現実と学んでいる内容の相違を無視して平気で学べるか-北野高校の無神経校長・楠野宣孝~金大中の嘆き

〔第100回〕
【1】  わかっている人にとっては当たり前のことですが、
1.憲法に反する法律・条例は当然に無効です。 
2.歴史の流れとして考えるならば、
奴隷制→封建制→資本制 という経済史の流れ、
君主制→民主制 という政治体制の流れ、そして、
天皇主権→国民主権 という流れは、過去に戻すべきものではなく、過去に戻そうとするのは歴史の歯車を逆に回そうとする「反動」の動きです。
  国民主権を確固たるものにする方向で働きかけることこそ正しく、逆は間違っており、「象徴天皇制」は、国民主権を強める方向に解釈することが正しいのです。
  これは、天皇や皇族を粗略に扱うということではありません。 天皇や皇族の方が、人間として、もっと自由に生きることができる社会をこそ実現したいものです。



   私が中学生の頃は、社会科は、「地理」・「歴史」・「公民」を、学校によって学び方が異なり、「ザブトン方式」と言って、1年で「地理」、2年で「歴史」、3年で「公民」と学ぶ学校もあったようですが、私が行った中学校では、1年で「地理」(日本の地理の部分)と「歴史」、2年で「地理」(世界の地理の部分)と「歴史」、3年で「歴史」の残りの部分と「公民」というように学びました。 「公民」の教科書の最後尾には日本国憲法の全条文が掲載されており、日本国憲法にはどういう条文があるのか学びました。
   高校の社会科は、中学校以上に学校によって違いがあったようですが、私が行った頃の北野高校では、1年で「地理A」(系統地理)、2年で「倫理社会」と「世界史」、3年で「世界史」と「日本史」と「政治経済」というように学びました。 「政治経済」の教科書にも、最後尾に日本国憲法が掲載されていました。
   学校によって、学び方は、多少、違うでしょうし、担当した教諭によっても違いはあるかもしれませんが、中学校でも高校でも、日本国憲法はどういう内容かは学ぶようになっていたはずです。 今は、私が行った頃と同じではないかもしれませんが、この点は大きくは変わらないと思います。
   
   さて、このブログでも、何度か述べてきたので、それらを読んでくださった方はしつこいと思われるかもしれませんが、日本国憲法には、
≪ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。≫(前文)
と述べられており、そして、 ≪これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。≫(前文)と政治思想史の流れとしてとらえて明言し、国民主権は否定できないものであることもきっちりと述べられています。 そして、≪われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。≫(前文)この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。≫(第98条第1項)≪天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。≫(第99条) ということも、きっちりと述べられています。
   何度でも述べますが、「国民主権」を否定し、「天皇主権」を主張する内容の「君が代」の文句を入学式や卒業式にかこつけて公立の学校で唱和するようなことは、日本国憲法の規定に反するものでもあり、当然、認められるものではありません。 
   「国民主権」を否定し、「天皇主権」を主張する「君が代」の文言を唱和するように強制し、従わない教員に処分をおこなうなどという非常識な条例は憲法違反であり、当然に無効です。
   
   又、日本国憲法には、≪信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。≫(第20条第1項)、 ≪何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。≫(第20条第2項)、 ≪ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。≫(第20条第3項) と、きっちりと「信教の自由」についても述べられています。これは、日本国憲法に規定されているから「信教の自由」は守られなければならない、規定されていなければ守らなくてもよいという性質のものではなく、どこにおいても守られなければならない「信教の自由」というものを憲法において、きっちりと確認したというものです。
   「君が代」の唱和は、天皇を神格化し、天皇を神としてあがめさせようとする「歌」でもあり、その点で、「信教の自由」の侵害でもあります。
   又、「君が代」という呪文自体を偶像のように扱う傾向もあり、その点でも「信教の自由」の侵害と考えるべきです。

