「君が代」作法をなぜ中原徹・橋下徹らが変更して国民に押しつけるのか、なぜ、彼らにその権利があるのか?

〔第94回〕
   教職課程の履修もなく教員の経験もなく、その学校の卒業生でもなく、その地域と縁があるわけでもないのに、「民間人校長」と称して裏口入学か縁故入社のように大阪府立和泉(いずみ)高校の「校長」になってしまった中原徹という男が、卒業式で「君が代」を起立はしたけれども歌っていなかったという教員に「処分」もしくは「処分」に準ずる対応をしようとしている。

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朝日新聞
君が代斉唱時、教員の口の動きも報告 大阪府立和泉高   2012年3月13日13時22分  http://www.asahi.com/national/update/0313/OSK201203130046.html
  大阪府立和泉高校(中原徹校長)の卒業式で、君が代斉唱の際、教員が起立したかどうかに加え、実際に歌ったかどうかを管理職が口の動きでチェックして府教委に報告していたことがわかった。府教委は起立斉唱を求める職務命令を全教職員に出しており、メールで報告を受けた橋下徹大阪市長は「これが服務規律を徹底するマネジメント」「ここまで徹底していかなければなりません」と賛辞を送っていた。   橋下氏は、起立斉唱を義務づけた君が代条例を成立させた大阪維新の会代表。 中原校長のメールによると、教頭が全教員の口の動きを目視で確認。 「3名の口が動いていなかった」と報告を受け、3人を校長室に呼んだ。2人は「斉唱した」と話したが、1人は「起立だけでよいと思った」と話し、歌わなかったことを認めたという。
  中原校長は「他校の校長は『斉唱』まで確認していないと思います」「確認していたとしても『起立していればよい』と仲間をかばって報告していないと思います」 「ちなみに3人とも組合員」と報告していた。
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(YAHOO!ニュース)
国歌斉唱「口動いてない」教員、校長がチェック 読売新聞 3月13日(火)7時52分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120312-00001232-yom-soci
  大阪府立和泉高校の卒業式で、国歌斉唱の際、教職員が本当に歌っているかどうかを、校長が口の動きで確認していたことがわかった。
  口が動いていなかった教員のうち、1人が歌わなかったと認め、府教委が処分を検討している。国歌起立条例を提案した地域政党・大阪維新の会代表、橋下徹・大阪市長は「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛。しかし、その徹底ぶりに反発もある。
  同条例の成立を受け、府教委は府立学校全教職員に、起立斉唱を求める職務命令を出していた。和泉高の中原徹校長によると、今月2日の卒業式では、教頭らが教職員約60人の国歌斉唱時の口の動きをチェック。その結果、3人の口が動いていないとして、個別に校長室に呼び、1人が「起立だけでいいと思った」と不斉唱を認めたという。
最終更新:3月13日(火)7時52分
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1.  「君が代」は、日本国憲法の原則である「国民主権」に反する内容の歌詞であり、国歌としてふさわしいものではありません。

2.  歌というものは、本人が望まないものを強制して歌わせるものではなく、望まないものを強制的に歌わせた時点で、それは歌でも音楽でもありません。

3.  「君が代」や「日の丸」に対する礼拝の強制は、「君が代」「日の丸」を偶像として礼拝させるものであり、当然のことながら、日本国憲法に保障されている 信教の自由 を侵害するものであり、許されるものではありません。 
  特に、橋下 徹・中原 徹 は前職が弁護士であるということですから、特に、この認識が欠落していることは問題があります。

4. 学校であれその他の職場においてであれ、憲法や法律に反する業務命令は無効です。 憲法や法律に反する命令に従わなかったことを理由としての「懲戒処分」や「解雇」は懲戒権の濫用・解雇権の濫用とされ、無効です。
  又、業務と関係のないことに対しては上司であっても命令をすることはできません。 業務に関しないことに対して命令をしても従業員は従う義務はなく、業務命令でないものに従わなかったとしても、「懲戒処分」や「解雇」の対象とされる理由はなく、業務でないものに対しての命令に従わなかったことを理由としての「懲戒処分」や「解雇」は無効です。

5. 又、他の問題と比較して均衡を逸する不公平な懲戒処分は無効と評価される可能性があります。

   これらの点から、「君が代」「日の丸」への礼拝を拒否したことを理由としての「懲戒処分」や「解雇」は当然に無効であり、不当な「懲戒処分」や「解雇」を強行しようとする野蛮人どもを国民は決して許すべきではありません。


