最高裁判事国民審査を軽視するな。「政権担当が自民でもいいい」と「やりたい放題を認める」は同じでない
[第206回]
【1】 中学校の社会科に「公民」という科目があった。 そこでも、「最高裁判所判事の国民審査」というものが、衆議院選挙と一緒におこなわれる と教えられた記憶がある。 10代後半の自分が選挙権を持たせてもらえていない時期においては、「最高裁判所判事の国民審査」も、真面目に考えて、「×」をつけるべきかつけずにおくべきか決めないといけないと思っていたのだが、成人後、どうも、この制度は有効に動いていないとあきらめの気持が強くなった。 しかし、自分ひとりがどう投票しても、自分の1票だけで変わるわけではない というのは、衆議院選挙にしても同じだ。 それなら、「最高裁判所判事の国民審査」についても、自分の1票だけで変わらなくても、それなりに真剣に考えて、「×」にするか 無記入 にするか決めるべきだろう。
問題点のひとつとして、選択が「×」か 無記入 かのいずれか という書き方にあると思うのだ。 もしも、「×」か「○」か 無記入 かであると、どちらか判断できかねる場合に無記入とする人が多い場合、「×」が「○」を上回る人が出てくる可能性もある。 ところが、「×」か 無記入 かの選択であるため、無記入にした場合に、まるで、「○」をつけてもらったかのような評価になってしまうという点が大いに問題のあるところだ。
私の友人で、 「×」が多数で解任された裁判官は今までになく、どのみち、全員が認められる結果になるのだから、それなら、もしも、その裁判官が不適任とするべきか(「×」をつけるべきか)適任とするべきか(無記入とするべきか)わからない場合は無記入にせず「×」にするべきではないか。 この人は認めていいと判断できる人には無記入として、判断に迷う場合は無記入ではなく「×」にするというのが国民としてベストではなくてもベターな判断ではないか、と言った人がいたが、それも一理はあるとは思う。
ひとつの大きな問題。 日本の新聞は、なぜ、「最高裁判所判事の国民審査」について報道しないのだろうか。 これは、選挙と並ぶ大事な問題のはずなのだが、選挙と同等までいかないにしても、それなりに報道してもよさそうに思うのだが、ほとんどないのは適切ではないのではないだろうか。
もう何十年か前、ラジオの放送、どの局だったかは忘れたで、アナウンサーなのか「キャスター」とかいう種族なのか忘れたが、「最高裁判所判事の国民審査」についてふれている新聞が少ないと述べ、その中で、ある新聞(どの新聞だったか忘れた)が、◇◇という事件について、○○に賛成した裁判官は誰と誰で反対した裁判官は誰と誰と誰である、といった報道をしていた、として、そういった報道をもっとするべきではないか と述べていた。 最近、そういう報道を新聞で見ないし、そういった指摘もラジオで聞かない。 (お断りしておくが、私はすべての新聞を最初から最後まで調べたのではないし、ラジオ番組もすべて聞いたわけではなく、デジタル放送始まって以来、テレビを自宅で見たことがないので、私が見ていないところでおこなわれている可能性もあるが、選挙についての報道を私が見ている度合に比べて、「最高裁判所判事の国民審査」についての報道が著しく少ない というのは間違っていないはずだ。
それで。 どうせ、全員が「罷免されなくてよい」とされるのなら、判断できかねる場合は無記入ではなく、判断できかねる場合は「×」をつけてやった方がいい、というのもひとつの考え方ではあるが、
↑ こんなやつが各家庭に届いているはずなので、せめて これを見て、なんか気に食わないというだけでも「×」をつける。 経歴が胡散臭そう、顔が悪代官みたい、という判断でも、本来はそれは理想的な判断ではないとしても、まったく何も判断しないよりは、どうせ、誰も罷免されないという現状から考えれば、ともかくも、国民が判断しているという姿勢を示すだけでもいいのではないかと思うのだ。
ちなみに、だ。
今回の5人を見ると、「略歴」は、
鬼丸 かおる(おにまる かおる)・・・昭和24年(1949年)2月生まれ。 東京都生まれ。
東京教育大附属小学校・中学校・高校卒。 東大法学部卒。
昭和48年(1973年)、24歳の時に司法修習生。
木内 道祥(きうち みちよし)・・・・・昭和23年(1948年)1月生まれ。 徳島県生まれ。
東大法学部卒。
昭和48年(1973年)、25歳の時に司法修習生。
池上 政幸(いけがみ まさゆき)・・・・昭和26年(1951年)8月生まれ。 仙台市生まれ。
仙台市立木町通り小学校卒、東北大学教育学部付属中学校卒、仙台第一高校卒、東北大法学部卒。
昭和50年(1975年)、24歳の時に司法修習生。
山本 庸幸(やまもと つねゆき)・・・・昭和24年(1949年)9月生まれ。 福井県生まれ。
愛知県立旭ヶ丘高校卒、京都大法学部卒。
昭和47年(1972年)、23歳の時に国家公務員上級試験に合格して、翌年昭和48年(1973年)4月に通産省に入り、その後、内閣法制局参事官、内閣法制次長、内閣法制局長官などを経て、最高裁判事。
山﨑 敏光(やまさき としみつ)[「さき」は環境依存文字。 「山」へん に、「立」の下に「可」を合わせたつくり。]・・・昭和24年(1949年)8月生まれ。 大阪府八尾市生まれ。
地元の小学校、灘中学校卒、東大法学部卒。
昭和50年(1975年) 判事補佐官、 昭和60年(1985年)判事任官。
といったことが書かれている。 写真を見る限り、鬼丸かおる が女性で、他の4名は男性らしい。 男だからいいという理由はないが、同じ理由で女だからいいということもない。
「学歴」部分については、一般の国民は不特定多数に自分の学歴を公開しなければならないことはないが、一般の人間でも、求職活動の際には、応募において、学歴・職歴・資格について記述した履歴書を提出するのであり、この人たちは、いわば、国民に対して求職しているのであるから、一般の人間が求職活動において履歴書に、嫌でも書かざるを得ない「中学校卒業以降」の学歴は明記するべきだと思う。
「国民審査広報」には、「略歴」「最高裁判所において関与した主要な判例」「裁判官としての心構え」の3点が書かれているのだが、「裁判官としての心構え」の部分は、それぞれの人がそれぞれの書き方で述べればいいと思うのだが、「略歴」の部分については、履歴書の書き方と同様に、「中学校卒業以降」について、すべての人に同じ書き方で書いてもらうようにした方がいいのではないだろうか。 その上で、中学校卒業より前については述べたい人は述べるということにした方がよいと思うがどうだろう。
