一条工務店のお客さんというのは他社のお客さんよりも『いい人』が多い」と営業が感じることがあったようだ。しかし、他方で小堀住研(株)などは関西発祥の会社であり、「高級住宅の小堀」として「小堀で家を建てた」というのが「中より上」のサラリーマンとしては「ステータス」だった時期があったが、そういうビジネスマンと違って「地方の人」にはビジネス社会の「相場」のようなものがわからない人というのがいて、又、「関西発祥の会社」というのは「商人の街」の大阪の感覚というのがあるのに対して、「地方の会社」の「(株)一条工務店のお客さん」というのはそういう「商人の思考」がない場合があり、私なんかはビジネスである以上は、それが通るかどうかは別としてビジネスである以上は価格交渉が入るのは当然のことという感覚があるが、しかし、価格交渉していいのはその相手の会社に対してであって、たいして高い給料もらっているわけでもない担当者個人に出させようなどというのはもってのほか・・と思っていたのだが、ところが「一条工務店のお客さん」の場合は「都市圏のビジネスマンの思考・常識」でもなく「大阪に代表される商人の街の思考」でもなく、そのいずれも身に着けていない人がいて、そういう人に油断すると営業社員個人に出してもらおうと考え出されてしまうし、又、値引き交渉でも「通る話と通らない話」「限度・相場というもの」があるという認識が欠落している人がおり、それが「地方」の人間を相手にした時の恐ろしい点のようだ・・と気づいた。1992年に(株)一条工務店に入社した時に見た「ビーイング」に掲載されていた(株)一条工務店の求人募集には「研修制度が充実していますので売れなくて困るということは絶対にありません」などと書かれていたのだったが、実際に入社してみると実状はその逆で「研修制度」は「充実」なんておよそしていなかったし、会社というものは営業職の従業員が「売れなくて困る」ことがないように会社として配慮して指導すべきもののはずだったが、こういったことは自分自身で経験して気づいて学ぶしかなく、(株)一条工務店は会社としてそういった指導をまったくしなかった。
大日本ドケチ教の教祖 吉本なんとか というおっさんの定義づけによるなら、うちの父親は常に「しぶちん」「しみったれ」だった。それに対して、うちの母親の方は「けち」である場合があった。その例として眼鏡というものがある。
私は小学校5年の時から近視になってしまって眼鏡をかけるようになった。小学校3年の時の視力検査では両眼とも1.5見えていたのにだ。こういう場合、親が気を配って、それ以上悪くならないように配慮して、又、一時的に近視になることがあっても回復するように配慮すべきものだが、我が家の親にはそういう姿勢は完全に欠落していた。又、日本の医者には「自分が治す方法を知らない」ことを「この病気は絶対に治らない」と表現する者がいるが、1970年頃当時の眼科医は「自分が治す方法を知らない」ものだから「近視はいったんなったら治らない」と言っていたが、そう決めつけることが悪化を招いた面もある。

眼鏡よさようなら―裸眼視力1.0を実現する - リゼット ショール, 由美子, 篠崎

近視は治らないの常識は間違いだった―1日15分わずか3週間の視力回復法 (サラブレッド・ブックス) - 良一, 山地, 憲幸, 藤本
ひとつには、小学校4年の時、大阪市内から大阪府の北摂地区に転校したのだが、それまで、小学校の1~4年の前半までは教室の席はくじ引きで決めていたが、ところが、北摂地区のM私立N小学校のハナブサという教諭(男。当時、40代。大阪府立池田高校卒⇒大阪教育大卒)は担任の教諭であるハナブサがすべて生徒の席を決めるようにした。教師が席を決めた方が授業をやりやすくて効果が出るという主張だったが、結論としてそれはハナブサとハナブサが気に入る生徒にとって都合がいいという主張でしかなかった。そういう際に5年・6年の時に同じクラスだった「野口くん」てやつは常に《「センター」の前の方》に席を決められた。AKBだって「センター」はファンの人気によって決められるのに「野口くん」はハナブサ個人によって「センター」に決められた。「野口くん」とその母親というのはそういう存在だったのだ( 一一)
それで、《特別扱いの「野口くん」》は4年の時は別のクラスだったのだが、私はハナブサからはあまり好かれていなかったらしく、常に左右ウイングで「センター」には配置されず、なおかつ、4年の時は教師から見て右、生徒の側から教師の方を見るなら左の一番後ろの席に配置されて、そして、Nなどは遠慮なく前の方まで歩いて行って黒板を見ていたが、私は勝手に席を立って前の方まで行ってはいけないものだと思い込んで、無理をして見えないものを見ようとしたことが近視になるひとつの原因だったと思っている。
うちの親はそういう時に教師に物が言えない親だった、ということが私が近視になったひとつの原因だったと思う。
又、相撲だって前の方の升席と後ろの椅子席なら升席の方が高いし、プロレスだってリングサイドの席は後ろの方の席よりも高い、プロ野球だって外野席よりも内野席やバックネット裏席の方が高いはずで、「同じカネ払ってるのに常に『センター』の前の方の席に座らせてもらうやつがいて、左右ウイングの後ろの方にされる者がいるというのは不公平やろうが」と言いたいところだが、ところが、うかつにそういうことを言うと小学校の教諭というのは「小学校は義務教育でおまえもおまえの親も1円もカネ払ってないんじゃ。それが義務教育ちゅうもんじゃ」とか言って居直る。・・それは話のすり替えだと思うのだ。カネ払っていようがいまいが、教師たるもの、生徒は公平に扱うべきであろう・・と思うが、「カネ払ってないからには俺が何をどのようにしようが俺の自由じゃ」とか小学校の教諭というのは言うのだ( 一一) ・・日本には「国公立族」と「私立族」というものがおり、私などは「基本的には国公立族」で、「基本的には」というのは私立でいいものがあるならば絶対に私立のものを否定はしないという「国公立族」で、「筋がね入りの私立族」としては慶應の教授(内部進学)などは、あいつらは「筋がね入りの私立族」であり、「私学ってことはいいってことじゃないか。こんな常識すらもわからんのかあ!」などと講義の最中にマイクに向かってお叫びになったりする。福沢諭吉は『学問の独立』という著作で、教育・学校というものは国・藩といったものから独立したものであるべきで、それゆえ、教育・学問は私立であるべきだといったことを述べているが、その後、国立・公立が「おかみの学校」ではなく「おおやけの学校」「民衆の学校」に変化し、他方で「私立」は「わたくしの学校」「誰かの私物である学校」という色彩・傾向が強い学校が少なくない状況になり、福沢諭吉が教育・学校は私立・民間によるべきものだと主張した時代とは状況が変わった・・・が時代が変わり・状況が変わってもそれを理解できない人シンドローム というのが慶應の教授(内部進学)には大変多い・・のだが、しかし、自分が行った小学校・中学校・高校を振りかえって考えてみると、たとえば、1960年代後半、大阪市東住吉区の 大阪市立M小学校3年の時の担任だったF河福三なんかは「俺は国からカネもらって教師をやってるんや。おまえからもおまえの親からも1円としてカネもらってないんや。そやから、俺がどういう授業をやろうがどういう教育をやろうが国からどうこう言われる筋合いはあってもはおまえからもおまえの親からもまったく文句言われる筋合いはないんや。逆に俺はお前を俺の好きなように教育する権利があるし、おまえは俺の教育を受ける義務があり、おまえの親はおまえに俺の教育を受けさせる義務があるんや。それが義務教育というものなんや」などと言っていたのだが、「この野郎」と思ったのだが、そういう主張をする教諭もいたということを考えるなら、やっぱり、小学校の授業料がタダてのはいかんてことないか、医療給付を本人は健康保険組合が全額負担だと医者にカネを払っているという認識が患者の側になくなってしまって医者がやりたい放題になってしまうのと同じく、義務教育の小学校・中学校は授業料が無料というからには教師は国の命令はきかないといけないけれども生徒や生徒の親の言うことはまったくきく筋合いはないんやと認識する教師、F河福三のようにはっきりとそう発言する教師が出現する、ということを考えるなら、義務教育でも授業料無料ではなく、ほんのわずかでも有料にした方がかえっていいということはないか・・とか思ってみたりもする。
「野口くん」の母親は「スピーカー」だったので、それで教諭が怖がって「野口くん」を常に特別扱いして優遇したという説があったが、あの男はどこの学校に行っても教師および学校職員に同様の扱いを受けることがあり、それだけが理由ではなく他にも何かあった可能性が考えられるが、それが何か、残念ながらはっきりとすべてのネタはつかめていない。
それで・・・、「けち」というのは「節約するところでは節約するが出すべきところではだす」というように、最初に眼鏡を作りに大丸の眼鏡売り場に行った時、うちの母親は「フレームは特に高いものでなくてもいいけれども、レンズはできるだけ眼が悪くならないように、いいものを」と言って、5種類あったうちで上から2番目の値段のものを選んだのだ。
それに対して、次の年、近視が進んで、ひとまわり度が強いレンズに変更するために、やはり、大丸の眼鏡売り場に今度はうちの父親と一緒に行くと、うちの父親は眼鏡売り場の店員にこう言ったのだ。
「やふいのん、やふいのん、やっふ~いのんがええ。一番、やふいのんにしてください。どうせ、すぐ悪なるねん。やっふ~いのんがええ♪」と。
・・そんなこと言うかなあ、普通、親がそんなこと言うかなあ・・と思ったが、うちの父親というのはそういう男だった。「やっふう~いのんがええ」「こいつの眼鏡は一番やっふいのん、一番やっふ~いのんにしてください」と。
中学校の3年の時、うちの母親と眼鏡を作り変えに大阪府M市の眼鏡店に行った時、眼鏡店の店主が「眼の為には電気スタンドも蛍光灯よりも白熱灯の方が『ちらつき』がなくていいんです」と言い、うちの母親はそれを聞いて、私の机の上に載せて使用していた蛍光灯の電気スタンドを白熱灯のものに変えようと考えたのだった・・・が、それを買うために、うちの父親と一緒に近所の電気量販店に行くと、またもや、うちの父親は言うのだった。いつものセリフを。
「やふいのん、やふいのん、やっふいのんがええ。やっふう~いのんが♪」と。
そして、うちの父親が買った「やっふいのん」というのは、ピアノライトというやつで、アップライトピアノの上に載せて楽譜と鍵盤を照らすスタンドだった。アップライトピアノの上に載せて上から下を照らすことを考えて作られたものだから、それを机の上に載せて机の上に置いた本やノートを照らしたのではまぶしすぎて、また、光が強すぎてたまったものではない。
この時、私は日本のある諺の意味を学んだ。「安物買いの銭失い」という諺を。
そして、私が19歳から20歳になる年、うちの父親はこう言ったのだ。「こいつには、小さい頃から、よその家とはちごうて、いつでも何でもどんなもんでも、欲しいというものは何でも何でも、どんなもんでも、一番ええもんばっかしばっかし、こうてきてやあってやって、やあってやって、やあってやってきたからっ!」と。「やふいのん、やふいのん、やふいのんがええ、やっふう~いのんがええ」と常に言いまくってきた男がそう言ったのだ。
よく言うわ・・・とあきれた( 一一)
「そんなことない。絶対、そんなことない」と私は言ったのだが、すると、うちの父親はこう言ったのだ。「はあん。こいつ、こんなこと言いよる。これは病気やわ、絶対に。病気がこいつにこういう口をきかせるんや。わしはいついかなる時も、こいつにはよその親とはちごうて、何でも何でも一番ええもんばっかしばっかしばっかし、こうてきて やあってやって、やあってやって、やあってやってやってやってやってきたのにからに、それをこいつ、わかりよれへん。これは病気がこいつにこういう口をきかせてるんや。これは治療してやらんといかん♪ 電気ショック療法やったるべきや、電気ショック療法♪ もしくはロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪ ロボトミーやってこいつがこういう口をきけんようにしてやらんといかん。ロボトミーやったるべきや、こいつにロボトミーやったらんといかん、ロボトミー♪」
と、そう言ったのだ。

告発する!狂人は誰か―顛狂院の内と外から (1977年) - ロイ・メドヴェーデフ, 石堂 清倫
むしろ、うちの父親の方こそ「病識がない」状態ではないのか・・と思うが、そんなことを言っても通じない。
フィデロ=カストロはバチスタ政権から裁判にかけられて死刑を宣告されるが、その際、弁護士でもあったカストロは裁判において自分自身の弁護をおこない、「私に死刑を宣告せよ。そんなことは何ら問題ではない。歴史が私に正義を宣告する」と発言したそうだが、それと同じく、私もまた「私にロボトミーでも電気ショックでもやって私を殺せばいい。歴史が私に正義を宣告する」と考えた。

わがキューバ革命 (1961年) (新しい人間双書) - フィデル・カストロ, 池上 幹徳
「な~にが何でもこいつにロボトミーやったるべきや。もしくは電気ショックやったるべきや、電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック♪ 電気ショック♪」と、常に「やふいのんがええ、やふいのん♪ やふいのん♪ やふいのんがええ! やっふう~いのん♪」と言いまくってそうしてきた男が言いまくるのだった。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
《 ウクライナ軍が9月の電撃攻勢で、ロシアから最初に奪還した街の一つ、バラクリヤ。約半年に及ぶ及ぶ占領から解放されたが、住民にはロシアへの複雑な感情と、「協力者」への不信が残っていた。
・・・・・・(略)・・・
住民には侵攻前、「ロシアは占領しないし、何も(悪いことは)しない」と信じる人たちもいたという。だが、実際には略奪や拷問を繰り返した。
「お前のことは彼から聞いている」
工場勤務のビクトル・ルデュクさん(48)はロシア兵に拘束された際、そう告げられた。「彼」とは隣人のこと。ルデュクさんは「密告」されていた。
ルデュクさんの父親は、2014年の東部地域の紛争で親ロシア派と戦った志願兵だった。ルデュクさんと母親は密告され、警察署に1週間以上にわたり監禁された。
ロシア兵はナイフを耳に突きつけ、「切り落とすぞ」と脅した。電気ショックを肩から加えられ、目の前が真っ暗になった。
「協力者」の隣人は、ロシア側の息のかかった「役所」で働いていたが、バラクリヤが奪還される前に姿を消したという。・・・》
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《 「誰が警察官なんだ」
約1ヵ月間拘束されたというセルギーさん(52)は、そんな尋問を受けた。
銃床で頭を殴られた。最も恐ろしかったのは、尋問の際にポリ袋を頭にかぶせられ、右手の親指に発電機のコードを巻き付けられたこと。電流で気を失いそうになり、袋で息ができなくなった。
「耐え抜いて生きているのはラッキーとしか言いようがなかった」。指の感覚はまだ戻らないままだという。 》
(バラクリヤ=高野裕介)

