小説『カルメン』のすばらしさに劣るオペラ『カルメン』。エスカミリオ「闘牛士の歌」はアホのお手本か?

[第239回]クラシック音楽が好きな人間はインテリぶりたい俗物か?オペラなんて退屈なだけで筋は滅茶苦茶か?【下】
   さて。 大阪府の高校で、橋下徹の友人だという中原徹なる男が、大阪府立和泉高校の校長に裏口入学みたいに就任して、その縁故天下り校長にへつらう教頭だったかが、卒業式で「君が代」を歌っているかどうか「口元チェック」なるものをしてまわった、というのですが、その教頭というのは、教育者としての矜持はドブに捨てたのでしょうか。
   橋下は、「音楽の授業でも、生徒が歌っているかどうか、口元をチェックするでしょ。 歌っていなければ、無理にでも歌わせるものじゃないですか」と発言したのをインターネットで見たが、橋下はそのあたりを勘違いしているように私は思う。

   歌というものは、当人が歌いたくないというものを無理に歌わせるものではないと思うのだ。 「君が代」に限ったことではなく。 「言葉は言霊(ことだま)。 歌は祈り」 。 
   ベルディのオペラ『ラ=トラビアータ(道を踏み外した女)』では、ヴィオレッタが「一度、道を踏み外してしまった者には、どんなに努力しても、神さまは幸せになることをお許しにならないのでしょうか」と歌うアリアがあります。このアリアは、まさしく、祈りのような歌であり、祈りのアリアだと言って良いのではないでしょうか。 このオペラは日本では『椿姫』と訳されてきましたが、もともと、お姫様の話ではないし、「椿姫」という訳は適切な訳とは言い難いでしょう。 このオペラでは「乾杯の歌」とか、あるいは、ヴィオレッタのアリア「ああ、そはかの人か」の方が有名かもしれませんが、私は、このオペラのテーマから考えて、このヴィオレッタが祈りのように歌う「一度、道を踏み外してしまった者には、どんなに努力をしても、神さまは決して幸せになることをお許しにはならないのでしょうか」と歌うこのアリアこそ、このオペラの中心だと思っています。 「乾杯の歌」などというものは、このアリアに比べれば、修飾語のようなものでしかない。
《nicozon 歌劇「椿姫」:第2幕ヴィオレッタとジェルモンのシェーナと二重唱・・》http://www.nicozon.net/player.html?video_id=sm5783055&k=1457860231.0.1.bGYn0uYWqLueByhryLE0bR3FJ2Y.aHR0cDovLzQ5LjIxMi4xNTkuMTgyL3JlZGlyZWN0L2luZGV4Lmh0bWw_dmlkZW9faWQ9c201NzgzMDU1...0
   本来、歌は「祈り」だと思うのです。 祈りである以上、祈りの文句の内容に同意できない者が歌ってもしかたがないことであり、心にないことを口にしたくないと思う者に無理に唱えさせるのは野蛮な行為であり、そのようにして歌わされた歌は音楽でもなければ歌でもない。

   母が行っていたキリスト教会に来られていた方で、自分の今までの人生を考えた時、とても神さまに守られてきたと思えない、祈る気持ちになれないと言って、キリスト教会の礼拝に参加はしても、祈ることはせず、他の人が讃美歌を歌う時も歌わずに黙ってそこにいるという方がおられたと聞きました。 周囲の人は誰も強制はしません。 祈りは本人が納得がいくようになった時に祈るものであり、本人が納得いかないのに祈るものではないはずです。 そして讃美歌であれその他の歌であれ、本人が納得がいった時に歌うものであって、納得のいかない人に無理に歌わせるものではないはずです。 その教会では、礼拝に参加して、いつの日か祈ろうという気持ちになれる時が来るかもしれないと通ってきている人に、本人の判断にまかせ、強制などせずに礼拝に参加していただいているそうです。
   私は北野高校を橋下徹よりも10年少々先に卒業しました。 私が履修した時の音楽の先生と橋下が北野高校に在学した時の音楽の先生とは別人ではないかと思います。 芸術科目は「音楽」「美術」「書道」からどれか1科目を選択でしたから、橋下は音楽を高校では履修しなかったのかもしれませんね。
