震災時の「義捐金」と「偽善金」、及び、「ボランティア」について。
〔第38回〕 3月11日の東北から関東にかけての大地震以来、「義捐金(ぎえんきん)」という名称でカネを被災者に寄付する有名人や企業経営者が出てきました。 又、一般の人でも「義捐金」をおこなう人が出て、「義捐金」を呼びかける街頭募金をおこなう人が町に現れましたが、一方で、「義捐金」として街頭で募金を呼び掛けて集めたカネを自分のふところに入れる人や、インターネットで義捐金をよびかけて集めたカネを自分のものにする人など、「義捐金詐欺」も出てきたようです。
ところで、「義捐金(ぎえんきん)」て何でしょう。 「義捐金」なるものが、世間おおおやけに登場したのは、私が認知しているものとしては、1995年1月の阪神淡路大震災の時からですが、運動選手や芸能人が「義捐金」として寄付をはじめたことには、それほど違和感は持ちませんでしたし、高給取りの運動選手や芸能人が出しても、優しい気持ちから出しているのだなということで特に問題があるという印象も持たなかったのです。
プロの運動選手とか芸能人というのは、「ケ(褻)」の仕事か「ハレ(晴、霽)」の仕事かというと、「ハレ」の仕事であるのです。「ハレ(晴、霽)」とは「はれがましいこと」、「ケ(褻)」とは「晴(はれ)でないこと。ふだん。日常。私。」を言い(新村 出 編『広辞苑 第二版』岩波書店)、「褻(ケ)にも晴(ハレ)にも」で「ふだんにもはればれしい折りにも。」という意味になります。 プロ野球などというものは、なければなしで、世の中は成り立つのです。歌謡曲の歌手も「アイドル」も、なければなしで、世の中は動くのです。そして、プロの運動選手の報酬というのは、トッププレーヤーというのは、一般の会社員よりも高いわけですが、それが、その選手の評価として考えた時に、高いのか安いのかの判断が難しい。世の中にとっては、別に、なくても良い仕事と考えると、高すぎることになりますが、なくても良い仕事の存在を今の社会が認めているのであれば、一般の会社員と比較するならば高すぎる報酬も認められておかしくないことになります。 なくても良い仕事であるならば、労働価値説によって、利益が出るか出ないかにかかわらず労働自体に価値があるとして考える性質のものでもなく、人はすべて健康で文化的な生活を営む権利があるとする生存権原理から考えて決められている報酬でもなく、誰がというのではなく、すべてのプロの運動選手や芸能人というのは、もともと、存在もバブルならば、その報酬もバブルなのです。だから、その「バブル」の収入の中から、いくらかを「義捐金」として役立ててください、として出してもらっても、それほど違和感はないのです。
それに対して、企業が「義捐金」を出したり、企業の経営者が「義捐金」を出したりして、世の為人の為に貢献する会社とか、経営者として優れているだけでなく人格者でもある、みたいに宣伝するようになると、ちょっと、なんか、胡散臭さがでてくるのです。
日本のサラリーマンの皆さん。 だいたいねえ、普段、従業員に給料を払う時には、「もうかっていないのに、そんなに出せるわけないじゃないか。馬鹿なこと言うな。」とか言っておきながら、「義捐金」となると、なぜか、ドカンとイッパツ出てくるというのは、なんとも、マカ不思議とか思ったりしませんか?
あるいは、本当に、それだけ「義捐金」を出すことができる利益を上げている企業であるならば、そういう企業からは、もう少し税金を払っていただいておれば、「義捐金」などというものがなくても、税金から十分にカネをかけて被災者を救済することができるのであって、もうかっている企業から税金を十分に取っていないから「義捐金」などというものが出現するのではないのか?・・・・とか思ったりしませんか?