(「朝日新聞」2022.10.10.(月)<朝刊>)
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そしてさらにその後、私が22歳になる年には「『安売り眼鏡の店』てあるやろ。おまえの眼鏡はそういう店で作るようにせえ。おまえの眼鏡代がかかって迷惑なんじゃ」と、そう言ったのだ。
「おまえの眼鏡は安売り眼鏡♪ おまえの眼鏡は安売り眼鏡♪」(「とんぼの眼鏡は水色眼鏡」の歌の節で。⇒《YouTube-♪とんぼのめがね〈振り付き〉》https://www.youtube.com/watch?v=5dlh8HEMECo )と。
うちの父親というのは、そういう男だった。「父親というもの」がそういうものかというと、父親にもいろいろあると思うが、「うちの父親」はそういうものだった。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。北野高校卒⇒神戸大文学部卒。1970年代後半当時、20代)は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」というのが最大の自慢の女で(・・そんなもん、自慢するもんか~あ? と思うが)、「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ」と言い、そう言ってもらって、うちの父親は「作野先生は、あの先生はええ先生やでえ。さすが、北野高校でてるだけのことある。さすが、神戸大出てるだけのことはある♪」などと言って喜んでいたのだが、そんなにいいと思うなら、あげるよ、あのおっさん、旧姓作野礼子に。旧姓作野礼子こそ、ロボトミーとか電気ショックとかやってもらったらどうだ?
どこに収納したか見つからなくなってしまったのだが、慶應大学医学部の眼科だったか慶應病院の眼科だったかに勤務の眼科医の著書で青春出版社の青春新書で発行されていた眼鏡の作り方だか選び方だかいうような本に書かれていた話だが、「安売り眼鏡の店」というのが出てきたが、眼鏡というのはフレームとレンズからなるが、レンズのどの部分を切り取ってフレームに入れるか、その作業には眼鏡造りの職人として技術の習得にいくらかの時間がかかるのだが、ところが「安売り眼鏡の店」には十分に職人としての経験を積んでいない人が眼鏡を作っている場合がある、ということが書かれていた。
実際、私が21から22歳になる年、うちの父親が「おまえの眼鏡は安売り眼鏡にせえ」と言い、「東京でそういう店を探しなさい」と言うので、慶應の生協が紹介していた「安売り眼鏡の店」で、たしか、「ロベルト・パリ」と言ったと思うのだが、そこで作ったところ、どうもよく見えない。大阪府M市の眼科に行って見てもらったら、レンズの中心を基準としてレンズを切り取ってフレームに入れるべきものを、レンズの端の方を使ってフレームにいれていたそうで、だから、見えにくくて当然だと言われた。「東京の店だから言うけれども、その眼鏡屋、二度と行かない方がいいと思よ」と言われたのだ。うちの父親が「おまえの眼鏡は安売り眼鏡の店の眼鏡にせえ」と言って作らされた「安売り眼鏡」というのは、電気量販店で「やふいのん、やふいのん」とうちの父親が言って選んだ一番安いピアノライトと同様に「安物買いの銭失い」だった。
同じ小学校・同じ中学校・同じ北野高校から慶應大学経済学部に行ったS本 彰という「なまたまご」を「なまなまこ」と発音する男がいたのだが、私は慶應大学にいた時、東京と大阪を行き来する時には国鉄夜行バス「ドリーム号」か、東京駅を夜11時半くらいに出る「大垣行夜行普通」に乗って大垣駅で西明石行に乗り換えて大阪駅まで行くか、このどちらかが多かったのに対して、阪本はいつも新幹線で東京と大阪を行き来していた。「ええなあ、うらやましいなあ、阪本は。ほんまにええなあ」と思ったものだった。「わしぁ貧乏やからな。わしぁ日陰の月見草や」と思ったものだった。「この長嶋みたいなやつ!」とも思ったものだった。〔⇒《YouTube-くたばれ読売で盛り上がった東京音頭》https://www.youtube.com/watch?v=_lGaI9y6XVA 〕
そういえば、阪本は『早慶入試合格作戦』(エール出版社)などという本に「合格体験記」を書いて、その本が書店に並んでいたのだったが、私は買う気は毛頭なかったが、書店でパラパラと立ち読みしたところ、「こいつ、なんか恥ずかしい情けないこと買いとんなあ」と思ったのだった。阪本が何を書いていたかは今は忘れてしまったが、「こいつ、なんか恥ずかしい情けないこと買いとんなあ」と思ったというのが書店で立ち読みした時の私の感想だったが、ところが、阪本と会った時、私の方は何も言っていないのに阪本は「あれ、いい文章やと思えへんか」などと言ってきたので、私が「こいつ、なんや恥ずかしい情けないみっともないこと買いとんなあ」と思ったものを、逆に「いい文章や」などと自分では思っていたらしかった。・・・マア、私自身にしても、高校3年の時、「(月刊)受験の国語 学燈」(学燈社)の「懸賞作文」に応募して、「優秀賞」「準優秀賞」は文章が掲載されて、「佳作」は氏名と高校在校生は高校名と学年、浪人せいは高校名のみ(普通は「◇◇高校3」か「◇◇高校」)のみが掲載されて文章そのものは掲載されなかったのだが、私は3回、応募して2回、「佳作」に選んでもらったのだったが、その時は「残念。あと少しで文章を載せてもらえたのに」と思ったのだったが、何十年か経って考えてみると、むしろ、氏名と高校名だけの掲載で良かったかもしれん・・という気もしてきたのだ。その時は名文を書いたつもりだったのだが、何十年か経って考えてみると、何十年か後に人から見られたら恥ずかしくてたまらん・・てことになっていたかもしれん。〔 《ウィキペディアー学燈社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%87%88%E7%A4%BE によると、学燈社は《2009年『國文學』を休刊とし解散した。》らしい。悲しい。〕
松島みどりさんが『東大入試合格作戦』(エール出版社)に「合格体験記」を書いて、そこに「私は早稲田大学に落ちた時、何が何でも東大に合格してこの早稲田大学という大学を軽蔑してやるんだと心に誓った」とか、「私は文教地区と言われる大阪府の豊中市の中でも学力水準が高いと言われる☆☆小学校でオール5でした」などと書いていて、マア何を書いたとしても私なんかが書いたってどうってことないのだけれども、議員になったり大臣になったりする人の場合は、うかつなことを書くと何十年も経ってから「フライデー」に掘り返されて引用されて、「こいつ、嫌な女やなあ」とかいった調子で掲載される・・なんてことになるから、だから、議員になったり大臣になったりするような人は『☆☆大学入試合格作戦』とかいった本に体験記を書く時は内容をよく注意した方がいいと思う(^○^) 阪本は議員にも大臣にもなっていないし、ならないだろうし、なれないだろうけれども、そうであっても、世間一般に発売される本に書く時には気をつけて書かないと「こいつ、恥ずかしい情けないみっともないこと書いとんなあ」と同じ高校の同学年の人間とかに思われることになる・・・が、阪本はそうではなく「あれ、ええこと書いてると思えへんか」などと言ってきたあたりを見ると、「病識がない」状態だった・・のかもしれない。ロボトミーとか電気ショックとかやってやれば「治療」「治癒」されたか?・・というと、「この病気はそう簡単には治らない」状態だったのではないか・・という気がする。
阪本は東京と大阪を行き来する時は常に新幹線を使っていたのに対して、「日陰の月見草」の私は国鉄バス「ドリーム号」を使うか、東京駅を午後11時半くらいに出ていた「大垣行夜行普通」に乗って大垣駅で西明石行に乗り換えるという、その2つのどちらかが多かったが、新幹線に乗ったことも何回かはあった。その時のことだが、新幹線で東京から新大阪、新大阪から東京まで乗ると、かつては3時間10分かかったので、その間に昼食を取ることになることが多かったのだが、うちの父親が「東京駅か新大阪駅で弁当売ってるから、おまえはとんかつ弁当を買って食ったらええ。わしはいつでも、うなぎ弁当を食うんやけどな。おまえは、とんかつ弁当がええ♪」と言うので、なんで、そんなこと言うかなあ、新幹線の中で食べる弁当なんて、実際に食べる人間が食べたいと思うものを選んで買って食べればいいのと違うのか、なんで、おっさんが「おまえはとんかつ弁当や」などと決めるのかなあ・・と思ったのだったが、東京駅および新大阪駅の弁当売り場に行って見て、おっさんがそう言った意味がわかった。東京駅および新大阪駅の弁当売り場で売っている弁当の中では「とんかつ弁当」が一番安くて、「うなぎ弁当」が一番高かったのだ。それで、うちの父親は「おまえはとんかつ弁当や」と決めたのだった。「わしは、いつでも、うなぎ弁当を食うんやけどな」と。なるほど、そういうことだったのかと、わかった。なるほど。
「民族の違いを忘れるな」「階級の違いを忘れるな」というやつだったのだ。
「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」だ。

中国の旅 (朝日文庫) - 本多 勝一

南京への道 (朝日文庫) - 本多 勝一
※ 《YouTube-中華人民共和国国歌「義勇軍行進曲(March of the Volunteers)」》
https://www.youtube.com/watch?v=7wvyITD2stg
慶應大学に行っていた時、最初、横浜市港北区の日吉台学生ハイツに住んだが、後に川崎市幸区のアパートに引越したのだが、幸区のアパートにいた時、近所の「ほかほか弁当」の店で弁当を買ったことが何度かあったが、その時、何を買って食べたかというと、
「雨、雨、権藤、雨、権藤」みたいな調子で、
「のり弁当、のり弁当、さけ弁当。のり弁、のり弁、のり弁、さけ弁」
と、「のり弁当」か「さけ弁当」だった。他にもメニューはあったが、「ほかほか弁当」の店で1番安い「のり弁当」か2番目に安い「さけ弁当」以外は買ったことも食べたこともなかった。他にもメニューはあったというのは覚えているが、「のり弁当」と「さけ弁当」以外にメニューの名前は思い出せない。なぜ、思い出せないかというと、「のり弁当」か「さけ弁当」以外のものを買ったことがないからだ。そうすると、うちの父親が電話してきた言うのだった。「贅沢してはおらんやろうなあ。贅沢してはいかんぞ、チャンコロ。決して決して贅沢してはいかんぞ、チャンコロ」「贅沢は敵だあ! 撃ちてしやまん、一億火の玉」と。
まわりの大学生はどいつもこいつもフランスも私よりも高いものを食っていたが、私は「雨、雨、権藤。雨、権藤」でも「贅沢してはいかんぞ、贅沢は」と言われ、「贅沢は敵だあ!」「欲しがりません、勝つまではあ。とってちってたあ~あ!」と毎日毎日、言われ続けてきた。

昭和史 新版 (岩波新書) - 茂樹, 遠山, 彰, 藤原, 清一, 今井
うちの父親はそういう男だった。旧姓作野礼子はそういう男を持ち上げる女で、持ち上げてもらっておっさんは大喜びして「作野先生は、あの人はええ先生やで、あの人は」などと言っていたが、生徒にすればなんとも迷惑な女だった。
うちの父親はそういう男、「しぶちん」「しみったれ」だったが、母親の方はうちの父親と同じということではなく、眼鏡を作る時にも「できるだけ、眼が悪くならないように、レンズはいいものにしてください」と頼んでくれたのだった。母親の方はうちの父親のような「しぶちん」「しみったれ」ではなくて節約するところでは相当節約するが、眼鏡のレンズについては費用をかけてもいいものをとそこでは出すという「けち」の方だった。
しかし、眼に関しては悲しい思い出もある。
私が小学校の高学年だったか中学校の1年か2年の時だったか。夜、家で眼鏡をかけた状態で眼鏡をさわっていた時、指をすべらせて指先の爪の部分で眼を突いてしまったのだ。激痛を感じたが幸いなことに白眼の部分で、もう少しで黒眼にかかりそうな位置だったが黒眼にはかからなかったが、しかし、それでも激痛を感じた。
夜だったが、それでも、どこかの眼科に電話を入れて、こういう状況なので急遽見てもらえないですかとお願いするか、そうでなかったら119番に電話して夜間でも見てもらえる眼科を教えてもらうかして行くべきだと思ったのだ。それで、2階の私が使用していた部屋から階段を降りて1階に行って、うちの母に「眼を爪で突いてしまった。ものすごく痛いんや」と言ったのだが、そうすると、うちの母親はこう言ったのだ。「そんなもん、勉強したら治る」と( 一一)
「そんなんじゃないんや。ものすごく、痛いんや。眼に赤い筋がいってるんや。ほんまなんや。嘘じゃないんや」と言ったのだが、「勉強せえへんから、そんなんなるんや。勉強したら、そんなもん、治る」と、うちの母親は言うのだ。
「だから、そんなんじゃないんや。本当や。嘘ついてるのと違うんや。本当にものすごく痛いんや。眼に赤い血のような筋がいってるんや」と何度も何度も訴えたのだが、「やかましい! 勉強せえへんから、そんなになるんや。勉強したら治ると言うてるやろ!」と言うのだ。
「勉強したら治る」なんて言われても、痛くて痛くて、勉強なんかできるような状態じゃなかった。
そして、結果としては、不幸中の幸いとして突いたのは白眼の部分であったからか失明などはしなかったけれども、その後、しばらく痛みはとれず、そして、それから50年以上経った今も、その時に突いた後、赤い筋がいったものはなくなることなく、今も赤い筋は残っている。
「勉強したら治る」とうちの母親から何度も何度も言われたのだったが、どんなに勉強しても治らなかった












( 『ぷち 本当にあった愉快な話 総決算! 笑激! 投稿天国SP』(2022.9.23.竹書房)所収
安斎かなえ『みんなに聞け☆ かなえ の投稿わーるど!』より )
↑ というようなことだってあるのだ。私の場合は手の指の爪で突いてしまったのが幸い白眼の部分で、その時は激痛がして、それから50年ほど経つ今でも白眼の赤い筋はなくならないが失明とかはしなかったけれども、そういう場合は、たとえ、夜間でも見てもらえる眼科を捜して行くべきで、「勉強したら治る」などとおかしなことを言うものではない・・と思う。

