正月が来れば思い出すこと。失った数字合わせゲーム。なぜか、貧乏な家庭の息子が工学部に行った・・・
[第235回]
私が幼稚園に行っていたのは、1960年代の半ばでした。 その頃、住んでいた大阪市東住吉区の住居の近所には、幼稚園はカトリックの幼稚園と生長の家が経営するらしい幼稚園の2つがあり、私はカトリックの方の幼稚園に行っていました。 最近は3年保育の幼稚園の方が多くなってきているようですが、その頃は2年保育が普通で、3年行く人もたまにありましたが私が行った幼稚園ではそういう人は「年少組」を2回やっていました。
私は2年保育で行きましたので、「年少組」「年長組」の2回、クリスマスを体験しました。 どちらの時だったか、クリスマスに、先生が、「幼稚園から、皆さんにプレゼントがあります」と言って、数字合わせゲームをもらいました。 それは、7センチ四方くらいのプラスチックの箱に、1から15までの数字が記入された小さい正方形が入ったもので、4個×4個なら16個ですが、それより1つ少ない15個のコマがあって、1つだけ空きスペースがあり、最初、ランダムに入った数字をひとつひとつ動かして、1~15を整列させる、もしくは、横に1~15が並んでいる状態から縦に1~15が並んでいる状態に変えるということをして遊べるもので、算数・数学の基礎を学ぶような学習ゲームだったのでしょう。
私には姉が2人ありましたが、上の方の姉も幼稚園で色とデザインが違う同じものをもらったようでしたが、下の方の姉も幼稚園に行っていましたが下の姉はそのゲームは幼稚園ではもらわなかったようです。
正月の2日目だったでしょうか。 父の弟夫婦とその子であるいとこ、私より1つ年上の女と私よりひとつ年下の男のいとこが来ました。 一緒に遊びなさいと言われて遊んだのはいいのですが、帰りになって、そのいとこの姉弟が、私がその10日ほど前に幼稚園でもらってきたばかりの数字合わせゲームを、「それもらって帰る」と言い出したらしいのです。 「らしい」というのは、私が直接にいとこから聞いたのではないからです。 誰から言われたかというと、母から言われたのです。 「それをあの子らにあげなさい」と。 私は母の言うことが信じられなかった。幼稚園でもらってまだ10日ほどしか経たないものを、それをよその子にあげなさいとは、よくそういうことを言うと思いました。
私だって、幼稚園の同級生の家に遊びに行くと、自分が持っていないおもちゃを同級生が持っているということはいくらでもありました。 しかし、そういう時に、それを欲しいなどと言ったことはないし、人が持っているものを欲しいなどと言ったら、親からえらい怒られたものです。私がよその子が持っているものを欲しいと言ったら怒るくせに、いとこが私が持っているものを「欲しい」ではなく「もらって帰る」と言ったら、「それをあの子らにあげなさい」と母は言ったのです。 それも、まだ、幼稚園でもらって10日ほどしか経たないものを。
「あげなさい」と言った「論拠」として、上の姉が幼稚園で色とデザインが違うが機能は同じゲームをもらってきていたということがあり、母が「これをあの子らにあげなさい」と言った時、母の言うことがとうてい信じられず、「嫌や」と私が言うと、母は「それなら、こっちをあげなさい」と言って姉が幼稚園でもらってきたものをいとこにやれと言ったのです。 その時、姉は家にいませんでした。 私は「それは、おねえちゃんのや」と言いました。すると、母は「それなら、こっちをあげなさい」と言って、私が幼稚園でもらってきて10日ほどしか経たないものの方をいとこにあげろと言うのです。 私はとうてい母の言うことが理解できず、正気か? と思って、「それ、幼稚園でクリスマスにもらって、まだ10日ほどしか経たないんやで」と言いました。すると、「それなら、こっちをあげなさい」と姉が幼稚園でもらってきたものを見せるのです。 私は「それはお姉ちゃんのや。 お姉ちゃんにきいて」と言いましたが、「あんたは2つ要らないでしょ」と言うのです。 だから、私は「ぼくがもらったのは1つや。もう1つはお姉ちゃんのや。だから、お姉ちゃんにきいて」と言いました。 たしかに、姉はもう大きくなっていて、そういうゲームをして遊ぶ年齢は過ぎていましたが、だからといって、自分の物でない物をひとにあげるなどということをして良いわけはありません。 姉は、弟がそれを使って遊ぶのなら貸してくれましたが、よその子にあげてよいとは言っていませんし、姉は、もうそのゲームを使って遊ぶ年齢を過ぎていたとはいえ、自分が幼稚園でもらってかつて遊んだゲームに思い入れもあるでしょうし、そのうち、結婚して子供ができれば自分の子に使わせたいという気持ちもあるかもしれません。 私は、その時、外出していた姉の為に、何としても姉の物を守らなければならないと思いました。
幼稚園の同級生の家に私が遊びに行ったとき、幼稚園の同級生が私の家に遊びに来た時、私が持っていないおもちゃを同級生が持っていることもあれば、逆もありますが、私は私が持っていないおもちゃを同級生が持っていてもそれを欲しいとは言わなかったし、よその家に行って自分が持っていないおもちゃをよその子が持っていたからといってそれを欲しいなどと言おうものならずいぶんと怒られたものです。 私がよその子が持っているものを欲しいなどと言おうものなら激怒する母が、いとこが私が持っているものと姉のものを「欲しい」ではなく「もらって帰る」などと言いだすと、「それをあげなさい」などと言いだしたということが信じられませんでした。
母は「どっちをあげるか、どっちか選びなさい」と言うのですが、「どっちかと言ったって、そっちはおねえちゃんのやから、お姉ちゃんに聞いて」と私は言ったのです。 そうすると、母は「それなら、こっちをあげるんやな」と私が幼稚園でもらってきたばかりのものをあげなさいと言うのです。 母の言うことが、とうてい、信じられませんでした。
私は「それは、幼稚園でクリスマスにもらってきたばっかりやで」と言うと、母は「わかった。それなら、こっちをあげなさい」と言って姉が幼稚園でもらってきたものの方を持って、「あかん。それはおねえちゃんのや。あかん」と追いすがる私を無視して、姉が幼稚園でもらってきたものの方を私が許可したということにしていとこの姉弟にやりました。なんとも、嫌な思い出でした。
母は「あの子たちは、あんたなんかと違って、何でも買ってもらえない子なんだから」と、その時、言ったので、そのいとこ、叔父夫婦はよっぽど貧乏でかわいそうな家庭なんだなと、その時、思ったのです。 しかし、家が貧乏であるかということと子供がおもちゃをいろいろと買ってもらえるかどうかとは同じではありません。 その時、我が家は決して豪邸ではありませんが、ともかく、一戸建ての持ち家に住んでいましたが、借家・アパート住まいの人もありました。 借家・アパート住まいの家庭の子の方が子供が欲しいというものを買ってもらえないとは限りません。 すぐ近所に、本当に粗末なアパートがあって、うちの親は一方で「誰とでも区別なく遊びなさい」と言いながら、他方において「◇◇アパートの子とは遊んではいかん」などと言い、いったい、どっちなんだよ、と子供としては困ってしまったことがあったのですが、その地域に2つあった幼稚園では、カトリックの方の幼稚園の方が「どちらかと言えば」でしたが「ええとこの子」の行く幼稚園で、生長の家の経営する幼稚園の方がそうでない方の幼稚園でしたので、カトリックの幼稚園の同級生ではその粗末な◇◇アパートに住んでいる同級生はいませんでしたが、公立の小学校に行くと、誰もが同じ小学校に行きますから、その◇◇アパートに住んでいる同級生もおり、そこの家に行くと、その同級生は私なんかよりもはるかにいろいろなものを買ってもらっていました。
いとこの姉弟のことを「あの子たちは、あんたみたいにいろいろと買ってもらえない子なんだから」と母が言うので、その粗末な◇◇アパートの住人の子の同級生よりはるかに買ってもらえない私よりもまだ買ってもらえないいとこの親、父の弟の叔父夫婦はこれより下はないという世の中で最下層の人なんだなと、その時、思ったのです。 叔父は、その後、健康を損ない働けなくなってしまったようで、それで、私は、いとこの姉弟はお父さんが体を悪くして働きにいけない気の毒な家庭の子なんだなとその時は思ったのです。 ところが、その時はそう思ったのですが、最近になって母から聞くと、叔父が体を悪くしてしまったのはそれより後で、その時は元気で、しかも、会社でも順調に出世しつつあった時で、給料もけっこうもらっていて、住んでいる家も「公団」に住んでいたのですが、私は、私が幼稚園でもらってきたばかりのものをそこの家の子にあげないといけないくらいかわいそうな気の毒な家なのだから、それで、公営のアパートに住んでいるのだろうと思い込んでいたのですが、「公団」には賃貸の公団と分譲の公団があって、叔父夫婦といとこが住んでいた公団は分譲の公団で、一戸建てではないが持ち家だったらしいのです。 持ち家に住んでいて、かつ、叔父も父より若いので年功序列・年齢序列の賃金制度があった時代ですからその分だけ父より給料は低かったかもしれないけれども、決してそんなに悪い給料ではなかったらしいのです。 それなら、なんで、私が幼稚園でもらってきたばかりのものをあげないといけないのか。
要するに、金持ちか貧乏か、いろいろと買ってもらえる家庭だったか買ってもらえない家庭だったかという問題ではなく、いとこはそういう教育を受けてきた子だったのです。 よその家に行ったら、何をもらって帰るか俊敏に見て判断して要求するように教育されてきた子で、叔父夫婦はそういうのが良いと思う家庭だったようです。 私の方は、よその家に行って、よその子が自分が持っていないものを持っていても、それを欲しがったりしてはいけませんと教えられてきたので、よその家に行って自分が持っていない物をよその子が持っていても、よそはよそ、うちはうちと言われ、そういうものだと思って来たのですが、いとこはそうではなく、よその家に行ったら、どれをもらって帰るか俊敏に把握するように教育されてきたようでした。 どちらの教育が良いかといっても、それは結論は出ないでしょうけれども、我が家の悲しいところは、私の親は私には、よその家に行ってよその子が持っているもので自分が持っていない物があっても欲しがったりしてはいけませんと教育しておきながら、よその子が私が持っている物を欲しがると、普通なら、「あの子は教育がなってないね」とでも言うところかと思うのですが、そうではなく、「あの子はあんたと違って積極的や」とか言い出すのです。 それなら、私もそうすればよいのかと思って、それからそういうやり方を真似ると、今度は怒られるのです。 おそらく、母は気が弱いので、よその親からそういう態度をとられた時に勝てないのだと思います。 それで、私が悪いことにしたのでしょう。 しかし、やっぱり、よその家に行ってよその子が持っている物で自分が持っていない物があっても、だからと言ってそれ欲しいなどとそこで行ってはいけない、と教えるものだと思っていたのです。
母は、「それは、あんたがもらったのじゃないでしょう。 親が幼稚園にお金を払っているから幼稚園が渡したのであって、幼稚園はあんたにあげたのと違って親がお金を払っているから親に渡したのでしょう」とも言ったのですが、そうであるなら、幼稚園の先生が間違っていると思います。 「幼稚園から、皆さんにクリスマスのプレゼントがあります」などと言って渡すから、だから、幼稚園児は「自分がもらった」と勘違いしてしまったのです。そうではなく、「幼稚園からお父さんお母さんに渡してほしいものがあります。これは皆さんにあげるのではありません。お父さんお母さんに渡してもらうものです」と言って渡せば、自分がもらったと勘違いしたりせずに、そのまま親に「はい」と言って手渡しておしまいで、親が幼稚園から受け取ったものを親がいとこにあげようがどうしようが、どうってことなかったのです。 幼稚園の先生の渡し方が間違っていたということでしょうか。
その時、父は何をしていたか。 私が父親の立場なら、弟に言いますね。 「おまえは、子供にあんまり良い教育をしていないな」と。 「うちの子が持っている物をおまえの子が欲しいのなら、おまえが買ってやれよ。おまえが買ってやればよいことと違うのか」と。 私が父親の立場なら弟(私から見て叔父)に言いますね。 ところが、父はそういうことを言わない人だったのです。
最近、この話を母にすると、90歳を過ぎた母は、クリスマスに幼稚園児がもらってきたばかりのものを正月によその子にやれと言ったというのが、かわいそうだと泣くのです。 しかし、今、泣くのなら、どうして、私が幼稚園児だった時に、クリスマスにもらってきたばかりの物をいとこに「それをあの子にあげなさい」などと言うのでしょうか。