「義捐金」という名のもとに、企業の宣伝をしているのではないか、と批判をする方もあるようですが、私は、逆に、企業の宣伝のつもりで、企業が「義捐金」を出すのであれば、その方が悪くないと思っています。企業が存続し利益をあげていくために宣伝・広告をおこなうのは悪いことではなく、「義捐金」として、宣伝・広告をおこなうならば、企業にとっては宣伝・広告になり、結果として、被災者で助かる人も出るということで、両方にとってプラスになることで、特別に世の為人の為に貢献しているとしつこく訴えるのであれば、いやったらしさを感じてしまいますが、そうでなければ、企業の経営としては宣伝・広告のひとつとして「義捐金」を出して悪いということはなく、従業員との関係においても、宣伝・広告の費用として考えるならば、それは、必要経費であって、給料を十分に払うカネがないというのに、なぜ、「義捐金」なら払えるんだ? とかいう問題にもならないと思うのです。
1995年1月に阪神淡路大震災が起こった時、その時、私は在来木造の I 社に勤めていて、福島県の いわき市の営業所にいましたが、 I 社では、すべての従業員から給料天引きで「義捐金」を徴収するということをいたしました。そして、わたしも、給料天引きで取られた(盗られた)のです。給料天引きで。「義捐金」という名目で。
私は大阪府の生まれであったのです。母は、その時、大阪府の北部に住んでいたのです。親戚で兵庫県の神戸市に住んでいた人間もいましたし、テレビに倒壊した阪急・伊丹駅の写真が何度も映った兵庫県伊丹市に住んでいた親戚もいました。不幸中の幸いとして、親戚で、地震により死亡した人はありませんでしたが、向かいの家で亡くなった方があったという人もおり、しばらく、ガスも電気も通らないという所で生活したという人もいました。家屋に損壊が出た人もありましたし、お墓が無茶苦茶になってしまったという方もありました。母が住んでいた私が子供の頃から暮らしてきた家は、幸い、倒壊などはしませんでしたが、部分的に傷んだところはありました。家の中はひっくりかえりました。又、我が家のお墓はひっくりかえったりはしませんでしたが、墓石がずれたりしました。私と母とは親子ですから、基本的には、生活は助け合っておこなっていたわけであり、私は母に毎月何万円か送っていましたし、その時、私が会社からの命令で 福島県の いわき市の営業所に勤務して、いわき市のアパートに住んでいたとしても、私も被災者のひとりであったのです。 「間違いのない家造り」を売り物にしていた在来木造の I 社は、その被災者から給料天引きで義捐金を取った(盗った)のです。
I 社に盗られた「義捐金」は、金額としては大きなものではありませんが、被災者から給料天引きで「義捐金」を取ってやろうという、その根性は、その精神構造はどういうものなのでしょうか?
そして、その「義捐金」はどうしたかというと、 I 社の資本が入っている I 社のグループ会社の株式会社 I 工務店神戸という会社に贈られたということでした。 要するに、地震と「義捐金」にかこつけて、被災者から給料天引きで、カネをだまし取った、ということです。それが、 I 社の「義捐金」でした。よくやってくれると思います。経営者の根性・性格・人間性がそこに出ているのではないかと思います。
たとえ、被災者から取るのでなくても、自分の会社の資本が入ったグループ会社に贈るなどというものではなく、本来の被災者に贈るものであっても、「義捐金」というものは、それぞれの人間が自分の意志で判断しておこなうものであって、オーナー経営者が勝手に決めて給料天引きでおこなうものではありません。 I 社のオーナー経営者はその程度のことも理解できないのです。
そして、従業員の給料・賃金というものは、高いか安いかにかかわらず、これだけ払うということになっているものは、まず、その金額を全額従業員に支払うべきもので、もしも、従業員に「義捐金」に協力してもらいたいと思うのであれば、給料・賃金は定められたものをきっちりと支払って、その上で、「義捐金」の協力をお願いするべきもので、従業員の意志を無視して給料天引きで取るものではありません。