ぷち本当にあった愉快な話 総決算!笑激!! 投稿天国SP (バンブーコミックス) - 安斎かなえ, 田島みるく
うちの父親が言うには「この世の中というものは、人に命令する人間ばっかしでもあかんし、人から命令されてせっせせっせと働く人間ばっかしでもあかんのや。両方の人間がおってこそ世の中は成り立つんや。そやからやなあ。『天の神さま』というお方は大変賢明なお方であって、わしいとかM川先生(うちの父親の親友の医者屋。1980年頃当時、50代前半。当時、大阪府豊中市在住。自称「金沢大医学部卒」だったが嘘くさい。実際は私立金権関西医大卒か、そんなところではないか)とかはドイツ人の民族で、わしは慶應の階級、M川先生は医者の階級の人間で、わしとかM川先生とかは典型的な人に命令して号令かけなければならない民族で階級の人間として『天の神さま』から決められて産まれてきた人間なんや。それに対して、あんたあは常に人に服従するべき民族で階級の人間やねん。これは『天の神さま』というお方がそのようにお決めになったんや。これは変えようと思うても決して変えることはできないことであるし、又、『天の神さま』は神さまがお決めになった掟を変えようとするような者を決してお許しにはなれへんねん。わしとM川先生は自分ではやらずに人に号令かけるのが得意の人間、あんたは人から号令かけられるというのが何よりも大好物。あんたは号令かけられると喜ぶねん。おまえはチャンコロの民族で浪商の階級の人間やねん。民族と階級の違いを忘れてはいかんぞチャンコロ浪商! これは『天の神さま』というお方が生まれる時点でお決めになったことやねん。これを適材適所とこう言うわけや♪」と、そう何度も何度もうれしそうに言っていたものだった。そもそも、「自分ではやらずに人に号令かけるのが得意」なんて、そんな人間、いない方がいいのではないのか?(会社という所には時々もしくは「しばしば」そういう人がいるけれども。) 「人に命令されてせっせせっせと働く人間」というのは「自分ではやらずに人に号令かけるのが得意の人間」にとって必要かもしれないが、「せっせせっせと働く人間」にとっては「自分ではやらずに人に号令かけるのが得意の人間」なんて、そんな人間、いない方がいいはずなのだ。「天の神さま」とかいうやつにとってどうかは知らんが「人に命令されてせっせせっせと働く人間」と「天の神さま」から認定された者としては「自分ではやらずに人に号令かけるのが得意の人間」なんて、そんな人間、いなくてもいいのだ。
うちの父親はそういう男だったので、私に日夜、号令かけていた。「てってこっこ、てっててって、らったらったらったら♪ てってこっこ、てっててって、らったらったらったら♪ 撃ちてしやまん、一億火の玉、欲しがりません、勝つまでは! とってちってたあ~あ♪ 木口小平は死んでもラッパを放しませんでしたあ! いっらいっらしてきた、いっらいっらしてきた。いらいらしてきた、いらいらしてきた、してきたしてきたしてきたしてきた。戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元~お! わしに孝行せえよお! わしに感謝感謝感謝感謝じゃあ~あ、いっらいっらしてきたあ~あ、いっらいっらしてきたあ~あ♪」と、毎日毎日、叫んでいた。
そして、私が小学生の頃から毎日のように言っていた。「寝ずにや~る! 根性でや~る! 気合でや~る!」と。 そして、それはあくまでも私に言うことであって、自分はというと、午後9時にもなると「寝よ、寝よ、ぽんぽん、寝よ、ぽんぽん♪ 寝よ、寝よ、ぽんぽん、寝よ、ぽんぽん♪ もう、歯あ、磨きました♪」といつもその節回しでつぶやくと、午後9時過ぎには寝床に入っていた。そして、私には言うのだった。「寝ずにや~る! 気合でや~る! 根性でや~る! とってちってたあ~あ!」と。・・そういうおっさんやった( 一一)
そして、「朝起きの悪いやつというのはあかんのや。その点、わしは、朝、6時になったら自然と眼がさめて、ぽんと起きる。そして、ゆうゆうと電車には座って行く」と言うのだった。「電車に座って行く」のは始発駅から乗っていたからだったのだが、「朝、6時になったら自然と眼がさめて、ぽんと起きる」と言うが、おっさんは夜9時頃には寝床に入っているのであり、そんな時刻から寝床に入って、そして、寝床の中でプロ野球ニュース見て、終わったら寝ていたのだから、「ぽんと起きる」くらいできるだろうが・・と思ったが、そういうおっさんやった。それでいて、私には「寝ずにやる、根性でやる、気合でやる」と言うのだった。要するに「わしは自分ではやらずに人に号令かけるのが得意の人間やねん」てのは、そのことを言っていたのかもしれない。
会社にも、たとえば、1990年、小堀住研(株)〔⇒エスバイエル(株)・・⇒(株)ヤマダエスバイエルホーム⇒(株)ヤマダホームズ https://yamadahomes.jp/ 〕の東京都目黒区 の自由が丘展示場で課長にならせてもらっていた高橋賢一郎などは、高橋は毎日、定時過ぎに帰宅して、私は夜11時前後まで仕事をしていたのだが、私が始業時刻より前に出勤しても、高橋賢一郎も普段はその時の私と同じくらいの時刻に出勤しているのに、たまたま、自分が少し早めに出勤することがあると「遅い」とか言いよったことがあって、「なんだ、こいつ?」と思ったことがあったが、そういう男というものはいるものだ。課長というものは、その営業課の従業員がそれほど夜遅くまで勤務しなくてもやっていけるように配慮するのが仕事のはずなのだが、自分だけさっさと先に帰っていた男が、たまたま、早めに出勤するとそういう態度をとるという、そういう性格の人間だった。 北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」というのを最大の自慢にしていたが、小堀住研(株)にいた高橋賢一郎(男。1990年当時、30代半ば過ぎ。福島県喜多方市出身、東京電機大学卒)もまた「両親が離婚した」男で、高橋賢一郎の場合は母親の方ではなく父親の方にくっついていった男だったらしいが、「両親が離婚した」人間というのは、この2人のように性格いがんでいるのか・・というと、そういうものでもなく、それは「人による」のではないかと思う。高橋のような人間には本来なら支店長が注意しないといけないはずだが、東京支店長の高倉はそのあたりを把握できていなかった。把握できない人が支店長になっていた。高倉は初対面で見ると、身なりなどきっちりと整えていて営業の経験を積んできた人という印象を受けたし、営業担当として、もしくは営業課長であったなら悪くない方の営業課長だったかもしれないが、つきあえばつきあうほど「やっぱり、高卒の支店長やなあ( 一一) 」と思えてくるという人だった。小堀住研(株)はその程度の人だらけの会社だった。私は大学生だった時、うちの父親の勤め先の工場にアルバイトに行ったことがあったが、他業種だが創業以来の年数、従業員数などは同じくらいで、社長はどちらもその時点で2代目で、うちの父親の勤め先は上場していなかったが小堀住研(株)は一部上場だったので、上場している分だけわずかに上かと思って入社したが、入社してみると、そこで部長とか支店長とかになっている人間、さらには東部営業本部長とかになっている人間を見て、「この会社、『一部上場』とか『(その頃の時点で)戸建住宅建築業で施工棟数全国8位』とか言うわりに、こんなに程度低いのお?」とびっくりした。うちの父親の勤め先よりも上場している分だけわずかに上かと思ったら、そうではなく下だった。・・私は高校を卒業する時に東大を落ちたところ、うちの父親の親友の医者屋のK田とM川から「高校は義務教育ではないんやから、あんたなんか高校には行ってはいかんはずやのにからに、あんたが高校に行ったというのは、それはあんたが甘ったれているからや。ましてや、あんたなんか、大学には行ってはいかんはずや」と言われて、なおかつ、そういうことを言うK田の息子は私立バカ大学を2つも言っていて、M川の息子はM川が「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして貯め込んだカネから私立金権関西医大に裏口入学させていて、M川の息子は高校も私立高校(おそらく、これも裏口)だったが、おのれらのドバカ息子はそういうドバカ大学に行かせておいて小学校:公立・中学校:公立、高校:その地域で一番の公立高校で最終的に通るかどうかは別として旧帝大系国立大学に合格できる可能性が十分あった私には「義務教育でない以上はあんたは高校には行くべきではないのに行ったんや。ましてや、あんたは大学には行ってはいかんはずや」などと言ってきたのであり、私が親なら、そんなことを言ってくるやつには「なんで、あんたらにそんなこと言われなきゃなりまへんねん。そんなこと言うなら、あんたらのドバカ息子こそ、小学校行ったのが余計やろうが!」と言い返してやるところだったが、ところが、うちの父親というのはよその親からそういうことを言われると喜ぶ男だったのだ。「そうや、その通りや♪ ええ~えこと、言いはるっ♪」と言って喜ぶのだ。それならK田の息子はバカ大学を2つも行っていいのかというと「2つも大学に行ってるんやから、一生懸命勉強せんといかんなあ」という結論に持っていき、M川の裏口息子はというと「裏口入学で大学に行かせてもろうたんやから、勉強させてやらんといかんいうこっちゃ」ということになり、実力で旧帝大系国立大学に合格できる可能性が十分あるというところまで努力してきた私はというと「義務教育でないからには行ってはいかんはずや」という結論に持って行くのだった。「義務教育は小学校と中学校だけで高校は義務教育とは違う」という最初の理屈は同じでも、K田のドバカ息子やM川の裏口息子と私とでは結論は正反対の所に持って行くのだった。その基準からいくならば、高橋賢一郎なんかは、義務教育であろうがなかろうが「小学校行ったのは余計や」ということになるはずだったが、ところが、私などは、うちの父親から「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われ、私が「国立大学なら何学部でも学費は一緒のはずや」と訴えても、うちの母親が「何を甘ったれた口をきいてますのん、何を。絶対に間違いなく百パーセント、国立大学に通るとは決まってませんでしょ。たとえ、0.1%でも落ちる可能性があったら国立大学でも工学部なんか受けてはいかんでしょうがあ」と言われて工学部などは受けさせてもらえなかったし、又、「東大に行くというのなら東京で下宿してでも行ったらいいし、行くべきやし、下宿は嫌やなどと甘ったれたことを言うておってはいかんし、東大でなくても慶應か早稲田なら下宿してでも行く値打ちはあるけれども、そんなもん、法政やたら明治やたら専修やたら東洋大やたらなんたらかんたらいうようなアホ大学に行くのに下宿してまで行く必要あらへん。甘ったれとってはいかん、甘ったれとっては」と私が高校3年の時にうちの父親は言っていたのだったが、高橋賢一郎の父親というのはラーメン屋をやっていたらしいが、会津地方、喜多方市の人間だったらしいが、東京電機大なんて、そんな電気代か電話代かガス代かわからんような私立大学に行くのに東京だか埼玉だかで下宿までして行くやなんて、よっぽど金持ちやったのと違うかて感じがする。どうも、ラーメン屋て相当儲かるみたいやなあ・・・。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」というのを最大の自慢にしていて「私は家が貧乏だったから」と言っていたが、「両親が離婚した」「父親がいなかった」というのは本当のようだが「家が貧乏だった」というのは嘘だと思う。なにしろ、私なら「うちは文学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われたものだが、それを旧姓作野礼子は神戸大の文学部になんか行っていたのだから。しかも、私は「うちは学校の先生になんかならせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われて高校の教諭にはならせてもらえなかったところを旧姓作野礼子は高校の教諭になっていたし、私は「うちは高校の先生になんか、ならせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな。特に国語とか社会科とかの先生はなってはいけません。たとえ、高校の先生でも数学か英語の先生でなかったら家庭教師のアルバイトができません。そやから、国語とか社会科とかの先生は絶対になってはいけません」と言われてその道を閉ざされたものだったが、ところが旧姓作野礼子は私なら絶対に行かせてもらえない神戸大の文学部みたいなもんに行って、しかも私はならせてもらえない高校の先生になって、しかも、「特になってはいけません」という「国語」の教諭になっていたのだから、旧姓作野礼子は「うちは家が貧乏だったから」などとナマ言っていたが、それは大嘘で実際は金持ちだったはずだ。少なくとも、大学進学と就職においては大金持ちだったはずだ。実は「両親が離婚した」「父親がいなかった」という娘というのは金持ちだったのだ。高橋賢一郎もまた、うちの父親は私が高校3年の時には「国立大学か私立でも早稲田・慶應か、せめて、関関同立くらいにでも行くのなら大学に行ったらええけれども、そんなもん、き~ん大とかぴ~ん大とか、あるいは法政やたら明治やたら専修やたら東洋大やたら、そんなアホ大学に行くようなやつ、大学に行くことあらへん。甘ったれとってはいかん、甘ったれとっては。そんなアホ大学に行くようなやつなんか、自衛隊に入れたるべきや、自衛隊に。自衛隊に入れ、自衛隊に。とってちってたあ~あじゃ」と言っていて、又、「下宿して大学に行くのも、東京で下宿して東大に行くというのなら下宿してでも行ったらいいし、行くべきやし、下宿生活は嫌やなどと甘ったれたことを言うておってはいかんし、東大でなくても慶應か早稲田に行くのでも下宿して行く値打ちはあるけれども、そんなもん、法政やたら明治やたら専修やたら東洋大やたらなんたらアホ大学に行くようなやつが下宿してまで大学に行くことあらへん」と言っていて、又、「東大に行くのなら下宿して行くしかないけれども、京大に行くなら自宅から通うべきや。下宿することあらへん。甘ったれとってはいかんぞ」と言って、もし、京大に行ったら片道2時間以上かかるところに毎日、通えと言われたものだった。同じ小学校・中学校・高校から1浪して京大の法学部に行った「野口くん」てのは京都で下宿して京大にと行っていたが、うちの父親が私に言った基準からすると「甘ったれとる」ということになるはずで、箕面から石橋・十三・京都河原町と3 回、乗り換えて「京都河原町」からバスに乗って百万遍の京大まで通学しないといけないはずだったが、「野口くん」はウルトラ甘ったれとったようで、京都で下宿して京大に通っていて、なおかつ、週末ごとに大阪府箕面市までけっこう高い交通費をかけて帰ってきて往復しておった。又、私はうちの親から「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われ、「国立大学なら何学部でも学費は一緒のはずや」と言っても「百パーセント、絶対に国立大学に通るとは限らんでしょうが。たとえ、0.1%でも落ちる可能性があったら国立大学でも工学部は受けてはいかんでしょうがあ」と言われたものだったが、ところが、高橋賢一郎は「小さい頃に両親が離婚した」そうで旧姓作野礼子とは違って父親の方にくっついていったらしく「母親がいなかった」らしいが、福島県の会津地方、喜多方市の人間だったのに、私立も私立の東京電機大学なんてわけのわからんどこの馬の骨かわからん、電気代か電話代かガス代かわからんような私立大学の工学部みたいなもんに、東京で下宿までして行きよった。よっぽど金持ちだったようだ。旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」と言えば誰もが「作野先生はお父さんがおられなくて苦労してこられただけあって、しっかりしておられるわあ」とか言ってほめる義務があると考えていたようだったが、そんな義務なんかないし、旧姓作野礼子はそういうことを言ってもらう権利があると認識していたようだったが、そんな権利なんかない。なによりも、旧姓作野礼子にしても高橋賢一郎にしても「両親が離婚した」という人間は大学進学については「めっちゃ金持ち!」である。「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」だの「うちは子供の頃に両親が離婚して母親がいなかったから」だのと自慢みたいに言う人間というのは、実はもんのすごい金持ちなのだ。うちなんか、東京電機代か電話代かガス代かみたいなわけのわからん私立大学の工学部になんか、行きたいなんて思ったことはまったくないし、少なくともそれよりはマシな大学に合格できたはずだが、まず、およそ、行きたいなんて口にできなかった。それを高橋賢一郎は当たり前みたいな顔して行って、そして、そういう大学を卒業した人には卒業した大学の名前をあんまり言いたくないという人がいて、住宅建築業の会社では建築学科卒は高く評価されるのでそれを言いたいという場合でも、「御主人さん、私、××大学ですけども、一応、建築学科でてますんでえ」とか申し訳なさそうに言うおっさんがいるのだが、高橋賢一郎の場合は私に「『うちの課長は建築士の資格は持ってませんけれども建築学科でてますから』とそれを売りにするといいよ」などと言うので、はあ? はあ~あ? と思ったことがあった。小堀住研(株)は「大卒しか採らない会社」と何十年前から言いまくっていた会社で、かつ「創業者の小堀林栄は竹中工務店で設計をやっていて、それで竹中工務店が建てるような戸建住宅を専門とする会社を作ろうとして小堀住研を作ったんです」と言いまくっていた会社だった(実際は小堀林衛という人は高卒の人で、竹中工務店の設計というのは京大くらいの建築学科でも学部卒ではなかなか採用してもらえなくて修士卒くらいの人が勤める所であり、高卒の小堀林衛さんが勤めていたとは考えにくく、そして、実際には竹中工務店で設計やっていたというのは嘘だったらしいが)、そういうことを言いまくってきた会社で「うちは一部上場ですからね」と言っていた会社だったので、そう言われた客の側では小堀住研(株)の従業員というのは、せめて国立大学か早慶か関関同立くらいの大学は出ている人ばかりかと思うようになったのだったが、そういう相手に「うちの課長は建築士の資格は持っていませんが建築学科でてますから」などと言ったなら、言われた側としては、国立大学か早稲田大か、いくらなんでも立命とかそのくらいの大学の建築学科くらいは出ているのだろうと思って、「どちらの大学なんですかあ?」ときくことが予想されるのだが、そこで「△△さんなんかはご存知ないでしょうけれども、東京電機大学という名前の私立大学が東京の御茶ノ水と大手町の間くらいにあったんですけれども、最近、埼玉県の方に引越したみたいですが、そこみたいです」などと言ったなら、「はあ? 小堀住研にそんな大学の人がいるんですかあ」と言われてしまうことになる・・ということが予想されたのだった・・が、そういうことを言わせようとするということは、高橋賢一郎は東京電機大学なんてそんなところ、そんな私立大学のしかも工学部になんかに福島県の人間が下宿までして行ったということについて、私なら絶対に行かせてもらえないし、そんな大学に行きたいと思ったことは一度もないし、又、そんな大学に行かなくてもそこよりはマシな大学に合格できたが、私ならたとえ行きたいと言っても絶対に行かせてもらえなかったような私立大学の、しかも工学部に行ったということを、むしろ「ちょっと自慢」に思っていたらしかった( 一一) ( 一一) ( 一一) 北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」と自慢しまくり、「うちは家が貧乏だったから」と嘘を言ったが、実際には「両親が離婚した」人で親が片方しかいなかった人というのは決して貧乏などではなくて、我が家なんかと違ってもんのすごい大金持ちだったようだ( 一一) 騙された( 一一)
会社という所には、自分は終業時刻過ぎたらさっさと帰って夜9時には布団の中に入って、布団の中で酒 飲んでプロ野球ニュース見て寝て、「朝、6時になったら、ポンと起きる♪」とか、深夜まで働いてへとへとになっている従業員にえらそうな口をきくというようそういう人が時々いるのだが、そういう人というのは、たいてい、自分の息子には「おまえ、あんなヨタ話にひっかかったらいかんぞ」と教えて、そういう「寝ずにや~る! 気合でや~る! 根性でや~る!」とかいうのはひとの息子に言うものだったが、うちの父親はそうではなくて、私にその「寝ずにや~る! 気合でや~る! 根性でや~る!」というのをやって、そして、ひとの息子には「ええかっこしい」やるのだった。「わしは思いやりがあるね~ん」とか言って。
私が近視になってしまったのも、ひとつには父親がそんな人間だったから、そんなもの、「寝ずにや~る」だの「気合でや~る」だのなんて、そういう大日本帝国軍隊の精神主義みたいなもの、通じるわけないだろうが( 一一) ・・・と思っても、それでも、そういうおっさんの叫び声を毎日毎日聞かされてきて、その影響を受けてしまっていたようで、会社に勤めても、そういう影響を受けてそういう勤め方をして、ふと気づくとそんなものやっているのは私ひとりだけで、他にそんなものやっている人間なんて誰もない・・ということが何度もあった。

