強姦医師・猥褻学生に思う。及「草薙の剣」盗みに行く奴と「女子高にブルマ」のどちらにラポールを感じるか

[第269回]
 ヤフーニュースを見ておりましたら、
「10代女性に集団で性的暴行加えた疑い、医師ら3人逮捕」
TBS系(JNN) 2/16(木) 14:48配信 http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20170216-00000043-jnn-soci 
≪  集団準強姦などの疑いで逮捕されたのは、千葉県船橋市の船橋中央病院の医師・上西崇容疑者(31)と東京慈恵会医科大学附属病院の医師・松岡芳春容疑者(31)。それに、東邦大学・医学部の学生・柁原龍祐容疑者(25)のあわせて3人・・・・≫
という記事がありました。
  船橋中央病院http://funabashi.jcho.go.jp/ は、市立船橋高校の近くのJRの線路の脇にある病院ではなく、京成とJRの線路の脇にある丸い建物の病院でもなく、国道14号(千葉街道)から北に曲がるとかつて陸軍の通信基地があって「ニイタカヤマノボレ」と発信した場所だという行田公園がある方に行く交差点のカドにある病院↓のようです。
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(↑ 南東側から見たもの)
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(↑ 北側にある病棟)
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(↑ 南西側から見たもの)








( 「千葉県船橋市の船橋中央病院」というのは、↑。
「市立船橋高校の近くのJRの線路の脇にある病院」は「総武病院」という「精神病院」で、
「京成とJRの線路の脇にある丸い建物の病院」は、昔、健康診断を受けに行ったことがあって面白い建物だなと思ったのですが、「船橋総合病院」で今は船橋市北本町に移転したようです。 )
  「病院長挨拶」http://funabashi.jcho.go.jp/%E7%97%85%E9%99%A2%E9%95%B7%E6%8C%A8%E6%8B%B6/ では横須賀収というおっさんが≪ 当院の理念は以前と変わらず、・倫理と職能の追及(正しい医療) ・良質の医療の提供(良い医療) ・誠心誠意な接遇(優しい医療) というものであります。≫なんて述べています。へ~え。
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(ヤフーニュース)
10代女性に集団で性的暴行加えた疑い、医師ら3人逮捕
TBS系(JNN) 2/16(木) 14:48配信 http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20170216-00000043-jnn-soci
 医師の男2人と大学の医学部生の男が、10代の女性に無理やり酒を飲ませて酔わせた上、集団で性的暴行を加えたとして、逮捕されました。

 集団準強姦などの疑いで逮捕されたのは、千葉県船橋市の船橋中央病院の医師・上西崇容疑者(31)と東京慈恵会医科大学附属病院の医師・松岡芳春容疑者(31)。それに、東邦大学医学部の学生・柁原龍佑容疑者(25)のあわせて3人です。調べによりますと、3人は去年4月、上西容疑者が借りていた東京・大田区にあるマンションで、当時10代の女性に無理やり酒を飲ませて酔わせた上、集団で性的暴行を加えた疑いが持たれています。

 調べに対し、上西容疑者と松岡容疑者は黙秘していますが、柁原容疑者は「間違いありません」と容疑を認めているということです。警察は詳しい経緯を調べています。(16日15:47)
最終更新:2/16(木) 18:14
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〔 ヤフーニュースによると、↑の船橋中央病院の研修医は「起訴猶予」なのか「嫌疑不十分」なのかよくわかりませんが不起訴になったようです。 刑法上、強姦・準強姦は親告罪ですが、輪姦の場合は親告罪ではなくなるはずですが、不起訴になったようですが、↑の病院としては懲戒解雇としたようです。 病院も客商売ですから、こういったことで病院の評判を下げられたのでは困るでしょうね。 懲戒解雇とすることで、この件について、病院としてはその行為を支持していない、と意思表示をしたということでしょうか・・・。(2017.5.11.) 〕