   私が在学した時、音楽の先生は、音楽などの芸術は実際に芸術として実現できてこそのものであって、理屈がわかっているだけではしかたがないということで、試験は筆記試験はおこなわず、歌の試験とギター(クラシックギター)の試験の2つで採点されていました。 そして、歌の試験については、常に課題を2曲出して、好きな方の歌を選んで歌うというようにされていました。 さらに、過去に課題とした歌など、その2曲以外のもので、どうしても自分はこれを歌いたいという希望があれば、申し出れば、それでも良いことにしてもらえるという可能性も認めておられました。実際には、課題として選ばれた2曲以外の曲を選ぶことはありませんでしたが、1曲ではなく、2曲を課題として、そのどちらかを本人が選んで歌う、というようにされていたのは、歌というものは歌う人間によってその歌に適不適があるので不公平のないようにということもあるかもしれませんが、それよりも、その先生が歌というものは、本人が納得のいく歌を歌うべきであって、本人が良いと思わない歌を強制して歌わせるものではない、と認識しておられたからではないかと私は思っています。

  これは、「君が代」に限ったことではありません。 私が、もしも、今、歌えと言われると、嫌だなあ・・・と思うものとしては、オペラ『カルメン』の中で、闘牛士エスカミリオが歌うアリア「闘牛士の歌」があります。 なぜ、嫌かというと、「アホ丸出し」という感じがするからです。
※「闘牛士の歌」(エスカミリオ)
《YouTube―オペラ"カルメン"より「 闘牛士の歌」 G.ビゼー「諸君の乾杯を喜んで受けよう」秋山隆典 Bizet: Carmen- 》https://www.youtube.com/watch?v=yxGSqk03yoA
《YouTube―福島明也 - 「カルメン」 闘牛士の歌 「諸君の乾杯を喜んで受けよう」 2006 》https://www.youtube.com/watch?v=YfvNf8cIVXA
《YouTube―「ジョルジュ・ビゼー」作曲「カルメン」より『闘牛士の歌』-著作権切れ楽曲-  》https://www.youtube.com/watch?v=abgZ3OkYpQI

   私は、中学生の頃、このアリアを「かっこいい」と思っていたのです。 そして、私が中学生の頃、1970年代前半ですが、テレビで放送されていた山本直純が司会をする「オーケストラがやってきた」という番組で、山本直純が「エスカミリオというのは、闘牛士で、その頃のスペインではスーパースターで、今で言えばプロ野球のスター選手、長嶋みたいなもんですよ。 その長嶋が・・・」という解説をしたのですが、今、考えると、そんなものではないと思うのです。
   落ち着いて考えてみてくださいよ。 オペラ『カルメン』は、カルメン(カルメンシータ)というハスッパな女が、ドン=ホセという軍隊の男に気があるような態度をとって気を引くわけです。 ホセは、カルメンに引かれ、軍隊の規律を破ってカルメンを助け、カルメンの仲間になるものの、カルメンは、そのうち、闘牛士のエスカミリオという男に気が移り、そして、ホセに、もう、あんたなんか愛してないと言って、ホセが贈った指輪を投げつけて返すわけです。 その仕打ちに平常心を失ったホセはカルメンを殺してしまい、嘆くというお話で、エスカミリオが得意がって歌うのが「闘牛士の歌」であるわけです。 アホや! と思いませんか?
   このオペラのストーリーでは、要するに、アホな男2人とアホな女1人のアホ3人の物語でしかない。 もともと、尻の軽い浮気性の女に、ええとしこいて、わからずにはまってしまうアホな男ホセ。 そして、女は、予定通り、飽きたら別の男に色目を使いだす。 ホセの次の男が闘牛士のエスカミリオ。 山本直純が言うところの「長嶋」です。 その「長嶋」が得意がって歌うのがアリア「闘牛士の歌」で、かつては自分に思いを寄せてくれたカルメンが、今は気持ちが他の男エスカミリオに移ってしまったことを嘆き、思いを戻してくれとカルメンに縋りつくものの、「あんたなんか、嫌いよ! なによ、このストーカーが」とか言われたかどうかは知りませんが、冷たくされ、そして、女を刃物で殺す・・・・・て、なんだか、精神的に十分に成熟してない10代から20代前半くらいの純真と言えば純真だが賢明とは言えないにーちゃんの物語・・・みたいですが、それを、オペラではええとしこいたおっさんが演じるので、さらには、「妖艶なカルメン」というのも、けっこうええとしのおばちゃんが演じたりするものですから、余計に違和感を覚えたりもするわけです。 おまえらなあ~あ・・・・・、まあ、自分を好きやあ言うてた女が他の男の方がええと言い出した・・・というのは、気分も悪いかもしれんけれども、だからと言って、そんなところで殺すことないだろうがあ・・・て思いませんか?