推測として、父が「いいかっこ」しようとした、という可能性が考えられます。 私が子供の頃、母は父に逆らえない人でした。 私の家庭は特別に金持ちではなかったけれども特別に貧乏というわけでもなかったと思います。 ちょうど真ん中より上か下かわかりませんが、一番上でないのは間違いなく一番下でもなかったと思います。 しかし、私の家庭より貧乏な家の子と比較しても、私はいろいろと買ってもらえる方か買ってもらえない方かというと、間違いなく買ってもらえない方でした。 上に述べた近所にあった粗末な◇◇アパートの住人の子でも、私よりはるかにいろいろと買ってもらっていろいろと持っていました。 もちろん、何でも買うのが子供のために良いというわけでもなく、買えるお金があっても、あまりにも贅沢なものは買わない方が子供のためになる場合もあるし、子供の遊具としてはふさわしくないと親が思ったならば、たとえ、よその子が持っていても買わない方がよいという場合もあるでしょう。 また、世の中には貧乏なくせに、なんでも買う親というのもいます。 それは良くないという見方もあるかもしれませんが、貧乏だからこそ、子供に情けない思いをさせたくないという気持ちで買っているのかもしれませんし、いちがいにどうと言えないところがあります。 いずれにせよ、我が家は、金持ちか貧乏かというと、特別の金持ちではないが最下層の貧乏でもないという家庭だったと思うのですが、我が家より貧乏な家庭と比較しても、私は欲しいと言う物をあまり買ってもらえない子供、我が家は子供が欲しいと言う物を買わない家庭でした。 ところが、父は「ええかっこしい」なところがあったのです。 これは、その時は気づいておらず、後に気づいたのです。
私は父から殴られたことはないのですが、姉は「お父さんに逆らったら殴られるから怖かった」と言うのです。 なぜ、息子は殴らないが娘は殴るのかというと、それは父が「九州男児」だったからでしょう。 「なんで、女を殴ったらいかんのや」と父が言っていたことがあります。 「戦後民主主義」の教育を受けて育った私には理解できない発想でした。 特に、小学校の1年から2年の担任の先生がクリスチャンの人だったこともあり、その先生が「男の子が男の子を殴るのであっても、暴力は良くない。 しかし、女の子は男の子よりも力が弱いのだから、力が強い者が力が弱い者を殴るというのは卑怯だ。 だから、男の子が男の子を殴るのも良くないけれども、男が女を殴るのはそれ以上に良くない」と言われたもので、そういうものだと思っていたのです。(もっとも。最近、道で下校途中の小学生を見ると、男の子と女の子が殴り合いだかつかみ合いだかして、しかも、女の子が勝っていたりするのを見かけることがあります。必ずしも、「女の子」は弱いとも決まっていないようです。 男性は「女性は弱い」と思っているのですが、実は、けっこう、女性は強かったりします。) しかし、九州男児の発想はそうではなく、「なんで、女を殴ったらいかんのや」というものだったようです。
そういう父で、母は父に逆らうことができない人間だった。 そして、父は「ええかっこ」をしたかったようで、いとこの姉弟は、私と逆に、よその家に行ったら何をもらって帰るか俊敏に見て判断し要求するように教育されてきた姉弟だったわけで、その2つが合わさった結果、父は、私が持っている物を叔父夫婦の子にあげることで、「うちは、息子には、何でも何でも欲しいものは買ってやってやってやってやあってやってあげてやってるんだ」というところを見せたかったのでしょう。実際はちっともそんなことないのに。
母は父とは違って、うちは、よその家と比較して、決して子供に子供が欲しがるものを多く買っていないということを母はわかっていたようです。 父はわかっていなかったのではなく、わかっていて「ええかっこ」したがる男だったのです。 だから、私が幼稚園でもらってきたばかりのものを「それをあの子にあげなさい」と指示したのでしょう。 うちはそんなもん、いくらでも何でも何でも買ってやってやってやってやあってやってやってあげてあげてやあってやってやってるんだ、と見せようとして。 母は父の指示にしたがって、それで、私が幼稚園でクリスマスにもらって来たばかりの物を、「これをあの子たちにあげなさい」と言ったのでしょう。
90歳を過ぎた母にこの話をして泣かせてもしかたがないのですが、しかし、やっぱり、今、泣くのなら、どうして、その時に、「これをあの子たちにあげなさい」などと言ったのか。 クリスマスに幼稚園でもらってきたばかりのものをいとこにやれなどと親から言われた人間は私以外にあんまりないのではないでしょうか。
幼稚園で紙芝居を先生にやってもらい、その後しばらく、同級生の家に行くと、百貨店のおもちゃ売り場で売られている紙芝居を持っている同級生がいました。 親が大丸に買い物に行く時についていくと、おもちゃ売り場で紙芝居が売られているのを見ましたが、欲しいと言っても私は買ってもらえませんでした。 近所にアイスクリームを売っている店があり、その当時、10円のものと20円のものが売られていましたが、私は10円のものは何度も買ってもらったことがありますが、一度でいいから20円のものを食べてみたいと思いましたが、最後まで20円のものは一度も買ってもらえませんでした。 幼稚園だったか小学校だったかの同級生に、よそも同じようなものだろうと思って、「一度でいいから、20円のアイスクリームを食べてみたいなあ」と言うと、「なんでえ。 ぼくら、そんなもん、何度も食べたでえ~え」と言われたことがあります。 市場の八百屋だか果物屋だかに果物がならんでいて、ぶどうは種無しのデラウェアと巨砲は食べさせてもらいましたが、黄緑の色をしたマスカットは色がきれいで一度食べてみたいと思っていましたが、「いけません」と母に言われて一度も食べさせてもらうことはありませんでしたが、これも、同級生に「一度、あの黄緑の色のぶどうを食べてみたいなあ」と言うと、「なんでえ。ぼく、そんなん、何度も食べたでえ」と言われました。 その頃、テレビで『三匹の侍』というドラマが放映されていて、けっこうそれが好きだったのですが(今、考えると、「ええもん」と「わるもん」の戦いというワンパターンでたいして面白い筋でもないのですが、そのころは、子供にはチャンバラが面白く感じたようです)、百貨店のおもちゃ売り場では、プラスチック製の刀と金属製の刀が売られており、どう見たって金属製の刀の方が「本物っぽい」感じがして魅力的で、同級生で金属製の刀を買ってもらって持っている人間が何人もいましたが、私はプラスチック製の刀を買ったもらって持っていましたが金属製の物は買ってもらえませんでした。 これなどは、私が親でも、たとえ、金銭的には買えたとしても、子供には金属製の刀は買わない方がよいのではないかと思います。たとえ、刃がついていなくても金属製の刀は危ないですから。 むしろ、プラスチック製の刀では物足らないように子供が思うなら、金属製のおもちゃの刀を買うくらいなら、竹刀を買って剣道でも習わせてやった方がよいと思います。 我が家は、特別に金持ちではないが最下層の貧乏でもなかったように思うのですが、よその子が買ってもらって持っている物で私が買ってもらえない物は相当ありました。 しかし、よそはよそ、うちはうちなんだと思い、何でも買ってもらえるのがよいというものでもないとも言われ、そう思っていました。
しかし・・・・。 20歳になった時、父は、「○○には、よそと違って、欲しいというものはどんなもんでも、何でも何でもどんなもんでも、ええもんばっかり買ってやってやってやってやってきたから」とよその人間に言うので、「そんなことないよ」と憤慨して言ったところ、父は何と言ったでしょうか。 「そりぁ、びょーきと違うかあ。びょーきやから、よそと違って何でも何でも何でもええもんばっかり買ってきてもらってもらってやってやってやってやあっていただいてもらってもらってきたのにわからんのや。 びょーきやわ、これは」と。 そう言いやがったんです。父は。 おまえがビョーキだろうが、「ほとんどビョーキ」じゃなく、完全にビョーキだろうが、おまえの方がと思いました。
小学校の5年の時に近視になって眼鏡を作りましたが、最初に作った時は、母と一緒に百貨店の眼鏡売り場に行ったので、母は、できるだけ近視が進行しないようにと、フレームは「普通の物」でもレンズは「比較的良いもの」を買うようにしました。しかし、近視が進行して次に作り変える時、父と一緒に行くと、父は「安いのんでええ。安いのん。どうせ、すぐ悪なるねん。安いのん。やふいのん、やふ~ういのん」と言って一番安いレンズを買いました。 その「やふいのん、やふいのん、やふ~ういのん」という言い方がなんとも嫌でした。
母は、そのあたりはわかっていたようで、なにより、私が生まれるより前、結婚してすぐの頃、給料が安くて苦労したということを言い、そして、結婚して最初のボーナスの時、これでなんとかやっていけると思ったところ、父は家計のやりくりなんかおかまいなしにそのボーナスでバイオリンを買ってきたので、ショックだったということを話します。 「あの人、子供にいいものばっかりなんでも買ってきたなんてよく言うわ」と母は言い、父が言う「あんたには、よそと違って、欲しいというものはどんなもんでも何でも何でもええもんばっかり買ってきてやってやってやあってやって・・・」とか言うのはとんでもない大嘘だということを知っています。 但し、父の言う大嘘を聞いた人間がそれを本気にしているということは知らなかったようです。
母は、「親というものは、子供が大学に行く時に、子供が行きたいと思うところに行かせてやりたいと思うから、無理にでも小さい頃から勉強させようとするものなんだ」と言っていました。 それで、私はそれを本気にしてしまったのです。 だから、たとえば、スポーツ選手になりたいとか絵描きになりたいとか音楽家になりたいとかいうなら反対されるかもしれないけれども、そうでない限り、行きたい大学の行きたい学部に行かせてもらい、就きたい仕事に就かせてもらえるものだろうと思って来たのです。高校の途中までは。
ところが、大学に進学する頃になると、それまでと言うことが正反対になったのです。 父が言うには、「うちは学校の先生なんかならせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは、大学院なんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな。」「うちは、工学部なんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは医学部なんか行かすような金持ちとは違います。6年行く学部ではなく4年で卒業できる学部にしなさい」「マスコミに勤めるなら産経新聞にしなさい。朝日はアカやからいかん。毎日もアカやからいかん。産経かNHKでないといかん」「学校の先生にならせるような金持ちとは違うが、たとえ、学校の先生になるにしても、数学か英語の先生でないといかん。社会科とか理科の先生はなったらいかん。英語か数学の先生でないと副業で家庭教師ができんから。」「うちは司法試験なんか受けさせるような金持ちとは違います」「哲学科はきちがいが行くものだ。」「宗教はアヘンだとマルクスが言うとるとM先生(父の親友の「医者」)がおっしゃってる。」「宗教哲学なんて勉強するやつはアカだ」「学校の先生と新聞記者は全員、アカだ」「国家公務員は転勤が多いからいかん」・・・とそういったことを無制限に言い出したのです。 それで、「わしは、あんたに、こういう学部に行かんといかんとか、こういう職業につかんといかんとか言うようなことは一切言わん人間やねん。わしは、あくまで、本人がやりたいようにさせてやりたいという人間やねん」とか言っていたのです。 「あくまで本人がやりたいようにさせてやりたいという人間やねん」といっても、一方で「司法試験はいかん」「学校の先生はいかん」「大学院はいかん」「大学の教授助教授なんかならせるような金持ちとは違います」「マスコミは産経かNHKでないといかん」「工学部なんか行かすような金持ちと違います」・・・と制約を加えられたのでは、結果として、「てってこっこてってぇって、らったらったらったらあ~あ♪」「会社のために犠牲にな~る」「撃ちてしやまん、一億火の玉」「木口小平は死んでもラッパをはなちまちぇんでちたあ~あ」「とってちってたあ~!」の学部、即ち、経済学部・商学部・経営学部しか残らないことになります。 但し、経済学部でも「京大はアカやから」とか言うのです。 父が一番好きなのは、慶應の経済と神戸大の経済という日本の二大ブタ商人学部、ブタ商人大学です。 父は、「もしも、もう一度、生まれ変わってくるなら、その時は、わしは岩城宏之さんのようなオーケストラの指揮者になる。 ちゃんちゃんちゃん、ちゃちゃちゃちゃちゃ、ちゃんちきちゃんちきちゃんちきちゃんちき♪」とか言っていたので〔《YouTube-Shostakovich Symphony No. 5 in D minor, mov. I, Conductor: Hiroyuki Iwaki 》https://www.youtube.com/watch?v=dbJ51NKlE2Y 〕、自分が岩城宏之のような音楽家になりたいというのなら、私がそういう方向に進みたいと思ったとしても、認めてくれるのではないのかと思った時もあったのですが、「岩城宏之さんのようになる」というのはあくまで自分が生まれ変わることがあったらなりたいということであって、私がなりたいと言った時に応援しようという気持ちはさらさらなかったようです。
