受験にかこつけた「特高右翼」YMCA予備校による思想調査、書物調べ―YMCA予備校の間違い≪1≫
[第223回]私のドラゴン桜(1)
1978年からしばらく、大阪府高槻市の大阪医大の北側にあったYMCA予備校高槻校は最低の予備校だった。 1979年、産経新聞の記事を見ていると、大阪府のどこだったか忘れたが、ある予備校に行った人が、テキストは市販の参考書に表紙だけその予備校の名前が刷られた紙を貼っただけのものでしかなく、授業はいいかげんで、おかげで大学受験に失敗してしまったと裁判に訴えるか訴えたかいう話が出ていたが、私もYMCA予備校を訴えたいくらいだった。 こう言うと、「でも、YMCA予備校高槻校に行っていても、京大に通った人だっているでしょ」とか言う者が出てきたりする。 なるほど、通った人間だっているだろう。 だから、そこに行ってうまくいかなかった者が問題点を指摘するなら、それは「負け犬の遠吠え」「ひかれ者の小唄」でしかないだろう、と言いたいらしい。 言いたければ好きに言えばよいが、YMCA予備校の内容が低劣であったことは間違いない。
地方によっては東京のものをありがたがる地方もあるかもしれないが、誇り高き関西人には東京崇拝などない。にもかかわらず。 駿台や代ゼミ、河合塾が大阪に進出してくると、YMCA予備校はあっと言う間に淘汰された。 私は当たり前だと思う。 私は駿台・代ゼミ・河合塾は模擬試験を受けたということと、駿台・河合塾は駿台・河合塾の発行の出版物を買ったことがある、代ゼミは1階の代々木ライブラリーで本を買ったことがある、代ゼミの1階の屋台みたいな飯屋で栄養バランス相当悪そうななんとか丼を食ったことがあるというくらいのものだが、それだけでしかない者にも、この3校の担当者は親切だった。 受験に関しての情報も少なくともYMCA予備校よりはずっと正確だった。 YMCA予備校の問題点は予備校として、(1)大学受験に役立たない、という点と、(2)反社会的存在である、という点の2種類の問題がある。 1970年代終わりにおいては、YMCA予備校は、関西では大阪府に土佐堀・阿倍野(天王寺)・豊中・堺・高槻と5校、関東地区に神奈川県横浜市に関内と菊名の2校あったが、今、インターネットで検索すると、すべてなくなったかと思いきや、まだ、阿倍野(天王寺)1校だけ残っているらしい。 さっさとつぶれればいいのに、まだ残っているのかと思う。
YMCA高槻に「主事」という肩書でいたF井などは、おそらく、「全国的予備校に勝てなかった」とか「ブランド志向がどうしてもあるから」とか言い訳するかもしれないが、そういう問題ではない。 駿台予備校はもともと、東京の御茶ノ水(駿河台)にあった主として東大を受ける人を対象とした特別に大規模でもない予備校だった。 代ゼミ(代々木ゼミナール)ももともとは東京の代々木に1校あっただけの予備校だった。駿台が東大を目指す人を中心とした「高レベル」のイメージだったのに対し、代ゼミは「大衆向き」みたいなイメージのある予備校だった。 河合塾も名古屋の「塾」から始まっている。いずれも、最初から全国規模だったわけでもなく大手だったわけでもないはずだ。 それが全国規模に伸びて行ったのは伸びる要素があったからだと思う。 東京圏に住んで東京圏の住人を相手として仕事をしてみて、東京圏の住人の関西嫌い、大阪アレルギーが思っていた以上に大きいことを知った。 証券会社の大阪屋証券は大阪では老舗の中堅証券会社だったが、東京圏にも進出しようとした際、「大阪屋・・」という会社名ではやりづらいということでコスモ証券と会社名を変えたが、何が悪かったのかわからないが衰退した。 住友銀行がさくら銀行と合併して三井住友銀行という名称にしたのは、住友の人間が「三井」の名前を入れようと主張したという話を何かで読んだ。おそらく、住友銀行ですら、東京圏では関西の会社ということでやりづらいところがあったのではないか。だから、三井系の会社から仕事をもらおうということもあるだろうけれども、関西ではそれほどではないが東京圏ではブランドの「三井」を頭につけて、それとともに、三井住友銀行とすることで東京圏でも関西圏でも仕事がしやすいようにしようという考えがあったのではないかと思う。小堀住研(株)にいた時、東京圏においても関西から東京圏に移り住んだ人もおり、そういう人の知り合いの東京人もいたのではあるが、そうであっても、「東京もん」の大阪本社の会社に対する拒否反応、大阪発祥の会社に対する軽視は私も感じ(だから、東京圏では関西圏に比べて販売数において低価格帯のものの占める割合が大きかった)、かつ、大阪でずっと仕事をしてきた人にはそれをわかっていない人がいると感じた。 予備校がその地域だけのものとして存在できたなら、「地域密着」で悪くないが、人の移動が頻繁になり、模擬試験の実施や受験の情報の把握でも全国でのものが必要になってきた時、「大阪・・・」という名称をつけていたりすると、全国展開を進める予備校が進出してきた時に弱いということもあるかもしれないが、「YMCA」というものは、もともと、「大阪のもの」というわけでもなく、東京にもYMCAとかYWCAとかの施設はあり、慶應の日吉にもヴォーリズが設計したYMCAのチャペルはあるし、1979年には西城秀樹が「YMCA」を宣伝するような歌まで歌って連日テレビで放送してくれたりしたくらいだし(⇒《YouTube―西城秀樹 ヤングマン 》https://www.youtube.com/watch?v=_SOD0mDNmtE )、というより、「YMCA(ヤングマン)」の歌自体、もともと、アメリカ合衆国のヴィレッジピープルというグループの歌だし(⇒《Daily motion―Village People - YMCA (version originale)》 http://www.dailymotion.com/video/x2b1a0_village-people-ymca-version-origina_music )、〔「≪「Y.M.C.A.」(Young Men's Christian Association)とは、キリスト教青年会による若者(主に男性)のための宿泊施設のことを指すが、ユースホステルのようなドミトリー(相部屋)の部屋もあるため「ゲイの巣窟」とされ、「Y.M.C.A.」はゲイを指すスラングでもある。この楽曲も、題材をゲイにおいた「ゲイソング」であり、歌詞の中には様々なキーワードが隠されている。≫(《ウィキペディア―YMCA (曲)》https://ja.wikipedia.org/wiki/YMCA_(%E6%9B%B2) 」らしいが〕 YMCAというもの自体、大阪とか関西でできてものでもなく、≪1844年に、ジョージ・ウィリアムズら教派を異にする12名のキリスト教青年によって、イギリス・ロンドンで、キリスト者に限らず青年層に対する啓蒙および生活改善事業のための奉仕組織として創立された≫≪キリスト教主義に立ち、教育・スポーツ・福祉・文化などの分野の事業を展開する非営利公益団体である≫(《ウィキペディア―キリスト教青年会》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E9%9D%92%E5%B9%B4%E4%BC%9A )というもので、「大阪」「関西」をイメージする名称でもなく、運営をうまくやれば、全国展開を進めて駿台・代ゼミ・河合塾などにも劣ることもなく、東京にも進出できる要素は持っていたが、それにもかかわらず、あっという間に衰退したのは、衰退する理由があったからだ。
念のため、断っておくが、私はもともとYMCAに敵意を持っていた人間ではない。逆に、小学生の時、YMCAの体操教室に2年間通ったことがあり、YMCAを身近に感じ親しみを持っていた人間である。YMCA予備校、特に高槻校が反社会的だと思うようになったのは、実際に反社会的だからだ。
高校生、受験生の方で私のブログを読んでくださる方もあるようだが、ここで私が指摘する点に気をつけて、 YMCA予備校のよくない点に自分が陥らないようにすれば、合格する可能性が高くなり、YMCAのよくない点を実行すれば落ちる可能性が高くなるはずだ。すでにわかっている人にとっては「なにを今さら」と思えるかもしれないが、わかっていない人にとってはけっこう役立つと思う。また、 『東大機械的合格法』『司法試験機械的合格法』の著者・柴田孝之が、 こうするべきだというものをすべて実行できなければ必ず落ちるというものでもないし、こうするべきだというものを実行すれば絶対に合格するというものでもないが、こうするべきだというものを実行すれば合格する可能性が高くなり、こうしない方がよいというものをすれば落ちる可能性が高くなる、といったことをどこかで述べていたように思う。 私もその点は同じように思う。こうした方がよいと言われるものを実行していないと、自分は落ちるのではないかと心配しがちだが、こうするべきだと言われるものをひとつでも実行できていなければ必ず落ちるというものでもなく、こうしない方がよいと言われるものを1つでもやったら必ず落ちるというものでもない。
YMCA予備校に行っていても通った者もいるではないかというのは、
(1) 1つには「親の違い」がある。世間の経験と受験の経験のある親はYMCA高槻がおかしいことに気づいたと思う。私の親は気づかないだけでなく、私が言っても、父などは「専門家の言うこと、専門家、センモンカ、せんもんか」とかアホなことを言っていたし、母は「あの人はクリスチャンだから決して悪い人じゃない」とか寝ぼけたことを言っていた。 親自身が北野・天王寺など進学校を卒業して京大・東大などに行ったような親は、YMCAがおかしいことを見抜き、息子(娘)に教えたと思う。そういう親の息子・娘はうらやましいと思った。 数学者で教育論者である遠山啓は父親が早くに他界したそうで、父親がある息子をうらやましく思うこともあったようで、『教育問答 かけがえのないこの自分』(太郎次郎社)で、 「父親というものは外敵から子供を守ってくれる」とかいうようなことを書いていたが、それは父親のない子供として育った人が言う事であり、そういう父親も世の中にはあるだろうけれども、すべての父親がそうというわけでもなく、むしろ、外敵を引っ張り込んでくる父親だっているのだ。 そういう父親が自分の親であったとしても、それでも、その人が自分の親であったなら、しかたがないではないか。 ひとの親を見て、いいお父さんだなあと思う時もあるとしても、ひとの親はひとの親なんだから。 しかし、そうは言っても「外敵から守ってくれる父親」がいる家庭はうらやましいと思ったのは事実である。