   しかし、ここでは、その点についてではなく、「『君が代』や『日の丸』の儀式について、どう対応するか、どういう作法をおこなうか を、なぜ、中原徹や橋下徹らが勝手に決めて国民に押しつけるのか」という点を問いたいと思います。
  

  中原徹は、自身のブログの「2012-03-13 08:24:10  読売新聞の記事について」http://ameblo.jp/nakahara-toru/entry-11191251489.html で、

≪  3名のうち、2名が「歌っていました」、1名が「歌いませんでした」と答えました。いずれの教員との対話も円滑に進み、反抗的な言動を見せた人もおらず、一定の思想に基づく主張を展開した人もいませんでした。2名の教員は「次回の入学式では誤解されないようきちんと歌います」と答えていますし、1名の教員も「いままでずっと歌って来なくてもよかったので、つい・・・次回からはちゃんと歌います。すみません。」との明快な答えをもらっています。≫
≪  今回のように、反省もしており、「次回はちゃんと歌います」と言っている教員に対しては、懲戒に至らない「注意」で足り、確信犯的に「不斉唱」に踏み込むことを認める教員には懲戒処分の第一歩である「戒告」を「不起立」の教員と同様に与えるのが相当だと(私見として)教育委員会には伝えています。当然、最終的な処分については私の上司である教員委員会が判断・決定します。≫

などと述べています。
  ≪反抗的な言動を見せた人もおらず、一定の思想に基づく主張を展開した人もいませんでした。≫などと述べていますが、 ≪一定の思想に基づく主張を展開し≫て「君が代」礼拝強制を主張・強行しているのは中原徹の方です。 盗人猛々しいと言うべき発言です。 又、≪反抗的な言動を≫などと述べていますが、この男、いったい、何様ですか?
  教職課程を履修したこともなく、教員の資格も持たず、教員の経験・実績もなく、こんな男が、突然、いきなり「校長」になってしまうということが、なによりおかしいのと違いますか?  ≪反抗的な言動を見せた人も・・≫て、いったい、この男、何様ですか? 

   しかし、ここでは、それよりも、中原が歌っていなかったと言った3人のうちの≪1人は「起立だけでよいと思った」と話し≫(朝日新聞の記事  http://www.asahi.com/national/update/0313/OSK201203130046.html
ということであり、それを中原徹が問題にしている点をとりあげます。
   もともと、卒業式などで、「君が代」の儀式が行われる時、この教員のように、列席者は起立はしても黙って聴いているものであって、列席者が歌うということは、この教員が≪いままでずっと歌って来なくてもよかったので≫ (中原のブログ http://ameblo.jp/nakahara-toru/entry-11191251489.html )と言っているように、しなかったのです。   
   
   山住正巳『教育勅語』(1980.3.20.朝日選書)に、戦前戦中、「教育勅語」が「棒読」される時の様子が述べられています。
≪ ・・・教育勅語発布の頃、小学生であった生方敏郎(1882‐1965)の『明治大正見聞史』(1926年)によると、いちはやく儀式で勅語棒読の行われた学校もあったことが分かる。・・・・
  そこへフロックコートを着た校長が現れて正面に進み「御真影」に一礼の後、教育勅語を読むのである。 生方はそのときの様子を次のように書いていた。

   彼は「朕思ふに」と冒頭まず音無きが如く静かに起こし来る。聴衆は水を打ったる如く静まり返り、ただ咳き(しわぶき)する音のみ聞こえる。 勅語の半ばに入るや音吐朗々、或は白玉の盤上をまろぶが如く、或は滔々として大河の奔流する如く、或は平らなる湖水に春風のたいとうたるが如く、桜花のらんまんたるが如く、而して最後に白刃一閃下るが如くして止むのだ。

   これは、校長のなかでも勅語の読み方がうまい人の棒読であったと思えるが、多くの校長が聞く者にこういう感じをもたせようとして、棒読のための練習をくりかえしていたのである。
・・・・・・・・・・・・・≫

   山住正巳が引用している生方敏郎の文章でも、校長が「教育勅語」を「棒読」する時に、聴衆がどうしていたかというと、一緒に唱えたのではなく、≪聴衆は水を打ったる如く静まりかえり≫というように、静かに聞いていたのである。 