菊と刀 (講談社学術文庫) - ルース・ベネディクト, 長谷川 松治
1990年、小堀住研(株)の自由が丘営業課 課長の高橋賢一郎は、同社では「応募条件」が「技術系(設計・工事・工務・アフターサービス)」は「4年制大学の建築学科卒もしくは土木学科卒で、普通自動車第1種免許取得者」、「営業系(営業・人事・総務・経理)」は「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人で、普通自動車第1種免許取得者」という条件で、採用実績校は「神戸大・新潟大・同志社大・関西大・甲南大」だったか書いてあったと思ったのだが、高橋賢一郎はこの「営業系」の条件である「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」の条件も「普通自動車第1種免許取得者」の条件も、どちらの条件も満たしていないにもかかわらず採用してもらっていたが、「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」という方の条件は満たしていない代わりに「4年制大学の建築学科卒の人」という「技術系」の方の条件を満たしているということで、その条件を満たしている人に「準ずる」という扱いにしたとしても、「普通自動車第1種免許取得者」という方の条件は満たしていないにもかかわらず採用してもらったなら、いわば「選考進級」で進級させてもらったような人なのだから、入社後に速やかに普通自動車第1種免許は取得するようにすべきだったはずだが、ところが取得していなかった。小堀住研(株)では新卒入社の人間は入社1年目は電車・バスで営業するということになっていて、その間、もし、自動車で行かないとできない業務があった場合は営業課長が課長のクルマに新人を乗せて課長が運転して行くということになっていて、そのかわりに課長は課長の役職手当を受け取っていた。ところが、高橋賢一郎は自分が普通自動車第1種免許を持たず自動車も持たず、自分の営業課の課長ではない営業担当者に営業担当者のクルマに乗せてもらって運転してもらって行っていた。それでいて課長の役職手当は高橋賢一郎を乗せてあげて運転してあげて高橋賢一郎が担当の見込客・契約客の居住地や建築地に連れて行った営業担当者が受け取るのではなく、乗せてもらった高橋賢一郎が取得していた。これでは「やらず、ぶったくり」だったが、高橋賢一郎はその「やらず、ぶったくり」をやっていて、小堀住研(株)という会社は高橋賢一郎に「やらず、ぶったくり」をさせていた。
それだけではなく、入社2年目に入った私が仕事で使用するクルマとして「比較的悪くない中古の乗用車」を購入しようかと考えたが、うちの母親が、離れて暮らしていることであり、普通自動車第1種免許は前から持っていても普通自動車の運転は初めて運転するのだから、運転の能力が十分でないなら自動車の方は確かなものに乗ってもらいたいので、不足分は出すから新車を買ってくれと言ってくれて、それで新車を購入しようとしたところ、課長の高橋賢一郎が「それじゃあ、俺がそのクルマを運転してやろうか」などと怖ろしいことを言ってきた。高橋賢一郎はその時点で普通自動車第1種免許を保有しておらず、自動車学校に通っていた最中だったのであり、そんな人間が運転したならば「無免許運転」になるし、運転させたなら運転させた側もまた責任を問われる危険がある。小堀住研(株)はそんな危険な男を課長にならせていたのだった( 一一) 会社というものは、その時の高橋賢一郎のようなことを言い出す人間がいないように十分に気をつける必要があるはずだ。そもそも、小堀住研(株)の営業課や工事課・アフターサービス課の職種の従業員は日常的に自動車を運転して移動しないと仕事にならない職種であり、そういう職種であるから「応募条件」として「普通自動車第1種免許取得者」という条件になっていたものを、高橋賢一郎はそれを取得していないにもかかわらず「選考進級」のように採用されて入社したのだったが、そうであるならば、営業担当者から営業課長への昇進は最低でも「選考進級」の条件を解消してから、普通自動車第1種免許を取得してからでないとおかしいはずで、それを取得してもいない人間を課長にならせるから、だから、この時の高橋賢一郎のような違法行為の要求、反社会的な要求をする者が出てくるのだった。私なら自動車の運転免許を持っていても、それでも運転になれていない段階の時なら、ひとのクルマを運転させてくれなんて言わないし、ましてや、新車を購入したなら購入した者よりも先に「運転してやろうか」などと言わないが、高橋賢一郎は無免許でありながら「ぼくが運転してやろうか」などと言ってきたのであり、こういう発言は新卒社員でも非常識だが高橋賢一郎はその時点で30代の半ばを過ぎていた人間であったが、そういう非常識な男を「選考進級」であるにもかかわらず課長に昇進させた東京支店長の高倉には責任があるとともに、東部営業本部長にも責任があるはずで、東部営業本部長の増田和二は富士銀行から出向できて、何ら小堀住研(株)に貢献しなくても優遇してもらう権利があるみたいに思っていた人間だったが、そういう男を出向で東部営業本部長に送りつけた富士銀行(現 みずほ銀行)の代表者 代表取締役・頭取にも使用者責任があるはずだ。
※ 無免許でひとのクルマを運転したがるやつのお話としては⇒《YouTube-トラブルバスターズ――【スカッと】私の車が無い…→盗難届を出すと…義母「娘が仮免で事故った!」【スカッとする話】【アニメ】【漫画】【2ch】》https://www.youtube.com/watch?v=TZta0u3vK2U
この「トラブルバスターズ」の「義妹のなつきさん」を見て、高橋賢一郎みたいなやつだな・・と思った( 一一) 私は小堀住研(株)にいた時、展示場の事務所の机の上に自分の自動車の鍵を置いて少し席を離れたことがあったが、少しの間なら、机の上にクルマの鍵を置いていても勝手に持ち去って人のクルマを無断で運転しようなんて人間はいないと思いこんでいたし、それまで在籍した展示場にいた営業社員でも展示場の事務所の自分の机の上に自分の自動車の鍵を置いて席を離れる人はいたのだが、そういう人は、まさか、小堀住研(株)の展示場の事務所の机の上にクルマの鍵を置いていても、自分の会社の従業員で断りもなくひとのクルマの鍵を持ち去ってひとのクルマを運転してやろうなんて人間はいないだろうと思ってそうしていたのだが、高橋賢一郎がいる展示場の場合は安心できない。無免許の男が「ぼくが運転してやろうか」などと言うそういう男がいる展示場(営業所)の場合は、うかつに事務所の机の上にクルマの鍵を置いて席を離れるといったことをするのは危険だったと今は思います。ああいう男をよく課長にならせるなあ・・と思いますね。
「そうは言いましても、高橋賢一郎さん、まだ免許 持っていませんよね~え」
学校の成績を上げようと考えるならば、そういう精神主義というのか、日本軍国主義の悪影響というのか、竹槍で突撃せよみたいな考え方では成果は出ない・・と思う・・のだが、うちの親は私にそれをさせようとしたのだ。大学入試は平等ではないと私は思っている。北野高校の同級生とかでお父さんが東大とか京大を出た人、もしくは東大とかに行きたいと思ったが行けなくて慶應大・早稲田大とかに行った人の息子・娘というのは本当にうらやましいと思ったものだった。親の理解が全然違う。 大王製紙の二代目社長は北野高校から東大を受けたけれども合格できず慶應大に行ったが、息子には何が何でも東大に行かせたいと思って息子は筑波大付属駒場高校から東大に合格して行って卒業して大王製紙(株)の3代目を継いだ・・が、ラスベガスのカジノでしょーもないことやりよったあ~あ・・あ~あ・・ということだったらしいが、実際に合格して行ったか、合格できずに息子にこそ行かせたいと思ったかは、それはどちらが息子にとっていいかは一概に言えないと思うが、うちの親なんかとは全然違うと実感した。
なんというのか、竹槍でB29に突撃しろとかいうような、「気合でや~る! 根性でや~る! 寝ずにや~る!」というのは・・、もう実際のところ・・疲れる( 一一) ・・⇒《YouTube-リゲイン TVCM|2014 すみれ「どーなっとるんだ」篇 「3、4時間」篇》https://www.youtube.com/watch?v=1TbzRq6QmWE
「24時間戦うのは、しんどい」
うちの父親と漫画家の水木しげる は同じ年の生まれで誕生日も1か月ほどしか変わらなかったのだが、ところが、戦後になって言うことは全然違った。水木しげる は戦中の体験として「我々はアメリカ(合衆国)人とは違って大和魂というものを持っていて精神が優れているので、食べるものがなくて栄養が足らなくても気合が充実しており、アメリカ(合衆国)人の兵隊は食料に恵まれていてたらふく食っていても水ぶくれであって精神がないから、だから、彼らは精神が充実した我らに比べるとたいしたことないのだ」と教えられた・・が、実際に戦ってみると、やっぱり、食うもの食ってるやつには勝てんということがよくわかった・・と水木しげるは書いていたのだが、同じ年の生まれで誕生日だって1か月ほどしか変わらないはずのうちの父親はそうではなくて、「寝ずにや~る! 気合でや~る! 根性でや~る! とってちってたあ~あ!」と戦後になっても、朝鮮戦争過ぎても1964年の東京オリンピック過ぎても、1970年の大阪万博を過ぎても言っていた。あくまで私に言うのであり、自分自身には決して言わなかったが。私が小学校3年の時の視力検査では両眼ともに1.5見えていたのに近視になってしまったのは、うちの父親がそんなのだったからということが一因としてあると思っている。
小学校の5~6年だったか中学校の1~2年だったか、どちらの時だったか、定期考査があったと思うから、中学校の1年か2年の時のことだったかもしれないが、私が中学校2年の初めに結婚した上の姉がまだ家にいた時期のことだから中学校1年の時だったかもしれない。
陸上競技の中距離層では「スタートダッシュ」「中間疾走」「ラストスパート」という考え方があり、「スタートダッシュ」というのは最初に走り出す時、走り出せるように気合を入れて走る、「中間疾走」はスタートダッシュで走り出した走力を活かしてスピードを落とさずに走る、「ラストスパート」は最後に気力を振り絞って走る・・ということらしく、その文章だけ読むと、なんやねん、結局、「スタートダッシュ」で必死に走る、「中間疾走」で必死に走る、「ラストスパート」で必死に走る・・と最初から最後まで必死に走らされるということかい・・て思えてくるが、それは説明が悪いのであり、人間の身体というものは習慣づけができると比較的苦労せずにできてみたりするもので、その習慣づけのようなものができるまでは頑張ってやらないといけない、それが「スタートダッシュ」で、勢いがついた状態でその状態を利用して走るのが「中間疾走」で、最後、あと少しだからその後のことは考える必要ないから力の限り走るというのが「ラストスパート」ということのようで、これは陸上競技の中距離層に限ったことではなく、日常においても似たことはあると思うのだ。
小此木啓吾の ””「モラトリアム人間論」を喜ぶおっさん症候群”” というのがいて、うちの父親なんかもそうで、「大学生というのは遊んど~る。甘ったれと~る」と言って「てってこっこ、てっててって、らったらったらったら♪ てってこっこてっててって、らったらったらったら♪」と言いたがるのだったが、そもそも、大学生というのはそんなに「遊んど~る」かというと、人にもよるだろうがそんなことないと私は思ったし、何より、うちの父親が大学生がどうなのか実態を知って言っていたかというと、知らずに言っていた、自民党系・右翼反動系政治家やその取り巻きの程度の低い「文化人」が大学生が大学在学中に様々な問題について自ら考えることを妨げて、「見る前に跳べ」というように右翼反動の側の思考を観念的に見につけるようにしむけようとして発言しまくっていたものに簡単に感化されていただけのことだったと思われる・・が、慶應大学の商学部の「経済学」という必修科目の講義の時に、マルクス経済学者ではなく近代経済学者のN教授が言われたのが
「パンツのゴムでも引っ張ってばっかりでは、そのうち、伸びきって役に立たなくなるわ」
という発言で、別に何も大学生というのは「モラトリアム人間」でけしからん、もっと、せっせせっせと滅私奉公的に働けとか言わなくたって、どうせ、就職したら働かなきゃならんのだから、大学に入るまでに相当根詰めて勉強してきたことだし、大学生の間、少しくらい遊んだって、そんなことに目くじら立てる方がおかしい・・ということをこの「パンツのゴムでも引っ張ってばっかりでは、そのうち、伸びきって役に立たなくなるわ」言われたのだった、又、商業学のH教授は「商業学総論」という講義の中で、東北大卒で国家公務員やっている人から、もっと慶應大学の人に国家公務員になってもらいたいと言われたという話をされて、その理由として、ひとつは同じ大学の卒業生ばかりでは思考が一定化して組織が硬直化してしまう、ある程度、異なる大学の出身者がいる方がいいと言われ、そのために慶應大学の人にはもっと国家公務員になってほしいと言われたそうで、もうひとつの理由として、旧帝大系国立大学卒の人には中に「伸びきったパンツのゴムみたいな人」というのがいると言われたそうで、「伸びきったパンツのゴム」というのは、大学に入学するまでに全力を注ぎこんで、大学を卒業したらもうその時点で止まってしまってもうまったく伸びないという人というのがいると言われ、その点、慶應大学卒の人はよく伸びる・・と言われたそうで、「そりぁ、俺たち、遊んでるもんなあ」などと言われたのだが、私なんかはちっとも遊んでないが、しかし、大学の体質として、旧帝大系国立大学と慶應大なら、イメージとしては旧帝大系国立大学の方が《「伸びきったパンツのゴム」みたいな人》というのは多そうなイメージはある。1990年、小堀住研(株)に富士銀行(現 みずほ銀行)から出向できていた増田和二(男)なんかも東北大法学部卒だったようだが、その旧帝大系国立大学に合格した時点で力尽きた「伸びきったパンツのゴムみたいな男」のひとりだったのではないか、と思う。
それで、人生のある程度長いスパンで考えるのでなく、もう少し短い期間で考えて、中学校には中間考査・期末考査というものがあったが、常に「ラストスパート」みたいな走り方をしていたのでは長く持たない。そうではなくて、「スタートダッシュ」で勢いをつけたなら、そこからは「中間疾走」として長く続けられるようなやり方でやり、中間考査・期末考査の前など限定で「ラストスパート」のようなやり方でやるようにするべきで、そうしないと眼を悪くすると私は言ったのだ。ところが、そういう時になると、うちの上の姉はうちの親に加担するのだったが、あのおねえさんはどうもそういうところがあった。
その時だが、うちの母親はこう言ったのだ。
「眼えみたいなもん、なんや。眼えなんか、つぶれてもかまわん。受験がすべてや。眼えなんか、つぶれてもかまわん!」と。
うちの母親は私にそう言ったのだった