せっかく小学校の1年から真面目に努力して勉強してきたのに、なんで、「右手に日経、左手にエロ本」みたいなブタ商人学部に、中曽根臨教審の委員をやって「教育勅語のようなもの」を復活させようと主張する男が塾長している右翼反動の大学に行かされなければならないのかと思いましたが、結局、行かされてしまいました。 そんな大学、卒業したくなかったのですが、4年になって、合同就職説明会とかで他の大学の学生を見たりすると、「小学校から高校まで、ちいっとも勉強せんと、あつかましくも名前と受験番号さえ書けば合格できる『大学』に行ったようなやつ」が、「同じ大学なのに大学によって差別されるのはおかしい」とか大威張りで言うので、あほくさ、こんなやつでも「大卒」になるのなら、慶應でもどこでもいいから卒業して「大卒」になってやらないとあほくさいわ、と思って、嫌で嫌でしかたがない大学・学部でしたが、ともかく、卒業しました。 慶應の経済学部・商学部の出身者には実際に知性と良識のない「ブタ商人」みたいな人もいるかもしれないけれども、一方で、「中卒」を自慢にしている経営者などを見ると、慶應の経済学部・商学部あたりで学んできた者とは差があるのは明らかで、また、かつての慶應の塾長である小泉信三などは経済学者でもマルクス経済学者ではなく近代経済学の方の人ですが「ブタ商人」で良いなどとは言っていないわけであり、「これからの商人は、単に商いができるという人間ではなく、商人であるとともに学識のある学者商人でないといけない」という主張をしたのは誰かというと、慶應義塾の創始者である福沢諭吉であったはずで、慶應は「右手に日経、左手にエロ本」というブタ商人大学・ブタ商人学部という性格もないではないのですが、そうでない面もないわけではなかったのですが、何にしても、私が親であったなら、小学校からずっと、「本人が行きたいと思う所に行かせてやりたいと思うから、無理にでも勉強させようと親はするんだ」と言ってきておいて、実際に大学に進学する時になると、「てってこっこてっててってらったらったらったらあ~あ♪」「会社のために、犠牲にな~る! 犠牲になりたいなりたいなりたいという気持ちいい~い!」とかいう話になるというのは、私が親なら、いくらなんでも、それはかわいそうすぎると思うのですが、私の父は、どうも、「無理矢理やるのが好きなタイプ」らしく、息子が嫌がれば嫌がるほど、嫌がる方向に行かせたいという気持ちになる男だったようです。
父は、私に「うちは工学部なんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言ったのですが、その割に、ものすごい貧乏でものすごいかわいそうな家庭の息子だったはずのいとこ、父の弟の息子、私が幼稚園でクリスマスにもらってきたばかりの数字合わせゲームを、正月に「それ、もらって帰る」と言って持って帰った姉弟の弟の方は、京都工芸繊維大学しか行けないアホのくせに、工学部に行ったのです。 なんで? なんでやのん? なんで、世界で一番貧乏で世界で一番かわいそうな家庭の息子が、京都工繊大しか行けないのに工学部に行かせてもらえるのん? おかしいやんか。 なんでやのん・・・と思いました。 そして、それを言いました。 すると、母は、「あの子らは、家が貧乏で苦労をしてきているから、だから、大学くらい行きたいと思うところに行かせてもらえるんやわ」・・・。母はそう言ったのです。 ・・そうだろうか・・・・。
たしかに、我が家と叔父夫婦の家なら我が家の方が豪邸ではないとしても良い家に住んでいました。しかし、だからと言って、私が特別に贅沢な生活をさせてもらったかというとそんなことはありません。 むしろ、よその子が買ってもらえているものを買ってもらえないということが多かったのです。 それは、金持ちか貧乏かの問題ではなく、そういった「遊びの物」は節約して、そのかわりに、大学に行く時には行きたい大学の行きたい学部に行けるようにして、就きたい仕事につけるように、ということだったはずです。 ところが、そうやってきたはずなのに、私が大学に進学する時になると、「うちは文学部なんか行かすような金持ちとは違います」「うちは工学部なんか行かすような金持ちとは違います」「うちは医学部なんか行かすような金持ちとは違います。4年で卒業できる学部にしなさい」「うちは司法試験なんか受けさせるような金持ちとは違います」「うちは大学院なんか行かすような金持ちとは違います」「うちは学校の先生なんかならすような金持ちとは違います」「マスコミに勤めるなら産経新聞でないといかん。朝日はアカやからいかん。毎日もアカやからいかん」「国家公務員は転勤が多いからなってはいかん」「会社のために犠牲にな~る、撃ちてしやまん。とってちってたあ~あ!」とかいうことになったのです。「てってこっこてってえ~え♪ てってこっこてっててえ~え♪ てってこっこてっててってらったらったらったらあ~あ♪」とか言う大学学部以外には行けないようになってしまったのです。
もしも、家が貧乏であったなら工学部に行かせてもらえるのなら、貧乏な家の人間は間違いなく絶対に得だ! と思いました。 そして、気づいたのです。 いとこは「子供の頃から家が貧乏で苦労してきたから、だから、工学部に行かせてもらえるんや」と母は言うのですが、「子供の頃」、幼稚園でクリスマスにもらったばっかりの物を正月に取り上げられたのは私で、私がクリスマスに幼稚園でもらったばっかりの物を取り上げて持って帰ったのがいとこだったはずだ、ということに。 逆ではないのです。 『聖書』には、持つ者はさらに与えられ持たざる者はさらに取り上げられるであろう・・だかなんだかそういう文句があったように思いますが、まさにその通り、幼稚園の時に幼稚園からクリスマスにもらったばっかりの物をとりあげられた私は、大学に行く時にも「うちは工学部に行かせるような金持ちとは違います」と言って「てってこっこてってて~え♪ てってこっこてっててってらったらったらったらあ~あ♪」の大学学部に行かされれ、幼稚園の時に私が幼稚園でクリスマスにもらったばっかりのものを「それ、もらって帰る」と言って取り上げて持ち帰ったやつは、「あの子はあんたと違って貧乏で苦労しているから、だから工学部に行かせてもらえるんや」と言って京都工繊大しか行けないアホのくせに工学部に行かせてもらえる・・ということだった。
父も母も私には「芸大だの音大だのなんてとんでもない」と言っていました。大学に行く頃は。 しかし。小学生の時に、ピアノを習いに行かせ、発表会の時、ピアノを習う生徒は女の子の方が多いのですが、男では私とピアノの先生の息子くらいで、「先生の息子になんか負けたらいかん」とか言って母は尻をたたいたはずなのです。だから、私は、音楽の先生の息子、「世界的音楽家」にまではならないとしても、親と同じように高校か中学校の音楽の先生になったりピアノの先生や音楽教室の先生になったりするような息子に負けまいとして努力したはずで、そういう音楽の先生の息子に負けず、それ以上の実績を残して成果を出してさらに上を目指せば、親は喜んでくれるものだ・・・と勘違いしていたのです。 実際はそうではなかった。母は「うちの息子はピアノをやってますねん」と言って自慢したかっただけで、音楽家にも音楽の先生にもならせる気持ちはなかった。 ましてや、父は自分は生まれ変わったら岩城宏之になるとか言いながら、それはあくまで自分はであり、私には「あんたをここまで育てるために、カネがかかっとんのんじゃ。それをこれから働いて返してもらわんといかんのじゃ。とってちってたあ~あ」と言ったのです。 「東京海上火災のために。その1、その2、その3」「夜空にでっかく輝くあの星座が会社の中で最高の東京海上火災という星座だ。 あの星座の中でひときわでっかく輝く星になるんだ。東京海上火災養成ギプスだ。月夜の千本ノックだあ! 甘ったれるな! 」というのが父の考えだったようです。 私は小学生の時、図画工作の時間に描いた絵を、先生から大阪府の小学生の大会に出すからと言われて提出したことが2回あります。 提出してその後どうなったか聞かないところを見ると、それ以上にはならなかったのかもしれませんが、小学校の図画工作・中学校の美術も好きで、中学校を卒業する時、内申書では音楽とともに美術も「10」でしたし、中学校の時、何の科目が好きかというと音楽と美術の2つが一番好きでした。 もっとも、中学校のレベルで体育が誰よりできてもプロの運動選手になれるというものでもないのと同じく、中学校の音楽や美術で内申書の成績が「10」であっても、音楽家や絵描きとしてやっていけるかどうかといったことは別の問題でしょうけれども、しかし、父は自分は「生まれ変わったら岩城宏之さんのようなオーケストラの指揮者になる」とかぬかすのですから、私がそういう方向に挑戦したって、挑戦して成功しても成功しなくても、父の発言からすれば挑戦するくらいは悪くないような気もしたのです。 だから、「世界的音楽家」とか「歴史に名前が残るような画家」とかになるのはそう簡単ではないかもしれないけれども、芸大・音大・美大といった所に行って教員の資格をとれば、高校か中学校の音楽の先生、美術の先生くらいになれる可能性はあるのではないか、もしくは、たとえば、大阪フィルハーモニーの常任指揮者だった朝比奈隆は京大に行って京大のオーケストラ部から指揮者になったし、岡村喬生は早稲田大学でグリークラブに入ってそこから声楽家になったし、ハンス=ホッターはミュンヘン大学の哲学科に行ってそこから声楽家の道に進んだし、チャイコフスキーはもともと役人だったのが作曲家になり、ボロディンは医者で化学者であり作曲家は副業で、そうであるからボロディンはオーケストレーションの作業が必ずしもうまくなく、オペラ『イーゴリ公』も完成させることができず、ボロディンの死後、リムスキー=コルサコフがオーケストレーションを完成させたというが、そういったように、音楽大学以外の大学に進んで音楽家になった人もいるのだから、なれるかどうかはさておき、挑戦させてもらうくらいさせてもらったって悪くないのではないのか、とも思った(音楽家でも、声楽家と作曲家は、最初から音楽の道を専門に歩んだわけではないという人がいるようです)・・・・が、父の認識はそうではなく、「あんたをここまで育てるのにカネがかかったんじゃ。これから働いてそれを返してもらわんといかん」と言うのでした。 ところが。世界で一番貧乏で世界で一番かわいそうな家庭の子であったはずのいとこの姉の方ですが、神戸市外大に行ったものの、途中で、「画家になる」と言って神戸市外大をやめたというのです。 はあ? はあ? はあ?・・・・何、それ・・・・ はあ? はあ? はあ????? 我が家よりもずっとずっと貧乏でかわいそうな家庭の子供で、私がクリスマスに幼稚園でもらったばかりのものを「それ、もらって帰る」と言って取り上げて帰った女が、そういうことをしなければならないほど貧乏でかわいそうな家庭の娘が・・・、「画家になる」て??? はあ? はあ? はあ~あ????? そのいとこに幼稚園でクリスマスにもらったばかりのものを取り上げられなければならない私が、画家になるなんて言ったら、「あんた、頭おかしいのとちゃうか」とか言われるのに。私なら「うちは、絵描きになんかならすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」なのに、世界で一番貧乏で世界で一番かわいそうな家庭の娘のいとこが、神戸市外大しか行けない学力なのに大学に行かせてもらって、それをやめて絵描きになるだってえ~え? はあ? はあ? はああ~あ?????