   日本の「国旗」として、どういうものがふさわしいか、国民全体によって議論がなされた上で決められるべきであったはずですが、「日の丸」が「国旗」として議決される際には、どういうものが「国旗」にふさわしいかという議論がされるのではなく、「日の丸」を「国旗」と決めようという動きによって、認定されてしまいました。 はたして、「国旗」にふさわしいものであったかどうか、日本国民はきっちりと考えることもなく決められてしまったようなところがあります。
1. 「日の丸」の旗については、もともと、薩摩藩が船印として使っていたものであるので、江戸時代においては、琉球からすれば、薩摩藩は侵略者であり支配者であったわけであり、侵略者・支配者が船印にしたものを「国旗」にされるのはおかしいのではないか、という問題があるようです。
2. 又、幕末の倒幕と佐幕の争いの際に、倒幕側の薩長が天皇家の菊の紋を幟に掲げたのに対して、徳川方が幟に「日の丸」を掲げたことがあったらしく、日本国内での争いにおいて、一方が掲げたものを、日本全体の旗とするのが良いかどうかという問題もあるようです。
3. ドイツは、第2次世界大戦の後、国旗として使用していた「ハーケンクロイツ」の旗を改めました。 又、イタリアは、赤・白・緑の三色に王家の紋章が入っていた第2次世界大戦終結までの国旗から、王家の紋章を取り除きました。 第2次世界大戦中に日本軍が「侵略」なのか「進出」なのかをおこなった東南アジアの国においては、「日の丸」の旗を、ドイツの「ハーケンクロイツ」の旗と同じく、侵略者の旗ととらえている人たちがいるようであり、この点から、日本は、戦後、それまでとは異なった国として歩むのであるという意思表示として、「日の丸」の旗は改めた方が良いのではないのか、という考え方があります。

   中学校では「歴史」、高校では「世界史」「日本史」を学んでいるはずなのです。 そういった中から、はたして、「日の丸」を無条件に「国旗」として考えて良いものかどうかということも考えざるをえないはずなのです。 

   但し、そうはいっても、「日の丸」の旗は、「国旗」と制定されるより前から、「国旗」であるかのように扱われてきて、日本にはそれ以外に「国旗」のようなものはありませんでした。 私は、最初にヨーロッパに旅行して泊ったのは、ローマのホテルでしたが、ホテルの部屋で、使用法がわからないものについて、部屋には、イタリア語・英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語・ロシア語・日本語で説明書きが書かれていたように思うのですが(たしか、この7日国語であったように思いますが、もしかすると、もう1ヶ国語くらいあったかもしれません)、それぞれの国の言語での説明書きの左側に国の旗が書かれていました。 その国の文字だけでは、どこを見ればよいか見つけにくいのですが、左側に旗が描かれて、そして、その右にその国の言語で説明書きが書かれていたので、日本語での説明書きを見つけることができて助かったという経験があります。 それらの場合に、「国旗」の役割をするものがあることで、助かることはあったのです。
  しかし、だから、今後も、「日の丸」が国旗に絶対にふさわしいとは決まっていません。 まず、「日の丸」を国旗としてふさわしくないと思っている人が少なからずいる以上、他のデザインの旗を考えてみることもあって良いのではないのか、毎度、「日の丸」の旗についてもめるのであれば、なにも、もめる物を「国旗」にしておく必要はないのではないか、という考え方があって良いと思います。
  