   そもそも、ねえ。 世の中、「殺してやりたいくらい」の人間なんて、私なんか最低でも20人以上はいますよ、実際のところ。 でも、殺した人間は幸いにしてというのか、1人もいません。 「殺してやりたいくらい」と「殺す」のとには大きな違いがあるんです。 簡単に殺してどうすんのって。 そう思いませんか?
   さらには。 もしも、自分がホセの立場であったなら。 なんとも、気分の悪い女ではあるけれども、しかし、この調子では、この女、今後も同様のことやるのではないのか・・・・。 そう考えると、ふられたようで気分は悪いけれども、どっちみち、この女はそういう女であって、そういうしょーもない女に入れ込んだ自分がアホやったんや、アホにほれ込んだ自分もアホやったんやあ~あ・・・・と考えるべきではないか・・・と思いませんか?
   カルメンという女については、これはもう、美人か美人でないかなんて関係なく、最初から、ともかく、男の気を引くのが好きなバカ女で、その男と継続的に一緒にやっていこうというのはできないやつ。 男の気を引いて、「わたし、もてるのよお」と人に言いたいというアホ!  だから、そういうアホ女にひっかかってしまったとしたら、自分がアホやったんや・・・と男として考えるべき。 こういうことをやっていたのでは、殺されるに至るかどうかはさておき、こんなことやってる女なんて、いいことないよ! と思いませんか?   職場にもいませんか? 男の気を引くばっかりで真剣につき合おうという気持ちのない女。 また、そのバカ女にひっかかるアホ男もいたりしてからに。 それで、男に、「花束もってきてほしいわあ」とか言って媚びを売るものだから、男の方は女が求めるものだからと思って、花束買って持って行くと、なんだかつれない。 それだけじゃなくて、「困ったわあ。いやあねえ、あんなもの持って追いかけてきて」とか言って、「ストーカー」扱いされたりして・・・。 男の方は女が頼むから持って行ったのに、なぜ、逃げるのか意味不明で理解できなかったりして、それを、また、アホな「総務のおっさん」とかがいて、「女性の味方」になってそのアホ女を守ろうと必死になったりしてからに・・・とか、そういうアホな女とアホな男っていませんか? あなたの職場にも・・・???  総務にもいるでしょ、五流大学卒業してきて「デモシカ総務デモさせておくシカしかたがない」というデモシカ総務の二乗みたいなおっさん。 そういうおっさんて、男の気を引くだけ引きたくてまともにつきあう気なんかないという女には要らなくなった男を追い払うには便利な存在だったりしてからに・・、また、そういう役をやりたがるアホなおっさんもいたりして、ね。 そんな感じ♪
   そして、極めつけが、「長嶋」エスカミリオてヤツ。 かつては、カルメンはホセに、あなたって素敵ねえ、わたしのタイプだわあとか言った・・・かどうかは知らんけれども、そんな感じで求愛しておいて・・・、ホセの方がその気になった! と思うと、肘鉄くらわして、今度は、エスカミリオさん、ステキ! と求める。 そういう女って、いるでしょ、そのへんに。 男たる者、1回くらいはそういう女にしてやられることもあっても、まあ、不思議でもないとしても、何度も何度もやられているようでは、アホちゃうか?!? ということになるわな・・。  ちょっとは学習しろよな! てとこ。 それで、ホセという男がしてやられたわけです。 その軽い女に。 そして、エスカミリオさん、すてきい~い♪ と言ってもらったわけです。 そこで、どう思うか、です。
   私がエスカミリオであったなら。 このホセという男は、自分の将来の姿ではないのか? 自分が今はホセに対して恋の勝者であるかのような感じになっているけれども、もしも、ホセはアホなやつだからふられるが自分は優秀で魅力的だからカルメンは自分を選んだのであり、今後ともカルメンは自分のことを思い続けるはずだ! などとアホなことを思ってカルメンという女とつきあったとしたならば・・・、いつの日か、自分がこのホセという男の立場に立たされることになるのではないか? ・・・・・そう考えませんか? 大人なら。 もちろん、1回くらいなら、だまされて見るのも、まあ、人生は何事も経験や! ということでいいにしてもいいかもしれないけれども、だ。 特に、オペラというのは、ホセもおっさん、カルメンもおばさん、そして、エスカミリオもおっさんが演じることが多いので、おっさんとおばはんと、あんたら3人よって、何をアホなことやってんねん・・・・て感じがしてしまうわけです。
   これ、ふざけて言ってるのじゃないですからね。 オペラ『カルメン』というのは、要するにそういうストーリーでしょ。 違いますか? 