母が私に「このどちらかをあの子たちにあげなさい」と言った時、私は、「あの子らも、幼稚園に行ってるんだから、あの子らももらってるでしょう」と言ったのですが、母は「もらってないそうやから」と言ったのです。 しかし、違うと思います。 その数字合わせゲームは幼稚園でもらわなかったかもしれません。 我が家でも、上の姉は数字合わせゲームを行っていた幼稚園でもらったようですが、下の姉はもらっていないのです。 私も幼稚園に2年、行きましたが、片方の年にもらったので、私が行っていた幼稚園でも、毎年、その数字合わせゲームをクリスマスに園児にプレゼントしているわけではないのです。 ですから、いとこの姉弟の2人も私とは違う別の幼稚園に行っていても、私の行っていた幼稚園はカトリックの幼稚園だったので、キリスト教系でない幼稚園と比べるとキリスト教色のあるクリスマスでしたが、キリスト教系でない幼稚園でもクリスマス会はやったでしょうし、クリスマスのプレゼントを園児に渡すこともしたと思うのです。 そこで渡した物が数字合わせゲームではなかったということでしょう。 もしかすると、もっと高価なものをいとこはもらったかもしれません。 だから、私が幼稚園でもらったものが欲しいというのなら、「相互主義の原則」で自分が幼稚園でもらったものを私に渡さないといけないことになるはずですが、そこは「ひとの物は自分のもの、自分のものは自分のもの」という原則? を出したようです。
私が父の立場であったなら、弟(私から見て叔父)に、「おまえら、うちの家に来てそういう態度をとるのなら、次から来るなや」とでも言ってやります。 ところが、おそらく、父は、叔父夫婦といとこの姉弟がそういう態度をとった時、ここは、わしが息子に何でも何でも買ってやあってやあってやあっているんやというところを見せる好機や♪ と思ったのではないでしょうか。 それで、母に、どちらをあげるか決めさせなさいと指示し、母は父にまったく逆らえない女でしたから、そのまま、私に、「どっちをあげるか」と言いに来たのであり、そして、私が、片方は「それは、おねえちゃんのやから、おねえちゃんにきいて」と言うと、「それなら、こっちをあげなさい」と私が幼稚園でクリスマスにもらったばかりのものを「あげなさい」と言い、私が「それは幼稚園でクリスマスにもらったばっかりやで」と言うと、「それなら、こっちをあげなさい」と姉の物をあげてよいと私に承諾しろと要求し、私が「お姉ちゃんの物をぼくがあげていいなんて言えないよ」と私が言うと、「それなら、こっちをあげなさい」と私が幼稚園でもらったばかりのものをいとこにやれと命令した、ということでしょう。
在来木造の一条工務店に勤めていた時、福島県いわき市で、同僚の家に1月の初めに呼んでもらったことがあります。 小学校低学年の女の子と幼稚園に行っている女の子の2人の子供があり、1月の初めに呼んでもらうのだからと思って、いくらかのお金をポチ袋に入れたものを2つ持って、その子供たちにあげるつもりで持っていきました。 しかし、タイミングを見て渡そうと思っても、子供がお年玉をもらおうとしないのです。 それで、結局、渡しそびれて持って帰って来てしまいました。 そこの夫婦は、子供に、よその人に、お年玉を催促するようなことはしてはいけませんと教育していて、そして、子供はお年玉をもらうものと考えていなかったのでしょう。子供がもらおうとしないのなら、親の方に、「これ、◇◇ちゃんに」と言って渡せばよかったのであり、渡しそびれて持って帰ってしまった私の方はミスですが、その家は父の弟の娘・息子とはずいぶんと違ったようです。 その同僚の夫婦が金持ちだったか貧乏だったかはこれは関係ないと思います。 今から考えると、よその家に行くと、人が気づいていない時に、眼を皿のようにして、何をもらって帰るか見まわしているというそういう子供って、そういう子供の親というのは金持ちか貧乏かにかかわらず、あんまり良い教育をしていないな、と今は私は思います。 叔父は途中で健康を害して働けなくなってしまいましたが、私などが会った時については、優しい人だったと思うのですが、そのあたりは良いとは思いません。
父は「グルメ」でした。食べないものがあるのです。 母が足をけっこう重い捻挫をしてしばらく立てなかったことがあり、大学生であった私が、夏休みに、食事の準備をしたりしましたが「レタスとキャベツはどちらがいいか?」ときくと、「キャベツ」と答えるのです。「ミカンとリンゴはどっちがいいか?」ときくと、「リンゴ」と答えるのです。なぜかというと、レタスは食べる時に自分でちぎらないといけないし、ミカンは食べる時に自分で皮をむかないといけないのに対して、キャベツはあらかじめ切ってあるし、リンゴはあらかじめむいてあるから。しかし、誰かが切っているから切ってある、誰かがむいているからむいてあるのですが、誰が切るのか誰がむくのかというと、「むいてくれ」と言うのです。私がむくらしいのです。レタスでも、全体が黄緑色のレタスと先端が紫のサニーレタスでは、父は全体が黄緑のレタスは食べることができるのですが、先端が紫のサニーレタスは「これ、気持ち悪いわ。あんたが食べなさい」と言うのです。それで、サニーレタスを買った時は、私が残飯整理のブタになって人の分まで食べるのです。そのあたりを母に話すと、母は、「それでも、結婚した頃に比べると、食べるようになったものや」と言うのです。結婚したばかりの頃はもっと偏食だったというのです。そして、それを自慢していたようです。 慶應の内部進学の人みたいに。
慶應のあるサークルの合宿に行ってびっくりしたことがあります。幼稚舎から慶應という人が言うことに。「種無しブドウ(デラウェア)なんて、そんな面倒くさいもの、よく食うなあ。ひとに皮をむいて皿に入れてもらって、スプーンですくってなら食うけれども、ひとつひとつ皮をむいて食うなんて、そんな面倒くさいもの食えるか。よく、そんなもの食うなあ。ミカンもそうだ。皮をむいてカラスにしてもらったなら食うけれども、自分で皮をむいて食うなんて、そんなおかしなことできるかあ」と言うのです。そして、さらに「こらあ。むけえ」と「外部の者」である私などの命令したのです。「命令」ですよ。そして、言ったのです。「外部の者を教育してやらんといかんからなあ」と。
そういう人のことを、「本物の慶應ボーイ」とか「スマートな内部進学者」とか言うのでしょうね。 種無しブドウをひとに皮をむいてお皿にのせてもらってそれをスプーンですくって食う人、ミカンをひとに皮をむかせてカラスにしてもらって食べる人のことを。「ギャルにもてもての慶應ボーイ」とか言うのでしょう。 たしかに、金持ちの息子らしいので、「結婚するにはいいかもしれない♪」でしょうけれども。 今の私なんかより年収もずっと多いでしょうし〔⇒《YouTube―シャインズ 「私の彼はサラリーマン」》https://www.youtube.com/watch?v=RykB69Hzn6I 〕。
慶應の内部進学の人というのは、「外部の者を教育してやらんといかんからな」と言うのですが、疑問に思うのは、どちらを教育するのかという点です。私のように、種無しブドウであろうが種ありブドウであろうが子供の頃から自分で皮をむいて食べてきた人間、ミカンを自分で外の方の皮をむいて内皮のまま食べてきた人間に、種無しブドウはひとに皮をむいて皿にのせてもらってスプーンですくって食うものだ、ミカンはひとに皮をむいてカラスにしてもらって食べるものだと「教育する」のか、それとも、「こらあ。むけえ」と内部進学者様のために「外部の者」は皮をむいてさしあげろ、内部進学者様のためには「外部の者」は種無しブドウやミカンの皮をむいてさしあげるのが当然だと「教育する」のか、どちらなのだろうと思うのですが、結論としては後者のようです。「こらあ。むけえ」と私も言われたのです。内部進学者様に。
小学校に行くかどうかの頃、私にリンゴの皮のむき方を教えてくれた母は、90を過ぎて、もう自分でリンゴや梨や柿の皮をむくことができなくなりました。私がむいてあげると、「あんた、本当に皮むくのうまいねえ」と言って喜んで食べてくれます。でも、おかあさん、あなたは私に種無しブドウをひとに皮をむいて皿にのせてもらってスプーンですくって食べる人のために、それをむかされるためにリンゴの皮のむき方を教えたのですか。そういう人の下男にならされる大学に私を行かせるためにリンゴの皮のむき方を教えたのですか。 たとえ尋ねても、90を過ぎた母に答える力はないようですが・・。
(2016.1.1.)