   なぜ、「教育勅語」の「棒読」の時に、聴衆は一緒に唱えずに聴いていたのか。 山住正巳は小田実(1932‐2007)の文章を引用している。
≪ ・・・祝祭日の儀式で教育勅語を聞くのは、わずか数分間にしかすぎないが、日常の敬礼とはまるでちがった迫力をもって子どもたちに迫ってきた。このときに国や天皇、あるいは「臣のいのち」といったものを感ずるといったのは、小田実(1932‐2007)である。 彼は、「棒読」とそれを聞く子どもの気持について書いていた。

   ・・・・「チンオモウニ・・・・」と始まるのであるが、もうそのときには校長は「現津神」の代行者として「神」の位置に立ち、私たちは私たちで地にひれ伏す「臣」と化し去っているのだが、そのとき私たちの周囲には国とか天皇とかいうただならぬものがたちこめていて、子供心に私はすくなくともそのただならなさは感じとっていた。(『私と天皇』1975年) 

   あの一時間ほどの儀式、なかでも勅語棒読の数分間は異様であり、子どもは、そのときいただならぬものを感じさせられた。どういう意味であるか理解できなくても、なんとなく有難いものだという感情を子どもたちに持たせるようにすることこそ、為政者の狙うところであった。・・・・・≫

   要するに、「教育勅語」の「棒読」がなされた時、校長は、アマテラスオオミカミの子孫であるという設定の天皇の代行者という立場に立っていて、聴衆は「臣」の立場でそれを聞いていたのである。

   戦後、「教育勅語」の「棒読」はなくなったが、「君が代」は「教育勅語」と同様になくなりはしなかった。 「君が代」の儀式は「教育勅語」の儀式と似ている。  

   私が学校という所に行っていた時、「君が代」の儀式がおこなわれたかどうかというと、行われた時があったのを覚えているが、どこでどういう時におこなわれて、どこではおこなわれなかったかは、記憶がはっきりとはしなくなってしまったが、おこなわれた時は複数回あったのは間違いない。
   その際に、教員にしても生徒にしても、「君が代」を歌っていたかというと、誰も歌っていなかった。起立して黙って聴いていたのである。 山住正巳が引用している文章の中で生方敏郎が「教育勅語」の「棒読」の時の生徒のように、黙って聴いていたのである。 それは「不敬」な気持ちからでも何でもなく、そういうものだと思って黙って聴いていたのである。  私が学校という所に行っていた時に、「君が代」の儀式がおこなわれる際に、教員も生徒も起立して黙って聴いていたのは、今、山住正巳の『教育勅語』で引用されている小田実の文章を見ると、「教育勅語」の「棒読」に際して、校長がアマテラスオオミカミの子孫であるという設定の天皇の代行者という立場で、天皇が決めて国民に与えた(押しつけた)という「教育勅語」を国民に読み聞かせるのと同様に、天皇の代行者が「君が代」を演奏するのを「臣」の立場で、国民は、教員と生徒は、聴かされていたのだと思う。
   だから、この考え方からいけば、「君が代」は、戦前戦中の「教育勅語」と同様に、一般の聴衆、教員や生徒は、「黙って聴くもの」であって、「勝手に、天皇の代行者の立場に立って歌うもの」ではないことになるのです。 勝手に、天皇の代行者の立場に立って歌う者の方が「不敬」だということにもなってきます。