  そして、「日の丸」を「国旗」にするから出て来る問題点もあります。 橋下徹は、大阪市役所において、「日の丸」の旗への敬礼の儀式を橋下が決めて強制しようとしだしました。
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 
 YOMIURI ONLINE 読売新聞
 議場では国旗に敬礼、大阪市長が幹部らに指示
「席に着く時」「答弁に立つ時」「休憩後も」 http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120122-OYO1T00187.htm
   大阪市の橋下徹市長は、市議会本会議場で壇上に並ぶ局長級の幹部らに対し、議場での着席時や答弁に立つ際に、国旗への敬礼を徹底するよう指示した。2月議会には、市立施設への国旗の常時掲揚や、市立校の教職員に国歌斉唱時の起立などを義務づける「国歌起立条例案」を提案する予定で、まずは幹部に範を示させる狙いがあるとみられる。
   橋下市長は今月中旬、「議場における国旗への礼」というタイトルで幹部らにメールを送信。 「議場の席に着く時には国旗に礼をしてください」「答弁に立つときだけではなく、席につくときに1段あがるときにも」「休憩後も」などと、細かく指示を出した。  また、市議会本会議での質疑応答が、3月から一問一答方式に変更されるのを念頭に、 「一問一答の際、毎回礼をやっていたら議論にならない。最初と最後だけの礼にしようと思う」と、橋下流の作法も示した。   橋下市長は同条例案で、教職員に対し学校行事での国歌斉唱時の起立を義務づけるほか、市の施設では執務時間中、利用者に見やすい場所に国旗を掲げることも明記する意向を示している。大阪府議会では、橋下市長が知事時代の昨年6月に同様の条例が成立している。
(2012年1月22日 読売新聞)
ー・-・-・-・-・-・-・・--・--・-・-・-・-・-・-・-
   ↑ 実際のところ、旗というものは、このような扱いをするものではないはずです。 又、これは、「日の丸」を「国旗」とするから出てくる問題であり、橋下にしても、もしも、「日の丸」とはまったく異なるデザインのものが「国旗」となっておれば、このような対応をしろとは言わない可能性が高いと思われます。
   私は、この記事に出ている橋下の言動について、
〔第81回〕《国旗が国民の為にあるのであって、国民が国旗の為にあるのではない。~ 橋下徹の傲慢と間違った認識 》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201202article_2.html
〔第94回〕《 「君が代」作法をなぜ中原徹・橋下徹らが変更して国民に押しつけるのか、なぜ、彼らにその権利があるのか? 》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201203article_8.html
で批判しましたが、 単に、「日の丸」を「国旗」とするだけではなく、「日の丸」に対して、≪「議場の席に着く時には国旗に礼をしてください」「答弁に立つときだけではなく、席につくときに1段あがるときにも」「休憩後も」などと、細かく指示を出≫して強制するとなると、これは、もはや、「日の丸」を偶像とした上での偶像崇拝の強制であり、偶像化された「日の丸」への宗教儀式の強制と判断せざるをえません。 「日の丸」を「国旗」とすることに賛成した人にしても、おそらく少なくとも過半数の人は、このような扱いをすること、このような対応を強制されることにまで賛成したわけではないはずです。
   もちろん、≪橋下流の作法≫を国民が押しつけられなければならない筋合いもないのです。  ≪「・・・・最初と最後だけの礼にしようと思う」と、橋下流の作法も示した。≫などと書かれていますが、この程度まで省略してよいとか悪いとか橋下が決めて国民に押しつけるというのがおかしいのです。 なぜ、橋下が省略してよいと決めるのですか? なぜ、橋下にそのような権利があるのですか? 省略して良いと決める権利も、省略してはだめだと言う権利も橋下にあるわけではないはずです。

   単に、「日の丸」を「国旗」とするだけならば、「信教の自由」とは別の問題ですが、上記の橋下流の強制をおこなうようになると、これは、はっきりと「日の丸」を偶像として扱うことの強制であり、「信教の自由」の侵害となります。

   さて、「学問」とは何でしょうか。 「お勉強」と言っても、あるいは、「学習」と言ってもよいのですが、それは何でしょうか。
   2つの正反対の主張を、ここに出してみたいと思います。 
  ひとつは、江戸時代のはじめに、江戸幕府が朝廷に対して出した禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の一文です。

