『なぜしなかったか』か『なぜ止めなかったか』か~北野高修学旅行の思い出。君が代礼拝強制を止められるか

〔第88回〕
  私には、北野高校の修学旅行の思い出として、ひとつの課題がある。
  高校2年生の12月に九州方面に2泊3日で行ったのだが、できてそれほど経たない山陽新幹線で、すべての駅に停車する電車で新大阪から博多まで往復するような旅程を組まれたのは、できるだけすいている電車に乗せようとしてのことからだったのかもしれないけれども、電車に乗るだけでも疲れてしまいました。
  「修学旅行の思い出」としての「ひとつの課題」とは。 その修学旅行の時に、他のクラスの生徒で、宿泊したホテルの部屋で酒を飲んだ者がいたらしいのです。 それで、先生に見つかっておしかりを受けたということがあったらしい。 それで、「飲んだだけやないかあ」と大学生なら言いそうですが、高校生のことなので、「すいません」ということになったらしいのですが、ある先生が、私がいたクラスの授業の時、「6人部屋で5人が飲んで、ひとりだけが飲まなかった。 それを、『なぜ、ひとりだけ飲まなかったのか』などと言う人がいるけれども、俺は、そうではなく、『なぜ、止めなかったのか』と言いたい。北野高校の生徒ならば、そういう時に『おい、やめておけ』と言えるはずだ。『おい、やめておけ』と言えるのが北野の生徒のはずだ。」と話されたことがあった。 
  
  なぜ、酒は良くないのか?  、
  森 鴎外『青年』(新潮文庫 他)に次の文章がある。
≪ 「君も寂しがる性(たち)だね」と云って大村は胡坐(あぐら)を掻いて、又紙巻きを吸い附けた。「寂しがらない奴は、神経の鈍い奴か、そうでなければ、神経をぼかして世を渡っている奴だ。酒。骨牌(かるた)。女。Haschisch(ハシッシュ)
  二人は顔を見合わせて笑った。
  それから官能的受容で精神をぼかしているなんということは、精神的自殺だが、神経の異様に興奮したり、異様に抑圧せられたりして、体をどうしたら好いかわからないようなこともある。そう云う時はどうしたら好いだろうと、純一が問うた。大村の説では、一番健全なのはスエエデン式の体操か何かだろうが、・・・・≫
  森 鴎外 のこの小説は、高校の修学旅行の時より後で読んだものであったが、鴎外がここで述べているのと類似のことを、高校時代の私も思っていた。
  「女」というのは、女性がすべてけしからんということではなく、性的堕落に陥るのは良くないということだ・・・と思っていた。 それなら、どういう女性なら良いのかというと、たとえば、アンドレ=ジッド『狭き門』(新潮文庫 他)に登場するアリサという女性などは理想的で、向上しようとする男性にとっても妨げとならない共に歩む女性としてすばらしいのではないか・・・などということを高校生の時の私は考えた。 私は、今までに、日本人で、無理矢理漢字をあて字にしてつけた音読みで「アリサ」と読む名前の女性に複数出会ったことがある。 おそらく、お父さんがアンドレ=ジッドの『狭き門』の愛読者であったのだろうと思うが、申し訳ないけれども、なんか、ちょっとかわいそうな名前をつけられてしまっているような気がする。私も人のことをえらそうには言えない。もしも、若いころに順調に結婚して子供ができていたら、私も娘にそういう名前をつけてしまった可能性はないとはいえない。しかし、歳とともに、『狭き門』の意味を考え直し、この小説を再読して考えると、理想の女性として『狭き門』のアリサという女性を考えること自体が間違っており、アンドレ=ジッドが『狭き門』で否定していることでもあると認識できるようになる。 もとより、『狭き門』とは、『聖書』の中の『福音書』にある≪狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その路は廣く(ひろく)、之より入る者おほし。生命(いのち)にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出すもの少なし。≫(『マタイ傳』第7章13‐14 『舊新約聖書』日本聖書協会文語訳)という文章からきたもので、神の国に入るには、理想的な女性を通して入るものではなく、あくまで単独者として、自分自身で入るものだというのが、この小説の主題であったが、人生をある程度生きた上で再読すると、別の面が理解できる。この小説の最終部分において、アリサの妹のジュリエットが言う言葉、≪「さあ!」と、とうとう彼女は言った。「目をさまさなければ・・・・・」≫(ジッド『狭き門』山内義雄訳 新潮文庫) もとより「理想的な男性」も「理想的な女性」も、そのようなものは地球上に存在しない。存在しないものを実在する女性の上に見てしまったのが『狭き門』の主人公であった。 若き頃、同様の気持ちになった男性はいるのではないだろうか。 もしも、年齢的に若くなくなっても、それでも、幻想を見ているようであるならば、ジュリエットの言葉を読みなおさなければなるまい。「さあ!」「目をさまさなければ・・・・・」
  「ハシッシュ」とは、≪マリファナのこと≫(kotobank デジタル大辞泉 http://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5 )で、酒とマリファナは同様のものとして述べられている。 精神をぼかすという点で、酒とマリファナには類似のところがありそうだが、こういう文章を読むと、そう述べられている「ハシッシュ」「マリファナ」なるものは、いったい、どういうものかしらん・・・と探究心がわいてきて、人生経験に一度ためしてみようかしらん・・と考えそうになる気持ちはわからんことはないので、大学生が自宅で少量の大麻を栽培したとかいう記事を見ても、無茶苦茶悪人とかいうようには思わないが、今の日本では犯罪とされているものなのでやめた方がいいだろう・・・・が、大麻が犯罪で、酒は問題ないと決めつけている人がいるが、その決めつけにきっちりとした論拠があるかというと、特に論拠もなく決めつけている人が多いと思う。
  「骨牌(かるた)」がここであげられているように、大学生であった時、マージャンをやる人間を見て、ここで述べられている「神経をぼかして世を渡っている奴だ」と思ったのだが、今、考えると、「神経をぼか」すような状態になるのは良くないとしても、別に、「骨牌(かるた)」にしてもマージャンにしても、少しくらいやってもいいじゃん・・という気もする。
  『青年』の登場人物は、≪スエエデン式の体操≫を≪健全なもの≫の方にあげているが、亀井勝一郎『愛の無常について』(講談社文庫 他)で、≪今日のスポーツは、精神にとって危険な存在と化しました。私はスポーツを否定はしませんが、そのために新聞や雑誌の特別版が必要だということになると、これは知性のために危険だと言いたいのです。一種の阿片的役割を果たしかねない。≫と述べており、私も、そう思います。
  
