倫理は人に教えるものか、倫理は人から教えられるものか。 〔引越掲載〕
〔(建築家+建築屋)÷2 のブログ 第26回〕
前回、千葉県に複数の営業所を持つリフォーム会社Wホームの社長Hさんが入信していたR研究所(=R法人会)という神道系の宗教の団体にして右翼系の政治団体について述べました。 R研究所(=R法人会)は、「太陽を拝みなさい」とか言いながら、法律上、宗教団体になっていないことを理由に「宗教ではないんです。倫理の団体なんです。」と言ってはぐらかそうとしているのですが、法律上、宗教団体になっていなくても、実質的に宗教の性質を持つ団体は宗教の団体です。
そもそも、「倫理を教えてあげようと言ってるんだ。」と、頼まれもしないのに、頼みもしない人間に「教えてあげてやってやろう」などと押しつけがましい、思い上がったことを言うことがまず、あつかましい。 そして、「倫理を教える人間」と「倫理を教えられる人間」に人間を分けるというのが根本的におかしいのです。
「倫理は人に教えるものか」「倫理は人から教えられるものか」というと、わかっている人にはあたりまえのことなのですが、倫理というものは、各人が自分で考えて決めるべきもので、誰かが決めて、それを他の人間に押しつけるものではなく、誰かが決めたものを他の人間に押しつけるということこそ、倫理に反するのです。
≪そのつどみずから選択しみずから決意することの自由に耐えかねて、何者かに依存したり、何ものかを口実にしたり、何ものかに逃避したり、何ものかに指示を求めたり、何ものかに決定をゆだねることは、すべて自己欺瞞でしかない。ハイデッガーの用語を借りるならば、そういう生きかたは、すべて非本来的である。≫(松波信三郎『実存主義』(1962. 岩波新書) R研究所の「理事長M山先生に倫理について教えてもらおう」などという主張は、みずから考えみずから選択する姿勢を否定させようとするものであり、「ハイデッガーの用語を借りるならば・・・非本来的である」・・・・というより、別にわざわざハイデッガーを引っ張り出さなくても、「非本来的」なのです。
そして、すべての国民がみずから倫理について考えて決定するのではなく、R研究所の理事長M山が倫理を決めて、それを国民に押しつけるというのは、民主主義の主張かファシズムの主張かというと、明らかにファシズムの側の主張ですし、倫理を自分で決めるのではなく、誰かに決めてもらおうとする姿勢、誰かにすがろうという姿勢は、やはり、宗教のものであり、宗教としても、キルケゴールが聖書を通じて「神の前の単独者」として神と対峙したような価値のある宗教と違って、質の悪い宗教なのです。
R研究所(=R法人会)は、「太陽を拝みなさい、という誰でもやって当然のことを教えてやろうと言ってるんだ」と言う宗教の団体ですが、「太陽を拝む」というのは、「誰でもやって当然のこと」でないだけでなく、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教においては、神を汚す行為として禁じられているものであり、R研究所(=R法人会)の認識は非常識です。
井上・孝本・対馬・中牧・西山編『新宗教 教団・人物事典』(1996. 弘文堂)、『新宗教の本 霊能の秘儀と巨大教団の系譜』(2008. 学習研究社)、『週刊ダイヤモンド 2009.9.12.号 新宗教.』(ダイヤモンド社)によれば、そして、R研究所(=R法人会)の信者であるWホーム社長のHさんの話によれば、R研究所(=R法人会)は、戦前の「ひとのみち」という神道系の新興宗教団体が戦後にいくつかに別れたひとつなのですが、「ひとのみち」がどういう団体であったかというと、村上重良『日本の宗教』(1981. 岩波ジュニア新書)によれば、
≪ひとのみちは、1924(大正13)年、大阪で黄檗僧出身の御木徳一(みき とくはる)(1871-1938)と子の御木徳近(みき とくちか)が開いた神道系の新宗教です。ひとのみちは、大正初期に関西でさかんだった金田徳光(かねだ とくみつ)(1863-1919)の徳光教を受けついで、太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)信仰をかかげ、「教育勅語」を教典としました。ひとのみちでは、商売繁昌、家内和合などをもたらす実利的な生活訓を説き、病気なおしの「お振替え」などをつうじて、都市の中間層と中小企業者の間に広がり、昭和初期には、信者100万と称するほどの発展をとげました。1936(昭和11)年、政府は、大本教につづいて、ひとのみちに弾圧をくわえ、禁止しました。ひとのみちは、天皇崇拝を強調し、国家神道に忠実でしたが、皇祖神天照大神を太陽であるとし、「教育勅語」に卑俗な解釈をくわえたとして、徹底的な弾圧を受けました。≫