    中原 徹 のブログhttp://ameblo.jp/nakahara-toru/  ) を見ると、中原徹の「プロフィール」として、
≪ 性別:男
誕生日:1970年4月26日
血液型:O型
出身地:神奈川県横浜市
前職:カリフォルニア州、ニューヨーク州および日本国弁護士 ≫ と書かれています。
    高校の「校長」であれば、自分はどういう高校に行って、高校時代はどういう生活を送り、大学受験に際してはどういう対応をしてどういう大学にどういう経緯で行ったという話が書かれていて良いように思いますが、「カリフォルニア州、ニューヨーク州および日本国弁護士」といったことは書かれていても、高校についての記述が欠落しています。
   〔第93回〕《なぜ「高校英語」「受験英語」でなくTOEFL?~中原徹は大学受験の経験ないの? 特高と学ぶTOEFL 》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201203article_7.html で、この人は、いわゆる「帰国子女」ではないのか、ということを述べました。 「帰国子女」として、高校までは外国で暮らし、早稲田大学に「帰国子女枠」で入った人ではないのか。 それで、弁護士資格も、英語ができる人にとっては日本よりも弁護士の資格を取得しやすいアメリカ合衆国で取得して、「国際弁護士」を名のるようになり、「カリフォルニア州、ニューヨーク州」で弁護士の仕事をしてきた人ではないのでしょうか。 「国際弁護士」とは、「ウィキペディア-国際弁護士」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB によると、≪国際弁護士(こくさいべんごし)とは、主として日本国外の弁護士資格を持つ日本人を指して使われることのある通称である。
テレビ出演時等の肩書き用としてのマスコミによる造語が起源であると考えられ、実際には「国際弁護士」に相当する資格や職業は存在しない。≫とされ、 「国際弁護士」という名称は
俗称であるために明確な定義は存在しないが、呼称の対象となり得る人物には以下の3パターンなどが考えられる:
1.日本を含む複数の国や地域の弁護士資格を有する者
2.弁護士資格は日本国外のもののみであるが、日本に居住・就業している者
3.日本の弁護士資格のみを有するが、職務や経歴上で外国や外国企業との関係が深い者  
「2」に該当する外国弁護士(当然ながら日本人を含む)は、法務大臣の承認を受けた場合に外国法事務弁護士として原資格国法に関する法律事務を行うことができる。しかしながら「外国弁護士による法律事務の取扱いに関する特別措置法」(外弁法)第44条において、「外国法事務弁護士は、業務を行うに際しては、外国法事務弁護士の名称を用い、かつ、その名称に原資格国の国名を付加しなければならない」と規定されており、業務上「国際弁護士」とのみ自称することは違法行為にあたる。≫ とされています。
本人がはっきりと述べないので断定はできませんが、中原の場合、上記の1~3のうちの2と違いますか?
  日本では、過去何十年間、司法試験が難関の試験であったことから、弁護士資格を持つ者に対して、高い評価をされることが少なくないようですが、アメリカ合衆国では、弁護士のことを 「アンビュランス チェイサー」(Ambulance Chaser)〔救急車の後を追いかける者〕と言い、要するに、救急車が走っていると後を追いかけて行って、怪我をしたことに対して、誰かに責任を追及して損害賠償金・慰謝料を取ってやろうではないかとせっせと働きかける者が弁護士だと、少々、馬鹿にされて言われているというのです。
※ambulance  (名詞)障害者運搬車、救急車、病院船、傷病兵輸送機
 chase (他動詞)追う、追跡する、追撃する、探究する、狩る、狩出す、追いたてる、追いだす、
      (自動詞)あとを追う、駆けまわる、急ぐ、
 (岩崎民平 監修『現代英和辞典』研究社)
   その仕事をする者の数が多い方が良いか少ない方が良いかという問題がありますが、弁護士という仕事について、日本においては、司法試験を難しくして、相当に法律を勉強した者でないとなれないという制度とし、弁護士になる者の数が多くならないようにしてきました。 ひとつには、かつて、「全共闘の世代」と言われた、私などよりも一回りか二回り上の世代の人達が大学生の時、私などが大学生の頃にはもうなかった学生運動なるものがあって、大学生の時に学生運動に打ちこみ、就職がうまくいかなくなってしまった人にとって、司法試験というものが「敗者復活戦」のような機能をすることがあったらしく、学生運動に打ち込んでいたような人というのは、なかなか骨のある人が多く、弁護士のような仕事は多少骨のある人の方が良いところがあるものの、体制側・権力側としては、「骨のある人」にあまり多く弁護士になってもらいたくないという思惑があって、それで、あまり多くは弁護士になれないように司法試験を難関にしたという説もあるようです。 その経緯はともかく、弁護士という仕事につくための資格試験を難しくすると、弁護士になる時点では、法律をよく勉強した人のみがなることができるので、その時点では優秀な人がなることになりますが、なった後においては、競争が少ないことから、「先生業」と言うのでしょうか、「殿様商売」とでも言うのでしょうか、顧客のためにならない仕事ぶりの人でも淘汰されることなく収入を得ることができるというマイナスの面が出てくる可能性が考えられます。
   それに対して、その仕事につくために資格試験を比較的やさしくしておけば、その資格につくことは比較的簡単ですが、なった後、職業としてやっていけるかどうかはわからないことになります。その結果として、顧客から評価される人が生き残り、顧客から評価されないような仕事ぶりの人は淘汰されるので、こちらの制度の方が良いのではないかという考え方もあるのです。 しかし、競争原理によって顧客から評価されない人には資格は持っていてもその職業から出て行っていただくことで優秀な弁護士が残るのではないかという見方もある一方で、やはり、試験を合格しやすくしてしまうと、やさしい試験にしか合格していないような人はやっぱりだめではないかという見方もあります。〔司法試験に合格していないくせに「検察官」をやっている「副検事」て、やっぱり、だめだなあ、という人が多いと思いませんか? ろくに法律の勉強をしていないくせに「検察官」になっている「副検事」というものの存在が、冤罪発生の原因のひとつとしてあると私は思っています。〕 そして、その職業につく人があまりにも多くなって競争が激しくなると、なんとしてでも仕事を取ろうとして、結果として、「アンビュランス チェイサー」〔救急車の後を追いかける人〕になってしまうということが考えられるのです。そして、アメリカ合衆国では、実際に、そうなっている。 アメリカ合衆国では、弁護士は、日本などよりもはるかになりやすいけれども、なったからといって食べていけるとは限らない。 「救急車の後を追いかける人」という状況になっている、というのです。
   日本でも、少々、「アメリカ合衆国型」にした方が良いのではないかという考え方があって、最近、司法試験の合格者数を増やしたようですが、制度としてどちらが良いかはいちがいに言えないと思います。 それで、日本人には、日本では弁護士という資格の取得が長く難関であったこと、及び、アメリカ合衆国など取得が比較的やさしい国で取得して≪法務大臣の承認を受けた場合に外国法事務弁護士として原資格国法に関する法律事務を行うことができる≫という抜け道の制度を使って弁護士の仕事をすることができるといっても、日本で生まれ育った者の場合には、英語圏の国の試験を英語で受けて通るためには、英語を現地人並みに習得することと法律の学習の両方が必要になるため、日本で生まれ育った者には、その抜け道の制度もたやすくないことから、弁護士になっている者は、相当に勉強をしたインテリだと思いこんでしまう人がいるようですが、いわゆる「帰国子女」という人達、国籍は日本であっても、英語圏の国で育った人達、英語の方が日本語よりも得意なくらいの人達にとっては、アメリカ合衆国で弁護士の資格を取得するのは、そう難しいことではないはずなのです。 中原 徹 というのは、要するに、そういう人と違うのですか?