※ 「不起訴」「嫌疑不十分」「起訴猶予」について。
≪ 「不起訴」とは。
検察官が公訴を提起しないこと。
(1)被疑者死亡・公訴時効成立等により訴訟条件を欠く場合、
(2)被疑事実が犯罪の成立要件を満たさない場合(罪とならず)、
(3)被疑者が人違いである場合など犯罪の嫌疑・証拠がない場合(嫌疑なし)、
(4)被疑事実について犯罪の成立を認定すべき証拠が不十分な場合(嫌疑不十分)、
(5)証拠が十分でも犯人の性格・年齢・境遇や、犯罪の軽重・情状などを考慮して訴追を必要としない判断をした場合(起訴猶予)などの場合に、
不起訴処分となる。  ≫
《コトバンク 不起訴》https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8D%E8%B5%B7%E8%A8%B4-616923

   1980年代、かつて、KO大学の大学生であった時、慶應大学https://www.keio.ac.jp/ja/ の「プロレス研究会」というサークルの会合に1回だけ顔を出したことがあったのですが、その時、2年生で幼稚舎から慶應という男が、内容をよく知らずに来た女子学生に、本人が嫌がって拒否しているのに体をさわり、それを他の部員が写真に撮り、その男が「ほら、もう写真に撮られたからね」などと口にするというのを目撃しました。
   1970年代後半、北野高校の2年の修学旅行の時、ホテルの部屋で酒を飲んだ者がおり、5人の部屋で4人が飲んで1人だけ飲まなかったというのを、ある先生が「なんで1人だけ飲まなかったかという者がいるが、俺はそうではなく、なんで止めなかったのかと言いたい。北野高校の生徒なら、『おい、やめておけ』と言えるはずだ。それを言えるのが北野の生徒のはずだ」と言われたことがあり、それを聞いた時は、そうだよなと思ったのですが、目の前でやられた時、私はショックで止めることができなかった。しかし、そういう連中とはつきあいたくないので、それ以降、「プロレス研究会」とも「プロレス研究会」に入っている人間とも関わらないようにしました。しかし、最近、慶應幼稚舎をとりあげた週刊誌で、幼稚舎から慶應の人が「慶應の内部の学校に行くと、『内部と外部』という思考ができてしまいます」と述べていたが、私なら同じ高校の出身の人間や同じ地域の出身の人間にいくらか親しみを感じることはあっても、だから何でもその人間のやることを肯定するなどということはありません。それに対し、KOの内部進学の人というのは、その相手の行動を肯定するか否定するかの基準は「内部か外部か」であり、「内部進学は正しい」という思考をするのです。これを内部進学の人に言うと怒るし、殴りかかってきたりするので怖いのですが、そういうのを見て、KOの内部進学の学校というのは困った学校だなと思いました。 
   慶應義塾大学の「ステューデントカウンセラーズ」というカウンセリングのサークルに入っていた時期もあったのですが、私が入部する前年、合宿で「寸劇」という名のエロ劇をさせられて、その時、3年生の男が新入生の女性の尻をなでまわし、なでまわされた女性はショックでしばらく顔を出さなかったと聞きました。その話を聞いたので、翌年、私は、その「寸劇」はやめてはどうかと提案したところ、4年生の男から殴りかかられました。 私は、そういう連中がやっている「カウンセリング」というものに疑問を持っている・・というより、価値はないと思っています。 「精神適応か民主主義か」「自己飼育か自主権か」。 KOのそういう体質に「精神適応」するのが「カウンセリング」だ「心理学」だ、KOのそういう体質に精神を加工する「人間による人間の加工」をするのが「カウンセリング」であり「心理学」だとKOの心理学の教授は考えているのでしょうけれども(面と向かって言うと否定するでしょうけれども、それなら違うのかというと違わないはずです)、それは間違いだと私は思います。