≪ 賃金は、「その全額を支払わなければならない。」([労働基準法]24条一項)。 この規定は、賠償予定の禁止(16条)、前借金相殺の禁止(17条)、強制貯金の禁止(18条)などと相まって、賃金の全額が確実に労働者の手に渡るように配慮したものである。ただし法令に定めがある場合(所得税の源泉徴収、社会保険料の控除等)、過半数労働組合または過半数の労働者の代表者との書面による協定があるときには、賃金の一部を控除して支払っても差し支えない。・・・・・全額払いの原則は、賃金全額を確実に労働者に受給させ、生活の不安がないようにさせようという趣旨から設けられたものであるから、貸付金等の相殺はもとより、債務不履行や不法行為に基づく損害賠償債権による相殺も許されないと解されている(日本勧業経済会事件・最高裁(大)昭36・5・31判決、関西精機事件・最高裁(二小)昭31・11・2判決≫(外尾 健一〔ほかお けんいち〕『労働法入門 〔第6版 増補版〕』2005.9.10.有斐閣双書)というもので、 I 社が地震と「義捐金」にかこつけてやったことは、労働基準法第24条1項「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は命令で定める賃金について確実な支払いの方法で命令に定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。」に違反するもので、労働基準法第120条「次の各号の一に該当する者は、十万円以下の罰金に処する。 一 ・・・・・第二十三条から第二十七条まで、・・・・・」により処罰されなければならないものです・・・・というよりも、その「義捐金」については、従業員の意志で支払うとしたものではないので、「全額払いの原則」(労基法第24条1項)違反であるだけでなく、その「義捐金」の部分について給料が支払われていないというで、賃金未払いと評価されることになります。
そういう「義捐金」というものを、「義捐金」を払って社会に貢献していると評価できるのかというと、評価できるわけないのであり、むしろ、労働基準法違反の反社会的な行為であり、偽善金と言うべきです。
そして、「ボランティア」もまた、「義捐金」と似た性質を持つことがあります。 阪神淡路大震災の時も、「ボランティア」として来た人で、何か遊びにきたような感じの人がいて、むしろ、周囲が迷惑したような人がいたと言われ、今回の東北北関東大震災(東日本大震災)においても、5月の連休に、連絡もなしに突然来て、来られた方が、むしろ、迷惑したり、迷惑とまでいかないとしても、突然来られて、やってもらうこともなく困ったとか、大量に来られた「ボランティア」のクルマの為に、ガソリンスタンドが行列や品切れを起こしてしまって、かえって迷惑したとかいったことがあったようです。 「ボランティア」が絶対に悪いということはないと思いますが、計画性のない善意がかえって迷惑となることがあるということは認識しないといけないでしょう。
それと、本来、労働には対価が支払われるのは当然であり、私が思うに、今、福島県で避難する場所と生活に不安を感じて放射能汚染の問題から考えれば避難するべきであるにもかかわらず避難せずにいる人達で、もしも、希望者があれば、宮城県中部から岩手県にかけての地域で、津波などで大きな被害を受けた地域の復興の工事に従事してもらって、その間については、特に豪勢な住居ではないとしても生活できる住居を確保し、復興工事に従事することに対する報酬を支払えば、もしも、福島第一原発が何カ月後かに穏やかになり、もしも、本来の住居に戻れるのであれば、それまでの仮の住まいと仮の生活手段を提供することができ、避難をためらう人に、「放射線」量・「放射性物質」の量の福島県よりも低い地域への避難を助けることができるのではないか、と思い、又、福島県あたりで、兼業でも農家をしている人というのは、あるいは、「サラリーマン」でも親戚に農家がいて田植えなどを手伝ってきた人というのは、東京あたりの完全な事務・営業しかしていない会社員と違って、体が動くと思うので、そういう人で希望者があれば、宮城県中部以北や岩手県での復興作業に報酬を払って従事してもらえばどうかと思ったのですが、 「ボランティア」でやる人があまりに多いと、そういう人の仕事を奪うことにもなりかねない、という面があると思い、「ボランティア」を手放しで歓迎するというわけにもいかないように思うのです。
又、経済学的に考えるならば、「ボランティア」というのは、無賃労働であり、「ボランティア」があまりにも増えると、「ボランティア」がおこなうような作業に「ボランティア」でなく従事する労働者の賃金を引き下げることにつながる危険性があり、いわば、「スト破り」のような行為をおこなっていることになる危険性もあるのです。
そして、職場などでは、経営者が音頭をとって、「ボランティア」をやりましょうと言いだすと、音頭を取った人は悪気でなくても、結果として、それほど気が向かない人もやらなければならないようになってしまうという危険性もあります。