えらいこと言うなあ~あ・・と思った。
そういえば、1970年代後半、北野高校の「漢文」の教諭だった藤尾というおっさん(男。当時、40代)が、「懇談なんかいたしますとね。お母さんが『東大でたって出世するとは限りませんからね』なんておっしゃるんですよね。『そうですね』なんて言っちゃいましてね」などと授業中に言うのだったが、自分が東大文学部中国文学科を卒業して高校の「国語」の教諭になって「漢文」と「現代国語」を教えていたことを、「東大でたって出世するとは限りませんからね」の例だとして「『そうですね』なんて言っちゃいましてね」と言ったという話だったが、東大の文学部中国文学科を卒業した人の勤め先というと、大学院に進んで大学の教授・助教授といったものになるか、そうでなければ高校・中学校の「国語」の先生になるか、そうでなかったら出版社とか新聞社とかそういう所に勤めるか、もしくは中国文学に関係があるような博物館とかそういった所に勤めるか、そういうものが東大文学部中国文学科卒の人の勤め先のはずだから、北野高校の「国語」の教諭になっているというのは悪くない勤め先のはずで、「東大でたって出世するとは限りませんからね」と言われて「そうですね」とか言ってひがむ必要はないのではないか、もしも、国家公務員として出世したいのなら東大でも文学部ではなく法学部に行って国家公務員1種試験合格で官庁に勤めるべきだし、裁判官とかになりたければ司法試験合格を目指すべきだし、商社とか銀行とかで出世したかったのなら経済学部にでも行くべきだったのであり、文学部の◇◇文学科に行った人というのはそうではなく、文学を学び、職業としては高校の先生とかの方が国家公務員とか商社とか銀行とかで出世するよりもいいと思ってその方向に進んだ人なのだから、「『そうですね』なんて言っちゃいましてね」などと言わなくてもいいのではないのか・・と思ったのだった・・が、この話をクラブのOBである京大に行った人に話したところ、「違うよ、違うよ。あいつの場合は、そういうことを言うことで『自分は東大出だ』と言いたいんだよ。だから、藤尾がそういうことを言いだした時は無視してやらなきゃだめなんだよ。相手にしちゃだめなんだ」と言うのでした。
マア、「『そうですね』なんて言っちゃいましてね」とか言ってみたければ言ってもいいのだけれども、しかし、「旧帝大系国立大学卒の人には『伸びきったパンツのゴムみたいな人が中にいる』という話を聞いた後に、この発言を考えてみると、そう言われると、藤尾という男も「初日に勝ったことで残りの14日間も勝ったみたいに勘違いしている相撲取り」みたいなところがあるおっさんやったな・・と思うようになった。相撲取りは初日に負けても2日目から15日目まで14連勝して優勝することもあるし、初日に勝っても2日目から14連敗することだってある。慶應大の学生や卒業生で「東大の人間は・・」と言う悪口には、実際には慶應の人間の方がよりあてはまるというものが少なくないと私は慶應大学で感じた、又、これを慶應大学の学生に話すと「そうです、そうです。その通りです。慶應の人間の方がむしろあてはまりますよ」と言う者が大学から入った人間には少なからずいたのだったが、しかし、東大の出身者・・といっても人によって違うのだけれども、東大の出身者の中には「初日に勝ったことで2日目から14日目までも勝ったみたいに勘違いしている人」というのが現実にいると思う。北野高校の「国語」「漢文」の教諭だった藤尾には、その傾向が現実にあった、と私は認識するようになった。高校生だった時には気づかなかったが、卒業して10年以上経って、気づいた。大学でやっていること・大学卒業までに学んだものというのは大学卒業後、特に仕事において役立つのかどうか・・という問題において、「学んできたものがそのまま役立つ仕事」としては、大学の教授・助教授といった教員、高校・中学校の教諭、裁判官・検事・弁護士とか公認会計士とかは「そのまま役立つ」度合いが大きい。工学部・理学部卒で会社に勤めた場合でも研究所のような所に勤めた場合は「そのまま役立つ」度合いが大きいであろうし、外国語学部を卒業して商社など外国語を使うことが多い仕事に勤めた場合も「そのまま役立つ度合い」はけっこうあるのではないかと思うが、経済学部・商学部・経営学部といった学部を卒業して会社に勤めた場合や法学部卒でも弁護士・司法書士のような仕事ではなく会社に勤めた場合には役立たないわけではないが「そのまま」は役立たない、会社に勤めてある程度以上、そこで勤めてこそ役立つようになってくる傾向がある。高校の先生とか「そのまま役立つ仕事」についた場合には「そのまま役立つわけではない仕事」についた場合よりも、東大に合格して卒業した人は「初日に勝った」ということから「2日目から14日目までも勝ったみたいに勘違いしている」ような状態になりやすい傾向があると見られる。北野高校の「国語」「漢文」の教諭だった藤尾先生にはその傾向が見られた。あの人がそれに気づくのは、おそらく死ぬまでないだろう。
世の中には、国家公務員とか大企業で出世した人間がエライと思う人というのもいるでしょうけれども、しかし、高校の先生になった人というのは、公務員とか会社員で出世するよりも高校の先生になった方がいいと思う人がなったのではないのでしょうか。そうでないのなら、高校の先生ではない道に進めばよかったはずです。『味いちもんめ』という板前を描いた漫画で、高校を卒業して板前の世界に入った者が高校のクラス会に行ったら大学に行った者から馬鹿にされて殴り合いの喧嘩をした男がいた時に、花板の熊野さんは「もし、おまえが花板かその次の立場だったなら、その殴り合いした顔でお客さんの前に立つのか。ひとが何と言おうが自分が自分の仕事に誇りをもってやっておれば、何を言われても、腹立てたりせんもんや」と言うという場面があったが、高校の教諭という仕事に誇りを持てないのなら教師として情けない男だ。又、藤尾さんのこの言い方では、高校の教諭というのは他の仕事よりもなりやすい仕事のような誤解を招くおそれがある。これから大学に進学しようとする者は大学を卒業した後のことも考えないといけない。ひとつの選択肢として高校の教諭というものもあるはずだが、この言い方なら高校の教諭というのは他の仕事よりなりやすい仕事みたいに聞こえるが、実際には「一流大学」に行った人が高校の教諭になりたいと思ったとしても、必ずなれるというものでもないようです。
戦前は大学と大学卒の人間の数が少なかったので、学校の先生というのは、大学卒業した者なら教諭の国家資格を取得していなくてもなれたらしく、山本有三『路傍の石』には次野先生という登場人物が商業高校の先生になっていたが、国家主義・軍国主義が進むとともに嫌われたのかにらまれたのかで解雇されてしまう場面があるが、その際、教諭の国家資格を持って勤めていた人と持たずに勤めていた人がいて、教員免許を持っていない人間はやめさせられる人間に選ばれやすかったらしい。戦中から戦後すぐの時代も小学校の先生は大学を出ていなくてもなれた時期があったらしく、三浦綾子は大学は出ていなかったけれども小学校の先生をやっていたらしい。しかし、今は違い、短大卒だと幼稚園・保育園の先生とかになるコースはあるようだが、高校や中学校の先生の場合は大学を出ていないとなれないのではないか。但し、英語の先生は英文科卒でないとなれないというものでもなく、慶應大学の法学部・経済学部・商学部・文学部卒ならば、教員養成課程を履修すれば、英語・国語・社会科の教諭の資格を取得することができた。他の大学でも総合大学の場合は経済学部・法学部でも英語や国語の教諭の資格を取得できるはずですが、国立大学の経済学部でも文学部もある総合大学の経済学部なら英語や国語の教諭の資格も取得できる場合が多いようですが、たとえば滋賀大学の経済学部などは、滋賀大学は経済学部と教育学部だけの大学なので社会科の教諭の資格は取得できても国語や英語の教諭の資格は取得できなかったはずです。北野高校には法学部卒で英語の先生をしていた人がいて、フランス文学科卒で英語の先生をしている人がいた。高校の教諭の資格にはフランス語・ドイツ語の教諭の資格というものもあるが、文学部でもフランス文学科・ドイツ文学科卒で教諭の資格を取得する場合、フランス語・ドイツ語の教諭の資格を取得しても、実際問題としてフランス語・ドイツ語の教諭の求人というものがあるかというと、高校でフランス語とかドイツ語を教えている高校というと慶應義塾高校とか、私立大学の系列の高校で入試なしに大学に進学するような高校でわずかにあるというくらいで、公立の高校や私立でも大学受験を経て進学する高校では英語の授業はあってもフランス語・ドイツ語の授業をやっている高校はあまりないから、フランス文学科・ドイツ文学科卒でも英語の教諭の資格を取得して英語の先生になる人が少なくない。中学校の「歴史」は高校では「日本史」「世界史」になるが、大学の学科では史学科は日本史と世界史ではなく、日本史と東洋史と西洋史に分かれる。古い時代については考古学科になるから、中学校の「歴史」・高校の「日本史」「世界史」は大学の学科では史学科の日本史・東洋史・西洋史のコースと考古学科に分かれることになるが、慶應大学のスチューデントカウンセラーズが編集した文学部の学科案内によると、考古学科卒の場合、高校の「社会科」の先生(「日本史」「世界史」担当)に就職する場合、史学科卒と比べると不利らしい。経済学部・商学部には経済史(史的理論)専攻のゼミがあり、経済学は純粋理論(理論経済学)・経済史(史的理論)・経済政策・経済学史よりなるとされ、経済史(史的理論)は経済学の分野で重要な一分野であるとともに、歴史において経済史は重要であり、経済の動きと政治の動きは互いに影響しあうものであり、文化は経済の状態のもとに存在するのであり、経済の流れを無視して政治や文化を考えることはできないが、経済学部・商学部卒で社会科の教諭の資格を取得した場合、高校の「政治経済」・中学校の「公民」の先生なら経済学部や法学部卒の人が向きそうだが、経済学部・商学部卒で「歴史」の先生としては採用してもらえるものかどうか。
高校・中学校の先生になるには、今は教諭の国家資格を取得することと、資格を取得した上で採用してもらえるかという問題とがある。大学生に家庭教師を頼もうとする人は、一般に比較的評価が高い大学の学生に頼もうと考え、「そんな大学、アホでも行けるわ」という大学の学生には頼まないが、高校・中学校の教諭の資格は「アホでも行ける大学」でも取得することができて、採用される場合もあるのに対して、東大でても京大でても教諭の国家資格を取得していない人は高校・中学校の教諭にはなれない。予備校になると教諭の資格を持っていないとやってはいけないという仕事ではないはずだが、持っている方が採用されやすいかもしれない。「懇談なんかいたしますとね。お母さんが『東大でたって出世するとは限りませんからね』なんておっしゃるんですよね。『そうですね』なんて言っちゃいましてね」などという発言は、高校の教諭という職業について高校生に誤解を与えるおそれがある発言であり、感心しない。
そして、「眼えなんかつぶれてもかまわん。受験がすべてや」と言ったうちの母親は私が高校3年の時には「こいつ、現役で大学に通ると思いあがった人間になって女を泣かすようになるから、こいつ、な~にが何でも落としてやらんといかん」「こいつ、東大に行ったら思いあがった人間になって女を泣かすようになるから、な~にがなんでも落してやらんといかん」・・と、そう言って、夜、私が高校から帰って自分の部屋で学習していると、洗面所にあった電気の分電盤で私の使用していた部屋のブレーカーを落として照明がつかないようにして、さらに、私の服を後ろからつかんで椅子に座った状態から背後にひっくり返したり、ホウキを持ってきて「こいつめ、こいつめ、こいつめ!」と言ってボコボコ殴りつけたりとか、次から次へとよくやってくれたなあと思うが、そういうことを繰り返した。夜、高校から家に帰ると雨戸はすべて閉められて、玄関扉も閉められてインタホンのソケットを抜いて鳴らないようにして、家の中に入れてもらえず、しかたなしに外で時間を費やしていると、その間に高校に電話して「息子が帰ってきませんねえ~ん」と言うとか、そういうことをずいぶんとやられた。
北野高校という高校は行きたいと思って行った高校だったので合格した時はうれしかったが、卒業して10年以上経って冷静に考えることができるようになって振りかえってみると、どう考えてもいい学校ではなかった。特に2年の時の担任だった旧姓作野礼子は、あの女、いったい私に何の恨みがあったのかと思う。うちの親が家の雨戸をすべて閉めて窓から入れないようにして、玄関扉も勝手口の扉も鍵をかけてしめて、屋外の照明もすべて消して、インタホンのソケットを抜いて鳴らないようにして、「ああ、またやられた」と絶望的な気持ちで外にいると、そのうち、高校に電話したり、クラス名簿で上から順番に電話して「息子が帰ってきませんねえ~ん」とやったりと、よくそこまでやるなあ・・ということをやられたが、翌日、高校に行くと、旧姓作野礼子から「あなた、いったい、昨日はどこに行ったの」などと言われるのだが、「どこも行ってませんよ」と言っても、「何、言ってるの。お母さんから学校に電話が来たのよ。よく反省しなさい」などと言われたのだが、いったい何を反省すればいいのか、さっぱりわからなかった。音楽のN川先生からは「『おかあさあ~ん。お願いでえす。入れてくださあ~い』と叫んだの? どうして、そう叫ばないの。次からこういうことがあったら、『おかあさあ~ん。お願いでえす。中に入れてくださあ~い』と大声で叫んでお願いしなさい」などと言われたのだったが、幼稚園児じゃあろまいし、なんで、そんなことさせられなきゃならんのだと思ったし、我が家だけ、なんで、こんな家庭なんだ・・と絶望的な気持ちになったものだった。N川先生の音楽についての考え方については私はもっともだと思うものが多いのだが、しかし、「『おかあさあ~ん。お願いでえす。入れてくださあ~い』と叫んだの? どうして、そう叫ばないの。次からこういうことがあったら、『おかあさあ~ん。お願いでえす。中に入れてくださあ~い』と大声で叫んでお願いしなさい」なんて、よく高校生に向ってそういうことを言うよなあ・・( 一一) と今は思う。
「こいつめえ。な~にがなんでも落してやる。落ちろお、こいつう~う! 落ちろお、落ちろお、落ちろお~お!!!」と連日やられたが、少しくらいのハンデがあっても何とか乗り越えて・・と思ったが、今から考えてみると、ハンデが大きすぎた。
「眼えみたいなもん、つぶれてもかまわん。受験がすべてや」とうちの母親は言ったのだったが、結果としては、眼だけ奪われた。40代の前半から老眼が始まる人がいるようだが、私の場合は40代の半ばくらいまでは老眼は出なかったが、40代の終わりくらいから老眼が出て、そして、いったん始まると、今度は近視と老眼の両方をかかえることになった。せめて、片方だったらなあといつも思う。「眼えみたいなもん、つぶれてもかまわん」と思って自分の眼をつぶすのならいいが、「眼えみたいなもん、つぶれてもかまわん」と言って息子の眼をつぶしにかかる親というのは、私が親ならば、それは親のあり方として好ましいあり方ではないと思う・・のだが、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「あなたの両親ほどいい親はないと思うわよ。私は両親が離婚したんだから」と「両親が離婚したんだから」というのを自慢しまくるのだったが、おまえの「両親が離婚した」なんてことことに俺は責任ないだろうが。そんなに、夜、高校から家に帰ると玄関扉も勝手口も閉めて雨戸もすべて閉めて、インタホンのソケットを抜いてならないようにして入れないようにした上で、高校に電話して「息子が帰ってきませんねえ~ん」と言ったり、クラス名簿で上から順番に電話して「息子が帰ってきませんねえん」と言ったりと、そういうことをされる親というものがうらやましいのなら、そうされる役を旧姓作野礼子がやってくれよ。ほんと、頼むから、そうされる役を旧姓作野礼子がやってくれ。ほんと、頼むわ。おのれがそういう役をさせられるということは全くしないで勝手なことばっかり言いまくるバカ女症候群 旧姓作野礼子というのを育てた母親というのは、いったいどういう人間だったのか。「親の顔が見たい」という気がする。・・但し、「親の顔が見たい」という言葉には2通りの意味があるが、実物を見せられても、どうもしようがない。どうせ、旧姓作野礼子と似たような独善的で身勝手な性格の女なのだろう。
せめて、眼が人並みに見えたらなあ・・・と思う・・が、視力回復方法というのはないわけではないのだが、悲しいことに還暦すぎるとそれをやる気も減退してしまう。