というもので、R研究所(=R法人会)が「太陽を拝みなさい」というのも、単に、年末年始に休暇をとれたからということで、元旦に景色のよい場所で太陽が昇るのを見て「きれいだねえ」と感心するとかいうことを言っているのではなく、「皇祖アマテラスオオミカミ(天照大神)であるという太陽」を拝みなさいと言っているのであり、ますます宗教であるとともに、会社経営者を通じて従業員に、それを押しつけよう強制しようという姿勢は、「信教の自由の侵害」であり、戦争中に、自分たちが弾圧を受けておきながら、今度は、自分たちが、一般日本国民に対して、それぞれの人の信教の自由を侵害しようという姿勢は、とうてい認められるものではありません。
戦中、軍国主義の時代に、多くの宗教は弾圧を受けましたが、反権力・反体制・反戦の姿勢により弾圧を受けた団体もあるものの、「ひとのみち」などはそうではなく、≪天皇崇拝を強調し、国家神道に忠実で≫あった体制側・権力側の団体で、反権力でも反体制でもなく、反戦でもなかったのであり、そして、国家による思想統制、宗教に対する統制・弾圧が良くないのは間違いないとしても、だから、弾圧を受けた団体に何の問題もなくすばらしかったということになるわけではないのです。
島田裕己(しまだ ひろみ)『日本の10大新宗教』(2007. 幻冬舎新書)には、
≪ 徳一(とくはる)は、息子の徳近(とくちか)とともに徳光教で活動をしたものの、1919年に徳光が亡くなる。徳一(とくはる)は、その後を継ぎ、1925年には御嶽徳光大教会本部を設立し、28(昭和3)には扶桑教(ふそうきょう)に移り、31年には扶桑教ひとのみち教団を立ち上げる。
その直前、1930年には、朝参りという行事がはじまっている。朝参りは、仕事や学校に出る前の早朝に集まって、説教や礼拝、体験告白などを行う。これは、早起きの徳を強調するもので、現在のPL教団にも受け継がれている。さらにこれは、倫理研究所やそこから分派した実践倫理宏正会(じっせんりんりこうせいかい)といった修養団体にも受け継がれ、一般に「朝起き会」の名前で知られる。倫理研究所の創立者である丸山敏雄と実践倫理宏正会の上廣哲彦は、ひとのみち教団の教師と信者であった。≫と述べられている。
朝、早く起きる人間がエライのであれば、新聞屋はエライことになるでしょうけれども、私も新聞屋の配達をやったことがありますが、新聞屋は、朝、人より早い時刻に起きて新聞の配達をしますが、配達から帰った後は、11時ころまで寝るのです。 夜、寝るのも人より早いはずです。 人より早く起きる生活の人間がエライのなら新聞屋がエライことになりそうですが、クラブのホステスは、勤務時間が夜7時から午前1時までで、それから帰って寝る為、起きるのは昼過ぎらしいのですが、昼過ぎに起きるというのは、朝の3時に起きる新聞屋と比べて、ホステスは9~10時間くらい起きるのが遅いからえらくないのか、それとも、13~14時間くらいホステスの方が新聞屋よりも早く起きているからエライのかどちらなのか・・・。マア、どちらでもいいような気もしますが、起きる時刻が早いか遅いかは、その仕事の内容によるのであり、夜の遅い仕事の人間に、「なぜ、早く起きられないか」などと詰め寄っても意味のないことです。
ロシア連邦は、国土が東西に長い為、ロシア連邦の中で、時差がありますが、日本から真北に行ったあたりにあるウラジオストクのあたりでは、(夏冬でも違いますが)日本よりも時刻が2時間ほど早い(経度が同じくらいであるにもかかわらず時差が2時間程度ある)のです。日本で朝6時に起きた、朝5時に起きた、早起きだ、と思っても、ウラジオストクの時刻では、朝8時であったり7時であったりするのです。 ということは、ウラジオストクの人間は、日本よりも、一般的に2時間程度早起きだから、その分、エライのでしょうか。日本国内でも、都会の人間と地方の人間では、地方の人間の方が早寝早起きの傾向があるようですが、その分、地方の人間の方がエライのでしょうか。なんか、あほくさい話だと思いませんか?