   そういう状態、そういう動きに対しては、「反逆は正しく、抑圧は間違っている」。 そういう状態に「精神適応」「自己飼育」するのが「スマートな慶大生」「独立自尊」「福沢精神」などと言いたいヤカラが大変多い大学でしたが、「福沢精神」と彼らは言いますが、福澤諭吉はそのような主張をする発言・著作も行動もしていない、福澤諭吉と何の関係もない、むしろ、福澤諭吉の言動に逆行するものに「福沢精神」と言いたがるヤカラが多い大学でした。
   強制わいせつや強姦はKO大の専売特許かと思っていたら、最近のニュースを見るとそうでもないようですが、KOに行きたがる男には、そういうのにあこがれてKOに行きたがるアホが多い。 私などはKO大では「筋金いりの外様」「疑いの余地なく異邦人」でしたし、どんなに頑張っても「親藩」は当然のこと「譜代」にならせてもらえる立場ではない人間でしたが、同じ高校からKOに言った男でそういうのにあこがれる男もいました。そいつSが言うには、「そういう人間(サークルで女性学生の体を本人が嫌がっていてもおかまいなしに強制的にさわったりする男)の方が社会で役に立つねんぞ」と。「おまえみたいなやつは社会で役に立たないぞ」と。
   北野高校の体育の剣道の時に、体育の先生が「昔、北野の生徒で、熱田神宮に草薙の剣を盗みにいったやつがおった。 北野の人間には連合赤軍もおれば大泥棒もおる。」と、教えてくれた。「連合赤軍」は、森恒夫という人が北野高校の卒業生で、「熱田神宮に草薙の剣を盗みに行ったやつ」というのは、今、インターネットで検索しても出てこないけれども、かつて、私なんかよりずっと年上の人で、熱田神宮にある草薙の剣っちゅうやつを、いっちょ、盗み出して検分してこましたろかと考えた豪傑がいたらしいのだ。 連合赤軍やれと言うわけではないし、大泥棒やれと言うわけでもないが、「何をやるにしても、大きなことを思いっきりやれ」と言われたのだ。 連合赤軍であれ熱田神宮に草薙の剣盗みに行く人間であれ、そういう人間はそのへんでしょーもない万引きやったり痴漢やったりはせんだろ。連合赤軍がいいかどうか、熱田神宮にある草薙の剣っちゅうやつを、いっちょ盗み出して検分してこましたろか♪ というのがいいかどうかはさておき、しょーもない万引きやったり痴漢やったりするのと、草薙の剣っっちゅうやつを、いっちょ盗み出して検分してこましたろか、というのとどっちがいいか。 草薙の剣の方がいいのと違うか・・・・と思った・・・のだが、落ち着いて考えてみると、その実証精神と冒険家精神は評価するとしても、そうはいっても、やっぱり、窃盗は犯罪であるので、無条件に称賛するわけにもいかんわけで・・・と思っていると、新聞に、慶應義塾高校の生徒が東京の女子校に忍び込んで、女性高校生のブルマを盗もうとしてつかまった!というニュースが出ていたのだ。 それを見て、やっぱり、女子高生のブルマ盗むヤツと熱田神宮にある草薙の剣っちゅうやつをいっちょ盗み出して検分してこましたろかと思うやつと、どっちがいいか? というと、それはやっぱり、草薙の剣の方がええのと違うか!?! と思ったわけだ。 
   やっぱり、旧帝大系国立大学に行くくらい勉強してきた人間ならたいていそう思うのではないかと思ったのだが、ところが、KOの学生には、「女子高にブルマ」の方に親近感を覚える男がけっこういるようだったのだ。 特に内部進学の人間には「熱田神宮に草薙の剣」の方に親近感を覚える者は皆無である。 開成高校とか私立6年制受験校出身の人間でKOあたりに来るような落ちこぼれにも、「女子高にブルマ」型の方が多いようだ。 やっぱり、「熱田神宮に草薙の剣」型というのは公立進学校のカラーじゃないかと思った。
   それで、だ。 「女子高にブルマ」型の男が言うには、だ。 「そういう考え方(「女子高にブルマ」より「熱田神宮に草薙の剣」の方に親近感を覚える考え方)をしていると、「過激派」とかになって爆破事件とか起こして親を泣かすことになるぞ、とか言うわけだ。 しかし、だ。「過激派」になったら困るというなら、ならなきゃいいじゃん。 爆破事件を起こしたら困るというのなら、やらなきゃいいじゃん。 だいたい、俺は、熱田神宮に草薙の剣を盗みに行けなんて言ってないぞ。 あくまでも、「女子高にブルマ」と「熱田神宮に草薙の剣」で、あえて、どちらに親近感を覚えるか、どちらか選べということであれば、「熱田神宮に草薙の剣」の方がええんとちゃうか、と言うとるだけのことだ。 ところが、「女子高にブルマ」の方がいいというヤツがKOの学生には多いのだ。 特に内部進学の人間には「熱田神宮に草薙の剣」を志向する人間は皆無。 「変なヤツがいたんだなあ」みたいな感想というより、はっきりそう言いやがったから。 で、「女子高にブルマ」にはラポールを感じるらしいのだ。KOの内部進学の男というのは。かつ、KOの内部進学の女というのは、そういう男の裏返しである。