   そして、将来の自分のようなみじめなホセをあざわらうように、得意がってエスカミリオが歌うどうしようもないアホの歌が「闘牛士の歌」であるわけです。
   くっだらねえ~え!  音楽がいいかどうか知らんが、たとえ、どんなに音楽がよくても、そんなくだらんオペラ、どこがええねん! と思いませんか?  だから、私は、中学生の頃は、このオペラ『カルメン』のエスカミリオのアリア「闘牛士の歌」をかっこいいと思ったけれども、今は、かっこいいなんてちっとも思わないのです。 こんなにブサイクな歌はない、これは究極のアホ、至高のバカの歌だと思うわけで、そんな歌なんて歌いたくないわけです。 橋下さん、あなたなら、そんな歌を歌いたいですか?  そんな歌を歌いたくないという人間に、「音楽の授業で、歌わない生徒がいたら強制してでも歌わせるものです」といって、このアホの歌を歌わせたいと思いますか?  いやだよ、こんな歌、私は。


   さて、メリメの小説『カルメン』はどういうものか。 オペラと同じ話なのか異なる話なのか。 メリメ『カルメン』(杉 捷夫 訳 1929年第1刷、2007年改版87刷 岩波文庫)を読み通してみますと、 メリメの小説『カルメン』は、オペラ『カルメン』などとはまったく違った内容のある話なのです。
   まず、ホセはマヌケでもなければアホでもない。 ドン=ホセ(ホセ=ナヴァロ)(ドン=リサラベングヮ)の追想をまん中に挟み、初めと終わりに作者、もしくは作者の分身の記述がある。 作者がスペインのある地方で、案内人が明らかに恐怖を感じている男に出会う。 それが、ホセ=ナヴァロ(ドン=ホセ)であった。 案内人が賞金がかかったホセを売ろうとしたのを、作者(作者の分身?)が助けたことを恩にきて、最後、絞首刑につけられるべくとらえられた時に会った際に、カルメン(カルメンシータ)などとのいきさつを話す。
   ホセはバスク地方出身であったが、ケンカで相手を倒したことから故郷を離れ、騎兵連隊に入るが、そこで伍長にまで出世する。 しかし、セヴィリヤの街でカルメン(カルメンシータ)と出会ってしまう。 工場で女工ともめて相手を傷つけたカルメンは刑事犯として刑務所に入れられることになるが、護送の途中、逃がしてくれるように求められたホセは要求をきいてしまい、そのために、せっかく、伍長までなったものを、大幅に降格させられる。 しかし、ホセは女のためにつくして心から喜んでいたバカではない。 あんな「泥棒女」のためなんかに、と自分で自分を責めている。 罰として監獄に入れられたホセのもとに、パンが届けられ、その中に金貨が入っていた。ホセにはそのようなものを届ける者は思い当たらない。 カルメンが届けたものであろう。 監獄から出て、ホセはカルメンを訪ね、その金を返すと申し出るが、カルメンは受け取らず、「借りを返すよ」として歓待する。 そして、カルメンは「私はなんだか少しお前さんにほれているような気がするんだよ。 しかしつづきっこはなしさ。 犬と狼じゃ長いこといい世帯は作れませんからね。・・・・」と言う。 ホセは後に言う。「あの女の言ったことは本当でした。私は二度とあの女のことを考えない方が賢かったのです。 が・・・・・。 ホセは考えてしまった。 そして、「ボヘミアン」「ヒタノス」「ジプシー」「チゴイネル」「カレ」といった呼び名で呼ばれてきた人たちの女であるカルメン(カルメンシータ)との関りはホセの人生を変え、ホセは、密輸入者・盗賊団の仲間に入る。 密輸入者・盗賊団の頭目はダンカイレという男だったが、ある時、ダンカイレがホセに、仲間が増える、カルメンの夫であるガルシアという片目の男が戻ってくると話し、カルメンが独身だとばかり思っていたホセは驚く。 カルメンはガルシアには夫として対するとともに、ホセにも相変わらず「恋人」のように接する。 ホセはもとからの盗賊ではないので、ガルシアやカルメンが盗みの際に傷ついた仲間を平気で捨てるのに抵抗を感じる。 カルメンはジブラルタルに行き、イギリス人の貴族に取り入り、ジブラルタルからグラナダへ移動する情報を得、そして、連絡を受けに行ったホセに、そのイギリス人は相当に剣の腕が立つから、襲う時には、まず、ガルシア1人に襲わせるようにと言う。 