それで、だ。 「心構え」として「・・・と考えております」「・・と思っております」とかいうのは、まあ、一般に悪いことは書かないだろうとして、もっとも重視するべきものは「最高裁判所において関与した主要な裁判」の部分なのだが、これをじっくりと読んでいくのはけっこう労力がいる。 その裁判の当事者だった人はさておき、そうでない者にはけっこう負担で、そこから判断をあきらめてしまう人もいるのではないかと思う。
それで、だ。 その前に、本来の重要性は「最高裁判所において関与した主要な裁判」の部分に比べると低いと思われる「略歴」の部分だけでも見たほうが、何も見ないで「×」か無記入か選ぶよりはいいと思うのだ。
出身大学で見ると、5名中、東大法学部卒が3名、東北大法学部卒1名、京大法学部卒1名。
弁護士を依頼しようとした場合にも、一般の人間にはなかなか判断の方法・基準がないのだが、 「東大法学部卒の弁護士には、ろくな弁護士がいない」と書いてあったものを何かの本で読んだ記憶があるのだが、それが何であったか忘れてしまった。 但し、これは弁護士の場合のことだ。
大学にはそれぞれ特色があり、それぞれに「けなし言葉」がある。 慶應は「サラリーマン養成所」とか「財界の御用大学」(しょせん、財界の御用大学だろうが)、中央大学は「資格試験予備校」(司法試験・公認会計士試験の合格者数を誇っても、そのための資格試験予備校でしかないだろうが)、京大は「教員養成所」(「アカデミックな学風」「反骨の伝統」とかなんとか言っても、要するに、学校の先生みたいな人間ばっかり育成しているだけじゃないか)といった「悪口」があり、あくまで「悪口」なので、100%あたっているわけでもないが、まったくの見当はずれでもないようにも思えるものだ。 そして、東大は「役人養成所」(「最高学府」とかなんとかいってプライドばっかり高いが、結局、役人でもなければ使い物にならない人間だらけじゃないか)という批判がなされる。
その批判の通り、東大出身の人というのは、あくまで「多い」という話であって、人によっても違うのであるが、役人に向いている人が多く、司法試験合格後に進む進路としては、弁護士よりも判事(裁判官)か検事の方が向いているのではないかと思える人が多いような気がする。
だから、東大法学部卒の人はいいかというと、絶対にそうとも言い切れない。 少し古い本だが、潮見俊隆『法律家』(1970. 岩波新書)では、裁判官は、上級審に行くほど東大卒の人間の割合が大きくなるといい、その理由として、裁判所にも学閥があるのではないかとも言われ、そうではなく、東大卒の人に優秀な人が多いからそうなっているのだと言う人もあるらしいことが書かれており、その判断は簡単ではないだろうけれども、たとえ、東大出身者に優秀な人が多かったとしても、国民全体のことを考える裁判所において、ひとつの大学の出身者の占める割合があまりにも大きいというのは、国民にとって良いと言えるか? といった疑問も述べられていたと思う。
さて、日本においては、「大学卒」の部分が「すごろく のあがり」みたいに扱われる時もあるのだが、「三つ子の魂 百まで」という言葉もあるように、人間の人格形成の点では、大学よりも小学校から高校までの方が影響は大きいような気もする。
それで、その部分で見ると。
鬼丸かおる て、おばさん。 「附属」の小学校・中学校なんか行ってたのかあ・・・。 小学校の時から、一般人とは違う学校に行って、小学校の1年から理由もなく自分はエライみたいに思っていた人間かあ???
木内道祥て おっさん。 学歴部分は、「東京大学法学部卒業」しか書いていないが、何か、書けない理由でもあるのか? 「普通の人間」でも、仕事にありつきたいと思って応募する際、本心としては書きたくない学歴の場合でもしかたなしに、「○○中学校卒、◇◇高校入学、◇◇高校卒、△△大学☆☆学部入学、 △△大学☆☆学部卒」と書くのだが、「東京大学法学部卒業」しか書かないというのは、国民をバカにしていないか?
池上政幸て、おっさん。 東北大法学部か。 東北大て、「旧帝大」だからということで、東大・京大・阪大に並ぶ大学だと勘違いしている人がいるけれども、実際は、岩手大・福島大・山形大と並ぶ実質、宮城大学だぞお。 この人が行った頃の東北大なんて、誰でも入れる大学だったのと違うんかあ?
山本庸幸て おっさん。 にこやかな顔で写真うつってるけど、なんか、もともとは悪人顔のくせに写真のためににこやかな顔つくってるのと違うのかあ?
山﨑敏光て おっさん。 灘中学校・灘高校卒で東大行ったというけれども、この人が灘に行った時の灘高校というのは、進学校といっても、まだたいした進学校でなかった時代で、東大合格者数1位は日比谷高校だった時代だろ。 大阪府八尾市の生まれなら、その付近の高校なら、たとえば、大阪府立天王寺高校なんかの方が灘高校よりもよっぽど進学成績は上の時代のことだろ。 そういう時代に、大阪府の八尾市の生まれのくせに、中学校から灘に行くなんて、なんか、けったいなやつやなあ~あ・・・・。 「私立灘中学校、灘高校を経て」と灘は固有名詞を書くくせに、「地元の小学校」という記載のしかたは何だろうか? 池上政幸は「仙台市生まれ」と書いた後、「同市立木町通り小学校、」と小学校も固有名詞で書いているのに、山崎敏光は、灘は「私立の高校」ではなく固有名詞を出しても、「地元の小学校」は固有名詞ではなく「地元の小学校」などと書いているというのは、公立の小学校を軽視している、灘より軽くみているということか? その小学校というのは「八尾市立○○小学校」という学校ではなく「地元の小学校」という名前の学校なのか? 名前を出すと何か具合が悪いようなことでもあるのか?・・・・・とか、これらの疑問というのか悪口雑言というのかは、すべてあたっているかどうかは知らないしわからない。 しかし、だ。 たとえ、あたっていなくても、 たとえ、その程度のことでも、いくらかなりとも考えた上で、「×」をつけるか 無記入 にするか決めた方が、何も考えずに無記入にする、何も考えずに全員に「×」をつける よりも良いのではないか、という気がするのだ。 そうではないだろうか。
評価の高い大学を卒業したなら、それは悪いことではないが、もし、大学入試に失敗したとしても、それこそ、「徳川家康公遺訓」にも、「勝つことばかり知りて、負けること知らざれば、害その身に至る」とあるように、うまくいかないことがあっても、その過程で何かを学ぶことができたならば、それはそれで悪いことはない。
鬼丸かおる・木内道祥の2名は司法修習生を経て弁護士からなった人らしい。 弁護士にもいろいろな人がいるので、弁護士出身だからということでいいとも悪いとも言えない。 弁護士には、弁護士は裁判官・検察官の下働きをするのが仕事と思っているのかと思えるようなヤカラもいる。