    私は、今でも、「女子高にブルマ」と「熱田神宮に草薙の剣」であれば、「熱田神宮に草薙の剣」の方が、親近感を覚える。 念のため、断っておくが、別に、熱田神宮に草薙の剣を盗みに行けなんて言ってないからな。あくまでも、「女子高にブルマ」なんて盗みに行くヤツと「熱田神宮に草薙の剣」を盗みに行くヤツなら「熱田神宮に草薙の剣」の方が、その実証精神と冒険家精神を評価できる、と言っているだけだからな・・・・と言っても、それでもまだ、「そういうこと言うような危ない人とはつきあえませ~ん」とか言い出すやつがいる。その人の感覚では「女子高にブルマ」は危なくないらしいのだ。
    さらに言うと、だ。 「女子高にブルマ」型の人間というのは、江崎の社長を自宅浴室から拉致した上で、「グリコ、つぶしたる!」とかいうのは、ようしよれへん。 ここでも考えてみるべきだ。 江崎の社長を自宅浴室から拉致した上で、「グリコ、つぶしたる!」というのと、ケーサツ漢がよくやる犯罪のように、「女子中学生にカッターナイフをつきつけて」とかいうのと、どっちがいいか。 怪人21面相は、江崎グリコ(株)から身代金を取る為に、淀川で「デート」していた20代の男女の女の方を人質にとって男の方に取りに行かせたが、ケーサツはある程度走るとエンコするクルマを意図的に用意してそのクルマを運転させ、取りに行かせた男を「犯人」かと思って「逮捕」したが、その際、その男は元自衛官で体力自慢の男で、それを一瞬のうちに制圧し、人質にとった女は、身代金奪取に失敗したとわかると、クルマで京阪電鉄の駅まで送り届けた上で、「電車賃持ってるか」と尋ねて「持ってない」と言うと、「それなら、これで帰り」と言って千円札を2枚渡して釈放したというのだが、なんか、「命は盗らない。女をかどわかさない。盗られて生活できなくなる者からは盗らない」という『鬼平犯科帳』に出てくる「盗み(つとめ)の3箇条」を守る「本格の盗賊」みたい、というのか、「殴らない、怒鳴らない。 女性をからかわない。捕虜を虐待しない。 人民からは針一本糸一本取らない。 壊した物は必ず直すか弁償する。 敵から奪ったものは必ず公共の物とするか分配する」という日中戦争・国共内戦時の中国人民義勇軍の「三大規律・八項注意」みたいで、なんやかっこええやないか・・・て感じがするが、そうはいっても犯罪なので少なくとも無条件にほめるわけにもいかない、としても、「女子中学生にカッターナイフをつきつけて」とか「交番の中で相談に来た女性のスカートの中を盗撮」とかいうケーサツ漢がよくやる犯罪と「グリコ、つぶしたる」とどっちがいいか無理にでもどっちか片方選べとなると、やっぱり、それは、「グリコ、つぶしたる」の方と違うか。 「ワルでもええ。怪人21面相のように育ってくれたら」という怪人21面相の文句、「女子中学生にカッターナイフをつきつけて」というケーサツ漢の犯罪のニュースなんか見ると、ほんまにそうやなあ~あ!て感じがしてくる。ほんまケーサツ漢の犯罪ちゅうのは、「聞いてるだけであほくそなってくるやろ」て感じ。(これも、念のため、断っておくが、俺は別に江崎の社長、拉致しろとは言ってないからな。)
   それで。 KOの商学部のゼミの説明会の時、ある会計学系のゼミの説明会で、3年生が「会計学については、それほどわかっていなくても大丈夫ですよ。↓