和泉高校の人達でも、中原徹を勘違いしている人がいるのではないかと思います。 この人は、≪アメリカ合衆国で育ち、アメリカ合衆国の学校を卒業して、早稲田大学の「帰国子女枠」という日本人が一般に受ける一般入試よりも(「帰国子女」にとっては)入りやすい枠で早稲田大学に入り、日本の司法試験よりも(英語がアメリカ合衆国人並みにできる人にとっては)はるかに合格しやすいアメリカ合衆国の制度でアメリカ合衆国の弁護士の資格を取った≫という人と違うのですか? 日本には「在日韓国人」という方がおられますよね。そういう人の多くは、日本語と韓国語の両方を話されますよね。 アメリカ合衆国で育った日本人が英語を話せたとしても、だからといって特別にエライですか?  日本のスナックとかに、フィリピンから出稼ぎに来たおねーさんがけっこういましたよね。そういう人たちは、しばらく日本で暮らしているうちに、日本人並みに日本語を話すようになるようですが、だからということで、和泉高校の「民間人校長」になりますか? 教育委員会はならせますか? ならさないでしょう。 どうして、中原徹はならせるのですか? おかしくないですか?  教員になろうとして、教員として生徒のために尽くそうとして、真面目に大学で勉強して、教職課程を履修して、教員の資格を取得して、教員として和泉高校に勤めている人がいるのに、なぜ、中原徹のような、教育についての学習もしていない、「半分アメリカ合衆国人」みたいな男に、いきなり「校長」ヅラされなければならないのですか?  中原徹は、「反抗的言動」などという口をきいていますが、なぜ、この男にそういう口をきく権利があるのですか? おかしくないですか? 韓国語と日本語を話せる人・フィリピン語と日本語を話せる人がいても、だからどうということはなく、アメリカ合衆国の英語と日本語が話せる人間がいれば、へーこらするのですか? なりたいと言われれば、いきなり「校長」にならせるのですか?  中原は、自身のブログに「最年少校長」などと自分で述べていますが、選挙で選ばれた市長や知事が最年少というのであるならば、別に悪いことではないでしょうけれども、教職課程も履修していない、教育学など学んでいない、教員の資格も取得していない、その学校の卒業生でもない、その地域と縁があるわけでもない、という人間が、教員として尽力しようとして、教職課程を履修して教員の資格を取得し、教員として就職して尽くしてきた中原よりも年上の人間を差し置いて「最年少校長」になることに、どういう正当性があるのですか? 今まで、若いけれども、能力的に「校長」になって悪くない人がいても、年齢や年功からなれない・ならさないことがあったのと違うのですか? なぜ、中原は、そんなに若いのにならせてもらえるのですか? 何を中原は得意がって、自身のブログに「最年少校長」などと入れているのでしょうか?