さらに、新聞屋でもかつて私が勤務した店は、朝3時40分から4時くらいの間に店に新聞が届きましたが、それは店に新聞が届くのが遅い方の店で、私が栃木県に住んでいた時のアパートには、午前1時くらいに朝刊が届いていたので、店にはさらに早く新聞が届いていたと考えられます。ということは、その販売店で新聞を配達している人は、午前0時くらいに起きて0時半より新聞を配り、仮に、折り込みの作業と配達とを3時間でできたとして、午前3時半に作業が終わり、その後に朝食を食べてか食べずにか4時から寝たとすると、その人は、朝の4時頃から寝ているから起きるのが遅いのか、それとも、午前0時に起きて仕事をしているのだから起きるのが早いのか。 午前0時から午前4時までの間に仕事をしている人間が、主たる就寝時間をそれより前にとるか後にとるかは、別に、その人の自由であるはずだが、午前0時から4時よりも前に取った人間は早起きだからエライが、後に取った人間は起きるのが遅いからけしからんということになるのか・・・、うるさい、ほっておいてくれ、と言いたくなりませんか?!?
いずれにせよ、好きでやる人はおやりになれば良いのですが、R研究所・R法人会が卑劣なのは、R法人会として、会社経営者によりつき、従業員に本人の意思に反して強制することで浸透・勢力拡大を図ろうとしているところです。個人の信仰の自由を踏みにじるような宗教の団体は、宗教の団体としては最低ですし、「倫理の団体」としても最低です。R研究所(=R法人会)は、宗教の団体であれ「倫理の団体」であれ、まともな団体であると主張したいのであれば、まず、宗教・思想・倫理というものは個人のものであり、会社の経営者を通じて従業員に強制する性質のものではないという最低限の常識を再確認・再認識する必要があります。
「倫理は人に教えるものか」「倫理は人から教えられるものか」・・・・この答はすでに述べましたが、自分に倫理を教える人間を求め、かつ、自分から倫理を教えられる人間を求めるという精神構造もまた、健全な精神とはいえません。
☆ハイデッガー・キルケゴールについての参考文献としては、
1.『世界の名著・ハイデッガー《存在と時間》』(中央公論社)
2.『世界の名著・キルケゴール《哲学的断片・不安の概念・現代の批判・死にいたる病》』(中央公論社)
3.工藤綏夫(くどう やすお)『人と思想 キルケゴール』(1966. 清水書院 センチュリーブックス)
4.大谷愛人(おおたに ひでひと)・泉治典(いずみ はるのり)『古典入門 キルケゴール 死に至る病』(1980.有斐閣新書) 他参照。
☆インターネットにおいては、
「ウィキペディア――マルティン・ハイデッガー」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC
「YAHOO! 百科事典 ハイデッガー」http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC/
「ウィキペディア――セーレン・キェルケゴール」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB
「YAHOO百科事典! キルケゴール」http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB/
「人名辞典 セーレン・キェルケゴール」 http://www.jinmei.info/data/20050923004.html
他をご参照ください。
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以上は、「私が勤務する建築会社のホームページとリンクした私のブログ」に掲載した、そのブログの第26回のもので、この第26回≪倫理は人に教えるものか、倫理は人から教えられるものか。≫は、2010年(平22年)11月17日に「公開」させていただいたものです。 事情により削除いたしましたが、私は、削除したものは内容のあるものと思っており、又、いったん、「公開」したものは、作成者のみのものではなく、賛否にかかわらず、読んでくださった方・読みたいと考えてくださる方と共有のものという性質をもっており、作成者といえども、「記憶違い」のものの訂正、補足、「入力ミス」の訂正などは良いと思いますが、完全な削除は、好ましくないと考え、ここに、「引っ越し掲載」させていただきます。(建築家+建築屋)÷2 〔より正確には (49×建築家 + 51×建築屋)÷100〕 のブログ 、もしくは、。(建築家+建築屋)÷2のブログ と記したものは、「引っ越し掲載」です。 よろしくお願いいたします。