≪ 一、 天子御芸能之事、第一御学問也。 ≫

≪ 徳川家康が、朝廷および公家統制のために制定したもので、単に公家諸法度とも、禁裏向(きんりむき)御方式とも呼ばれている。天皇は学問に励むこと、以下全十七条で、僅かな箇条の中に江戸幕府の対公家政策の要点はほとんどつくされている。≫
(福尾 猛市郎 監修『日本史 史料集成』(1977.2.1.七版 第一学習社)
≪ 1615年 幕府が出した朝廷・公家の統制法。 17条。崇伝(金地院崇伝 こんちいんすうでん・・・世に黒衣宰相とよばれ、家康の政治外交顧問。)の起草。 天皇の学問や公家の席次・官位等、大名への接近を警戒。≫
(全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集』1975年版 山川出版社)
   要するに、天皇、及び、皇族、公家は、人畜無害なお勉強でもして一生送って、政治や社会の動きには口を出さないようにいたしましょう、と徳川幕府が天皇・皇族・公家に対して指示し統制したわけです。 現在でも、「学問」とはそういうものであるべきだ、と主張したい人もいるようです。

   その正反対の主張の方も出してみましょう。

≪ 哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。 しかし肝腎なのはそれを変えることである。≫

この文句は有名な文句なので、私が解説するまでもないことだと思いますが、ご存じない方もあるでしょうから、説明いたしますと、フリードリヒ=エンゲルス『フォイエルバッハ論』(藤川 覚・秋間 実 訳。 大月書店 国民文庫)の最後の文句です。 ロンドンのハイゲート墓地に「カール=マルクスの墓」があります。 西側のイギリスにおいては、うかつに行くと「危険人物」とか見られるなどということはないだろうか・・・などと思いながら、こっそりとさりげなく行ってみましたが、行ってみると、そのようなことはまったくなく、お墓であるにもかかわらず、墓地の入り口で入場料をおにいさんから請求され、そのかわりに、「Karl Marx(カール=マルクス)?」(カール=マルクスの墓に行かれるのですか?)ときかれ、親切に場所を教えてくれました。 そして、イギリス人が次から次へと家族連れで来て、その前でポーズをとって記念撮影をして帰るというのを目撃しました。イギリスでは、ハイゲート墓地のマルクスの「お墓」は訪問しても危険人物でも何でもなく、観光名所のようになっていました。 もっとも、たしか、K=マルクスは、自分の死後、骨はドーバー海峡に撒いてくれと遺言をして、その通り実行されたはずですから、K=マルクスの家族の骨はともかく、カール=マルクスの骨はそこには入っていないはずですが、その「お墓」に、この「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。 しかし肝腎なのはそれを変えることである。」というエンゲルスの『フォイエルバッハ論』の最後の文句が刻まれています。

   人畜無害なお勉強にでも熱中し、社会を変革するようなことは考えてはいけませんよという主張と、解釈することが大事なのではなく肝腎なのはそれを変えることであるという主張は、学問についての正反対の認識と言えます。
   福沢諭吉は、「実学」「虚学」ということを言いましたが、これは、経済学などを「実学」と言って、哲学や文学を「虚学」だと否定したわけではなく、上の禁中並公家諸法度で描かれているような「学問」を「虚学」と否定したものであったはずです。
   ロシア革命で登場した「社会主義国」は、1990年のソ連崩壊の後、「社会主義」を改めて資本制経済への移行をする国が続出しました。 K=マルクスが資本制社会の矛盾の解決として考えた社会主義の社会は、少なくとも、ソ連その他の「社会主義国」においては、必ずしも解決にはならなかったのかもしれませんが、しかし、≪ 哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。 しかし肝腎なのはそれを変えることである。≫という認識は間違ってはいないし、哲学に限らず、「学問」とはそういうものであるはずです。 急激に「変える」のか漸進的にか、根本的に「変える」のか部分的にか、又、すべてが簡単に≪変えること≫ができるわけではないでしょうけれども、学問は、本来、社会を変革する力になるもののはずです。