(2) また、受験生にも、タイプがあり、たとえば、「常に端に行かない」という習性をもって生きている男とかもいる。 これは何かというと、世の中が右に寄った時に左の端にいると危ない、左に寄った時に右の端にいると危ない、ということで、常に世の中の中ほどにいるように移動する人間というのがいるのだ。 そういう男はYMCAのF井などから攻撃を受けにくく、ダメージは少ない。 特高YMCAとしては、特に左翼とかでなくとも、なんらかの「思想」は取締まりたいらしいが、 のっぺらぼうの平面顔みたいな男というのは、特高YMCAの取り締まりの対象になりにくい。そもそも、ぺったんこの顔の人間はひっかけようとしても出っ張りが少ないからひっかかりにくい。そういうこともあるが、
(3) YMCA予備校のよくないところを実行させられても、受験は好ましくない方法を1つとったら必ず落ちるというものではないし、好ましい方法を1つとったら必ず通るというものでもないから、好ましくない影響を受けることがあったら、全員が必ず落ちるというものでもなく、通る者が何人かいたとしても不思議でも何でもない。 だから、「通った人間だっているはずだ」という主張はあまり意味はない。

↑ YMCA予備校高槻校はつぶれ、YMCA予備校高槻校として使われていた建物は今もあるけれども、それは今は 大阪医科大学 本部北西部キャンパス となっている。
【1】 YMCA予備校高槻 は、特高右翼 である。
YMCA高槻の「主事」というよくわからん役職についていた藤井という男が、私に「どんな本、読んでるんだ」と質問し、「見せてみろ」と言ってきた時があった。 どういう意味できいているか、と思い、感づいた。 この男は特高右翼だ、と。
その時、私のかばんに入っていたのは、田中美智太郎『ソクラテス』( 岩波新書)であったが、違和感を覚えながらも、それを見せると、彼は、「それはいいわ」と言ったのだ。 どういうつもりで「いい」と言ったと思いますか? そこが問題なのです。
私が、なぜ、その時、田中美智太郎『ソクラテス』(岩波新書)をかばんに持っていたか、読んでいたかというと、教学社から出ている「赤本」、大学別過去問シリーズの『東大 文科』の「科目別学習法」だったかいうところで、「国語」の「現代国語」の対策として、埴谷雄高や田中美智太郎の本を読むと書いてあったから、この2人の本を読んでおいた方がよいのかと思って、文庫本・新書本の目録を見ると、田中美智太郎の『ソクラテス』『古典への案内』が岩波新書に、『ソフィスト』が講談社学術文庫にあり、とりあえず、岩波新書の『ソクラテス』を読んでおこうかと考えたからです。 田中美智太郎という人の名前を最初にどこで知ったかというと、新潮文庫のプラトン『ソクラテスの弁明・パイドーン』の訳者として名前が出ていたところからで、それ以上、どういう人か特別よく知っていたわけでもなかったのですが、教学社の『東大 文科』で「学科別対策」のところにそう書いてあるのなら、一冊くらいは、ともかく読んでおかないといけないのではないかと、その時は考えたわけです。
私は、結局、二浪までしてしまったので、現役で通った人より受験期間が長く、田中美智太郎の『ソクラテス』『古典への案内』(岩波新書)・『ソフィスト』(講談社学術文庫)と埴谷雄高の『墓銘と影絵』(未来社)を、一通り、読みました。 それは役に立ったかどうかというと、マイナスになっていないかもしれないけれども、大学受験において、「コストと利益を比較衡量して」⇒「それにかける時間・労力が行きたいと思う大学学部の試験問題の点数を上げるために十分に役立つか、他のことをやるのとそれをやるのとで、他のことをやるよりも効果が高いと考えることができるか」というと、よくわからない・・というより、結論を言ってしまえば、要らないのではないか。 教学社の『東大 文科』を読むのが高校1年の最初の時なら、田中美智太郎の本は易しい読みやすい文章で書かれているので1冊くらい読んでも悪くはないが、浪人してまで、無理に何冊も読むよりも、「どの科目の点数でもよいから全体の点数をあげる」という点から考えるならば、その時間に英語の単語・熟語の1つでも2つでも覚えた方が点数アップにつながる度合いは大きいのではないか、という気もするのです。
さらに言うと、なぜ、埴谷雄高と田中美智太郎なのか、というのがよくわからないのです。 田中美智太郎の文章はたいへん易しい読みやすい文章で、その点は私は好きです。 それに対して、埴谷雄高の文章は読みにくい、わかりにくい。 述べている内容のレベルが高いからとかではなく、文章がどうもわかりずらい文章だと思うのです。 そして、その人間と書いている内容ですが、田中美智太郎という人は学者としては、政治的に「右寄り」の学者だと言われている人で、青木慧『タカ派知識人 組織と人脈 500人』(汐文社)でも指摘されている人ですが、政治的に「右寄り」の「学者」にも、
(1)政治的に右寄りの立場であるがそれなりに論理的なこと、説得力のあることを述べる人と(最近、憲法学者の慶應の小林節名誉教授が週刊誌などによく登場していますが、小林節名誉教授は「右寄り」の人と言われているようですが、私が週刊誌で見たものについては筋の通ったことを述べておられると私は思っています)、
(2)「学者」だといっても竹村健一や山本七平とほとんど変わらないただのアホやんけ!という人がおり、そして、
(3)学者としての研究対象と政治的態度ははっきりと分かれている人、政治的態度はどうかな?と思えるところがあっても、学者としては純粋に学問的態度で発表をしているという人がおり、
田中美智太郎はこの3番目のタイプのはずで、ソクラテスなどギリシアの古典哲学の研究者として純粋学問的に発表をしている人であったと思います。だから、岩波新書や講談社学術文庫に収録されている本は読む気にもなる内容ですし、大学入試の現代国語の題材として採用されるのもわかります。 それに対し、埴谷雄高は、≪1931年(昭和6年)、日本共産党に入党。5月、逮捕を逃れて地下生活に入る。 1932年(昭和7年)3月、小石川原町の同志宅を訪ねたところ、張り込みの警官に逮捕される。50日余りを警視庁富坂署の留置場で過ごした後、5月に不敬罪および治安維持法違反によって起訴され、五・一五事件の日に豊多摩刑務所の拘置区へ移管され、未決囚として過ごす。≫≪1933年(昭和8年)、結核により病監へ移される。2月、「天皇制を認めるならマルクス主義を奉じてもよい」と検察から説得され、転向の上申書を提出し、11月、懲役2年・執行猶予4年の有罪判決を受けて出所。≫(《ウィキペディア―埴谷雄高》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B4%E8%B0%B7%E9%9B%84%E9%AB%98 )という人で、イメージとして、「左翼っぽい」ところもあるものの、戦中に転向した人であり、どう評価するかはともかく、そういう人で、結論として、田中美智太郎とはずいぶんと違うのです。
東大の「国語」の試験問題は、1979年の試験から始まった共通一次試験の前と後で、出題傾向にはほとんど違いはなく、文科1類・2類・3類は現代国語が2問、古文が2問、漢文が1問で、現代国語は「文学」の分野から1問、「評論」の分野から1問出題されていたのです。 その「評論」の分野の文章を読むにおいて、普段から、そういう文章を読んでおくべきだろうということで、教学社の「東大 文科」の作者は書いていたのだと思います。 ちなみに、高校受験と大学受験において、国語の問題に頻出作家としては、高校受験では、私が受けた1970年代半ばでは、亀井勝一郎、大学受験では、文学の分野で森鴎外、評論の分野で小林秀雄が頻出作家とされており、特に、小林秀雄の『考えるヒント 3』(文春文庫)は読むべきだと言われていて、それから、作家ごとではなく作品として読んでおくべきだと言われたのが大野晋『日本語の文法を考える』(1978.7.20.岩波新書)で、私も読まなきゃならないものかと思って読みましたが、これも、結論を言うと、要らなかった。 時間が十分にあるなら読んで悪いということはないが、「限られた時間で、行きたいと思う大学学部の試験に合格するために、いかにすれば合格最低点を上回ることができるか、そのために、何に時間を費やすのが全体の点数の上昇につながりやすいか」という視点から考えた時、もっと他に時間を費やした方が、点数アップにつながる可能性が高かったのではないか、という気がします。 そして、田中美智太郎と埴谷雄高ですが、なぜ、この2人がセットになって名前が出ていたのか? それから何十年か経って考えてみると、よくわからんのです。 結論を言ってしまえば、教学社の『東大 文科』のその欄を書いた人が、なんか知らんが読んでみようかいなあと思って読んだだけ? なんて可能性もありそうな気もするのです。 文章・文体も違うし、政治的姿勢も違うし、評論で扱っている対象も違うし、もともと、セットになるような2人ではないと思います。 評論の分野の1題を解くのに、東大の現代国語の評論で取り上げられるような作者の評論をまったく読んだことがないというのでは、解答しにくいのではないか、というくらいで、それなら、その作者としてどういう人のものを読むべきなのか、と言われたら、教学社の『東大 文科』のその欄の筆者としては、「たとえば」としてあげるならとして書いたのがこの2人だったのではないか。 だから、悪いということではないが、絶対的なものとして考える必要はないものだった、と今は思います。
〔 大野晋『日本語の文法を考える』(1978.7.20.岩波新書)を読んでおくべきだと言ったのはYMCA予備校の古文の講師・山之内だったが、読んでおくといいと彼は思って言ったのだろうけれども、今、考えると、要らなかったと思う。 「コストと利益を比較衡量して」考えると、コスト(それに費やす時間)の割に利益(その結果として、大学入試でどらだけ点数アップが期待できるか)が小さい。〕
で、たまたま、カバンの中に入っていたので、つい、見せたのですが、それを見て、YMCAの藤井は、「これはいいわ」と言ったのですが、そのあたりのやりとりに違和感を覚えたのです。 上に述べた、田中美智太郎と埴谷雄高の評論を受験生が現代国語の対策として読んでおくべきか、読むとすれば、この2人の著書をことごとく読破するくらい読むべきか、1冊読めば十分というものか。 私は実際に受験に際して読み、その上で↑のように考えるに至ったのだ。 自分が経験してもいないYMCAの藤井なんぞにわかるわけがないではないか。 千葉市中央区の工務店・新華ハウジング(有)で自称「工事責任者」のU草が、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」と大きな声で何度も口にしていたのだが、やったこともなしにそういう発言をするというのは、その仕事を苦労して実際にやってきた人間に対して失礼であるが、何より、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」という発言は、「ぼく、営業の仕事をなめてますから」と言っているのと変わらない。 教学社から出ている大学別過去問シリーズの『東大 文科』の「学科別対策」の項目で、田中美智太郎と埴谷雄高の本を読むべきだと書かれていたのを、F井が見ていたかどうかはわからない。 見て、そのまま伝えるだけなら「子供の使い」であるが、もともと、「子供の使い」くらいしかできない人間だから、「子供の使い」でもやったならほめてあげるべきかもしれない。 私なら、「学習法」としてこうするべきだと述べている人がいて、それを読んだ場合、なるほど、その通りだと思うこともあれば、そうかな? と思う場合もある。 だから、そこで誰かが述べていることと同じことを話したとしても、私もそう思うと考えた上で述べるのだが、自分が京大・東大クラスの大学に通ったことはおろか、受けたことも受けようというくらいの学習をしたこともない男にわかるわけがない。
