橋下 徹 こそ退陣せよ! 橋下 徹こそ処分されるべきである! 橋下 徹を冷温停止させろ!

〔第40回〕 今、世間で最大の話題になっているのは、福島県双葉郡大熊町と双葉郡双葉町にかけてある東京電力福島第一原子力発電所の事故とそれによる放射能汚染であり、その次が地震と津波による被害とそれによる被災者の生活と復興の問題でしょう。 菅直人内閣の原発事故への対策が不適切ではないかという批判もあり、確かに、私も不適切と思う部分はあるのですが、自民党、及び、自民党に近いマスメディア、論客による菅内閣の対応への批判には、危険極まりない原子力発電所というものの建設を推進し操業を続けてきた歴代自民党政権に対する批判を封じるために、菅内閣の対応の不適切さを必死になって批判し攻撃しているのではないか、悪いのは原発の建設・操業を進めてきた自民党政権ではなく、原発事故の対応が適切と言えない菅直人の民主党政権であると言いたい為のものと思えるものもあり、なんだか、どっちもどっちという感じがしてうんざりします。 福島第一原発が冷温停止までは政争は控えて現政権がおこなうという菅直人首相の言うことには一理あると思うのですが、もしも、それでも、菅直人首相が不適任であるというのであれば、「冷温停止まで」誰が代わってやるのかということを、不信任を主張する人たちは、国民に提示するべきで、誰が代わるのかも示さずに、菅直人ではだめだと言われても、どうせ、菅直人と同程度かそれ以下の人間がなるのではないのか、という気がしてしまいます。

  それで、大地震・津波と原発事故という大変なものが起こったのにつけこんで、その陰でこっそり収めてしまったみたいなのが、大相撲の八百長問題です。 そして、世間の多くの人間が地震・津波と原発事故・放射能汚染の問題で大変な状況にあるのにつけこんで、どさくさにまぎれて、こっそりと勝手なことをやってのけたけしからん男が、もともとは、弁護士としては一人前でなく芸人としても一人前でないために「弁護士+芸人」として生きてきて、大阪生まれでなく大阪に愛着心・郷土意識・帰属意識もないのに大阪府知事になった男・橋下徹(はしもと とおる)です。 
  「朝日新聞」2011.6.4.朝刊によると、
≪大阪府内の公立校の教職員に君が代の起立斉唱を義務づける全国初の条例案が3日、府議会で成立した。橋下徹府知事が率いる「大阪維新の会」府議団が提出。同会などの賛成多数で可決された。
  橋下氏と維新の会は「教育公務員も法令や上司の命令に従う立場だとはっきりさせる」と条例の趣旨を主張している。
  東京都立高で起立を拒んだ元教諭の訴訟をめぐり、最高裁は5月30日の判決で、校長の職務命令について思想・良心の自由を「間接的に制約する面がある」と認めつつ、一定の必要性や合理性があれば許容されるとした。橋下氏は「最高裁の判断をもとに処分基準をつくる必要がある」として「処分条例案」を9月府議会で成立させる考えだ。≫ という。この男、地震や原発事故・放射能汚染で人が大変な思いをしている時に、その陰で何をこそこそ勝手なことをやっているのでしょう。