私が幼稚園に行っていたのは、1960年代の半ばでした。 その頃、住んでいた大阪市東住吉区の住居の近所には、幼稚園はカトリックの幼稚園と生長の家が経営するらしい幼稚園の2つがあり、私はカトリックの方の幼稚園に行っていました。 最近は3年保育の幼稚園の方が多くなってきているようですが、その頃は2年保育が普通で、3年行く人もたまにありましたが私が行った幼稚園ではそういう人は「年少組」を2回やっていました。
私は2年保育で行きましたので、「年少組」「年長組」の2回、クリスマスを体験しました。 どちらの時だったか、クリスマスに、先生が、「幼稚園から、皆さんにプレゼントがあります」と言って、数字合わせゲームをもらいました。 それは、7センチ四方くらいのプラスチックの箱に、1から15までの数字が記入された小さい正方形が入ったもので、4個×4個なら16個ですが、それより1つ少ない15個のコマがあって、1つだけ空きスペースがあり、最初、ランダムに入った数字をひとつひとつ動かして、1~15を整列させる、もしくは、横に1~15が並んでいる状態から縦に1~15が並んでいる状態に変えるということをして遊べるもので、算数・数学の基礎を学ぶような学習ゲームだったのでしょう。
私には姉が2人ありましたが、上の方の姉も幼稚園で色とデザインが違う同じものをもらったようでしたが、下の方の姉も幼稚園に行っていましたが下の姉はそのゲームは幼稚園ではもらわなかったようです。
正月の2日目だったでしょうか。 父の弟夫婦とその子であるいとこ、私より1つ年上の女と私よりひとつ年下の男のいとこが来ました。 一緒に遊びなさいと言われて遊んだのはいいのですが、帰りになって、そのいとこの姉弟が、私がその10日ほど前に幼稚園でもらってきたばかりの数字合わせゲームを、「それもらって帰る」と言い出したらしいのです。 「らしい」というのは、私が直接にいとこから聞いたのではないからです。 誰から言われたかというと、母から言われたのです。 「それをあの子らにあげなさい」と。 私は母の言うことが信じられなかった。幼稚園でもらってまだ10日ほどしか経たないものを、それをよその子にあげなさいとは、よくそういうことを言うと思いました。
私だって、幼稚園の同級生の家に遊びに行くと、自分が持っていないおもちゃを同級生が持っているということはいくらでもありました。 しかし、そういう時に、それを欲しいなどと言ったことはないし、人が持っているものを欲しいなどと言ったら、親からえらい怒られたものです。私がよその子が持っているものを欲しいと言ったら怒るくせに、いとこが私が持っているものを「欲しい」ではなく「もらって帰る」と言ったら、「それをあの子らにあげなさい」と母は言ったのです。 それも、まだ、幼稚園でもらって10日ほどしか経たないものを。
「あげなさい」と言った「論拠」として、上の姉が幼稚園で色とデザインが違うが機能は同じゲームをもらってきていたということがあり、母が「これをあの子らにあげなさい」と言った時、母の言うことがとうてい信じられず、「嫌や」と私が言うと、母は「それなら、こっちをあげなさい」と言って姉が幼稚園でもらってきたものをいとこにやれと言ったのです。 その時、姉は家にいませんでした。 私は「それは、おねえちゃんのや」と言いました。すると、母は「それなら、こっちをあげなさい」と言って、私が幼稚園でもらってきて10日ほどしか経たないものの方をいとこにあげろと言うのです。 私はとうてい母の言うことが理解できず、正気か? と思って、「それ、幼稚園でクリスマスにもらって、まだ10日ほどしか経たないんやで」と言いました。すると、「それなら、こっちをあげなさい」と姉が幼稚園でもらってきたものを見せるのです。 私は「それはお姉ちゃんのや。 お姉ちゃんにきいて」と言いましたが、「あんたは2つ要らないでしょ」と言うのです。 だから、私は「ぼくがもらったのは1つや。もう1つはお姉ちゃんのや。だから、お姉ちゃんにきいて」と言いました。 たしかに、姉はもう大きくなっていて、そういうゲームをして遊ぶ年齢は過ぎていましたが、だからといって、自分の物でない物をひとにあげるなどということをして良いわけはありません。 姉は、弟がそれを使って遊ぶのなら貸してくれましたが、よその子にあげてよいとは言っていませんし、姉は、もうそのゲームを使って遊ぶ年齢を過ぎていたとはいえ、自分が幼稚園でもらってかつて遊んだゲームに思い入れもあるでしょうし、そのうち、結婚して子供ができれば自分の子に使わせたいという気持ちもあるかもしれません。 私は、その時、外出していた姉の為に、何としても姉の物を守らなければならないと思いました。
幼稚園の同級生の家に私が遊びに行ったとき、幼稚園の同級生が私の家に遊びに来た時、私が持っていないおもちゃを同級生が持っていることもあれば、逆もありますが、私は私が持っていないおもちゃを同級生が持っていてもそれを欲しいとは言わなかったし、よその家に行って自分が持っていないおもちゃをよその子が持っていたからといってそれを欲しいなどと言おうものならずいぶんと怒られたものです。 私がよその子が持っているものを欲しいなどと言おうものなら激怒する母が、いとこが私が持っているものと姉のものを「欲しい」ではなく「もらって帰る」などと言いだすと、「それをあげなさい」などと言いだしたということが信じられませんでした。
母は「どっちをあげるか、どっちか選びなさい」と言うのですが、「どっちかと言ったって、そっちはおねえちゃんのやから、お姉ちゃんに聞いて」と私は言ったのです。 そうすると、母は「それなら、こっちをあげるんやな」と私が幼稚園でもらってきたばかりのものをあげなさいと言うのです。 母の言うことが、とうてい、信じられませんでした。
私は「それは、幼稚園でクリスマスにもらってきたばっかりやで」と言うと、母は「わかった。それなら、こっちをあげなさい」と言って姉が幼稚園でもらってきたものの方を持って、「あかん。それはおねえちゃんのや。あかん」と追いすがる私を無視して、姉が幼稚園でもらってきたものの方を私が許可したということにしていとこの姉弟にやりました。なんとも、嫌な思い出でした。
母は「あの子たちは、あんたなんかと違って、何でも買ってもらえない子なんだから」と、その時、言ったので、そのいとこ、叔父夫婦はよっぽど貧乏でかわいそうな家庭なんだなと、その時、思ったのです。 しかし、家が貧乏であるかということと子供がおもちゃをいろいろと買ってもらえるかどうかとは同じではありません。 その時、我が家は決して豪邸ではありませんが、ともかく、一戸建ての持ち家に住んでいましたが、借家・アパート住まいの人もありました。 借家・アパート住まいの家庭の子の方が子供が欲しいというものを買ってもらえないとは限りません。 すぐ近所に、本当に粗末なアパートがあって、うちの親は一方で「誰とでも区別なく遊びなさい」と言いながら、他方において「◇◇アパートの子とは遊んではいかん」などと言い、いったい、どっちなんだよ、と子供としては困ってしまったことがあったのですが、その地域に2つあった幼稚園では、カトリックの方の幼稚園の方が「どちらかと言えば」でしたが「ええとこの子」の行く幼稚園で、生長の家の経営する幼稚園の方がそうでない方の幼稚園でしたので、カトリックの幼稚園の同級生ではその粗末な◇◇アパートに住んでいる同級生はいませんでしたが、公立の小学校に行くと、誰もが同じ小学校に行きますから、その◇◇アパートに住んでいる同級生もおり、そこの家に行くと、その同級生は私なんかよりもはるかにいろいろなものを買ってもらっていました。
いとこの姉弟のことを「あの子たちは、あんたみたいにいろいろと買ってもらえない子なんだから」と母が言うので、その粗末な◇◇アパートの住人の子の同級生よりはるかに買ってもらえない私よりもまだ買ってもらえないいとこの親、父の弟の叔父夫婦はこれより下はないという世の中で最下層の人なんだなと、その時、思ったのです。 叔父は、その後、健康を損ない働けなくなってしまったようで、それで、私は、いとこの姉弟はお父さんが体を悪くして働きにいけない気の毒な家庭の子なんだなとその時は思ったのです。 ところが、その時はそう思ったのですが、最近になって母から聞くと、叔父が体を悪くしてしまったのはそれより後で、その時は元気で、しかも、会社でも順調に出世しつつあった時で、給料もけっこうもらっていて、住んでいる家も「公団」に住んでいたのですが、私は、私が幼稚園でもらってきたばかりのものをそこの家の子にあげないといけないくらいかわいそうな気の毒な家なのだから、それで、公営のアパートに住んでいるのだろうと思い込んでいたのですが、「公団」には賃貸の公団と分譲の公団があって、叔父夫婦といとこが住んでいた公団は分譲の公団で、一戸建てではないが持ち家だったらしいのです。 持ち家に住んでいて、かつ、叔父も父より若いので年功序列・年齢序列の賃金制度があった時代ですからその分だけ父より給料は低かったかもしれないけれども、決してそんなに悪い給料ではなかったらしいのです。 それなら、なんで、私が幼稚園でもらってきたばかりのものをあげないといけないのか。
要するに、金持ちか貧乏か、いろいろと買ってもらえる家庭だったか買ってもらえない家庭だったかという問題ではなく、いとこはそういう教育を受けてきた子だったのです。 よその家に行ったら、何をもらって帰るか俊敏に見て判断して要求するように教育されてきた子で、叔父夫婦はそういうのが良いと思う家庭だったようです。 私の方は、よその家に行って、よその子が自分が持っていないものを持っていても、それを欲しがったりしてはいけませんと教えられてきたので、よその家に行って自分が持っていない物をよその子が持っていても、よそはよそ、うちはうちと言われ、そういうものだと思って来たのですが、いとこはそうではなく、よその家に行ったら、どれをもらって帰るか俊敏に把握するように教育されてきたようでした。 どちらの教育が良いかといっても、それは結論は出ないでしょうけれども、我が家の悲しいところは、私の親は私には、よその家に行ってよその子が持っているもので自分が持っていない物があっても欲しがったりしてはいけませんと教育しておきながら、よその子が私が持っている物を欲しがると、普通なら、「あの子は教育がなってないね」とでも言うところかと思うのですが、そうではなく、「あの子はあんたと違って積極的や」とか言い出すのです。 それなら、私もそうすればよいのかと思って、それからそういうやり方を真似ると、今度は怒られるのです。 おそらく、母は気が弱いので、よその親からそういう態度をとられた時に勝てないのだと思います。 それで、私が悪いことにしたのでしょう。 しかし、やっぱり、よその家に行ってよその子が持っている物で自分が持っていない物があっても、だからと言ってそれ欲しいなどとそこで行ってはいけない、と教えるものだと思っていたのです。
母は、「それは、あんたがもらったのじゃないでしょう。 親が幼稚園にお金を払っているから幼稚園が渡したのであって、幼稚園はあんたにあげたのと違って親がお金を払っているから親に渡したのでしょう」とも言ったのですが、そうであるなら、幼稚園の先生が間違っていると思います。 「幼稚園から、皆さんにクリスマスのプレゼントがあります」などと言って渡すから、だから、幼稚園児は「自分がもらった」と勘違いしてしまったのです。そうではなく、「幼稚園からお父さんお母さんに渡してほしいものがあります。これは皆さんにあげるのではありません。お父さんお母さんに渡してもらうものです」と言って渡せば、自分がもらったと勘違いしたりせずに、そのまま親に「はい」と言って手渡しておしまいで、親が幼稚園から受け取ったものを親がいとこにあげようがどうしようが、どうってことなかったのです。 幼稚園の先生の渡し方が間違っていたということでしょうか。
その時、父は何をしていたか。 私が父親の立場なら、弟に言いますね。 「おまえは、子供にあんまり良い教育をしていないな」と。 「うちの子が持っている物をおまえの子が欲しいのなら、おまえが買ってやれよ。おまえが買ってやればよいことと違うのか」と。 私が父親の立場なら弟(私から見て叔父)に言いますね。 ところが、父はそういうことを言わない人だったのです。
最近、この話を母にすると、90歳を過ぎた母は、クリスマスに幼稚園児がもらってきたばかりのものを正月によその子にやれと言ったというのが、かわいそうだと泣くのです。 しかし、今、泣くのなら、どうして、私が幼稚園児だった時に、クリスマスにもらってきたばかりの物をいとこに「それをあの子にあげなさい」などと言うのでしょうか。