≪  君が代斉唱時に起立しない教職員などへの処分を定めた大阪府の「職員基本条例」施行後、府立学校で初の入学式が2日、北野高校(大阪市淀川区)であった。府立全193校の入学式は15日まで続き、9日にピークを迎える。
  楠野宣孝校長は3月末の職員会議で、起立斉唱を命じる府教委の職務命令を順守するよう念押ししていた。
  知事や校長の権限を強化する「教育行政基本条例」「府立学校条例」も1日に施行された。楠野校長は取材に「条例ができたからといって強権的に振る舞うわけではない。最終的に決めるのは私でも、生徒の成長のために何ができるか教諭らと話し合っていきたい」と語った。≫(「毎日新聞」2012.4.2.夕刊 8頁)
   日本国憲法で確認されている「人類普遍の原理」である「国民主権」(「主権在民」)に反する文言である「君が代」の唱和を入学式でおこなうようなことは、たとえ、橋下徹・松井一郎・中西正人ら一派が要求しても、教員一同で協力して拒否し、「国民主権」と「学問の自由」を守ろうと≪念押ししていた≫のならともかく、≪起立斉唱を命じる府教委の職務命令を順守するよう念押ししていた。≫というのでは、もはや、この 楠野 宣孝 という男は、教員の長という資格はない。 
〔このあたりについて、 〔第97回〕 《「規律徹底を」橋下徹も良い事を言う(発令式)と思いきや、あれ?、及、楠野宣孝(北野高校)辞めてくれ!》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201204article_2.html 、 〔第98回〕《 さらば、北野高校。 「人類普遍の原理」である「国民主権」を否定する学校に存在価値はない。さらば。》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201204article_3.html でも述べました。 〕

   日本国憲法において、「人類普遍の原理」としての「国民主権」(「主権在民」)が確認されており、それに反する法令は無効であり、公務員は「教育公務員」も含めて日本国憲法の規定を順守しなければならないことが述べられているわけです。 ということは、当然、北野高校その他の公立高校の教員は入学式で「君が代」を唱和するようなことをしてはならないはずなのです。 
   してはならないことがおこなわれているのなら、≪肝腎なのはそれを変えること≫ですから、変えなければないことになります。 憲法違反の儀式は改めて悪いことは何もないはずです。 「過ちて則ち改むるに憚ること勿れ(あやまちて すなわちあらたむるに はばかることなかれ)」と孔子も言っています。

※「過ちて則ち改むるに憚ること勿れ(あやまちて すなわちあらたむるに はばかることなかれ)」・・・・過ちがあれば、それをすなおに認めて、すぐさま直すべきであるということ。 孔子のことばで、それは君子になるための根本的な教えであるといってよい。 この世の中には過ちをおかしても平気な人もいる。われわれは自分のやったことがまちがっていても、とかく我執にとらわれて、正しそうな理くつをつけたがるものであるが、このことばは自分自身に忠実であろうとする者に勇気を与える。 (折井 英治 編『暮らしの中の 故事名言辞典』1970.4.15.集英社)

  入学式そうそう、先生に日本国憲法に違反する儀式をされた北野高校の生徒はどう対処したものか困りますよね。  なぜ、生徒を困らせるようなことをするのでしょう。 自覚がない先生は先生と呼ぶに値しないと思いますよ。 「政治経済」や「日本史」「世界史」、「倫理社会」などを教えていないから、「数学」を教えている者は関係ないなどと言いだすなら、その先生の「数学」は禁中並公家諸法度で述べられている「天子御芸能之事、第一御学問也」の「御学問」と同じになりますよね。 「英語」を教えているなら、当然、英文学は、「実学」の方の英文学でないといけません。 意図的に「虚学」の方の英文学に専念しますか? それでは、やはり、その先生の英文学は禁中並公家諸法度で述べられている「天子御芸能之事、第一御学問也」の「御学問」と同じになりますよね。 福沢諭吉が否定した「虚学」に専念していることになりますね。

  先生、そんなことするために、教員になったのですか? 
 