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〔 この稿は、「哲建ルンバ」としては、第28回ということになります。 〕
前回、千葉県に複数の営業所を持つリフォーム会社Wホームの社長Hさんが入信していたR研究所(=R法人会)という神道系の宗教の団体にして右翼系の政治団体について述べました。 R研究所(=R法人会)は、「太陽を拝みなさい」とか言いながら、法律上、宗教団体になっていないことを理由に「宗教ではないんです。倫理の団体なんです。」と言ってはぐらかそうとしているのですが、法律上、宗教団体になっていなくても、実質的に宗教の性質を持つ団体は宗教の団体です。
そもそも、「倫理を教えてあげようと言ってるんだ。」と、頼まれもしないのに、頼みもしない人間に「教えてあげてやってやろう」などと押しつけがましい、思い上がったことを言うことがまず、あつかましい。 そして、「倫理を教える人間」と「倫理を教えられる人間」に人間を分けるというのが根本的におかしいのです。
「倫理は人に教えるものか」「倫理は人から教えられるものか」というと、わかっている人にはあたりまえのことなのですが、倫理というものは、各人が自分で考えて決めるべきもので、誰かが決めて、それを他の人間に押しつけるものではなく、誰かが決めたものを他の人間に押しつけるということこそ、倫理に反するのです。
≪そのつどみずから選択しみずから決意することの自由に耐えかねて、何者かに依存したり、何ものかを口実にしたり、何ものかに逃避したり、何ものかに指示を求めたり、何ものかに決定をゆだねることは、すべて自己欺瞞でしかない。ハイデッガーの用語を借りるならば、そういう生きかたは、すべて非本来的である。≫(松波信三郎『実存主義』(1962. 岩波新書) R研究所の「理事長M山先生に倫理について教えてもらおう」などという主張は、みずから考えみずから選択する姿勢を否定させようとするものであり、「ハイデッガーの用語を借りるならば・・・非本来的である」・・・・というより、別にわざわざハイデッガーを引っ張り出さなくても、「非本来的」なのです。
そして、すべての国民がみずから倫理について考えて決定するのではなく、R研究所の理事長M山が倫理を決めて、それを国民に押しつけるというのは、民主主義の主張かファシズムの主張かというと、明らかにファシズムの側の主張ですし、倫理を自分で決めるのではなく、誰かに決めてもらおうとする姿勢、誰かにすがろうという姿勢は、やはり、宗教のものであり、宗教としても、キルケゴールが聖書を通じて「神の前の単独者」として神と対峙したような価値のある宗教と違って、質の悪い宗教なのです。
R研究所(=R法人会)は、「太陽を拝みなさい、という誰でもやって当然のことを教えてやろうと言ってるんだ」と言う宗教の団体ですが、「太陽を拝む」というのは、「誰でもやって当然のこと」でないだけでなく、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教においては、神を汚す行為として禁じられているものであり、R研究所(=R法人会)の認識は非常識です。
井上・孝本・対馬・中牧・西山編『新宗教 教団・人物事典』(1996. 弘文堂)、『新宗教の本 霊能の秘儀と巨大教団の系譜』(2008. 学習研究社)、『週刊ダイヤモンド 2009.9.12.号 新宗教.』(ダイヤモンド社)によれば、そして、R研究所(=R法人会)の信者であるWホーム社長のHさんの話によれば、R研究所(=R法人会)は、戦前の「ひとのみち」という神道系の新興宗教団体が戦後にいくつかに別れたひとつなのですが、「ひとのみち」がどういう団体であったかというと、村上重良『日本の宗教』(1981. 岩波ジュニア新書)によれば、
≪ひとのみちは、1924(大正13)年、大阪で黄檗僧出身の御木徳一(みき とくはる)(1871-1938)と子の御木徳近(みき とくちか)が開いた神道系の新宗教です。ひとのみちは、大正初期に関西でさかんだった金田徳光(かねだ とくみつ)(1863-1919)の徳光教を受けついで、太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)信仰をかかげ、「教育勅語」を教典としました。ひとのみちでは、商売繁昌、家内和合などをもたらす実利的な生活訓を説き、病気なおしの「お振替え」などをつうじて、都市の中間層と中小企業者の間に広がり、昭和初期には、信者100万と称するほどの発展をとげました。1936(昭和11)年、政府は、大本教につづいて、ひとのみちに弾圧をくわえ、禁止しました。ひとのみちは、天皇崇拝を強調し、国家神道に忠実でしたが、皇祖神天照大神を太陽であるとし、「教育勅語」に卑俗な解釈をくわえたとして、徹底的な弾圧を受けました。≫