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のように書いて、右が何で左が何 というくらい、わかっていたら、それでいいですから。」と言い(簿記についてよく知らない方のために説明すると、↑は「T字簿」と言い、左が「借方」右が「貸方」です)、「人間性が悪い人はだめですからね。大事なのは人間性ですから。人間性がいい人はゼミでは採用されますから」と発言したのだ・・・・が。 それを聞いて、「俺は、この男にとって、人間性がいいことになるのか、悪いことになるのか、どちらだろうか」と考えたのだ。 KOタイプの人間が評価するのなら、おそらく、俺は「人間性が悪い」と評価されるのではないのか、と思った。 要するに、力づくで嫌がる女性の体をさわる内部進学とその協力者、「寸劇」と称して新入生の女性の尻をなでまわす男とその加担者、そういう人間は「人間性がいい」と評価され、そういう「寸劇」はやめましょうと言う人間、他大学の女子学生をだまして来させて、嫌がる女性の体をさわる内部進学に加担する連中とはつきあいたくないと関係を遮断する人間というのは「人間性が悪い」とKO人間には評価されるのではないか。おそらく、そうだろうと思えた。この推測はおそらく間違っていないと今も思う。
    しかし、嫌がる女性の体を無理にさわって、何が楽しいのだろう。そういう行為をする人間とその加担者・同調者というのが「人間性がいい」のか? 女子高にブルマなんて盗みに行くというのは、やっぱり、小学校の1年から真面目に勉強してきた人間なら、「俺はそんなことするために小学校の1年から勉強してきたのではない」と考えるものではないかと思う。 慶應の内部進学の教授は「小学校から高校までの勉強は害があるんだあ! わかってのんかあ」と教壇で叫ぶが。
   「女子高にブルマ」盗みに行くなんて、情けない。 「聞いてるだけであほくそなってくるやろ」。 もし、女のものを盗むなら、女の心を盗め! そうではないか!?! 「女子中学生にカッターナイフをつきつけて」とかパンツ泥棒とかやるケーサツ漢のニュース見るといつも思うのだ。 ちょっとは、泥棒を見ならいなさいよお~お、と。⇒『ルパン三世 カリオストロの城』〔《YouTube-銭形警部の名言 ルパン三世 カリオストロの城 》 https://www.youtube.com/watch?v=CLFmo5W_Cl0 〕
    ところが、KOの内部進学の学生や教授にそれを言っても怒るだけで絶対に理解しない。 要するに、物事を考える上での「基礎体験」みたいなものが私のような公立進学校出身の人間とKOの内部進学の人間とでは正反対らしいのだ。

    俺は今でも思うぞ。 「熱田神宮にある草薙の剣っちゅうやつを盗み出して検分してこましたろかという強者」と、「女子高にブルマ盗みに行く“本物の慶應ボーイ”」と、どちらにラポールを感じるかというと、「熱田神宮に草薙の剣」の方であるし、 江崎の社長を自宅浴室から拉致した上で、「グリコ、つぶしたる」と、「女子中学生にカッターナイフをつきつけて」とどちらにラポールを感じるかというと、そりぁ、「女子中学生にカッターナイフをつきつけて」でない方やな。 大の男が「女子中学生にカッターナイフをつきつけて」だの、交番でミニカメラを用意して交番に来た女性のスカートの中を撮影するとか、「もう、聞いてるだけであほくそなってくるやろ」。 「もう、これやと、ポリ、うち帰ってガキの顔みられへ~ん」(と思っても、無神経なポリは平気でガキの顔みよるやろけどな。)
    女性に酒を飲ませて何人もで襲うなんて、そういうことをして楽しいか。 そんなことをするくらいなら、成功するかしないかはさておき、盗むのなら「女性の心」を盗め。 
    ジョン=スポールストラ『エスキモーに氷を売る』という題名の本が出ている。 これは題名を見て本の内容を誤解する人もいるが、そんなもの売れるわけないだろうがというようなものでも、工夫して売ってみせようではないか、と努力して工夫して、アメリカ合衆国のバスケットボールの不人気チームのチケットを売った男の話である。 女性に酒を飲ませて何人もで襲うという男というのは、自分ひとりでは女性を口説くことは無理だと絶望していたのだろうか。 それなら、その男もまたみじめな男である。 成功するか否かは関係ない。「エスキモーに氷を売る」ようなものと思われようが、いかにして「女性の心」を盗んでこましたろか、と考える方が、成功しようがしまいが魅力があるのではないか。 『ルパン三世 カリオストロの城』の主人公になった気分かもしれないし・・・。
   少なくとも、「女子高生にカッターナイフをつきつけて」なんてケーサツ漢よりは、「女子高にブルマ」の慶應内部進学よりはいいと思う。
   