それなら、YMCA高槻の藤井が「それはいいわ」と言ったのはどういうところからか。 田中美智太郎という人が政治的に右寄りの人だからだった。 埴谷雄高の本をその時、持っていて見せたなら、返答は変わった可能性がある。 彼が言う「どういう本を読んでるんだ?」というのは、思想調査だった。 そして、大学受験において、私が↑で述べたように、「評論」の分野の本を大学受験のために読むべきか、埴谷雄高・田中美智太郎という人の著書を読んでおく必要があるかといったことについては、私は自分自身が経験した上で↑のように思うに至ったのだが、経験のない藤井にわかるわけはなく、アドバイスなんかできるわけがないのだった。
この時、気づいたのです。YMCA予備校高槻校の「主事」藤井の言う「どんな本を読んでるんだ」というのは思想調査だということに。 次からは、同様の質問をされても、正直に答えてはならない。カバンには、実際に読んでいるかどうかと別に、人畜無害なもの、もしくは、田中美智太郎のように「右翼タカ派知識人」と言われる人の著作を1冊、「見せる用」に入れておいた方がよいかもしれない、と。 その時も思いましたし、今も思うことですが、そんなことに気を使わなければならない予備校というのは、本当にくだらない予備校で、害があると評価せざるをえません。受験という点で見て妨げになる。 又、そんな思想調査をする特高右翼はキリスト者ではないと私は思います。
何で読んだか忘れてしまったのですが、警察の相当上の方の人間が、「私は岩波書店の本は読まないようにしている」と大威張りで発言したことがあり、その文章の筆者は、これは「私はまともな学識はありません」と言っているのと変わらない、岩波書店の本を読まないとなると、古典と言われるようなものは読まないということであり、「私はアホです」と言っているのとほとんど変わらないことになる、というようなことを述べていたが、YMCA予備校高槻の藤井もそれに似ており、特に革命理論とか「過激派の文書」とかではなく、夏目漱石でも森鴎外でも福沢諭吉でもキルケゴールでも内村鑑三でも、なにより、聖書でも「読んではいけない本」に指定する男ですから、田中美智太郎については「これはいいわ」と特高右翼YMCAが許可したわけですから、カバンには田中美智太郎の本を1冊入れておいて、「何を読んでるんだ?」とひっかけてきた時には、それを見せるようにするか、できるだけ、そういう質問を受けないように、できるだけ、特高右翼とはかかわらないようにするべきだということになります。 できるだけかかわらないように、できるだけ話をしないように、こちらの情報を知らせないようにした方がよい予備校・・ということは、そんな予備校は、要するに「行かない方がよい予備校」ということになり、資本制社会における企業としては「存在する理由がない」ことになり、その結果⇒つぶれた。 駿台・河合塾・代ゼミが大阪に進出してきたからつぶれたのではない。 もし、駿台・河合塾・代ゼミが進出してこなくても、YMCA予備校のシェアはどこか他の予備校にとってかわられたでしょう。
高校卒業時に大学の試験に落ちた時、過去3年間を振り返り、不十分だったところをやり直し、その上で受験対策をきっちりと取るべきだと考えたのですが、その考え方は適切ではなかったと今は思います。どこが適切でなかったかというと、「不十分だったところをやり直す」必要はなかったと思うのです。高校の授業や高校の先生が課題として出したもの、高校生の時にやろうと思ってできなかったもの、高校のテキストに載っていたものや購入した「参考書」でやろうと思って十分にできなかったものをやり直さなくても、結論を言えば、次の入学試験に通ればよいのだ。 (大学の入試に合格する為という点では)その目的に必要ないものなら、高校の教科書に載っているものでも何でも要らないものは要らないのだ・・・・が、その時はそう考えなかった。 高校の国語、特に現代国語においては、教科書に作品が登場する作家・文学者の小説・評論は教科書に小説の一部分が出ているならその小説を初めから終わりまで、ごく短編の小説が載っている場合は、その文学者の他の小説を1つ、読んでおくべきだと高校の時は考え、実行したものもあれば実行できなかったもの、本を購入して読みかけたものの、途中で止まってしまったものなどありました。 浪人して、その読み切れなかったもので読んだものがありました。 これが受験対策としてよいかどうかというと・・・、あまり良いとは思いません。マイナスになるかというと、 「内容のある書物は受験の対策にならなくても、人生にとってプラスになるものではないか」というようなことを言う人が世の中にはいるのですが、というより、北野高校の3年の時の担任だったOがそういうことを言ったのですが、そうであっても、高校の3年、もしくは浪人中はそういう考えはしない方がよいと思います。「人生にとってプラスになる読書」であっても受験にとってプラスにならないようなものはその時期は控えめにした方がよいし、人生にとって特にプラスにならないものでも受験にプラスになるものならその時期はやるべきです。 高校の現代国語に登場する文学者・評論家の作品を教科書に出ているもの以外に1つ読んでその作家について理解するようにしようと考えたのは、北野高校の1年の時に現代国語を担当していた女性教諭S野が「現代国語は問題集なんかやってもプラスになりませんから」と言うので、それならと考えたことと、教科書に登場した作家の教科書でとりあげられた作品以外のものを定期考査に出題したりしていたからだったが、2浪までして実感したが現代国語は「問題集なんかやってもプラスにならない」ということはない。2浪の時に、学燈社から出ていた『現代国語 難問を解く本』だかなんかそういう感じの題名の問題集を初めから終わりまでじっくりと腰を落ち着けて解いた上、どこが間違ったか、どうすれば間違わなかったかということを徹底的に考えたことと、模擬試験の解答が返ってきた時にその問題を徹底的に分析したことの2つから、国語に関しては、2浪時には成績はずっと上昇し、東大の2次試験でも国語に関しては東大受験生の中でも上の方の成績が取れたと思う。 「現代国語は問題集なんてやっても役に立たない」などということはない。 で、教科書に出てくる文学者・評論家の作品を教科書に出ているもの以外に1冊、読むというのは、高校の1年の時なら、登場するすべての作家・評論家についてやることは時間の上で難しいと思うが、何人かについてやるのは悪くはないと思うし、それなりにプラスにはなると思う。しかし、高校在学時にやりきれなかったからといって、浪人してまでやることはないと思う・・・が、1浪時に、私はやった方がよいと思って、何冊か読んだ。その1冊は、岩波文庫の『北村透谷全集』で、高校の現代国語の教科書では、明治初期の知識人として、北村透谷と福沢諭吉として出ていたのだ。
それで。 もしも、YMCA高槻の「主事」だという思想警察・藤井が、「どんな本、読んでるんだ。見せてみろ」と言って来た時、私のカバンに入っていた本が、『北村透谷全集』(岩波文庫)だったとしたら、おそらく、F井は、こういうものは読むべきではないとか言い出したのではないかと思う。あるいは、教学社の『東大 文科』に田中美智太郎とともに読むようにするとよいとして名前が出ていた埴谷雄高であったなら、埴谷雄高は「ちょっと左翼っぽい」文章も書いているので、「こういうのは読むべきではない」「ぼくらは、あくまで受験の目的で読まない方がいいと言ってるんだ」とか言ったであろう。 「受験」を大義名分にして、少しでも骨のある本は読まさないようにしようという魂胆である。 で、高校の現代国語の教科書に登場する文学者・評論家の作品を教科書に掲載されているもの以外に1冊ずつ読むというのが、受験の国語にとって役に立つか立たないか、というようなことは、東大や京大を受けたこともない藤井にそんなものわかるわけがないのだ。 YMCA予備校の藤井は、受験に役立つかどうかではなく、骨のある文学作品は人格形成のこやしになる(思想は、読書から生まれるのではないとしても、読書は思想形成のこやしになる)ので、そういうものは読まさないようにしようと考えている男であり、「受験」を名目にかかげれば、思想取締りをやってよいという信念を持っている男だった。 だから、「右寄り教授」「右翼文化人」として青木慧『タカ派知識人 組織と人脈』(汐文社)とかに名前が出ている田中美智太郎の著書の場合は、「これはいいわ」と言うのだが、特別に「左翼」とか「革命理論」とかいうようなものでなくても、夏目漱石でも森鴎外でも読ませたくないようだった。
何より、「『聖書』なんて、あんなもの、読んではいかん」と彼は言ったのだ。 YMCAという団体の「主事」という役職の男が。 なぜ、「読んだらいかん」のか。 浪人中においても、心のささえとして、聖書を開き心を落ち着けることがあって何が悪いのだろうかと思ったが、藤井が言うには、「聖書みたいなもん、あんなもん、読んでいいことなんて、何ひとつとして書いてないんだ。あんなもん、読むものと違うんだ。聖書なんて、読まなくていいんだ。聖書なんて読まなくても、僕らもクリスチャンとして日曜ごとに教会にいって礼拝にでて献金を払っているんだから、それでいいことなんだ。聖書なんて読むものと違う。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。 たとえ、読むにしても、ずっと歳いってから読んで、『はあん、そんなもんか』と思えばよいことで、若いうちに読むというようなことは絶対にしてはいかん。 聖書なんて、絶対に読んではいかん!」と言ったのだ。 はあ? ヤングメンズクリスチャンアソシエーションの職員がそういうことを言うか・・・・!!! はあ・・・・。 で、あなたがそう思うならそれでも良いが、そう思っている人が、なんで、YMCAに勤めてるんだ? そんなこと思っている人が、なんで、教会で洗礼を受けるんだ??? と思いませんか?