というもので、R研究所(=R法人会)が「太陽を拝みなさい」というのも、単に、年末年始に休暇をとれたからということで、元旦に景色のよい場所で太陽が昇るのを見て「きれいだねえ」と感心するとかいうことを言っているのではなく、「皇祖アマテラスオオミカミ(天照大神)であるという太陽」を拝みなさいと言っているのであり、ますます宗教であるとともに、会社経営者を通じて従業員に、それを押しつけよう強制しようという姿勢は、「信教の自由の侵害」であり、戦争中に、自分たちが弾圧を受けておきながら、今度は、自分たちが、一般日本国民に対して、それぞれの人の信教の自由を侵害しようという姿勢は、とうてい認められるものではありません。
戦中、軍国主義の時代に、多くの宗教は弾圧を受けましたが、反権力・反体制・反戦の姿勢により弾圧を受けた団体もあるものの、「ひとのみち」などはそうではなく、≪天皇崇拝を強調し、国家神道に忠実で≫あった体制側・権力側の団体で、反権力でも反体制でもなく、反戦でもなかったのであり、そして、国家による思想統制、宗教に対する統制・弾圧が良くないのは間違いないとしても、だから、弾圧を受けた団体に何の問題もなくすばらしかったということになるわけではないのです。
島田裕己(しまだ ひろみ)『日本の10大新宗教』(2007. 幻冬舎新書)には、
≪ 徳一(とくはる)は、息子の徳近(とくちか)とともに徳光教で活動をしたものの、1919年に徳光が亡くなる。徳一(とくはる)は、その後を継ぎ、1925年には御嶽徳光大教会本部を設立し、28(昭和3)には扶桑教(ふそうきょう)に移り、31年には扶桑教ひとのみち教団を立ち上げる。
その直前、1930年には、朝参りという行事がはじまっている。朝参りは、仕事や学校に出る前の早朝に集まって、説教や礼拝、体験告白などを行う。これは、早起きの徳を強調するもので、現在のPL教団にも受け継がれている。さらにこれは、倫理研究所やそこから分派した実践倫理宏正会(じっせんりんりこうせいかい)といった修養団体にも受け継がれ、一般に「朝起き会」の名前で知られる。倫理研究所の創立者である丸山敏雄と実践倫理宏正会の上廣哲彦は、ひとのみち教団の教師と信者であった。≫と述べられている。
朝、早く起きる人間がエライのであれば、新聞屋はエライことになるでしょうけれども、私も新聞屋の配達をやったことがありますが、新聞屋は、朝、人より早い時刻に起きて新聞の配達をしますが、配達から帰った後は、11時ころまで寝るのです。 夜、寝るのも人より早いはずです。 人より早く起きる生活の人間がエライのなら新聞屋がエライことになりそうですが、クラブのホステスは、勤務時間が夜7時から午前1時までで、それから帰って寝る為、起きるのは昼過ぎらしいのですが、昼過ぎに起きるというのは、朝の3時に起きる新聞屋と比べて、ホステスは9~10時間くらい起きるのが遅いからえらくないのか、それとも、13~14時間くらいホステスの方が新聞屋よりも早く起きているからエライのかどちらなのか・・・。マア、どちらでもいいような気もしますが、起きる時刻が早いか遅いかは、その仕事の内容によるのであり、夜の遅い仕事の人間に、「なぜ、早く起きられないか」などと詰め寄っても意味のないことです。
ロシア連邦は、国土が東西に長い為、ロシア連邦の中で、時差がありますが、日本から真北に行ったあたりにあるウラジオストクのあたりでは、(夏冬でも違いますが)日本よりも時刻が2時間ほど早い(経度が同じくらいであるにもかかわらず時差が2時間程度ある)のです。日本で朝6時に起きた、朝5時に起きた、早起きだ、と思っても、ウラジオストクの時刻では、朝8時であったり7時であったりするのです。 ということは、ウラジオストクの人間は、日本よりも、一般的に2時間程度早起きだから、その分、エライのでしょうか。日本国内でも、都会の人間と地方の人間では、地方の人間の方が早寝早起きの傾向があるようですが、その分、地方の人間の方がエライのでしょうか。なんか、あほくさい話だと思いませんか?