夫であるガルシアをイギリス人の貴族に殺させた上で、そのイギリス人を盗賊団で殺せという指示であるが、ホセはそれを聞いて、この女は悪魔だと思うようになり、また、たとえ、恋敵であっても、そのような方法で仲間を殺すことはできないと考える。 思い悩んだホセは、イギリス人貴族を襲うより前に、ガルシアに決闘を申込み、ガルシアを刺し殺した上、イギリス人を襲う時には、自ら率先して襲って倒す。 しかし、夫ガルシアがいた時には、「恋人」のホセに魅力を感じたカルメンは、ガルシアがいなくなって、「恋人」から「夫」に変わったホセに、かつてほどは魅力を感じなくなってしまう。
   さて、小説『カルメン』を読み進めていくと、オペラ『カルメン』においては、カルメン・ホセとともに主要登場人物である闘牛士エスカミリオは、小説の残りの頁数が少なくなってきたのにいったいいつになったら登場するのかと思いだします。 結論として、「エスカミリオ」という名前の男は最後まで登場しません。 登場するのは、闘牛士の「ルーカス」という男ですが、小説『カルメン』においては、闘牛士ルーカスは脇役の脇役でしかありません。ホセは、カルメンにスペインの土地を離れ、「新世界(アメリカ)」で地道に暮らして行くことを、考えようじゃないかと提案する。 しかし、「こちとらにつりあった運命はね、いいかい、ペイロどもをはいで、おまんまをいただいて行くことさ。・・・」と女は言う。 そして、「私ぁ何べんもコーヒーの煮がらで占っているんだ、私たちは一緒に命をおとす定めなんだよ。」と。 
   闘牛士のルーカス(オペラでは「エスカミリオ」)は、最後の最後に登場するがどういう役回りかというと、ガルシアという夫があったカルメンにとっての「恋人」ではなく、「夫」になり、「夫」として口をききだしたホセに、かつてほどの魅力を感じなくなったと言うカルメンにとっての、新しい「恋人」のような存在。 しかし、ホセにとっては、闘牛士ルーカスなどたいした存在ではなかった。 まず、オペラ『カルメン』においてはない話として、ルーカスはホセも誰も手を下さないうちに、闘牛で失敗して馬と牛に踏みつけられて重傷を負う。ルーカスは命は落とさなかったけれども、相当に腕の立つ盗賊団の主要人物でカルメンの夫であったガルシアも倒し、腕が立ったイギリス人の貴族も倒したホセにとっては、もしも、闘牛士ルーカスがカルメンの新しい「恋人」としてホセの邪魔になったなら、ホセはルーカスを殺して退けることだってできた。 また、ルーカスは、「夫」となったホセにかつてほどは魅力を感じなくなったと言うカルメンが見つけた、どうでもいい男であって、たとえ、ルーカスを斥けても、カルメンはまた他の男を捜し出してくるであろうし、それも、ホセは倒して斥けることはできる。 しかし、それでもまた、カルメンは他の男をたらしこんでくるだろう。 闘牛士ルーカスなんて男は、どうでもいい存在だったのだ。 ホセは十分に理解しており、ルーカスに対して嫉妬心を持ったわけでもない。
   オペラ『カルメン』では、闘牛士エスカミリオが美女カルメンの新しい恋の相手であり、カルメンに捨てられたふられた男ホセがカルメンを殺すということになっているが、小説『カルメン』ではそうではない。 カルメンがどういう女か理解できずにたらしこまれているのは闘牛士ルーカスの方であり、カルメンがどんな女か認識できているのはホセの方である。