池上政幸は司法修習生から検事になって大阪高検検事長から最高裁判事になったらしい。 「検事あがり」というのか「検事くずれ」というのかの弁護士のことを「ヤメ検」と言って、刑事事件は頼まない方がいいという人があるらしい。 それはどういうことかというと、「ヤメ検」に刑事事件の弁護を依頼すると、検事と裏取引して検事の都合のいいように動く、依頼者(「刑事被告人」)のためではなく検察のために動くやつがいるということらしい。 しかし、『憂国のラスプーチン』など読むと、元外務省の佐藤優氏の弁護をした弁護士は元・検事だったらしいが、元・検事だけに検察の醜い面も知っていて、その上で相当の努力をしたらしいし、元・検事の弁護士でなくても、依頼者のためではなく相手方のため(刑事事件なら検察のため)に動くろくでない弁護士( 「振り込め詐欺弁護士」 [着手金を○日までに振り込め と言うので大急ぎで無理して振り込むと、あとは、依頼者の為ではなく相手方(刑事事件なら検察)のために働く、実質、「振り込め詐欺」の弁護士]は存在する。 検察 と 裁判所 は本来、異なる立場のはずで、異なる立場の検察出身者が裁判官になるというのが良いかどうか。 良くないのではないか、という説が強いようだし、私も、検察と裁判所の「人事交流」は好ましくないのではないか と思うのだが。 もちろん、それだけでその人を判断することもできないかもしれないが。
山本は、鬼丸・木内・池上のように司法修習生を経て法曹に入ったのではなく、国家公務員上級試験(現在の国家公務員1種試験)を経て通産省に入り、内閣法制局参事官、内閣法制局第一部中央省庁等改革法政室長、内閣法制局第四部長、第二部長、第三部長、第一部長、内閣法制次長、内閣法制局長官を経て 最高裁判事になったらしい。 司法試験・司法修習生を経ずに最高裁判事になるのがいいかどうかといったことも言われるが、内閣法制局といえば、行政側の法律についての専門部署のはずだが、そのあたりがいいかどうか。
よくわからないのが山崎敏充の「昭和50年 4月 判事補佐官」というやつ。 「判事補佐官」とは何か。 裁判所書記官、事務官といった職のことか? ということは、刑事事件の際、本来、書記官というものは公平でなければならないはずで、又、裁判の判決を決めるのは裁判官であって書記官ではないはずで、又、刑事事件の裁判中の「刑事被告人」は犯罪者というわけではないはずであるにもかかわらず、「刑事被告人」とされてしまった人間の人権を侵害し、「刑事被告人」とされてしまった人間が不利になるように働きかけるのが“ 正義の味方 ”みたいに思っている人間のカスのことか? 東大法学部あたりを卒業して在学中に司法試験に合格して裁判官になったようなのが、世間知らずとはいえ、学歴エリートとして、少々、お鼻が高くなるというくらいはわからないこともないが、裁判所書記官には見るからに五流大学卒だろて感じで、見るからに「こいつ、アホだろ」て感じの顔しているにもかかわらず、国民の税金で食わせてもらっているくせに国民に態度でかくて、いったい何様なんだ、このバカは!?!て感じの書記官がいるが、そういうやからのひとりか? ということは、この人は、東大法学部まで卒業しながら、そういう五流大学出の人間のなる仕事についていたということか?
簡易裁判所の判事のことを「カンパン」と言って、裁判官の世界ではバカにされているという。 なぜ、バカにされているかというと、「カンパン」は司法試験に合格していないくせに裁判官になっている、いわば、裏口入学のようなヤカラだかららしい。 では、その「裏口入学」とはどういうものかというと、だ。 裁判所書記官を何年か経験した人間は、簡易裁判所の裁判官については、司法試験に合格してもなることができるらしいのだ。 「検察官」でも「副検事」というややこしい職種の人間がいるのだが、それと似ている。 検察官とか裁判官とかいうのは、「一流大学」を卒業した上で司法試験という難しい試験に合格するだけの勉強をした秀才だろう・・・と思い込んで、裁判所や検察庁で見ると、「ええ~え? こんな人があ~あ???」て感じの顔、どう考えてもこんなやつが旧帝大系国立大学だの早慶だの卒業しているわけないじゃないかて感じの顔したのがいるんだわ。 それが、「副検事」と「カンパン」だ。
この山崎敏充という人は、「昭和50年4月 判事補佐官」で、「60年 判事任官」てことは、東大法学部卒のくせに、書記官か事務官やった上で、10年後に、裏口入学みたいなルートで「カンパン」になったということなのかあ? しかし、その後、名古屋高裁長官、東京高裁長官になっているらしいが、司法試験に合格していない「カンパン」はそういうものにはなれないはずだから、最初は書記官か事務官になったとしても、どの時点かで司法試験に合格したということなのだろうか・・・? なんか、よくわからない経歴だな・・・。
そもそも、経歴に絶対いい絶対悪いはない。 評価の高い大学を卒業しようが「エリートコース」を歩もうが、だから優秀なのか、だから、庶民の気持を理解できないのか、そのあたりは何とも言えない。 しかし、自分の経歴を述べるなら、相手は必ずしも頭脳優秀な人間ばかりというわけでもなく、国民すべてが対象である「最高裁判事の国民審査」のための「広報」である以上、もっとわかりやすく述べるべきであり、その点ではマイナスの評価とされるていたしかたないのではないだろうか。
5名の生まれた年を見ると、昭和23年(1948年)が1名、昭和24年(1949年)が3名、昭和26年(1951年)が1名。 1950年に始まって1953年に休戦になった朝鮮戦争の直前に生まれた人が4名、朝鮮戦争の最中に生まれた人が1名ということになる。
さて、選挙と最高裁判事の国民審査の日まであと2日ないのだが、これから、「最高裁判所において関与した主要な裁判」の部分を読みすすめようと思う・・・が、↑ に書きだしただけを見て判断しても、少なくとも、何も読まずに、何も考えずに、無記入 にしたり「×」にしたりするより良いのではないか。
自分の判断が間違っている可能性もあるとしても、それでも自分自身の判断で、無記入にするか「×」にするか選ぶという思考態度と、自分自身の判断が間違っている可能性があるから、無記入にするという判断では、その判断が正しいか間違っているかにかかわらず、自分自身で判断しよう、自分の判断をおこなおうという姿勢は、民主主義の側の姿勢であり、自分の判断が間違っているかもしれないから自ら判断しないでおこうという姿勢はファシズムの側の姿勢、民主主義に敵対する側の姿勢である。
ぜひ、「最高裁判所裁判官国民審査選挙公報」を読み解こうではないか!