又、在来木造の I 社が阪神淡路大震災の時に、被災者の私から給料天引きで「義捐金」を取った時、私は、「義捐金」を出すカネがあるならば、自分の家族、あるいは、私よりも大きな被災にあった親戚を助けたかったのです。しかし、 I 社の業務が忙しくて、阪神地域に帰ることもできず、 I 社の給料が高くないので、親戚を金銭的に助けることもできなかったのですが、I 社はそういう人間に関西地域に戻って家族・親戚に協力をする便宜を図るための協力をすることもなく、関西地域に戻るための交通費でも「義捐金」として支給してくれるなら喜んだでしょうけれども、逆に、「義捐金」と称して給料天引きでカネをかすめ取ったのです。
親戚や昔からの世話になった人・友人などが被災した人の場合は、「ボランティア」に行く余裕が、もしも、あるのであれば、赤の他人の所へ「ボランティア」に行くよりは、親戚や昔から世話になった人・友人などを助ける方を優先した方が良いのではないかと思いますし、親戚などが被災している人に、「ボランティア」への参加をあまりにも強くよびかけるのはやめた方が良いと思います。それは、被災者や被災者の親戚から強制的に「義捐金」を取り上げるのに似た行為だと思います。
「やさしい人」が絶対に悪いということではないのですが、やさしさを発揮するように人に強制しだすと、被災者から「義捐金」を取りたててみたり、仕事の都合で被災者である親戚を助けることができずにいる人に親戚と関係のない地域の被災者への「ボランティア」への参加を強制してみたりすることになりかねません。
ふた昔ほど前の「おばさん殺し」杉良太郎は、地震などがあったときに「ボランティア」をおこなうのを常としていたようで、今回も何かやったようです。 しかし、阪神淡路大震災の時、「フライデー」だったか「フラッシュ」だったかに掲載されていたことですが、スギリョウは、大工が工事現場で履く地下足袋をはいて避難所に表れ(震災復興の手伝いなら、地下足袋ではなく皮が厚くつま先に鉄が入ってつま先を保護する安全靴でも履いて行った方が適しているでしょう。地下足袋はズック靴などよりも下に密着するので梁の上に乗る時などは良いでしょうけれども、特に頑丈であるわけでもなく底は厚くないので、危険なものがある場所に行く時には不向きです。)、なんで、そんな格好しているのお?勘違いしていない?と不思議に思われるような姿で避難所に表れて、避難所にいる人にアピールし、そして、杉良太郎の姉だったか親戚の人も、その避難所に来ていて、スギリョウに困ったことを相談しようとしたところ、「うるさい! 俺は今それどころじゃないんだ。」と怒鳴りつけた、という記事が載っていたのを覚えています。杉良太郎にとっては、地震などで被害が出た時に「ボランティア」としてアピールするのは、自分をタレントとして売り込むための手段であって、自分の家族・親戚が同じ場所に被災していても、家族・親戚はタレントとして売り込む相手ではないので、「うるさい! 俺は今それどころじゃないんだ。」というところだったようです。あさましい姿ですね。 あくまで、「フライデー」だったか「フラッシュ」だったかに載っていた話によればの話ですが。
※ 杉 良太郎 については、
「ウィキペディア――杉 良太郎」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E8%89%AF%E5%A4%AA%E9%83%8E
他参照。
まず、「義捐金」も「ボランティア」も、それぞれの人が自分の意志でおこなうもので、人に要求するものではないということを認識する必要があり、人に要求するようになると、偽善金・偽善行為になってしまうおそれがでてきます。
会社が義捐金を出すのは悪いということはありませんが、その会社の体力や経営状況を考えて、身の程に合ったことをするようにした方が良いと思います。 「義捐金」を出すために、地震などなくてもこちらが義捐金をほしいくらいという安月給の従業員から給料をへつってカネを用意するというのでは、「義捐金」ではなく偽善金になりますが、けっこう、そういうことをやりたがる経営者が少なくないのではないかという印象を受けています。 そんなことはないでしょうか?
それから、福島県から、特に「いわき」ナンバーのクルマで千葉県に避難した人が、ガソリンスタンドで給油を拒否されたとか、福島県から避難してきた子供が、もとから千葉県にいる子供に「放射能」と言って逃げられたとかいった話が、新聞などで見ることがあります。どこに行っても、いろいろな人がいるので、ごく少数ならいてもどんな人がいても不思議ではないのですが、それが嫌で、たとえ、放射能汚染で避難しなければならない状況でも福島県に戻るという人もあると述べられており、少数ならいろんな人がいるものだとすますわけにもいかないようです。 「ボランティア」に行こうという人というのは、たいてい、宮城県か岩手県に行こうとするのであり、今も原発事故が収まっていない福島県に行こうとはしないのです。 