画像

 ↑ 北野高校 正門 (北側)
画像

 ↑ 北側の歩道橋から見た北野高校(左側〔南側〕)
画像

 ↑ 北野高校の南側にある 淀川河川敷。〔北野高校の南のあたりから東方向を見たもの。〕 毎年、1月には、ここから東方の長柄橋までの片道2㎞、往復4㎞を、男子は2往復8㎞、女子は1往復4㎞を1年生・2年生の全員が断郊競走(クロスカントリー)で走った。〔「YAHOO!地図ー大阪市淀川区」http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?lat=34.72102508&lon=135.48671024&ac=27123&az=&z=15 他参照。〕
  かつては、定時制があり、全日制の生徒は午後5時以降は教室や運動場を使用できなかったので、野球部の生徒は、夏の高校野球の大会前は、午後5時以降、この河川敷で練習をしていた。
画像

 ↑ 淀川河川敷。〔北野高校の南側から西方向を見たもの。〕

  「学問と現実は違う」とでも言いますか? どう違うのですか?  「学問は受験のためだけのもので、受験がすめばすべて忘れるべきだ」とでも主張しますか?  「学問」というものは、そういうものではないと思いますよ。 それにね。 人間というのは、英語の単語にしても、忘れたくないと思うとけっこう忘れてしまうのですが、忘れようとすると、なかなか忘れられないものなんですよね。 これホント!
  
  ≪ 私は、わが祖先にもっとも感謝しなければならないのは、この教育に対する伝統だと考える。 教育の普及なくして民主主義は全く不可能である。 主権者として正しく判断できる知恵と正しいことを支持する勇気は、教育を通してのみつちかうことができる。 「教育は、国民のための統治はしやすくし、彼らを奴隷化することはしにくくする」という、ある先人の言葉を借りるまでもない、すべての先進民主国家の歴史が、このことを証明する。 今日われわれの民主回復のための闘争において、教育を受けた者の役割がどれほど大きいかを見る時、このことを容易に理解しうるのである。≫
   この文章、どこから引用したかと言いますと、金 大中(キム デジュン)『民主救国の道 講演と論文 1973-1980』(1980.9.20. 新教出版社)の中の「3 民族への敬愛と信頼」(1975年4月) という文章から引用したものです。
    金 大中 の文章には、この後に、次のような文章が出てきます。
≪  学生は、もとより学業が根本である。 だが、どんな場合でも、学業のみ専念し、国が興ろうが亡びようが、世間が正しく行っていようと、さかさまに進んでいようと、かかわるなというのは、全く事理にかなわぬ主張である。 大学は真理探究の道場である。 学校で学んだ真理と社会の現実が完全な乖離現象を見せていても、何の疑問ももたず、それを真理だと決めるだけですませられるだろうか。
   学生は明日の働き手という。 自分たちがまさに引きうけるべき社会が、今間違っており、明日には大きな不幸が迫ってくることが予見されるかもしれない時、それをそのままにして、本だけ読んでいられるだろうか。 ・・・≫

  ≪すませられ≫ないようなことを入学式そうそうやらないでほしいのですよ。 生徒がかわいそうだと思いませんか?
画像

 ↑ 金 大中(キム デジュン)『民主救国の道 講演と論文 1973-1980』(1980.9.20. 新教出版社)
   
【2】   ところで、≪(「君が代」斉唱への)起立斉唱を命じる府教委の職務命令≫と書かれているのですが、教育委員会というのは、生徒が学習しやすいように、教員が指導をしやすいように環境を整えることに尽力するのが教育委員会ではなかったのですか?  日本国憲法でおこなってはならないと明言されていることを強行するのが教育委員会ではないはずですよ。 違いますか?

   教育委員会って、憲法違反の「君が代」強制などという、そんなことやって いいんかい ?

  「君が代」斉唱に応じなかったから解雇するなんて、“ そこまでやっていいんかい ”?
 