  まず、この男、弁護士だというが、こういう法の精神も人権意識もない男が、司法試験を受けたり弁護士になったりするのはやめるべきだと私は思っている。
  そもそも、「君が代」というような、歴史を逆行させるような歌はナンセンスなのである。それでも、自分が歌いたいというのであれば好きに歌えば良いが、そういうものを他人に歌わせようとか、さらに起立させようなどと考える者は、精神的に貧困であり、おかしいのである。
  橋下は、≪「教育公務員も法令や上司の命令に従う立場だとはっきりさせる」と条例の趣旨を主張している≫というが、当然のことながら、「教育公務員も」日本国憲法「に従う立場」であり、さらに、憲法より前の問題として、人類普遍のものとしての人権を尊重するべき「立場」であり、人類普遍のものである人権としての思想・良心の自由を守らなければならない「立場だとはっきりさせる」必要があります。 そして、「上司の命令」というものは、当然のことながら、思想・良心の自由を侵害するような「上司の命令」は無効、信教の自由を侵害するような「上司の命令」は無効であることも「はっきりさせる」必要があります。 なにより、当然のことながら、大阪府知事も思想・良心の自由を尊重しなければならない「立場だとはっきりさせる」必要があり、日本国憲法に規定されている人権を守らなければならない「立場だとはっきりさせる」必要があり、それに逆行する言動を繰り返す男は、府知事として不適任であることも「はっきりとさせる」必要があります。

  日本国憲法 第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

  橋下は、いったい、小学校から大学まで、何を勉強してきたのでしょう。 このスーパークソドアホを、なぜ大阪府民は知事に選んでしまったのでしょうか。

  又、歌というものは、その歌を歌いたいと思う者が歌うものであり、歌いたくないと思う人間に歌わせたり、斉唱させたり、起立させたりしたのでは、そのようなものは、歌ではないし、音楽でもない。 橋下はこの程度のこともわからないのか!?!

  ヘブライ人はB.C.1000年頃、王制をしき、ダヴィデ王の時にエルサレムに都を定め、ダヴィデ王の息子・ソロモン王の時にヤハウェの神殿を建て、国を富ませて“ソロモンの栄華”とたたえられたが、その死後、B.C.926年頃、イスラエルとユダの2王国に分裂した。この後、721B.C.イスラエルはアッシリアの滅ぼされ、586 B.C.ユダも新バビロニア(カルデア)に征服されて、住民の多くは「バビロン捕囚」として、バビロンに連れ去られた。
  『旧約聖書・詩編』の第137章には、この時に、バビロンにおいて、聖地エルサレムを思って歌ったユダの民の歌が記されている。
 
  われらは、バビロン川のほとりにすわり、
  シオンを思い出して涙を流した。
  われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。
  われらをとりこにした者が、
  われらに歌を求めたからである。
  われらを苦しめる者が楽しみにしようと、
  「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。
  われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。
  エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、
  わが右の手を衰えさせてください。
  もしわたしがあなたを思い出さないならば、
  もしわたしがエルサレムを
  わが最高の喜びとしないならば、
  わが舌をあごにつかせてください。

  主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、
  「これを破壊せよ、これを破壊せよ、
  その基までも破壊せよ」と
  言ったことを覚えてください。
  破壊者であるバビロンの娘よ、
  あなたがわれらにしたことを、
  あなたに仕返しする人はさいわいである。
  あなたのみどりごを取って
  岩になげうつ者はさいわいである。
    (日本聖書協会 口語訳)

  パレストリーナ は、この詩編の文章をもとに「バビロン河のほとり」というモテットを作曲しました。
高野 廣治 編・解説『パレストリーナ・モテット選集』(1974.新版 カワイ出版)によると、
≪ 〔訳〕 バビロン河のほとりに座り、(都)シオンを想い出して私たちは泣いたのです。
      (そして)柳の枝の真中に、私たちは(持っていた)立琴を立てかけてしまいました。
  〔註〕 ユダヤ人が戦争のために奴隷としてバビロン河のほとりにつれ去られました。 その時、彼等は自分たちの都であるシオンのことを想い出して、悲しさのあまり泣いてばかりいたので、持っている立琴を弾いて、故郷のことを少しは忘れなさいと、バビロンの兵隊たちにいわれたが、誰一人として弾く者はおらず、みんな柳の枝の真中にその立琴を立てかけてしまいましたの意。≫ と書かれています。