   ホセは言う。 「あの野郎(ルーカス)は(怪我が)なおったとしても、生かしておける男じゃない。 だが、考えて見りぁ、奴を何だってうらむことがあるのだ?  おれはもうお前の情人を一々殺すのには、あきあきしている。 今度はおまえを殺す番だ。」と。 そして、生活を変えて、今までのように人を襲って殺し、財産を奪う生活ではなく、スペインを離れ、アメリカに渡って地道に生きて行こうとホセは言うが、カルメンは拒絶する。 カルメンは、ホセからもらった指輪を投げつけるが、それはオペラ『カルメン』で、エスカミリオに気持ちが行ったカルメンに自分の方に気持ちを戻してもらおうと訴えた男ホセにそれをあざわらって投げつけたのとは意味は違う。 カルメンは、この土地を離れ、今までの人を騙し殺して財産を奪う生活を辞めて地道に生きようというホセの訴えを拒絶して、断る意思表示としてホセから贈られた指輪を投げつけたのだ。 カルメンは言う。「いつでもそう思っていたよ。 お前さんが私を殺すだろうってことは、一番初めにお前さんにあった時、うちの戸口のところで坊さんに行きあったのさ。 それから今度は・・・・・」。 ホセは修道者の庵を訪ね、「危ない瀬戸際に立っている者のために、お祈りをあげていただけますでしょうか?」と頼み、最後の最後、カルメンに訴える。「私のカルメン、お前はほんとにおれと一緒に来てくれるのだね?」 カルメンの返事は「わたしは死ぬところまでお前さんについて行きますよ。 それはよござんす。 しかしもうお前と一緒には生きていないから。」と。 「私を殺そうというんだろ、ちゃんと知ってるよ。 ・・・」と。 「おれが泥棒になったり、人殺しになったりしたのは、お前のためだぞ。カルメン! おれのカルメン! おれにお前を救わせてくれ、お前と一緒におれを救わせてくれ。」と言うホセに、「ホセ、お前さんはできない相談を持ちかけているよ。・・・・」と。 ホセはカルメンを殺し、埋葬した後、自ら絞首刑になるために自首をする。
   闘牛士ルーカスは、最後の最後に登場するが、たいした人物ではない。 ホセはルーカスが邪魔ならルーカスを殺して斥けることもできた。 そして、カルメン自身が「わたしはあの男(ルーカス)にほれましたよ。 お前さんにほれたように、一時はね。 たぶんお前さんほどには真剣にほれなかったろうよ。」と言う相手であり、カルメンにとってもそれほどたいした存在ではない。 そして、カルメンは言う。「今では、私は何も愛しているものなんかありはしない。・・・・」と。   
   自首して捕らえられた場所において、ホセは言う。「考えて見れば、かわいそうな女です!」と。 ホセは最後までカルメンを恨んだりはしていない。 ホセが賢明であったかというと、結果を考えると賢明であったとは言えないが、恋敵の闘牛士エスカミリオに女の気持ちが行ってしまったからと、自分を捨てた女を殺したというオペラの話とは小説『カルメン』のホセはまったく違う。  最初に作者、もしくは作者の分身がホセと出会った時、ホセのことを、街道で有名な盗賊ホセ=マリアかと思って、ホセ=マリアをほめたところ、「くだらないやつですよ」とホセ=ナヴァロは言う。 ホセ=マリアは、年中いろいろな女の尻を追い回し、かつ、女房を虐待する男で女房に短刀で一突き食わせたこともある。それとともに、一緒に仕事をした時、うまく立ち回ってもうけは全部ホセ=マリアのところへ行き、仕事の後始末だけ押しつけられた。 そういうホセ=マリアをホセ(ホセ=ナヴァロ)は「くだらないやつですよ」と軽蔑する。 ホセ=ナヴァロは最後の最後、カルメンを殺すが、最後の最後まで、人を襲って殺して財産を奪う生活を離れて地道に生きようと説得を続ける。 結果として、カルメンを殺し、自分も自首をして絞首刑になるのを待つことになるが、女房を虐待し、女の尻を追いかけまくり、そして、仲間にはうまく立ち回って自分だけが得をしようとするホセ=マリアとは自分は違うという矜持を持っている。
   えらいかどうかというと、偉いわけではない。 しかし、ホセ=ナヴァロにしても、カルメンにしても、せいいっぱい生きた結果、一方が他方を殺した上、自分も死を選んで自首するという結末になったという話である。