それは、それぞれの人が自分のできることをやれば良いのであって、放射能汚染の危険がある地域には行きたくないが、地震や津波の被害が出た地域で、「放射線量」や「放射性物質」の量の測定数値がそれほど高くない地域になら「ボランティア」に行きたいということであれば、それはそれで良いと思います。 しかし、です。 東京から千葉にかけての地域から、仙台以北へ「ボランティア」にクルマで行く人は、たいてい、福島県の中通り地方を東北自動車道などで行き来するわけです。 福島県からクルマで東京都や千葉県に来る人のクルマが歓迎されないというのは、クルマが「放射性物質」を多くかぶってしまっているのではないか、というおそれからでしょうけれども、東京都や千葉県の住民が、東京都や千葉県のナンバーのクルマに乗って、宮城県中部から岩手県にかけて、福島県の中通りを通って往復するならば、そこで、「放射性物質」をクルマがかぶるということは十分に考えられることですよね。 「いわき」ナンバーのクルマを避けて、実は、自分のクルマの方が「放射性物質」をかぶっているということになる可能性が十分に考えられますよね。 「いわき」ナンバーのクルマの人は、誤解を招かない為に、できるだけ、洗車は十分におこなった方が良いと思いますが、「いわき」ナンバーや「福島」ナンバーのクルマに抵抗を感じて、自分のクルマが福島県の中通りを往復するのをなんとも思わないというのも、何か変な気がいたします。 又、クルマで素通りされる福島県の人間の気持ちはどうなのだろう、とも思います。
福島第一原発の事故ができるだけ早くに収束するよう希望いたします。
ブログネーム: モンテ=クリスト伯+中原中也+ヴォーリズ
ところで、「義捐金(ぎえんきん)」て何でしょう。 「義捐金」なるものが、世間おおおやけに登場したのは、私が認知しているものとしては、1995年1月の阪神淡路大震災の時からですが、運動選手や芸能人が「義捐金」として寄付をはじめたことには、それほど違和感は持ちませんでしたし、高給取りの運動選手や芸能人が出しても、優しい気持ちから出しているのだなということで特に問題があるという印象も持たなかったのです。
プロの運動選手とか芸能人というのは、「ケ(褻)」の仕事か「ハレ(晴、霽)」の仕事かというと、「ハレ」の仕事であるのです。「ハレ(晴、霽)」とは「はれがましいこと」、「ケ(褻)」とは「晴(はれ)でないこと。ふだん。日常。私。」を言い(新村 出 編『広辞苑 第二版』岩波書店)、「褻(ケ)にも晴(ハレ)にも」で「ふだんにもはればれしい折りにも。」という意味になります。 プロ野球などというものは、なければなしで、世の中は成り立つのです。歌謡曲の歌手も「アイドル」も、なければなしで、世の中は動くのです。そして、プロの運動選手の報酬というのは、トッププレーヤーというのは、一般の会社員よりも高いわけですが、それが、その選手の評価として考えた時に、高いのか安いのかの判断が難しい。世の中にとっては、別に、なくても良い仕事と考えると、高すぎることになりますが、なくても良い仕事の存在を今の社会が認めているのであれば、一般の会社員と比較するならば高すぎる報酬も認められておかしくないことになります。 なくても良い仕事であるならば、労働価値説によって、利益が出るか出ないかにかかわらず労働自体に価値があるとして考える性質のものでもなく、人はすべて健康で文化的な生活を営む権利があるとする生存権原理から考えて決められている報酬でもなく、誰がというのではなく、すべてのプロの運動選手や芸能人というのは、もともと、存在もバブルならば、その報酬もバブルなのです。だから、その「バブル」の収入の中から、いくらかを「義捐金」として役立ててください、として出してもらっても、それほど違和感はないのです。
それに対して、企業が「義捐金」を出したり、企業の経営者が「義捐金」を出したりして、世の為人の為に貢献する会社とか、経営者として優れているだけでなく人格者でもある、みたいに宣伝するようになると、ちょっと、なんか、胡散臭さがでてくるのです。
日本のサラリーマンの皆さん。 だいたいねえ、普段、従業員に給料を払う時には、「もうかっていないのに、そんなに出せるわけないじゃないか。馬鹿なこと言うな。」とか言っておきながら、「義捐金」となると、なぜか、ドカンとイッパツ出てくるというのは、なんとも、マカ不思議とか思ったりしませんか?
あるいは、本当に、それだけ「義捐金」を出すことができる利益を上げている企業であるならば、そういう企業からは、もう少し税金を払っていただいておれば、「義捐金」などというものがなくても、税金から十分にカネをかけて被災者を救済することができるのであって、もうかっている企業から税金を十分に取っていないから「義捐金」などというものが出現するのではないのか?・・・・とか思ったりしませんか?