眼はこのツボでよくなる (ゴマライフ) - 小杉 喜一郎
「眼えみたいなもん、つぶれてもええ。受験がすべてや」という主張は、まず第一に、その「つぶれてもええ」という眼が発言している人の眼ではなく、息子の眼だという点でその発言は間違っているが、もうひとつ、間違っている点として、視力を悪化させても眼鏡で矯正できるなら、高校入試・大学入試で合格できれば失うものと得るものとで得るものが大きいという認識は違うと思うのだ。私は防衛大とか水産大学とかを受けることはあまり考えなかったが、大学学部によっては受験資格として視力がどれだけ以上というものがある大学があったと思うのだ。
又、空港の管制官とかパイロットとか、視力が悪いとなれないか、なりにくい職業というものもあったと思う。だから、嘘だけれどもうちの母親は私が小学校高学年から中学校の時、「親というものは、息子が大学に行く時に、行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってやりたい勉強をやってつきたいと思う仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」という口先だけの発言を基準として考えたとしても、片方で視力を悪くしてしまうと、せっかく努力して成績をあげても、視力を悪化させたことでつけなくなる仕事というものがあるはずだ。だから、その意味でも「眼えみたいなもん、つぶれてもええ。受験がすべてや」という主張は正しくない、と思う。
プールとか浴場とかサウナとかでは視力の悪い者は苦労する。水泳ではゴーグルには度付きのものも売られているが、ゴーグルをはずすと視力の悪い者はトイレに行こうとしてもトイレの表示が見えない。
「眼えみたいなもん、つぶれてもかまわん」と、1970年代前半、私が中学校の1年の時だったかにうちの母親は言ったのだが、そういえば、2000年代、私が40代の時、うちの母親は「この子は老後の対策のために産んだ子やから、老後の対策に役立ったらそれでええ子やねん。その後はどうなってもかまわん子やねん」と言ったのだ。・・そういうことを言うかなあ~あ・・と思ったが言うのだった。「親というものは、そういうもの」なのかどうかわからないが、うちの親はそういうことを言うのだった。
そういえば、うちの父親の方は「うちの家の中心はT子さん(上の姉)やねんぞお~お。お~ま~え~はあ、わしのっために、わしのっために。すべてをすべてをわしのっために♪ てってこっこテッテテッテ、らったらったラッタラ♪ てってこっこテッテテッテ、らったらったラッタラァ~ア♪」とか言うておった。「親というもの」がそういうものかどうかわからんが、うちの親はそういう親やった。
北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」というのを最大の自慢にしていて〔そんなもん、普通、自慢するかなあ・・と思う人もいるかと思うが、自慢しまくっておった( 一一) 〕、「あなたのお父さんほどいいお父さんはいないわよ」などと私は何度も言われたが、そんなにいいと思うなら、旧姓作野礼子にあげるよ、ほんと。「てってこっこテッテテッテ、らったらったラッタラ♪ てってこっこテッテテッテ、らったらったラッタラ♪ 撃ちてしやまん、一億火の玉、欲しがりません、勝つまではあ! イッライッラしてきたあ、イッライッラしてきたあ! 贅沢は敵だあ! とってちってたあ~あ! 戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元! イッライッラしてきたあ、イッライッラしてきたあ。親に感謝、わしに感謝、親に感謝、わしに感謝じゃ、いらいらあ! すべてをすべてをわしのっためにっ! すべてをすべてをわしのっために、ためにっ、ためにっ! いっらいっらイッライッラいっらいっらイッライッラじゃああ~あ! とってちってたあ~あ!」と毎日毎日、朝から晩まで叫んでいるおっさんがいるというのが、そんなにうらやましいなら、あげるよ、旧姓作野礼子に。何より、「イライラっとしたら、かけたんねん」と言って四六時中、かけてくる電話がうらやましいなら、旧姓作野礼子が引き受けてほしかった。「イライラっとしたら、かけたんねん」と言ってかけてくる電話というのは私の所だけかと思ったら下の姉の所にもかけていたようで、「あの人のあの『イライラっとしたら、かけたんねん』という電話、あれ、かなわんねええ~え。かける方はそれでいくらかスッとするのかもしれんけれども、瘤取爺さんの瘤と一緒で、かけられた方はその分、ストレス溜まるんやからねえ」と言うのだったが、そういう電話攻撃を受けるのがうらやましいなら、旧姓作野礼子はその電話だけでも引き受けてほしかった。おのれはそういう電話攻撃とかまったく受けずにいて、教諭としてのカネもらった上で生徒・元生徒に対して勝手なことばっかり言いまくる権利というのが高校の教諭にはあると旧姓作野礼子は思い込んでいたようだったが、そんな権利なんか本来ないと思うぞ、そんな権利みたいなもん

うちの父親は「おまえの眼鏡代がカネかかって迷惑なんじゃ」と言い、「『安売り眼鏡の店』てあるやろ。おまえの眼鏡は『安売り眼鏡の店』で作るようにせえ。おまえの眼鏡は安売り眼鏡にするのがええ」と言うのだったが、うちの父親というのはそういう男だった。
うちの母親は「(世の中には障害をもって産まれてくる子供もあるが、私には)五体満足な子に産んでやった、やった」と言うのだったが、しかし、産まれる時点では五体満足な状態で産まれてきた人間であっても、産まれてから体を悪くするようなことをさせて悪くさせたというものはあるし、外敵から守るべきものを守ることができなかったものや、親が外敵と手を組んで私を攻撃して傷めつけたものもある。それをうちの母親は認識できていないし、認識しようとしない。
江川卓が巨人に在籍して9年間しかプレーせずに1987年限りで引退した時、右肩に障害があるという理由を言ったが、1987年も13勝5敗の成績を残しており、年齢も32歳で引退するには早すぎるように思われ、肩に「中国針」を打ったのがどうこうといったことを言ったが、そのあたりは嘘ではないのかと言われたりもした。その点について元阪急ブレーブスの投手 山田久志が『プロ野球 勝負強さの育て方』(PHP文庫)で、右肩の具合が悪かったというのは、まず、嘘ではないと思うと書いていた。その理由は、ある程度以上の年数、プロ野球の投手をやってきた人間で肩とか肘とかがまったく悪くない人間なんてほとんどいないから、江川だって悪かったはずだ、というのだ。しかし、山田は自分だって肩とか肘とか相当悪かったけれども、だから、辞めるのかというと辞める気持になれないから、だから、悪くても続けてきたのだそうだ。スポーツというのは何のためにあるのか、スポーツというのは何のためにやるのか、と考えて、健康増進のためと定義づけるなら、職業としてのスポーツ・商業スポーツというのは実際にやっている人間はそれをやることで、むしろ、体を損傷しているようなところもある。又、プロではなく健康増進・身体機能促進・レクリエーションとしてやるスポーツとして考えた時、野球というスポーツはサッカー・バレーボール・ラグビーなどと比べて投手と捕手の活動量が他の守備位置の選手と比べて多すぎるという欠点があるという点があるが、そういうこともあり、職業として野球の投手をやれば、肩とか肘とかを他の職業をやっている人間と比べると傷めやすい傾向がある。
これと似たものとして、「ちいっとも勉強せんとラグビーばっかりやってる人間」と「小学校から中学校・高校と勉強して『一流大学』に進学するような人間」を比べると、「ちいっとも勉強せんとラグビーばっかりやってる人間」より「小学校から中学校・高校と勉強して『一流大学』に進学するような人間」は近視になりやすい条件はある。一般の会社員ならプロ野球の投手が肩とか肘とか傷めるようなそんな条件で肩とか肘とかは使わないから傷めにくいのと同じく、「ちいっとも勉強せんとラグビーばっかりやってる人間」は、そんなに本を読んだりしないから(たまに「ちいっとも勉強しない人間」なのに漫画ばっかり読んで眼を悪くする人というのもいるみたいだけれども)、視力を悪化させにくい。しかし、プロ野球の投手というのは肩とか肘とかを傷めやすい職業ではあっても同時に肩とか肘とかを傷めないように気をつけないといけない職業でもあるはずで、同様に「小学校から中学校・高校と勉強して『一流大学』に進学するような人間」というのは、「ちいっとも勉強せんとラグビーばっかりやってるやつ」とは違って視力を悪化させて近視になりやすい立場ではあっても、視力を悪化させて近視にならないように気をつけるべき立場でもあるはずなのだ。私が親の立場だったら、子供を育てるにおいて、そのあたりを考える。そういったことを考えることのできる親の子かそうでないかで違いが出る。ところが、うちの父親は「子供ちゅうもんは女が育てるものやねんぞお。心得違いを起こしたらいかんぞ、心得違いを起こしたら」と日夜、言っている男で、「子供ちゅうもんは女が産んだと思うたらいかんぞ。女は畑であって、畑に種を植えてやってあげていただいてくださってもらってあげてやってやっていただいてくださったお方のおかげで種が畑から芽を出したのであって、畑が芽を出したのとは違うねんぞ。勘違いしたらいかんぞ。そんで、畑から種が芽を出したら育てるのは畑の役目じゃ。畑が育てて芽が伸びて実がなるようになったら、その時には種を植えた人間に権利があるんや。畑に権利があるのとは違うんや。茄子でも胡瓜でもそうやろ。畑に権利があるのとは違うねん。ましてや、茄子や胡瓜に権利があるのとは違うねんぞ。心得違いを起こしたらいかんぞチャンコロ。わかっとんのか茄子! 茄子には何の権利もないねんぞ、この茄子、胡瓜!」と言うのだったが、そういう男だから、息子が視力を悪くしないように配慮しようなどという意識はまったくなかった。息子が視力を悪化させないように考える姿勢がある親というものが私は本当にうらやましかった。うちの親は小学校3年の時の視力検査では両眼とも1.5で、小学校1年・2年の時の視力検査でも1.2とかだった者を0.1の視力にまで悪化させたのだ。私が親ならば、その点で息子を守ってやれなかった、近視にならせて眼鏡という「眼の松葉づえ」を使用しなければならない状態にならせてしまったという点に親として責任を感じる。ところが、うちの父親は小学校の1年から3年の時の視力検査では1.2とか1.5とかの結果だった息子の視力を悪化させてることを防ごうという姿勢がない男だった。小学校の担任の教諭が息子に視力を悪化させる可能性が考えられるような状態に学校でしていても何もできない・何もしない・何もする意思がないという男だったのだ。そうして私は、もともとは1.2から1.5くらいの視力があったのに0.1まで視力を悪化させてしまった。そして、うちの母親は「眼えみたいなもん、なんや。受験がすべてや。眼えみたいなもん、つぶれてもかまわん」と発言して、そして、私は眼だけ奪われた。
うちの父親は「おまえの眼鏡代がかかって、わしは迷惑なんじゃ、迷惑なんじゃ」と、自分が息子の視力を守れなかった、守ろうという姿勢すらもない人間だったという点に自覚がない・認識がない・「病識がない」男であり、「小学校5年の時から眼鏡を購入する費用がかかった」という点について、「おまえのおかげで、わしは眼鏡代がかかって迷惑しとるんじゃ。反省しろチャンコロ!」と言うのだったが、私からすれば、ああいう親の子供に産まれなければ、産まれた時点では視力は悪くなかったのだから、眼を奪われることはなかったはずだった。
実際、老眼と近視の両方というのはけっこう大変で、せめて、眼が普通に見えたらなあ・・と思う。
北野高校の1年の時、英語の教諭で 田中 博 という男(1970年代後半当時、40代と聞いた。京大文学部英文科卒という説があったが、お父さんが京大卒の男が京都大学の卒業生名簿を調べたら、田中博という名前はなかったそうだから「京大文学部英文科卒」という説は違っていて実際は関大卒とかその程度の大学卒だったのかもしれない。)が私に「めがね」と言ったことがあった。私の名前は「めがね」ではないので私のことではないと思って返事しなかったところ、何度も何度も「めがね」と言い続けるのだった。俺の名前は「めがね」ではないし、そういう失礼無礼な口のきき方というのは受け入れるべきではないと思って黙っていると、クラスの人間で「おまえのことやろ」と言ってきた者がいたが、私の名前は「めがね」ではない。
最近ではコンタクトレンズというものが私が小学生・中学生の頃よりも「市民権」を得てきたが私が中学生・高校生の頃はコンタクトレンズというのは役者・タレントといった人がやるもの、もしくは女性で眼鏡をかけている人が結婚前にお見合いをする際に女性で眼鏡をかけているのはマイナスの評価になると思ってコンタクトレンズにする人がいるという、そういうもので、中学生や高校生でコンタクトレンズを入れる者というのは、ちょっと変わっている人間、なんかちょっと「にやけた」ようなタイプの人間という印象があり、その理由でうちの親は中学生や高校生はコンタクトレンズはだめだと言っていた。しかし、田中博が眼鏡をかけている人間は嫌いでコンタクトレンズにしてほしかったのであれば、田中博がコンタクトレンズの費用を負担するのであればコンタクトレンズに変更したって別に良かったのだが、眼鏡をコンタクトレンズに変更する費用を出すわけでもなく、人が眼鏡をかけていることに文句を言うのはおかしい。・・それより、どうも、記憶が不確かになってしまったのだが、田中博こそ、眼鏡をかけていたような気がするのだが、人が眼鏡をかけていることに文句を言うのなら、まず、自分が眼鏡をかけるのをやめるべきだったのではないか。
何よりも、私の場合、↑ に述べてきたように、小学校3年の時の視力検査では両眼とも1.5の視力があったのだが、その後、↑ に述べてきたような経緯があって視力を悪化させてしまったのだが、眼鏡をかけていたことが不服だったのならば、それなら、眼鏡をかけなくてもいいように、視力を悪化させなくてもよかったように、田中博が何らかの尽力をするべきであったであろう。それらに何の力にもならず、人が眼鏡をかけているということに文句を言うというのはおかしい。田中博にそういう口をきかれる筋合いはない。
田中博が「めがね」と言った時、私は私の名前は「めがね」ではないので、かつ、そのようなものには返答すべきではないと判断して返答しなかったのだが、そうすると、横にいたやつが「おまえやろ」と言ったのだが、私は「めがね」ではないので、かつ、そのようなものに返答すべきではないと判断したので「ちがうよ」と言ったのだが、私がそういうものに返答してはいけないと思って返答しないでいたにもかかわらず、それでも「おまえだって」と執拗に言った男がいた。それが誰だったか忘れてしまったが、そういうものは、そいつが誰かきっちりと記憶して、さらに記録しておくべきだった。うかつだった。
「めやみ地蔵」様は、もしも、私の視力を過去にさかのぼって回復させてくださるのでないならば、せめて、このような無礼な態度をとった男に対して、それに対する報いを与えてもらいたいものだ。賽銭も入れてきたことだし・・・。
そういえば、北野高校の教諭については、「数学」の S田教諭は、[第379回]《卒業生2人と駅で会って、片方とだけ話をする教諭-受験生を応援するシリーズ》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201806article_15.html で述べたようなようなことをしやがったな( 一一)
南から北に入って正面の地蔵堂の左手前に、「水子供養地蔵尊」がいらっしゃる。↓