  ジュゼッペ=ベルディは、このバビロン捕囚を題材として、オペラ『ナブッコ』を作りました。「ナブッコ」とは、ネブカドネザル二世のことのようです。 
〔 ネブカドネザル二世とは、≪ 位前604~前562 新バビロニア王国最盛期の王。前586年ユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人のバビロン捕囚をおこなった。≫(『新版改訂 世界史用語集』山川出版社)〕
  第3幕の終わりで、捕らわれのユダヤ人が祖国への憧れを歌う《行け 我が想いよ、 金色の翼に乗って》という合唱曲は、このオペラ最大の見せ場であり聴きどころです。 そして、この《行け 我が想いよ、 金色の翼に乗って》という曲は、イタリアの第二国歌にもなっているといいます。
画像

 ↑(左) 高野 廣治『パレストリーナ・モテット選集』(1974.新版 カワイ出版)
   (右) ジュゼッペ=ベルディ (オペラ)『ナブッコ』 のDVD
     〔 レヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団  ファン=ポンス(ナブッコ)、マリア=グレキーナ(アビガイッレ)他 (グラモフォン)〕

  橋下が、君が代を歌いたくない、起立したくないという者にまで、強制して歌わせよう、起立させよというのは、侵略者の意識であり、我ら国民は、このような野蛮人に服従するべきではありません。 「行け、我が思いよ、金色の翼に乗って」思想・良心の自由を守るべきです。 我らをとりこにした者が歌えと要求する歌は歌うべきではありません。
 
  日本国憲法  第20条 (1) 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならないl。
  (2) 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  (3) 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 

  「君が代」という歌は、天皇に対する崇拝を強制する歌であり、これは、天皇を神として扱う宗教の歌であり、その歌の斉唱・その歌に対する起立は、宗教の儀式であり、当然、そういった「宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制」してはなりません。 又、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはなら」ず、君が代斉唱といったものを公立の学校で学校の行事としておこなうのは信教の自由を侵害するものであり、不適当です。

  この程度のことも理解できない者が大阪府知事に就任していることこそ不適当であり、こういう「制御不能」の男を府知事にしておくと、国民の為にならない条例だの何だのを放散させることになるので、この男をできる限り早くに「冷温停止」させるべく知事の職から橋下徹を「除染」する「工程表」を作成する必要がありそうです。

  『旧約聖書・出エジプト記』第20章には次のように書かれています。

  神はこのすべての言葉を語って言われた。
  「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
  あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
  ・・・・・・・・
     (日本聖書協会 口語訳)

  「君が代」という歌は、天皇を神として祀る宗教の歌であり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の信仰を持つ者としては、当然、ヤハウエ・エホバ・アッラー以外を神として祀ることは許されることではなく、そのような歌に起立したり斉唱したりするべきではなく、そういう歌を強制しようとする橋下徹は神を冒涜する者と言わざるをえません。
  
  イスラム教徒にとって「礼拝して良いのはアッラーのみ」。 当然、君が代斉唱などは認められません。

  
  そして、橋下 徹がこの地震・津波・原発事故・放射能汚染で国民が大変な状況である時期に、わざわざそういう時期に、こういった行動に出るのは、巾着切りがこっそりかすめとるような動きであり、許しがたいとともに、実に汚らしいやり口です。 相撲の八百長問題は、少しも解決になっていないと思います。 白鵬や琴欧州・魁皇がおとがめなしで、十両くらいの力士ばかりやめさせて、それで解決になるわけないじゃないですか。 千代の富士(九重親方)から「八百長やったならやったと認めろお」と怒鳴りつけられて、「おお、やったよ。あんたと同じ八百長をなあ。」と怒鳴り返した千代白鵬が引退で、千代の富士がそのままというのも変な感じだし、弟子をリンチで殺した双津竜(元・時津風親方)が有罪で、北天佑の弟に傷害を加えた千代の富士が国民栄誉賞というのも、なんだか、どうでもええよ賞みたいで、もう無茶苦茶です。 しかし、相撲取りなんぞ、もともと、「いいのは首から下だけ」と言われてきた連中であり、相撲が気に入らなければ見なければいいのですが、橋下の巾着切り的動きは国民として許すわけにはいきません。