【3】   さらに、不安があるのです。 橋下 徹らは、小学生にまで留年をさせようとしているというのです。 
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
<橋下市長>小中学生に留年検討 大阪市教委に指示
毎日新聞 2月22日(水)11時15分配信  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120222-00000026-mai-soci 
  大阪市の橋下徹市長が、小中学生であっても目標の学力レベルに達しない場合は留年させるべきだとして、義務教育課程での留年を検討するよう市教委に指示していたことが分かった。法的には可能だが、文部科学省は年齢に応じた進級を基本としており、実際の例はほとんどないという。
 橋下市長は、市教委幹部へのメールで「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」「留年は子供のため」などと指摘。留年について弾力的に考えるよう伝えた。
 文科省によると、学校教育法施行規則は、各学年の修了や卒業は児童生徒の平素の成績を評価して認定するよう定めており、校長の判断次第では留年も可能。外国籍の生徒で保護者が強く望んだ場合などに検討されることがあるという。
 市教委も「学校長の判断で原級留置(留年)できる」としているが、実際は病気などで出席日数がゼロでも進級させているという。担当者は「昔は長期の病気欠席などでごくまれにあったと聞いているが、子供への精神的影響も大きい」と話している。
 橋下市長は22日に予定されている教育委員との懇談で義務教育課程での留年について提案、意見を求める予定という。【林由紀子】
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
   ここで、国民は、感づかなければならないことがあります。 橋下が「目標の学力レベルに達しない場合は留年させるべきだ」と言っている「目標の学力レベル」、「きちんと目標レベルに達するまで面倒見る」と言っている「目標レベル」とは何か、という点です。 ≪〔「君が代」「日の丸」に礼拝させられることに違和感を覚えなくなるまで〕 何年でも留年させて“教育”するべきだ ≫と橋下は言いたいのと違うのですか?

   カール=マルクスの『ドイツ・イデオロギー』(花崎 臬平〔はなさき こうへい〕訳 1966.9.15.合同出版 合同新書)に次の文章があります。
≪ これまで われわれは、主として人間活動の一方の面、すなわち、人間による自然の加工だけをみてきた。 もう一方の面、すなわち、人間による人間の加工・・・・・ ≫

   橋下 徹 は、「君が代」「日の丸」に礼拝させられることに抵抗を感じなくなるまで、何年留年させてでも、「人間による人間の加工」 を 「“ 義務 ” 教育」 として、おこなおうとしているのではないのですか? 
 
     (2012.4.9.)

法学概論 (1974年) (法律学全集〈2〉)
有斐閣
我妻 栄

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 法学概論 (1974年) (法律学全集〈2〉) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



民主救国の道―講演と論文 1973-1980 (1980年)
新教出版社
金 大中

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 民主救国の道―講演と論文 1973-1980 (1980年) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

この記事へのコメント

SS
2012年06月10日 14:58
国民主権を何か勘違いされていませんか。国民とは誰のことですか?あなただけが国民ですか?わたしのように、国旗敬礼・国歌の起立斉唱を支持している人だって国民の中にはいるんですよ。少なくはないと思いますよ。自分たちが多数派だと思うのは大きな勘違いだ。多くの人は、国旗・国歌を強制しようがしまいが、どっちでもいい。だって強制したところで、憲法違反でもなければ、軍国主義教育が復活するわけでもないのだから!!あなたは何か勘違いしてませんか!!自分たちが絶対的な法の正義の側にいるとでも思っているのですか!そんなはずはない。あなたが裁判所で訴えてもおそらく敗訴ですよ。事実として、国旗・国歌の儀式に反対して裁判に訴えた日教組は敗訴でしたよ。
おっさんZ
2013年04月08日 10:08
SS君
>あなただけが国民ですか?わたしのように、国旗敬礼・国歌の起立斉唱を支持している人だって国民の中にはいるんですよ。

俺の様に、国旗敬礼・国歌の起立斉唱を戦前の忌まわしき亡霊として忌み嫌っている人間もいる。
なぜ『支持している人』の意見だけが押し通せると思い込めるのか?。
少しは自分がカルト宗教『国家神道』に洗脳されていると気が付きたまえ。
ま、国旗敬礼を強制している連中は、君たちの見ていない所では国旗に敬意など払ってはいないよ、考えても見たまえ、国旗は人物ではない、人格を表してはいないのだ、そんな物に何故敬意を表せるというのだ、おかしいではないか。

この記事へのトラックバック