巨人の坂本勇人は「胎児は人ではないから殺してもいい」みたいに思っているようだが、そういう認識の男に対しては堕胎は認めるべきではないのではないか。そもそも、医師というものは医療行為でないのに人体に傷つけるということは許されてはいないはずなのだ。誰が堕胎を合法だと決めたのだ? もしも、出産することで母体の命が危ないとかそういった事情があるか、もしくは強姦されて妊娠したというようなケースであれば堕胎は認められるべきとしても、そうでない場合、堕胎・人工中絶というのは今の法律がどうなっているかにかかわらず、「命を殺す」行為であり、それを安易に考えている坂本勇人という男というのは野球がうまかったとしても人間として欠陥があるのではないか。
1990年代、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の福島県いわき市の営業所(展示場)にいた時、妻帯者でありながら女性に妊娠させたらしい男性従業員がいて、女性から展示場に何度も何度も電話がかかってきた。「お仕事中、誠に申し訳ありませんがS藤K一さんはおられますでしょうか」と悲壮な声でかけてきた電話を私は何度も何度も取らされた。そのたびにその男性社員S藤(当時、20代後半)は「いないと言え」と私に言うのだったが、私はS藤K一さんの使用の電話をとるのは仕事ではないのであり、「いないと言え」と言われる筋合いはないのであり、男女の関係でどうだったのかは知らないが、いずれにしても、自分自身で電話に出てきっちりと対応するべきものであり、何回も何回も私に仕事と関係のない電話を取らせておいて「すいません」の一言もないというのは、それは会社員として・社会人としていかがなものであろうか・・と思うし、それよりも、(株)一条工務店はその従業員に対して「何の電話なんだ。きっちりと自分で会って話すなりして対応しろ」と注意するべきもので、それを怠って私に迷惑かけて平気でいたというのは、これは会社の態度としておかしい。
さらに、2001年、(株)一条工務店の総務部長の天野雅弘(男。当時、40代後半か50代初め?)は、栃木県小山市の展示場に営業として勤務していた某さんが「紹介」で栃木県佐野展示場に入社させた小嶋という男(当時、40代前半)は入社早々、女性社員の尻を撫でたりして営業妨害をおこなう男で、よくも、他展示場にこういう営業妨害おこなう男を縁故入社させたものだとあきれたものだったが、ある時、佐野展示場勤務の女性社員S藤雅美(女。当時、20代後半。後に結婚してK林雅美。その後、離婚したかどうかは知らん)の尻を展示場の事務所で撫でてS藤が「いやあ、お尻さわったああ~あ」と大声で絶叫。もはや、これでは職場ではない。私は栃木県南部営業所の所長だった木下(きした)(男。当時、40代前半)から注意するように言われていて、しかたなしに「小島さん、あなた、そのようなことしていたのでは、そのうち、会社におれなくなるよ」と注意したところ、小嶋は「なにおお~お。このお。こいつう~う」と入社したばかりの男が十年選手の私に向ってすごんできたということがあったのだが、ところが、総務部長の天野雅弘は私に「なんで女が『いやあ』と言ったら嫌だということになるんだ。『いやあ』と女が言ったら『うれしい』という意味だろうが。おまえはそんなことすらもわからんのか」などと言うので、「『いや』と言ったら『いや』という意味でしょう。なんで『いや』と言ったら『うれしい』という意味なんですか。『うれしい』のなら『いや』と言わずに『うれしい~い』と言ってくださいよ」と言ったのだ。しかし、それでも総務部長の天野雅弘は「『いやよ、いやよもいいのうち』と言うだろうが。女が職場で尻を撫でられて『いやあ』と言ったら『うれしい』という意味だろうが。おまえはそんなことすらもわからんのか」などと言うのだった( 一一)
「なんで、『いや』と言ったら『うれしい』のですか。『うれしい』のだったら『うれしい』と言ってくださいよ」と私は言ったのだが、ところが、天野雅弘は「おまえ、そんなに女の気持ちがわかるのか」と言うのだ。「わかりますよ。『いや』と言ったら『いや』という意味でしょう」と言ったのだが、「なんでじゃ。女が職場で尻を撫でられて『いやあ』と言ったら『うれしい』という意味だろうが。なんで『いや』と言ったら『いや』という意味だとおまえにわかるんじゃ。おまえは何人、女を知っとるんじゃ」と言うのだ。「なんですか、それは。そういう発言は私に対する人権侵害ですよ」と言ったのだ。
ところが、(株)一条工務店の総務部長の天野雅弘は「なんでじゃ。おまえが女が『いや』と言ったら『うれしい』という意味ではなくて『いや』という意味だと女の気持ちがわかると言うから、だから、何人、女、知っておるんじゃと尋ねておるんだろうが。何人、女を知っておるんじゃ。答えろ! 総務部長がおまえに、何人、女を知っておるんじゃと質問しておるんじゃ。答えろ」と言うのだった。(株)一条工務店という会社は、なんだか最近、調子いいみたいだが、たとえ、最近、調子よくても、そういう会社であり、そういう男が総務部長になっている会社だった。
それで・・・、何人もの女性と肉体関係を持ったとしても「女性の気持ちをわかるようになる」などということはない。もしも、何人もの女性と肉体関係を持てば「女性の気持ちをわかるようになる」のであれば、毎週、週休日とその前日、週に2回、ソープランドに通って異なる女性と肉体関係を持つようにすれば、365×2/7= 104.28・・ 1年あたり、104人。10年、それを繰り返せば、104×10=1040人と肉体関係を持つことになり、「祝 千人切り達成」(笑)となり、天野雅弘の説に従えば「女性の気持ちを理解できるように」なったであろうけれども、そうことをやったなら「女性の気持ちをわかるようになる」・・と思うか? そうではあるまい。 福島県いわき市の営業所で、妊娠したということでらしく電話してきていた女性からの電話をとって悲壮な声を聞いたのは私であり、その女性と肉体関係を持ってはらませた妻帯者の男ではない。電話してきた時の悲壮な声を聞いて、そんなことはするものではないと思ったが、そう思ったのは電話を取った私であって、妻帯者でありながら独身の女性と肉体関係を持って妊娠させたらしいその男性従業員ではなかったのだ。何人もの女性と肉体関係を持っても「女性の気持ちを理解できるようになる」などということはない。そういう愚かなことを大きな顔して言っている男というのが(株)一条工務店の総務部長であり、(株)一条工務店という会社はそういう男を総務部長にならせている会社だったのだ。
私は、そのようなことをして女性に孕ませるだけ孕ませて人工中絶させるなどといったことをしたことはない。だから、水子地蔵といったものは私には無縁だとかつては思っていたが、今は違うと思っている。
(株)一条工務店 https://www.ichijo.co.jp/ は「嫁と子供がある人間」と未婚の人間とで給料に大きく差をつける会社だった。片方で「営業はどれだけ契約を取ったかがすべてだ」などと総務部長の天野雅弘などは言っていたのだが、「営業はどれだけ契約を取ったかがすべて」ならば、「嫁と子供がある人間」は未婚の人間よりも多く契約を取ったわけでもないのに、あるいは、未婚の人間より取得した契約棟数がずっと少ないのに、なんで多い給料をもらえるのだ? ・・ということになるはずだった。営業本部長の天野隆夫は「独身の人間よりも結婚している人間の方が役に立つのだから」などと事実がどうかなど見ないで発言していたが、実際には営業所全体の仕事があっても、「俺は子供が待ってるから」とか言い、「あとは独身の人間でやっておいてな」などと言って未婚の人間に営業所全体の仕事を押しつけて帰ってしまうということが、しばしばあったのだ。そうやって、営業所全体の仕事を未婚の人間に押しつけておいて、その上で「結婚している人間の方が役に立つんだから」などと言って、契約棟数は決して多くないくせに未婚の人間よりも多い給料を盗っていたのだ。それも、「ほんのちょっと多い」とかではないのだ。(株)一条工務店の営業職は「基本給(嫁と子供がある人は『家族手当』を含む)+歩合給」の給与システムになっていたが、「家族手当」の金額が相当大きく、それは妻帯者・子持ちの給料が高かったのではなく、未婚の人間の給料が安かったのだ。「営業はどれだけ売ったかがすべてだ」とか言うのならば、それならば妻帯者・子持ちなのにちびっとしか売っていない人が、未婚でそれなりに売った人間よりも多い給料を盗っていたというのはおかしいではないか。又、「結婚して子供がある人間は生活にカネがかかるんだから」と言うが、そして、さらにひどいことに営業本部長の天野隆夫は私に「おまえ、独身なら、カネ余って余ってしゃあないやろ」などと、そういう口をきいたのだ。よく、そういう口をきけるものだ。(株)一条工務店の給料が「家族手当」をもらわない者の給料がどれだけ安いか、営業本部長なら知っているはずで、知っていて天野隆夫はそういう口をきいたのだ。なおかつ、そういう口をきいた上で「ぼくなんかは学校でてないから(最終学歴:中卒)、だから、気さくで人間性が優れていて人から好かれるんだ。そう思うだろ」と言い、はあ?・・と思っていたら、「おい、『思うだろ』と言ってるんだ。『思います』と言えよ、『思います』と。思わないのか、思えよ。『思います』と言え」と言い、無理矢理、「思います」と言わされてしまった。そういう、人に無理矢理、「思います」と言わせるようなそういう男のことを「学校出てないから気さくで人間性が優れていて人から好かれる」と言うそうなのだ( 一一)
実際に仕事をする時には「俺は子供があるから帰らせてもらうから。あと、独身の人間でやっておいて」と言って未婚の人間に仕事を押しつけて帰る人が給料を受け取る時には「結婚している人間の方が役に立つんだから」と勝手なことを言って、契約棟数は未婚の人間よりずっと少ないのに多額の給料を盗り、その上で税金を支払う時には扶養控除で安くなり、それだけではなく、さらに「盗人に追銭」として公明党が「子供手当」なるものをおこない、民主党は「地域振興券」なるものをおこなって「子供」ではなく「『子供』がある者」に子供がない者が払った税金を資源としてカネを渡すという行為をおこなった。
私などは子供の頃から、おつきあいをして、この人とやっていこうということになって結婚してから肉体関係を持って子供を作るものだというように「教えられた」というよりも学んできて、それが基本だと認識してきたが、日本という国はいったいいつから「後先考えずに性交やって、できちゃった婚やった人間が得する社会」になってしまったんだ。日本という国はいったい、いつから「後先考えずに性交やって子供つくったもんが勝ちの国」になってしまったんだ。そういう「子供」を大義名分に掲げれば何でもまかり通ると考える「子供」帝国主義・「子供」独善主義とでもいうような者どもが「少子高齢化対策のためにお国に貢献しているんだ」とか勝手な口をきくのだ。おまえのクローンみたいな子供を拡大再生産されても迷惑なだけなんだよ! てやつが。「将来、社会に貢献する子供を育てているんだから」などと言う者もいるが、その子供が「将来、社会に貢献する」か「将来、社会に迷惑をかける」かなんて、わからないじゃないですか。「将来、社会に貢献する子供を育てている」などという文句は実際に社会に貢献してから口にしてもらいたいものだ。
創価学会の人は自分たちの主張に同意しない人間には「仏敵」と言うらしいが、公明党が主張してやった、「子供」を大義名分に勝手なことやっている人間に「子供手当」などと言ってカネをくれてやるという行為は、それはホトケの精神に反する行為、「仏敵」行為ではないのか?
2011年、千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング(有)〔建築業〕・ビルダーズジャパン(株)〔不動産業〕〔いずれも、2013年11月に正式に倒産。〕に社長の長谷川新二(男。当時、40代前半)の嫁の河野利華(女。当時、40代前半)の友人だということで縁故入社した滝口恵(女。当時、30代)は人並み外れて我儘な性格の人間で、「親の顔が見たい」という気にならされる女だった。「親の顔が見たい」と思っても、実物を見せられてもどうしようもないのだけれども、いったい親はどんな教育をしたのかと、たいていの人間は思うのではないか。 まず、「自分の担当の仕事は自分でやるのが基本だ」という認識がない。自分が担当の仕事を担当外の従業員に労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働でやってもらったなら、「すいませんでした」「ありがとうございます」という言葉くらい言うべきだということを、この女の親は娘に教えていない。時々、「性格がいがんでいる」とか「我儘な性格をしている」というのを「積極的だ」とか「やる気がある」とか変な解釈をした主張をする女性がいるが、それは間違いだ。まず、おのれが担当の仕事を担当外の従業員にやってもらったら、「どうも、すいません」「ありがとうございます」くらいは言わないといけない・・が、そのくらいのことすらも言えない女・・というのは、高校・大学を卒業したばかりの年齢の人間なら、まだしも「教えてわからせる」こともできるかもしれないが、滝口のように30過ぎて思考が固まった人に教育するのは大変だ。徳島市の(株)フィットが提携して「フィット」としてやる事業については「住宅建築業の営業の経験がない人を採用してください」と言ったそうで、新華ハウジング(有)・ビルダーズジャパン(株)の社長の長谷川がその指針に従って、嫁の友人で「住宅建築業の営業の経験がない」滝口を採用したらしかったが、私が小堀住研(株)に入社してすぐの新卒社員研修の時に、TQC推進本部営業部会部長のSさんが「守⇒破⇒離」ということを言ったのだが、最初は研修で教えられたこと・上役から教えられたことを「守る」が、次にそれを「破る」ということをおこない、そして、そこから「離れる」という状態になり自分自身のスタイルを確立して営業として一人前になる、という意味だ。この「離れる」という段階まで行った営業は転職して他の会社に移ったり、それまで勤務した場所から条件が異なる場所に移ったり、それまで扱った商品とは異なるタイプの商品を扱うことになっても対応できる可能性が大きいが、「守る」の段階の人が転職した他社に移ると、まったく経験がない人よりもかえって成果を出しにくいという場合もある。さらには、営業の経験が3年程度の人でまだ「守る」の段階の人というのはわかるのだが、10年超え営業をやっていても、それでも「守る」の段階で営業をやっている人というのもおり、そういう人は「かえってうまくいかない」場合もある。(株)フィットはそういう「守る」の段階の人ではなく、むしろ、「まったく経験がない人」の方がいいということを言ったようだが、人間としての思考が固まっていない段階の人なら「全く経験がない人」を採用するというのはひとつの考え方だが、滝口さんのようにすでに思考が固まっている人の場合、それも経験なく思考が固まっている人の場合は経験があって「守る」の段階の人と比べてもプラスの要素は考えにくい。