    その後、(株)リクルートホールディングスhttp://www.recruit.jp/  が大学生に無料で配布してくれる就職用雑誌「リクルート」に、慶應の「プロレス研究会」の何何君として写真と名前が掲載されていたことがあったので、「リクルート」はあんな反社会的サークルの人間の写真と氏名を肯定的に掲載するのかと思ったのだが、(株)リクルートホールディングスhttp://www.recruit.jp/ の本社に行って、担当者に「それは、あくまで、そういう人だ、そういうサークルだということを知らなかったから掲載したのであって、そういう人だから、そういうサークルだから掲載したということではありませんね」と確認したところ、リクルートの担当者は「そうです。そういう人だから掲載したのとは違います」という返答でした。
   匿名にする必要があるとは思えない。
   慶應大学の「プロレス研究会」で、知らずに来た女子学生に、当人が嫌がりはっきりと拒否の意志表示をしているのに力ずくで体をさわっていた「幼稚舎から慶應」の男の名前は、「桐原(きりはら)」という。幼稚舎から慶應で大学は経済学部。親は東急電鉄http://www.tokyu.co.jp/ の重役だそうだ。「プロレス研究会」とともに「慶早戦支援委員会」にも入っていたそうで、慶早戦支援委員会では、この男から「妹があるか」と尋ねられたら、いても「いません」と答えないといけないと言われていたと聞く。いるから正直にいると答えると、つきあわせろとしつこく、もし、会わせたとしても、真面目につきあおうという意思はないからだそうだ。かつ、親が有力者で、かつ、本人も「幼稚舎から慶應」なので、慶應では、そういう人間でもまかり通る、というより慶應義塾においては天下無敵らしい。私は東急電鉄乗るのやめようかと思ったが、残念ながら、嗜好品のメーカーなどと違って電鉄会社の場合は乗らないで生活できないのでそれはできなかった。
   その時、慶應大の4年で「プロレス研究会」で幹事をしていた男の名前は「真殿(まどの)」と言う。
   その時2年で日吉地区の幹事をしていて、後に「リクルート」に写真と氏名が掲載された男の名前は「占野(しめの)」と言う。
   「ステューデントカウンセラーズ」で、「寸劇」と称して新入生の女子学生の尻をなでまわした男の名前は「二瓶(にへい)」と言う。その際、それに同調していた人間は何人もいたそれらの中でも特に強く同調していた男としては「田名(たな)」という男がいた。琉球銀行だったか沖縄銀行だったかの頭取の息子だそうだ。 「ステューデントカウンセラーズ」の合宿で、その後もその「寸劇」と称するエロ劇をおこなおうとし、私が、そういうものはやめるべきだと発言した時、カウンセリングの研修をやめてでも寸劇(エロ劇)はおこなうべきだと主張し、私に殴りかかってきた男の名前は「名嶋(なじま)」という。 彼らはそれを「塾風」とか「福沢精神」とか「独立自尊」とか「カウンセリングマインド」とか考えているようだが、「塾風」はともかく、福澤諭吉がそのようなものを支持するとは私は思わないので、福澤諭吉と関係のないものに福沢の名前はできたら使ってもらいたくないものだ。そんなものが「カウンセリングマインド」なら何でも「カウンセリングマインド」になる。

   「ステューデントカウンセラーズ」の部員はそれに同調していた人間だらけ、何人もいた。 彼らはいったい何のために「ステューデントカウンセラーズ」やってるのかと思った。「寸劇」だとか口実をつけて女子学生の尻をさわるような程度の低い人間が入部したサークルにいて困っているのですがと「相談」するクライアント(相談者)がいた時、彼らは「クライアント」の方を「精神適応」させ「人間による人間の加工」をおこなってそういうことを何とも思わない堕落した人間にしようとするのか。 「寸劇」だと称して下級生の女性の尻をさわろうとするアホの方を「精神適応」させるべきではないのか、そちらの人間の方をこそ「人間による人間の加工」をおこなうべきではないのか。何ゆえ、そういったことはなされてはならないという認識の人間の方を「精神適応」させようとするのか、「人間による人間の加工」をしようとするのか。 それが「カウンセリング」なのか。カール=ロジャーズはそんな主張をしていたか?