【2】 衆議院選挙については、自民党の圧勝ではないかという予想がマスコミに出ている。
まず、獲得票数以上に獲得議席数に差が出るという今の選挙制度はどう考えても良くない。
それはそれとして、 「政権担当政党は自民党でいい」というのと、「自民党、特に、本性は自民党の中でも右翼、タカ、反動の安部晋三の政権がやりたい放題になるのを認めていい」というのは意味が違う。
今の自民党の議席はすでに相当に多いのだ。 これ以上、多くなって、なんでもやりたい放題になっては困るのだ。
もしも、自民党だけで3分の2の議席を確保するなどということになっては、もはや、「一寸先は闇」かもしれない。
この選挙は、「本性は右翼・タカ・反動の安部晋三が総裁になっている自民党」に、これ以上、議席を増やさせて良いのか? という視点を持って考える必要があると思う。
ひとつには、民主党がだらしない。 今となっては、30年ほど前、岩波書店から出ている月刊誌「世界」に出ていた記事だが、筆者が誰であったかは忘れてしまった。 その頃の選挙で、その頃存在した、民社党は、党役員が分担して3通りの作戦を描いていたらしい、という。 ひとつは自民党が過半数割れした時に、公明・民社が協力して「自公民」政権を作るというもの。 2つ目は、自民党が過半数割れした時に、社会党と組んで「社公民」政権を作るというもの、3つ目は、公明・民社が中心になって、自民党の一部と社会党の一部をひきはがして合流させて、公明・民社が中心となって自民党の一部・社会党の一部と協力しての政権を作るというものだったらしい。 結果はいずれも現実にならなかったが、その計画・作戦について、「世界」の中での筆者は、かつて、民社党が社会党から分かれる時に、西尾末広が「政権を取ろうとしない政党は、ネズミを捕ろうとしない猫のようなものだ」と言って社会党から出たが、「政権を取る」というのと「政権の一部にありつく」というのは似ているようで意味は違うのではないか、どういう組み合わせでもいいから「政権の一部にありつく」というのは、結党時の精神と異なるのではないか、と指摘していた。
民主党は「自民党より右」の維新の会と組もうとしたり、いったい、どこを目指しているのかわからない。 どこを目指しているのかわからない状態では、投票していいのか悪いのかもわからないことになってしまう。
公明党は、創価学会の信者で、公明党がどこに進もうが公明党なら投票するという人たちだけの票でいいのだろうか。 創価学会員でない人からも得票したいと思ったならば、自民党に下男下女のように付き従うような態度ではだめではないか。 そもそも、「集団的自衛権」とか憲法9条改正(改悪?)とかにまで公明党が自民党に付き従うのならば、それは、第2次戦争中、戦争に反対して弾圧され、命を落とした創価学会の先輩に対する裏切り行為ではないのか? それは創価学会の精神に反するものと違うのか?
(参考) ≪ (戦中、)仏教のほとんどは、国策に忠実で、近代天皇制国家を思想的にささえる役割をはたしましたが、こういう中で、少数でしたが、社会の矛盾を批判し、戦争に反対する仏教者が、あいついで出ました。・・・
日蓮宗は、天照大神(あまてらすおおみかみ)を法華経の番神としていることを不敬とされ、さらに日蓮の遺文の中で、仏法にそむいた天皇を批判した箇所などを削除させられました。 また、本門法華宗、日蓮正宗の信者団体の創価教育学会(のち創価学会)などは、きびしい弾圧を受けました。創価教育学会は、末法に神社を拝むことを謗法とする教義から、伊勢神宮の大麻(神札)を祀ることを拒否したことなどを理由に弾圧され、会長 牧口 常三郎(1871-1944)は獄死しました。≫
(村上 重良『日本の宗教』1981.3.20.岩波ジュニア新書)
今回の選挙には、大きな不安を感じている。 消費税増税など不人気な政策を実行する前に、「アベノミクス」を評価させて絶対的な議席を確保した上で、さて、何をするのか?
憲法改悪か? 原発再起動か? 徴兵制か? 「日の丸」「君が代」の強制か? 教育内容への右翼・タカ・反動政権の好むような内容の指示・命令か? 言論機関への統制か?
日本に明日の希望はあるのだろうか・・・・・・・?
(2014.5.12.)
(追加) 投票に行ってきました。 最高裁判事の国民審査についてですが、「×」をつけるべきかどうかわからないから《無記入》で投票箱に入れてしまうと承認したことになってしまうので、それなら、むしろ、全員に「×」をつけた方がいいのではないかという考え方もあると↑で述べましたが、判断できない場合の選択肢として、衆議院の選挙には投票するが、最高裁判事の国民審査には投票しないで投票用紙を受け取らない・返すということもできるようで、《無記入》で事実上、承諾するのも嫌だし、「×」をつけるほど否定的な印象は受けていないという場合にその選択肢があるようです。 但し、用紙を受け取らないというのは全体についてできることで、5人のうち、《無記入》で承認する人、「×」で承認しない人、用紙を受け取らずにどちらとも言えないとする人ということにはできません。 それなら、やはり、たとえ、イメージ、印象だけででも《無記入》(承認する)か「×」(承認しない)か選んだ方がいいと思います。 「関与した主要な裁判」のところを見ても、大きくは変わらないような気がするという場合、本来は、これは相対評価ではなく絶対評価をするべきもので、よくない人ばかりなら全員「×」、いいひとばっかりなら全員《無記入》でいいものなのですが、判断に迷う場合に、「仮に相対評価で」という方法があると思います。 5人のうち、良さそうな方から、良くない方から並べて、承認3人と非承認2人、もしくは、承認2人と非承認3人に分けます。 その上で、非承認2人のうち、やっぱり承認していいだろうと思う人が1人あれば、承認4対非承認1に変更、承認2人のうち、やっぱり非承認にした方がいいと思った人がいたら、承認1対非承認4 に変更とします。 この方法ででも、「ともかく、国民のひとりとして、意思表示をする」というようにした方が、私はいいと思います。 (2014.5.14.)