推測として、父が「いいかっこ」しようとした、という可能性が考えられます。 私が子供の頃、母は父に逆らえない人でした。 私の家庭は特別に金持ちではなかったけれども特別に貧乏というわけでもなかったと思います。 ちょうど真ん中より上か下かわかりませんが、一番上でないのは間違いなく一番下でもなかったと思います。 しかし、私の家庭より貧乏な家の子と比較しても、私はいろいろと買ってもらえる方か買ってもらえない方かというと、間違いなく買ってもらえない方でした。 上に述べた近所にあった粗末な◇◇アパートの住人の子でも、私よりはるかにいろいろと買ってもらっていろいろと持っていました。 もちろん、何でも買うのが子供のために良いというわけでもなく、買えるお金があっても、あまりにも贅沢なものは買わない方が子供のためになる場合もあるし、子供の遊具としてはふさわしくないと親が思ったならば、たとえ、よその子が持っていても買わない方がよいという場合もあるでしょう。 また、世の中には貧乏なくせに、なんでも買う親というのもいます。 それは良くないという見方もあるかもしれませんが、貧乏だからこそ、子供に情けない思いをさせたくないという気持ちで買っているのかもしれませんし、いちがいにどうと言えないところがあります。 いずれにせよ、我が家は、金持ちか貧乏かというと、特別の金持ちではないが最下層の貧乏でもないという家庭だったと思うのですが、我が家より貧乏な家庭と比較しても、私は欲しいと言う物をあまり買ってもらえない子供、我が家は子供が欲しいと言う物を買わない家庭でした。 ところが、父は「ええかっこしい」なところがあったのです。 これは、その時は気づいておらず、後に気づいたのです。
私は父から殴られたことはないのですが、姉は「お父さんに逆らったら殴られるから怖かった」と言うのです。 なぜ、息子は殴らないが娘は殴るのかというと、それは父が「九州男児」だったからでしょう。 「なんで、女を殴ったらいかんのや」と父が言っていたことがあります。 「戦後民主主義」の教育を受けて育った私には理解できない発想でした。 特に、小学校の1年から2年の担任の先生がクリスチャンの人だったこともあり、その先生が「男の子が男の子を殴るのであっても、暴力は良くない。 しかし、女の子は男の子よりも力が弱いのだから、力が強い者が力が弱い者を殴るというのは卑怯だ。 だから、男の子が男の子を殴るのも良くないけれども、男が女を殴るのはそれ以上に良くない」と言われたもので、そういうものだと思っていたのです。(もっとも。最近、道で下校途中の小学生を見ると、男の子と女の子が殴り合いだかつかみ合いだかして、しかも、女の子が勝っていたりするのを見かけることがあります。必ずしも、「女の子」は弱いとも決まっていないようです。 男性は「女性は弱い」と思っているのですが、実は、けっこう、女性は強かったりします。) しかし、九州男児の発想はそうではなく、「なんで、女を殴ったらいかんのや」というものだったようです。
そういう父で、母は父に逆らうことができない人間だった。 そして、父は「ええかっこ」をしたかったようで、いとこの姉弟は、私と逆に、よその家に行ったら何をもらって帰るか俊敏に見て判断し要求するように教育されてきた姉弟だったわけで、その2つが合わさった結果、父は、私が持っている物を叔父夫婦の子にあげることで、「うちは、息子には、何でも何でも欲しいものは買ってやってやってやってやあってやってあげてやってるんだ」というところを見せたかったのでしょう。実際はちっともそんなことないのに。
母は父とは違って、うちは、よその家と比較して、決して子供に子供が欲しがるものを多く買っていないということを母はわかっていたようです。 父はわかっていなかったのではなく、わかっていて「ええかっこ」したがる男だったのです。 だから、私が幼稚園でもらってきたばかりのものを「それをあの子にあげなさい」と指示したのでしょう。 うちはそんなもん、いくらでも何でも何でも買ってやってやってやってやあってやってやってあげてあげてやあってやってやってるんだ、と見せようとして。 母は父の指示にしたがって、それで、私が幼稚園でクリスマスにもらって来たばかりの物を、「これをあの子たちにあげなさい」と言ったのでしょう。
90歳を過ぎた母にこの話をして泣かせてもしかたがないのですが、しかし、やっぱり、今、泣くのなら、どうして、その時に、「これをあの子たちにあげなさい」などと言ったのか。 クリスマスに幼稚園でもらってきたばかりのものをいとこにやれなどと親から言われた人間は私以外にあんまりないのではないでしょうか。
幼稚園で紙芝居を先生にやってもらい、その後しばらく、同級生の家に行くと、百貨店のおもちゃ売り場で売られている紙芝居を持っている同級生がいました。 親が大丸に買い物に行く時についていくと、おもちゃ売り場で紙芝居が売られているのを見ましたが、欲しいと言っても私は買ってもらえませんでした。 近所にアイスクリームを売っている店があり、その当時、10円のものと20円のものが売られていましたが、私は10円のものは何度も買ってもらったことがありますが、一度でいいから20円のものを食べてみたいと思いましたが、最後まで20円のものは一度も買ってもらえませんでした。 幼稚園だったか小学校だったかの同級生に、よそも同じようなものだろうと思って、「一度でいいから、20円のアイスクリームを食べてみたいなあ」と言うと、「なんでえ。 ぼくら、そんなもん、何度も食べたでえ~え」と言われたことがあります。 市場の八百屋だか果物屋だかに果物がならんでいて、ぶどうは種無しのデラウェアと巨砲は食べさせてもらいましたが、黄緑の色をしたマスカットは色がきれいで一度食べてみたいと思っていましたが、「いけません」と母に言われて一度も食べさせてもらうことはありませんでしたが、これも、同級生に「一度、あの黄緑の色のぶどうを食べてみたいなあ」と言うと、「なんでえ。ぼく、そんなん、何度も食べたでえ」と言われました。 その頃、テレビで『三匹の侍』というドラマが放映されていて、けっこうそれが好きだったのですが(今、考えると、「ええもん」と「わるもん」の戦いというワンパターンでたいして面白い筋でもないのですが、そのころは、子供にはチャンバラが面白く感じたようです)、百貨店のおもちゃ売り場では、プラスチック製の刀と金属製の刀が売られており、どう見たって金属製の刀の方が「本物っぽい」感じがして魅力的で、同級生で金属製の刀を買ってもらって持っている人間が何人もいましたが、私はプラスチック製の刀を買ったもらって持っていましたが金属製の物は買ってもらえませんでした。 これなどは、私が親でも、たとえ、金銭的には買えたとしても、子供には金属製の刀は買わない方がよいのではないかと思います。たとえ、刃がついていなくても金属製の刀は危ないですから。 むしろ、プラスチック製の刀では物足らないように子供が思うなら、金属製のおもちゃの刀を買うくらいなら、竹刀を買って剣道でも習わせてやった方がよいと思います。 我が家は、特別に金持ちではないが最下層の貧乏でもなかったように思うのですが、よその子が買ってもらって持っている物で私が買ってもらえない物は相当ありました。 しかし、よそはよそ、うちはうちなんだと思い、何でも買ってもらえるのがよいというものでもないとも言われ、そう思っていました。
しかし・・・・。 20歳になった時、父は、「○○には、よそと違って、欲しいというものはどんなもんでも、何でも何でもどんなもんでも、ええもんばっかり買ってやってやってやってやってきたから」とよその人間に言うので、「そんなことないよ」と憤慨して言ったところ、父は何と言ったでしょうか。 「そりぁ、びょーきと違うかあ。びょーきやから、よそと違って何でも何でも何でもええもんばっかり買ってきてもらってもらってやってやってやってやあっていただいてもらってもらってきたのにわからんのや。 びょーきやわ、これは」と。 そう言いやがったんです。父は。 おまえがビョーキだろうが、「ほとんどビョーキ」じゃなく、完全にビョーキだろうが、おまえの方がと思いました。
小学校の5年の時に近視になって眼鏡を作りましたが、最初に作った時は、母と一緒に百貨店の眼鏡売り場に行ったので、母は、できるだけ近視が進行しないようにと、フレームは「普通の物」でもレンズは「比較的良いもの」を買うようにしました。しかし、近視が進行して次に作り変える時、父と一緒に行くと、父は「安いのんでええ。安いのん。どうせ、すぐ悪なるねん。安いのん。やふいのん、やふ~ういのん」と言って一番安いレンズを買いました。 その「やふいのん、やふいのん、やふ~ういのん」という言い方がなんとも嫌でした。
母は、そのあたりはわかっていたようで、なにより、私が生まれるより前、結婚してすぐの頃、給料が安くて苦労したということを言い、そして、結婚して最初のボーナスの時、これでなんとかやっていけると思ったところ、父は家計のやりくりなんかおかまいなしにそのボーナスでバイオリンを買ってきたので、ショックだったということを話します。 「あの人、子供にいいものばっかりなんでも買ってきたなんてよく言うわ」と母は言い、父が言う「あんたには、よそと違って、欲しいというものはどんなもんでも何でも何でもええもんばっかり買ってきてやってやってやあってやって・・・」とか言うのはとんでもない大嘘だということを知っています。 但し、父の言う大嘘を聞いた人間がそれを本気にしているということは知らなかったようです。
母は、「親というものは、子供が大学に行く時に、子供が行きたいと思うところに行かせてやりたいと思うから、無理にでも小さい頃から勉強させようとするものなんだ」と言っていました。 それで、私はそれを本気にしてしまったのです。 だから、たとえば、スポーツ選手になりたいとか絵描きになりたいとか音楽家になりたいとかいうなら反対されるかもしれないけれども、そうでない限り、行きたい大学の行きたい学部に行かせてもらい、就きたい仕事に就かせてもらえるものだろうと思って来たのです。高校の途中までは。
ところが、大学に進学する頃になると、それまでと言うことが正反対になったのです。 父が言うには、「うちは学校の先生なんかならせるような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは、大学院なんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな。」「うちは、工学部なんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは医学部なんか行かすような金持ちとは違います。6年行く学部ではなく4年で卒業できる学部にしなさい」「マスコミに勤めるなら産経新聞にしなさい。朝日はアカやからいかん。毎日もアカやからいかん。産経かNHKでないといかん」「学校の先生にならせるような金持ちとは違うが、たとえ、学校の先生になるにしても、数学か英語の先生でないといかん。社会科とか理科の先生はなったらいかん。英語か数学の先生でないと副業で家庭教師ができんから。」「うちは司法試験なんか受けさせるような金持ちとは違います」「哲学科はきちがいが行くものだ。」「宗教はアヘンだとマルクスが言うとるとM先生(父の親友の「医者」)がおっしゃってる。」「宗教哲学なんて勉強するやつはアカだ」「学校の先生と新聞記者は全員、アカだ」「国家公務員は転勤が多いからいかん」・・・とそういったことを無制限に言い出したのです。 それで、「わしは、あんたに、こういう学部に行かんといかんとか、こういう職業につかんといかんとか言うようなことは一切言わん人間やねん。わしは、あくまで、本人がやりたいようにさせてやりたいという人間やねん」とか言っていたのです。 「あくまで本人がやりたいようにさせてやりたいという人間やねん」といっても、一方で「司法試験はいかん」「学校の先生はいかん」「大学院はいかん」「大学の教授助教授なんかならせるような金持ちとは違います」「マスコミは産経かNHKでないといかん」「工学部なんか行かすような金持ちと違います」・・・と制約を加えられたのでは、結果として、「てってこっこてってぇって、らったらったらったらあ~あ♪」「会社のために犠牲にな~る」「撃ちてしやまん、一億火の玉」「木口小平は死んでもラッパをはなちまちぇんでちたあ~あ」「とってちってたあ~!」の学部、即ち、経済学部・商学部・経営学部しか残らないことになります。 但し、経済学部でも「京大はアカやから」とか言うのです。 父が一番好きなのは、慶應の経済と神戸大の経済という日本の二大ブタ商人学部、ブタ商人大学です。 父は、「もしも、もう一度、生まれ変わってくるなら、その時は、わしは岩城宏之さんのようなオーケストラの指揮者になる。 ちゃんちゃんちゃん、ちゃちゃちゃちゃちゃ、ちゃんちきちゃんちきちゃんちきちゃんちき♪」とか言っていたので〔《YouTube-Shostakovich Symphony No. 5 in D minor, mov. I, Conductor: Hiroyuki Iwaki 》https://www.youtube.com/watch?v=dbJ51NKlE2Y 〕、自分が岩城宏之のような音楽家になりたいというのなら、私がそういう方向に進みたいと思ったとしても、認めてくれるのではないのかと思った時もあったのですが、「岩城宏之さんのようになる」というのはあくまで自分が生まれ変わることがあったらなりたいということであって、私がなりたいと言った時に応援しようという気持ちはさらさらなかったようです。