   要するに、彼らは福沢諭吉の発言や行動と関係ないもの、むしろ、逆行するのもを「福沢精神」と主張する慶應タイプの慶大生、慶應タイプの慶應OBOGと同じく、カール=ロジャーズの「クライアント中心療法」による「カウンセリング」をやると称して、むしろ、「クライアント」を苦しめるような「相談」をするのが「塾風」「福沢精神」「独立自尊」「協調性」だと主張する連中の一員だったのだ。
  ≪ 支配階級の思想は、いつの時代においても支配的思想である。 すなわち社会の支配的な物質力である階級は、同時にその社会の支配的精神力である。 物質的生産の手段をみずからの指揮下におく階級は、それといっしょに精神的生産の手段をも自由に支配しうるのであるから、それにともない精神的生産の手段を欠いている人々の思想は、おおむねこの階級に従属せしめられる。支配的な思想とは、支配的な物質的諸関係の観念的表現、すなわち思想として把握された支配的な物質的諸関係以上のなにものでもない。・・・・ ≫(カール=マルクス・フリードリヒ=エンゲルス『ドイツ イデオロギー』花崎皋平(はなさき こうへい)訳 1966.9.15.合同出版 合同新書)。 要するに、彼ら、慶應大の「ステューデントカウンセラーズ」で支配的であった人間は、「寸劇」と称して女子学生の尻をなでまわす男を擁護しようとしう「思想」の人間であり、そういう「思想」の人間に対してショックを受けて、こんな「大学」行って大丈夫だろうかと疑問を持った「クライアント」に対して、そういう「思想」が間違っているのだ、「寸劇」と称して女子学生の尻をなでまわすような男を上級生であれば「塾風を身につけている」「福沢精神を発揮している」「思考が柔軟だ」「協調性がある」と称賛する「思想」が正しい思想で、それはおかしい認めるわけにはいかないと言う人間というのは「塾風を身に着けていない」「福沢精神を身に着けていない」「思考が堅い」「協調性がない」「受験勉強の悪影響だ」と「診断」するのが「カウンセリング」だ「心理学」だとするのが、彼らの「思想」でありその「思想」に基づく「カウンセリング」だったのである。 面と向かって言うとなかなか認めないだろう。まったく、正直でない連中である。しかし、アメリカ合衆国ニューヨーク州シラキュース大学の精神科教授トマス=サズが『「精神医学」という神話』(岩崎学術出版社の訳書での題名は『精神医学の神話』とされているが、これは「of」を「~の」としてしまったことによるもので、本の内容を考えると、これは「~という」と「同格のof」として訳すべきである)の冒頭に、サズはアインシュタインの言葉を引用しているが、それは「彼らが言っていることを聞くのではなく、彼らがやっていることを見るべきだ」というものである。 「彼らが言っていることを聞くのではなく、やっていることを見るべきだ」という基準で見た時、慶應義塾大学の「ステューデントカウンセラーズ」の人間がやっている「カウンセリング」は二束三文の価値もない。 慶應義塾大学の「学生相談室」の人間がやっている「カウンセリング」は害がある。
    「治療」しなければならないのはどちらか。「治療」されなければならないのはどちらか。慶應の「ステューデントカウンセラーズ」の人間はそのあたりについての考察ができていない。 慶應は、大学の体質として、労働問題においては常に使用者側に立ちそうな人間が行く大学で、そういう人間を育成している大学という性格がある。そういう骨も何もないような人間のことを「独立自尊」とか言うのである。 その点で慶應は他の大学よりも問題が多いが他の大学に問題がないわけではない。「心理学」「精神医学」は、いずれも、どちらの側の「心理」「精神」を「治療」と称して加工するべきなのかという問題があるはずで、使用者の側・権力の側・体制の側に「精神適応」するように「治療」するのが任務だと思ってはならないはずであるが、そういう考察が欠けている。「精神分析学」はどちらの人間を「分析」して「治療」するべきなのか。 