  “ 教育委員会って、そんなことやって、いいんかい? ” 

   中原徹という人が、小学校から高校までの日本の学校に行った経験がまったくないのかどうかは、本人が「プロフィール」としているところをぼかしてしか述べないため、断定はできませんが、おそらく、私などのように、幼稚園・小学校・中学校・高校・大学と、すべて日本の学校に行ってきた人間ではないと思います。
    だから、私などのように、学校での「君が代」の儀式の時に、教員も生徒も、黙って起立していたという経験がないのでしょう。 このブログで橋下ネタを取り上げるようになってから、どうも「右翼」「ネトウヨ」と言われるような方から攻撃を受けることがでてきましたが、「右翼」と自分で思っている方も、一度、考えてみてください。私くらいの年代の人間は、学校という所で、「君が代」の儀式が行われる時、先生も生徒も起立はしても、誰も自分で歌ったりはしなかったし、それは、のぼせあがった中原徹が言っているような「反抗的な言動」としてではなく、そういうものだと思っていたからであったはずです。 
   そして、山住正巳『教育勅語』(朝日選書)に引用されている小田実の文章などを見ると、戦前戦中における「教育勅語」の「棒読」においては、「校長」が天皇の代行者として「棒読」し、生徒は「臣」の立場でそれを聴いていたのであり、「君が代」の儀式もその流れのものであるわけですから、戦前戦中の儀式の流れと趣旨からいけば、「君が代」の儀式というものは、儀式の「作法」としては、「起立して黙って聴く」ものであって、中原徹や橋下徹が主張するような、声を出して歌うものではないことになるはずなのです。

   私は、中原徹などと違って、幼稚園・小学校・中学校・高校・大学と日本の学校に行きましたし、又、実際には、まったく違う職業につきましたが、教員になることも考えたことがあったことから、教育関係の本も読み、その中で、山住正巳『教育勅語』(朝日選書)も読みましたが、中原徹は、外国(おそらくアメリカ合衆国)の学校に行き、日本の学校に自分が行った経験がそれほどなく、かつ、教員になることを学生時代に考えていなかったことから、私のように、教育関係の本を読むこともなく、山住正巳『教育勅語』(朝日選書)も読んだことが無いことから、それで、「君が代」の儀式は、「起立した上で黙って聴くもの」ではなく、「起立するだけでなく歌うもの」と思いこんでいたのではないでしょうか。
  そして、そういう日本と「君が代」についてわかっていない男の指示に黙って従って、教員の口元を調べて回る卑しい「教頭」て、いったい何者なんでしょうね。