   ツルゲーネフの『はつ恋』では、最後の頃、何人もの男を取り巻きにしていたジナイーダの取り巻きの1人であったペロヴゾーロフという若い男がカフカ―ズに行ったというものの行方不明だという件について、ルーシンという医者が言う言葉がある。「・・・潮時を見て引揚げること、網を破って抜け出すことが、できないからですよ。 君はどうやら、無事に逃げ出したらしいが、また網に引っかからないように用心しなさいよ。・・・・」と。 男をたらす女、特に「悪い人間」ということではないのかもしれないが、結果として、誰もが幸福にはならない、そういう女と離れられないようになり、そして、「潮時を見て引揚げること」、「網を破って抜け出すこと」ができない男、小説『カルメン』のホセも、結果として、そういう男として人生を送ってしまったということか。 そして、カルメンもまた、そういう女として人生を終えてしまったのか・・・。もっとも、ホセにとって「潮時」とはいつだったのか。 結局、適切な「潮時」というのはなかったのか。
   旧ソ連の映画『ジプシーは空に消える』〔ゴーリキー『マカール=チュードラ』が原作らしい。 ⇒《ロシア映画社アーカイブ― ジプシーは空に消える》http://russiaeigasha.fc2web.com/arc/films/j/jipusiha/index.htm 〕で、ジプシーの女を好きになってしまったロシア人の伯爵だかに、ジプシーの女は、小説『カルメン』でカルメンが言う「犬と狼じゃ長いこといい世帯は作れませんからね。」という文句と似たセリフを口にする。 「鳩と烏が一緒に暮らせるわけないでしょう」と。 映画『ジプシーは空に消える』では、ジプシーの男と女が、好きあいながら、互いに自分が縛られず自由にすることを主張し、自分の方が優越的立場を譲らず、ついには、男が女を刺し殺し、男も女の父親に殺されることになる。 譲ることのできない男と譲ることのできない女が好き会った結果、どちらもが命をおとすことになる。
※《niconico ジプシーは空に消える その5》http://www.nicovideo.jp/watch/sm8279781
   小説『カルメン』には、映画『ジプシーは空に消える』に共通するものも感じられ、又、ツルゲーネフ『はつ恋』に共通するものも感じられる。 偉い人間の話ではないが、オペラ『カルメン』の主要登場人物3人のような「アホな男とアホな女の話」ではなく、小説『カルメン』はオペラ『カルメン』よりも、文学的価値ははるかに高い。 オペラ『カルメン』は、音楽的には優れたものもあるとしても、文学的価値としては、せっかくの小説『カルメン』の良さをつぶしてしまっていると私は思う。 なお、オペラ『カルメン』に登場するホセの許嫁のミカエラという女性は小説『カルメン』では最初から最後までどこにも登場しない。 小説『カルメン』におけるホセは偉いわけではなく、賢明でもなかったであろうけれども、少なくとも、オペラ『カルメン』のホセのような「ただのアホ」ではない。


   自分が歌うのも人の演奏を視聴するのも、あまり気が進まないものとして、オペラでは、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』があります。 あれは、日本を舞台とするオペラだからという理由で、積極的に演奏したいという演奏者がいるようですが、それは逆ではないのかと私は思うのです。 どう考えても、あれは日本人を馬鹿にしていると思う。プッチーニのオペラ『トゥーランドット』は中国を舞台だとするが、カラフが自分の名前をあてよと言う話などは、グリム童話にも小人が自分の名前をあてることができれば言うことをきいてやろうと言う話があったりするように、名前あてはドイツから北欧の方の話によくあることで、そのあたりは中国由来の話ではないように思う。ヨーロッパから中国や日本に簡単に行き来できない時代に、中国や日本などの東洋に関心を持ったプッチーニが不十分な知識のもとに作曲したオペラであるということで、やむをえないところもあるかもしれないが、オペラ『蝶々夫人』は、部分部分において音楽的に優れたものもあるかもしれないが、日本人を馬鹿にした「国恥オペラ」とでもいうようなところがあると思う。