フロイトやユングの本を読むと、彼らは精神分析に携わる者は自分自身も精神分析をうけてみるべきである旨を述べているが、ところが実際の「精神医学」「精神分析学」になると、「診断する側」「治療する側」と「診断される側」「治療される側」が先に決められてしまっており、「診断する側」「治療する側」はどんなにおかしな人間でも「正常」であるという前提で進められてしまう。 そもそも、「寸劇」だと称して女子学生の尻をなでまわす男が「正常」なのか? それにショックを受ける人間の方が「治療」される必要があるのか? 、「寸劇」だと称して女子学生の尻をなでまわす男が「正常」と考える人間の感覚の方が「異常」であり「治療」される必要があるのではないのか? そのあたり、多くの慶應の学生の認識というのはおかしいし、慶應の教授の認識もまたおかしいのである。

    ここで名前をあげた人間は、いずれも、私よりよっぽどいい会社に勤めて、私よりよっぽど出世して、私よりよっぽど高い給料をとっていることだろう。 北野高校から慶應の経済学部に行った男で、私なんかと違って「慶應タイプ」のSが「そういう人間の方がおまえなんかよりも、よっぽど『社会で役に立つ』んだぞ。 そういう人間と結婚した方が、おまえなんかと結婚する方が女にとってはよっぽど幸せなんだぞ」と言ったが、強制わいせつの犯人を「社会で役に立つ」と評価するべきであるのかどうかはわからないが、私なんかよりもよっぽど高い給料をとっているはずだから、たしかに「女にとっては」私なんかと結婚するよりは「よっぽど幸せ」だろう。
   そういう大企業の役員とかオーナー社長の息子・娘とかで、悪いヤツに同調して一般会社員の娘とかに強制わいせつしてそれを「思考が柔軟な慶大生」だの「慶應ボーイらしいスマートさ」とか言い張る連中に私のようなフツーのサラリーマンの息子がたてつくとはとんでもないことなのだろうけれども、しかし、やっぱり、そういう連中に加担することは私にはできない。

   遠藤周作の『海と毒薬』(新潮文庫)は、戦後すぐの時期、九州大学の医学部で捕虜を人体実験した際、それに立ち会った若手の医師で、断ることができず、同時にそれに参加して協力することもできなかった男が「ああ、俺は、なんて弱い情けない人間なんだ」と思う話を描いたものである。
   私もその男と同じく、目の前で強制わいせつされたのを止めることができなかった。 しかし、はっきりと制止することができなかったとしても、強制わいせつに積極的に加担して、それを「思考が柔軟な慶大生」だの「スマートな慶應ボーイ」だの「独立自尊」だの「福沢精神」だの「アイデンティティーが確立されている」だの「ギャルにもてもて」だのと言いまくっている男どもよりはまだましではないかと思うのだが、KOタイプの人間からすれば、そういうものに加担する男の方が「人間性が優れている」と評価されて、そういう連中に加担するわけにはいかないと関係を持ち続けることはできないと判断する人間は「人間性に問題がある」とか「思考がかたい」とかそういう「診断」をされることになるであろう。 しかし、たとえ、そういう「診断」をされたとしても、やっぱり、そういう連中に加担することは私にはできない。 遠藤周作の『海と毒薬』の話などすると、慶應の教授は「そんなものは受験勉強だ。 害があるんだ」と言うだろうけれども、そういう人を見ると、なんか、この人たち、かわいそうな教育うけてるなあという思いがしてしまう・・・・。 それを口にすると、「受験勉強の悪影響だ」と教授から怒鳴りつけられるだろうけれども。 内部進学の人間に殴りかかられる可能性が十分考えられるし。「協調性がない」と言われるかもしれない。 「思考が堅い」とか「診断」されるかもしれないし、「モラトリアム人間(病)」と「診断」されるかもしれない。 要するに、権力に服従することに抵抗を感じる人間というのは「モラトリアム」の人間だという「診断」らしいのだ。 ・・・・もしかすると、そういうところもあるのかもしれないが、しかし、そうであっても、やっぱり、嫌がる女性の体を無理矢理さわる男に加担しろと言われても・・・、やっぱり、できない・・・・。
   (2017.2.16.)

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