藤井は私などに言うだけではなく、私の知らない場所で親にもそういうことを話していたらしく、母は「あの人はクリスチャンだから悪い人じゃない。」と「クリスチャンだから」ということで決めつけて、そして、「あの人は、YMCAで主事になっているくらいだから、ただのクリスチャンじゃない。クリスチャンの中でも相当にえらいクリスチャンのはずだ」とか言い出し、そして、「ああいう敬虔なクリスチャンの言う事は聞かなきゃいけない」と言って何をしたかというと、私から聖書を取り上げたのだ。 「敬虔なクリスチャン」のやることというのは、そういうことなのだ。
YMCA高槻の藤井は「『聖書』というようなものは自分で読んで考えるものではなく、日曜に教会に行って牧師から説教を聞いた上で献金を払えばそれでいいものであって、自分で読んで自分で考えるというようなことは絶対にしてはいかん」と言うのです。 これは、この発言自体が、民主主義に反するもの、ファシズムの思想ではありませんか?!? キルケゴールは「神の前の単独者」として、聖書を通じ、聖書を前にして、ただ、神とのみ語ろうではないか、神と対峙して、神の前の単独者として、ただ、神の前に義とせらるため、歩もうとしてはずです。 内村鑑三もまたそうでしょう。 YMCAというのは、キリスト教の団体を称しているが、実際はキリストの敵ではないのか!
『北村透谷全集』(岩波文庫)に収録されていた北村透谷『人生に相渉るためとは何の謂いぞ』は、その時、読んで、なるほどと思ったのです。 その頃、父は「東京海上火災、東京海上火災」とか言っていたのです。 せっかく、小学校の1年から他の生徒が遊んでいる時も勉強してきたのに、それを「東京海上火災のために」に置き換えるのは嫌だと思いました。 「あの夜空にでっかく輝く星座が、あれが東京海上火災という星座だ。 飛雄馬、あのサラリーマン世界の頂点に輝く東京海上火災の星になれ。東京海上火災養成ギプスだ。月夜の千本ノックだあ~あ!」とかみたいなことを父は言っていたのです。(さすがに、そのままではないけれども)(「父ちゃん、おれ、何だってこんなことしなきゃならないんだよお」)〔⇒《Daily-巨人の星 第001話》http://www.dailymotion.com/video/x1d7gv9_%E5%B7%A8%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%98%9F-%E7%AC%AC001%E8%A9%B1_shortfilms 〕 神への信仰をマモン(富)への信仰に取り換えるようなこと、東京海上火災への信仰に置き換えるようなことはできない、「人はパンのみで生きるにあらず」と言うと、「甘ったれるな!」「東京海上火災じゃ。とってちってたあ♪」とか言っていました。 文学の目的に『人生に相渉るためとは何の謂いぞ』という北村透谷の文章は、いかにももっともだとその時は思いました。 もっとも、司馬遼太郎の『国盗り物語 (一)~(四)』(新潮文庫)がNHKの大河ドラマになった時〔《YouTube―
国盗り物語のテーマ 》https://www.youtube.com/watch?v=CgbVhpXdIAM 〕、第1回の放送の冒頭、京都の路上で、乞食同然の西村勘九郎(後の斎藤道三)が「天下が欲しい」とつぶやくのに対し、連れの赤兵衛が「何が、天下じゃ。 天下よりも、今、一椀の冷や飯が欲しいわ!」と言い、西村勘九郎が「そんなことを言うヤツに天下はとれん」と言い、赤兵衛が「ふん。何を言っとるか」と言う場面があったと思いますが、たしかに、やっすい給料でこきつかいやがって、という会社に勤めると、「天下」よりも「今、一椀の冷や飯」の方が欲しくはなりますよね・・・・。「人はパンのみで生きるにあらず」というのは、生活のために働かなくてよいと言ってるのでもないわけですが。そもそも、大学の哲学科でキルケゴールの研究をやっている人とかいうのは、父に言わせれば「甘ったれとる!」ということになったわけです。 では、どういうのが「甘ったれとる」人間でない人間かというと、「撃ちてしやまん。一億火の玉」「欲しがりません、勝つまでは」とか「とってちってたあ!」とか「会社のために死ぬほど働く、死んでも働く。とってちってたあ」「木口小平はちんでもラッパを離ちまちぇんでちたあ~あ」「滅私奉公」「会社のための犠牲にな~る! 犠牲の精神! 会社の犠牲になりたいなりたいなりたいという気持ち~い!」、「東京海上火災、東京海上火災!」「東京海上火災のために」というのが甘ったれてない人間だったらしい。 でも、大学でキルケゴールの研究をやっている人というのは、給料をもらって生活しているわけですから、別に「甘ったれ」てないのではないのかと思ったのですが、父が言うには「甘ったれとる」そうでした。井上靖の『天平の甍』では、普照という若い僧侶が遣唐使の船に乗って危険を冒して唐に学びに行くことについて、1年やそこらのために命をかけることはできない、唐で何年も学べるというから危険を冒してでも唐へ渡ろうという気持ちになれるんだ、と述懐する場面がありましたが、私はそれと同様の気持ちでした。行きたい大学の行きたい学部に行ってやりたい学問を一生続けることができると思って小学校の1年から他の同級生が遊んでいる時も勉強してきたのに、「東京海上火災のために、とってちってたあ~あ!」にされたたまるものか!と思いました。 その後、さらに「哲学なんか勉強しようというヤツは頭がおかしいんじゃ。 そういう人間はモラトリアム人間病という病気にかかっとるんじゃ。甘ったれてはいかん。甘ったれとるからモラトリアム人間病にかかるんじゃ。慶應大学の小此木啓吾先生がおっしゃってる」「大学は勉強するところと違うんじゃ。甘ったれるな」とか言い出しました。 この後、父の親友の「医者」で、父のニーズに答えて「『宗教はアヘンだ』とマルクスは言っておる」とか吹き込んだ男がおり、父はそれを喜んで、私に「宗教はアヘンだ。哲学はアヘンだ。キリスト教はアヘンだ!」と何度も言っていました・・・・が、「キリスト教はアヘンだ」とか叫んでいる人が、なんで、キリスト教の教会で洗礼受けて、キリスト教で結婚式して、キリスト教で葬式までしたのか、・・・なんかようわからんのですが、そういうおっさんでした。 だから、うちの親とYMCAの藤井はけっこう「似た者同士」だったのかもしれません・・・・が、YMCAと似たところがあったのは父の方で、うちの親でも母の方はそうではなく、「聖書みたいなもん、読まんでもいいんだ、あんなもん。 教会に行って礼拝にでて献金はらっておけば、それでいいことなんだ。 聖書なんてあんなもん、読むもんと違うんだ、あんなも~ん」という藤井が言った文句を話すと、90を過ぎた母は、今は、「変な人だねえ」と言います。 「人生70年」としても「人生80年」としても、その半分を過ぎてしまった今、私も、変な男だなあと思いますね。 一方で、生活が成り立っていないのに「天下がほしい」と言われても、「天下よりも、今、一椀の冷や飯が欲しいわ」と言いたい面もありますが、しかし、「人はパンのみで生きるものではない」というのは間違いではなく、別に「甘ったれとる」わけでもないと思いますよ。 『聖書』を自分で読んで自分でその意味を考える人間と、「聖書みたいなもん、読むもんと違うんだ。あんなもん、読んだらいかん。あんなもん、読まんでも、日曜に教会に行って礼拝に出て献金はらっておけば、それでいいんだ」という人間では、前者が「甘ったれとる」で後者が甘ったれていないのか、というと、そうではないと思いますよ。 違いますか?
「受験」を名目にすれば何をしても良いというものではないのです。 「受験」を名目にして、人がどんな本を読んでいるか調査し、たまたま、カバンに入っていた本が、「政治立場は右寄りで学者としての作品は政治的に人畜無害なギリシア哲学」の田中美智太郎だったことから「それはいいわ」と言い、もっと政治的思想的に骨のある作者のものなら、もっと敵視する姿勢をとったであろうYMCA予備校の態度は、「受験のため」にマイナスになりました。 高校や予備校の教員や職員で、学問の敵のような人間がいるとは思っていなかったのですが、いたのです。 18~19歳の時の私は、今、考えると無防備でした。
(2015.11.22.)
もうひとつ。 「作文のテスト」というのも要注意だ、とYMCA予備校で気づいたのです。 そもそも、「作文」が入試科目にある大学を受けるわけでもないのに、京大東大文系クラスというなら、「試験に出る」部分を「出る順」にという観点から見て、京大の試験にも東大の試験にも作文はないのに「作文」の練習をさせられるのは時間と労力の無駄なのですが、それ以上に、採点・論評されて返ってきたものを見ると、文章構成について良し悪しではなく述べた内容が良い悪いといった批評がなされており、この採点はおかしいと思ったのです。 同じクラスの人に話すと、「俺、作文の採点は気にしてないから」と言われたことがあるのですが、実際、採点はでまかせであったと思いますし、地方国立大学の「論文」は文章の構成力を見るよりも、その大学の学部に実際に来たいのかどうなのかを見たいという性格が強いのではないかと思うので、「作文」と「論文」は趣旨が違うし、何を目的とした「作文」のテストかわからない。 結論としては、これも思想調査の一環であった、少なくとも、結果として特高右翼YMCA・えせクリスチャンYMCAによる思想調査であったと言えます。
(2016.2.14.)