【1】 中学校の社会科に「公民」という科目があった。 そこでも、「最高裁判所判事の国民審査」というものが、衆議院選挙と一緒におこなわれる と教えられた記憶がある。 10代後半の自分が選挙権を持たせてもらえていない時期においては、「最高裁判所判事の国民審査」も、真面目に考えて、「×」をつけるべきかつけずにおくべきか決めないといけないと思っていたのだが、成人後、どうも、この制度は有効に動いていないとあきらめの気持が強くなった。 しかし、自分ひとりがどう投票しても、自分の1票だけで変わるわけではない というのは、衆議院選挙にしても同じだ。 それなら、「最高裁判所判事の国民審査」についても、自分の1票だけで変わらなくても、それなりに真剣に考えて、「×」にするか 無記入 にするか決めるべきだろう。
問題点のひとつとして、選択が「×」か 無記入 かのいずれか という書き方にあると思うのだ。 もしも、「×」か「○」か 無記入 かであると、どちらか判断できかねる場合に無記入とする人が多い場合、「×」が「○」を上回る人が出てくる可能性もある。 ところが、「×」か 無記入 かの選択であるため、無記入にした場合に、まるで、「○」をつけてもらったかのような評価になってしまうという点が大いに問題のあるところだ。
私の友人で、 「×」が多数で解任された裁判官は今までになく、どのみち、全員が認められる結果になるのだから、それなら、もしも、その裁判官が不適任とするべきか(「×」をつけるべきか)適任とするべきか(無記入とするべきか)わからない場合は無記入にせず「×」にするべきではないか。 この人は認めていいと判断できる人には無記入として、判断に迷う場合は無記入ではなく「×」にするというのが国民としてベストではなくてもベターな判断ではないか、と言った人がいたが、それも一理はあるとは思う。
ひとつの大きな問題。 日本の新聞は、なぜ、「最高裁判所判事の国民審査」について報道しないのだろうか。 これは、選挙と並ぶ大事な問題のはずなのだが、選挙と同等までいかないにしても、それなりに報道してもよさそうに思うのだが、ほとんどないのは適切ではないのではないだろうか。
もう何十年か前、ラジオの放送、どの局だったかは忘れたで、アナウンサーなのか「キャスター」とかいう種族なのか忘れたが、「最高裁判所判事の国民審査」についてふれている新聞が少ないと述べ、その中で、ある新聞(どの新聞だったか忘れた)が、◇◇という事件について、○○に賛成した裁判官は誰と誰で反対した裁判官は誰と誰と誰である、といった報道をしていた、として、そういった報道をもっとするべきではないか と述べていた。 最近、そういう報道を新聞で見ないし、そういった指摘もラジオで聞かない。 (お断りしておくが、私はすべての新聞を最初から最後まで調べたのではないし、ラジオ番組もすべて聞いたわけではなく、デジタル放送始まって以来、テレビを自宅で見たことがないので、私が見ていないところでおこなわれている可能性もあるが、選挙についての報道を私が見ている度合に比べて、「最高裁判所判事の国民審査」についての報道が著しく少ない というのは間違っていないはずだ。
それで。 どうせ、全員が「罷免されなくてよい」とされるのなら、判断できかねる場合は無記入ではなく、判断できかねる場合は「×」をつけてやった方がいい、というのもひとつの考え方ではあるが、
↑ こんなやつが各家庭に届いているはずなので、せめて これを見て、なんか気に食わないというだけでも「×」をつける。 経歴が胡散臭そう、顔が悪代官みたい、という判断でも、本来はそれは理想的な判断ではないとしても、まったく何も判断しないよりは、どうせ、誰も罷免されないという現状から考えれば、ともかくも、国民が判断しているという姿勢を示すだけでもいいのではないかと思うのだ。
ちなみに、だ。
今回の5人を見ると、「略歴」は、
鬼丸 かおる(おにまる かおる)・・・昭和24年(1949年)2月生まれ。 東京都生まれ。
東京教育大附属小学校・中学校・高校卒。 東大法学部卒。
昭和48年(1973年)、24歳の時に司法修習生。
木内 道祥(きうち みちよし)・・・・・昭和23年(1948年)1月生まれ。 徳島県生まれ。
東大法学部卒。
昭和48年(1973年)、25歳の時に司法修習生。
池上 政幸(いけがみ まさゆき)・・・・昭和26年(1951年)8月生まれ。 仙台市生まれ。
仙台市立木町通り小学校卒、東北大学教育学部付属中学校卒、仙台第一高校卒、東北大法学部卒。
昭和50年(1975年)、24歳の時に司法修習生。
山本 庸幸(やまもと つねゆき)・・・・昭和24年(1949年)9月生まれ。 福井県生まれ。
愛知県立旭ヶ丘高校卒、京都大法学部卒。
昭和47年(1972年)、23歳の時に国家公務員上級試験に合格して、翌年昭和48年(1973年)4月に通産省に入り、その後、内閣法制局参事官、内閣法制次長、内閣法制局長官などを経て、最高裁判事。
山﨑 敏光(やまさき としみつ)[「さき」は環境依存文字。 「山」へん に、「立」の下に「可」を合わせたつくり。]・・・昭和24年(1949年)8月生まれ。 大阪府八尾市生まれ。
地元の小学校、灘中学校卒、東大法学部卒。
昭和50年(1975年) 判事補佐官、 昭和60年(1985年)判事任官。
といったことが書かれている。 写真を見る限り、鬼丸かおる が女性で、他の4名は男性らしい。 男だからいいという理由はないが、同じ理由で女だからいいということもない。
「学歴」部分については、一般の国民は不特定多数に自分の学歴を公開しなければならないことはないが、一般の人間でも、求職活動の際には、応募において、学歴・職歴・資格について記述した履歴書を提出するのであり、この人たちは、いわば、国民に対して求職しているのであるから、一般の人間が求職活動において履歴書に、嫌でも書かざるを得ない「中学校卒業以降」の学歴は明記するべきだと思う。
「国民審査広報」には、「略歴」「最高裁判所において関与した主要な判例」「裁判官としての心構え」の3点が書かれているのだが、「裁判官としての心構え」の部分は、それぞれの人がそれぞれの書き方で述べればいいと思うのだが、「略歴」の部分については、履歴書の書き方と同様に、「中学校卒業以降」について、すべての人に同じ書き方で書いてもらうようにした方がいいのではないだろうか。 その上で、中学校卒業より前については述べたい人は述べるということにした方がよいと思うがどうだろう。
それで、だ。 「心構え」として「・・・と考えております」「・・と思っております」とかいうのは、まあ、一般に悪いことは書かないだろうとして、もっとも重視するべきものは「最高裁判所において関与した主要な裁判」の部分なのだが、これをじっくりと読んでいくのはけっこう労力がいる。 その裁判の当事者だった人はさておき、そうでない者にはけっこう負担で、そこから判断をあきらめてしまう人もいるのではないかと思う。
それで、だ。 その前に、本来の重要性は「最高裁判所において関与した主要な裁判」の部分に比べると低いと思われる「略歴」の部分だけでも見たほうが、何も見ないで「×」か無記入か選ぶよりはいいと思うのだ。
出身大学で見ると、5名中、東大法学部卒が3名、東北大法学部卒1名、京大法学部卒1名。
弁護士を依頼しようとした場合にも、一般の人間にはなかなか判断の方法・基準がないのだが、 「東大法学部卒の弁護士には、ろくな弁護士がいない」と書いてあったものを何かの本で読んだ記憶があるのだが、それが何であったか忘れてしまった。 但し、これは弁護士の場合のことだ。
大学にはそれぞれ特色があり、それぞれに「けなし言葉」がある。 慶應は「サラリーマン養成所」とか「財界の御用大学」(しょせん、財界の御用大学だろうが)、中央大学は「資格試験予備校」(司法試験・公認会計士試験の合格者数を誇っても、そのための資格試験予備校でしかないだろうが)、京大は「教員養成所」(「アカデミックな学風」「反骨の伝統」とかなんとか言っても、要するに、学校の先生みたいな人間ばっかり育成しているだけじゃないか)といった「悪口」があり、あくまで「悪口」なので、100%あたっているわけでもないが、まったくの見当はずれでもないようにも思えるものだ。 そして、東大は「役人養成所」(「最高学府」とかなんとかいってプライドばっかり高いが、結局、役人でもなければ使い物にならない人間だらけじゃないか)という批判がなされる。
その批判の通り、東大出身の人というのは、あくまで「多い」という話であって、人によっても違うのであるが、役人に向いている人が多く、司法試験合格後に進む進路としては、弁護士よりも判事(裁判官)か検事の方が向いているのではないかと思える人が多いような気がする。
だから、東大法学部卒の人はいいかというと、絶対にそうとも言い切れない。 少し古い本だが、潮見俊隆『法律家』(1970. 岩波新書)では、裁判官は、上級審に行くほど東大卒の人間の割合が大きくなるといい、その理由として、裁判所にも学閥があるのではないかとも言われ、そうではなく、東大卒の人に優秀な人が多いからそうなっているのだと言う人もあるらしいことが書かれており、その判断は簡単ではないだろうけれども、たとえ、東大出身者に優秀な人が多かったとしても、国民全体のことを考える裁判所において、ひとつの大学の出身者の占める割合があまりにも大きいというのは、国民にとって良いと言えるか? といった疑問も述べられていたと思う。
さて、日本においては、「大学卒」の部分が「すごろく のあがり」みたいに扱われる時もあるのだが、「三つ子の魂 百まで」という言葉もあるように、人間の人格形成の点では、大学よりも小学校から高校までの方が影響は大きいような気もする。
それで、その部分で見ると。
鬼丸かおる て、おばさん。 「附属」の小学校・中学校なんか行ってたのかあ・・・。 小学校の時から、一般人とは違う学校に行って、小学校の1年から理由もなく自分はエライみたいに思っていた人間かあ???