  
  フリードリヒ=ニーチェ『ツァラトウストラ』(『ツァラトゥストラはこう語った』)(手塚富雄訳。 『世界の名著・ニーチェ』1978.5.20.中公バックス所収)には、次の文章がある。
≪ わたしは森を愛する。都市は住むに堪えない。そこには淫蕩な者が多すぎる。
・・・・・・・・
  またあの男たちを見るがいい。かれらの目が語っている。――かれらはこの地上で、女と寝るよりましなことは何も知らないのだ。  かれらの魂には泥がたまっている。しかもその泥に精神があるとなると、わざわいである。・・・ ≫(第一部「純潔」)
  実際問題として、≪この地上で、女と寝るよりましなことは何も知らない≫ような男というのがいるように思うし、それは女性が良いか悪かというような問題ではない。 ≪この地上で、≫≪酒。骨牌(かるた)。女。≫しか楽しみを知らないような男というのが実際にいるわけで、それは、ニーチェが否定している精神的状態でもあるでしょう。

  こういった森鴎外やニーチェなどが述べているような、「神経をぼかすもの」として、「精神面を退廃化させるもの」「一種の阿片的役割」として、酒は肯定できないと思っていたということもあるのですが、「酒の場」だということにして勝手なことをするオッサンというのに好感が持てなかったということもあり、そして、高校生の時は、直感的に、酒を飲む者というのは「不良」だと思っていたのです。 「不良」とはなんぞや? 「良」とはなんぞや? と真剣に考えると、良くわからなくなってくるし、真剣に考えると、酒を飲んで、その上で何か悪いことをしたのならいかんだろうが、「飲んだだけだろうがあ」という主張もでてきそうで、「未成年の飲酒は法律で禁じられているから」と言われても、それなら、大学生は未成年でも飲んでるじゃないか、大学生なら未成年でも飲んでいいのか? という不思議な疑問にぶつかってくる。
  まあ、実際問題として、ある程度以上の年齢になると、「酒を飲んだ」としても、飲んだだけなら、そんなに厳しく言わなくても・・・みたいな感覚になってくるようなところもあるのだが、高校生の感覚としては、相当の「不良」みたいな感覚があった。