「義捐金」という名のもとに、企業の宣伝をしているのではないか、と批判をする方もあるようですが、私は、逆に、企業の宣伝のつもりで、企業が「義捐金」を出すのであれば、その方が悪くないと思っています。企業が存続し利益をあげていくために宣伝・広告をおこなうのは悪いことではなく、「義捐金」として、宣伝・広告をおこなうならば、企業にとっては宣伝・広告になり、結果として、被災者で助かる人も出るということで、両方にとってプラスになることで、特別に世の為人の為に貢献しているとしつこく訴えるのであれば、いやったらしさを感じてしまいますが、そうでなければ、企業の経営としては宣伝・広告のひとつとして「義捐金」を出して悪いということはなく、従業員との関係においても、宣伝・広告の費用として考えるならば、それは、必要経費であって、給料を十分に払うカネがないというのに、なぜ、「義捐金」なら払えるんだ? とかいう問題にもならないと思うのです。
1995年1月に阪神淡路大震災が起こった時、その時、私は在来木造の I 社に勤めていて、福島県の いわき市の営業所にいましたが、 I 社では、すべての従業員から給料天引きで「義捐金」を徴収するということをいたしました。そして、わたしも、給料天引きで取られた(盗られた)のです。給料天引きで。「義捐金」という名目で。
私は大阪府の生まれであったのです。母は、その時、大阪府の北部に住んでいたのです。親戚で兵庫県の神戸市に住んでいた人間もいましたし、テレビに倒壊した阪急・伊丹駅の写真が何度も映った兵庫県伊丹市に住んでいた親戚もいました。不幸中の幸いとして、親戚で、地震により死亡した人はありませんでしたが、向かいの家で亡くなった方があったという人もおり、しばらく、ガスも電気も通らないという所で生活したという人もいました。家屋に損壊が出た人もありましたし、お墓が無茶苦茶になってしまったという方もありました。母が住んでいた私が子供の頃から暮らしてきた家は、幸い、倒壊などはしませんでしたが、部分的に傷んだところはありました。家の中はひっくりかえりました。又、我が家のお墓はひっくりかえったりはしませんでしたが、墓石がずれたりしました。私と母とは親子ですから、基本的には、生活は助け合っておこなっていたわけであり、私は母に毎月何万円か送っていましたし、その時、私が会社からの命令で 福島県の いわき市の営業所に勤務して、いわき市のアパートに住んでいたとしても、私も被災者のひとりであったのです。 「間違いのない家造り」を売り物にしていた在来木造の I 社は、その被災者から給料天引きで義捐金を取った(盗った)のです。
I 社に盗られた「義捐金」は、金額としては大きなものではありませんが、被災者から給料天引きで「義捐金」を取ってやろうという、その根性は、その精神構造はどういうものなのでしょうか?
そして、その「義捐金」はどうしたかというと、 I 社の資本が入っている I 社のグループ会社の株式会社 I 工務店神戸という会社に贈られたということでした。 要するに、地震と「義捐金」にかこつけて、被災者から給料天引きで、カネをだまし取った、ということです。それが、 I 社の「義捐金」でした。よくやってくれると思います。経営者の根性・性格・人間性がそこに出ているのではないかと思います。
たとえ、被災者から取るのでなくても、自分の会社の資本が入ったグループ会社に贈るなどというものではなく、本来の被災者に贈るものであっても、「義捐金」というものは、それぞれの人間が自分の意志で判断しておこなうものであって、オーナー経営者が勝手に決めて給料天引きでおこなうものではありません。 I 社のオーナー経営者はその程度のことも理解できないのです。
そして、従業員の給料・賃金というものは、高いか安いかにかかわらず、これだけ払うということになっているものは、まず、その金額を全額従業員に支払うべきもので、もしも、従業員に「義捐金」に協力してもらいたいと思うのであれば、給料・賃金は定められたものをきっちりと支払って、その上で、「義捐金」の協力をお願いするべきもので、従業員の意志を無視して給料天引きで取るものではありません。
≪ 賃金は、「その全額を支払わなければならない。」([労働基準法]24条一項)。 この規定は、賠償予定の禁止(16条)、前借金相殺の禁止(17条)、強制貯金の禁止(18条)などと相まって、賃金の全額が確実に労働者の手に渡るように配慮したものである。ただし法令に定めがある場合(所得税の源泉徴収、社会保険料の控除等)、過半数労働組合または過半数の労働者の代表者との書面による協定があるときには、賃金の一部を控除して支払っても差し支えない。・・・・・全額払いの原則は、賃金全額を確実に労働者に受給させ、生活の不安がないようにさせようという趣旨から設けられたものであるから、貸付金等の相殺はもとより、債務不履行や不法行為に基づく損害賠償債権による相殺も許されないと解されている(日本勧業経済会事件・最高裁(大)昭36・5・31判決、関西精機事件・最高裁(二小)昭31・11・2判決≫(外尾 健一〔ほかお けんいち〕『労働法入門 〔第6版 増補版〕』2005.9.10.有斐閣双書)というもので、 I 社が地震と「義捐金」にかこつけてやったことは、労働基準法第24条1項「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は命令で定める賃金について確実な支払いの方法で命令に定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。」に違反するもので、労働基準法第120条「次の各号の一に該当する者は、十万円以下の罰金に処する。 一 ・・・・・第二十三条から第二十七条まで、・・・・・」により処罰されなければならないものです・・・・というよりも、その「義捐金」については、従業員の意志で支払うとしたものではないので、「全額払いの原則」(労基法第24条1項)違反であるだけでなく、その「義捐金」の部分について給料が支払われていないというで、賃金未払いと評価されることになります。