☆ YMCA予備校の間違い
1.「特高右翼」YMCA高槻による思想調査 〔今回〕
2.パチンコを勧める予備校。 聖書を奪い取る「敬虔なクリスチャン」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_8.html
3.「通った人8人、落ちた人2人の成績」を取らないと受けてはならないか? https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_9.html
4.1つの模擬試験はどこにも通じるか、「弱者の戦術」たる「戦力の集中」か? https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_10.html
5.「文学的素養がない人間」・「人間性に問題がある人間」は落ちるか(上) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_11.html
6.「文学的素養がない人間」・「人間性に問題がある人間」は落ちるか(下) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_12.html
7.「地方の受験生は根性がある」か? 受験生に嘘情報を吹き込む予備校 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_13.html
8.英文はいちいち日本語に訳して書くべきか? https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201512article_1.html
1978年からしばらく、大阪府高槻市の大阪医大の北側にあったYMCA予備校高槻校は最低の予備校だった。 1979年、産経新聞の記事を見ていると、大阪府のどこだったか忘れたが、ある予備校に行った人が、テキストは市販の参考書に表紙だけその予備校の名前が刷られた紙を貼っただけのものでしかなく、授業はいいかげんで、おかげで大学受験に失敗してしまったと裁判に訴えるか訴えたかいう話が出ていたが、私もYMCA予備校を訴えたいくらいだった。 こう言うと、「でも、YMCA予備校高槻校に行っていても、京大に通った人だっているでしょ」とか言う者が出てきたりする。 なるほど、通った人間だっているだろう。 だから、そこに行ってうまくいかなかった者が問題点を指摘するなら、それは「負け犬の遠吠え」「ひかれ者の小唄」でしかないだろう、と言いたいらしい。 言いたければ好きに言えばよいが、YMCA予備校の内容が低劣であったことは間違いない。
地方によっては東京のものをありがたがる地方もあるかもしれないが、誇り高き関西人には東京崇拝などない。にもかかわらず。 駿台や代ゼミ、河合塾が大阪に進出してくると、YMCA予備校はあっと言う間に淘汰された。 私は当たり前だと思う。 私は駿台・代ゼミ・河合塾は模擬試験を受けたということと、駿台・河合塾は駿台・河合塾の発行の出版物を買ったことがある、代ゼミは1階の代々木ライブラリーで本を買ったことがある、代ゼミの1階の屋台みたいな飯屋で栄養バランス相当悪そうななんとか丼を食ったことがあるというくらいのものだが、それだけでしかない者にも、この3校の担当者は親切だった。 受験に関しての情報も少なくともYMCA予備校よりはずっと正確だった。 YMCA予備校の問題点は予備校として、(1)大学受験に役立たない、という点と、(2)反社会的存在である、という点の2種類の問題がある。 1970年代終わりにおいては、YMCA予備校は、関西では大阪府に土佐堀・阿倍野(天王寺)・豊中・堺・高槻と5校、関東地区に神奈川県横浜市に関内と菊名の2校あったが、今、インターネットで検索すると、すべてなくなったかと思いきや、まだ、阿倍野(天王寺)1校だけ残っているらしい。 さっさとつぶれればいいのに、まだ残っているのかと思う。
YMCA高槻に「主事」という肩書でいたF井などは、おそらく、「全国的予備校に勝てなかった」とか「ブランド志向がどうしてもあるから」とか言い訳するかもしれないが、そういう問題ではない。 駿台予備校はもともと、東京の御茶ノ水(駿河台)にあった主として東大を受ける人を対象とした特別に大規模でもない予備校だった。 代ゼミ(代々木ゼミナール)ももともとは東京の代々木に1校あっただけの予備校だった。駿台が東大を目指す人を中心とした「高レベル」のイメージだったのに対し、代ゼミは「大衆向き」みたいなイメージのある予備校だった。 河合塾も名古屋の「塾」から始まっている。いずれも、最初から全国規模だったわけでもなく大手だったわけでもないはずだ。 それが全国規模に伸びて行ったのは伸びる要素があったからだと思う。 東京圏に住んで東京圏の住人を相手として仕事をしてみて、東京圏の住人の関西嫌い、大阪アレルギーが思っていた以上に大きいことを知った。 証券会社の大阪屋証券は大阪では老舗の中堅証券会社だったが、東京圏にも進出しようとした際、「大阪屋・・」という会社名ではやりづらいということでコスモ証券と会社名を変えたが、何が悪かったのかわからないが衰退した。 住友銀行がさくら銀行と合併して三井住友銀行という名称にしたのは、住友の人間が「三井」の名前を入れようと主張したという話を何かで読んだ。おそらく、住友銀行ですら、東京圏では関西の会社ということでやりづらいところがあったのではないか。だから、三井系の会社から仕事をもらおうということもあるだろうけれども、関西ではそれほどではないが東京圏ではブランドの「三井」を頭につけて、それとともに、三井住友銀行とすることで東京圏でも関西圏でも仕事がしやすいようにしようという考えがあったのではないかと思う。小堀住研(株)にいた時、東京圏においても関西から東京圏に移り住んだ人もおり、そういう人の知り合いの東京人もいたのではあるが、そうであっても、「東京もん」の大阪本社の会社に対する拒否反応、大阪発祥の会社に対する軽視は私も感じ(だから、東京圏では関西圏に比べて販売数において低価格帯のものの占める割合が大きかった)、かつ、大阪でずっと仕事をしてきた人にはそれをわかっていない人がいると感じた。 予備校がその地域だけのものとして存在できたなら、「地域密着」で悪くないが、人の移動が頻繁になり、模擬試験の実施や受験の情報の把握でも全国でのものが必要になってきた時、「大阪・・・」という名称をつけていたりすると、全国展開を進める予備校が進出してきた時に弱いということもあるかもしれないが、「YMCA」というものは、もともと、「大阪のもの」というわけでもなく、東京にもYMCAとかYWCAとかの施設はあり、慶應の日吉にもヴォーリズが設計したYMCAのチャペルはあるし、1979年には西城秀樹が「YMCA」を宣伝するような歌まで歌って連日テレビで放送してくれたりしたくらいだし(⇒《YouTube―西城秀樹 ヤングマン 》https://www.youtube.com/watch?v=_SOD0mDNmtE )、というより、「YMCA(ヤングマン)」の歌自体、もともと、アメリカ合衆国のヴィレッジピープルというグループの歌だし(⇒《Daily motion―Village People - YMCA (version originale)》 http://www.dailymotion.com/video/x2b1a0_village-people-ymca-version-origina_music )、〔「≪「Y.M.C.A.」(Young Men's Christian Association)とは、キリスト教青年会による若者(主に男性)のための宿泊施設のことを指すが、ユースホステルのようなドミトリー(相部屋)の部屋もあるため「ゲイの巣窟」とされ、「Y.M.C.A.」はゲイを指すスラングでもある。この楽曲も、題材をゲイにおいた「ゲイソング」であり、歌詞の中には様々なキーワードが隠されている。≫(《ウィキペディア―YMCA (曲)》https://ja.wikipedia.org/wiki/YMCA_(%E6%9B%B2) 」らしいが〕 YMCAというもの自体、大阪とか関西でできてものでもなく、≪1844年に、ジョージ・ウィリアムズら教派を異にする12名のキリスト教青年によって、イギリス・ロンドンで、キリスト者に限らず青年層に対する啓蒙および生活改善事業のための奉仕組織として創立された≫≪キリスト教主義に立ち、教育・スポーツ・福祉・文化などの分野の事業を展開する非営利公益団体である≫(《ウィキペディア―キリスト教青年会》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E9%9D%92%E5%B9%B4%E4%BC%9A )というもので、「大阪」「関西」をイメージする名称でもなく、運営をうまくやれば、全国展開を進めて駿台・代ゼミ・河合塾などにも劣ることもなく、東京にも進出できる要素は持っていたが、それにもかかわらず、あっという間に衰退したのは、衰退する理由があったからだ。
念のため、断っておくが、私はもともとYMCAに敵意を持っていた人間ではない。逆に、小学生の時、YMCAの体操教室に2年間通ったことがあり、YMCAを身近に感じ親しみを持っていた人間である。YMCA予備校、特に高槻校が反社会的だと思うようになったのは、実際に反社会的だからだ。
高校生、受験生の方で私のブログを読んでくださる方もあるようだが、ここで私が指摘する点に気をつけて、 YMCA予備校のよくない点に自分が陥らないようにすれば、合格する可能性が高くなり、YMCAのよくない点を実行すれば落ちる可能性が高くなるはずだ。すでにわかっている人にとっては「なにを今さら」と思えるかもしれないが、わかっていない人にとってはけっこう役立つと思う。また、 『東大機械的合格法』『司法試験機械的合格法』の著者・柴田孝之が、 こうするべきだというものをすべて実行できなければ必ず落ちるというものでもないし、こうするべきだというものを実行すれば絶対に合格するというものでもないが、こうするべきだというものを実行すれば合格する可能性が高くなり、こうしない方がよいというものをすれば落ちる可能性が高くなる、といったことをどこかで述べていたように思う。 私もその点は同じように思う。こうした方がよいと言われるものを実行していないと、自分は落ちるのではないかと心配しがちだが、こうするべきだと言われるものをひとつでも実行できていなければ必ず落ちるというものでもなく、こうしない方がよいと言われるものを1つでもやったら必ず落ちるというものでもない。
YMCA予備校に行っていても通った者もいるではないかというのは、