木内道祥て おっさん。 学歴部分は、「東京大学法学部卒業」しか書いていないが、何か、書けない理由でもあるのか? 「普通の人間」でも、仕事にありつきたいと思って応募する際、本心としては書きたくない学歴の場合でもしかたなしに、「○○中学校卒、◇◇高校入学、◇◇高校卒、△△大学☆☆学部入学、 △△大学☆☆学部卒」と書くのだが、「東京大学法学部卒業」しか書かないというのは、国民をバカにしていないか?
池上政幸て、おっさん。 東北大法学部か。 東北大て、「旧帝大」だからということで、東大・京大・阪大に並ぶ大学だと勘違いしている人がいるけれども、実際は、岩手大・福島大・山形大と並ぶ実質、宮城大学だぞお。 この人が行った頃の東北大なんて、誰でも入れる大学だったのと違うんかあ?
山本庸幸て おっさん。 にこやかな顔で写真うつってるけど、なんか、もともとは悪人顔のくせに写真のためににこやかな顔つくってるのと違うのかあ?
山﨑敏光て おっさん。 灘中学校・灘高校卒で東大行ったというけれども、この人が灘に行った時の灘高校というのは、進学校といっても、まだたいした進学校でなかった時代で、東大合格者数1位は日比谷高校だった時代だろ。 大阪府八尾市の生まれなら、その付近の高校なら、たとえば、大阪府立天王寺高校なんかの方が灘高校よりもよっぽど進学成績は上の時代のことだろ。 そういう時代に、大阪府の八尾市の生まれのくせに、中学校から灘に行くなんて、なんか、けったいなやつやなあ~あ・・・・。 「私立灘中学校、灘高校を経て」と灘は固有名詞を書くくせに、「地元の小学校」という記載のしかたは何だろうか? 池上政幸は「仙台市生まれ」と書いた後、「同市立木町通り小学校、」と小学校も固有名詞で書いているのに、山崎敏光は、灘は「私立の高校」ではなく固有名詞を出しても、「地元の小学校」は固有名詞ではなく「地元の小学校」などと書いているというのは、公立の小学校を軽視している、灘より軽くみているということか? その小学校というのは「八尾市立○○小学校」という学校ではなく「地元の小学校」という名前の学校なのか? 名前を出すと何か具合が悪いようなことでもあるのか?・・・・・とか、これらの疑問というのか悪口雑言というのかは、すべてあたっているかどうかは知らないしわからない。 しかし、だ。 たとえ、あたっていなくても、 たとえ、その程度のことでも、いくらかなりとも考えた上で、「×」をつけるか 無記入 にするか決めた方が、何も考えずに無記入にする、何も考えずに全員に「×」をつける よりも良いのではないか、という気がするのだ。 そうではないだろうか。
評価の高い大学を卒業したなら、それは悪いことではないが、もし、大学入試に失敗したとしても、それこそ、「徳川家康公遺訓」にも、「勝つことばかり知りて、負けること知らざれば、害その身に至る」とあるように、うまくいかないことがあっても、その過程で何かを学ぶことができたならば、それはそれで悪いことはない。
鬼丸かおる・木内道祥の2名は司法修習生を経て弁護士からなった人らしい。 弁護士にもいろいろな人がいるので、弁護士出身だからということでいいとも悪いとも言えない。 弁護士には、弁護士は裁判官・検察官の下働きをするのが仕事と思っているのかと思えるようなヤカラもいる。
池上政幸は司法修習生から検事になって大阪高検検事長から最高裁判事になったらしい。 「検事あがり」というのか「検事くずれ」というのかの弁護士のことを「ヤメ検」と言って、刑事事件は頼まない方がいいという人があるらしい。 それはどういうことかというと、「ヤメ検」に刑事事件の弁護を依頼すると、検事と裏取引して検事の都合のいいように動く、依頼者(「刑事被告人」)のためではなく検察のために動くやつがいるということらしい。 しかし、『憂国のラスプーチン』など読むと、元外務省の佐藤優氏の弁護をした弁護士は元・検事だったらしいが、元・検事だけに検察の醜い面も知っていて、その上で相当の努力をしたらしいし、元・検事の弁護士でなくても、依頼者のためではなく相手方のため(刑事事件なら検察のため)に動くろくでない弁護士( 「振り込め詐欺弁護士」 [着手金を○日までに振り込め と言うので大急ぎで無理して振り込むと、あとは、依頼者の為ではなく相手方(刑事事件なら検察)のために働く、実質、「振り込め詐欺」の弁護士]は存在する。 検察 と 裁判所 は本来、異なる立場のはずで、異なる立場の検察出身者が裁判官になるというのが良いかどうか。 良くないのではないか、という説が強いようだし、私も、検察と裁判所の「人事交流」は好ましくないのではないか と思うのだが。 もちろん、それだけでその人を判断することもできないかもしれないが。
山本は、鬼丸・木内・池上のように司法修習生を経て法曹に入ったのではなく、国家公務員上級試験(現在の国家公務員1種試験)を経て通産省に入り、内閣法制局参事官、内閣法制局第一部中央省庁等改革法政室長、内閣法制局第四部長、第二部長、第三部長、第一部長、内閣法制次長、内閣法制局長官を経て 最高裁判事になったらしい。 司法試験・司法修習生を経ずに最高裁判事になるのがいいかどうかといったことも言われるが、内閣法制局といえば、行政側の法律についての専門部署のはずだが、そのあたりがいいかどうか。
よくわからないのが山崎敏充の「昭和50年 4月 判事補佐官」というやつ。 「判事補佐官」とは何か。 裁判所書記官、事務官といった職のことか? ということは、刑事事件の際、本来、書記官というものは公平でなければならないはずで、又、裁判の判決を決めるのは裁判官であって書記官ではないはずで、又、刑事事件の裁判中の「刑事被告人」は犯罪者というわけではないはずであるにもかかわらず、「刑事被告人」とされてしまった人間の人権を侵害し、「刑事被告人」とされてしまった人間が不利になるように働きかけるのが“ 正義の味方 ”みたいに思っている人間のカスのことか? 東大法学部あたりを卒業して在学中に司法試験に合格して裁判官になったようなのが、世間知らずとはいえ、学歴エリートとして、少々、お鼻が高くなるというくらいはわからないこともないが、裁判所書記官には見るからに五流大学卒だろて感じで、見るからに「こいつ、アホだろ」て感じの顔しているにもかかわらず、国民の税金で食わせてもらっているくせに国民に態度でかくて、いったい何様なんだ、このバカは!?!て感じの書記官がいるが、そういうやからのひとりか? ということは、この人は、東大法学部まで卒業しながら、そういう五流大学出の人間のなる仕事についていたということか?