そういう「義捐金」というものを、「義捐金」を払って社会に貢献していると評価できるのかというと、評価できるわけないのであり、むしろ、労働基準法違反の反社会的な行為であり、偽善金と言うべきです。
そして、「ボランティア」もまた、「義捐金」と似た性質を持つことがあります。 阪神淡路大震災の時も、「ボランティア」として来た人で、何か遊びにきたような感じの人がいて、むしろ、周囲が迷惑したような人がいたと言われ、今回の東北北関東大震災(東日本大震災)においても、5月の連休に、連絡もなしに突然来て、来られた方が、むしろ、迷惑したり、迷惑とまでいかないとしても、突然来られて、やってもらうこともなく困ったとか、大量に来られた「ボランティア」のクルマの為に、ガソリンスタンドが行列や品切れを起こしてしまって、かえって迷惑したとかいったことがあったようです。 「ボランティア」が絶対に悪いということはないと思いますが、計画性のない善意がかえって迷惑となることがあるということは認識しないといけないでしょう。
それと、本来、労働には対価が支払われるのは当然であり、私が思うに、今、福島県で避難する場所と生活に不安を感じて放射能汚染の問題から考えれば避難するべきであるにもかかわらず避難せずにいる人達で、もしも、希望者があれば、宮城県中部から岩手県にかけての地域で、津波などで大きな被害を受けた地域の復興の工事に従事してもらって、その間については、特に豪勢な住居ではないとしても生活できる住居を確保し、復興工事に従事することに対する報酬を支払えば、もしも、福島第一原発が何カ月後かに穏やかになり、もしも、本来の住居に戻れるのであれば、それまでの仮の住まいと仮の生活手段を提供することができ、避難をためらう人に、「放射線」量・「放射性物質」の量の福島県よりも低い地域への避難を助けることができるのではないか、と思い、又、福島県あたりで、兼業でも農家をしている人というのは、あるいは、「サラリーマン」でも親戚に農家がいて田植えなどを手伝ってきた人というのは、東京あたりの完全な事務・営業しかしていない会社員と違って、体が動くと思うので、そういう人で希望者があれば、宮城県中部以北や岩手県での復興作業に報酬を払って従事してもらえばどうかと思ったのですが、 「ボランティア」でやる人があまりに多いと、そういう人の仕事を奪うことにもなりかねない、という面があると思い、「ボランティア」を手放しで歓迎するというわけにもいかないように思うのです。
又、経済学的に考えるならば、「ボランティア」というのは、無賃労働であり、「ボランティア」があまりにも増えると、「ボランティア」がおこなうような作業に「ボランティア」でなく従事する労働者の賃金を引き下げることにつながる危険性があり、いわば、「スト破り」のような行為をおこなっていることになる危険性もあるのです。
そして、職場などでは、経営者が音頭をとって、「ボランティア」をやりましょうと言いだすと、音頭を取った人は悪気でなくても、結果として、それほど気が向かない人もやらなければならないようになってしまうという危険性もあります。
又、在来木造の I 社が阪神淡路大震災の時に、被災者の私から給料天引きで「義捐金」を取った時、私は、「義捐金」を出すカネがあるならば、自分の家族、あるいは、私よりも大きな被災にあった親戚を助けたかったのです。しかし、 I 社の業務が忙しくて、阪神地域に帰ることもできず、 I 社の給料が高くないので、親戚を金銭的に助けることもできなかったのですが、I 社はそういう人間に関西地域に戻って家族・親戚に協力をする便宜を図るための協力をすることもなく、関西地域に戻るための交通費でも「義捐金」として支給してくれるなら喜んだでしょうけれども、逆に、「義捐金」と称して給料天引きでカネをかすめ取ったのです。
親戚や昔からの世話になった人・友人などが被災した人の場合は、「ボランティア」に行く余裕が、もしも、あるのであれば、赤の他人の所へ「ボランティア」に行くよりは、親戚や昔から世話になった人・友人などを助ける方を優先した方が良いのではないかと思いますし、親戚などが被災している人に、「ボランティア」への参加をあまりにも強くよびかけるのはやめた方が良いと思います。それは、被災者や被災者の親戚から強制的に「義捐金」を取り上げるのに似た行為だと思います。
「やさしい人」が絶対に悪いということではないのですが、やさしさを発揮するように人に強制しだすと、被災者から「義捐金」を取りたててみたり、仕事の都合で被災者である親戚を助けることができずにいる人に親戚と関係のない地域の被災者への「ボランティア」への参加を強制してみたりすることになりかねません。