(1) 1つには「親の違い」がある。世間の経験と受験の経験のある親はYMCA高槻がおかしいことに気づいたと思う。私の親は気づかないだけでなく、私が言っても、父などは「専門家の言うこと、専門家、センモンカ、せんもんか」とかアホなことを言っていたし、母は「あの人はクリスチャンだから決して悪い人じゃない」とか寝ぼけたことを言っていた。 親自身が北野・天王寺など進学校を卒業して京大・東大などに行ったような親は、YMCAがおかしいことを見抜き、息子(娘)に教えたと思う。そういう親の息子・娘はうらやましいと思った。 数学者で教育論者である遠山啓は父親が早くに他界したそうで、父親がある息子をうらやましく思うこともあったようで、『教育問答 かけがえのないこの自分』(太郎次郎社)で、 「父親というものは外敵から子供を守ってくれる」とかいうようなことを書いていたが、それは父親のない子供として育った人が言う事であり、そういう父親も世の中にはあるだろうけれども、すべての父親がそうというわけでもなく、むしろ、外敵を引っ張り込んでくる父親だっているのだ。 そういう父親が自分の親であったとしても、それでも、その人が自分の親であったなら、しかたがないではないか。 ひとの親を見て、いいお父さんだなあと思う時もあるとしても、ひとの親はひとの親なんだから。 しかし、そうは言っても「外敵から守ってくれる父親」がいる家庭はうらやましいと思ったのは事実である。
(2) また、受験生にも、タイプがあり、たとえば、「常に端に行かない」という習性をもって生きている男とかもいる。 これは何かというと、世の中が右に寄った時に左の端にいると危ない、左に寄った時に右の端にいると危ない、ということで、常に世の中の中ほどにいるように移動する人間というのがいるのだ。 そういう男はYMCAのF井などから攻撃を受けにくく、ダメージは少ない。 特高YMCAとしては、特に左翼とかでなくとも、なんらかの「思想」は取締まりたいらしいが、 のっぺらぼうの平面顔みたいな男というのは、特高YMCAの取り締まりの対象になりにくい。そもそも、ぺったんこの顔の人間はひっかけようとしても出っ張りが少ないからひっかかりにくい。そういうこともあるが、
(3) YMCA予備校のよくないところを実行させられても、受験は好ましくない方法を1つとったら必ず落ちるというものではないし、好ましい方法を1つとったら必ず通るというものでもないから、好ましくない影響を受けることがあったら、全員が必ず落ちるというものでもなく、通る者が何人かいたとしても不思議でも何でもない。 だから、「通った人間だっているはずだ」という主張はあまり意味はない。
↑ YMCA予備校高槻校はつぶれ、YMCA予備校高槻校として使われていた建物は今もあるけれども、それは今は 大阪医科大学 本部北西部キャンパス となっている。
【1】 YMCA予備校高槻 は、特高右翼 である。
YMCA高槻の「主事」というよくわからん役職についていた藤井という男が、私に「どんな本、読んでるんだ」と質問し、「見せてみろ」と言ってきた時があった。 どういう意味できいているか、と思い、感づいた。 この男は特高右翼だ、と。
その時、私のかばんに入っていたのは、田中美智太郎『ソクラテス』( 岩波新書)であったが、違和感を覚えながらも、それを見せると、彼は、「それはいいわ」と言ったのだ。 どういうつもりで「いい」と言ったと思いますか? そこが問題なのです。
私が、なぜ、その時、田中美智太郎『ソクラテス』(岩波新書)をかばんに持っていたか、読んでいたかというと、教学社から出ている「赤本」、大学別過去問シリーズの『東大 文科』の「科目別学習法」だったかいうところで、「国語」の「現代国語」の対策として、埴谷雄高や田中美智太郎の本を読むと書いてあったから、この2人の本を読んでおいた方がよいのかと思って、文庫本・新書本の目録を見ると、田中美智太郎の『ソクラテス』『古典への案内』が岩波新書に、『ソフィスト』が講談社学術文庫にあり、とりあえず、岩波新書の『ソクラテス』を読んでおこうかと考えたからです。 田中美智太郎という人の名前を最初にどこで知ったかというと、新潮文庫のプラトン『ソクラテスの弁明・パイドーン』の訳者として名前が出ていたところからで、それ以上、どういう人か特別よく知っていたわけでもなかったのですが、教学社の『東大 文科』で「学科別対策」のところにそう書いてあるのなら、一冊くらいは、ともかく読んでおかないといけないのではないかと、その時は考えたわけです。
私は、結局、二浪までしてしまったので、現役で通った人より受験期間が長く、田中美智太郎の『ソクラテス』『古典への案内』(岩波新書)・『ソフィスト』(講談社学術文庫)と埴谷雄高の『墓銘と影絵』(未来社)を、一通り、読みました。 それは役に立ったかどうかというと、マイナスになっていないかもしれないけれども、大学受験において、「コストと利益を比較衡量して」⇒「それにかける時間・労力が行きたいと思う大学学部の試験問題の点数を上げるために十分に役立つか、他のことをやるのとそれをやるのとで、他のことをやるよりも効果が高いと考えることができるか」というと、よくわからない・・というより、結論を言ってしまえば、要らないのではないか。 教学社の『東大 文科』を読むのが高校1年の最初の時なら、田中美智太郎の本は易しい読みやすい文章で書かれているので1冊くらい読んでも悪くはないが、浪人してまで、無理に何冊も読むよりも、「どの科目の点数でもよいから全体の点数をあげる」という点から考えるならば、その時間に英語の単語・熟語の1つでも2つでも覚えた方が点数アップにつながる度合いは大きいのではないか、という気もするのです。
さらに言うと、なぜ、埴谷雄高と田中美智太郎なのか、というのがよくわからないのです。 田中美智太郎の文章はたいへん易しい読みやすい文章で、その点は私は好きです。 それに対して、埴谷雄高の文章は読みにくい、わかりにくい。 述べている内容のレベルが高いからとかではなく、文章がどうもわかりずらい文章だと思うのです。 そして、その人間と書いている内容ですが、田中美智太郎という人は学者としては、政治的に「右寄り」の学者だと言われている人で、青木慧『タカ派知識人 組織と人脈 500人』(汐文社)でも指摘されている人ですが、政治的に「右寄り」の「学者」にも、
(1)政治的に右寄りの立場であるがそれなりに論理的なこと、説得力のあることを述べる人と(最近、憲法学者の慶應の小林節名誉教授が週刊誌などによく登場していますが、小林節名誉教授は「右寄り」の人と言われているようですが、私が週刊誌で見たものについては筋の通ったことを述べておられると私は思っています)、
(2)「学者」だといっても竹村健一や山本七平とほとんど変わらないただのアホやんけ!という人がおり、そして、
(3)学者としての研究対象と政治的態度ははっきりと分かれている人、政治的態度はどうかな?と思えるところがあっても、学者としては純粋に学問的態度で発表をしているという人がおり、
田中美智太郎はこの3番目のタイプのはずで、ソクラテスなどギリシアの古典哲学の研究者として純粋学問的に発表をしている人であったと思います。だから、岩波新書や講談社学術文庫に収録されている本は読む気にもなる内容ですし、大学入試の現代国語の題材として採用されるのもわかります。 それに対し、埴谷雄高は、≪1931年(昭和6年)、日本共産党に入党。5月、逮捕を逃れて地下生活に入る。 1932年(昭和7年)3月、小石川原町の同志宅を訪ねたところ、張り込みの警官に逮捕される。50日余りを警視庁富坂署の留置場で過ごした後、5月に不敬罪および治安維持法違反によって起訴され、五・一五事件の日に豊多摩刑務所の拘置区へ移管され、未決囚として過ごす。≫≪1933年(昭和8年)、結核により病監へ移される。2月、「天皇制を認めるならマルクス主義を奉じてもよい」と検察から説得され、転向の上申書を提出し、11月、懲役2年・執行猶予4年の有罪判決を受けて出所。≫(《ウィキペディア―埴谷雄高》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B4%E8%B0%B7%E9%9B%84%E9%AB%98 )という人で、イメージとして、「左翼っぽい」ところもあるものの、戦中に転向した人であり、どう評価するかはともかく、そういう人で、結論として、田中美智太郎とはずいぶんと違うのです。
東大の「国語」の試験問題は、1979年の試験から始まった共通一次試験の前と後で、出題傾向にはほとんど違いはなく、文科1類・2類・3類は現代国語が2問、古文が2問、漢文が1問で、現代国語は「文学」の分野から1問、「評論」の分野から1問出題されていたのです。 その「評論」の分野の文章を読むにおいて、普段から、そういう文章を読んでおくべきだろうということで、教学社の「東大 文科」の作者は書いていたのだと思います。 ちなみに、高校受験と大学受験において、国語の問題に頻出作家としては、高校受験では、私が受けた1970年代半ばでは、亀井勝一郎、大学受験では、文学の分野で森鴎外、評論の分野で小林秀雄が頻出作家とされており、特に、小林秀雄の『考えるヒント 3』(文春文庫)は読むべきだと言われていて、それから、作家ごとではなく作品として読んでおくべきだと言われたのが大野晋『日本語の文法を考える』(1978.7.20.岩波新書)で、私も読まなきゃならないものかと思って読みましたが、これも、結論を言うと、要らなかった。 時間が十分にあるなら読んで悪いということはないが、「限られた時間で、行きたいと思う大学学部の試験に合格するために、いかにすれば合格最低点を上回ることができるか、そのために、何に時間を費やすのが全体の点数の上昇につながりやすいか」という視点から考えた時、もっと他に時間を費やした方が、点数アップにつながる可能性が高かったのではないか、という気がします。 そして、田中美智太郎と埴谷雄高ですが、なぜ、この2人がセットになって名前が出ていたのか? それから何十年か経って考えてみると、よくわからんのです。 結論を言ってしまえば、教学社の『東大 文科』のその欄を書いた人が、なんか知らんが読んでみようかいなあと思って読んだだけ? なんて可能性もありそうな気もするのです。 文章・文体も違うし、政治的姿勢も違うし、評論で扱っている対象も違うし、もともと、セットになるような2人ではないと思います。 評論の分野の1題を解くのに、東大の現代国語の評論で取り上げられるような作者の評論をまったく読んだことがないというのでは、解答しにくいのではないか、というくらいで、それなら、その作者としてどういう人のものを読むべきなのか、と言われたら、教学社の『東大 文科』のその欄の筆者としては、「たとえば」としてあげるならとして書いたのがこの2人だったのではないか。 だから、悪いということではないが、絶対的なものとして考える必要はないものだった、と今は思います。
〔 大野晋『日本語の文法を考える』(1978.7.20.岩波新書)を読んでおくべきだと言ったのはYMCA予備校の古文の講師・山之内だったが、読んでおくといいと彼は思って言ったのだろうけれども、今、考えると、要らなかったと思う。 「コストと利益を比較衡量して」考えると、コスト(それに費やす時間)の割に利益(その結果として、大学入試でどらだけ点数アップが期待できるか)が小さい。〕