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 YOMIURI ONLINE 読売新聞
 議場では国旗に敬礼、大阪市長が幹部らに指示
「席に着く時」「答弁に立つ時」「休憩後も」 http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120122-OYO1T00187.htm
   大阪市の橋下徹市長は、市議会本会議場で壇上に並ぶ局長級の幹部らに対し、議場での着席時や答弁に立つ際に、国旗への敬礼を徹底するよう指示した。2月議会には、市立施設への国旗の常時掲揚や、市立校の教職員に国歌斉唱時の起立などを義務づける「国歌起立条例案」を提案する予定で、まずは幹部に範を示させる狙いがあるとみられる。
   橋下市長は今月中旬、「議場における国旗への礼」というタイトルで幹部らにメールを送信。 「議場の席に着く時には国旗に礼をしてください」「答弁に立つときだけではなく、席につくときに1段あがるときにも」「休憩後も」などと、細かく指示を出した。  また、市議会本会議での質疑応答が、3月から一問一答方式に変更されるのを念頭に、 「一問一答の際、毎回礼をやっていたら議論にならない。最初と最後だけの礼にしようと思う」と、橋下流の作法も示した。   橋下市長は同条例案で、教職員に対し学校行事での国歌斉唱時の起立を義務づけるほか、市の施設では執務時間中、利用者に見やすい場所に国旗を掲げることも明記する意向を示している。大阪府議会では、橋下市長が知事時代の昨年6月に同様の条例が成立している。
(2012年1月22日 読売新聞)
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  上記の読売新聞の記事のように、橋下徹は、「日の丸」についても、≪橋下流の作法も示した≫というのですが、なぜ、そういう「作法」を橋下が勝手に決めるのですか? おかしいと思いませんか?
  ≪細かく指示を出した≫というのですが、どういう対応をするかは、国民個人個人が自分で決めることと違うのですか? なぜ、橋下が決めて押しつけるのですか? 
  ≪ 「一問一答の際、毎回礼をやっていたら議論にならない。最初と最後だけの礼にしようと思う」と、橋下流の作法も示した≫ と言いますが、なぜ、橋下が、略して良いことに決めることができるのですか? あるいは、橋下と異なる略し方をする人がいたらとがめられなければならないというのは、どうしてですか? 橋下にこのように略して良い、この略し方はいけないと決めて国民に命令する権利が、なぜあるのですか?  どういう理由で橋下は、略し方を決めて国民に強制できると思っているのですか?   

   「日の丸」にせよ、「君が代」にせよ、橋下徹や中原徹が、その「作法」を決めて国民に押しつける性質のものではないはずなのです。 
  中原 徹 こそ、「君が代」のあり方に対して反抗的言動を取っているのです。

    「不敬」と言うならば、中原徹こそ「不敬」と違うのですか? 

☆ 「日の丸」に対して、略して良いとか悪いとか、≪橋下流の作法≫を国民に押しつける権利がなぜ橋下 徹にあるのですか? 

★ 「君が代」を「黙って聴く」のではなく「歌う」のが作法だと変更して国民に押しつける権利がなぜ中原 徹にあるのですか? 
   (2012.3.28.)

(追記) 中原徹が自身の大学以降の経歴について《中原徹氏(大阪府立和泉高等学校長)意見発表》http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kaikaku/arikata/detail/1310848.htm で述べている事を、「大阪府立高校卒業生」様からコメントで教えていただきました。ありがとうございます。 それによると、中原は早大法学部を卒業後、日本の司法試験に通り、東京永和法律事務所で約2年勤めた後に、アメリカ合衆国のミシガン大学のロースクールに行き、ニューヨークとカリフォルニアで弁語士資格を取得したそうで、アメリカ合衆国で弁護士資格を取得した人が日本で≪法務大臣の承認を受け≫て≪外国法事務弁護士として原資格国法に関する法律事務を行≫っていたというケースではないようです。但し、たとえば、「○○大学を卒業」と称している人で、しょーもない人間だから、学歴詐称だろう・・・と思っていたら、詐称ではなく、実際に卒業していた・・としても、「○○大学卒を詐称しているしょーもない人間」であるか「○○大学を実際に卒業しているけれどもしょーもない人間」であるかというのは、実際のところ、たいした違いではないように思うのです。それと同じく、中原徹が日本の司法試験には通らず米国の弁護士資格しか持っていないか、日本の司法試験にも通っていたかも、いずれであっても、しょーもない人間であることに変わりはないと思います。
   そして、この《中原徹氏(大阪府立和泉高等学校長)意見発表》http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kaikaku/arikata/detail/1310848.htm でも、やはり、自身の高校時代については述べないのです。 (2012.4.5.)


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この記事へのコメント

時代錯誤基地外極左
2012年05月12日 18:19
とっととチョウセンに帰ってキンダイチュウでも崇めてろよバカサヨ!

白痴はお前だお前!
下層土木がお似合いだよろ、お前なんぞ


じゃ
応援します!
2012年06月13日 17:24
最近沸き起こってきた橋下批判からこちらにたどりつきました。本当にわかりやすく感じてはいるけれど言葉になかなかできないことを代弁していただき有難いです。
最年少ブログのあのキャバの店長のような顔写真なんとかしてほしいです

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