むしろ、「私は子供があるんだから」と「子供」を大義名分にすれば自分が担当の仕事を担当外の従業員が労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働でやるのが「当たり前でしょお」と認識していたようだった。そして、多くの従業員が滝口のその態度に怒っていたのだ。「子供がない」人間といっても、ふさわしい結婚相手に巡り合うことができずにいる人間・結婚はできたが子供が欲しいと思いながらできずにいる人間に対して、やはり滝口と同じく社長の嫁の友人として縁故入社した大竹加代子(当時、40代)が「滝口さんは子供があるんだから、子供がある人間は何でも子供がない人間にやってもらうのが当然でしょおおお」「〇〇さんは子供がないんだから、子供がない人は滝口さんのために何でもやってあげるのが当たり前でしょおおおお」などと勝手な口をほざいていたが、許しがたい。大竹加代子のような反社会的勢力は人間として日本国民として許せない。
社長の長谷川新二は「滝口さんは子供があるんだから、子供がない人間に何でもやってもらうのが当然じゃないかあ。〇〇さんが子供がないのがいけないんだろうがあ。子供がない人間は子供がある人間のために何でも尽くすのが当たり前じゃないかあ」と暴言をはき、そして、「子供がある人間のために何でも尽くすのが当然だろうがあ」と言って労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働をさせていた。私はそのような身勝手な者のために労基法違反を許すつもりはなかったし、許してはいけない、そのようなものを許してあのでは反社会的であると判断して、千葉労働基準監督署に言って代表取締役の長谷川新二を送検して処罰してもらいたいと訴えたのだが、ところが労基法違反を取り締まっているふりをしながら実際は取り締まらないことにより労基法違反の不良企業と不良経営者を必死になって守のが仕事だと認識している千葉労働基準監督署と労働基準監督官の佐野という男は「この問題は取り上げないことにしました」などと言い、私が「どうしてですか。労基署が勝手に『とりあげないことにしました』などと言って通じるものではないでしょう」と言ったのだが、言っても言っても佐野はな~んとしても労基法違反を守ろうと必死になったのだ。私が「起訴しないなら検察審査会に訴えますよ」と言ったところ、労働基準監督官の佐野は「検察審査会は送検されたものを起訴しない場合に訴えることができるものであって、これは労基署が送検していませんから検察審査会に訴えることは、でっきませえ~えん♪」とうれしそうに言うのだった。この野郎! と思ったが、今から考えると、労働基準監督署というのは労働事件における警察署であり、告訴は警察におこなってもいいが検察におこなってもいいのであり、労働基準監督官の佐野がな~んとしても送検してなるものかあと悪人を守るのならば、かつ、送検されていないなら検察審査会に訴えることはできないのであれば、それなら労基署ではなく検察庁に直接、告訴してやるという方法もあったのだった。そこに気づかなかったのはうかつだった。
滝口恵は労働基準法から考えて、終業時刻になったら退社していいはずだと主張したかったようだが、しかし、それは滝口だけにあてはまることではない。滝口恵以外の従業員だってそうであるわけで、滝口恵以外の従業員は労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働で滝口恵が担当の業務をおこない、滝口恵だけが終業時刻より前から帰る準備をして、終業時刻ぴったりにタイムカードを押して帰り、「あと、やっておいてよお」と言って滝口恵以外の従業員に労基法違反を強制する権利というものが「子供があるんだから」という大義名分により滝口恵にあるわけではないはずだった。しかし、そういう暴論を主張する者というのがいたのだ。私はそういった暴論を主張して国民をいじめる反社会的勢力を、特に公務員で本来ならその逆をおこなわないといけないはずの立場でありながら、反社会的勢力滝口恵に加担していた悪党どもを決して許すわけにはいかないと思っている。私の残りの人生はそれらの悪党どもを退治するために存在している。
すでに子供が2人あった滝口恵は「子供があるんだから」と「子供」を大義名分に掲げて定時に退社して、滝口が担当で滝口がその業務に対する報酬を受け取っている仕事を担当外の従業員、ふさわしい相手と巡り合うことができずにいる人間や結婚はできたが子供が欲しいと思いながらできずにいる人間に労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働でさせておいて、まさにその時間に自分は夫と妊活(性交)やって3人目を孕んで出産したのだった。その3人目の子供は、ふさわしい相手と巡り合うことができずにいる人間・結婚はできたが子供が欲しいと思いながらまだできずにいる人間から「婚活」「妊活」の時間を奪い、ふさわしい相手と巡り合うことができずにいる人間・結婚はできたが子供が欲しいと思いながらまだできずにいる人間にできていたかもしれない子供を食い殺して産まれた鬼子、鬼畜の子である。
さらには滝口はおのれが担当でおのれがその業務に対する報酬を受け取っている仕事を担当外の従業員に労基法違反の時間外労働・労基法違反の無賃労働でさせておいて、そうやって空けた時間に「PTA役員やってます」と子供の学校のPTA役員をやり、「PTA役員も悪くないなと思いました」と、あきれたことに新華ハウジング(有)・ビルダーズジャパン(株)のホームページとリンクしたブログに掲載した。滝口の子供のおかげで、ふさわしい相手と巡り合うことができずにいる人間は「婚活」できず、結婚はできたが子供が欲しいと思いながらも子供ができずにいた人間は「妊活」ができず、産まれていたかもしれない子供が滝口の子供のおかげで産まれなくなったのである。特に、滝口恵の3人目の子供はひとの子供を食い殺すことによって産まれてきたような子供である。その子供は存在していること自体が反社会的である。
公明党の「子供手当」・民主党の「地域振興券」など、どうも、日本の政治家は「ひとより先に子供を作った者」を、その者より後から結婚し、後から子供を作ろうとする者を犠牲にして優遇するのが、それが「少子高齢化対策」で「景気回復策」だと言いたい人間が多いようだが、それは逆ではないか。滝口のようにすでに2人も子供を作った人間が3人目の「妊活」(性交)やるために、まだ子供がない人間を犠牲にするというのは、それは「少子高齢化対策」とは逆行するもののはずだ。「子供一般を大事にしよう」というのと「『子供』を大義名分に掲げれば何でもまかり通ると考える不逞のヤカラの横暴を無制限に通そう」というのは同じではない。
「人を呪わば穴二つ」などと言う人がいるが、誤解している人というのがいるのだが、「利権などおのれの身勝手な主張のために人を呪う」ということをするならば、その呪いがおのれに帰ってくるという場合が考えられる。しかし、そうではなく、不当な扱いを受けた者が正しい裁きを求めるというのは「人を呪わば穴二つ」というものとは別のものだ。映画『マルコム=X』では、警官から暴力を振るわれて大怪我をさせられた黒人が救済されるようにと、マルコム=Xらは警察署のまわりを取り囲み、「 We want justice. We want justice. ・・」と叫ぶ場面がある。justice を求めるのは「人を呪わば穴二つ」というものとは別のものだ。「子供」を大義名分に身勝手放題なふるまいをおこなってきた不逞のヤカラどもを成敗するのは正義のおこないであり、正しい裁きを求めるものだ。滝口恵の子供、特に3番目の子供は私の子供を食い殺して産まれてきたようなものである。その3番目の子供は存在すること自体が不正義なのであり、存在すること自体が反社会的なのである。
※ 《YouTube-Malcolm X, Hospital Scene》https://www.youtube.com/watch?v=5Uoy6xy5AFM
この仲源寺の水子地蔵尊にもまた、お賽銭を多めに入れた上で、滝口恵とその夫と子供、特に三番目の子供に食い殺された私の子供のために「正しい裁き」を求めてきた。滝口恵の3番目の子供と同様に人の子供を食い殺して産まれてきた子供というのは他にもいるかもしれない。そのような存在していること自体が反社会的である子供に対して、正しい報いを与えてくださるように、私の子供の無念な思いを決して無視しないように心よりお願いしてきた。
入口脇の木札の説明書きには、
《 また、観音堂には平安後期の春日仏師の作とされる木造の千手観音座像(重要文化財)が安置されている。
京都市 》
とある。 洛陽三十三所観音霊場 の 第16番札所 になっており、観音堂の千手観音座像が洛陽三十三所観音霊場の観音様なのだろう・・が、南側から入って正面に地蔵堂があって、めやみ(眼疾)地蔵 がおられ、その傍らに浄土宗として「山越阿弥陀像」がおられて、地蔵堂の左手前(南西側)に水子地蔵がおられるが、敷地はそれほど広いわけではなく、千手観音座像がおられる観音堂はどこか・・というと、右手前、水子地蔵尊の向いあたりの建物がそうだったのかもしれませんが、今回は地蔵像と水子地蔵さんにお参りして、観音堂は素通りして帰ってきてしまいました。 阪急「京都河原町」駅・京阪「祇園四条」駅からすぐ近くですから、また、訪ねてみたいと思います。
(2022.10.6.)
☆ 知恩院(京都市東山区)参拝
1.京都駅~京都河原町駅~知恩院新門。関西人を侮辱する東京もん・ぶぶづけ食って帰ろうとする東京もんは無神経。「サービス向上」していないJR。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_4.html
2.新門から三門へ。知恩院のムクロジ。知恩院への経路。鎮西派と西山派。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_6.html
3.「男坂」から御影堂・阿弥陀堂前まで。知恩院の場合、新門⇒三門⇒男坂⇒・・ルートは必ずしも正規ルートではないのではないか。裏口入学て自慢するものではないと思うぞ。ガチンコは裏口八百長野郎のゴルフバッグをかつがされる義務があるのか。「家族の政治学」を理解できない女は高校教諭にならないでもらった方がいい。御影堂と阿弥陀堂の配置、知恩院と西本願寺・東本願寺の違い。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_7.html
4.正面の御影堂・西の空を背にした阿弥陀堂・東山を背にした経蔵。多宝塔・池と橋と樹木と調和した納骨堂。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_8.html
5.宝仏殿・泰平亭。御影堂の前の広場越しに見る御影堂・経蔵・宝仏殿。「ほうじ茶」は「焙じた茶」か「法事の茶」か。「これからは俺がやるんやから」と言って何も法事をしない「さわやかラガーマン」。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_9.html
6.大方丈・唐門・集会堂。その他の堂宇の配置。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_10.html
7.女坂から南門へ。女坂から南門へ。知恩院の場合は「男坂」「女坂」という名称は適切ではないのではないか。「信教の自由」を侵害する深奥山方広寺(静岡県浜松市)は宗教の敵である。「心理学」と「坐禅研修」を従業員に強制する権利は企業経営者・使用者や深奥山方広寺には存在しない。坐禅を理解できていない臨済宗の僧はけっこういるのではないか。イカサマ「心理学」は少なくない。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_11.html
8.知恩院南門から円山公園。よその息子に合わさせようとする親。親に苦労する生徒を苛める高校教諭。あほくさい新聞配達姿の「働く少年の像」。自分の息子になら出さないカネをよその息子に特別献金する親。さきに言ってほしかった「 大学の学費と生活費をシブチンやりたがる親」。自己不一致の親の息子は生贄にされ「外罰的性格」にされる https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202209article_12.html
9.祇園交番・花見小路通・京都色すき家・高瀬川。交番とは市民を守るものか警察が市民を監視する出張所か。交番は独創的なデザインで街の景観に溶け込むものではなく、全国一律のデザインで目立つものであるべきではないか 。https://philoarchi2212.seesaa.net/article/202210article_1.html
10.めやみ地蔵 仲源寺(京都市・浄土宗)参拝。息子の眼鏡は「やふいのん、やふいのん」という父親、「眼えなんか、つぶれてもええ」と言う母親。生徒の力にならない・なれない・なる意思がない高校教諭。〔今回〕
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