で、たまたま、カバンの中に入っていたので、つい、見せたのですが、それを見て、YMCAの藤井は、「これはいいわ」と言ったのですが、そのあたりのやりとりに違和感を覚えたのです。 上に述べた、田中美智太郎と埴谷雄高の評論を受験生が現代国語の対策として読んでおくべきか、読むとすれば、この2人の著書をことごとく読破するくらい読むべきか、1冊読めば十分というものか。 私は実際に受験に際して読み、その上で↑のように考えるに至ったのだ。 自分が経験してもいないYMCAの藤井なんぞにわかるわけがないではないか。 千葉市中央区の工務店・新華ハウジング(有)で自称「工事責任者」のU草が、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」と大きな声で何度も口にしていたのだが、やったこともなしにそういう発言をするというのは、その仕事を苦労して実際にやってきた人間に対して失礼であるが、何より、「ぼく、営業やったことないですけど、営業できますから」という発言は、「ぼく、営業の仕事をなめてますから」と言っているのと変わらない。 教学社から出ている大学別過去問シリーズの『東大 文科』の「学科別対策」の項目で、田中美智太郎と埴谷雄高の本を読むべきだと書かれていたのを、F井が見ていたかどうかはわからない。 見て、そのまま伝えるだけなら「子供の使い」であるが、もともと、「子供の使い」くらいしかできない人間だから、「子供の使い」でもやったならほめてあげるべきかもしれない。 私なら、「学習法」としてこうするべきだと述べている人がいて、それを読んだ場合、なるほど、その通りだと思うこともあれば、そうかな? と思う場合もある。 だから、そこで誰かが述べていることと同じことを話したとしても、私もそう思うと考えた上で述べるのだが、自分が京大・東大クラスの大学に通ったことはおろか、受けたことも受けようというくらいの学習をしたこともない男にわかるわけがない。
それなら、YMCA高槻の藤井が「それはいいわ」と言ったのはどういうところからか。 田中美智太郎という人が政治的に右寄りの人だからだった。 埴谷雄高の本をその時、持っていて見せたなら、返答は変わった可能性がある。 彼が言う「どういう本を読んでるんだ?」というのは、思想調査だった。 そして、大学受験において、私が↑で述べたように、「評論」の分野の本を大学受験のために読むべきか、埴谷雄高・田中美智太郎という人の著書を読んでおく必要があるかといったことについては、私は自分自身が経験した上で↑のように思うに至ったのだが、経験のない藤井にわかるわけはなく、アドバイスなんかできるわけがないのだった。
この時、気づいたのです。YMCA予備校高槻校の「主事」藤井の言う「どんな本を読んでるんだ」というのは思想調査だということに。 次からは、同様の質問をされても、正直に答えてはならない。カバンには、実際に読んでいるかどうかと別に、人畜無害なもの、もしくは、田中美智太郎のように「右翼タカ派知識人」と言われる人の著作を1冊、「見せる用」に入れておいた方がよいかもしれない、と。 その時も思いましたし、今も思うことですが、そんなことに気を使わなければならない予備校というのは、本当にくだらない予備校で、害があると評価せざるをえません。受験という点で見て妨げになる。 又、そんな思想調査をする特高右翼はキリスト者ではないと私は思います。
何で読んだか忘れてしまったのですが、警察の相当上の方の人間が、「私は岩波書店の本は読まないようにしている」と大威張りで発言したことがあり、その文章の筆者は、これは「私はまともな学識はありません」と言っているのと変わらない、岩波書店の本を読まないとなると、古典と言われるようなものは読まないということであり、「私はアホです」と言っているのとほとんど変わらないことになる、というようなことを述べていたが、YMCA予備校高槻の藤井もそれに似ており、特に革命理論とか「過激派の文書」とかではなく、夏目漱石でも森鴎外でも福沢諭吉でもキルケゴールでも内村鑑三でも、なにより、聖書でも「読んではいけない本」に指定する男ですから、田中美智太郎については「これはいいわ」と特高右翼YMCAが許可したわけですから、カバンには田中美智太郎の本を1冊入れておいて、「何を読んでるんだ?」とひっかけてきた時には、それを見せるようにするか、できるだけ、そういう質問を受けないように、できるだけ、特高右翼とはかかわらないようにするべきだということになります。 できるだけかかわらないように、できるだけ話をしないように、こちらの情報を知らせないようにした方がよい予備校・・ということは、そんな予備校は、要するに「行かない方がよい予備校」ということになり、資本制社会における企業としては「存在する理由がない」ことになり、その結果⇒つぶれた。 駿台・河合塾・代ゼミが大阪に進出してきたからつぶれたのではない。 もし、駿台・河合塾・代ゼミが進出してこなくても、YMCA予備校のシェアはどこか他の予備校にとってかわられたでしょう。
高校卒業時に大学の試験に落ちた時、過去3年間を振り返り、不十分だったところをやり直し、その上で受験対策をきっちりと取るべきだと考えたのですが、その考え方は適切ではなかったと今は思います。どこが適切でなかったかというと、「不十分だったところをやり直す」必要はなかったと思うのです。高校の授業や高校の先生が課題として出したもの、高校生の時にやろうと思ってできなかったもの、高校のテキストに載っていたものや購入した「参考書」でやろうと思って十分にできなかったものをやり直さなくても、結論を言えば、次の入学試験に通ればよいのだ。 (大学の入試に合格する為という点では)その目的に必要ないものなら、高校の教科書に載っているものでも何でも要らないものは要らないのだ・・・・が、その時はそう考えなかった。 高校の国語、特に現代国語においては、教科書に作品が登場する作家・文学者の小説・評論は教科書に小説の一部分が出ているならその小説を初めから終わりまで、ごく短編の小説が載っている場合は、その文学者の他の小説を1つ、読んでおくべきだと高校の時は考え、実行したものもあれば実行できなかったもの、本を購入して読みかけたものの、途中で止まってしまったものなどありました。 浪人して、その読み切れなかったもので読んだものがありました。 これが受験対策としてよいかどうかというと・・・、あまり良いとは思いません。マイナスになるかというと、 「内容のある書物は受験の対策にならなくても、人生にとってプラスになるものではないか」というようなことを言う人が世の中にはいるのですが、というより、北野高校の3年の時の担任だったOがそういうことを言ったのですが、そうであっても、高校の3年、もしくは浪人中はそういう考えはしない方がよいと思います。「人生にとってプラスになる読書」であっても受験にとってプラスにならないようなものはその時期は控えめにした方がよいし、人生にとって特にプラスにならないものでも受験にプラスになるものならその時期はやるべきです。 高校の現代国語に登場する文学者・評論家の作品を教科書に出ているもの以外に1つ読んでその作家について理解するようにしようと考えたのは、北野高校の1年の時に現代国語を担当していた女性教諭S野が「現代国語は問題集なんかやってもプラスになりませんから」と言うので、それならと考えたことと、教科書に登場した作家の教科書でとりあげられた作品以外のものを定期考査に出題したりしていたからだったが、2浪までして実感したが現代国語は「問題集なんかやってもプラスにならない」ということはない。2浪の時に、学燈社から出ていた『現代国語 難問を解く本』だかなんかそういう感じの題名の問題集を初めから終わりまでじっくりと腰を落ち着けて解いた上、どこが間違ったか、どうすれば間違わなかったかということを徹底的に考えたことと、模擬試験の解答が返ってきた時にその問題を徹底的に分析したことの2つから、国語に関しては、2浪時には成績はずっと上昇し、東大の2次試験でも国語に関しては東大受験生の中でも上の方の成績が取れたと思う。 「現代国語は問題集なんてやっても役に立たない」などということはない。 で、教科書に出てくる文学者・評論家の作品を教科書に出ているもの以外に1冊、読むというのは、高校の1年の時なら、登場するすべての作家・評論家についてやることは時間の上で難しいと思うが、何人かについてやるのは悪くはないと思うし、それなりにプラスにはなると思う。しかし、高校在学時にやりきれなかったからといって、浪人してまでやることはないと思う・・・が、1浪時に、私はやった方がよいと思って、何冊か読んだ。その1冊は、岩波文庫の『北村透谷全集』で、高校の現代国語の教科書では、明治初期の知識人として、北村透谷と福沢諭吉として出ていたのだ。
それで。 もしも、YMCA高槻の「主事」だという思想警察・藤井が、「どんな本、読んでるんだ。見せてみろ」と言って来た時、私のカバンに入っていた本が、『北村透谷全集』(岩波文庫)だったとしたら、おそらく、F井は、こういうものは読むべきではないとか言い出したのではないかと思う。あるいは、教学社の『東大 文科』に田中美智太郎とともに読むようにするとよいとして名前が出ていた埴谷雄高であったなら、埴谷雄高は「ちょっと左翼っぽい」文章も書いているので、「こういうのは読むべきではない」「ぼくらは、あくまで受験の目的で読まない方がいいと言ってるんだ」とか言ったであろう。 「受験」を大義名分にして、少しでも骨のある本は読まさないようにしようという魂胆である。 で、高校の現代国語の教科書に登場する文学者・評論家の作品を教科書に掲載されているもの以外に1冊ずつ読むというのが、受験の国語にとって役に立つか立たないか、というようなことは、東大や京大を受けたこともない藤井にそんなものわかるわけがないのだ。 YMCA予備校の藤井は、受験に役立つかどうかではなく、骨のある文学作品は人格形成のこやしになる(思想は、読書から生まれるのではないとしても、読書は思想形成のこやしになる)ので、そういうものは読まさないようにしようと考えている男であり、「受験」を名目にかかげれば、思想取締りをやってよいという信念を持っている男だった。 だから、「右寄り教授」「右翼文化人」として青木慧『タカ派知識人 組織と人脈』(汐文社)とかに名前が出ている田中美智太郎の著書の場合は、「これはいいわ」と言うのだが、特別に「左翼」とか「革命理論」とかいうようなものでなくても、夏目漱石でも森鴎外でも読ませたくないようだった。
何より、「『聖書』なんて、あんなもの、読んではいかん」と彼は言ったのだ。 YMCAという団体の「主事」という役職の男が。 なぜ、「読んだらいかん」のか。 浪人中においても、心のささえとして、聖書を開き心を落ち着けることがあって何が悪いのだろうかと思ったが、藤井が言うには、「聖書みたいなもん、あんなもん、読んでいいことなんて、何ひとつとして書いてないんだ。あんなもん、読むものと違うんだ。聖書なんて、読まなくていいんだ。聖書なんて読まなくても、僕らもクリスチャンとして日曜ごとに教会にいって礼拝にでて献金を払っているんだから、それでいいことなんだ。聖書なんて読むものと違う。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。 たとえ、読むにしても、ずっと歳いってから読んで、『はあん、そんなもんか』と思えばよいことで、若いうちに読むというようなことは絶対にしてはいかん。 聖書なんて、絶対に読んではいかん!」と言ったのだ。 はあ? ヤングメンズクリスチャンアソシエーションの職員がそういうことを言うか・・・・!!! はあ・・・・。 で、あなたがそう思うならそれでも良いが、そう思っている人が、なんで、YMCAに勤めてるんだ? そんなこと思っている人が、なんで、教会で洗礼を受けるんだ??? と思いませんか?