  それで、「・・・『なぜ、ひとりだけ飲まなかったのか』などと言う人がいるけれども、俺は、そうではなく、『なぜ、止めなかったのか』と言いたい。北野高校の生徒ならば、そういう時に『おい、やめておけ』と言えるはずだ。『おい、やめておけ』と言えるのが北野の生徒のはずだ。」というお話を聞いて、高校生の時の私は、なるほど、たしかにそうだ、と思ったのです。 その時は。
  しかし、その後、卒業して10年くらい経つと、少々、認識が変わったところもありました。 ひとつは、酒というものについて、まあ、高校生が修学旅行の時に飲むのはやめておいた方がいいでしょうけれども、そうはいっても、別に、刃物を振り回して人を傷つけたとか人を殺したとかいうものとは異なるのであり、あくまで「飲んだだけやないかあ」と言うとよくないかもしれないけれども、あくまで「酒を飲んだ」ということであって、それ以上の悪いことをしたわけではないので、仮に高校生の飲酒を「不良」と認定するとしても、比較的軽度なものではないかという点です。 そして、もうひとつは、「ひとりでも止めるのが北野の生徒だ」とおっしゃいますが、周囲が一方に動こうとしている時に、ひとりで止めるというのは、そう簡単ではないと思うのです。 たとえ、自分ひとりであっても、間違ったことには同調しないんだ、という気概というのは悪くないと思いますし、私は慶應義塾大学に行って、たしかに、慶應の内部進学の人などに比べれば、北野高校の出身者には、そういった気概を持つ人が比較的多いと感じました。 しかし、「スーパーフリー」みたいなことをやっている連中とはできるだけつきあいたくない、とは思うのですが、そういう場に居合わせてしまった時に、「おい、やめておけ」と止めることができるか、というと、そう簡単ではないように思うのです。簡単ではないという経験をしました。させられました。 アメリカ合衆国の映画『告発の行方(THE ACCUSED)』では、酒場で女性を輪姦しようとする大学の同級生を見て、その場で止めることができず、見殺しにする気持ちにもなれず、匿名で警察に通報する男子学生が登場します。 簡単に止められるというものではないと思います。

   それで、ですが、橋下徹とその追随者の松井一郎と中西正人が、大阪府・大阪市の公立の学校の卒業式などで、「君が代」礼拝の強制を強行しているようですが、これは、日本国憲法においても保証されている「信教の自由」を侵害するものであり、不当・野蛮な行為です。 生徒の人権を侵害する許し難い行為であり、「おい、やめておけ」と言うべきものです。 かつて、修学旅行の時に酒を飲んだ生徒に対して、同じ部屋にいてひとりだけ飲まなかった者に、「『なぜ、ひとりだけ飲まなかったのか』などと言う人がいるけれども、俺は、そうではなく、『なぜ、止めなかったのか』と言いたい。北野高校の生徒ならば、そういう時に『おい、やめておけ』と言えるはずだ。」と言われた先生は、その頃、すでに高齢であったので、今は引退されていると思いますが、もし、自分が教員を勤める学校において、卒業式にかこつけて、生徒に対しての「君が代」礼拝強制がおこなわれるならば、良心的な教員ならば、「おい、やめておけ。」と言うべきであるはずなのです。
  2011年3月11日の福島第一原発事故のすぐ後、「小出裕章(京大助教) 非公式まとめ」http://hiroakikoide.wordpress.com/ に収録されていた山口県の上関での講演会で、今まで終始一貫して原発に反対してきた小出裕章氏が、講演の初めに「このような重大事故が起こるまでに原子力発電所を止めることができず、申し訳ありませんでした。ごめんなさい。」と頭を下げて謝られたのを見ました。小出さんは、原発には反対されてきたのであり、推進してきた人のような責任はないはずなのですが、小出さんとしては、原子力の仕事に携わる者として、推進派の人達とは異なるけれども、止めなければならない原発を止めることができなかったという点で、反対派の学者にも止めることができなかったという責任はあるということで謝られたのだと思います。 もし、同様に考えるならば、「君が代」礼拝強制という蛮行を止めることができなかったという事について、一番責められなければならないのは、君が代礼拝強制をおこなおうとした人達ですが、それを止めることができなかった者にも、止めることができなかったという責任はあるということになるでしょう。 君が代礼拝強制を止めることには誰に責任があるかと言えば、国民全体に責任があるでしょうけれども、教員を仕事としている人には、直接かかわっているという点での責任があることになるでしょう。 その場が一方に動こうとしている時に、その動きが間違っていても、間違っていると気づく者が少数である場合には、それを止めるのは簡単ではないことが考えられるので、止めることができなかったとしても、止めることができなかった教員を強く非難するわけにもいかないかもしれませんし、原発に反対してきた学者には原発を推進してきた人たちと同じ意味での責任があるわけではないというのと同じく、積極的に君が代礼拝強制を実行してきた人たちと同じ意味での責任はないでしょうけれども、しかし、物事の道理・考え方としては、君が代礼拝強制がおこなわれる時、起立しなかったという教員は「なぜ、起立しなかったのか」という問題ではなく、「なぜ、止めなかったのか」という性質の問題であるということになるはずです。
  『告発の行方(THE ACCUSED)』では、酒場で、何人かの男が女性を強姦しだした時、同調してはやしたてた男がおり、はやしたてられて強姦した男がおり、自分も被害にあってはかなわないと逃げ出した女性がおり、見て見ぬふりをした男がおり、いたたまれなくなって匿名で警察に通報した男子学生がひとりいたのです。 学校において、生徒に対する「君が代」礼拝強制という野蛮な行為がおこなわれる時、起立しろと言われて起立する教員というのは、強姦する男に同調している者のような存在です。 起立を拒否した人にしても、いわば、修学旅行の時に、北野高校のある先生が言われた表現に従うならば、「なぜ、起立しなかったのかではなく、なぜ、止めなかったのか」ということになりますし、『告発の行方』の場面でいえば、強姦を止めずに他の部屋に移って知らない顔をしていた者のような存在です。
  橋下らが強行している「君が代」礼拝強制は、修学旅行の時に部屋で酒を飲んだという程度のことではありません。 「信教の自由」というのは、人間にとってはその根源にかかわる問題であり、人権の中でも特に重要なものです。