  大阪府民の皆さん、こういう野蛮人をこれ以上、大阪府知事に就任させておくべきではありません。

  ベ~ンベン♪ 弁護士として一人前でない、芸人としても一人前でない、それは何かと尋ねたら、ああ、橋下、橋下、橋下徹、ああ、ベンベン♪
  そんな男のどこがいいのか。

  橋下は、大阪府立の北野高校の出身だというが、北野でいったい何を勉強してきたのだ。北野高校以外でも、いったい、橋下は、何を勉強してきたのだ。 
  実は、私も北野高校の出身者であるが、私は言いたい。

橋下 徹 は北野の恥さらしである。 

 早々に引退することを希望し、知事を退任することを勧告する。
 「先輩」などという右翼的な言葉は私は好きではないが、この際、「先輩」として橋下に「このアホンダラ!」 とゲンコツのひとつもくれてやりたいところである。

 これ以上、大阪府、及び、日本が、橋下が放散する有害なタワゴトに汚染されないよう、心より願う。

                    2011年6月4日

    ブログネーム: モンテ=クリスト伯+中原中也+ヴォーリズ


(追記) H・O 様と えまのん 様からコメントをいただきました。 ありがとうございます。 H・O様からはほぼ肯定的な評価、えまのん 様からは、どちらかと言えば批判的なコメントということになるのでしょうか。 私のブログに対しては、肯定的なもの・同感の意・賛成・賞賛のものも、否定的なもの・反論なども、すべて歓迎いたします。 これからもよろしくお願いいたします。 但し、否定的なコメント・反論・批判も歓迎いたしますが、批判に対しては、私の方でも、その批判に対する批判・反論はさせていただきます。 又、逆に、反論を期待していただける場合でも、私はこのブログを仕事にしているわけではなく安月給の会社員なので、仕事が多忙である為に反論が遅くなる時もあり、又、他に論じたい問題がある為に順番が後になる場合もありますので、ご了承ください。 今回の続編という性格をもつものとして、≪〔第41回〕 橋下徹をどげんかせんといかん! 君が代問題~内村鑑三の嘆き・ミルトン=マイヤーの憂い≫https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201106article_2.html を公開させていただきました。 えまのん 様への私のご説明にもなっていると思います。よろしくお願いいたします。 (2011年6月15日)

≪〔第41回〕 橋下徹をどげんかせんといかん!君が代問題。~内村鑑三の嘆き・ミルトン=マイヤーの憂い ≫ https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201106article_2.html も、ぜひ御覧くださいませ。
≪〔第56回〕 橋下徹という男の人間性 ~ 殺人犯は死刑が 「当然」 か? 》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201111article_2.html で、大阪教育大付属小での殺傷事件と死刑についての橋下徹の発言について述べました。御参照ください。(2011.11.4.)