藤井は私などに言うだけではなく、私の知らない場所で親にもそういうことを話していたらしく、母は「あの人はクリスチャンだから悪い人じゃない。」と「クリスチャンだから」ということで決めつけて、そして、「あの人は、YMCAで主事になっているくらいだから、ただのクリスチャンじゃない。クリスチャンの中でも相当にえらいクリスチャンのはずだ」とか言い出し、そして、「ああいう敬虔なクリスチャンの言う事は聞かなきゃいけない」と言って何をしたかというと、私から聖書を取り上げたのだ。 「敬虔なクリスチャン」のやることというのは、そういうことなのだ。
YMCA高槻の藤井は「『聖書』というようなものは自分で読んで考えるものではなく、日曜に教会に行って牧師から説教を聞いた上で献金を払えばそれでいいものであって、自分で読んで自分で考えるというようなことは絶対にしてはいかん」と言うのです。 これは、この発言自体が、民主主義に反するもの、ファシズムの思想ではありませんか?!? キルケゴールは「神の前の単独者」として、聖書を通じ、聖書を前にして、ただ、神とのみ語ろうではないか、神と対峙して、神の前の単独者として、ただ、神の前に義とせらるため、歩もうとしてはずです。 内村鑑三もまたそうでしょう。 YMCAというのは、キリスト教の団体を称しているが、実際はキリストの敵ではないのか!
『北村透谷全集』(岩波文庫)に収録されていた北村透谷『人生に相渉るためとは何の謂いぞ』は、その時、読んで、なるほどと思ったのです。 その頃、父は「東京海上火災、東京海上火災」とか言っていたのです。 せっかく、小学校の1年から他の生徒が遊んでいる時も勉強してきたのに、それを「東京海上火災のために」に置き換えるのは嫌だと思いました。 「あの夜空にでっかく輝く星座が、あれが東京海上火災という星座だ。 飛雄馬、あのサラリーマン世界の頂点に輝く東京海上火災の星になれ。東京海上火災養成ギプスだ。月夜の千本ノックだあ~あ!」とかみたいなことを父は言っていたのです。(さすがに、そのままではないけれども)(「父ちゃん、おれ、何だってこんなことしなきゃならないんだよお」)〔⇒《Daily-巨人の星 第001話》http://www.dailymotion.com/video/x1d7gv9_%E5%B7%A8%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%98%9F-%E7%AC%AC001%E8%A9%B1_shortfilms 〕 神への信仰をマモン(富)への信仰に取り換えるようなこと、東京海上火災への信仰に置き換えるようなことはできない、「人はパンのみで生きるにあらず」と言うと、「甘ったれるな!」「東京海上火災じゃ。とってちってたあ♪」とか言っていました。 文学の目的に『人生に相渉るためとは何の謂いぞ』という北村透谷の文章は、いかにももっともだとその時は思いました。 もっとも、司馬遼太郎の『国盗り物語 (一)~(四)』(新潮文庫)がNHKの大河ドラマになった時〔《YouTube―
国盗り物語のテーマ 》https://www.youtube.com/watch?v=CgbVhpXdIAM 〕、第1回の放送の冒頭、京都の路上で、乞食同然の西村勘九郎(後の斎藤道三)が「天下が欲しい」とつぶやくのに対し、連れの赤兵衛が「何が、天下じゃ。 天下よりも、今、一椀の冷や飯が欲しいわ!」と言い、西村勘九郎が「そんなことを言うヤツに天下はとれん」と言い、赤兵衛が「ふん。何を言っとるか」と言う場面があったと思いますが、たしかに、やっすい給料でこきつかいやがって、という会社に勤めると、「天下」よりも「今、一椀の冷や飯」の方が欲しくはなりますよね・・・・。「人はパンのみで生きるにあらず」というのは、生活のために働かなくてよいと言ってるのでもないわけですが。そもそも、大学の哲学科でキルケゴールの研究をやっている人とかいうのは、父に言わせれば「甘ったれとる!」ということになったわけです。 では、どういうのが「甘ったれとる」人間でない人間かというと、「撃ちてしやまん。一億火の玉」「欲しがりません、勝つまでは」とか「とってちってたあ!」とか「会社のために死ぬほど働く、死んでも働く。とってちってたあ」「木口小平はちんでもラッパを離ちまちぇんでちたあ~あ」「滅私奉公」「会社のための犠牲にな~る! 犠牲の精神! 会社の犠牲になりたいなりたいなりたいという気持ち~い!」、「東京海上火災、東京海上火災!」「東京海上火災のために」というのが甘ったれてない人間だったらしい。 でも、大学でキルケゴールの研究をやっている人というのは、給料をもらって生活しているわけですから、別に「甘ったれ」てないのではないのかと思ったのですが、父が言うには「甘ったれとる」そうでした。井上靖の『天平の甍』では、普照という若い僧侶が遣唐使の船に乗って危険を冒して唐に学びに行くことについて、1年やそこらのために命をかけることはできない、唐で何年も学べるというから危険を冒してでも唐へ渡ろうという気持ちになれるんだ、と述懐する場面がありましたが、私はそれと同様の気持ちでした。行きたい大学の行きたい学部に行ってやりたい学問を一生続けることができると思って小学校の1年から他の同級生が遊んでいる時も勉強してきたのに、「東京海上火災のために、とってちってたあ~あ!」にされたたまるものか!と思いました。 その後、さらに「哲学なんか勉強しようというヤツは頭がおかしいんじゃ。 そういう人間はモラトリアム人間病という病気にかかっとるんじゃ。甘ったれてはいかん。甘ったれとるからモラトリアム人間病にかかるんじゃ。慶應大学の小此木啓吾先生がおっしゃってる」「大学は勉強するところと違うんじゃ。甘ったれるな」とか言い出しました。 この後、父の親友の「医者」で、父のニーズに答えて「『宗教はアヘンだ』とマルクスは言っておる」とか吹き込んだ男がおり、父はそれを喜んで、私に「宗教はアヘンだ。哲学はアヘンだ。キリスト教はアヘンだ!」と何度も言っていました・・・・が、「キリスト教はアヘンだ」とか叫んでいる人が、なんで、キリスト教の教会で洗礼受けて、キリスト教で結婚式して、キリスト教で葬式までしたのか、・・・なんかようわからんのですが、そういうおっさんでした。 だから、うちの親とYMCAの藤井はけっこう「似た者同士」だったのかもしれません・・・・が、YMCAと似たところがあったのは父の方で、うちの親でも母の方はそうではなく、「聖書みたいなもん、読まんでもいいんだ、あんなもん。 教会に行って礼拝にでて献金はらっておけば、それでいいことなんだ。 聖書なんてあんなもん、読むもんと違うんだ、あんなも~ん」という藤井が言った文句を話すと、90を過ぎた母は、今は、「変な人だねえ」と言います。 「人生70年」としても「人生80年」としても、その半分を過ぎてしまった今、私も、変な男だなあと思いますね。 一方で、生活が成り立っていないのに「天下がほしい」と言われても、「天下よりも、今、一椀の冷や飯が欲しいわ」と言いたい面もありますが、しかし、「人はパンのみで生きるものではない」というのは間違いではなく、別に「甘ったれとる」わけでもないと思いますよ。 『聖書』を自分で読んで自分でその意味を考える人間と、「聖書みたいなもん、読むもんと違うんだ。あんなもん、読んだらいかん。あんなもん、読まんでも、日曜に教会に行って礼拝に出て献金はらっておけば、それでいいんだ」という人間では、前者が「甘ったれとる」で後者が甘ったれていないのか、というと、そうではないと思いますよ。 違いますか?
「受験」を名目にすれば何をしても良いというものではないのです。 「受験」を名目にして、人がどんな本を読んでいるか調査し、たまたま、カバンに入っていた本が、「政治立場は右寄りで学者としての作品は政治的に人畜無害なギリシア哲学」の田中美智太郎だったことから「それはいいわ」と言い、もっと政治的思想的に骨のある作者のものなら、もっと敵視する姿勢をとったであろうYMCA予備校の態度は、「受験のため」にマイナスになりました。 高校や予備校の教員や職員で、学問の敵のような人間がいるとは思っていなかったのですが、いたのです。 18~19歳の時の私は、今、考えると無防備でした。
(2015.11.22.)
もうひとつ。 「作文のテスト」というのも要注意だ、とYMCA予備校で気づいたのです。 そもそも、「作文」が入試科目にある大学を受けるわけでもないのに、京大東大文系クラスというなら、「試験に出る」部分を「出る順」にという観点から見て、京大の試験にも東大の試験にも作文はないのに「作文」の練習をさせられるのは時間と労力の無駄なのですが、それ以上に、採点・論評されて返ってきたものを見ると、文章構成について良し悪しではなく述べた内容が良い悪いといった批評がなされており、この採点はおかしいと思ったのです。 同じクラスの人に話すと、「俺、作文の採点は気にしてないから」と言われたことがあるのですが、実際、採点はでまかせであったと思いますし、地方国立大学の「論文」は文章の構成力を見るよりも、その大学の学部に実際に来たいのかどうなのかを見たいという性格が強いのではないかと思うので、「作文」と「論文」は趣旨が違うし、何を目的とした「作文」のテストかわからない。 結論としては、これも思想調査の一環であった、少なくとも、結果として特高右翼YMCA・えせクリスチャンYMCAによる思想調査であったと言えます。
(2016.2.14.)
☆ YMCA予備校の間違い
1.「特高右翼」YMCA高槻による思想調査 〔今回〕
2.パチンコを勧める予備校。 聖書を奪い取る「敬虔なクリスチャン」 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_8.html
3.「通った人8人、落ちた人2人の成績」を取らないと受けてはならないか? https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_9.html
4.1つの模擬試験はどこにも通じるか、「弱者の戦術」たる「戦力の集中」か? https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_10.html
5.「文学的素養がない人間」・「人間性に問題がある人間」は落ちるか(上) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_11.html
6.「文学的素養がない人間」・「人間性に問題がある人間」は落ちるか(下) https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_12.html
7.「地方の受験生は根性がある」か? 受験生に嘘情報を吹き込む予備校 https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201511article_13.html
8.英文はいちいち日本語に訳して書くべきか? https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201512article_1.html
この記事へのコメント
服部先生が作った物理や数学のテキストは難しすぎましたね。
でもこの年、天王寺高校を定年された数学の先生(名前は失念、
ただ、岡田武史・サッカー元日本代表の恩師)の先生が、
「こんなテキスト解けたら浪人なんかしとらん。明日から
教科書ガイドで勉強や。」と言ってYMCAの教科書を使わないように
生徒たちに指示。館長の角さん(?)が苦笑されていました。
この先生のおかげで無事一年後、大阪大学に合格しました。
idiom集は役にたちました。今でも手元にあります。