簡易裁判所の判事のことを「カンパン」と言って、裁判官の世界ではバカにされているという。 なぜ、バカにされているかというと、「カンパン」は司法試験に合格していないくせに裁判官になっている、いわば、裏口入学のようなヤカラだかららしい。 では、その「裏口入学」とはどういうものかというと、だ。 裁判所書記官を何年か経験した人間は、簡易裁判所の裁判官については、司法試験に合格してもなることができるらしいのだ。 「検察官」でも「副検事」というややこしい職種の人間がいるのだが、それと似ている。 検察官とか裁判官とかいうのは、「一流大学」を卒業した上で司法試験という難しい試験に合格するだけの勉強をした秀才だろう・・・と思い込んで、裁判所や検察庁で見ると、「ええ~え? こんな人があ~あ???」て感じの顔、どう考えてもこんなやつが旧帝大系国立大学だの早慶だの卒業しているわけないじゃないかて感じの顔したのがいるんだわ。 それが、「副検事」と「カンパン」だ。
この山崎敏充という人は、「昭和50年4月 判事補佐官」で、「60年 判事任官」てことは、東大法学部卒のくせに、書記官か事務官やった上で、10年後に、裏口入学みたいなルートで「カンパン」になったということなのかあ? しかし、その後、名古屋高裁長官、東京高裁長官になっているらしいが、司法試験に合格していない「カンパン」はそういうものにはなれないはずだから、最初は書記官か事務官になったとしても、どの時点かで司法試験に合格したということなのだろうか・・・? なんか、よくわからない経歴だな・・・。
そもそも、経歴に絶対いい絶対悪いはない。 評価の高い大学を卒業しようが「エリートコース」を歩もうが、だから優秀なのか、だから、庶民の気持を理解できないのか、そのあたりは何とも言えない。 しかし、自分の経歴を述べるなら、相手は必ずしも頭脳優秀な人間ばかりというわけでもなく、国民すべてが対象である「最高裁判事の国民審査」のための「広報」である以上、もっとわかりやすく述べるべきであり、その点ではマイナスの評価とされるていたしかたないのではないだろうか。
5名の生まれた年を見ると、昭和23年(1948年)が1名、昭和24年(1949年)が3名、昭和26年(1951年)が1名。 1950年に始まって1953年に休戦になった朝鮮戦争の直前に生まれた人が4名、朝鮮戦争の最中に生まれた人が1名ということになる。
さて、選挙と最高裁判事の国民審査の日まであと2日ないのだが、これから、「最高裁判所において関与した主要な裁判」の部分を読みすすめようと思う・・・が、↑ に書きだしただけを見て判断しても、少なくとも、何も読まずに、何も考えずに、無記入 にしたり「×」にしたりするより良いのではないか。
自分の判断が間違っている可能性もあるとしても、それでも自分自身の判断で、無記入にするか「×」にするか選ぶという思考態度と、自分自身の判断が間違っている可能性があるから、無記入にするという判断では、その判断が正しいか間違っているかにかかわらず、自分自身で判断しよう、自分の判断をおこなおうという姿勢は、民主主義の側の姿勢であり、自分の判断が間違っているかもしれないから自ら判断しないでおこうという姿勢はファシズムの側の姿勢、民主主義に敵対する側の姿勢である。
ぜひ、「最高裁判所裁判官国民審査選挙公報」を読み解こうではないか!
【2】 衆議院選挙については、自民党の圧勝ではないかという予想がマスコミに出ている。
まず、獲得票数以上に獲得議席数に差が出るという今の選挙制度はどう考えても良くない。
それはそれとして、 「政権担当政党は自民党でいい」というのと、「自民党、特に、本性は自民党の中でも右翼、タカ、反動の安部晋三の政権がやりたい放題になるのを認めていい」というのは意味が違う。
今の自民党の議席はすでに相当に多いのだ。 これ以上、多くなって、なんでもやりたい放題になっては困るのだ。
もしも、自民党だけで3分の2の議席を確保するなどということになっては、もはや、「一寸先は闇」かもしれない。
この選挙は、「本性は右翼・タカ・反動の安部晋三が総裁になっている自民党」に、これ以上、議席を増やさせて良いのか? という視点を持って考える必要があると思う。
ひとつには、民主党がだらしない。 今となっては、30年ほど前、岩波書店から出ている月刊誌「世界」に出ていた記事だが、筆者が誰であったかは忘れてしまった。 その頃の選挙で、その頃存在した、民社党は、党役員が分担して3通りの作戦を描いていたらしい、という。 ひとつは自民党が過半数割れした時に、公明・民社が協力して「自公民」政権を作るというもの。 2つ目は、自民党が過半数割れした時に、社会党と組んで「社公民」政権を作るというもの、3つ目は、公明・民社が中心になって、自民党の一部と社会党の一部をひきはがして合流させて、公明・民社が中心となって自民党の一部・社会党の一部と協力しての政権を作るというものだったらしい。 結果はいずれも現実にならなかったが、その計画・作戦について、「世界」の中での筆者は、かつて、民社党が社会党から分かれる時に、西尾末広が「政権を取ろうとしない政党は、ネズミを捕ろうとしない猫のようなものだ」と言って社会党から出たが、「政権を取る」というのと「政権の一部にありつく」というのは似ているようで意味は違うのではないか、どういう組み合わせでもいいから「政権の一部にありつく」というのは、結党時の精神と異なるのではないか、と指摘していた。
民主党は「自民党より右」の維新の会と組もうとしたり、いったい、どこを目指しているのかわからない。 どこを目指しているのかわからない状態では、投票していいのか悪いのかもわからないことになってしまう。
公明党は、創価学会の信者で、公明党がどこに進もうが公明党なら投票するという人たちだけの票でいいのだろうか。 創価学会員でない人からも得票したいと思ったならば、自民党に下男下女のように付き従うような態度ではだめではないか。 そもそも、「集団的自衛権」とか憲法9条改正(改悪?)とかにまで公明党が自民党に付き従うのならば、それは、第2次戦争中、戦争に反対して弾圧され、命を落とした創価学会の先輩に対する裏切り行為ではないのか? それは創価学会の精神に反するものと違うのか?