せっかく小学校の1年から真面目に努力して勉強してきたのに、なんで、「右手に日経、左手にエロ本」みたいなブタ商人学部に、中曽根臨教審の委員をやって「教育勅語のようなもの」を復活させようと主張する男が塾長している右翼反動の大学に行かされなければならないのかと思いましたが、結局、行かされてしまいました。 そんな大学、卒業したくなかったのですが、4年になって、合同就職説明会とかで他の大学の学生を見たりすると、「小学校から高校まで、ちいっとも勉強せんと、あつかましくも名前と受験番号さえ書けば合格できる『大学』に行ったようなやつ」が、「同じ大学なのに大学によって差別されるのはおかしい」とか大威張りで言うので、あほくさ、こんなやつでも「大卒」になるのなら、慶應でもどこでもいいから卒業して「大卒」になってやらないとあほくさいわ、と思って、嫌で嫌でしかたがない大学・学部でしたが、ともかく、卒業しました。 慶應の経済学部・商学部の出身者には実際に知性と良識のない「ブタ商人」みたいな人もいるかもしれないけれども、一方で、「中卒」を自慢にしている経営者などを見ると、慶應の経済学部・商学部あたりで学んできた者とは差があるのは明らかで、また、かつての慶應の塾長である小泉信三などは経済学者でもマルクス経済学者ではなく近代経済学の方の人ですが「ブタ商人」で良いなどとは言っていないわけであり、「これからの商人は、単に商いができるという人間ではなく、商人であるとともに学識のある学者商人でないといけない」という主張をしたのは誰かというと、慶應義塾の創始者である福沢諭吉であったはずで、慶應は「右手に日経、左手にエロ本」というブタ商人大学・ブタ商人学部という性格もないではないのですが、そうでない面もないわけではなかったのですが、何にしても、私が親であったなら、小学校からずっと、「本人が行きたいと思う所に行かせてやりたいと思うから、無理にでも勉強させようと親はするんだ」と言ってきておいて、実際に大学に進学する時になると、「てってこっこてっててってらったらったらったらあ~あ♪」「会社のために、犠牲にな~る! 犠牲になりたいなりたいなりたいという気持ちいい~い!」とかいう話になるというのは、私が親なら、いくらなんでも、それはかわいそうすぎると思うのですが、私の父は、どうも、「無理矢理やるのが好きなタイプ」らしく、息子が嫌がれば嫌がるほど、嫌がる方向に行かせたいという気持ちになる男だったようです。
父は、私に「うちは工学部なんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言ったのですが、その割に、ものすごい貧乏でものすごいかわいそうな家庭の息子だったはずのいとこ、父の弟の息子、私が幼稚園でクリスマスにもらってきたばかりの数字合わせゲームを、正月に「それ、もらって帰る」と言って持って帰った姉弟の弟の方は、京都工芸繊維大学しか行けないアホのくせに、工学部に行ったのです。 なんで? なんでやのん? なんで、世界で一番貧乏で世界で一番かわいそうな家庭の息子が、京都工繊大しか行けないのに工学部に行かせてもらえるのん? おかしいやんか。 なんでやのん・・・と思いました。 そして、それを言いました。 すると、母は、「あの子らは、家が貧乏で苦労をしてきているから、だから、大学くらい行きたいと思うところに行かせてもらえるんやわ」・・・。母はそう言ったのです。 ・・そうだろうか・・・・。
たしかに、我が家と叔父夫婦の家なら我が家の方が豪邸ではないとしても良い家に住んでいました。しかし、だからと言って、私が特別に贅沢な生活をさせてもらったかというとそんなことはありません。 むしろ、よその子が買ってもらえているものを買ってもらえないということが多かったのです。 それは、金持ちか貧乏かの問題ではなく、そういった「遊びの物」は節約して、そのかわりに、大学に行く時には行きたい大学の行きたい学部に行けるようにして、就きたい仕事につけるように、ということだったはずです。 ところが、そうやってきたはずなのに、私が大学に進学する時になると、「うちは文学部なんか行かすような金持ちとは違います」「うちは工学部なんか行かすような金持ちとは違います」「うちは医学部なんか行かすような金持ちとは違います。4年で卒業できる学部にしなさい」「うちは司法試験なんか受けさせるような金持ちとは違います」「うちは大学院なんか行かすような金持ちとは違います」「うちは学校の先生なんかならすような金持ちとは違います」「マスコミに勤めるなら産経新聞でないといかん。朝日はアカやからいかん。毎日もアカやからいかん」「国家公務員は転勤が多いからなってはいかん」「会社のために犠牲にな~る、撃ちてしやまん。とってちってたあ~あ!」とかいうことになったのです。「てってこっこてってえ~え♪ てってこっこてっててえ~え♪ てってこっこてっててってらったらったらったらあ~あ♪」とか言う大学学部以外には行けないようになってしまったのです。
もしも、家が貧乏であったなら工学部に行かせてもらえるのなら、貧乏な家の人間は間違いなく絶対に得だ! と思いました。 そして、気づいたのです。 いとこは「子供の頃から家が貧乏で苦労してきたから、だから、工学部に行かせてもらえるんや」と母は言うのですが、「子供の頃」、幼稚園でクリスマスにもらったばっかりの物を正月に取り上げられたのは私で、私がクリスマスに幼稚園でもらったばっかりの物を取り上げて持って帰ったのがいとこだったはずだ、ということに。 逆ではないのです。 『聖書』には、持つ者はさらに与えられ持たざる者はさらに取り上げられるであろう・・だかなんだかそういう文句があったように思いますが、まさにその通り、幼稚園の時に幼稚園からクリスマスにもらったばっかりの物をとりあげられた私は、大学に行く時にも「うちは工学部に行かせるような金持ちとは違います」と言って「てってこっこてってて~え♪ てってこっこてっててってらったらったらったらあ~あ♪」の大学学部に行かされれ、幼稚園の時に私が幼稚園でクリスマスにもらったばっかりのものを「それ、もらって帰る」と言って取り上げて持ち帰ったやつは、「あの子はあんたと違って貧乏で苦労しているから、だから工学部に行かせてもらえるんや」と言って京都工繊大しか行けないアホのくせに工学部に行かせてもらえる・・ということだった。
父も母も私には「芸大だの音大だのなんてとんでもない」と言っていました。大学に行く頃は。 しかし。小学生の時に、ピアノを習いに行かせ、発表会の時、ピアノを習う生徒は女の子の方が多いのですが、男では私とピアノの先生の息子くらいで、「先生の息子になんか負けたらいかん」とか言って母は尻をたたいたはずなのです。だから、私は、音楽の先生の息子、「世界的音楽家」にまではならないとしても、親と同じように高校か中学校の音楽の先生になったりピアノの先生や音楽教室の先生になったりするような息子に負けまいとして努力したはずで、そういう音楽の先生の息子に負けず、それ以上の実績を残して成果を出してさらに上を目指せば、親は喜んでくれるものだ・・・と勘違いしていたのです。 実際はそうではなかった。母は「うちの息子はピアノをやってますねん」と言って自慢したかっただけで、音楽家にも音楽の先生にもならせる気持ちはなかった。 ましてや、父は自分は生まれ変わったら岩城宏之になるとか言いながら、それはあくまで自分はであり、私には「あんたをここまで育てるために、カネがかかっとんのんじゃ。それをこれから働いて返してもらわんといかんのじゃ。とってちってたあ~あ」と言ったのです。 「東京海上火災のために。その1、その2、その3」「夜空にでっかく輝くあの星座が会社の中で最高の東京海上火災という星座だ。 あの星座の中でひときわでっかく輝く星になるんだ。東京海上火災養成ギプスだ。月夜の千本ノックだあ! 甘ったれるな! 」というのが父の考えだったようです。 私は小学生の時、図画工作の時間に描いた絵を、先生から大阪府の小学生の大会に出すからと言われて提出したことが2回あります。 提出してその後どうなったか聞かないところを見ると、それ以上にはならなかったのかもしれませんが、小学校の図画工作・中学校の美術も好きで、中学校を卒業する時、内申書では音楽とともに美術も「10」でしたし、中学校の時、何の科目が好きかというと音楽と美術の2つが一番好きでした。 もっとも、中学校のレベルで体育が誰よりできてもプロの運動選手になれるというものでもないのと同じく、中学校の音楽や美術で内申書の成績が「10」であっても、音楽家や絵描きとしてやっていけるかどうかといったことは別の問題でしょうけれども、しかし、父は自分は「生まれ変わったら岩城宏之さんのようなオーケストラの指揮者になる」とかぬかすのですから、私がそういう方向に挑戦したって、挑戦して成功しても成功しなくても、父の発言からすれば挑戦するくらいは悪くないような気もしたのです。 だから、「世界的音楽家」とか「歴史に名前が残るような画家」とかになるのはそう簡単ではないかもしれないけれども、芸大・音大・美大といった所に行って教員の資格をとれば、高校か中学校の音楽の先生、美術の先生くらいになれる可能性はあるのではないか、もしくは、たとえば、大阪フィルハーモニーの常任指揮者だった朝比奈隆は京大に行って京大のオーケストラ部から指揮者になったし、岡村喬生は早稲田大学でグリークラブに入ってそこから声楽家になったし、ハンス=ホッターはミュンヘン大学の哲学科に行ってそこから声楽家の道に進んだし、チャイコフスキーはもともと役人だったのが作曲家になり、ボロディンは医者で化学者であり作曲家は副業で、そうであるからボロディンはオーケストレーションの作業が必ずしもうまくなく、オペラ『イーゴリ公』も完成させることができず、ボロディンの死後、リムスキー=コルサコフがオーケストレーションを完成させたというが、そういったように、音楽大学以外の大学に進んで音楽家になった人もいるのだから、なれるかどうかはさておき、挑戦させてもらうくらいさせてもらったって悪くないのではないのか、とも思った(音楽家でも、声楽家と作曲家は、最初から音楽の道を専門に歩んだわけではないという人がいるようです)・・・・が、父の認識はそうではなく、「あんたをここまで育てるのにカネがかかったんじゃ。これから働いてそれを返してもらわんといかん」と言うのでした。 ところが。世界で一番貧乏で世界で一番かわいそうな家庭の子であったはずのいとこの姉の方ですが、神戸市外大に行ったものの、途中で、「画家になる」と言って神戸市外大をやめたというのです。 はあ? はあ? はあ?・・・・何、それ・・・・ はあ? はあ? はあ????? 我が家よりもずっとずっと貧乏でかわいそうな家庭の子供で、私がクリスマスに幼稚園でもらったばかりのものを「それ、もらって帰る」と言って取り上げて帰った女が、そういうことをしなければならないほど貧乏でかわいそうな家庭の娘が・・・、「画家になる」て??? はあ? はあ? はあ~あ????? そのいとこに幼稚園でクリスマスにもらったばかりのものを取り上げられなければならない私が、画家になるなんて言ったら、「あんた、頭おかしいのとちゃうか」とか言われるのに。私なら「うちは、絵描きになんかならすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」なのに、世界で一番貧乏で世界で一番かわいそうな家庭の娘のいとこが、神戸市外大しか行けない学力なのに大学に行かせてもらって、それをやめて絵描きになるだってえ~え? はあ? はあ? はああ~あ?????