   日本では、年末にヘンデルのオラトリオ『メサイヤ』とベートーベンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏されることが多く、バッハのオラトリオ『マタイ受難曲』は4月頃に演奏されることが多いようだ。『メサイヤ』はキリストの生誕を語るオラトリオであり、イエス=キリストが生まれたのが12月25日とされることからで、『マタイ受難曲』が4月頃に演奏されるのが多いのは、キリストが十字架につけられたのが4月頃と言われているためらしい。ベートーベンの第9はどうかというと、特に理由はないようだ。 年末に、今年、最後に、ある程度、有名な曲で、ある程度長い曲を1つ聴いておしまいにしようという気持ちになった時、ベートーベンの第9が選ばれるということがあるのだろうけれども、ある時、そう思う人がいたとしても悪くはないと思うが、猫も杓子も第九というのはおかしいような気がするし、年末に第九を聴かなければならないとされるような風潮は、自主性の欠如、独立自尊の精神の欠如とでもいうようなものが感じられ、ファッショ的傾向すら感じられ、いいと思えないと思っていたら、NHK交響楽団の常任指揮者だった岩城宏之氏が、年末にはベートーベンの第九の指揮はしないことにしている、と新聞で述べていたのを見た。私と同様のことを思う人がいたようで、岩城宏之はさすがだなと思った。 (1980年代前半、FM東京の「スイッチオンクラシック」という番組で「お耳の恋人 野田秀樹」が「学校の下校時間にドボルジャークの交響曲第9番「新世界より」の第2楽章「家路」〔⇒《YouTube―ドヴォルザーク : 交響曲第9番 『新世界より』 第2楽章 》https://www.youtube.com/watch?v=OKk452lb5T8 〕を最初にかけた人と最初に運動会でオッフェンバックの『天国と地獄』の「カンカンから幕切れまで」〔⇒《YouTube―オッフエンバック作曲・喜歌劇「天国と地獄よりカンカン」 》https://www.youtube.com/watch?v=IYTt4EFWYyI 〕をかけた人というのは偉いと思います。今、聴くとうんざりしますけれども」と話していたのを覚えていますが、私もそう思います。ベートーベンの第九も年末に演奏して絶対に悪いというわけではありませんが、人が演奏するから自分もというような態度はいかがなものかと思います。) 「君が代」に限らず、歌にせよ管弦楽にせよ、何らかの理由で気が進まないという人に強制するようなことは野蛮な行為であり、良いとは思えない。
〔 かつて、何度も聴いたFM東京の「お耳の恋人 野田秀樹」の「スイッチオンクラシック」を覚えている人はもういないかと思って、インテ―ネットで検索すると、《NAGIの小箱 「懐かしき原点 スイッチオンクラシック」》http://nagibox.air-nifty.com/nagi/2010/09/switch-on-class.html として書いている方がおられました。 自分と同じように、あの番組を聴いていた人がいたのだと、懐かしく思いました。〕

☆ 今回の《小説『カルメン』のすばらしさに劣るオペラ『カルメン』。 エスカミリオ「闘牛士の歌」はアホのお手本?―クラシック音楽が好きな人間はインテリぶりたい俗物か?オペラなんて退屈なだけで筋は滅茶苦茶か?【下】》 は、前回、[第238回]《クラシック音楽が好きな人間はインテリぶりたい俗物か?オペラなんて退屈なだけで筋は滅茶苦茶か?【上】》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201603article_3.html  と2回セットで作成した。 前回と合わせて見ていただくことを希望する。

※「ハバネラ」(カルメン)
《YouTube―ビゼー 《カルメン》 「ハバネラ」マリア・カラス》 https://www.youtube.com/watch?v=cqbuPbCpOdo
《YouTube―Elina Garanca "Habanera" Carmen 》https://www.youtube.com/watch?v=jGFUKsv1epk

  (2016.3.12.) 


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