  野蛮人・橋下 徹を支持するような人は、人権侵害に加担しているのだということを自覚していただきたい。

  周囲が一方に動こうとしている時に、「おい、やめておけ」と言って止めるというのは、できるならば良いのですが、実際には、簡単ではないと思います。 しかし、できる限り止めるべきものです。

  橋下らが結成した「維新の会」に加わろうという吉本新喜劇の芸人が複数あるという記事を見たが、女性を輪姦する者に加担する男のお笑いを見ても笑えないのと同じく、橋下の人権侵害に加担するお笑い芸人のお笑いなど見ても、笑えないね。
  私は、子供のころ、吉本新喜劇が好きだったが、その頃の吉本芸人は、たとえ、自虐ネタしかない芸人にしても、あくまで自分がバカを演じることで自分を聴衆に笑ってもらおうとしていたのであるが、最近、東京に進出した吉本新喜劇は、大阪人を笑い物にすることで東京者に媚びようとすることがしばしばあるように思い不愉快だ。 大阪人を笑い物にすることで東京人に媚びようとする吉本は大阪を捨てて東京にのみ出店すればいいのではないかと思っている。 吉本新喜劇は大阪にあったが、吉本の芸人には、西日本を中心として、大阪以外の場所から大阪に来た人が少なくないはずであるが、橋下 徹の「君が代」礼拝強制に加担するために吉本経由で議員になりたいのなら、そんな人間には大阪に出てきてもらいたくない。 又、芸人としてもたいした芸人でもないようなヤツが、橋下にすりよって、簡単に、芸人から議員になりたがるが、そいつらにとっては、吉本の芸人というのは、単に、右翼政治家になるためのステップでしかなく、簡単に捨てていいものだったということなのだろうか? そいつらの芸とはその程度の芸だったということか。

  公立の学校で「信教の自由」が侵害されるのを放置しておくならば、いずれ、それは日本の他の場にも及んでいく可能性がある。 
  橋下 徹・松井 一郎・中西 正人らの横暴を許すわけにはいかない。 修学旅行の例でいうならば、橋下・松井・中西は、「注意」とか「一日停学」程度のことですむものではない。 
  
  私は、教員にはならなかったので、自分自身がその場に居合わせるということは、とりあえずはないが、とりあえず、この場において、橋下 徹・松井 一郎・中西 正人 の3名、及び、特に、この3名に加担・協力しているような校長などに対して、警告する。
  「おい、橋下。(卒業式などにかこつけての、君が代礼拝強制などという野蛮な行為は)やめておけ!!」 
      (2012.3.3.)


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