母が私に「このどちらかをあの子たちにあげなさい」と言った時、私は、「あの子らも、幼稚園に行ってるんだから、あの子らももらってるでしょう」と言ったのですが、母は「もらってないそうやから」と言ったのです。 しかし、違うと思います。 その数字合わせゲームは幼稚園でもらわなかったかもしれません。 我が家でも、上の姉は数字合わせゲームを行っていた幼稚園でもらったようですが、下の姉はもらっていないのです。 私も幼稚園に2年、行きましたが、片方の年にもらったので、私が行っていた幼稚園でも、毎年、その数字合わせゲームをクリスマスに園児にプレゼントしているわけではないのです。 ですから、いとこの姉弟の2人も私とは違う別の幼稚園に行っていても、私の行っていた幼稚園はカトリックの幼稚園だったので、キリスト教系でない幼稚園と比べるとキリスト教色のあるクリスマスでしたが、キリスト教系でない幼稚園でもクリスマス会はやったでしょうし、クリスマスのプレゼントを園児に渡すこともしたと思うのです。 そこで渡した物が数字合わせゲームではなかったということでしょう。 もしかすると、もっと高価なものをいとこはもらったかもしれません。 だから、私が幼稚園でもらったものが欲しいというのなら、「相互主義の原則」で自分が幼稚園でもらったものを私に渡さないといけないことになるはずですが、そこは「ひとの物は自分のもの、自分のものは自分のもの」という原則? を出したようです。
私が父の立場であったなら、弟(私から見て叔父)に、「おまえら、うちの家に来てそういう態度をとるのなら、次から来るなや」とでも言ってやります。 ところが、おそらく、父は、叔父夫婦といとこの姉弟がそういう態度をとった時、ここは、わしが息子に何でも何でも買ってやあってやあってやあっているんやというところを見せる好機や♪ と思ったのではないでしょうか。 それで、母に、どちらをあげるか決めさせなさいと指示し、母は父にまったく逆らえない女でしたから、そのまま、私に、「どっちをあげるか」と言いに来たのであり、そして、私が、片方は「それは、おねえちゃんのやから、おねえちゃんにきいて」と言うと、「それなら、こっちをあげなさい」と私が幼稚園でクリスマスにもらったばかりのものを「あげなさい」と言い、私が「それは幼稚園でクリスマスにもらったばっかりやで」と言うと、「それなら、こっちをあげなさい」と姉の物をあげてよいと私に承諾しろと要求し、私が「お姉ちゃんの物をぼくがあげていいなんて言えないよ」と私が言うと、「それなら、こっちをあげなさい」と私が幼稚園でもらったばかりのものをいとこにやれと命令した、ということでしょう。
在来木造の一条工務店に勤めていた時、福島県いわき市で、同僚の家に1月の初めに呼んでもらったことがあります。 小学校低学年の女の子と幼稚園に行っている女の子の2人の子供があり、1月の初めに呼んでもらうのだからと思って、いくらかのお金をポチ袋に入れたものを2つ持って、その子供たちにあげるつもりで持っていきました。 しかし、タイミングを見て渡そうと思っても、子供がお年玉をもらおうとしないのです。 それで、結局、渡しそびれて持って帰って来てしまいました。 そこの夫婦は、子供に、よその人に、お年玉を催促するようなことはしてはいけませんと教育していて、そして、子供はお年玉をもらうものと考えていなかったのでしょう。子供がもらおうとしないのなら、親の方に、「これ、◇◇ちゃんに」と言って渡せばよかったのであり、渡しそびれて持って帰ってしまった私の方はミスですが、その家は父の弟の娘・息子とはずいぶんと違ったようです。 その同僚の夫婦が金持ちだったか貧乏だったかはこれは関係ないと思います。 今から考えると、よその家に行くと、人が気づいていない時に、眼を皿のようにして、何をもらって帰るか見まわしているというそういう子供って、そういう子供の親というのは金持ちか貧乏かにかかわらず、あんまり良い教育をしていないな、と今は私は思います。 叔父は途中で健康を害して働けなくなってしまいましたが、私などが会った時については、優しい人だったと思うのですが、そのあたりは良いとは思いません。
父は「グルメ」でした。食べないものがあるのです。 母が足をけっこう重い捻挫をしてしばらく立てなかったことがあり、大学生であった私が、夏休みに、食事の準備をしたりしましたが「レタスとキャベツはどちらがいいか?」ときくと、「キャベツ」と答えるのです。「ミカンとリンゴはどっちがいいか?」ときくと、「リンゴ」と答えるのです。なぜかというと、レタスは食べる時に自分でちぎらないといけないし、ミカンは食べる時に自分で皮をむかないといけないのに対して、キャベツはあらかじめ切ってあるし、リンゴはあらかじめむいてあるから。しかし、誰かが切っているから切ってある、誰かがむいているからむいてあるのですが、誰が切るのか誰がむくのかというと、「むいてくれ」と言うのです。私がむくらしいのです。レタスでも、全体が黄緑色のレタスと先端が紫のサニーレタスでは、父は全体が黄緑のレタスは食べることができるのですが、先端が紫のサニーレタスは「これ、気持ち悪いわ。あんたが食べなさい」と言うのです。それで、サニーレタスを買った時は、私が残飯整理のブタになって人の分まで食べるのです。そのあたりを母に話すと、母は、「それでも、結婚した頃に比べると、食べるようになったものや」と言うのです。結婚したばかりの頃はもっと偏食だったというのです。そして、それを自慢していたようです。 慶應の内部進学の人みたいに。
慶應のあるサークルの合宿に行ってびっくりしたことがあります。幼稚舎から慶應という人が言うことに。「種無しブドウ(デラウェア)なんて、そんな面倒くさいもの、よく食うなあ。ひとに皮をむいて皿に入れてもらって、スプーンですくってなら食うけれども、ひとつひとつ皮をむいて食うなんて、そんな面倒くさいもの食えるか。よく、そんなもの食うなあ。ミカンもそうだ。皮をむいてカラスにしてもらったなら食うけれども、自分で皮をむいて食うなんて、そんなおかしなことできるかあ」と言うのです。そして、さらに「こらあ。むけえ」と「外部の者」である私などの命令したのです。「命令」ですよ。そして、言ったのです。「外部の者を教育してやらんといかんからなあ」と。
そういう人のことを、「本物の慶應ボーイ」とか「スマートな内部進学者」とか言うのでしょうね。 種無しブドウをひとに皮をむいてお皿にのせてもらってそれをスプーンですくって食う人、ミカンをひとに皮をむかせてカラスにしてもらって食べる人のことを。「ギャルにもてもての慶應ボーイ」とか言うのでしょう。 たしかに、金持ちの息子らしいので、「結婚するにはいいかもしれない♪」でしょうけれども。 今の私なんかより年収もずっと多いでしょうし〔⇒《YouTube―シャインズ 「私の彼はサラリーマン」》https://www.youtube.com/watch?v=RykB69Hzn6I 〕。
慶應の内部進学の人というのは、「外部の者を教育してやらんといかんからな」と言うのですが、疑問に思うのは、どちらを教育するのかという点です。私のように、種無しブドウであろうが種ありブドウであろうが子供の頃から自分で皮をむいて食べてきた人間、ミカンを自分で外の方の皮をむいて内皮のまま食べてきた人間に、種無しブドウはひとに皮をむいて皿にのせてもらってスプーンですくって食うものだ、ミカンはひとに皮をむいてカラスにしてもらって食べるものだと「教育する」のか、それとも、「こらあ。むけえ」と内部進学者様のために「外部の者」は皮をむいてさしあげろ、内部進学者様のためには「外部の者」は種無しブドウやミカンの皮をむいてさしあげるのが当然だと「教育する」のか、どちらなのだろうと思うのですが、結論としては後者のようです。「こらあ。むけえ」と私も言われたのです。内部進学者様に。
小学校に行くかどうかの頃、私にリンゴの皮のむき方を教えてくれた母は、90を過ぎて、もう自分でリンゴや梨や柿の皮をむくことができなくなりました。私がむいてあげると、「あんた、本当に皮むくのうまいねえ」と言って喜んで食べてくれます。でも、おかあさん、あなたは私に種無しブドウをひとに皮をむいて皿にのせてもらってスプーンですくって食べる人のために、それをむかされるためにリンゴの皮のむき方を教えたのですか。そういう人の下男にならされる大学に私を行かせるためにリンゴの皮のむき方を教えたのですか。 たとえ尋ねても、90を過ぎた母に答える力はないようですが・・。
(2016.1.1.)
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