(参考) ≪ (戦中、)仏教のほとんどは、国策に忠実で、近代天皇制国家を思想的にささえる役割をはたしましたが、こういう中で、少数でしたが、社会の矛盾を批判し、戦争に反対する仏教者が、あいついで出ました。・・・
日蓮宗は、天照大神(あまてらすおおみかみ)を法華経の番神としていることを不敬とされ、さらに日蓮の遺文の中で、仏法にそむいた天皇を批判した箇所などを削除させられました。 また、本門法華宗、日蓮正宗の信者団体の創価教育学会(のち創価学会)などは、きびしい弾圧を受けました。創価教育学会は、末法に神社を拝むことを謗法とする教義から、伊勢神宮の大麻(神札)を祀ることを拒否したことなどを理由に弾圧され、会長 牧口 常三郎(1871-1944)は獄死しました。≫
(村上 重良『日本の宗教』1981.3.20.岩波ジュニア新書)
今回の選挙には、大きな不安を感じている。 消費税増税など不人気な政策を実行する前に、「アベノミクス」を評価させて絶対的な議席を確保した上で、さて、何をするのか?
憲法改悪か? 原発再起動か? 徴兵制か? 「日の丸」「君が代」の強制か? 教育内容への右翼・タカ・反動政権の好むような内容の指示・命令か? 言論機関への統制か?
日本に明日の希望はあるのだろうか・・・・・・・?
(2014.5.12.)
(追加) 投票に行ってきました。 最高裁判事の国民審査についてですが、「×」をつけるべきかどうかわからないから《無記入》で投票箱に入れてしまうと承認したことになってしまうので、それなら、むしろ、全員に「×」をつけた方がいいのではないかという考え方もあると↑で述べましたが、判断できない場合の選択肢として、衆議院の選挙には投票するが、最高裁判事の国民審査には投票しないで投票用紙を受け取らない・返すということもできるようで、《無記入》で事実上、承諾するのも嫌だし、「×」をつけるほど否定的な印象は受けていないという場合にその選択肢があるようです。 但し、用紙を受け取らないというのは全体についてできることで、5人のうち、《無記入》で承認する人、「×」で承認しない人、用紙を受け取らずにどちらとも言えないとする人ということにはできません。 それなら、やはり、たとえ、イメージ、印象だけででも《無記入》(承認する)か「×」(承認しない)か選んだ方がいいと思います。 「関与した主要な裁判」のところを見ても、大きくは変わらないような気がするという場合、本来は、これは相対評価ではなく絶対評価をするべきもので、よくない人ばかりなら全員「×」、いいひとばっかりなら全員《無記入》でいいものなのですが、判断に迷う場合に、「仮に相対評価で」という方法があると思います。 5人のうち、良さそうな方から、良くない方から並べて、承認3人と非承認2人、もしくは、承認2人と非承認3人に分けます。 その上で、非承認2人のうち、やっぱり承認していいだろうと思う人が1人あれば、承認4対非承認1に変更、承認2人のうち、やっぱり非承認にした方がいいと思った人がいたら、承認1対非承認4 に変更とします。 この方法ででも、「ともかく、国民のひとりとして、意思表示をする」というようにした方が、私はいいと思います。 (2014.5.14.)
この記事へのコメント
山崎氏が灘高校を卒業したのは昭和43年=1968年。
1968年の東大合格者数ランキング
1968年東大合格者数
(志願者12,421人、合格者3,063人)
①灘高校(私立)--------------132(現役112人、京大23人、一橋大03人、東工大01人)
②日比谷高校(東京)----------131(現役45人、京大09人、一橋大04人、東工大07人)
③西高校(東京)--------------102(現役35人、京大04人、一橋大10人、東工大29人)
④戸山高校(東京)------------092(現役34人、京大06人、一橋大04人、東工大20人)
⑤教大駒場高校(東京)--------090(現役47人、京大01人、一橋大01人、東工大05人)
⑥新宿高校(東京)------------068(現役19人、京大01人、一橋大10人、東工大18人)
⑦麻布高校(私立)------------063(現役34人、京大00人、一橋大06人、東工大09人)
⑧教大附高校(東京)----------061(現役29人、京大09人、一橋大01人、東工大04人)
⑧開成高校(私立)------------061(現役32人、京大02人、一橋大10人、東工大07人)
⑩湘南高校(神奈川)----------060(現役31人、京大04人、一橋大11人、東工大12人)
⑪小石川高校(東京)----------058(現役24人、京大08人、一橋大05人、東工大32人)
⑫旭丘高校(愛知)------------057(現役24人、京大42人、一橋大12人、東工大09人)
⑬両国高校(東京)------------055(現役29人、京大03人、一橋大22人、東工大17人)
⑭武蔵高校(私立)------------052(現役27人、京大02人、一橋大00人、東工大04人)
⑮浦和高校(埼玉)------------049(現役16人、京大05人、一橋大18人、東工大17人)
⑯栄光学園高校(私立)--------045(現役26人、京大02人、一橋大06人、東工大10人)
⑰ラサール高校(私立)---------039(現役21人、京大07人、一橋大09人、東工大04人)
⑰高松高校(香川)------------039(現役19人、京大36人、一橋大05人、東工大05人)
⑲上野高校(東京)------------033(現役11人、京大05人、一橋大08人、東工大19人)
⑲学大附高校(私立)----------033(現役17人、京大02人、一橋大07人、東工大18人)
https://sites.google.com/site/kansaihistory/home/todai/1968
「灘1位、日比谷2位」。1968年3月、新聞の見出しに、日本中が衝撃を受けた。戦前を含めてつねに東大合格者数1位だった日比谷高校の牙城を最初に崩したのは、開成でも筑駒(筑波大附属駒場)でもない。灘だった。兵庫県神戸市東灘区に所在する、中高一貫の私立男子校。1学年200人程度の小規模校にもかかわらず、東大合格者数ランキングでは例年トップ3に入る。
https://toyokeizai.net/articles/-/176899
物を書く前に、きちんと調べてから書こう。