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この記事へのコメント

H・O
2011年06月05日 12:45
はじめまして。私もこの件について腑に落ちないので「橋下徹 ブログ」で検索していたらこちらのブログにたどり着きました。
私自身は「君が代」自体は嫌いではないですし、歌う時は歌ってきましたが、それを義務だと言われるのにはものすごく違和感があります。そもそも誰もが、たまたま生まれた国がその国だっただけであり、それで国を愛する義務もなければ、国歌を嫌々歌う義務もないわけですよね。大抵の国では国歌の成立ちや歴史、また意味等は教え、それを各自の頭で考えさせ、各自の意思で行動させる。それがお上にそぐわないものでも非難はされないし、まして職を追われる事などありえません。とにかく自分の意見を持つ事が大事だと教える訳で、これこそが世界の「常識」と言えますね。
しかし日本では橋下知事や石原都知事に代表されるように、お上に何が何でも従えと教え、それにそぐわない者は排除するという、どこかの近隣国家のような教え方をするんですね。さらにおかしいのは、彼らがその近隣国家を批判していることですよね。よくも批判できると思いますよ。そんな教え方が昨今の日本の体たらくの一因ではないかと思う訳です。
時を同じくして行われた東京都の元教員が敗れた「君が代起立命令」裁判。結果は予想通りでしたが、この元教員を「社会常識に欠けた教育不適格者、反日分子」と言った人間がいるのには呆れました。繰り返しになりますが、大勢に流されず、自分の頭で物事を考え、その意思で行動する、納得できないことがあればそのままにせず、納得できるまで相手と話し合う、そう教えるのが大人の役目ですよね。それを地で行ったこの人は立派な教育者ですし、自分は歌わないのに命令だけはする都知事、それに何も考えずに従うだけの者達や、そんなおおよそ先進国とは思えない滅茶苦茶なやり方を支持する輩などより、余程愛国的ですよね。
本当に恐ろしい国になりましたね。
えまのん
2011年06月07日 15:22
ローマ・カソリックの総本山であるバチカンは、地域の儀礼的慣習として、異教の儀式にカソリック信徒が儀礼的に参加したりすることは認めてたりしますけどね。
キリスト教の系列でも、よっぽどな異端派のみですよ。エホバの証人とか。
namioka
2012年02月12日 11:22
以下は私が1998年に述べた文章です。今も変わってい、ません。

1、日の丸、君が代を強制する教育答申について

1)このほど教育課程審議会は国際人として通用する人間を教育するために日の丸、君が代を大切にする教育が必要という答申をまとめたようである。

2)国際人として通用する人間は悪くはないが、それと日の丸、君が代とどのような関係があるのか分からない。それぞれの国が国旗、国歌を持つことは自由である。国歌、国旗を重視してきたのはナショナリズムを至上主義としてきた時代の遺物ではないだろうか。これからの時代は国家至上主義ではなく、世界平和を前提にした国家に所属する各人至上主義である。このような状況にいる場合、国歌、国旗の持つ意味は各人にまかせるべきであり、教育の重点的関心事は個の確立をいかに図るかである。

個の確立を目指す我々は、校歌、国歌、国旗を皆が皆一律に大切にしたいのだろうか。逆にこのようなものは全体主義的に管理する側の人達の都合のよい道具であることに気付くべきではないだろうか。安易に国歌、国旗と言って本当に人類の平和に責任をもてるのか深く考えてもらいたい。

正直言って、世界平和を必死になって模索する我々には天皇とか国歌とか国旗とかに付き合っている余裕はないのである。天皇とか国歌とか国旗とかは個の確立の邪魔になるものとして十分な要素でもある。このようなものを抜きにして、「人間」を考えてもらいたい。

ただ全体主義を必要としている人達がまだ存在していることは承知している。我々はこの人達になぜ全体主義が最終的には人類を滅ぼすのかを伝える義務がある。この人達は第二次世界大戦の手法で世界の秩序を守ろうとする人であることはほぼわかっている。あなたたちの望みは本当のところ何なのか。
かつあき
2013年06月23日 21:12
その通りです。私もクリスチャンであり、あなたと同じ憤りを感じています。「はっきりと意見を言う」という人間、声でかな凛とした人間を感覚的に「立派」と思い込んではダメです。神が裁きを与えられるのは、時間の問題ですが、その間に、被害を被る方々(辞職させられた方など)はホント、大変ですよ。ボンフェッファーの気分です。北野、早稲田、弁護士がなんなんだといいたい。
小生は大阪教育大学附属高校卒です。そしてクリスチャンです。この世界は、キリストの神が創ったのです。イザナミ・イザナギではありません。天皇制は嘘だから、無条件降伏したのです。また、同じ非真理の路を行くのか!
長州閥の安倍もおかしい。その背後の右翼も。そして、その背後のサタンも。

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