さらに、新聞屋でもかつて私が勤務した店は、朝3時40分から4時くらいの間に店に新聞が届きましたが、それは店に新聞が届くのが遅い方の店で、私が栃木県に住んでいた時のアパートには、午前1時くらいに朝刊が届いていたので、店にはさらに早く新聞が届いていたと考えられます。ということは、その販売店で新聞を配達している人は、午前0時くらいに起きて0時半より新聞を配り、仮に、折り込みの作業と配達とを3時間でできたとして、午前3時半に作業が終わり、その後に朝食を食べてか食べずにか4時から寝たとすると、その人は、朝の4時頃から寝ているから起きるのが遅いのか、それとも、午前0時に起きて仕事をしているのだから起きるのが早いのか。 午前0時から午前4時までの間に仕事をしている人間が、主たる就寝時間をそれより前にとるか後にとるかは、別に、その人の自由であるはずだが、午前0時から4時よりも前に取った人間は早起きだからエライが、後に取った人間は起きるのが遅いからけしからんということになるのか・・・、うるさい、ほっておいてくれ、と言いたくなりませんか?!?
いずれにせよ、好きでやる人はおやりになれば良いのですが、R研究所・R法人会が卑劣なのは、R法人会として、会社経営者によりつき、従業員に本人の意思に反して強制することで浸透・勢力拡大を図ろうとしているところです。個人の信仰の自由を踏みにじるような宗教の団体は、宗教の団体としては最低ですし、「倫理の団体」としても最低です。R研究所(=R法人会)は、宗教の団体であれ「倫理の団体」であれ、まともな団体であると主張したいのであれば、まず、宗教・思想・倫理というものは個人のものであり、会社の経営者を通じて従業員に強制する性質のものではないという最低限の常識を再確認・再認識する必要があります。
「倫理は人に教えるものか」「倫理は人から教えられるものか」・・・・この答はすでに述べましたが、自分に倫理を教える人間を求め、かつ、自分から倫理を教えられる人間を求めるという精神構造もまた、健全な精神とはいえません。
☆ハイデッガー・キルケゴールについての参考文献としては、
1.『世界の名著・ハイデッガー《存在と時間》』(中央公論社)
2.『世界の名著・キルケゴール《哲学的断片・不安の概念・現代の批判・死にいたる病》』(中央公論社)
3.工藤綏夫(くどう やすお)『人と思想 キルケゴール』(1966. 清水書院 センチュリーブックス)
4.大谷愛人(おおたに ひでひと)・泉治典(いずみ はるのり)『古典入門 キルケゴール 死に至る病』(1980.有斐閣新書) 他参照。
☆インターネットにおいては、
「ウィキペディア――マルティン・ハイデッガー」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC
「YAHOO! 百科事典 ハイデッガー」http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC/
「ウィキペディア――セーレン・キェルケゴール」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB
「YAHOO百科事典! キルケゴール」http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB/
「人名辞典 セーレン・キェルケゴール」 http://www.jinmei.info/data/20050923004.html
他をご参照ください。
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以上は、「私が勤務する建築会社のホームページとリンクした私のブログ」に掲載した、そのブログの第26回のもので、この第26回≪倫理は人に教えるものか、倫理は人から教えられるものか。≫は、2010年(平22年)11月17日に「公開」させていただいたものです。 事情により削除いたしましたが、私は、削除したものは内容のあるものと思っており、又、いったん、「公開」したものは、作成者のみのものではなく、賛否にかかわらず、読んでくださった方・読みたいと考えてくださる方と共有のものという性質をもっており、作成者といえども、「記憶違い」のものの訂正、補足、「入力ミス」の訂正などは良いと思いますが、完全な削除は、好ましくないと考え、ここに、「引っ越し掲載」させていただきます。(建築家+建築屋)÷2 〔より正確には (49×建築家 + 51×建築屋)÷100〕 のブログ 、もしくは、。(建築家+建築屋)÷2のブログ と記したものは、「引っ越し掲載」です。 よろしくお願いいたします。
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〔 この稿は、「哲建ルンバ」としては、第28回ということになります。 〕
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