ふた昔ほど前の「おばさん殺し」杉良太郎は、地震などがあったときに「ボランティア」をおこなうのを常としていたようで、今回も何かやったようです。 しかし、阪神淡路大震災の時、「フライデー」だったか「フラッシュ」だったかに掲載されていたことですが、スギリョウは、大工が工事現場で履く地下足袋をはいて避難所に表れ(震災復興の手伝いなら、地下足袋ではなく皮が厚くつま先に鉄が入ってつま先を保護する安全靴でも履いて行った方が適しているでしょう。地下足袋はズック靴などよりも下に密着するので梁の上に乗る時などは良いでしょうけれども、特に頑丈であるわけでもなく底は厚くないので、危険なものがある場所に行く時には不向きです。)、なんで、そんな格好しているのお?勘違いしていない?と不思議に思われるような姿で避難所に表れて、避難所にいる人にアピールし、そして、杉良太郎の姉だったか親戚の人も、その避難所に来ていて、スギリョウに困ったことを相談しようとしたところ、「うるさい! 俺は今それどころじゃないんだ。」と怒鳴りつけた、という記事が載っていたのを覚えています。杉良太郎にとっては、地震などで被害が出た時に「ボランティア」としてアピールするのは、自分をタレントとして売り込むための手段であって、自分の家族・親戚が同じ場所に被災していても、家族・親戚はタレントとして売り込む相手ではないので、「うるさい! 俺は今それどころじゃないんだ。」というところだったようです。あさましい姿ですね。 あくまで、「フライデー」だったか「フラッシュ」だったかに載っていた話によればの話ですが。
※ 杉 良太郎 については、
「ウィキペディア――杉 良太郎」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E8%89%AF%E5%A4%AA%E9%83%8E
他参照。
まず、「義捐金」も「ボランティア」も、それぞれの人が自分の意志でおこなうもので、人に要求するものではないということを認識する必要があり、人に要求するようになると、偽善金・偽善行為になってしまうおそれがでてきます。
会社が義捐金を出すのは悪いということはありませんが、その会社の体力や経営状況を考えて、身の程に合ったことをするようにした方が良いと思います。 「義捐金」を出すために、地震などなくてもこちらが義捐金をほしいくらいという安月給の従業員から給料をへつってカネを用意するというのでは、「義捐金」ではなく偽善金になりますが、けっこう、そういうことをやりたがる経営者が少なくないのではないかという印象を受けています。 そんなことはないでしょうか?
それから、福島県から、特に「いわき」ナンバーのクルマで千葉県に避難した人が、ガソリンスタンドで給油を拒否されたとか、福島県から避難してきた子供が、もとから千葉県にいる子供に「放射能」と言って逃げられたとかいった話が、新聞などで見ることがあります。どこに行っても、いろいろな人がいるので、ごく少数ならいてもどんな人がいても不思議ではないのですが、それが嫌で、たとえ、放射能汚染で避難しなければならない状況でも福島県に戻るという人もあると述べられており、少数ならいろんな人がいるものだとすますわけにもいかないようです。 「ボランティア」に行こうという人というのは、たいてい、宮城県か岩手県に行こうとするのであり、今も原発事故が収まっていない福島県に行こうとはしないのです。 それは、それぞれの人が自分のできることをやれば良いのであって、放射能汚染の危険がある地域には行きたくないが、地震や津波の被害が出た地域で、「放射線量」や「放射性物質」の量の測定数値がそれほど高くない地域になら「ボランティア」に行きたいということであれば、それはそれで良いと思います。 しかし、です。 東京から千葉にかけての地域から、仙台以北へ「ボランティア」にクルマで行く人は、たいてい、福島県の中通り地方を東北自動車道などで行き来するわけです。 福島県からクルマで東京都や千葉県に来る人のクルマが歓迎されないというのは、クルマが「放射性物質」を多くかぶってしまっているのではないか、というおそれからでしょうけれども、東京都や千葉県の住民が、東京都や千葉県のナンバーのクルマに乗って、宮城県中部から岩手県にかけて、福島県の中通りを通って往復するならば、そこで、「放射性物質」をクルマがかぶるということは十分に考えられることですよね。 「いわき」ナンバーのクルマを避けて、実は、自分のクルマの方が「放射性物質」をかぶっているということになる可能性が十分に考えられますよね。 「いわき」ナンバーのクルマの人は、誤解を招かない為に、できるだけ、洗車は十分におこなった方が良いと思いますが、「いわき」ナンバーや「福島」ナンバーのクルマに抵抗を感じて、自分のクルマが福島県の中通りを往復するのをなんとも思わないというのも、何か変な気がいたします。 又、クルマで素通りされる福島県の人間の気持ちはどうなのだろう、とも思います。
福島第一原発の事故ができるだけ早くに収束するよう希望いたします。
ブログネーム: モンテ=クリスト伯+中原中也+ヴォーリズ
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